第一三講 予備概念 ⑧
カント批判 ⑷
一、『純粋理性批判』の批判(三)
前講に続いて神と存在の合一の問題を、今度は神から存在への移行の見地から考察します。
五一節 ── 神の概念から神の存在を導き出せるか
「理性の理想(Ideal)を実現すべき合一のもう一つの道は、思惟の抽象体から出発して、ただ存在というような規定しか残らないような規定へ進んでいく方法、すなわち神の存在の存在論的証明である」(一九五ページ)。
古い形而上学による「神の存在の存在論的証明」というのは、スコラ哲学の父アンセルムスの試みた証明であり、「神はもっとも完全なものである、完全なものは存在という属性をもつ、よって神は存在しなければならない」というものです。
「第一の道においては、出発点も到達点もともに存在であって、対立は個別的なものと普遍的なものとの区別にのみかんするものにすぎなかったのであるが、第二の道においてあらわれる対立は思惟と存在との対立である」(同)。
第一の道である存在から神への移行は、「限りなく多様な規定を持った存在」(一八九ページ)から「普遍的で絶対に必然な存在」(一九〇ページ)への移行の問題であり、「出発点も到達点もともに存在」でした。これに対して神の「概念」から存在への移行の問題は、思惟から存在への移行、「思惟と存在との対立」の問題なのです。
「この第二の道にたいして、カントが悟性の立場から加える反駁は、第一の道に対する反駁と根本においては同じものであって、第一の道にたいする反駁は、経験的事実のうちには普遍的なものは存在しないということにあったが、今度はそれを逆にして、普遍的なもののうちには限定されたものは含まれていないと言うのである。そしてここで言われているところの、限定されたものとは、存在にほかならない。言いかえれば、それは、存在を概念から分析によって導き出すことはできないということである」(一九五ページ)。
第二の道へのカントの反論は、第一の道への反論を逆にして、「普遍的なもの」である神の概念のうちには、「限定されたもの」としての存在は含まれない、というものです。カントが「存在を概念から」導き出すことはできない例として持ち出しているのが、有名な「百ターレル」の例です。
すなわち「百ターレルは単に可能的な百ターレルであろうと現実の百ターレルであろうと、概念から言えば同じく百ターレルであるが、しかしこのことは私の財産状態にたいしては根本的な相違を持っている」(一九六ページ)として、概念と存在を区別することで概念から存在を導き出すことの誤りを証明してみせたのです。
これに対するヘーゲルの批判は、ここでは「思惟と存在とは異ったものだ」(同)という「わかりきった」(同)ことを問題にしているのではなく、「神の概念」という全く「別種の対象」(同)を問題にしているのだということから始まります。
「その現存在がその概念と異っているということが、しかもただこのことのみが、実際あらゆる有限なものの本質なのである。これに反して神は明かに『存在するものとしてのみ考えられるもの』でなければならず、神においては概念が存在をそのうちに含んでいる。概念と存在とのこうした統一こそ、神の概念を構成するのである」(同)。
二四節補遺二で、真理とは概念と存在との真の一致であり、有限な事物は概念と存在とが不一致のため真実でないものを含み亡びることを学びました(一二五ページ)。
神は絶対的真理(絶対者)ですから、「概念と存在とのこうした統一こそ、神の概念を構成する」のであり、「神のみが概念と存在との真の一致」(一二四ページ)なのです。
その限りでは、形而上学における神の存在証明は、証明方法には問題があるとしても、その結論は正しいのです。こういう神の概念と百ターレルの概念とを同一に論じることはできません。そもそも「百ターレルというようなものを概念と呼ぶ」(一九六ページ)こと自体が「言葉のでたらめ」(同)であって、百ターレルについてその「真の姿・真にあるべき姿」を論じること自体無思想というべきであり、ましてや百ターレルの概念をもって神の概念を論じることはできないのです。
このように、神の概念は「存在をそのうちに含んでいる」のですが、それは「概念そのものの本性」(一九七ページ)からしてそうなのです。
「概念が、全く抽象的な意味においてもすでに、そのうちに存在を含んでいるということはきわめて明かである。なぜなら、概念は、その他どう規定されるにせよ、少くとも媒介の揚棄によって生じるところの、したがってそれ自身直接的な、自己関係であるが、存在とはまさにこうした自己関係だからである」(同)。
「自己関係」とは、他のものに媒介され、依存することなく、他のものとの「媒介の揚棄」により、自分だけで自立して「存在」する関係を意味しています。事物の真の姿・真にあるべき姿としての概念は、事物そのものを揚棄した「それ自身直接的な、自己関係」であり自立して「存在」しているものですから、「そのうちに存在を含んでいるということはきわめて明か」なのです。概念とは自立した自己関係であり、「存在とはまさにこうした自己関係だから」、概念は存在を含んでいるのです。
「精神の最も内奥のものである概念が、存在というような貧しい規定、否、最も貧しい、最も抽象的な規定すらそのうちに含まないほど貧しいとしたら、それは全く不思議と言わなければなるまい(このことは自我についても言えるし、まして神のような具体的な統体についてはなおさら言えることである)」(同)。
概念は、事物の真の姿・真にあるべき姿として、「精神のもっとも内奥のもの」、つまり精神のもっとも奥深いところでとらえられる事物の真理であり、それが「存在」すらもたないとしたら「全く不思議と言わなければ」なりません。例えば自我の概念とは、自己意識をもつ主体ということになるでしょうが、それは「存在」をもつことによって主体となるのですから、存在をそのうちに含んでいるのは当然のことなのです。ましてや神のような具体的普遍は特殊としての存在をうちに含んでいるのです。
「とにかく、思想と存在とは別なものだというようなつまらぬ批判は、人間の精神が神の思想から出発して神が存在するという確信に到達する道を妨げることはできるかもしれないが、それを奪い去ることはできないのである」(同)。
思想と存在とが別なものだという俗論で、神という概念を論じようとすること自体が間違いであり、こんな議論を持ち出しても、神の存在への「確信」を妨げることはできても、神の存在を否定する論拠にはなりえないのです。
後に述べる「客観にたいする思想の第三の態度」としての直接知は、ヘーゲルとは異なる論拠ではあっても、「神の思惟とその存在との不可分を回復した」(同)のです。
五二節 ── カントの「理性」への総括的批判
「かくしてカントによれば、最も高い段階にある思惟にとっては、規定性はあくまで外的なものであって、カントが絶えず理性と呼んでいるものは、その実全く抽象的な思惟にすぎない。したがって理性は ── これが批判哲学の結論であるが ── 諸経験を単純化し組織するための形式的統一を与えるにすぎない」(一九八ページ)。
カントは、はじめて悟性と理性とを区別し、「悟性の対象は有限で制約されたものであり、理性のそれは無限で制約されぬもの」(一七八ページ)としました。
それでは、その理性によって、古い形而上学が取りあげた魂、世界、神という無制約的なものを認識しうるのかといえば、誤謬推理であるとか、アンチノミーであるとか、「理性の理想」(一八九ページ)は成立しないとかの理由によって、認識しえないものとして放置してしまうのです。したがってカントの理性にとって無制約的なものを「規定」することは、自らなしえない「外的なもの」にとどまり、結局理性とは、「その実全く抽象的な」認識能力にすぎないことになるのです。理性のしたことといえば「諸経験を単純化し組織するための形式的統一を与える」、つまり悟性的概念としてのカテゴリーを与えることにとどまるのです。
「理性は真理のカノンであってオルガノンではないのであり、無限なものにかんする学説をもたらすことはできないで、認識の批判を与えうるにすぎない。そしてこの批判というのが結局、思惟はそれ自身無規定な統一であり、そして無規定な統一の作用にすぎない、という確言にあるのである」(一九八ページ)。
カントにとって理性とは、無限の、絶対的な真理を認識するカノン(基準)であるといいつつも、無限の真理認識のオルガノン(手段)にはなりえないのです。したがって理性は、「経験的知識が制約されたものであることを洞察する」(一七七ページ)にとどまるのであって、せいぜい悟性的「認識の批判を与えうるにすぎない」ことになります。結局のところ思惟は「自我の本源的同一性」(一七〇ページ)という多様なものを統一に還元する「無規定な統一の作用にすぎない」のであって、思惟の無限に真理に接近する認識能力を結果的に否定してしまうのです。
五二節補遺 ── カントの「理性」は空虚な悟性
「カントは理性を無制約者の能力と考えてはいるが、しかし理性が単に抽象的な同一性に還元されるとすれば、それは同時にその無制約性の断念を含んでいるのであって、そのとき理性はその実空虚な悟性にすぎない」(一九八ページ)。
カントは「理性を無制約者の能力」としながら、理性を「自我の本源的同一性」という「抽象的な同一性に還元」してしまうことによって、無制約者の真理認識を「断念」し、悟性の枠内にとどめてしまいます。したがってカントの理性は「その実空虚な悟性にすぎない」ことになるのです。
「理性が無制約的であるのは、ただそれがそれと無関係な内容によって外部から規定されず、自己自身を規定し、その内容のうちで自己自身のもとにあることによってのみである。ところがカントによれば、理性の作用は知覚が与える素材をカテゴリーの適用によって組織すること、言いかえれば、それに外面的な秩序を与えることにあるにすぎず、そして理性の原理はその際矛盾がないということにすぎない」(同)。
理性が無制約的な、無限の真理を認識しうるためには、外部に存在する何ものによっても規定されることなく「自己自身のもとに」あり、精神の自由を享受するものでなければなりません。
しかしカントは理性の作用として、「知覚が与える素材をカテゴリーの適用によって組織すること」(同)により素材に「外面的な秩序を与える」(同)だけですから、理性は外部の素材によって制限され、自分自身のもとにとどまってはいないのです。これでは無限なものの真理を認識しえないのも当然ということになるでしょうし、理性には矛盾(アンチノミー)があってはならないという消極的意義しか認められないことになります。
二、『実践理性批判』の批判
続いて『実践理性批判』の検討に入ります。
純粋理性(理論理性)が、いわばカントの認識論であったのに対し、実践理性では、人間としていかにより善く生きるかという「生き方」論、道徳論を論じています。
カントは、どんな悪事に身を委ねようと、快楽に身をまかせようと、人間には本当はそうすべきではないという道徳的意識が備わっており、それは絶対的に疑いえない「理性の事実」だと考えます。つまり理論理性では無限の真理は認識しえないとしながら、実践理性では、人間としてより善く生きる無限の真理を認識しうるとの矛盾した態度をとっています。またその実践理性は、人間が精神の自由、意志の自由をもっていることのあらわれであると考えています。
五三節 ── 実践的理性は何が行われるべきかを告げる
「 ⒝ カントは実践的理性を、自己自身を規定する、しかも普遍的な仕方で規定する意志、言いかえれば、思惟する意志と解している。それは命令的かつ客観的であるところの自由の法則、すなわち、何が行わるべきかを告げる法則を与えるものである」(一九九ページ)。
カントのいう実践的理性とは、人間がどう生きるべきかという人間としての「普遍的な仕方」で「自己自身を規定」し、この規定にしたがって行動しようとする「思惟する意志」と解されています。
それは自由な意志によって自分自身にたいして何をなすべきかを命令し、かつ自己の自由な意志にもとづいてこの命令に従うよう求める理性です。したがって実践的理性は「何が行わるべきかを告げる法則を与えるもの」です。
「思惟を客観的に規定する活動(これが実は理性である)であると考える根拠を、カントがどこに見出しているかと言えば、それは実践上の自由が経験によって証明されうるということ、言いかえれば、自己意識の現象のうちに証示されうるということである」(同)。
カントは、「こうすべきである」と思惟に命じ、思惟を客観的に規定する活動が実践理性であると考えています。では、どうして実践理性がそのように「普遍的な仕方」で思惟を規定しうるのかといえば、それは、自由な意志をもつ人間がそうした自己への命令を経験してきたという「自己意識の現象のうちに証示されうる」というのです。
「意識内のこうした経験を反証する事実としては、決定論が同じく経験を拠りどころとして持ち出しているあらゆる事実があり、特に、人々の間に権利および義務として通用しているもの、すなわち客観的たるべき自由の法則が種々様々であることから出発する懐疑的な帰納(ヒュームのそれもそうであるが)がある」(同)。
ヘーゲルは、これに対し経験はけっして一義的に「何が行わるべきか」を告げるわけではないとして、「決定論」の立場からの反論を持ち出しています。すなわち自由な意志を否定する決定論も、「経験を拠りどころ」としながらも「何が行わるべきか」は一義的には決められないのであって、道徳的な権利・義務とされているもののなかにも、例えば「髪は長くのばしてはいけない」というような到底理性が命じたとは思えないようなものも含まれていると反論しています。
とくに懐疑論者のヒュームは、「客観的たるべき自由の法則」(同)は種々様々であって、一義的に「何が行わるべきか」を告げるわけではないといっています。
五四節 ── カントの実践的理性は空虚な形式主義
「実践的思惟が自己の法則とするもの、すなわち実践的思惟が自分自身のうちで自己を規定する基準が何であるかと言えば、それはカントによればやはり、規定作用のうちに矛盾があってはならないという同じ抽象的な同一性にすぎない。したがって実践的理性も、カントが理論的理性の最後の立場と考えている形式主義を一歩も出ないものである」(同)。
カントの道徳律は「汝の意志の格率がつねに同時に一つの普遍的な立法の原理として通用しうるように行為せよ」というものです。つまり各人が行為しようとすることを、万人が行為したと考えた場合にもし矛盾が生じるのなら、その行為は道徳的に禁止される、というものです。ヘーゲルはそれをとらえて、カントは道徳的命題を「規定する基準」を「規定作用のうちに矛盾があってはならないという」抽象的な同一性に求めており、その点では実践的理性といわれるものも理論的理性がカテゴリーの適用によって矛盾があってはならないとするのと同じ「形式主義を一歩も出ない」、つまりいずれの場合も形式のみを問題とし、内容を問題にしていないと批判しているのです。
「しかしこの実践理性は、普遍的な規定である善を単に自己のうちにのみ定立するのではない。それは、善が世界のうちに存在し外的な客観性を持つこと、言いかえれば、思想が単に主観的でなく、客観的であることを要求してはじめて本当に実践的なものである」(二〇〇ページ)。
カントのいう実践的理性が「抽象的な同一性」という形式主義から抜けだすためには、「真にあるべき姿」としての善が、単に主観的な道徳的なものとしてではなく、「外的な客観性」をもたなければなりません。
言いかえると道徳的な善にとどまるのではなくて、国家・社会の善までをも問題としなければならないのです。ヘーゲルはこうした立場から、『法の哲学』では道徳から倫理(家族・市民社会・国家)へと前進していくのです。「カントは、(客観的)倫理の概念へ移行しないところの、たんに(主観的)道徳的な立場を固持するので、そのためにこの獲得を一つの空虚な形式主義におとしめ、道徳の学を義務のための義務についてのお説教におとしめることもまた、はなはだしいのである」(『法の哲学』一三五節『世界の名著㉟ヘーゲル』)。
五四節補遺 ── 実践理性に答えなし
カントは、理論理性については、無限なものは認識しえないという「消極的な能力」(二〇〇ページ)しか認めませんでしたが、実践理性については、「はっきりと積極的な無限性を認め」(二〇〇~二〇一ページ)ています。人間がどう実践すべきかについては、無限の真理に達しうることを認めているのです。
というのも、カント哲学は、「当時支配的であった」(二〇〇ページ)道徳哲学に対抗するものとして登場してきたからです。
当時の道徳哲学は、「幸福主義の学説」(同)でした。人間の使命は幸福を追求するところにあるとされ、「幸福とは、人間の特殊な傾向、願望、欲求、等々の満足と解されていたから、偶然的で特殊的なものが意志および意志の行為の原理とされていた」(同)のです。幸福追求権は、おのれの満足をおぼえようとするものであれば、趣味であろうとギャンブルであろうと何でもよいことになるので、「偶然的で特殊的な」意志になりうるという制限をもっており、カントはそれを批判したのです。
「このときカントは、自己のうちに何ら確かな拠りどころを持たず、あらゆる恣意と気まぐれに門戸を開く幸福主義に実践理性を対立させ、意志の普遍的な、すべての人に拘束力を持つ規定を要求したのである」(同)。
こうして、カントは「理論理性には拒んだ自由な自己規定を、実践理性には要求」(同)することになります。
「自由な自己規定」とは、自由な意志の働きにより自分がどう行動すべきかをみずから規定することを意味しています。
しかし、ヘーゲルはまだこれだけでは、人間が人間らしく生きるために道徳的にどう行動すべきかという実践理性の回答は与えられていない、と次のようにカントを批判しています。
「しかしそうしたことを認めただけでは、まだ実践理性の内容が何であるかという答は与えられていない。人は善を意志の内容としなければならないと言えば、この内容は一体どういうものかという問題、すなわちこの内容の規定は何であるかという問題がすぐに起ってくる。意志の単なる自己一致の原理や、義務は義務のためになされなければならないという要求では、問題は少しも片づかないのである」(二〇一ページ)。
カントは、人間としての真に生きるべき姿を普遍的な「善」としてとらえ、善を目標として生きることを義務とするところに、実践理性を求めました。
これに対してヘーゲルは、善に向かって生きるという「意志の単なる自己一致の原理」や善に対する義務は義務としてなされなければならないというだけでは、どう生きるべきかという実践理性の答えは示されていない、と批判しているのです。問題は「善」の内容が「何であるか」にあるにもかかわらず、カントはそれについては何の回答も示していないのです。
三、『判断力批判』の批判(一)
カントは、純粋理性批判において現象の世界を論じ、実践理性批判において道徳の分野という限られた部門ではあってもイデア界(真にあるべき姿)を論じました。
この全く異なる二つの世界を結ぶきずなは存在するのかというのが、『判断力批判』の問題意識であり、主題となるのは「理念論」です。
ヘーゲルは、理念において、現象の世界の「現実性」「存在」と、イデアの世界の「理想」「概念」とが統一されるという、「理想と現実の統一」「概念と存在との一致」を唱えており、この見地にたってカント批判を展開しています。
五五節 ── カントは理念の現実性への転化を認めない
「 ⒞ カントは反省的判断力に直観的悟性の原理を与えている。カントによれば、この原理のうちでは、普遍(抽象的同一性)にたいして偶然的であるところの、そして普遍から導き出すことのできない特殊が、普遍そのものによって規定されるのであり、このことは芸術および有機的自然の産物のうちにみられる」(同)。
カントのいう「反省的判断力」とは、普遍と特殊を切りはなした抽象的普遍をとらえる能力ではなくて、自らを特殊化するような普遍、つまりヘーゲルのいう具体的普遍をとらえる能力を意味しており、それを「直観的悟性の原理」とよんでいます。こういう具体的普遍の例として、カントは「芸術」および「有機的自然」、つまり生命体の二つをあげています。
「判断力批判のすぐれた点は、そのうちでカントが理念の表象、否、理念の思想をさえ、はっきり述べている点にある。直観的悟性とか、内的な合目的性というような表象は、同時にそれ自身において具体的と考えられた普遍である。したがってこれらの表象においてのみカントの哲学の思弁性がみられる」(二〇一~二〇二ページ)。
カントは反省的判断力において、芸術および生命体を具体的普遍の例としてあげているのですが、そのなかに「理念の思想」つまり理想と現実の統一の思想がはっきり示されているところにその「すぐれた点」があると、ヘーゲルは評価しています。つまり芸術には美の理念という具体的普遍が存在し、生命には生命体としての「内的な合目的性」という理念があり、それぞれの理念が特殊化して、芸術作品を生みだし、生命体の成長・発展をもたらすことになるからです。
ヘーゲルは、カントが芸術、生命体の二つに限定したものではあっても「具体的と考えられた普遍」を取りあげていることを評価し、ここにヘーゲルのいう「理念の思想」と「カントの哲学の思弁性」とを見いだしてます。理念は普遍と特殊の統一という「思弁性」、弁証法的性格をもっているのです。
「多くの人々、特にシラーは、思想と感覚的表象との具体的統一である芸術美の理念において、分離をこととする悟性が作り出す諸抽象物からの出口を見出しており、また他の人々は、自然的な生命にせよ、精神的な生命にせよ、とにかく生命の直観および意識のうちにそれを見出している」(二〇二ページ)。
「分離をこととする悟性が作り出す諸抽象物」というのは、抽象的普遍のことです。シラーは、「芸術美の理念」のなかに具体的普遍を見いだし、他の人々も生命の中にそれを見いだしているのです。
「芸術作品も、生命ある個体も、その内容において限られたものではある。しかしカントは、自然あるいは必然と自由の目的との要請された調和とか、実現されたものと考えられた世界の究極目的というような思想のうちで、内容から言っても包括的な理念を呈出している」(同)。
カントは、自覚的には、芸術と生命体の二つにしか具体的普遍を見いだしていないのですが、そのなかにおいても「自然あるいは必然と自由の目的との要請された調和」つまり理想としての目的と現実としての必然との統一を論じたり、「実現されたものと考えられた世界の究極目的」をとりあげ、理想としての世界の究極目的と、現実としてのその実現を論じたりして、理想と現実の統一という「包括的な理念」、理念一般を事実上問題にしています。
「ところがカントは、このような最高の理念を考察するにあたって、思想の怠慢とも呼ぶべきもののために、ゾレンというようなあまりにも安易な逃道を求め、究極目的が現実に実現されることをみとめず、あくまで概念と実在との分離を主張している」(同)。
本来「世界の究極目的」を論じるのであれば、それがどう現実性に必然的に転化するのかを明らかにする「理念」(具体的普遍)として論じるべきであるにもかかわらず、カントは「自由の目的」や「世界の究極目的」を単にゾレンにとどめて「あくまで概念と実在との分離を主張」するという「思想の怠慢」におちいっているのです。
ここにきて、「哲学はただ理念をのみ取扱うものであるが、しかもこの理念は、単にゾレンにとどまって現実的ではないほど無力なものではない」(七一ページ)との指摘が、カントへの批判であったことをはっきりと知ることができます。「概念と実在」との一致こそ、理念であるにもかかわらず、カントは両者の「分離を主張している」のです。
「しかし生命ある有機体や、芸術美が現に存在しているということは、感覚や直観にたいしてさえ、理想(Ideal)〔理念と実在との統一〕の現実性を示している。だからここで取扱われているような対象にかんするカントの考察は、人々を具体的な理念の把握および思索に導き入れるに特に適しているものであろう」(二〇二ページ)。
生命体、芸術美の存在は、具体的普遍としての理念が現実的カテゴリーであることを示しており、人々が、これらの問題に限定されることなく、一般的に理念を考察する導きの糸になっているのです。
五六節 ── カントは普遍と特殊の統一が「真理そのもの」であることを認めない
「ここでは、悟性の普遍と直観の特殊との関係が、理論的理性および実践的理性にかんする説の根柢におかれている両者の関係とは異って考えられている。しかしカントはこの新しい関係こそ本当の関係、否、真理そのものであるということを洞察してはいない」(二〇二~二〇三ページ)。
カントは、『純粋理性批判』では、普遍としての「物自体」と特殊としての現象とを切りはなしてとらえ、『実践理性批判』においては、普遍としての善と特殊としての各人の行為との間に矛盾があってはならない、というにとどまりました。
そして『判断力批判』では、普遍と特殊の統一としての具体的普遍を論じている点において理論的理性、実践的理性とは異なり、一歩前進しました。しかしカントは、それこそが「概念と存在との一致」という「真理そのもの」であるという最も重要なことを洞察しえなかったのです。
「かれはこのような統一を、有限な諸現象のうちに現存するままの姿で、受入れるにすぎず、それを経験のうちに指示するにすぎない。カントによれば、こうした経験はまず主観においては、一つには天才によって、もう一つには趣味判断によって与えられる」(二〇三ページ)。
カントは、芸術や生命体において「包括的な理念」までをも論じながら、「思想の怠慢」により理念の現実化を認めませんでした。彼が普遍と特殊の統一を認めたのは、理念の現実化という「真理そのもの」においてではなく、「有限な諸現象のうちに現存するままの姿」として受け入れただけであり、それが天才と趣味判断の二つの事例です。
天才は美的理念を現実の作品に転化しますが、その理念はまだ「概念」(同)にまで高められた思想ではなく「自由な想像力の表象」(同)にとどまるものです。他方趣味判断とは、趣味の対象となる囲碁、将棋などの法則性(普遍性)と直観の特殊(どういう手を打つか)とが一致する判断にすぎません。
本来理想と現実の統一は、国家や社会との関係においてこそ論じられなければならないのであって、天才や趣味判断にとどめられてはならないのです。
五七節 ── 具体的普遍としての内的目的性
「更に、反省的判断の原理は、自然の生きた産物にたいしては、目的という姿をとる。すなわち能動的な概念、自己のうちで規定されかつ規定する普遍としてあらわれる。そしてそれと同時に、外的な、あるいは有限な合目的性の観念はしりぞけられる」(同)。
カントが生命体を具体的普遍ととらえたのは、自覚的ではないにしても生命体のうちには「内的な合目的性」があると考えたためです。ヘーゲルのいう「内的な合目的性」とは、「外的な合目的性」に対立する概念であり、事柄そのものの必然性のうちに含まれている目的であり、ヘーゲルは、この内的目的を「能動的な概念」とか「自己のうちで規定されかつ規定する普遍」、つまり具体的普遍と表現しています。
「外的な合目的性においては、目的は、そのうちで目的が実現される手段や材料にとって単に外的な形式にすぎないが、これに反して生命あるものにおいては、目的は、材料に内在する規定であり活動であって、あらゆる部分は相互に手段であるとともにまた目的となっている」(同)。
外的な目的とは、人間の意識の形式においてとらえられた目的であるのに対し、内的な目的は、それ自身の内部にもつ意識の形式をとらない目的です。生命体が、その生活環境に適応した進化をとげているのは、種としての内的な合目的性によるものです。生命のもつ種の内的目的性は、生命体の身体をその内的目的性を実現する手段に変え、目的と手段の統一により、種の進化をもたらすのです。
五八節 ── カントの「目的性」批判
「さてこうした理念においては、目的と手段、主観性と客観性というような悟性的関係は揚棄されているのであるが、にもかかわらずカントにおいてはまた、目的は、表象すなわち主観的なものとしてのみ存在し活動する原因にすぎないとされており、したがって目的規定もわれわれの悟性に属する評価の原理にすぎないとされている」(二〇四ページ)。
具体的普遍としての理念は、目的と手段の統一、主観性と客観性の統一として「真理そのもの」なのですが、カントは、自覚的には目的を単に主観的なものと考え、手段や材料に対して「活動する原因にすぎない」としており、悟性的評価(対立する一方のみを取りあげる評価)にとどまっています。
カントは、「理性は現象しか認識することができない」(同)といっていますが、「生命ある自然」(同)を論じようとするかぎり、現象のなかに内的目的性が実現されているのを見ざるをえないのであり、目的を悟性的に評価することの間違いが明らかになってくるのです。
生命体において目的(主観)と手段(客観)の統一をみるのか、それともカントのように目的を単に主観的な活動の原因としてのみとらえるのか、「二つの考え方のうち、どちらを選ぶか」(同)は「人々の勝手」(同)かもしれませんが、生命体を「単に質、原因と結果、合成体と構成要素、等々のカテゴリーによって認識するのでは足りないはず」(同)であり、どうしても内的目的性のカテゴリーが必要となってくるのです。
「もしカントが内的な合目的性という原理をその学問的適用において堅持し発展させていたら、全く異った、一層高い考察方法がもたらされていたであろう」(同)。
カントが内的目的性の原理を、現象界とイデア界をつなぐ理念にまで発展させていたら「真理そのもの」をとらえる弁証法的論理学にまで到達していたであろう、というのです。
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