『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第七講 予備概念 ②
    客観的思想とは何か

 

一、思惟とは何か(二)

二二節、同補遺 ── 反省は直接的なものを二重化して真の姿をとらえる

 二〇節から二三節までは、思惟とは何かについて四点にわたる考察がされています。二一節まで二点が論じられましたので、今日は第三点からとなります。
 前節において、真なるものは、反省的思惟によって普遍性としてとらえられることを学びましたが、本節ではそのためには、直観や表象を反省によって改造することが必要であることを学びます。
 「思惟(反省 ── 高村)によって、内容がはじめ感覚、直観、表象のうちにある有り方に、或る変化がもたらされる。したがって対象の真の性質が意識されるのは、ただ変化を介してのみである」(一一二ページ)。
 反省によって事物が二重化してとらえられることにより対象に「或る変化」がもたらされ、事物の真の姿が浮き彫りになってくるのです。
 「事物のうちにある真なるものを知るには、単なる注意だけでは不十分であって、直接的に存在するものを変形するところのわれわれの主観的働きが必要である」(一一三ページ)。
 ヘーゲルは古代ギリシアのアテネで法制度を改革したソロンを例にとり、「ソロンがアテナイ人に与えた法律は、かれの頭脳から生み出されたのである。しかしこれは事柄の一面にすぎない」(一一二ページ)と述べています。
 法律というのは、国家によって制定される社会的・経済的な規範です。したがって制定の前提となるのは、社会的・経済的な慣習・慣行という「直接的に存在するもの」です。ソロンの立法もアテナイの社会的・経済的慣習という直接的存在を前提として表象しながら、それを反省によって合理的なものに改造することによって生まれたのです。
 「われわれは、思惟(反省 ── 高村)による直接的なものの改造によってのみ」(一一三ページ)、「事物における本質的なもの、真なるもの」(一一二ページ)をとらえることができるというのは、「あらゆる時代の確信であった」(一一三ページ)のです。「本質的なもの」と「真なるもの」は厳密にいうと区別しなければなりません。その区別の意味は二四節補遺三で明らかにされます。
 したがって、こうした反省による事物の二重化という改造は、その事物の真の姿を思惟においてとらえるためのものですから、その事物そのものと思想との一致を実現するためであって、事物と思想との間に一線を画することを意味するものではありません。
 ところが「近代になってはじめて、こうした確信にたいして疑問がさしはさまれるようになり、われわれの思惟の産物と事物そのものとの間に、あくまで区別がおかれるようになった」(同)のです。
 つまり、私たちがどのように事物の真の姿をとらえようとしても、それは不可能なのであって、「事物と思想との一致」(同)、言いかえれば客観と主観の一致はありえないとする立場であり、これがカントの不可知論なのです。主・客一致の立場にたつヘーゲルにとって、こういう不可知論を放置できないのはいうまでもありません。
 「われわれの認識は主観的なものにすぎず、この主観的なものからわれわれは一歩も出ることはできないという絶望に達したのは、現代の病患にすぎない」(同)のであって、普通の生活を送っている人々は、こうした病患に侵されることなく、「思想と事物との一致を固く信じてのびのびと思惟している」(同)のです。
 真理とは人間の認識(主観)が対象(客観)の真の姿に一致することを意味します。主観と客観との一致は客観的に確定しうることになりますから、真理は客観的真理であるということができます。これに対して、主・客の同一性を認めないカントの立場からすると、真理は単に主観的な確信にすぎないものとなり、客観的真理は存在しないことになります。
 「真理は客観的なものである。……ところが現代の考え方によると、信念のよるべき基準がないのであるから、確信そのもの、すなわち、確信しているという単なる形式がそれだけですでに価値を持ち、内容はどうでもいいのである」(一一三~一一四ページ)。
 主・客の同一性を認めない「現代の考え方」によると、単なる確信が真理の基準とされ、七一節で学ぶように「一般の一致」(みんなが真理だと確信しているから真理)が真理の有力な根拠とされるのです。
 しかし主観は客観に一致することによって真理を認識しうるというのが「昔からの人間の信念」(一一四ページ)です。
 「このことは更に、もろもろの対象、内外の自然、一般的に言えば、客観そのものが、思惟されたとおりのものであるということ、したがって思惟は、対象的なものの真理であるということを含んでいる。哲学の仕事は、思惟にかんして昔から人々が信じていたことを、はっきり意識にもたらすことにあるにすぎない」(同)。
 哲学の仕事は、「あらゆる人が直接に信じている」(同)客観的事物の真の姿を、明確な思惟形式にまで高めて「はっきり意識にもたらすことにあるにすぎない」のです。

二三節 ── 真理の認識は自由な精神の所産

 「対象の本性は思惟(反省 ── 高村)のうちにあらわれるが、しかもこの思惟は私の作用でもある。したがって対象の本性は、同時に私の精神の所産、しかも思惟する主観としての私の精神の所産である」(同)。
 思惟の四点にわたる考察の第四点は、真理の認識は自由な精神の所産だということです。客観的事物の本性は、私の反省的思惟の作用としてとらえられるのであり、したがってそれは客観的事物そのもののうちに含まれてはいても「私の精神の所産」なのです。
 当たり前のことだと思われるかもしれませんが、ヘーゲルのいいたいのは、思惟は「私の思惟」ではあっても「私」という特殊な存在から解放された「精神の所産」「自由の所産」(同)だということです。精神は本来自由なものであり、私が思惟するとき「私」の精神は真理を求めて個人的特殊性をもつ「私」から解放され自由になっているのです。
 「思惟のうちには直接に自由がある。なぜなら、思惟は普遍的なものの作用であり、したがって抽象的な自己関係」(一一五ページ)だからです。
 思惟は、真理である普遍的なものを探究することによって、特殊的な「私」から自由になるのであり、したがって「個人的な諸性質、状態、等々のあらゆる特殊性から解放された抽象的な自我」(同)として、「抽象的な自己関係」なのです。
 もっとも思惟の自由は特殊的「私」からの自由であって、思惟の対象となる「実在」(同)からの自由ではありません。この「実在」もザッヘの訳ですから、「事物そのもの」と訳しておきます。思惟は「実在のうちへ沈潜するかぎりにおいてのみ真実」(同)なのです。つまり思惟の自由は、特殊的「私」から自由となり「事物そのもののうちに沈潜する」ことによって真理に接近していくことができるのです。
 アリストテレスは、これを「品位ある態度」(同)とよんでいますが、「かれの言う品位とはまさに、個人的な意見をすてて、実在そのもの(事物そのもの ── 高村)を自己のうちに君臨させる」(同)という唯物論的態度を意味しています。

 

二、客観的思想とは何か

二四節 ── 事物のうちの真なるものを思想においてとらえる

 以上二〇節から二三節まで、思惟とは何かを四点にわたって考察してきましたが、二四節はそのまとめとなっており、論理学とは何かを結論づけるものとなっています。
 いわばヘーゲル哲学の真髄を語っているところです。それだけに補遺も一から三までと最も多く、本文と補遺を合わせると、二四節だけで十六ページにも及んでおり、ヘーゲルがいかに力を込めて語っているかを感じさせるものとなっています。
 「以上のように思想を理解するとき、われわれはそれを客観的思想と呼ぶことができる。そしてそのうちには、普通の論理学が第一に考察していて、通常意識的な思惟作用の諸形式とのみ考えられている諸形式もはいる」(一一五ページ)。
 客観的思想とは、客観的事物のうちにある事物そのもの、事物の本性、言いかえると「事物における本質的なもの、真なるもの、客観的なもの」(一一二ページ)を思想においてとらえたものです。この客観的事実のうちにある「真なるもの」を思想においてとらえたものがヘーゲル論理学なのです。そのかぎりでは「思惟作用の諸形式」、つまりカテゴリーを取り扱う形式論理学をもそのうちに含むことになります。
 「論理学はしたがって形而上学と一致する。なぜなら形而上学とは思想のうちに把握された事物の学であり、そこでは思想は事物の本質的諸規定を表現するものと考えられていたからである」(一一五~一一六ページ)。
 ここにいう「形而上学」とは、アリストテレスのいう「形而上学」つまり「存在としての存在」を思想のうちにとらえた「存在論(オントロジー)」を意味しています。
 「形而上学とは思想のうちに把握された事物の学」とありますが、客観的事物のうちにある「真なるもの」を「思想のうちに把握」したものが形而上学の諸カテゴリーだという意味です。
ヘーゲル論理学は、「思想のうちに把握された事物の学」としての「存在論」の学の側面をもっており、この点でアリストテレスの形而上学と一致するのです。
 ヘーゲル「論理学」の第一部「有論」と第二部「本質論」が、この「存在論」に該当しています。
 「概念、判断、推理というような諸形式と、因果性などのような他の諸形式との関係は、論理学そのものの内部でしか明かにすることができない。しかしとりあえずこれだけのことは言える。それは、思想が事物について或る概念を作ろうとする場合、この概念は(したがってまた概念の最も直接的な形式である判断および推理も)、事物と無関係な規定や関係から成っているはずがない、ということである」(一一六ページ)。
 「概念、判断、推理」というのは、主観的論理学である第三部「概念論」で取り上げられるカテゴリーであり、合理的に思惟するうえで用いられる思惟形式を示すものです。これに対して「因果性」は、客観的論理学である第二部「本質論」で取り上げられる「事物の本質的規定を表現するカテゴリー」です。
 因果性が「客観的思想」であることに疑問をいだく人はいないでしょう。しかし「概念、判断、推理」は、主観の形式、つまり主観的な思惟の枠組みにすぎないのであって、「客観的思想」とはいえないのではないかと考える人もいるかもしれません。
 詳しくは第三部「概念論」で検討することになりますが、ここでいえることは、少なくとも概念は、ある事物にかんし思想によって「概念を作」る、つまり事物から概念を引き出すのですから、概念が「事物と無関係な規定や関係から成っているはずがない」のです。また判断とは或る概念と他の概念の結合であり、推理とは或る判断と他の判断の結合です。したがって判断、推理も概念を土台とする「概念の最も直接的な形式」として事物と無関係ではありえないのです。
 「先にも述べたように、思惟(反省 ── 高村)は事物のうちにある普遍的なものへ導くものであるが、普遍的なものはそれ自身概念のモメントの一つである」(同)。
 先にみたように、普遍的なものは、事物のうちから思想によって取り出されます。第三部「概念論」で検討されるように、概念には普遍、特殊、個別の三つのモメントが含まれており、「普遍的なものはそれ自身概念のモメントの一つ」です。普遍性が「事物と無関係な規定」ではないのと同様に、普遍性を「モメントの一つ」としてもつ概念もまた「事物と無関係な規定」ではありえないことが、この点からも証明されるのです。
 「世界には悟性や理性があると言うのは、客観的思想と言うのと意味は同じである」(同)。
 ここにいう悟性や理性は、人間の思惟の働きとしての悟性や理性ではなく、客観的事物のうちに含まれる「本質的なもの、内面的なもの、真なるもの」(一〇九ページ)を意味しており、それを論理学は「客観的思想」としてカテゴリーの形式で取り出すのです。
 「もっとも、客観的思想という言葉には工合のわるいところもある。というのは、思想という言葉はあまりにも一般に、精神、意識にのみ属するものとして用いられており、客観という言葉はまず精神的でないものについてのみ用いられているからである」(一一六ページ)。
 思想と客観とは対立する概念として一般的に用いられていることからすると、「客観的思想」という言葉は概念矛盾とみられる「工合のわるいところ」があります。
 しかしヘーゲルがいいたいのは、客観のうちに含まれる「本質的なもの、内面的なもの、真なるもの」は真理として「客観的なもの」(一一三ページ)であり、それを思想においてとらえたものが「客観的思想」であるから、一見すると概念矛盾のようにみえても何の問題もない、というものです。

二四節補遺一 ── 論理学は客観的思想をカテゴリーとしてとらえる

 「思想が客観的思想として世界の内面をなしていると言うと、自然の諸事物に意識を認めるかのように思われるかもしれない。……だから誤解を避けるためには、思想と言わないで思惟規定と言った方がいい」(一一六~一一七ページ)。
 「世界には悟性や理性がある」とか「世界には客観的思想がある」とかいうと、自然に意識を認めるように誤解する向きもあるかもしれませんから、「思惟規定」、つまりカテゴリーが世界の内面をなしているといった方がいいというのです。
 ヘーゲル論理学は、「思惟規定の体系」であり、最終的に主観と客観の統一という絶対的真理を論じています。客観のうちにある悟性や理性を、主観のうちの悟性や理性、つまりカテゴリーとしてとらえることにより主観と客観の統一が実現されるという意味で「思惟規定が世界の内面をなしている」ということになります。したがって論理学には「普通の意味での主観と客観との対立は存在しない」(一一七ページ)のです。
 「思惟および思惟規定をこのような意味に解する考え方は、古代の人々が『ヌースが世界を支配している』と言うとき、あるいはわれわれが『世界のうちには理性がある』と言うとき、そのうちに言いあらわされている。そしてその意味は、理性が世界の魂であり、世界に内在するものであり、世界の最も内面的な本性であり、普遍であるということである」(同)。
 一見すると観念論的表現ですが、ヘーゲルのいいたい事は、客観世界は、そこに内在する法則性、必然性によって統一体を保って運動しており、そこには現実の統一性をもたらす根本原因があるはずであり、それがヌースとか理性とよばれる「世界の最も内面的な本性」だというのです。
 いまでは量子論によって客観世界のすべての存在と運動を統一的に説明することができますが、まだそれを知らない十九世紀において、ヘーゲルは量子論のような「世界の最も内面的な本性」が存在するはずだと考え、「世界のうちには理性がある」といったのです。
 ヘーゲルのいう「世界の魂」としての理性を思想のうちにとらえたものが、「思惟規定」、つまり論理学のカテゴリーにほかなりません。
 ヘーゲルが「自然を意識のない思想の体系、シェリングの言葉をかりれば、硬化した叡智」(一一六~一一七ページ)と呼んでいるのも、論理学は客観世界の内的必然性を思惟規定としてとらえたものという唯物論的見地を示したものということができます。
 ヘーゲルはその例として、個と類の関係をとりあげています。先に「個は生滅するものであり、類こそ個のうちにあって恒久的なもの」(一一一ページ)であることを学びました。個人と人類とは、個と類の関係にあります。では個人と人類のどちらがより「存在のなかの存在」かといえば、人類という類です。個人は生滅しても、人類はある程度恒久的なものとして存続し続けるからです。「普遍的なものとしての類」(一一七ページ)が、世界のうちの理性にほかなりません。
 「すべての事物は、不変の内的本性と、そして外的な定有とを持っている。すべては、生きそして死に、発生しそして消滅する」(同)。しかし、死に、消滅するのは「外的な定有」のみであり、「不変の内的本性」としての、本質、普遍、類は「恒久的なもの」として生き残るのであり、これが世界のうちの理性とよばれているのです。
 「思惟は外的な事物の実体をなすとともに、また精神的なものの普遍的実体でもある。……あらゆる自然的なものおよび精神的なものの真の普遍者と解された思惟は、……一切の根柢である」(一一七~一一八ページ)。
 思惟規定である諸カテゴリーは、「あらゆる自然的なものおよび精神的なものの真の普遍者」として「世界の魂」をとらえたものであり、「一切の根柢」なのです。
 「精神的なもの」の「普遍的実体」としての思惟について、もう少し詳しくみていきましょう。
 思惟は「あらゆる表象、記憶、意志、願望、等々、一般に、あらゆる精神的活動のうちにある普遍的なもの」(一一八ページ)です。思惟が、表象、記憶、意志等の「特殊化」(同)された思惟に向かうとき、「思惟を思惟する」反省により、思惟の普遍性(真理)に達するのです。
 人間は普遍的なものを普遍的なものとして自覚するのに対して、「動物は普遍的なものを普遍的なものとして自覚せず、常に個別的なものを感じるにすぎ」(同)ません。
 デカルトの「我思う、故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」という有名な命題があります。これは、「私」が、「思惟している私」をみているのであり、いわば、私を二重化しているのであって、これが自我の自覚といわれるものです。人間は青年期に至るまで自己を二重化することができず、ほとんど動物と異なるところがありませんが、青年期に至って思惟能力が発展することにより、はじめて自己を二重化し、自我を自覚するに至ります。自我を自覚するとは、「普遍的に思惟する私」をそのようなものとして自覚することであり、「普遍的なものを普遍的なものとして自覚」(同)することなのです。
 「人間がはじめて自己を二重化し、普遍的なものが普遍的なものに対してあるようになる。これは人間が自己を『我』として知るとき最初に行われる」(同)。
 このように人間は客観的事物を考察するときでも、精神的活動を考察するときでも、また自我を自覚するときでも、つまり「どんなものを考察する場合でも、それを常に普遍的なものとして考察している」(一一九ページ)のです。
 二〇節で直観と表象と思想の区別を論じました。直観の場合は、内容・形式のいずれも思惟的ではありませんが、表象には、「内容は思惟的であるが形式はそうでない場合と、形式は思想に属しながら内容はそうでない場合」(一二〇ページ)とがあります。普通の意識では、「感覚や直観や表象を思想と混合」(六六ページ)しているのですが、論理学ではこのなかから純粋な思想のみを取り出さなければなりません。
 論理学は、補遺二で論じるように「純粋な思想、あるいは純粋な思惟規定」(一二〇ページ)、つまり内容・形式ともの思想を取り扱うものですから、直観や表象が入りこむ余地はないのです。

二四節補遺二 ── 諸カテゴリーは純粋な思想

 「われわれが論理学で取扱わねばならないのは、純粋な思想、あるいは純粋な思惟規定である」(同)。
 「純粋な思想」とは、形式的に思惟の産物としての思想を対象とするのみならず、内容的にも、経験的なものから解放され、「思惟そのものに属し、思惟そのものによって生み出された内容以外のいかなる内容をも持たぬ」(一二一ページ)、内容・形式ともに思想といえるものだけを扱うのです。
 「かくしてそれは純粋な思想であり、その場合精神は全く自己のもとにあり、したがって自由である。なぜなら自由とは、自己の他者のうちで自己自身のもとにあり、自己自身に依存し、自己自身を規定するものであることにほかならないからである」(同)。
 二三節で、思惟は、その内容からいえば、「実在(事物そのもの ── 高村)のうちへ沈潜」(一一五ページ)し、形式からいえば、事物そのものの「特殊性から解放された抽象的な自我としての意識」(同)であることを学びましたが、ヘーゲルは、あらためて「われわれが思惟する場合には、われわれはわれわれの個人的な特殊性を放棄し、事柄そのもの(事物そのもの ── 高村)のうちへ沈潜し、思惟をそれ自身の歩みにまかせる」(一二一ページ)ことによって「純粋な思惟規定」、つまりカテゴリーをとり出すのだといっています。
 純粋な思想をとり出すためには、精神の自由が最大限に発揮されなければなりません。精神は「自己の他者」である客観的事物のうちから、自由な精神によって「純粋な思惟規定を」とり出すことにより、「自己自身のもとにあり、自己自身に依存し、自己自身を規定する」(同)のです。つまり精神の自由とは、客観的事物を意識のうえに反映するだけでなく、それを自己のうちで消化し、つくりかえ、そのうちの真の姿をとり出すところにあるのです。
 「論理学を純粋な思惟規定の体系と見れば、他の哲学的科学、すなわち自然哲学および精神哲学は、言わば応用論理学である。というのは、論理学はそれらに生命を与える魂をなすからである。この場合それらの関心はただ、自然および精神の諸形態のうちに、論理的諸形式を認識することにあり、自然および精神の諸形態は、純粋な思惟の諸形式の特殊な表現様式にすぎない」(同)。
 諸カテゴリーは、事物のうちの真なるものとして、諸事物に現にある姿を与えるのであり、したがって自然や精神に「生命を与える魂」なのです。「自然および精神の諸形態」は、諸カテゴリーの「特殊な表現様式にすぎない」のです。
 エンゲルスは、ヘーゲル論理学をつうじて「論理的諸形式」としての弁証法を学び、それを自然に応用して『自然の弁証法』(全集⑳)を著し、「自然は弁証法の検証となるもの」(同二二ページ)であることを立証しました。これもヘーゲルの哲学体系に学んだものということができるでしょう。
 論理学の諸カテゴリーは、世界のすべてのものの実体、真の普遍として「それらに生命を与える魂」(一二一ページ)なのです。

 

三、ヘーゲル哲学はドイツ政治革命への道ならし

カテゴリーの真理性

 ここからは、ヘーゲルの真理観に関する重要な箇所ですので、項を別にしてみていくことにしましょう。
 論理学の諸カテゴリーは、世界のうちの理性をとらえたものであり、「世界の最も内面的な本性であり、普遍」(一一七ページ)をとらえたものですから自然や精神に「生命を与える魂」なのです。
 ヘーゲルは推理というカテゴリーを例にひき、推理とは、普遍と個を特殊という中間項によって「連結する」(一二二ページ)という「あらゆる事物の普遍的形式」(同)を示す「魂」であるととらえています。そのうえで、磁石の「両極を連結している」(同)ことを例にひきながら、「自然は、その無力のために、論理的諸形式を純粋には表現」(同)することができないのであり、推理というカテゴリーにおいて、すべての事物は普遍と特殊の統一としての個という「普遍的形式」においてとらえられるとしています。
 「したがって論理学は、あらゆる学問に生命を与えるところの、すべてを生かす霊(精神 ── 高村)であり、論理学の諸カテゴリーは純粋な霊(精神 ── 高村)の群である」(同)。
 論理学は、すべての事物の「真の姿・真にあるべき姿」つまり概念をとらえたものとして、「あらゆる学問に生命を与える」魂、「すべてを生かす精神」であり、論理学の諸カテゴリーは「純粋な精神の群」なのです。
 「普通人々は、論理学は単に形式を取扱うにすぎず、内容はほかから取って来なければならない」(一二三ページ)と考えていますが、諸カテゴリーは「純粋な思想」(一二〇ページ)ですから、このような「論理的諸思想」(一二三ページ)は内容がないどころか、最も深遠な内容をもち、「あらゆるものの絶対的な根拠」(同)としてあらゆるものに「生命を与える魂」(一二一ページ)となるのです。
 したがって諸カテゴリーは、その内容が真理であるかどうかが問われるのであって、諸カテゴリーの真理性の「問題にこそ、すべてがかかっている」(一二四ページ)のです。
 ではカテゴリーの真理性はどのようにして吟味されるのでしょうか。それは諸カテゴリーを一般には「しかじかの意味に用いている」(一二三ページ)というように「外から受入れてそれらを定義」(同)するのではなく、「それらを思惟そのものから導き出し、それらが真理であるかどうかを、それら自身から吟味することを意味する」(同)のです。カテゴリーの真理性を「思惟するもの」によってカテゴリー自身から導き出すとは、カテゴリーのもつ意味を思惟によって哲学的に考察し、カテゴリーの「真にあるべき姿」をとらえることを意味しています。

真理とは概念(主観)と存在(客観)の一致

 「普通われわれは、対象と表象との一致を真理と呼んでいる。この場合、われわれは、一つの対象を前提し、そしてわれわれの表象はこの対象に適応しなければならないのである」(一二四ページ)。
 「対象と表象との一致」とは、対象となる「客観と認識との一致」であり、いわば唯物論的真理観をさしています。
 しかしヘーゲルにいわせると、この真理観は「一つの対象を前提」し、それを「外から受入れて」いるからここに立ち止まるべきではないというのです。
 「しかし哲学的な意味では、真理とは、これに反して、抽象的に言えば、或る内容のそれ自身との一致を意味する。したがってこれは、先に述べたような真理の意味とは、全くちがった意味である」(同)。
 「対象と表象との一致」を真理とよぶとすれば、対象がどんなに一時的、偶然的な仮の姿であったとしてもそれを表象においてそのままとらえれば、それが真理だということになりますが、ヘーゲルにいわせればそんなものはまだ真理の名に値しないというのです。
 「或る内容のそれ自身との一致」とは、或る事物の現にある姿(「内容」)が、その事物の真にあるべき姿に一致することを意味しています。事物の真にあるべき姿を「それ自身」とよんでいるのです。
 六節で理想と現実の統一が「哲学の最高の究極目的」(六九ページ)であることを学びました。理想と現実の統一は、「或る内容のそれ自身との一致」を示す真理だからこそ、哲学の「究極目的」となるのです。
 「例えば、われわれが真の友と言う場合、それは、その人の行いが友情の概念に適合している人という意味である。同じ意味でわれわれはまた真の芸術品と言う。このような場合、真実でないとは、悪い、あるいは、それ自身の概念に適合していない、と言うのと同じ意味である。この意味で、悪い国家とは真実でない国家であり、一般的に言えば、悪いおよび真実でないとは、事物の本性あるいは概念と事物の存在とが矛盾していることである」(一二四ページ)。
 ヘーゲルのいう真理とは、概念(真にあるべき姿)と存在の一致であり、存在する事物が概念と一致しないとき「悪いおよび真実でない」ということになるです。
 「真にあるべき姿」というのは、客観の否定的反映です。現にある客観を否定して、真にあるべき姿を認識するのです。その意味では真にあるべき姿もまた客観を主観のうえに反映したものということができます。現にある姿に一致する認識のみならず、この真にあるべき姿に一致する認識も含めて「客観と認識との一致」ということができるのであり、ヘーゲルは、唯物論的真理観の枠組みを広げたものということができるでしょう。
 ヘーゲルが特に言いたいことは、国家の変革なのです。国家の「真にあるべき姿」を理想にかかげ、現実の「悪い国家」を「真にあるべき国家」に変革して理想と現実の統一を実現することが、哲学の「究極目的」だということです。そのためにあえて「悪い国家」の例をあげているのです。ここにもそれとなくヘーゲル哲学の革命性が示されています。
 「あらゆる有限な事物は、そのうちに真実でないものを含んでいる。すなわち、それは概念と存在とを持っているが、その存在は概念に適合していない。有限な事物が亡びなければならないのはそのためであり、このことによって、概念と存在との不一致が明かにされる」(一二四~一二五ページ)。
 有限な事物は、「概念に適合」せず真実でないものだから亡びなければならない、というのは、なかなか含蓄のある言葉だと思います。
 「論理学の課題は、以上述べたような意味における真理、すなわち自分自身との一致という意味における真理を、研究することである」(一二五ページ)。
 或る事物が、その事物の概念である「自分自身」に一致するという意味における主・客一致の真理は、主観と客観の交互作用から生まれる弁証法的統一によって実現されるのであり、これが論理学全体の課題となってくるのです。
 「論理学の仕事は、思惟諸規定がどの程度まで真理をとらえうるかを研究することにある、というようにも表現することができる。したがって論理学が問題とするのは、どのような形式が無限なものの形式であり、どのような形式が有限なものの形式であるか、ということである」(同)。
 論理学の仕事は、「思惟諸規定」つまり諸カテゴリーが「どの程度まで真理をとらえうるかを研究する」ことにあります。その意味では、これまでのアリストテレスやカントの諸カテゴリーもすべてこの見地から再検討され、諸カテゴリーの有限性、無限性が問いなおされることになります。
 結論を先取りすると、「有限なものの形式」が悟性的なカテゴリーであり、「無限なものの形式」が理性的なカテゴリー、対立物の統一という弁証法の形式にあるカテゴリーです。つまり弁証法によってこそ概念(真にあるべき姿)という無限なものの真理を認識しうるというのです。

ドイツ古典哲学の革命性

 ハイネは『ドイツ古典哲学の本質』において、カントからヘーゲルに至るドイツ古典哲学の全体をフランス革命のドイツ的理論ととらえました。
 「ドイツの思想革命はフランスの政治革命とふしぎなほど似ていて」(前掲書一五八ページ)、「フランスではこれまでの社会制度のかなめ石であった王制がたおされたが、ドイツではこれまでの思想支配のかなめ石であった超越神論がたおされ」(同)、汎神論がとってかわったと指摘しています。これは観念論から唯物論への事実上の転換を意味するものでした。
 フィヒテは「理想から現実をつくり出し」(同二二三ページ)、シェリングは「現実から理想をつくり出し」(同)、ヘーゲルは現実から理想をつくり出すと同時に、その理想にもとづく現実の変革という、理想と現実の統一を説いたのです。二四節補遺二は、このヘーゲル哲学の革命性を端的に示すものとなっており、その意味で「ヘーゲルがこの革命の大きな循環を終結させ」(同二三五ページ)、ドイツ政治革命への序曲となったのです。
 ハイネは革命的なドイツ古典哲学が、ヘーゲルにおいて「完成したのちに、はじめて政治革命にとりかかることができる」(同二三八ページ)と指摘し、「来るべきドイツの政治革命への見透し」(同)を語っています。
 エンゲルスも同様にヘーゲル哲学の「革命的性格は絶対的」(全集㉑二七二ページ)と述べていますが、私たちも、その「革命的性格」をヘーゲル哲学の本質を示すものとして学ばねばなりません。

 

四、弁証法は真理認識の形式

二四節補遺三 ── 弁証法は真理認識の絶対的形式

 「われわれは真なるものをさまざまの仕方で認識することができ、これらさまざまの認識の仕方は、単に形式にすぎない」(一二五ページ)。
 ではどんな認識の仕方があるのかというと、ヘーゲルは、経験、反省、思惟という三つの形式を上げ、「認識の最も完全な方法は、思惟という純粋な形式のうちでなされる方法」(一二六ページ)であり、「この形式のうちに、真理はその真の姿をもってあらわれる」(同)といっています。「思惟という純粋な形式」とは対立物の統一という弁証法の形式を意味しています。
 なぜかというと、まず経験は客観となる対象を直接的な感覚のうちにとらえ、それを疑い、問い返してみようとしない、真理認識の「最初の形式」(同)にすぎません。いわば、感覚的にとらえられるものをそのまま真理だとする素朴な態度ということができるでしょう。これに対し反省は、「このような直接的な自然的統一の外へ出る」(一二七ページ)のであり、いわば、感覚や直観のうちにとらえられたものが果たして真理かどうかを疑い、「あれかこれか」と考え、とらえなおそうとするのです。
 二一節で、反省によって「はじめて対象の真の姿は知られる」(一〇九ページ)ことを学びました。反省によって「本質的なもの、真なるもの」(一一二ページ)がとらえられますが、本講の冒頭で「本質的なもの」と「真なるもの」とは区別しなければならないことを指摘しました。反省には事物を二重化してとらえる分裂の立場と、この分裂を克服して統一を回復した立場の二つがあります。「本質的なもの」は分裂を示す立場であるのに対し、「真なるもの」は、統一の立場を示すものであり、この統一の立場が最高の真理認識の形式となるのです。
 つまり「反省的認識」(一二七ページ)のとらえる「あれ」と「これ」とはどちらも一面的であり、その対立を止揚した統一である「哲学的認識」(同)にこそ最高の真理があるとするのです。
 ヘーゲルは、「有限な思惟のあらゆる諸形式は、論理的発展の経過のうちに、しかも必然的な順序をもってあらわれてくる」(一二六ページ)と語っていますが、経験から反省的認識へ、次いで哲学的認識へと、認識は前進することによって次第により深い真理をとらえうると考えており、それが即自、対自、即かつ対自として展開されることになるのです。
 以上を前提に、テキストに沿ってもう少し詳しくみていくことにしましょう。
 最初の形式である経験は、「直接知の形式」(同)であり、「道徳的にみて無邪気と呼ばれているすべてのものや、宗教的感情、率直な信頼、愛、誠実、自然的信仰などは、この形式」(一二七ページ)に入ります。いずれも経験から生まれた感覚的な直接知をもって真理とする形式です。
 これに対して「反省的認識」の代表は、古代の懐疑論(ピュロン、アイネシデモスなど)です。彼らは、すべてを疑い、あらゆる事物は、肯定面からも否定面からもとらえることができるとして、一面的な経験の形式を批判しました。ヘーゲルが、「古代の偉大な懐疑論」(一二六ページ)といっているのは、彼らが弁証法の一歩手前まで接近しているからです。彼らは、経験の形式は「そのうちに矛盾を含んでいることを指摘することによって」(同)、経験の形式が「有限な形式」(同)にすぎないと批判しました。
 しかし懐疑論の立場は、物事には対立する二つの立場が成立することを指摘するにとどまることによって真理に対する一種の無能力を示し、自らの「反省」の形式も「有限な形式」にすぎないことを暴露したのです。
 ヘーゲルは、旧約聖書の「エデンの園」を例に、対立物の統一という弁証法が真理認識の絶対的形式であることを説明しています。
 「堕罪の神話をよく考えてみると、……精神的生活にたいする認識の一般的な関係がそのうちに表現されているのがわかる。直接態における精神的生活は、まず無邪気および率直な信頼としてあらわれる。しかし精神の本質には、こうした直接的な状態が否定されるということが含まれている」(一二八ページ)。
 この堕罪(だざい)の神話には、二つの弁証法が含まれています。
 一つにはアダムとエバは、エデンの園に生まれたままの姿を恥ずかしいとも思わずに「直接的な状態で」生活していました。悪賢い蛇に誘われて、善悪を知る禁断の木の実を食べ、この「直接的な状態が否定され」ます。
 「目覚めた意識の最初の反省は、人間が自分がはだかであることに気づいたということであった。これは非常に率直な深い言葉である。羞恥のうちには、自然的および感性的存在からの人間の分離がある」(一二九ページ)。自然な状態と意識の目覚めた状態との対立が、裸であることに羞恥心を抱かせるのです。
 「しかし今度はこうした分裂の立場もまた否定されなければならない、そして精神は自分自身の力によって統一へ復帰しなければならない」(一二八ページ)。アダムとエバは、この対立から生まれる羞恥心を止揚するものとして衣服を着用するに至るのです。
 ヘーゲルは「羞恥という人間的感情のうちに衣服の精神的および道徳的起源は求むべきであって、単なる自然的要求は二次的なものにすぎない」(一二九ページ)として、それが対立の止揚にあることを指摘しています。
 二つには、アダムとエバは「自然的存在を脱却する」(一三一ページ)ことにより、「外界から自己を区別」(同)し、人間は自然と対立するに至ります。神は「男は額に汗して働き、女は苦しんで子を生ねばならない」(一二九~一三〇ページ)と宣言し、彼らをエデンの園から追放します(創世記三・一七)。
 こうして自然と調和する自然状態にあった人間は、自然との対立のなかにおかれ、「自然は、人間にとっては、人間が作り変えなければならない出発点」(一三一ページ)となります。
 自然はその猛威をもって人間に襲いかかり、自然の「法則に隷属」(一三二ページ)することを求めます。これに対し人間は自然の法則を学びとることで精神の自由を勝ちとり、自然を作り変えることによって分裂を克服し統一を実現するとともに、それによって「自己自らの力で自己を実現」(一三一ページ)するのです。またこうして「神が人間に投げかけた呪い」(一二九ページ)の呪縛から解放され、人間は自然との統一状態から、自然との対立・分裂を経て、再び自然との統一を回復し、真の人間に復帰するのです。