第八講 予備概念 ③
古い形而上学批判 ⑴
一、客観的思想にたいする態度
二五節 ── 客観的思想は真理を言いあらわすもの
「客観的思想という言葉は、単に哲学の目標ではなくて哲学の絶対的な対象でなければならないところの、真理を言いあらわすものである」(一三二ページ)。
第七講で学んだように、客観的思想とは事物のうちにある真なるものを思想のうちにとらえたものであり、したがって「真理を言いあらわすもの」となります。この真理としての「客観的思想」をとらえることが「哲学の絶対的な対象」となるのであり、それが諸カテゴリーにほかなりません。
では諸カテゴリーはどのようにしてとらえられるのかといえば、二四節補遺三でみたように、まず最初に与えられる直接的な認識を「反省のうちに認識し」(一二六ページ)、ついで、この対立するものを「統一へ復帰」(一二八ページ)することによって獲得されるのです。つまり肯定 ── 否定 ── 肯定と否定の統一という弁証法的な発展過程をつうじて真理としての諸カテゴリーに到達することができるのです。
「しかしそれは同時に対立を、しかも、その本性と妥当性をめぐって、今日の哲学的立場の関心と真理およびその認識にかんする問題とが動いている、対立を指示する」(一三二ページ)。
したがって諸カテゴリー(「思惟諸規定」)を問題とするにあたっては、反省的思惟としての「対立」を避けて通ることはできません。
「もし思惟諸規定が、動かしがたい対立を担っているとすれば、言いかえれば、有限なものにすぎないとすれば、それらは、絶対的な真理に適合せず、真理は思惟のうちにはいることができない。有限な諸規定しか生み出さず、またそれらのうちで動いている思惟を悟性(厳密な意味で)と言う」(同)。
もし諸カテゴリーが「動かしがたい対立を担っている」とすれば、それらは「絶対的な真理に適合」しません。「絶対的な」の原語は「アン・ウント・フュア・ジッヒ(an und für sich)」です。「フュア・ジッヒ(対自)」という対立を止揚した「アン・ジッヒ(即自)」という統一こそが「絶対的(アン・ウント・フュア・ジッヒ ── 高村)な真理」となるのであって、対立にとどまる諸カテゴリーは「有限な諸規定」にとどまるのです。
この対立にとどまる諸カテゴリーは、悟性的諸規定であって理性的諸規定ということはできません。
「思惟諸規定の有限性には二つの場合が考えられる。一つは、単に主観的であって、あくまで客観的なものに対立している、という意味での有限性であり、もう一つは限られた内容のためにあくまで相互に対立しあい、絶対的なものとは一層対立している、という意味での有限性である」(一三二~一三三ページ)。
ヘーゲルは、対立物の統一のうちにのみ真理があると考えていますから、対立する一方の規定を選択するカテゴリーは、「有限な諸規定」にすぎないとし、その事例を二つあげています。一つは主観と客観の対立のうちにおいて主観のみを選択する立場であり、もう一つはカテゴリーを有限なものとして絶対者に対立させておく立場です。
「私は次に、私が本書で論理学に与えているような意味および立場を、もっとはっきり説明するために、客観性にたいして思惟がとるさまざまの態度を、より詳細な序論の形で、考察したいと思う」(一三三ページ)。
「客観性にたいして思惟がとるさまざまの態度」とは、客観のうちの真なるものの存在を認めるのかどうか、認めるとして思惟がそれをとらえうるかどうかにかんする態度のことです。
言いかえれば、真理の存在および真理の認識を認めるかどうかにかんする態度を問題にしているのです。ヘーゲルは世界のあらゆるもの、有限なものはもちろん無限なものについても、また自然だけでなく精神についても真理は存在するし、かつ認識しうるとの立場から、真理の存在およびその認識を否定する「さまざまの態度」を以下に批判し、これらの諸哲学を揚棄したものとしてヘーゲル哲学が成立していることを明らかにしていくのです。
一つは、「古い形而上学」の立場であり、彼らは有限なカテゴリーで、無限な絶対者をとらえようとします。ヘーゲルは、これを「理性的対象の単に悟性的な考察」(一三五ページ)と批判しています。
その二つは、諸カテゴリーは、「単に主観的であって、あくまで客観的なものに対立している、という意味での有限性」をもっているとする考え方です。カント(一七二四~一八〇四)の批判哲学がこれに該当します。
三つには、諸カテゴリーは「限られた内容」でしかないところから、「絶対的なものとは一層対立している、という意味での有限性」をもつものであり、したがって絶対者である神は、諸カテゴリーによってとらえることはできず、「直接知」としてのみ把握しうるというヤコービの立場です。
古代ギリシアに始まった弁証法的思考は、中世のスコラ哲学という永い暗闇の時代を経て、十五世紀の後半における自然科学の発展に促されて復活をとげます。
近代において、神から出発したスコラ哲学にかわり、人間から出発した哲学が登場します。近代哲学の主流はベーコン(一五六一~一六二六)、デカルト(一五九六~一六五〇)、スピノザ(一六三二~一六七七)などによる、理性により真理を探究しようとする合理主義哲学です。こうした合理主義哲学の一環として古い形而上学、経験論、カント哲学が、そしてそれらの合理的諸哲学を批判する形でヤコービ(一七四三~一八一九)の「直接知」の哲学が登場することになります。
ヘーゲルは、その生涯をつうじて十回もの哲学史の講義を行いました。二千五百年の哲学の歴史を総括して、ギリシア哲学の弁証法を復活・開花させると同時に、近代合理主義哲学を代表する右の三つの哲学とその反駁としてのヤコービ哲学の批判のうえに自己の哲学を確立し、弁証法的論理学こそ真理認識の唯一の形式であることを明らかにしていったのです。
こうして二六節から七八節まで、「客観性にたいする思想の態度」を、第一「古い形而上学」、第二「経験論」と「カント哲学」、第三「直接知」の三つの態度として取り上げ、その批判のうえに主・客の一致に真理を求める弁証法的論理学を展開しているのです。
ヘーゲルの哲学体系の変更
第二講で、ヘーゲルの哲学体系は、当初の『精神の現象学』から出発する体系から『エンチクロペディー』の体系に変わったことをお話ししました。
ここで、ヘーゲルがその変更の理由を述べていますので、それをみておきましょう。
「出版のときには哲学体系の第一部と呼ばれていた『精神の現象学』においては、私は、精神の最初の最も単純な現象、直接的意識からはじめて、精神の弁証法を哲学知の立場まで発展させ、この立場の必然性を、こうした進展によって示すという方法をとった」(一三三ページ)。
『精神の現象学』は「意識の経験の学」とも呼ばれており、個人および人類の意識がさまざまな経験を経ながら弁証法的に発展し、最後は、主観と客観の一致する絶対知(哲学知)にまで到達する過程を明らかにし、意識の弁証法的発展をとらえるものとなっています。
「しかしそうするためには、単なる意識の形式にとどまることはできなかった。なぜなら、哲学知の立場は、それ自身、同時に最も内容豊かな、最も具体的な立場であり、したがってそれが成果としてあらわれてくる場合には、例えば道徳、人倫、芸術、宗教など、意識の具体的な諸形態を前提しているからである」(同)。
哲学知というのは、主・客一致の立場ですから、哲学知に至るまでの「意識の具体的な諸形態」を論じることは、主観的意識が客観化されたもの、つまり人間の精神の産物である「道徳、人倫、芸術、宗教」などをも論じることになってしまいます。そうなると総論としての「精神の現象学」は、各論としての「精神哲学」ともダブルことになり、当初予定していた第一部「精神の現象学」、第二部「論理学」「自然哲学」「精神哲学」という体系構想に破綻を来すことになってしまったのです。
「故に、一見形式にのみ限られているようにみえる意識の発展には、同時に、哲学の特殊な諸部門の対象である内容の発展も含まれてくる。……このことによって叙述は一層複雑となり、哲学の具体的な諸部門に属するものが、一部分すでに、上述の序論のうちにはいってくるようになる」(同)。
このように、「哲学の具体的な諸部門に属する」各論である自然哲学や精神哲学の内容までもが、「総論」としての精神現象学に含まれるようになってきたところから、これまでの哲学体系を投げすてることになったのです。これにとってかわる『エンチクロペディー』の体系では、まず「純粋な思惟規定の体系」(一二一ページ)である「論理学」から出発し、それを自然と精神に「応用」(同)する「自然哲学」「精神哲学」という構成になっています。
ヘーゲル「論理学」の意図するところは、人々が「全く具体的と思っている諸問題が、実は論理学のうちではじめて本当に解決される単純な思惟諸規定に還元されるものだということを示すことにある」(一三三~一三四ページ)といっています。
すべての具体的なものは「世界の魂」(一一七ページ)である論理学の諸カテゴリーに還元されることを「論理学」で証明しようというのです。
二、「第一の態度」としての古い形而上学批判
テキストでは「A客観にたいする思想の第一の態度」となっていますが、第六講で述べたように「客観性」と訳すべきものと思われますので、そのように訂正しておきます。「客観性にたいする思想の第一の態度」とは古い形而上学のことです。
二六節から三二節までは、古い形而上学の総論的批判であり、三三節から三六節まではヴォルフの「形而上学」批判という各論となっています。
二六節 ── 古い形而上学は日常の意識
「客観にたいする思想の第一の態度は、思惟の自己にたいするおよび自己内における対立をまだ意識せず、追思惟によって真理が認識され、客観の真の姿が意識にもたらされると信じているところの素朴な態度である」(一三四ページ)。
最初に問題にするのは「古い形而上学」です。ここにいう「追思惟」とは、第六講で学んだ反省の意味ではなく、「訳者註」(一三四~一三五ページ)にあるように、事物のうちの真なるものを「追い求めて思惟する」ことを意味しています。古い形而上学は「追思惟によって真理が認識され」ると信じている「素朴な態度」をとっています。
二四節補遺三において、真理を認識するその最初の形式が、「直接的な自然的統一」(一二七ページ)にあるとしていますが、これが「客観性にたいする思想の第一の態度」なのです。
「直接的な自然的統一」というのは、思惟の「自己内における対立をまだ意識」しない立場です。しかし実際には、客観の真理をとらえようとすれば、直感に頼って対象にべったりくっつくのではなく、対象をひねくり回し、「ああでもない、こうでもない」と考える「反省的認識」(同)、さらには、この「反省的認識」を乗り越え、対立物の統一としての「哲学的認識」(同)へと前進していかなければなりません。ヘーゲルは反省的認識や哲学的認識に至らない「第一の態度」を「対立をまだ意識」しない「自然的統一」の立場だといっています。
「このような信念をもって、思惟はまっすぐに対象へ向っていき、感覚や直観の内容を自己のうちから再生産して思想の内容に変え、そしてこの内容を真理と信じて、それに満足している。あらゆる初期の哲学、あらゆる科学、否、意識の日常の活動すら、このような信念のうちに生きている」(同)。
先にもみたように、このような立場は、真理認識の出発点ともいうべき「最初の形式」(一二六ページ)ですから、「あらゆる初期の哲学、あらゆる科学、否、意識の日常の活動」にみられる「素朴な態度」なのです。
二七節 ── 古い形而上学は理性的対象の悟性的考察
「この思惟は、自己の対立を意識していないのであるから、その内容からすれば、真に思弁的な哲学的思惟であることもあれば、また有限な思惟諸規定のうちに、言いかえれば、まだ解決されていない対立のうちにとどまっていることもある」(一三五ページ)。
古い形而上学は、自己のうちに反映された、対象のもつ対立する二つの側面をまだ意識するに至っていない即自的(アン・ジッヒ)な思惟です。「対立を意識しない」のにも二つあります。一つは、対立を止揚して統一を回復した即かつ対自的(アン・ウント・フュア・ジッヒ)な思惟であり、ヘーゲルはこれを「真に思弁的な哲学的思惟」とよんでいます。もう一つは、まだ対立を自覚することなく、したがって「解決されていない対立のうちにとどまっている」アン・ジッヒな思惟です。後者が古い形而上学の立場です。
この思惟は、対象となる客観にも対立する二つの側面があり、客観の真の姿をとらえようとすれば、まずこの二つの側面を認識しなければならないのに、それを自覚しないままに、対立する二つの側面の一つを直観や感覚によってとらえ、それに固執するものですから、「まだ解決されていない対立のうちにとどまっている」といっているのです。
ヘーゲルは、「この第一の態度の制限」(同)を批判することが、二八節以下の目的であることを指摘しています。
「このような哲学的思惟の最もはっきりした、そして最も手近な例は、カント哲学以前にドイツに見られたような古い形而上学であった。しかしこのような形而上学は、哲学の歴史にかんしてのみ古いものであるにすぎず、それ自身としては常に存在しており、それは理性的対象の単に悟性的な考察である」(同)。
第一講でも少し触れましたが、アリストテレスは、「存在としての存在」と神を主題とする哲学を第一哲学とよびました。この第一哲学は、自然学(タ・フィジカ)の後(メタ)に編集されていたところから、「メタ・フィジカ」とよばれ、これが明治の哲学者、西によって「形而上学」と翻訳されました。この第一哲学では、「AはAである」という、矛盾を許さない同一律が思惟の根本形式とされていたところから、矛盾を認めない論理が「形而上学」とよばれるようになりました。この形而上学をドイツで確立したのが、ライプニッツ(一六四六~一七一六)の哲学を継承したヴォルフ(一六七九~一七五四)であり、まとめて「ライプニッツ=ヴォルフ学派」とよばれています。ヴォルフは、それまでの哲学書がすべてラテン語で書かれていたのに対して、はじめてドイツ語で著し、ドイツにおける哲学の普及に大きな功績を残しました。
ヘーゲルは、ヴォルフを「ドイツ人の一般悟性的教養のために大きな不滅の功績を立て」(『哲学史』下巻の二、二一七ページ)、「はじめて哲学的思索をドイツに植え着けた」(同)ものとして評価しながらも、その形而上学的思想を批判しました。
このライプニッツ=ヴォルフ学派という「古い形而上学」の本質を、ヘーゲルは「理性的対象の単に悟性的考察である」(一三五ページ)と結論づけています。本来弁証法的に考察すべき理性的対象を、悟性的に固定した規定性、一面性においてとらえたため、真理を認識しえなかったと批判しているのです。
以下、どうしてこのように結論しうるのかを、その「方法および主要内容」(同)に立ち入って考察していくことになります。
二八節 ── 古い形而上学批判① ── 一面的規定で真理をとらえようとする
「この形而上学は、思惟規定を事物の根本規定とみた。それは、存在するものは、思惟されることによって、自体的に認識されうるという前提によって、後の批判哲学よりも高い立場に立っていた」(一三五~一三六ページ)。
批判哲学とはカント哲学のことです。カント哲学は事物の真の姿は認識しえないという不可知論の立場にたっていました。
これに対して古い形而上学は、思惟規定を「事物の根本規定」をとらえた真理であると考えました。すなわち存在するものの真理は、思惟されることによって認識しうると考えた点において、不可知論にたつ「批判哲学よりも高い立場に立っていた」のです。しかし、そのことは正しいとしても、対立を自覚しない即自態をもって真理ととらえる点で限界をもっていました。「自体的に」とあるのは、「アン・ジッヒ」の訳であり、「対立を自覚しないでも」の意味と解するべきでしょう。
ヘーゲルは、この「古い形而上学」を、二八節から三六節まで、三つの観点から批判しており、第一の批判が二八節、二九節で展開されています。
「 ⑴ しかし それは、一面的な思惟規定がそれだけで意義を持ち、真実在の述語となりうると考えていた。この形而上学は一般に、絶対者の認識は、それに述語を与えるという仕方で行われうるということを前提し、悟性の諸規定に特有な内容および価値を吟味もしなければ、述語を与えることによって絶対的なものを規定するという形式を吟味もしなかった」(一三六ページ)。
アリストテレスは、つねに主語となり、述語とはならない個物(この人間、この犬)を第一実体とよび、これに対し述語となるものを第二実体としました。第二講で紹介したアリストテレスの十個のカテゴリーは、すべてこの第二実体を示したものであり、カテゴリーとは述語形態の意味なのです。そこで古い形而上学も、このカテゴリーとしての述語を問題にするのです。
ヴォルフ流の形而上学も、このアリストテレスの考えを継承し、神、世界、魂というような「絶対者」の真理は、「それに述語を与えるという仕方」で認識しうると考えました。その述語が果たして「絶対者」をとらえるにふさわしい内容をもっているのかどうか、また「絶対者はAである」というような判断形式で真理をとらえうるのかどうかも、全く吟味しないままに。
「このような述語は、例えば、次のようなものである。神は存在するという命題にみられるような存在、世界は有限か無限かという問題に見られるような有限と無限。魂は単一であるという命題にみられるような単一と合成。更に物は一つのものである、全体的なものである、等々と言う場合にみられるような一、全体、等々」(同)。
果たして、存在または非存在、有限または無限、単一または合成、一または全体というような対立する二つの規定の一方を述語とすることによって絶対者を規定しうるのかが、問題とされなければなりません。
二八節補遺 ── 悟性的思惟と理性的思惟
古い形而上学が「事物の直接にあらわれる姿がそのままに事物の真の姿ではない」(同)と考え、「事物の真の姿は思惟によってのみ明かになる」(同)としたのは、正しい見地にたつものでした。これに対して批判哲学は、後にみるように人間にとって最も重要な事物の真の姿である物自体は認識しえないというのですから、「人間は籾殻や糟だけを食って生きなければならないことに」(一三六~一三七ページ)なってしまいます。
しかし、古い形而上学は「抽象的な思惟規定をそのままに取りあげて、それを真実在の述語であると認めている」(一三七ページ)点において、「単なる悟性的思惟を出なかった」(同)のです。
この結論に至る過程をもう少し詳しくみていきましょう。
「思惟と言うとき、われわれは有限な、単に悟性的な思惟と無限な、理性的な思惟とを区別しなければならない。直接的にかつ個別的に見出されるような思惟規定は、有限な思惟規定である。しかし真実在はそれ自身無限なものであって、有限なものによってこれを表現し意識にもたらすことはできない」(同)。
「真実在」とは、二四節補遺二で学んだ「概念と実在との真の一致」(一二四ページ)であり、事物が真にあるべき姿という実在になったことを意味しています。あらゆる有限な事物は、概念に適合しないが故に有限であり、かつ亡びるのに対し、真実在は概念に一致しているから、亡びることなく無限なのです。
古い形而上学が問題とする神、世界、魂などは、いずれもこの意味での真実在であり、こういう亡びることのない無限なものを、「無限な、理性的な思惟」によってではなく、「有限な、単に悟性的な思惟」によってとらえようとするところに、古い形而上学の制限があるのです。
ヘーゲルは、思惟そのものを「本質的にそれ自身無限なもの」(一三七ページ)と考えています。というのも思惟は、自由な精神の働きであって、「自分自身に関係し、自分自身を対象としている」(同)からです。「有限とは終りを持つもの、存在しはするが、他のものと連関するところで無くなり、したがって他のものによって制限されているものである。だから有限なものとは、自己の否定であり自己の限界をなしているところの他のものに関係していることを意味」(同)しているのに対し、思惟は他のものに関係することなく自分自身にのみ関係するから無限なのです。
もっとも思惟には、思惟の対象となる客観的事物が関係していますので、この対象によって思惟は制限されているということもできます。しかし思惟は、対象をそのまま自己のうちに取り込むのではなく、反省的思惟によって変形し、かつ揚棄して自己のうちに取り込むのですから、「その対象は、対象であって同時に対象でない」(同)のであり、したがって「純粋な思惟そのものは、自己のうちに制限を持たない」(同)のです。
しかし本質的に無限なものである思惟も、有限なものとなることがあります。
「思惟が有限であるのは、それが制限された諸規定のもとに立ちどまって、それらを最後のものと考えるかぎりにおいてのみである。無限な思惟あるいは思弁的な思惟は、これに反して、同じく規定しはするけれども、規定し制限しながら、この欠陥を再び除去するものである」(一三八ページ)。
思惟が「制限された(思惟の ── 高村)諸規定のもとに立ちどま」り、有限な思惟諸規定を否定しないとき、思惟は有限となります。これに対して無限な思惟は、有限な諸規定を規定として肯定しつつも、そこに立ちどまることなくこれを否定することにより、有限な思惟の制限を抜け出すのです。
「古い形而上学の思惟は有限な思惟であった。というのは、それは有限な思惟規定のうちを動き、それらの制限を動かしがたいものと考えて、再びそれを否定しなかったからである。それは例えば、神は存在するかという風に問題を呈出し、その際存在(Dasein)を全く肯定的なもの、究極の真理と考えている。しかし後に説くように、定有(Dasein)は決して単に肯定的なものではなく、それは理念にとってはあまりに低く、神にはふさわしくない規定である」(同)。
古い形而上学は「神は存在する」と規定することによって「存在」を「全く肯定的なもの」、「究極の真理」をとらえたものと思っているのですが、ヘーゲルにいわせると、「存在(Dasein)」というカテゴリーは、極めて低いレベルの有限なカテゴリーでしかなく、こんな有限なカテゴリーで、無限な神はとうてい表現しえないというのです。また「定有(Dasein)」というカテゴリーは決して単に肯定的なものではなく、否定的でもあることについては、定有のところで説明したいと思います。
次に、古い形而上学は、「世界は有限か無限か」(同)、「魂は単一か複合的か」(同)というように問題を立て、どちらを選択することが真理なのか、という二者択一として問題を提起します。
これに対しヘーゲルは、このような二者択一の問題提起自体が正しくないと批判しています。というのも、対立する二者は、いずれも「一面的な規定」(一三九ページ)にすぎないのであって、そこには真理は存在せず、両者の統一にのみ真理が存在するからです。例えば、有限と無限について、有限と無限とを媒介のない対立としてとらえた場合、無限とは「有限ではないもの」として規定されることによって「有限によって制限されている」(一三八ページ)ことになってしまいます。しかし制限された無限というのは、もはや無限ではなく、「それ自身有限なものにすぎない」(同)のです。
エンゲルスは、『反デューリング論』(全集⑳)のなかで、形而上学者は「ものごとを、もっぱら媒介のない対立において考える。彼のことばは、しかりしかり、いないな、これに過ぐるは悪より出ずるなり、である。彼にとっては、ある物は存在するか存在しないかのどちらかである。同様に、物はそれ自体であると同時に他のものであることはできない」(同二一ページ)とまとめています。
「以上述べたところからわかるように、古い形而上学の関心は、右に述べたような諸述語がその対象に附加できるかどうかを認識することにあった。しかしこれらの述語は、真なるものではなくて制限されたものを表現するにすぎないところの、有限な悟性的規定にすぎない」(一三九ページ)。
古い形而上学が、思惟によって神、世界、魂というような絶対者(無限者)をとらえようとしたことは正しいのですが、それをとらえるにあたり、対立する述語のうちの一つを選択して主語である絶対者の述語にしようとしました。しかし、こういう対立する述語のうちの一つである述語は、「有限な悟性的規定」にすぎませんから、これでは真理をとらえることはできません。
それだけではありません。古い形而上学の関心は、どんな述語を「附加」すれば真理を認識しうるかというところにありましたが、この「附加」という方法自体にも問題があります。
「なぜなら、その場合諸規定(諸述語)は、私の表象のうちにできあがったものとして存在し、そしてそれらが単に外的に対象に附加されるからである」(同)。
私が、この主語にはどの述語をつければいいかと考え、私が適当だと考える述語を「単に外的に対象に附加」させるものであって、何らここには、主語がその述語と結合すべき必然性は存在しないからです。
「対象の真の認識は、これに反して、対象がそれ自身のうちから規定されるのであって、諸述語を外から受取るのではないというようなものでなければならない」(同)。
対象の真理をとらえるには、二四節補遺で学んだように対象自身に自己を規定させ、自己を展開させなければなりません。つまり外的反省によってではなく、思惟による内的反省によってそれ自身を展開した対象の概念がとらえられねばならないのです。
「述語を附加するというような仕方では、精神は、このような述語をいくら附加しても対象はつくされない、という感じを抱かざるをえない」(同)。
一つひとつの述語を外的に附加するかぎり、いくら述語の数をふやし附加しても、主語が何であるかを言いつくすことはできません。
このように思惟には、有限な思惟と無限な思惟とがあります。有限な事物には有限な思惟で十分ですが、無限な事物の真の姿をとらえようと思えば、無限な思惟が必要となってくるのです。
「もっとも、有限な事物は、言うまでもなく、有限な諸述語によって規定されなければならないから、この場合には悟性の活動はその場所をえているわけである。……例えば、私が或る行為を窃盗と名づけるとすれば、その行為の根本的な内容はこれによって規定されているのであって、裁判官にはこうした知識で十分である」(一三九~一四〇ページ)。
法律というのは、「有限な事物」の典型です。例えば、「他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、十年以下の懲役に処する」(刑法二三五条一項)と規定されています。ここで問題となるのは、「他人」とは誰か、「財物」とは何か、「窃盗」とは何か、という定義のみであり、この定義が決まれば、裁判官の仕事は、個々の犯行が、この定義に該当するか否かという判断を下すだけなのです。したがって裁判官の仕事は、「有限な事物」に対する「悟性の活動」にとどまるものであって、何ら真理を認識しようとするものではありません。
「しかし理性的対象は、このような有限な述語によっては規定できないものである。そしてあえてそれを行おうとしたところに、古い形而上学の欠陥があったのである」(一四〇ページ)。
哲学の対象は、こんな「有限な事物」の枠を越え、理性的対象、つまり神、世界、魂といった内容における無限な事物にまで及んでいるのであり、古い形而上学は、このような理性的対象を扱いながら、悟性的考察にとどまっているところに、その限界があるのです。
一言注意しておくと、無限な事物としてここでヘーゲルのあげているのは、古い形而上学が問題とした神、世界、魂といったものですが、無限な事物はそれらに限られるわけではありません。有限とは「終わりを持つもの」(一三七ページ)であり、これに対し無限とは終わりを持たないもの、自己の限界を否定するものです。したがってすべての運動する事物は自己の限界を否定するものとして「無限な事物」です。すべての事物は相互の媒介のなかで運動、変化、発展しますので、すべて「無限な事物」ということができます。右にみた法律を例にとると、法律は本来運動する「無限な事物」を法律の規定という形而上学によって「有限な事物」にかえてしまうのです。エンゲルスは、「形而上学的な考え方は、個々の事物にとらわれてその連関を忘れ、それらの存在にとらわれてその生成と消滅を忘れ、それらの静止にとらわれてそれらの運動を忘れる」(全集⑳二一ページ)といっています。
「理性的対象の単に悟性的な考察」(一三五ページ)を言いかえると、「媒介され、運動する無限な事物を、固定し、バラバラな有限な事物としてとらえる」ということもできるでしょう。それが形而上学とよばれるものなのです。
二九節 ── 命題のもつ制限性
ここでヘーゲルは、二八節を整理して、命題形式における述語には二つの欠陥があることを明らかにしています。
「これらの述語は、それらを一つ一つ取ってみれば、限られた内容しか持たないものであり、神や精神や自然などの表象が持っている豊かな内容に適合せず、それを汲みつくすことができない」(一四〇ページ)。
第一に述語の一つひとつは、有限な思惟規定にすぎませんから、一面的な規定にしかなりえません。したがって「豊かな内容」をもつ神、精神、自然などの無限な事物を一つの述語をもって「汲みつくすことができない」のです。
「それらはまた、一つの主語の述語であることによって、互に結合されてはいるけれども、内容からすれば別々のものであり、したがって互に無関係なものとして外から取りあげられるのである」(同)。
第二にこうした述語のもつ一面性を克服しようとして、いくつもの述語を外側から附加することによって、この一面性を克服しようとされることがあります。しかしこうした諸述語は、主語のそれ自身のうちからの規定ではなく「互に無関係なものとして外から取りあげられる」のですから、無関係な諸規定が勝手に寄せ集められただけであって、「内容からすれば別々のもの」にすぎず、諸述語相互はバラバラなものにすぎません。
「第一の欠陥を東洋人は、例えば神を規定する場合、それに多くの名前をつけることによって取りのぞこうとしたが、しかし同時にその名前は限りなく多くなければならなかった」(同)。
つまり述語のもつ第一の欠陥を克服しようとして、述語の数をふやして「限りなく多く」していったとしても、その諸述語の無関係性からして真理に到達することはできず、述語の無限進行という悪無限におちいるだけなのです。
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