『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第二〇講 第一部「有論」②

 

一、「A 質」「a 有」(二)

八七節 ── 純粋な有は無である

 「ところでこの純粋な有は純粋な抽象、したがって絶対に否定的なものであり、これは同様に直接的にとれば無である」(二六七ページ)。
 純粋な有とは、単にあるということであって、何かがあるということではないので「純粋な抽象」にとどまっており、それは規定された内容をもたない思想的には「全く空虚な」(一五三ページ)ものです。それは全く空虚なものとして「絶対に否定的なもの」であり、したがって「無」なのです。抽象的で空虚な「有」は有といっても無なのであり、有と無は区別されていると同時に区別されていないのです。
 三六節補遺で「規定されたものがない場合には、いかなる認識もまた不可能」(一五四ページ)であり、「純粋な光は純粋な闇である」(同)ことを学びました。同様に無規定の純粋な有は無規定であるがゆえに、認識不能な無なのです。
 「 ⑴ ここから、絶対者は無であるという第二の定義が生じた。事実、物自体は無規定のものであり、全く無形式でしたがって全く無内容なものであると言う場合、それはそのうちに右の定義を含んでいる」(二六七ページ)。
 この無を「絶対者の定義」として示すと「絶対者は無である」という「第二の定義」となります。つまり、「絶対的真理はあらゆる事物のうちにある無の原理である」とする定義です。
 この定義は、カントの「物自体」の定義ともなるものです。カントの物自体は、無規定、無形式、無内容な空虚なものとされており、したがって「あらゆる表象、あらゆる感情、あらゆる特定の思想、等々の否定」(一七六ページ)として「絶対に否定的なもの」ですから、物自体は「無の原理」を含んでいるのです。
 「あるいはまた、神は最高の存在にすぎず、それ以上何ものでもないものであると言う場合でも、それは同じ定義を含んでいる。というのは、神がそのようなものとして言いあらわされている場合には、神は物自体と全く同様な否定性として言いあらわされているからである。仏教徒が万物の始源とし、また万物の究極目的ともしている無も、同様な抽象物である」(二六七ページ)。
 古い形而上学は、神を「最も実在的な存在」(一五三ページ)と規定しました。しかしこの神の定義には「規定性すなわち否定」(同)が含まれていないために、「最も貧しいもの、全く空虚なもの」(同)にすぎず、この定義によると神は「物自体と全く同様な否定性」として無であるといわざるをえないのです。
 仏教のことは知りませんが、「すべては無に始まり、無に帰る」といっているとすれば「絶対者は無である」との立場にたっていることになります。
 「 ⑵ 対立がこのような直接態のうちにあって、有および無として言いあらわされている場合には、このような対立が空無なものだということは余りにも奇異に思われるので、人々は有を固定して、それが無へ移っていくのを防ごうと試みるであろう」(二六七ページ)。
 一般に有と無とは対立するものと思われているのに、有は無であるとして有と無の「対立が空無なもの」と主張することは「余りにも奇異に思われる」ので、人々は「有を固定して、それが無へ移っていくのを防ごう」とします。しかしその試みは失敗せざるをえません。
 「そのために人々は、反省によって有を無からは区別するような確固とした規定を有のためにさがし出すことを思いつくにちがいない。例えば人々は有を、あらゆる変化のうちで恒存するもの、どんなにでも規定されうる質料、等々と考えたり、あるいはまた無反省に、手あたり次第の個別的存在 ── それが感覚的なものであろうと精神的なものであろうと ── と考えたりする」(二六七~二六八ページ)。
 人々が有と無を区別するために、有としての「確固とした規定」をさがし出そうとすると「あらゆる変化のうちで恒存するもの」とか「どんなにでも規定されうる質料」等々と考えたり、あるいは抽象的有ではなく具体的な有、つまり「手あたり次第の個別的存在」を考えたりすることにならざるをえません。
 「しかしこのようなより進んだ、一層具体的な規定を有に与えれば、有はもはや論理学のはじめにおいて、全く媒介なしに存在しているような純粋な有ではなくなってしまう。有がこうした全くの無規定性のうちにあり、全く無規定であるからこそ、それは無なのであり、言いあらわしえないものなのであり、それと無との区別は単なる意向にすぎないのである」(二六八ページ)。
 有と無とを区別しようとして、有に「恒存するもの」「個別的存在」などの内容を与えることは、すでに有を「論理学のはじめ」としての無規定の有から規定された有に変えてしまうことになり、「論理学のはじめ」としての有を否定することになってしまうのです。
 「はじめ」としての有は、無規定の空虚な有だからこそ無なのであり、これから論じられる規定された有が無から区別されるのはあまりにも当然のことといわなければなりません。
 「空虚な抽象物」(同)としての有と無の区別は「言いあらわしえない」ような区別であり、「単なる意向」、気持ちのうえの区別にすぎないのです。
 「有あるいは有無の両者のうちに確かな意味を見出そうとする衝動こそ、有と無とを進展させて、それらに真の、すなわち具体的な意味を与える必然性にほかならない。この進展が論理の展開であり、以下に述べられる思想の進行である。有および無にたいしてより深い諸規定を見出すところの追思惟(Nachdenken)は論理的思惟であり、この思惟によって諸規定は偶然的でなく、必然的な仕方で生み出されるのである」(同)。
 こういう空虚な有と無に「確かな意味を見出そうとする衝動」が有と無のカテゴリーを論理の展開により「必然的」に進展させて、それに「具体的な意味を与える」のです。その「衝動」とは二一節で学んだ「ナーハデンケン」、つまり論理的に反省する思惟であり、この思惟によって有と無の「具体的な意味」が「必然的な仕方で生み出される」のです。その「必然的な仕方」こそ、肯定 ── 否定 ── 肯定と否定の統一という弁証法的な展開・発展にほかなりません。
 「したがって有および無がこれから先に持つようになるさまざまの意味は、いずれも、絶対者のより立ち入った規定、より真実な定義にほかならない。それはもはや有や無のような空虚な抽象態ではなく、そのうちに有と無の両者をモメントとして持つ具体的なものである」(同)。
八四節で有の進展は、即自的な概念の「不断の展開」(二五九ページ)であると同時に「有が自分自身のうちへ深まって行く」(同)ことを学びました。
 反省的思惟によって抽象的な有や無に「具体的な意味を与える」とは、思想による概念の「不断の展開」として「絶対者のより立入った規定、より真実な定義」を与えることであり、言いかえれば、「そのうちに有と無の両者をモメントとして持つ具体的な」カテゴリーへと弁証法的に進展していくことを意味しています。
 それが「成」のカテゴリーであり、さらには「b 定有」「c 向自有」のカテゴリーへと発展していくのです。
 「無だけを切りはなして、その最高の形態が何かと言えば、それは自由である。しかし自由が否定性であるのは、それが自己のうちへ深まって最高の強度にまで達し、それ自身しかも絶対の肯定であるかぎりにおいてである」(二六八~二六九ページ)。
 絶対に否定的な無の「最高の形態」は意志の自由です。意志の自由はその「最高の形態」にまで高まったとき、客観世界との媒介を揚棄した「否定性」として自由に羽ばたき、イデアの世界(真にあるべき世界)という「絶対の肯定」に達するのです。詳しくは「概念論」で論じることにしましょう。

八七節補遺 ── 純粋な有と無の区別は区別であって区別でない

 「有と無との区別は、区別があるはずだという区別にすぎない。言いかえれば、両者の区別は即自的にすぎず、まだ定立されていない。区別と言うからには、そこには二つのものがあって、各々は他方にはない一つの規定を持たなければならない。ところが有は全く無規定のものにすぎず、無も同じである。したがって両者の区別は、あるはずだと考えられているにすぎないもの、全く抽象的な区別であって、同時になんら区別でないものである」(二六九ページ)。
 空虚で抽象的な有と無とは、区別されているとはいってもいずれも規定されていないために「抽象的な区別」であって、その区別は「即自的にすぎず、まだ定立されていない」区別にすぎません。というのも区別されるためには、二つのものがそれぞれ規定されたものとして存在し、その二つの規定が異なることによってはじめて区別が生じるからです。規定されていない有と無との区別は、区別であって区別ではないという区別にすぎないのです。
 「その他すべての区別の場合には常に、区別されたものを自己の下に包括する一つの共通のものがある。例えば二つの異った類と言う場合には、類が両者に共通のものである。同様に、自然的存在と精神的存在があると言う場合には、存在が両者に共通のものである。これに反して有と無の場合には、これら二つの規定はいずれも同じように土台を持たないのであるから、その区別には土台がなく、したがってそれはなんら区別ではない」(同)。
 ヘーゲルは、区別それ自体も弁証法的に考察しており、後に本質論で詳しく考察するように区別とは同一のもとにおける区別であることを明らかにしています。共通の土台という同一性のもとにおいてのみはじめて区別を論じる意義があるのであり、共通の土台をもたない駱駝とペンの間に区別を論じる意義はありません。
 空虚で抽象的な有と無とはそもそも共通の「土台を持たない」のですから、その区別は「なんら区別ではない」区別なのです。
 これに対して「有を絶対の豊かさ、無を絶対の貧しさ」(同)として区別しうるという人がいるかもしれません。しかし有を豊かさとしてとらえ「すべては有ると言い、それ以上何も言わないとすれば」(同)、その有は「あらゆる規定されたものを看過」(同)した有にすぎません。したがって有を「絶対の豊かさ」ととらえ「すべては有る」といってみても、それは無規定の有にすぎませんから「絶対の充実ではなく絶対の空虚を持つにすぎない」(二六九~二七〇ページ)のであり、結局のところまたもや有と無の区別は消滅してしまうことになってしまいます。
 また神を定義して「単なる有」(二七〇ページ)としてとらえることも、同様に「絶対の空虚」をもつにすぎないので、「神は無である」(同)という「仏教徒の定義」(同)と等しいことになります。

八八節 ── 有と無の真理は成

 「無はこのように直接的なもの、自分自身に等しいものであるから、逆にまた有と同じものである。したがって有ならびに無の真理は両者の統一であり、この統一が成である」(同)。
 抽象的な無は、無規定な他のものに媒介されないもの(「直接的なもの」)として自己同一性を保っています。直接的で自己同一性をつらぬくという点では、抽象的な有と「同じもの」です。
 したがって、有と無とは対立しながらも「同じもの」として同一(統一)であるところに両者の真理があるのであり、この真理としての「有と無の統一」が成という運動一般をあらわすカテゴリーなのです。
 「 ⑴ 有と無とは同じものであるという命題は、表象や悟性には、真面目に言われたものとは受取れないほど逆説的な命題と思われるであろう。事実この命題は、思惟が自己に要求する最も困難な要求の一つである。というのは、有と無とは全く直接的な対立だからである。言いかえれば、対立の一つの項のうちには、他の項との関係を含むような規定がまだ定立されていないからである」(同)。
 例えば黒色と白色という対立する二つの色を混ぜ合わせると、黒色は白色化し、白色は黒色化し、相互に浸透し合って灰色となります。このように対立する二つのものが相互に媒介し、浸透し合って同一となることを、対立物の相互浸透または対立物の同一とよんでいます。
 これに対して抽象的な有と無とは、両者の間に媒介をもたない「全く直接的な対立」です。つまり両者の間には「他の項との関係を含むような規定がまだ定立されていない」のであって、なんら媒介性の存在しない有と無との間になぜ同一性が生じるのかという問題は、「思惟が自己に要求する最も困難な要求の一つ」なのです。
 「しかし有と無は、前節に示したように、こうした規定を、すなわちまさに両者のうちで同一であるような規定を含んでいる。このかぎりでは、両者の統一の演繹は全く分析的である。哲学的思惟の全進行は方法的、すなわち必然的であるから、それは常に、或る概念のうちにすでに含まれているものを単に定立することにほかならないのである」(同)。
 有と無との同一は、一般的な対立物の相互浸透による同一とは異なります。両者の間に媒介は存在しませんが、両者はいずれも「空虚な抽象物」(二六八ページ)という「同一であるような規定を含んでいる」ところから、両者は「哲学的思惟」によって同一としてとらえられるのです。その意味で「両者の統一」は両者の概念を「分析」することから生まれる論理的な「演繹」であり、思惟による統一なのです。
 「しかし、有と無とが同一であるということが正しいと同じ程度に、両者は全く異っている、一方は他方があるところのものではない、ということもまた正しい。とは言え、有と無とはまだ直接的なものであって、そこでは区別はまだ規定されていないから、有および無が持っているような区別は言いあらわしえないもの、単なる意向にすぎない」(二七〇~二七一ページ)のです。
 抽象的な有と抽象的な無は、概念の分析によりとらえられた同一であると同時に、規定されていない区別、「単なる意向にすぎない」区別であって、こうした抽象的な同一と区別にいつまでもとどまっていることはできません。
 そこから、両者の真理としての「成」へと進展していくことになります。
 「 ⑵ 無と有とは同じものであるという命題を嘲笑したり、あるいは、さまざまの背理を持出し……たりするには、大した機智はいらない。例えば人々は、右の命題にしたがえば、私の家、私の財産、……法律、神、精神などというものも、あるもないも同じことになってしまうと言う」(二七一ページ)。
 有と無とは「同じものである」という場合、「ここで問題になっているのは単に抽象的な有および無にすぎない」(二七二ページ)にもかかわらず、人々は「私の家、私の財産」などの特定の「内容を持った」(二七一ページ)ものの有と無を論じてヘーゲルを批判しているのです。「特定の内容」(同)をもったものが「あってもなくても同じ」(同)かどうかは全く別個の問題であって、その問題に解答するためには、その「特定の内容」が具体的に検討されなければなりません。家が今にも倒れそうな家なら「あってもなくても同じ」ということになり、財産が借金だけならない方がいいということになるでしょう。
 また「法律、神、精神」についていえば、これらは「それ自身本質的な目的、絶対的な存在、および理念」(同)という具体的なものであり、これらの具体的なものをとらえるには「単に有るものとか無いもの」(二七二ページ)という「最も貧しい規定」(同)では「全く不十分」(同)であり、抽象的な有や無をはるかに越えるより高いカテゴリーが求められるのです。
 「一般に無思想な人が具体的なものを有および無とすりかえる場合には、無思想の人の常として、問題になっている事柄とは全く別のことを思い浮べ、そしてそれについて語るものであるが、ここで問題になっているのは単に抽象的な有および無にすぎないのである」(同)。
 ヘーゲルがいいたいことは抽象的な有と無は同一であるとの命題を批判したいのであれば、具体的な有と無に「すりかえる」ことなく批判してみろというものであり、こういう「すりかえ」をしないかぎりヘーゲルの命題は批判しえないだろうというのです。
 「 ⑶ 有と無との統一は概念できないと言う人がある。……概念できないということが、少しも感覚をまじえずに抽象的な思想を把握し、思弁的な命題を理解することに慣れていないことを意味するにすぎない場合には、われわれはそれにたいして、哲学の認識方法は、日常生活で人々が慣れている認識方法とも、また他の学問に用いられているそれともちがっているのだ、と言うよりほかはない」(二七二~二七三ページ)。
 人々が「有と無との統一は概念できない」という場合に、二つの場合を区別する必要があります。一つには、「概念できない」というのが、「日常用いられている」(二七二ページ)具体例として示されないと理解できないというものです。これに対しては、哲学の認識方法というものは具体的事物からはなれて抽象的に思惟し、表象から区別された純粋な思想をとらえるものであるからこの認識方法に慣れてもらうしかない、ということになります。
 彼らは、「知りなれた表象への渇望」(六六ページ)から、思想や概念としてとらえられたものを「あくまで表象の形で思い浮べようとする」(同)のですが、「概念が問題となっている場合には、概念そのもの以外の何ものをも考えるべきではない」(同)のです。
 「しかし、概念できないということが、有および無の統一は表象できないという意味にすぎないとすれば、それは事実でないのであって、むしろ誰でもこの統一の表象を無数に持っている。このような表象を持っていないと言うのは、人が無数のそうした表象のどれにも当の概念を認識することができず、それが当の概念の実例であることを知らないということを意味するにすぎない」(二七三ページ)。
 二つには、「概念できない」ということが、「有および無の統一は表象できない」ことを意味する場合です。これに対しては、「誰でもこの統一の表象を無数に持っている」のに、その表象のなかに有と無の統一を発見し「認識することができず」、その表象しているものが有と無の統一の「実例であることを知らない」だけなのです。
 「その最も手近な例は成である。誰でも成の表象を持っており、また成が単一の表象であることを認めるであろう。更に、その表象を分析してみれば、それが有という規定のみならず、その正反対の無という規定をも含んでいることを認めるであろう。そして更に、この二つの規定が成という単一の表象のうちにあって不可分であること、したがって成は有と無との統一であることを認めるであろう」(同)。
 先にも指摘したように、成とは運動・変化・発展です。有と無との統一のもっとも「手近な例」は位置の移動です。或るものの位置の変化を考えてみると、或るものは、ある一瞬において「そこにあると同時にそこにない」という有と無の統一です。「そこ」を通らないと次の位置に移動することはできませんから、或るものはある瞬間「そこにある」のですが、そこにあるままですとそこから移動することはできませんから、その瞬間において「そこにない」のです。
 生命体は、日々同化と異化を統一して生きて(運動して)います。言いかえると生命体は日々「或るものであって、或るものでない」という有と無の統一です。同化と異化をつうじて、生命体を形づくる細胞は生まれては消滅することを繰り返し、生命体は生命体としての自己同一性を保ちつつ、日々変化しているのであり、それは有と無の統一としてはじめてとらえることができるのです。
 「同様に手近な例ははじめである。はじめにおいては事柄はまだ存在していない。しかし、はじめは単に事柄の無にすぎないものではなく、そのうちには有もまた存在している。はじめもそれ自身また成であるが、ただ、はじめと言えば、すでに一層の進展が顧慮されている」(同)。
 「事柄」は「ザッヘ」の訳ですから、「事物」と訳すべきものでしょう。
 次の手近な例は、「はじめ」です。事物のはじめを考えてみると、それは無から有にいたる運動ということができます。でははじめは全くの無なのかといえばそうではありません。そのなかに有のモメントを含んだ無として、有と無の統一なのです。その意味ではじめにおいて事物は「まだ存在していない」と同時に「そのうちには有もまた存在している」のです。私たちの宇宙のはじまりも、「宇宙のゆらぎ」という有のモメントを含む無であったことが科学的に証明されています。
 では「終わり」とは何でしょうか。運動するすべてのものは、はじめと同時に終わりをもっています。終わりとは無のモメントを含んだ有として無と有の統一なのです。つまり終わりにおいて事物は「存在している」と同時に「存在していない」のです。
 「もしわれわれが、諸科学が採用しているようなもっと普通の方法に従ってもよいのなら、純粋に思惟されたはじめの表象、すなわちはじめそのものの表象をもって論理学をはじめ、そしてこの表象を分析することもできよう。すれば人々はもっと容易に、有および無が一つのもののうちに不可分のものとしてあらわれていることを、この分析の結果として認めるであろう」(同)。
 これまで何度も学んできたように、哲学は「純粋な思想」(六五ページ)をとらえるものであり、「したがって一般的に言って、哲学は表象を思想やカテゴリーに、より正確に言えば概念に変えるものだと言うこと」(同)ができます。
 もし哲学が、「純粋な思想」ではなく、表象をも問題にしてもよいのであれば、はじめという「表象をもって論理学をはじめ」ることもできるでしょう。それが可能であれば、はじめを分析して「はじめとは有と無との統一である」ことを容易に説明することもできたでしょう。 
 しかし哲学は、「純粋な思想」の学問ですから、思想ではなく表象にすぎない「はじめ」からではなく、最も貧しいとはいえ表象ではなく思想である「純粋な有」からはじめざるをえなかったのです。
 「 ⑷ しかしなお注意すべきことは、有と無とは同じものであるとか、あるいは有と無との統一というような表現は、主観と客観との統一、等々、その他これに類するあらゆる統一と同じく、不都合と思われても仕方のないところを持っている、ということである」(二七三~二七四ページ)。
 八二節で、「思弁的なものあるいは肯定的理性的なもの」(二五二ページ)とは、「対立した二つの規定の統一」(同)であることを学びました。
 そこで、思弁的なものとしての対立物の統一という表現は、「正しいにはちがいないが、やはり一面的である」(二五四ページ)との指摘がなされました。というのもここにいう「統一」とは、「単に同一ではなく、それらはまた区別されているのに、この命題においては統一のみが言いあらわされ、統一にアクセントがおかれているから」(同)です。
 ここでもう一度この「統一」という規定のもつ一面性を詳しく検討しようというのです。
 「なぜなら、このような表現には、統一だけが強調されて、相違がそこにあるにはあるが(というのは、そこには例えば有と無とがあり、そしてその統一が定立されているのであるから)この相違は統一と同時に言いあらわされ認められていず、不当にも捨象され看過されているようにみえる、という片手おちで正しくないところがあるからである」(二七四ページ)。
 対立物の統一という場合の統一は区別をうちに含んだ統一であり、「現存し定立されている差別(区別 ── 高村)のうちで把握されなければ」(同)なりません。しかし有と無の「統一」という表現には「統一だけが強調され」、有と無の相違が「不当にも捨象され看過されているようにみえる」正しくないところがあるのです。
 「成は有および無の成果の真の表現であり、両者の統一である。しかしそれは有および無の単なる統一ではなく、自己のうちにおける動揺である。言いかえれば、単なる自己関係として運動を持たぬ統一ではなく、自己のうちにある有および無という差別によって、自己のうちで自分自身に対立しているような統一である」(同)。
 有と無の統一としての成は、運動一般をあらわすカテゴリーであり、「単なる自己関係として運動を持たぬ統一」、つまり自己同一性のうちにとどまる統一ではありません。成のうちにあって有と無は「自己のうちで自分自身に対立」し、有から無へ、無から有へと「自己のうちにおける動揺」を不断に繰り返し、「自己関係として運動を持」つ統一なのです。
 後に詳しくみていくことになりますが、運動一般は、大きく変化と発展に分けて考えることができます。変化とは、或る質をもったもののうちにおける量的変化と、或る質をもったものから別の質をもったものへ移行する質的変化とがあります。これに対して発展とは、質的変化のうち、より高度、より複雑な質への変化を意味しています。
 「定有はこれに反して自己のうちに動揺を持たぬ統一、あるいはそうした統一形式のうちにある成である。定有はそれゆえに一面的であり有限である。対立は消滅したように見え、それは統一のうちに即自的にのみ含まれていて、統一のうちに定立されていない」(同)。
 「定有」については、有論「A 質」の「b 定有」で詳しく考察します。定有も成と同様に有と無の統一ですが、成は「自己のうちにおける動揺」であるのに対し、定有は「自己のうちに動揺を持たぬ」有と無の統一です。いわば成が物質の運動一般を表すカテゴリーであるのに対し、定有は静止一般を表すカテゴリーです。それゆえに成が無限の運動であるのに対し、定有は「一面的であり有限」な存在なのです。
 定有において有と無とは定有するものの二つのモメントをなしており、「対立は消滅したように見え」ます。というのも定有における有と無とは、定有のうちに「おおわれたものとして含まれて」(二八二ページ)いるため、思想のうちにのみとらえうる潜在的な有と無にほかならないからです。
 「 ⑸ 有は無への移行であり、無は有への移行であるという命題、すなわち成の命題には、無からは何も生ぜず、或るものは或るものからのみ生ずるという命題、すなわち質料の永遠性の命題、汎神論の命題が対立している」(二七四~二七五ページ)。
 生成、消滅という成の命題に対立しているのは、「無からは何も生ぜず、或るものは或るものからのみ生ずるという命題」です。この命題は、或るものは永遠に或るものであり続けるとして消滅を否定し「質料の永遠性の命題」を認めるものであり、世界はすなわち神であって自然の一木一草も神のあらわれであるとしてあらたな種の生成を否定する「汎神論の命題」でもあるのです。
 一八五九年、ダーウィンは『種の起源』を出版しましたが、カトリックの総本山バチカンは、一九九七年まで旧約聖書の天地創造論にもとづき、地上のすべての生物の種は神が創造したものとして、ダーウィンの進化論を認めませんでした。
 「古代人は簡単に、或るものは或るものから生じ、無から生じるものは無であるという命題は、事実成を不可能にしている、と考えた。というのは、この命題によれば、或るものがそこから生じてくるものと、生じてくる或るものとは全く同じものだからである。ここに見出されるものは抽象的な悟性的同一の命題にすぎない」(二七五ページ)。
 古代人(エレア学派)は親から子が、子から孫が生まれますが、親も子も孫もすべて同じ人間だから、或るものは或るものからのみ生じ無からは生じないのであって、「事実成を不可能にしている」と考えました。それを哲学的に表現すると「AはAである」という形式論理学の「抽象的な悟性的同一の命題」、つまり同一律という基本命題になるのです。
 「しかし不思議なのは、人々が今日なお無からは何も生じないとか、或るものは或るものからのみ生じるというような命題を、それが汎神論の基礎をなしているということには少しも気づかず、また古代人がすでにこうした命題を考察しつくしているということも知らずに、平気で説いているということである」(同)。
 当時汎神論は、カトリックの伝統的な有神論を批判する神学の衣をまとった唯物論との批判を受けていました。しかし世界に存在するすべての事物のうちに神が存在すると考える汎神論の基礎には、成を不可能だとする考えがあり、それは結局神による天地創造論を認めるものにほかなりません。それにもかかわらず有神論は汎神論を無神論であるかのように批判しているのです。
 ヘーゲルはまだダーウィン(一八〇九~一八八二)の進化論を知りません。しかしギリシア哲学を学ぶことをつうじて「成の命題」を真理として確信し、キリスト教では古代ギリシア哲学ですでに成のカテゴリーが考察されつくしているのを知らずに、旧約聖書の天地創造を平気で説いていることを批判しているのです。

八八節補遺 ── 成は最初の具体的な思想

 「成は最初の具体的な思想、したがって最初の概念であり、これに反して有と無とは空虚な抽象物である。もしわれわれが有の概念について語るとすれば、有の概念とはすなわち成であることにほかならない。というのは、有は有としては空虚な無であり、無としては空虚な有であるからである」(同)。
 「真実なものは具体的」(一四二ページ)であり、具体的なものは、対立物の統一としてのみ存在しています(一五七ページ参照)。
 成は、有と無の統一としての運動一般として「最初の具体的な思想」であり、したがって事物の「最初の概念」(真の姿)です。これに対して有と無とはいずれも現実には存在しない「空虚な抽象物」にすぎませんから、そこに事物の真の姿を見出すことはできません。
 「有の概念」とは、有の真の姿を意味しています。有の真の姿は、生成、消滅という成なのです。すなわち、有は「空虚な無」を含む有としては消滅であり、「空虚な有」を含む無としては生成であるという二種類の成をその真の姿として持っているです。
 「したがってわれわれは有のうちに無を持ち、無のうちに有を持っている。そして無のうちにあって自己を維持している有が成である」(二七五ページ)。
 今日ではすべてのものについて生成、消滅を否定できる者は誰もいないでしょう。その生成とは「無のうちに有を持」ち、消滅とは「有のうちに無を持」っているのであり、これが成というものです。
 「われわれは成という統一のうちで区別を棄ててはならない。でないと、われわれは再び抽象的な有へ後戻りするからである。成とは、有の真の姿が定立されたものにすぎないのである」(同)。
成とは、有のうちの無、無のうちの有という区別をもった有と無の統一として「有の真の姿」としての運動なのであり、「成という統一」のうちで有と無の「区別を棄て」てしまえば、「再び抽象的な有へ後戻り」してしまいます。
 人々はしばしば、有と「存在」とを同一視したうえで、「有(存在)に対立するのは思惟である」(二七六ページ)などといって有に対立するものが成であることを否定しようとします。
 しかしこの段階の有はまだ「全く抽象的なものにすぎない」(同)のであって、存在とは異なるものであり、抽象的な有に対立するものは「具体的なもの」(同)にほかなりません。有という抽象的なものに対立する具体的なものとは、有と無という対立物の統一としての成なのです。
 同様に「自己のうちにおいて無限に具体的なものである神」(同)もまた有と無の統一としての成であり、そこには「存在というような問題は大して重要でない」(同)のです。
 「成は最初の具体的な思惟規定であるから、同時に最初の真実な思惟規定である。哲学の歴史において論理的理念のこの段階に対応するものは、ヘラクレイトスの体系である。ヘラクレイトスが『すべては流れる』と言うとき、これによって成があらゆる存在の根本規定であることが言いあらわされている」(同)。
 成は、具体的な思惟規定として、「最初の真実な思惟規定」、つまり事物の真の姿を最初にとらえたカテゴリーです。ヘラクレイトスは、「すべては流れる」(パンタ・レイ)といって、「成があらゆる存在の根本規定であること」を表現したのです。
 ヘラクレイトスは、すべてのものは永遠の流れ、不断の運動と変化のうちにあると考えました。運動・変化・発展の過程のみが永遠であり、不変、不動は仮象にすぎないとして、エレア学派の批判のうえに成の原理をうち立てたのです。
 「エレア学派は、有、過程のない不動の有を唯一の真実なものと考えた。エレア学派の原理に連関してヘラクレイトスはさらに『有は非有以上に存在しない』と言っているが、この言葉は抽象的な有の否定性を言いあらわしているとともに、抽象的な有と、抽象的であるために有と同様に不安定な無との同一を言いあらわしている」(二七六~二七七ページ)。
 ヘラクレイトスは、「過程のない不動の有を唯一の真実なものと考えた」エレア学派を批判して、「有は非有以上に存在しない」といいました。これにより「抽象的な有の否定性」を示すとともに、抽象的な有は抽象的な非有(無)と空虚である点で同一であることをいいあらわしたのです。
 「われわれはここに、一つの哲学体系が他の哲学体系によって、本当に反駁される例をみるのであって、この反駁の本質は、反駁される哲学がその弁証法において示され、そして理念のより高い具体的な形態の観念的モメントにひきさげられることにあるのである」(二七七ページ)。
 八六節補遺二で「反駁の本当の意味」(二六四ページ)は「特殊の原理を観念的(理念的 ── 高村)契機へひきさげる」(二六五ページ)ことにあることを学びましたが、ヘラクレイトスのエレア学派批判は、その「本当に反駁される例」となっています。彼は、「有のみがあり無は存在しない」とするエレア学派に対し、真理は有と無の統一としての成にあるという「理念のより高い具体的な形態」にたって、エレア学派をヘラクレイトス哲学の一モメントに引きさげてしまったのです。
 こうしてみてくると、ヘーゲル哲学は哲学史という人類の知識の総和のうえに開花した哲学であることを実感することができます。そこにまたヘーゲル哲学の真理性の根源もあるのです。
 しかし、成もまた運動一般を真理とする「きわめて貧しい規定」(二七七ページ)にすぎず、それは「生命」(同)さらには「精神」(同)というより高度の運動をあらわすカテゴリーへと「自己のうちへ深まり自己を充実」(同)していきます。
 精神を取り扱った「精神哲学」は、「有と無というような単なる抽象物ではなく」(同)、論理学と自然哲学をモメントとする「一層強度のつよい一層豊かな成」(同)なのです。