『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より
第一二講 予備概念 ⑦
カント批判 ⑶
『純粋理性批判』の批判(二)
四三、四四節でカテゴリーは経験にしか適応できず、物自体を認識しえないというカントの主張を学んできました。そのカテゴリーを「無限者あるいは物自体」(一八〇ページ)に用いようとすると、「それは高踏的(超越的)」(同)となり、論理的に破綻せざるをえないとするのが四六節でした。
四七節から五五節では、形而上学がとりあげた魂、世界、神という無制約者、無限者にカテゴリーを適用すると、どのように論理が破綻するのかを具体的に検討していくことになります。いわばカントの形而上学批判のハイライトとなる箇所であると同時に、それは無限者、無制約者は認識しえないというカントの不可知論の根拠ともなる箇所となっています。
ヘーゲルはこのカントの不可知論を批判し、無限者、無制約者についても弁証法をつうじて真理を認識しうることを明らかにしていくのです。
四七節 ── 魂にカテゴリーを適用すると誤謬推理に
カントは、古い形而上学が魂についてカテゴリーを適用したのは推理しえないものを推理した誤謬推理だと批判していますので、詳しくみてみることにしましょう。
「 (イ) カントが最初に考察している無制約者は魂(三四節参照)である。 ── カントの言っているところによれば、私が私の意識のうちに見出す私というものは常に 規定する主体であり、 単一なもの、すなわち抽象的に単純なものであり、 私が意識するあらゆる多様なもののうちにあって常に同一なものであり、 私の外にあるすべての事物から、思惟するものとしての私を区別するものである」(一八一ページ)。
カントは私の魂(精神)という無制約者を経験的に考察すると、規定する主体、単一なもの、同一なもの、思惟する私、の四つとしてとらえることができるといっています。
「古い形而上学は、右に述べたような経験的諸規定のかわりに、それらに対応するカテゴリーすなわち思惟規定をおくものであって、このことによって 魂は実体である、 それは単純な実体である、 それはその存在のさまざまの時期を通じて数的に同一である、 それは空間的なものと関係している、という四つの命題が生じる」(同)。
古い形而上学は、こうした魂の四つの「経験的諸規定」に対し、対応する四つの諸カテゴリーを見つけ出し、諸カテゴリーに置きかえることによって魂を規定しようとします。
「カントは、それが二種の規定、すなわち経験的規定とカテゴリーとを混同しているという欠陥(カントはこれをパラロギスムスと呼んでいる)を指摘し、経験的規定からカテゴリーを推論すること、一般に前者のかわりに後者をおくのは不当であると言っている。この批判は明かに、すでに三九節に述べたヒュームの注意 ── 一般に思惟諸規定(普遍性と必然性)は知覚のうちには見出されず、経験的なものは、内容から言っても形式から言っても、思惟諸規定とは異ったものであるという注意と全く同じものである」(一八一~一八二ページ)。
四〇節でみたように、カントは経験には二つの要素があり、そのうち感性的素材は経験そのものから生じているのに対し、普遍性、必然性を示すカテゴリーは、思惟の自発性に属するものと考えました。したがってこの二つの要素は区別しなければならないのに、形而上学は「経験的規定とカテゴリーとを混同」し、「経験的規定からカテゴリーを推論」する間違いをおかしていると批判しているのです。客観に属するものと主観に属するものとは次元を異にするのであって、両者を推理によって結合することはできないのに、それをおこなうのは誤謬推理(パラロギスムス)だというのです。
推理とは存在する「或るものから、同じ仕方で存在する他のもの」(一九一ページ)への移行であり、経験的規定と思惟規定とは同じ仕方で存在するものではないから、両者を推理の関係でとらえるのは誤謬推理だというわけです。このカントの批判は、経験的なものからは「普遍的な規定や法則」(一六四ページ)を推理し、引き出すことはできないとして、経験的規定と思惟諸規定とを「異ったもの」ととらえているヒュームの不可知論と「全く同じもの」です。
つまりカントは、魂という無制約者をカテゴリーによってとらえようとすると、必然的に推理しえないものを推理するという誤謬推理におちいらざるをえないとして魂の認識は不可能だという結論を導き出したのです。
結局カントが形而上学的「魂」の定義を批判する「唯一の論拠となっているのは、われわれが意識によって魂について経験する諸規定と思惟がその際に作り出す諸規定とは全く同一ではない」(一八二ページ)というものにすぎません。
しかし思惟の本性は、「最初知覚に属している諸規定を思惟の諸規定に変えること」(同)にあり、この「変える」ことからすれば、経験的諸規定と思惟の諸規定が「全く同一ではない」のは当然のことなのです。問題は、思惟諸規定に「変える」ことにあるのではなく、変化から生まれた「思想がそれ自身真理を含んで」(同)いるかどうかにあるといわなければなりません。
カントが、魂とは「霊物」(同)「単純性、複合性、物質性」(同)であるとする古い形而上学の規定を批判したのは「確かにカントの批判の一つのいい成果」(同)なのですが、その批判の正しさは、誤謬推理にではなくて、「こうした思想がそれ自身真理を含んでいない」(同)ことに求められるべきなのです。
それなのにカントにおいては、「思想は、それが知覚されたものに、および知覚の範囲に限られた意識にぴったり一致」(一八三ページ)していないことのみが問題とされ、果たしてその思想が「それ自身真理を含んで」いるかどうかという「思想の内容そのものは問題にしていない」(一八三ページ)のです。
四七節補遺 ── 「誤謬推理」批判
「パラロギスムスとは一般に誤謬推理を意味するが、ここではその誤謬は、二つの前提のうちで同じ言葉が異った意味に用いられるところにある」(同)。
魂は、カントからすると「抽象的に単純なもの」(一八一ページ)としてとらえられるのに対し、古い形而上学では「単純な実体」(同)としてとらえられます。どちらも魂を「単純なもの」としてとらえるのですが、カントは、彼が経験的なものを知覚したままにとらえているのに対し、古い形而上学は知覚された経験的規定を間違った推理により、「実体」というカテゴリーに変えてしまっていると批判しています。
これに対して、ヘーゲルは次のようにカントを批判しています。
「単純性とか不変性というような述語は、魂には適用できないということは全く正しいが、しかしそれはカントが挙げたような理由、すなわち理性が自分に定められた限界を越えるから、というような理由によるのではなく、このような抽象的な悟性規定は魂にとってはあまりに低い規定であって、魂は単に単純なもの、不変なもの、等々である以外に、なお全く別なものであるからである」(一八三ページ)。
カントによれば、カテゴリーは「経験にしか適用できない」と考えていますから、経験を越えるものである魂に「単純性とか普遍性」というカテゴリーを適用することは、「理性が自分に定められた限界を越えるから」正しくないということになります。
なるほど「魂は単純な実体である」という命題が正しくないのはカントのいうとおりなのですが、それは理性がその限界を越えているからではなくて、「単純性」という内容は、魂の真理をとらえる規定ではないから形而上学は間違っているのです。このような「抽象的な悟性規定は魂にとってはあまりに低い規定」であり、生命ある無限な魂の真理を正しくとらえきれていないのです。
「例えば魂は確かに単純な自己同一性ではあるが、同時に、それは活動的なものとして、自己のうちで自己を区別するものであるに反して、単に単純なものは、まさにそうしたものとして、同時に生命のないものである」(同)。
魂は生命ある「活動的なもの」として、「単純な自己同一性」であると同時に「自己のうちで自己を区別する」同一と区別の統一です。しかし「魂は単純な実体である」とすることは、魂を自己のうちに区別を含まない同一性としてとらえ「生命のないもの」に変えてしまうことになります。
「カントが古い形而上学の反駁によって、魂および精神から上に述べたような述語をしりぞけたのは、一つの大きな成果にはちがいないが、しかしカントの理由は全く誤っているのである」(一八三~一八四ページ)。
単純性、不変性という述語が魂にふさわしくないのは、理性の限界を越えるからではなく、無限に活動する魂の真理をとらえていないからなのです。
四八節 ── 世界にカテゴリーを適用すると矛盾におちいる
「 (ロ) 第二の対象(三五節)である世界という無制約者を認識しようと試みる場合には、理性はアンチノミーにおちいる。すなわち、理性は、同じ対象について二つの反対の命題を主張するようになり、しかもこれらの命題の各々が同じ必然性をもって主張されなければならなくなる」(一八四ページ)。
魂に続いて、「世界」という無制約者をカテゴリーによって認識しようとすると、相反する二つの命題のいずれもが「同じ必然性をもって主張され」るというアンチノミー(矛盾)におちいらざるをえなくなるとして、カントは、その認識の可能性を否定します。
「ここからカントが導き出す結論は、その諸規定がこうした矛盾におちいるような世界の内容は自体的なものではありえず、現象にすぎないということである。すなわち、矛盾は対象そのもののうちにあるのではなくて、認識する理性のうちにあるにすぎない、というのがカントの解決である。ここには、矛盾をもたらすものは、内容そのもの、すなわちカテゴリー自身であるということが語られている」(同)。
すなわち、経験のみに適用しうるカテゴリーによって無制約者を認識しようとすると認識は矛盾におちいるのであり、矛盾は「認識する理性」の限界を示すものだというのです。
「悟性の諸規定によって理性的なもののうちに措定される矛盾が本質的であり必然的であるという思想は、近代の哲学の最も重要な、最も根本的な進歩の一つとみられなければならない」(同)。
カントが「世界」という無制約者に限定したものではあっても、矛盾が定立されるのは「本質的であり必然的であるという思想」を打ち出した点を、ヘーゲルは高く評価しています。この矛盾という思想を土台にして、ヘーゲル弁証法という「近代の哲学の最も重要な、最も根本的な進歩の一つ」が生まれてきたからです。
「しかしこの見地がどんなに深いにせよ、その解決はきわめてつまらないものである。それは世界の事物を甘やかすものにすぎない。世界の本質は矛盾というような欠点を持っているものであってはならず、矛盾はただ思惟する理性、精神の本質に属するにすぎない、というのがその解決なのである」(同)。
カントの功績は、「精神の本質」は矛盾にあることを指摘したにとどまります。問題は矛盾が本質的であることを指摘するにとどまらず、そこから何を引き出すかという解決が重要であったにもかかわらず、カントは世界に矛盾があってはならないとの立場から、理性は無制約者を認識しようとすると矛盾におちいるという消極的結論を引き出すにとどまり、「世界の事物を甘やか」してしまったのです。
「現象する世界が、すなわち主観的な精神、感性と悟性とに対してあるような世界が、それを観察する精神に矛盾を示すということには、おそらく誰も異論をとなえるものはないであろう。しかしわれわれが世界の本質と精神の本質とを比較してみるとき、われわれは、自己のうちに矛盾を持っているのは世界ではなくて思惟する存在、理性であるというようなへりくだった主張をし、またその口真似をする人々のあまりの素朴さをあやしまざるをえない」(一八四~一八五ページ)。
「現象する世界」という具体的なものは、不断に運動、変化、発展するものとして矛盾をもっており、したがって「それを観察する精神」にも矛盾をもたらすことになります。ヘーゲルは、観察する精神に矛盾が生じることについては「誰も異論をとなえるものはないであろう」が、それを「自己のうちに矛盾を持っているのは世界ではなくて思惟する存在、理性であるというようなへりくだった主張」をするのは、カントしかいないと批判しているのです。「観察する精神」は客観世界を反映するのですから、精神のうちの矛盾は、客観世界のうちの矛盾だと考えるのが当然のことだからです。
「理性はカテゴリーの適用によってのみ矛盾におちいるにすぎないというような言いのがれは何の役にも立たない。というのは、この適用は必然的であって、理性は認識のためにカテゴリー以外の規定を持たない、と同時に主張されているからである」(一八五ページ)。
「理性は認識のためにカテゴリー以外の規定を持たない」というのはその通りです。というのも「認識する」とは「規定された思惟」(同)をもつことであり、そのためには思惟規定としてのカテゴリーを用いるしかないからです。「無規定の思惟」(同)とは、「何も思惟しない」(同)ことにほかなりません。認識のためにはカテゴリーを使用するしかないのであり、問題はカテゴリーの適用によっては有限なものしか認識しえないのか、それとも無限なものをも認識しうるのかにあるのです。
カントは、以下に述べるような世界に関する四つのアンチノミーを指摘しました。
⑴ 世界は時間的にはじまりをもつか、また空間的に限界をもつか、否か、⑵ 物質はそれを分割してゆくとそれ以上分割しえない単純な部分にゆきつくか、否か、⑶ 世界におけるすべての現象は自然因果律によって必然的なものとして規定されているか、それとも自由という原因性があるか、⑷ 世界の原因として絶対に必然的な存在があるか、否か(一八七ページ参照)。
当時まだ量子論による宇宙の誕生・生成・発展の秘密が解明されていない時代に、哲学はすでにこれらの問題への挑戦を行いました。カントはこの四つのアンチノミーについて、定立、反定立のいずれの命題も証明しうるとして、だから無制約者としての世界それ自体(世界の「物自体」)は認識しえないとの結論を導き出しました。
これに対するヘーゲルの批判をみましょう。
「更に注意すべきことは、カントがアンチノミーのより深い考察を欠いていたことが、四つのアンチノミーしか挙げないというようなことをまずもたらしたということである」(一八五ページ)。
カントはこの四つのアンチノミーを「カテゴリーの表」(同)の量、質、関係、様相の四つから導き出しており、「対象をすでにできあがっている図式のもとにおくというやり方」(同)、つまり図式主義に立っています。それもさることながら、この四つのアンチノミーには次のようなより根本的な問題が含まれています。
「アンチノミーは、宇宙論からとられた四つの特殊な対象のうちに見出されるだけでなく、むしろあらゆる種類のあらゆる対象のうちに、あらゆる表象、概念、および理念のうちに見出されるということである。このことを知り、そして対象をこうした特性において認識することは、哲学的考察の本質に属するものであって、この特性こそ、後に論理的なものの弁証法的モメントとして述べられるものをなしているのである」(一八六ページ)。
ヘーゲルは、「一般に、世界を動かすものは矛盾である」( 三三ページ)といっています。カントが世界の本質にとって矛盾はあってはならないものという消極的役割しか認めなかったのに対し、ヘーゲルは世界のすべてに矛盾を認めると同時に、矛盾によってはじめて無限なものを認識しうるとして矛盾に積極的意義を認め、弁証法を確立するという偉大な功績を残したのです。自然にしろ精神にしろ、世界のすべての事物は運動しており、この運動をもたらすものが矛盾です。したがって矛盾は自然にも精神にも、世界のすべての事物に存在するのであって、四つのアンチノミーに限定する理由は存在しません。
この矛盾による運動をとらえるのが弁証法的論理学であり、したがって対象を矛盾に「おいて認識することは、哲学的考察の本質に属するもの」です。この「論理的なものの弁証法的モメント」は七九節以下の「論理学のより立入った概念」で詳しく論じられることになります。
四八節補遺 ── アンチノミーの積極的意義
「古い形而上学の立場では、認識が矛盾におちいるのは偶然の過ちにすぎず、それは推理や論証における主観的誤謬にもとづくと考えられていた。カントによれば、これに反して、無限なものを認識しようとすれば矛盾(アンチノミー)におちいるということは、思惟そのものの本性なのである」(一八六ページ)。
古い形而上学は、事物を「あれかこれか」という二者択一のドグマティズムとしてとらえようとするものであり、その根本原理は「AはAであって、非Aではない」という同一律にありました。したがって「AはAであると同時に非Aである」という矛盾は、「主観的誤謬」にすぎないと考えられていました。
これに対してカントが矛盾を、事物の真理を認識しようとすればおちいらざるをえない「思惟そのものの本性」としてとらえたことは、彼の偉大な功績に属するものでした。
「アンチノミーの指摘は、それが悟性的形而上学の硬直したドグマティズム(一面観)を除き、思惟の弁証法的運動に注意を向けさせた限りでは、哲学的認識の非常に重要な促進であったと言わなければならないけれども、しかしそれと同時に注意すべきことは、カントが物の自体は認識できないという単に消極的な結論に立ちどまって、アンチノミーの真実で積極的な意味へまではつき進まなかったということである」(同)。
カントは、思惟の矛盾を取りあげ、「思惟の弁証法的運動に注意を向けさせた限りでは」、古い形而上学を批判する積極的意義をもたらしましたが、そこから導き出された結論は、世界の諸現象はカテゴリーによって認識しうるが、世界の「物の自体」を認識しようとすれば矛盾におちいることによって「認識できない」という、「単に消極的な結論に立ちどまって」しまったのです。
以下の文章は弁証法の本質を理解するうえで決定的に重要なものです。
「アンチノミーの真実で積極的な意味は、あらゆる現実的なものは対立した規定を自己のうちに含んでおり、したがって、或る対象を認識、もっとはっきり言えば、概念的に把握するとは、対象を対立した規定の具体的統一として意識することを意味する」(一八六~一八七ページ)。
対象を「概念的に把握する」とは、「真の姿として把握する」、つまり対象の真理を認識するという意味です。アンチノミーの積極的意義は、対象となる世界のすべての事物について真理を認識しようと思えば対立物の統一としてとらえるほかはないことを意味したところにあったのです。
「古い形而上学は、先にも述べたように、対象を形而上学的に認識しようとする場合、対立的な規定を含まない抽象的な悟性規定の適用によってこれを行おうとしたのであるが、カントはこれに反して、このような仕方によって生じる主張には常に、それと反対の内容を持つ他の主張が、同等の権利と必然性とをもって、対置されうるということを証明しようとしたのである」(一八七ページ)。
古い形而上学は、二八節でみたように、対象を「自体的に(対立を自覚しないままに ── 高村)」(一三六ページ)認識しようとしました。つまり「対立的な規定を含まない抽象的な悟性規定の適用によって」認識しようとしたのです。カントはこれに反して、対立する二つの規定が「同等の権利と必然性とをもって、対置されうる」ことを証明しようとしたのです。
それでは、ヘーゲルのアンチノミー批判を具体的に検討してみましょう。
「かれは、アンチノミーのうちに含まれている対立した二つの規定を定立および反定立として対置し、そして両者を証明しようとする」(一八七ページ)。
しかし、そこで展開されるカントの証明は、「偽の証明」(一八八ページ)にすぎません。
「なぜなら、それは常に証明すべきものを、出発点である前提のうちに含んでいるのであって、それが本当の証明のようにみえるのは、長たらしい、間接論証的な手続によるにすぎないからである」(同)。
カントの功績は、定立、反定立のいずれの命題も成り立ちうることを「証明」したところにあるのではなく、アンチノミーを提示したことにあるのです。
「にもかかわらず、こうしたアンチノミーを提示したということは、あくまで批判哲学の非常に重要な、称讃すべき成果である。というのは、それは(主観的で直接的にではあるけれども)、悟性があくまで分離している二つの規定が、事実上統一のうちにあることを言いあらわしているからである」(同)。
古い形而上学は、対立している二つの規定の一方のみを真理としてとらえました。これに対し、カントは分離・対立している二つの規定は、「事実上統一」のうちにあって初めて真理であり、対立する一方の規定はいずれもそれだけでは真理ではないことをそれとなく言外に示したのです。
「例えば、上述の第一の宇宙論的アンチノミーは、空間と時間とは単に連続的とのみみるべきではなく、また非連続的ともみられねばならないという思想を含んでいるが、これに反して古い形而上学は単なる連続性に立ちどまって、世界は時間的および空間的に無限であると考えていたのである」(同)。
今日量子論により、私たちの宇宙は有と無の統一という「ゆらぎの宇宙」から発生し、ビッグバンから百三十七億年の歴史をもち、今もなお拡大し続けているという、始まりをもつ連続的な時間と空間の宇宙であることが明らかになっています。それと同時に、宇宙のゆらぎは私たちの宇宙以外に無数の宇宙が生まれては消えていくことをも証明しており、私たちの宇宙と他の宇宙とは、時間的にも空間的にも非連続となっているのです(拙著『エンゲルス「反デューリング論」に学ぶ』一粒の麦社、参照)。
現代の科学は、時間も空間も無限であると同時に有限であり、連続的であると同時に非連続的であるという対立物の統一としてとらえるほかはないことをますます明らかにしています。
「同じことが、その他の上述のアンチノミー、例えば自由と必然のアンチノミーについても言える。このアンチノミーを立入って考えてみれば、悟性が自由および必然のもとに理解しているものは、実は真の自由および真の必然の観念的なモメントにすぎず、両者が分離される場合、それらは真理を持たないことがわかる」(同)。
ヘーゲルは、自由と必然とを統一においてとらえることにより、画期的な自由論を確立し、科学的社会主義の自由論に大きな影響を及ぼしました。詳しくは後述することにして、ここでは、自由と必然とを分離・対立したままに放置するとき、そのいずれも「真理を持たない」という結論のみを確認しておいてください。
四九節 ── 神にカテゴリーを適用すると現実性なき理想のうちをさまよう
「 (ハ) 第三の理性的対象は神である(三六節)。われわれは神を認識、すなわち思惟によって規定しようとする。ところが悟性にとっては、規定はすべて純粋な同一性にくらべると制限であり、否定にすぎないから、あらゆる実在は制限のないもの、すなわち無規定なものと考えられなければならない。そして神は、あらゆる実在の総括、あるいは最も実在的な存在として、単純な抽象体となり、その規定として残るものは、同様に全く抽象的な規定性、存在だけとなる」(一八九ページ)。
第三の無制約者である神について、カントは、まず本節で形而上学のとらえる神とは何かを明らかにし、そのうえで形而上学批判を展開しています。
神を論じることに抵抗もあるでしょうが、ここもやはり弁証法的な論理の展開そのものを学ぶ見地からみていくことにしましょう。
形而上学にとって、規定とは制限ですから、無制約者としての神は「無規定なもの」としてとらえられます。それと同時に、神は「あらゆる実在の総括、あるいは最も実在的な存在」とされます。したがって両者を総合すれば、「神とは無規定な存在である」ということになります。
「抽象的な同一性 ── カントはそれをここでも概念と呼んでいるが ── と存在とが、理性がその合一を求める二つのモメントであり、この合一が理性の理想(Ideal)である」(同)。
この形而上学的な神の概念に対して、カントの「理性」は、果たして、神は存在するという命題は正しいのかという問題を提起します。カントは「抽象的な」自己同一性としての「神」(神の「概念」)と、「存在」という「二つのモメント」を合一することを「理性の理想」だといっており、果たして「理性の理想」は成り立ちうるのか、果たして神を「概念と実在との真の一致」(一二四ページ)としてとらえうるのかを問題として提起します。
五〇節と五一節でその検討がおこなわれ、カントの結論は神にカテゴリーを適用することによって「理性の理想」を証明することはできず、空虚な理想のうちをさまようのみであって、理想に現実性を与えることはできないということになるのです。
五〇節 ── 存在から神を証明することはできない
「この合一には二つの道あるいは形式が可能である。すなわち、存在からはじめて思惟の抽象物へ移ってゆくこともできれば、逆に抽象物から存在へ移ってゆくこともできる」(一八九ページ)。
神と存在との合一という場合、存在から神へ移行して合一となる道と、神から存在へ移行して合一となる道の二つの道が考えられます。カントはそのいずれをも否定し、「理性の理想」を否定するのです。
「まず存在からはじめる道について言えば、存在は、直接的なものとしては、限りなく多様な規定を持った存在、充実した世界としてあらわれる。……こうした豊かな存在を思惟するとは、それから個別性および偶然性の形式をはぎとり、それを、最初の存在とはちがった、普遍的な目的にしたがって自己を規定しかつ働くところの、普遍的で絶対に必然な存在、言いかえれば神として把握することを意味する」(一八九~一九〇ページ)。
まず第一の道は、存在から神へ行って合一となる道です。七節で学んだように、思惟は、その働きによって経験的個別性のなかの無数の偶然事のうちにある、普遍的、必然的なものを認識するのであり、この作用をつき進めていくと、「普遍的で絶対に必然な存在」としての神に到達することになります。
こうした思惟による存在から神への移行に対するカントの批判は、「知覚から普遍と必然を取出す」(一九〇ページ)のは、「推理であり、移行」(同)であるが、「この普遍性は世界にかんする経験的な表象によっては基礎づけられていない」(同)から、「誤謬推理」(同)であり、「許しがたいこととみる」(同)のです。これは四七節で論じたのと全く同じ論理的展開です。
ヘーゲルはこのカントの見解を次のように批判しています。
「思惟が感性的なものを越えて高まるということ、有限なものを越えて無限なものへまで進むということ、感性的なものの系列を断ち切って超感性的なものへまで飛躍するということ、これらはすべて思惟そのものであり、このような移行がすなわち思惟にほかならないのである。こうした移行を行ってはならないと言うのは、思惟してはならないと言うのと同じである」(一九〇~一九一ページ)。
理性に対して無限の信頼をおくヘーゲルは、感性的なものを越え、超感性的なものへと「飛躍」し、自由に羽ばたくところに、思惟の思惟たるゆえんがあると言っているのです。
このような思惟の飛躍、上昇に関しては、ヘーゲルは形式、内容の両面での注意が必要だとしています。
まず第一に形式についていうと、カントは思惟の上昇における「出発点との関係」を、「推理の形」(一九一ページ)でとらえ、推理ではあっても誤謬推理だと批判しています。しかしそもそも推理という形式は、「存在しかつ何時までももとのままでいる或るものから、同じ仕方で存在する他のものへ」(同)の移行を論じる「肯定的な関係」(同)を問題にするのみです。
これに対して「経験的な世界を思惟する」(同)ことは、「肯定的な関係」ではなく「本質的に、その経験的形式を改めて、それを一つの普遍的なものに変える」(同)という否定的関係としてとらえるべきものです。一二節で、思惟は、経験に媒介されつつ、経験を揚棄する「直接性と媒介性の統一」であることを学びました。同様に、存在から神への移行は、直接性と媒介性の統一としておこなわれるのであり、神の存在の直接性を論じるかぎりでは、存在を否定するという否定的モメントをもっているのです。
「神の存在の形而上学的証明が、世界から神への精神の上昇の不完全な解釈であり記述である理由は、それがこの上昇のうちに含まれている否定のモメントを明白に述べていないからである」(一九一~一九二ページ)。
形而上学は、現実世界との対比において神をとらえようとし、規定された多様性に対し「無規定な本質」(一五一ページ)であるとか、一時的・偶然的な存在に対し「純粋な実在性」(同)とかの規定を神に与えようとしました。そこでは、現実世界と神とを、存在している或るものと「同じ仕方で存在する他のもの」との関係であるかのようにとらえていたところから、カントによって、それは推理であり、しかも誤謬推理であるとの批判を受けることになりました。
そこでヘーゲルは、世界から神への「上昇のうちに含まれている否定のモメントを明白に述べていない」ために、形而上学はカントの批判を受けることになったといっているのです。
世界から神への上昇は「媒介そのもののうちで媒介は揚棄されている」(一九二ページ)のであり、媒介の揚棄とは、媒介するものを否定することにほかなりません。
ヤコービはカントと同様に形而上学における世界と神との「肯定的にのみ理解された関係」(同)に注目し、「そのようなことをすれば無制約者にたいして制約(世界)が見出され、無限なもの(神)は依存的で派生的なものと考えられるようになるという正しい非難を加えて」(同)います。
しかしヤコービは形而上学的神の概念に対しては正しい批判をしながらも、ここでもカントと同様「媒介のうちで媒介それ自身を揚棄するという本質的思惟の本性」(同)を理解しえなかったのです。
「人々がいかに否定的モメントを看過するかを明かにするには、例えばスピノザ主義が汎神論であり無神論であるという非難を例として挙げることができる」(一九三ページ)。
スピノザ(一六三二~一六七七)は、神を唯一実体とし、「思惟と延長(物質界)」(同)を神の属性、現実世界を神の様態ととらえました。
そこから「スピノザの定義は神を自然および有限な世界と混同し、世界を神とする」(同)汎神論であるとの批判が生じてきました。スピノザの活躍した一七世紀においては、まだ無神論はもとより汎神論ですら異端とされ、世間の厳しい批判にさらされたのです。
しかしスピノザは「神のみが存在すると主張した」のですから「少くとも無神論とは言え」(同)ません。それだけではなく、彼は有限な世界を唯一実体としての神の「否定」としてとらえ、「むしろ世界は本当の実在を持たぬ現象として規定」(同)されているというのですから、無神論というよりは「無世界論」(同)というべきものなのです。
スピノザを汎神論、無神論であるとする批判は、スピノザが世界を神の否定としてとらえたにもかかわらず、この「否定的モメントを看過」(同)したうえでの批判にほかなりません。このスピノザ批判は、「かれらにとっては、世界が否定されているということよりも、神が否定されているということの方が、ずっとわかりやすい」(一九四ページ)ところからきた誤解にすぎないのです。
第二に内容について注意すべきことは、神を「世界の実体とか、世界の必然的本質とか、目的にしたがって指導し排列する原因というような諸規定」(同)としてとらえることがあります。
ヘーゲルは、このような諸規定にも大きな価値があり、「それらは神の理念における必然的な諸モメントである」(同)ことは評価しながらも、このような方法によって神をとらえるのは問題があるといっています。
「しかしこのような方法によって真の規定を具えた内容、神の真の理念を思惟の前へもたらそうと思えば、その出発点はより低い内容から取られてはならない」(同)。
いやしくも「神の真の理念」を論じようというのであれば、その出発点は、神の理念より低いところからではなく、神を論じるにふさわしいところからとられなくてはなりません。偶然か必然かというのは「きわめて抽象的な」(同)低い規定にすぎず、内的目的性をもつ「生命ある自然」(一九五ページ)ですら「神の理念の真の規定」(同)には程遠いのです。
神に「最も近い出発点を取ろうとするなら」(同)、せいぜい精神をあげることぐらいでしょう。なぜなら「精神の本性」(同)のみが、絶対者である神を思惟するに「最もふさわしい、最も真実の出発点」(同)だからです。
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