『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より
第一六講 予備概念 ⑪
ヤコービ批判 ⑶
一、直接知批判(二)
六九節 ── 神の存在への移行は真の媒介知
「直接知の立場の主要な関心事をなしているものは、六四節に述べた、主観的理念から存在への移りゆきであって、直接知の立場は、この移りゆきが本質的に本源的な、無媒介的な連関であると主張している」(二二六ページ)。
六四節で論じられたのは、神の思想と神の存在が「直接かつ不可分に」(二一八ページ)結合している、というヤコービの主張でした。「無限なもの、永遠なもの」(同)としての神の思想は、神の理念(イデア)を主観のうちにとらえたものですから、本節ではこれを「主観的理念から存在への移りゆき」ととらえ、この問題が直接知の「主要な関心事」であることを明らかにしています。
直接知の立場は、この「理念から存在への移りゆき」を他者に媒介されない「本質的に本源的な、無媒介的な連関であると主張している」のですが、これまでみてきたように、経験上一見すると直接知と思えるものも媒介を揚棄した直接知であったことからして、検討すべき課題となってきます。
「しかし、経験的にあらわれる結合を全く無視するにしても、まさにこの中心点はそれ自身のうちに媒介を示しており、しかもその媒介は真の媒介であって、外的なものとの、また外的なものによっての媒介ではなく、自己そのもののうちで自己を完結する媒介である」(二二六ページ)。
ヘーゲルは媒介にも二種類あることを指摘します。一つは他のものによって媒介されるような媒介であり、いわば外的媒介です。もう一つは「自己そのもののうちで自己を完結する媒介」であり、いわば自己媒介、内的媒介です。例えば本講座の原稿も、みなさんのお手元に届けられるまでには、何度も推敲、手直しが行われ、自己そのもののうちで自己否定を繰り返し、より良いものに発展させられていきます。これも自己媒介、内的媒介の一例なのです。これに対して経験上の直接知は、熟達や教育、育成といった自己の外にあるものに媒介された外的媒介です。
ヘーゲルは自己媒介こそ「真の媒介」であり、神という主観的理念は単に主観的なものから自己媒介により現実性に必然的に転化するという意味で「真の媒介」だというのです。
神の理念から神の存在への移行は、内的媒介、自己媒介の結果であり、真の媒介だから、「無媒介的な連関」とするのは誤りだというのです。ここにも媒介にかんするヘーゲルの深い弁証法的考察をみることができます。
七〇節 ── 対立物の統一とは直接的な統一ではなく相互媒介的統一
「この立場の主張していることは、単に主観的な思想としての理念も、単なる存在それ自身も、真実なものではなく、存在それ自身、すなわち理念の存在でない存在は、世界の感覚的で有限な存在にすぎない、ということである。これはすなわち、理念は存在によってのみ真実なものであり、逆に存在は理念によってのみ真実なものであるという主張にほかならない」(二二六~二二七ページ)。
ここは、六節の「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」(六九ページ)との命題および二四節補遺二の、真理とは「概念と存在との一致」を念頭において学ぶ必要があります。
ヤコービの立場は、単なる理念も、単なる存在も、それだけでは真理ではなく、理念と存在との統一にのみ真理があるという正しいものです。したがって理念と一致しない存在、つまり「理念の存在でない存在」は、真理ではないがゆえに「有限な存在にすぎない」ということになり、逆に「理念は存在によってのみ真実なもの」となるのです。
「直接知の命題は、無規定で空虚な直接性、抽象的な存在あるいは純粋な統一そのものを欲せず、理念と存在との統一を求めているが、これは正しい」(二二七ページ)。
直接知における神の理念と存在との一致の命題は、一方で神という主観的理念を「無規定で空虚な直接性」のままに放置せず、他方で、存在を理念から切りはなされた「抽象的な存在」にとどめず、「理念と存在との統一を求めている」のであって、その限りでは「正しい」のです。
「しかし、異った規定の統一とは、単に純粋に直接的な統一、すなわち全く無規定で空虚な統一ではなく、異った規定の一方が他方によって媒介され、他方によって真実態を持つような統一であり、言いかえれば、異った規定の各々が他方によってのみ真実態と媒介されるような統一なのであって、このことをみないのは無思想と言わなければならない」(同)。
直接知が、神を理念と存在との統一としてとらえているのは正しいのですが、その統一を無媒介的な「純粋に直接的な統一」としてとらえていることが問題なのです。対立する二つの規定が相互に媒介しあい、相互に浸透し、あるいは相互に排斥しあってこそ対立物の統一は真理となるのであって、直接的な統一は「無規定で空虚な統一」にすぎません。
「第二版への序文」のなかで、対立物の統一を「同一性の哲学」(二九ページ)として批判する見解を検討しました。それは対立物の統一を「あらゆるものが一つとなり、善と悪も同じものとなってしまう」(同)とする批判でした。これに対するヘーゲルの反論は、対立物の統一とは「それ自身区別を内に含」(三〇ページ)む統一であって、直接的な同一ではないというものでした。それをここではさらに展開して、区別をうちに含む統一を相互媒介的な統一、「他方によって真実態を持つような統一」としてとらえているのです。
弁証法的な対立物の統一は、「異った規定の一方が他方によって媒介」され、他方に媒介されてはじめて「真実態」となるような統一、つまり対立物の相互媒介としての統一なのです。
「これによって、直接性そのもののうちに媒介が含まれているということは、事実として示されたのであって、悟性も、直接知そのものの原則にしたがって、このことに反対することはできないわけである。直接性および媒介性という二つの規定の各々をそれだけで絶対的なものと考え、そこに何か動かしがたい区別があるように思うのは、普通の抽象的な悟性にすぎない」(二二七ページ)。
以上述べたところにより、一見直接知とみえるものも、外的媒介か内的媒介かはともかくとして、「媒介が含まれていることは事実として示された」のです。第一五講でみたように、「直接性とともに媒介性を含まないようなものは何一つとして存在しない」(『大論理学』)のです。
したがって、直接性と媒介性という「二つの規定の各々をそれだけで絶対」化し、絶対的区別においてとらえるのは、「抽象的な悟性」のすることであって、これでは真理をとらえることはできません。
「抽象的な悟性は、このように考えるから、両者を結合するのは絶対に困難であるとする。しかしこうした困難は、すでに述べたように、思弁的概念のうちでは消失してしまうと同様に、事実のうちにも存在しないのである」(同)。
直接性と媒介性の統一でないようなものは、「概念」のうちにも「事実のうちにも存在しない」のです。エンゲルスは、「弁証法というものは、事物とその概念上の模写とを、本質的にそれらの連関、連鎖、運動、生成と消滅においてとらえるもの」(全集⑳『反デューリング論』二二ページ)といっています。事物と概念の双方において「連関、連鎖」の一般的法則をとらえる弁証法的カテゴリーが、直接性と媒介性の統一です。
形而上学的な悟性は直接性と媒介性を媒介のない対立においてとらえるのに対し、直接知は媒介性を排除した直接性を主張します。しかし両者はいずれも一面的なのであって、弁証法(「思弁的概念」)は直接性と媒介性の対立を相互媒介による統一とすることにより、真理をとらえるのです。
七一節 ── 直接知では主観的確信が真理の基準
「この立場の根本についてはすでに述べたが、なおこの立場の一面性にともなうところの、さまざまな特徴や帰結の主要な点を指摘しなければならない。第一に、この立場は内容の本性ではなく意識の事実を真理の規準とするから、主観的な知識や、私の意識のうちにはかくかくの内容が見出されるという確信が、真理と言われるものの基礎となっている。この場合私が私の意識のうちに見出すものは、すべての人の意識のうちに見出されるものにまで高められ、そして意識そのものの本性とされるのである」(二二八ページ)。
七一節から七四節までは、直接知の「一面性」がもたらす論理的帰結を指摘しています。
第一の帰結は、直接知では媒介されない単なる主観的確信が真理の基準になっているということです。直接知は、神にかんしては「理念と存在との統一」(二二七ページ)に真理があるとの正しい立場にたっていましたが、それを一般的な真理の基準とするわけではないのです。
すなわち直接知の立場では、存在するものの内容が概念または理念と一致するという「内容の本性」が真理の基準とされるのではなく、「真実在は直接知によってのみ知られる」(二一三ページ)という「意識の事実を真理の規準」としています。
したがって「私の意識のうちにはかくかくの内容が見出される」という媒介されない単なる確信が、「真理と言われるものの基礎」となっています。そしてこの私の「確信」がすべての人の「確信」にまで高められると、その確信の内容は「意識そのものの本性」にもとづくものとみなされてしまうのです。
「かつてはいわゆる神の存在の証明の一つとして『一般の一致』が挙げられており、キケロもすでにそれに訴えている。『一般の一致』は一つの有力な権威であって、或る内容がすべての人の意識のうちに見出されるという事実から、その内容が意識そのものの本性に根ざし、意識に必然的なものであるという結論への移りゆきは、きわめて明白である」(二二八ページ)。
キケロとは、古代ローマ共和制最後の大政治家、哲学者です。「一般の一致」とは、「或る内容がすべての人の意識のうちに見出されるという事実」があれば、その内容は真理であるというものです。ヤコービによると神の存在にかんし、すべての人が意識するということは、その内容が「意識そのものの本性に根ざし」、意識にとって偶然的なものではなく必然的なものであることを示すものであるから真理なのだ、というわけです。
「この『一般の一致』というカテゴリーのうちには、個人の意識は同時に特殊的で偶然的でもあるという、誰でも気づくような、本質的な意識が含まれていたのである。もしわれわれが個人の意識の本性そのものを吟味しないならば、すなわち、個人の意識につきまとう特殊的なもの、偶然的なものを除去しないならば、……或る内容についてのすべての人の一致ということも、そうした内容が意識そのものの本性に属するであろうという、有力な臆測をうち立てうるにすぎない」(二二八~二二九ページ)。
ヘーゲルは、「世論のなかでは、真理と限りない誤謬とがきわめて直接に結合している」(『法の哲学』三一七節補遺)といっています。世論とは「一般の一致」ですが、世論は常に正しいとは限らないのです。なぜなら世論とは、個人の意識の単なる寄せ集めにすぎないのであって、いくら数を集めても「個人の意識につきまとう特殊的なもの、偶然的なもの」から脱出することはできないからです。「多数決は必ずしも真ならず」との命題も「一般の一致」は必ずしも真理ではないことを示すものです。
或る内容について、すべての人の意識が一致したとしても、それは単にその内容が「意識そのものの本性に属する」から一致するのであろうという「有力な臆測をうち立てうるにすぎない」のであって、「内容の本性」が真理であることを証明するものではありません。
「このように『一般の一致』というものは、いたるところに存在するものをなお必然的なものとして知ろうとする思惟の要求はもちろん満足させないものであるが、しかし、それにとどまらず、すべての人が神を信じているという普遍的な事実があれば、それで神の存在の十分な証明になると仮定しても、やはり神の信仰をうち立てることはできなかったのである。というのは、経験は神を信じない個人や民族があることを示しているからである」(二二九ページ)。
このように「一般の一致」は真理の基準にはなりえないものですが、仮にそれを認めるとしても、「神を信じない個人や民族」がいるのですから、神の信仰については「一般の一致」自体が成立しないのです。
ここで、神の信仰にかんするヘーゲルの「原注」(同)をみておきましょう。ヘーゲルは、「神を信じない個人や民族」が存在するか否かを論じる場合、そこにいう「神」が「神一般という規定で満足しているか」(同)否かが問題であるとしています。もしそれが「神一般」を意味するのだとしたら、そこには偶像崇拝や鰯の頭も含まれることになりますから、無神論者は存在しないということになるかもしれません。しかしヤコービが問題とする神は、神一般ではなくて「本質的に普遍的な人格」(二一六ページ)をもつ神ですから、こういう神を「信じない個人や民族」はいくらでも存在するのです。
「それにしても『私は自分の意識のうちにかくかくの内容を、しかもそれが真理であるという確実性をもって見出すのであるから、この確実性は特殊な主体としての私に属するのではなく、精神そのものの本性に属するのである』というような単なる断言でことがすむとすれば、こんな簡単で都合のいいことはないわけである」(二二九ページ)。
ヘーゲルは、私が真理だと確信するから真理なのだという「単なる断言でことがすむとすれば、こんな簡単で都合のいいことはない」と直接知の真理観を一蹴しています。
七二節 ── 直接知の真理は無限定的
「直接知を真理の基準とすることから第二に出てくる帰結は、あらゆる迷信や偶像崇拝が真理とされ、どんなに不法で不道徳的な意志の内容でも是認されるということである」(二三〇~二三一ページ)。
直接知の第二の帰結は、媒介されない自己の確信を真理の基準にしますので、「あらゆる迷信や偶像崇拝が真理とされ」、どんな不法、不道徳的な意志も真理として肯定されることになってしまうということです。
「インド人が牡牛や猿や、あるいはブラーフマナやラマを神と考えるのは、いわゆる媒介知、すなわち論証や推理によってではなく、かれらはそれを信じているのである」(二三一ページ)。
ブラーフマナとは、バラモン(宇宙の本質である梵天)のことであり、ラマとはチベット仏教の一派です。こういう神一般の信仰も「論証や推理」という媒介知により神であることが証明されているから信仰するのではなく、神であることを直接知として知ることにより信仰しているのです。
「また自然の欲望や傾向はおのずから意識の関心をひき、不道徳的な目的は全く直接的に意識のうちに見出される。善い性格とか悪い性格とかいう言葉は、さまざまな関心や目的のうちで知られる、しかも最も直接的に知られるところの、意志の特定の存在を言いあらわすものであろう」(同)。
媒介知を否定する直接知とは、最も貧しい、原始的な意識を媒介知として高めることなくそのまま肯定するものであり、したがって「自然の欲望や傾向」「不道徳的な目的」なども含まれることになります。さらにいうならば直接知とは、もって生まれた原始的な性格を陶冶することによって高めることなくそのまま肯定することにもなります。
七三節 ── 直接知の神は神一般にすぎない
「最後に、直接知は、神について、ただ神があるということを知ろうとするだけで、神が何であるかは知ろうとしないのである。なぜなら、もし神が何であるかを知れば、それは認識であるから、媒介知となってしまうからである。かくして直接知の立場は、宗教の対象である神を明かに神一般に限定し、宗教の内容を最小限度まで切りつめているのである」(同)。
直接知の第三の帰結は、結局のところ直接知のいう神は、神一般にすぎないというものです。
先にみたように、直接知では神は知的直観のうちに与えられる「本質的に普遍的な人格」(二一六ページ)であって、偶像崇拝の神ではないといっています。しかしそういいながらも、直接知はそれ以上にその内容を媒介知により展開せず「神が何であるか」を知ろうとしません。
神が何であるかを知るためには、他のものに媒介された認識、つまり媒介知とならなければなりません。しかし直接知はそれを否定するのですから、神についての認識の深まりようがないのであり、つまるところ神を無規定の超感覚的存在としての神一般にとどめてしまい、「宗教の内容を最小限度まで切りつめ」てしまうことになるのです。
結局直接知のいう神への信仰は、「ずっと昔アテナイにあったところの、未知の神に捧げられていた神壇を拝むほど後退してしまった」(二三一ページ)のです。
七四節 ── 直接性の形式は内容をも一面的にする
「なお直接性という形式の一般的性質を簡単に述べなければならない。この形式そのものが一面的であるために、それは内容そのものをも一面的なもの、したがって有限なものとしてしまう」(二三二ページ)。
七四節は、「直接性という形式の一般的性質」を論じている箇所であり、ここでもヘーゲルらしい弁証法的な深い考察が展開されていて、興味深いところです。
直接性という形式は、媒介性という形式に対立する一面的な形式です。後に「本質論」で詳しく学ぶことになりますが、形式と内容とは対立物の相互浸透の関係にあり、切りはなしがたく結合していますので、直接性という「形式」の一面性は「内容そのものをも一面的なもの、したがって有限なもの」としてしまうのです。
第一に「それは普遍的なものには抽象性という一面性を与え、そのために神は無規定な存在となってしまう。しかし、われわれは、神が自己自身のうちで自己を自己に媒介するものであることを知るかぎりにおいてのみ、神を精神と呼ぶことができるのである。かくしてのみ神は具体的であり、生動的であり、精神である。したがって神を精神として知る知は、そのうちに媒介を含んでいなければならない」(同)。
ヘーゲルは、神を精神であるといっています。神も精神も具体的普遍として「生動的」であり、自己展開するからです。すなわち精神は「自己自身のうちで自己を自己に媒介する」、つまり自己媒介するものです。同様に神も六九節で学んだように、「主観的理念から存在への移りゆき」(二二六ページ)という自己媒介するものとして「神を精神とよぶことができる」のです。
したがって神を知るということは、「そのうちに媒介を含んで」いるものとして知らなければならないのに、直接知はそれを否定することにより、神という具体的普遍を抽象的普遍にかえてしまい、神の「内容そのものをも一面的な」空虚なもの、「無規定な存在」にかえてしまうのです。
「第二にそれは、特殊的なものには、有、自己関係という規定を与える。しかし特殊的なものの本質は、自己の外にある他のものに関係することにある。ところがこのような有限なものが、直接性という形式のために、絶対的なものとして定立されるのである」(二三二ページ)。
直接性の形式は、一方では「普遍的なもの」に「抽象性という一面性」を与えながら、他方で「特殊的なもの」に「自己関係」という一面性を与えることになります。「自己関係」とは、他のものに媒介されることなく、自己のみで存立、自立している関係です。
後に「有論」の「定有」で詳しく検討されるように、「特殊的なもの」は、「有限なもの」であり、したがって「自己の外にある他のもの」によって限界づけられ、媒介されています。しかし、直接性の形式のもとでは、「特殊的なもの」は他のものによる媒介性が否定されますから、他のものと関係をもたない「自己関係という規定を与え」られ、他のものによって限界づけられない無限なもの、「絶対的なものとして定立」されてしまうことになるのです。
このように直接知は、形式において一面的であるのみならず、普遍的なものを抽象的なものとし、特殊的なものを絶対的なものとするという内容の面でも一面的となっているのです。
「直接性という形式は全く抽象的であって、どんな内容に対しても無関心であり、したがってどんな内容でも受入れるから、それは偶像崇拝的な内容や不道徳的な内容を、それとは反対の内容と同じように許容することができる。こうした内容は独立したものではなく、他のものによって媒介されたものだという洞察のみが、それを有限で真実でないものへひきさげるのである。こうした内容は媒介をともなったものであるから、こうした洞察は、媒介を含んでいる知である」(同)。
このように直接性の形式は、普遍的なものについても特殊的なものについても、媒介性の否定により内容そのものを空虚で抽象的なものにかえ、「どんな内容に対しても無関心」となり、「どんな内容でも受入れる」ことになります。
その結果「それは偶像崇拝的な内容や不道徳的な内容を、それとは反対の内容と同じように許容すること」になるのです。偶像崇拝や不道徳的な内容は、神の信仰や道徳的内容と対比されることによって、はじめて単に偶像崇拝にすぎないとか、不道徳的であるとして否定されることになります。その意味では神の信仰や道徳的内容によって限界づけられ、「他のものによって媒介されたものだという洞察のみが、それを有限で真実でないものへひきさげる」のであり、こうした媒介性においてとらえないと、これらも「絶対的なもの」として肯定されることになるのです。
つまり、事物の内容が真実か否かを洞察する知は、「媒介を含んでいる知」なのです。
「われわれが真実なものとして認識しうる唯一の内容はどんな内容かと言えば、それは、他のものによって媒介されず有限でない内容、したがって自己を自己へ媒介し、媒介であると同時に直接の自己関係でもあるような内容である」(二三二~二三三ページ)。
他者によって媒介されるような内容は、「有限で真実でないもの」にすぎません。言いかえると、「絶対的なもの」、真実なものとしての内容は、単に他のものと関係をもたない「自己関係」にとどまるのではなくて、「自己を自己へ媒介し、媒介であると同時に直接の自己関係」でもあるような「自己媒介する自己関係」にある内容なのです。それはつまり具体的普遍であり、人間の精神、神なのです。つまり、精神も神も他のものに依存せず自立した存在でありながら、自己のうちで自己に反発し、自己媒介により自己を展開している存在として真実な内容をもっているのです。
「要するに悟性は、自分では有限な知識から、すなわち形而上学および啓蒙哲学の悟性的同一性から脱却したと思いながら、ここでもまたこうした直接性、すなわち、抽象的な自己関係、抽象的な同一性を原理とし、真理の規準としているのである。抽象的な思惟(弁証法的でない形而上学の形式)と抽象的な直観(直接知の形式)とは全く同じものである」(二三三ページ)。
「啓蒙哲学」とはカント哲学のことです。結局直接知の立場は、自分では客観にたいする思想の第一、第二の態度にみられる「有限な知識」から脱却して無限の真理を認識しうるより高い境地に達したと思いながら、実際にはそうなっていません。というのも、直接知は真理の基準を対象と認識との直接的な同一性においているからです。「抽象的な自己関係」とは、対象と認識との関係を抽象的な自己同一にとどまる自己関係とみなすという意味であり、「抽象的な同一性」とは、抽象的に対象=認識ととらえることを意味しています。弁証法を知らない古い形而上学と同様に、「抽象的な直観」に依存する直接知は、その抽象性により無限の真理に到達しえないという点では、「全く同じ」なのです。抽象的なものはつねに一面的なものにすぎず、「真実なものは具体的」(一四二ページ)であり、対立物の統一という「思弁的なもの」(同)としてあるのです。
七四節補遺 ── 直接知の神は抽象的普遍
「直接性の形式が媒介の形式に対立するものとして固定される場合、直接性の形式は一面的なものとなり、この形式に還元されるあらゆる内容までが一面的となってしまう」(二三三ページ)。
本文でみたように、形式と内容は結びついているので、「直接性の形式が媒介の形式に対立するものとして固定される場合」、それは形式の一面性のみならず、内容の一面性をももたらします。
「直接性とは一般に抽象的な自己関係であり、したがって同時に抽象的な同一性、抽象的な普遍性である。そこで即自かつ対自的に普遍的なものでも、それが直接性の形式においてのみ理解されると、それは抽象的な普遍にすぎなくなり、かくしてこの立場からすれば神は全く無規定の存在と考えられるようになる」(同)。
直接知は、対象と認識との媒介的な同一ではなく、抽象的な同一性を主張することにより、対象がいかなる規定をもつかを具体的に検討しないままにとどめます。言いかえれば、具体的な対象を空虚で抽象的なものに変えてしまうのです。
したがって神のような「即自かつ対自的に普遍的なもの」でも、それが直接性の形式においてとらえられると、神は「抽象的な普遍にすぎなくなり」、「無規定の存在」となってしまうのです。
「この場合でもなお、神は精神であると言うとすれば、それは空虚な言葉にすぎない。というのは精神は意識であり、しかも自己意識であるから、必ず自己を自分自身および他のものから区別するものであり、したがって同時に媒介でもあるからである」(同)。
人間の精神の精神たるゆえんは活動するところにあり、自己媒介する自己関係にあります。直接知のいう神は「抽象的な自己関係」にあって自己媒介しないのですから、もしそれを精神とよぶとすれば、「それは空虚な言葉にすぎない」のです。
二、ヤコービ批判のまとめ
七五節 ── すべての知は直接性と媒介性の統一
「以上の批判のうちで私が指摘したことは、直接知、すなわち、他のものとも、また自己自身のうちで自己とも、媒介されていない知があるということは、事実として誤っているということであった」(二三四ページ)。
直接知とは、外的媒介も内的媒介をも否定する知を主張するものですが、以上によりそれは「事実として誤っている」ことが明らかになりました。
「と同時にわたしは、思惟は単に他のものによって媒介された諸規定、すなわち有限で制約された諸規定に即してのみ進んで行くものだというような主張、および媒介のうちで媒介そのものが揚棄されることはないというような主張も、事実上真理でないことを指摘した。単なる直接性のうちを進んで行くのでもなければ、単なる媒介のうちを進んで行くのでもないような認識の事実を示せば、この論理学そのものおよび哲学全体がその実例である」(同)。
では、直接知を否定することは、すべての知を媒介知としてとらえるべきかといえばそうではなく、「媒介のうちで媒介そのものが揚棄され」直接性となるという、直接性と媒介性の統一としてとらえねばならないのです。つまり、すべて知は、外的媒介や内的媒介を経ながらも、媒介を揚棄した直接性という精神の自由な創造性に達するのであり、「単なる直接性」でも「単なる媒介性」でもありえません。精神の本質は自由にあります。精神の自由は、精神の創造性、直接性において最高度に達します。しかしその精神の創造性は、媒介を否定した創造性ではなく、媒介を揚棄した直接性であり、それが真にあるべき姿としての概念なのです。神、理念、事物の真にあるべき姿は、客観的事物に媒介されながら、「本質的にそうした否定と高揚を通じて自己にその独立」(八一ページ)、つまり直接性が与えられるのです。
直接性と媒介性の統一という認識の実例は、「論理学そのものおよび哲学全体」において示されることになります。六五節では、本質論のみが取り上げられていましたが、ここにいたって論理学全体に押し広げられていることにも注目してください。六五節を隠れ蓑と主張したゆえんです。
七六節 ── 直接知はデカルト哲学に後戻り
ヘーゲルは、直接知は、デカルトの形而上学と三つの点で共通しており、デカルトの「出発点へ後戻りしている」(二三五ページ)と指摘しています。つまり近代の哲学はデカルトから出発し、古い形而上学、経験論、カント哲学を経てヤコービの直接知に至り、結局前進しつつ後退し、「出発点へ後戻り」してしまっているのです。
この後戻りを許さず、デカルト以後の諸哲学のうちに含まれる特殊な理念をより普遍的理念に高め、特殊な理念を普遍的理念の一モメントとする哲学体系としてヘーゲルの論理学が登場することになるのです。
第一は、「思惟と思惟するものの存在との単純な不可分性、およびこの不可分性が絶対に最初の……そして最も確実な認識であるということ」(同)。
第二に「神の観念およびその存在も同様に不可分であるということ」(同)。
第三に「外的な事物の存在にかんする同じく直接的な意識」(同)。
この第三の「直接的意識」について、ヘーゲルのいうところを聞いてみましょう。
「この意識について注意を加えれば、それは感性的意識以外の何ものでもなく、われわれがそのような意識を持つということは、最もつまらない認識にすぎない」(同)。
いわゆる狭義の反映論としての直接知は、媒介知による高まりを否定するところから「感性的意識」にとどまる「最もつまらない認識にすぎない」のです。
「このような意識について知る値打のある唯一の事柄は、外的な事物の存在にかんする直接知は迷妄であり誤謬であって、感性的なものそれ自身のうちにはなんらの真理もなく、このような外的事物の存在は、偶然的で一時的な存在、一口に言えば仮象にすぎないということ、それらは本質的にそれらの概念、本質から分離しうるような現存在しか持たないものであるということである」(同)。
ヘーゲルは、「外的な事物」のうちには、「偶然的で一時的な存在」(仮象)もあれば、「必然的で永続的な存在」もあると考えています。前者にかんする直接知は、「迷妄であり誤謬」であって、「それ自身のうちにはなんらの真理も」ないのです。というのも「偶然的で一時的な存在」は、「それらの概念、本質から分離しうるような現存在」であり、それ自身真理ではないものですから、それを直接的に反映した直接知もまた「迷妄であり誤謬」にすぎません。
哲学は、こんな「最もつまらない認識」にとどまってはいないのであって、必然的で永続的な存在を求め「本質的にそれらの概念、本質」の認識にまで高まっていかなければならないのです。
七七節 ── 直接知は認識の発展を認めない
「しかし二つの立場は他方次のような相違を持っている。すなわち、 デカルトの哲学は右に述べたような、証明されていない、また証明できないものと考えられている諸前提からより進んだ認識へ進んでいき、かくして近代の学問の祖となったのであるが、現代の立場はこれに反して、有限な媒介にそって進む認識は有限なものしか認識せず、なんら真理を含んでいないという、それ自身としては重要な結論に達しながら、神にかんする意識にたいしては、先に述べたような全く抽象的な信仰にとどまることを要求している」(二三七ページ)。
デカルトは、「思惟と思惟するものの存在との単純な不可分性」から出発し、精神と物質(物体)の二元論を確立したこと、アリストテレス以来の物体における目的因を排除し、機械論的運動論を打ちたてたこと、物体は微粒子からなるとの考えにたって他の粒子が衝突しないかぎり同一の状態を保つという「保存法則」、物体はほんらい直線運動をおこなうという「直線運動の法則」、物体は衝突の前後で運動量は変わらないとする「運動量保存の法則」などを明らかにしたこと、などをつうじて古典力学への道を切りひらき、「近代の学問の祖」となりました。
これに対し第一に直接知は、「有限な媒介にそって進む認識は有限なものしか認識」しえないという「重要な結論に達しながら」も、直接性と媒介性の統一を理解しなかったために、そこからより進んだ認識へと前進せず、神にかんしても、七三節でみたように媒介知を否定することによって「全く抽象的な信仰にとどまることを要求」するにとどまったのです。ヘーゲルは、「すでに信仰をかためた後、信仰しているものを知ろうと努めないのは怠慢と思われる」(二三八ページ)とのアンセルムスの言をひいて直接知を批判しています。
「 ⑵ 現代の立場は、一方では、デカルトが導き入れた普通の科学的認識の方法を少しも変えないで、この方法から生じた経験的および有限なものにかんする学問を全く同じ仕方で続けている。しかしそれは他方ではこの方法を拒け、それとともに ── 他の方法を知らないから ── 無限の内容を持つものにかんする知識にたいしては、あらゆる方法を拒ける。そこでそれは全く勝手な空想や断言、道徳的自惚や尊大な感傷や、あるいは途方もない意見や理屈におちいってしまう」(二三七~二三八ページ)。
第二に直接知は、一方ではデカルトが導き出した科学的方法をそのまま使用しながら、他方で、魂、世界、神などの「無限の内容を持つものにかんする知識」に対しては、媒介知を否定することによって、無限な内容をとらえようとせず、勝手気ままな妄言をつらねているのです。それだけならまだしも、彼らが「単なる断言や空想」(二三八ページ)「勝手な理窟」(同)を許さない「哲学を目の敵」(同)にし、これを攻撃しているのは、とんだお門違いといわなければなりません。
七八節 ── ヘーゲル哲学は懐疑論を必要としない
「われわれはまず、内容あるいは知識の独立的な直接性と、これと結合することができないとされている、同様に独立的な媒介との対立をとりのぞかなければならない。なぜなら、この対立は深い吟味も加えないで主張された前提にすぎないからである」(二三九ページ)。
私たちが認識を論じるにあたっては、直接性と媒介性の絶対的対立をとりのぞかなければなりません。人間の人間たるゆえんは、意識のもつ創造性にあります。創造性とは直接性にほかなりませんから、意識の直接性は、人間にとって本質的なものとなります。しかしその創造性は、けっして無から有が生じるというようなものではなく、人類の永年にわたる蓄積された認識のうえにその個人の認識が加わり、それらに媒介されて、創造性、直接性が生まれてくるのです。
「哲学にはいろうとするにあたっては、それが表象から取られたものにせよ、思惟から取られたものにせよ、あらゆる前提および先入見を棄てなければならない。というのは、哲学のうちではじめて、あらゆるそうした規定が吟味され、それらの規定および二つの規定の対立の意味が認識されなければならないからである」(同)。
一節でみたように哲学は前提をもたない学問であり、「あらゆる前提および先入見を棄てなければ」なりません。直接性と媒介性のカテゴリーについても、両者の関係、「二つの規定の対立の意味」が哲学的に吟味、検討されなければならないのであって、吟味しないまま直接知のようにこの対立を絶対化して、その一方である直接性のみを選択することは許されないのです。
「否定をこととする学としての懐疑論を認識のあらゆる形態に貫けば、それはこのような諸前提の空しさを示す一つの序論となるであろう。しかしそれは面白くないうえに、余計な手続であろう。なぜなら、すぐ後で述べるように、弁証法的なものは、それ自身、肯定的な学の本質的なモメントをなしているからである。のみならずそれは、経験的および非学問的な形で与えられている有限な諸形態をそのままに取上げなければならないであろう」(同)。
あらゆる前提を否定するという弁証法的論理学からすると、「否定をこととする学」としての懐疑論を「一つの序論」とすることもできるかもしれませんが、それは「面白くないうえに、余計な手続」にすぎません。なぜなら、一つには、弁証法は否定をその一つのモメントとしながらも、否定のままにとどまる懐疑論と異なって、八二節で述べるように「肯定的な学の本質的なモメント」をなすものだからです。二つには、懐疑論は認識の形式論理学的な「経験的」および「有限な諸形態」をそのまま取り上げているのに対し、弁証法的論理学は形式論理学の諸カテゴリーを弁証法的につくりかえているからです。
私たちは、いよいよ予備概念を終え、これから「あらゆる前提および先入見」をもつことなく、弁証法的論理学を始めようとするのですが、始めるにあたって懐疑論をなんら必要とはしていません。
「このような徹底した懐疑論を要求するのは、すべてにたいする疑、すなわちすべてにおける全くの無前提を学問に先行させようという要求と同じである。このような要求は、純粋に思惟しようという決心のうちで、すべてを捨象し、純粋な抽象、思惟の単純性を把握するところの自由によって、ほんらい遂行されているのである」(同)。
徹底した懐疑論は、すべてを疑い、「全くの無前提を学問に先行させよう」とするものですが、このような要求は、「すべてを捨象し」、「純粋に思惟」する自由を求めるヘーゲル哲学において「遂行されている」のですから、あえて懐疑論を持ち出すまでもないのです。
以上で、客観性に対する思想の三つの態度の批判的検討はすべて終わり、いよいよヘーゲル哲学そのもの、すなわち弁証法に足を踏み入れることになります。
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