『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第二四講 第一部「有論」⑥

 

一、「B 量」 「c 度」

 度は、純量と定量の統一であり、質の「向自有に対応する」(三〇八ページ)ものです。向自有には一者としての側面と真無限としての側面がありましたが、同様に度にも一者としての側面と定量のもつ規定性を揚棄した真無限の定量という側面があります。前者は内包量であり、後者が比として論じられます。

一〇三節 ── 度は内包量

 「限界は定量するものの全体と同一である。それは、自己のうちに多を含むものとしては、外延量であるが、自己のうちで単純なものとしては、内包量、すなわち度である」(三一二ページ)。
 本節では、まず度は内包量として一者であることが論じられています。
 定量は「限界をもつもの」です。しかしその限界にも二通りあり、一つは外的な限界であり、もう一つは内的な限界です。外的な限界が外延量であり、内的な限界が内包量です。内包量は外延量と異なり、外への拡がりをもたず、温度、湿度、密度などのように定量の内における強度を示す量です。すなわち、「度」とは内包量のことなのです。
 外延量は「自己のうちに多を含む」多者であり、いわば定量の外的な限界を示すものです。これに対して、内包量は「自己のうちで単純な」、自己のうちに区別を含まない一者です。例えば、二十リットルという外延量は、五リットルと十リットルに区別しうる多者ですが、三十度という温度は十八度と十二度の二つの温度に区別することのできない一者なのです。定量は規定された量であって質をもちませんが、内包量は定量の質的ともいうべき内的な限界を示すものです。
 マルクスは『資本論』のなかで、搾取強化の方法として「労働日の延長」による「労働の外延的大きさ」の増大とあわせて、「労働の強化」による「内包的大きさ」の増大を指摘しています(『資本論』③七〇七ページ/四三一ページ、新日本新書)。
 いわば外延量は、定量という「量のなかの量」であるのに対し、内包量は「量のなかの質」ということができるのであり、定量は、この二つのモメントを外的限界、内的限界としてもっているのです。
 「連続量および非連続量と、外延量および内包量との相違は、前者は量一般に関係するが、後者は量そのものの限界あるいは規定性にのみ関係するという点にある。 ── しかし外延量および内包量も、その各々が他方は持たない規定性を含んでいるというような、二つの種類ではない。外延量であるところのものは、同様に内包量でもあり、またその逆も成立する」(三一二ページ)。
 連続性と非連続性とは量一般の二つのモメントですが、外延量と内包量とは規定された量、つまり定量に「のみ関係する」相違であり、定量という限定された量そのものの相違となる二つの「限界」を示すものです。例えば、三十度の温度の水が二十リットルある場合、その水の内的限界は三十度、外的限界は二十リットルとなります。
 しかし外延量と内包量とは、非連続量と連続量の関係と同様に相互に無関係な「二つの種類」ではなく、一つの定量のうちの二つのモメントとして相互に転化しあう関係にあります。例えば気体の体積は圧力に反比例し、絶対温度に正比例するというボイル・シャルルの法則があります。気体の温度という内包量を上げていくと、気体の体積という外延量は増加します。内包量から外延量への転化です。逆に気体を圧縮して外延量を小さくすると、温度という内包量は増大します。これは外延量から内包量への転化です。
 温度計は、温度という内包量の増減が水銀またはアルコールの体積という外延量の増大に転化することを利用したものです。

一〇三節補遺 ── 定量は内包量と外延量の統一

 「内包量あるいは度は、概念上外延量あるいは定量とは異ったものである。だから、しばしば行われているように、この区別を認めないで、大きさのこの二つの形態を直ちに同一視するのは、許されがたいことと言わなければならない。こうした同一視は、特に物理学において甚しい。例えば、そこで比重の相違がどう説明されているかと言うと、他の物体の二倍の比重を持つ物体は、同じ空間内に他の物体の二倍だけ多くの物質部分(アトム)を含んでいるのだという風にして説明されている」(三一二~三一三ページ)。
 本節でみたように、定量には内包量と外延量という二つの限界があります。この区別を認めず、例えばすべての量を外延量に還元して両者を「同一視する」のは、「許されがたいこと」と言わなければなりません。
 当時の物理学は、原子はそれ以上分けることができないとするドルトンの原子論が発表されたぐらいで、メンデレーエフの「元素の周期表」が発表されたのはヘーゲル死後の一八六三年でした。この周期表によって各元素の原子量が明らかにされ、諸原子を組み合わせた様々な分子の質量も特定できるようになりました。
 当時の物理学では、すべての物質は同じ質料をもつアトム(原子)から成ると考えられていたのでしょう。各物質の比重の相違は、物質を構成する原子の質量という内包量によって決まるにもかかわらず、当時は原子の量という 外延量によって説明されていたのです。
 また当時、温度は熱素という粒子、光度は「光の粒子」(三一三ページ)という同一の強度をもつ粒子の多少という外延量によって説明されていたようです。現在では、物質の温度はその物質をつくっている分子の熱運動という内包量によってきまり、光は物体の温度という内包量によって、温度に応じた色の光をだすことが明らかになっています。
 当時のアトム論に対し、ヘーゲルはそうした説明は「知覚と経験の領域を越え、……思弁(観念 ── 高村)の世界へおもむく」(同)ものであり、「多のモメントをアトムという形で固定し、そしてそれを究極のものとして固執するのは、抽象的な悟性である」(三一四ページ)と批判しています。このアトム論の批判は、アトムを分割不可能な物質の最少単位として固定することを批判したものであると同時に、物質の階層の無限性に言及したものとも思えるものになっています。
 この同じ抽象的な悟性が「外延量を量の唯一の形態とみ、そして内包量があると、それをその固有の規定性において認めず、支持されがたい仮説にもとづいて、強いてそれを外延量に還元しようとする」(同)のです。物理学の未発展の時代に、ヘーゲルが思惟の力によって、内包量のすべてを外延量に還元する当時の物理学の批判を正しくおこなっているのは、哲学の勝利というほかありません。
 しかし現代では原子量(原子の質量)を規定するものは原子核のうちにある陽子と中性子の総数(核子数)であることが判明していますので、原子量という内包量も核子数という外延量によって規定されることになり、古代アトム論が再勝利したという否定の否定となっているのです。
 ヘーゲル哲学を「同一哲学」(同)として批判する者がいますが、「哲学は、概念上および経験上異っているものをあくまで区別することを要求する」(同)ものであり、こういう区別を無視する物理学者の哲学こそ「同一哲学と呼ばれるにふさわしい」(同)のです。

一〇四節 ── 度の矛盾は量の無限進行を定立する

 「度において定量の概念が定立されている。それはそれ自身としては無差別的で単純な大きさであるが、しかしそれを定量とするところの限定性を、全く自己の外部にある他の諸量のうちに持っている。向自有的な無差別的な限界が絶対的な外面性であるというこの矛盾のうちに、量の無限進行が定立されている。すなわち、一つの直接態は直接にその反対物、媒介態(定立されたばかりの定量を越えること)へ転化し、媒介態はまた直接に直接態へ転化するのである」(三一五ページ)。
 定量は「それ自身としては無差別的で単純な大きさ」という自立した量ですが、「しかしそれを定量とするところの限定性を、全く自己の外部にある他の諸量」にもつ非自立的な量でもあります。
 度(内包量)は、こういう自立性と非自立性との矛盾を最も明確にあらわす「定量の概念」(真の姿)です。というのも内包量は、一方で「量のなかの質」として向自有的な自立した質的な量でありながら、他方で外部の量によって規定される非自立的な量としての矛盾をもっており、「この矛盾のうちに、量の無限進行が定立されている」のです。つまり内包量も一つの内包量から媒介された他の内包量へという無限進行をくり返すのです。
 「数は思想ではあるが、しかし全く自己に外的な存在としての思想である。それは、思想であるから、直観には属さないが、しかし直観に固有な外面性の性格を持っている」(同)。
 一〇二節で学んだように数は作られるものであり、言いかえると思想によって作られるものです。しかし、数は感覚的なもの(「直観」的なもの)に最も近い思想として、思想であるにもかかわらず、まだ「直観に固有な外面性の性格」、つまり外面的なものによって左右される性格をもっているのです。
 「したがって定量は、単に無限に増減しうるにとどまらず、むしろ、不断に自己を越え出るということが、定量そのものの概念に含まれているのである。量の無限進行も、或るものと他のものとのそれと同じく、同一の矛盾の無思想な繰返しであって、この矛盾が一般に定量であり、そしてこの矛盾が明確に定立されたものが、度である」(同)。
 したがって定量の概念は、自立しながらも外面性によって規定されるため、「不断に自己を越え出る」ということを含んでいるのです。一定の限度をもちつつその限度を越え出るという定量の「矛盾が明確に定立されたものが、度」であり、したがって「度において定量の概念が定立されている」のです。

一〇四節補遺一 ── 量の矛盾により量の増減は必然となる

 数学では、量を「増減しうるもの」(三〇二ページ)と定義しました。その定義は正しくはあっても、「どうしてこうした増減しうるものを想定するようになるかという問題」(三一六ページ)が残されたままになっています。つまりこの定義では「量が単に増減の可能性であることがわかるだけで、その必然性は認識できない」(同)のです。
 これに反して量を自立性と非自立性との矛盾ととらえることにより、量の概念は「自己を越え出る」(同)ことを含み、「増減は単なる可能ではなく、必然であることが明か」(同)にされるのです。

一〇四節補遺二 ── 量の無限進行は悪無限

 一般に無限というと「量的無限進行」(同)を考えがちですが、九四節で「質的無限進行」(同)は真無限ではないとされたのと同様に、量の無限進行は「真の無限の表現」(同)ではなく、「有限のうちに立ちどまっている悪しき無限の表現」(同)にすぎません。
 それは「絶えず限界が立てられてはまた除かれ、何時までたっても一歩も前進しない」(三一七ページ)退屈なものになっているのです。
 量の真無限も有限な定量の「単なる彼岸」(三一八ページ)にではなく、有限な定量のうちに見出されねばならないのであって、それが後にみる「比」なのです。

一〇四節補遺三 ── ピュタゴラス派批判

 ピュタゴラス派は、「事物の根本規定は数である」(同)と考えました。このピュタゴラス派の考えは、一三節で学んだように哲学の歴史を「理念の発展の諸段階」(八三ページ)としてとらえたとき、どのような位置づけをもつのでしょうか。
 「哲学の任務は一般に、事物を思想に、しかも規定された思想に還元すること」(三一八ページ)にありますから、ここではピュタゴラス派の思想上の位置づけを問題にしているのです。
 ヘーゲルは、ピュタゴラス派を哲学の歴史上「イオニア学派とエレア学派との間に立っている」(同)と位置づけています。というのもイオニア学派は、水とか空気などの「物質的なもの(ヒュレー)」(同)を事物の根本原理と考えたのに対し、エレア学派のパルメニデスは、「有」という純粋な思想を根本原理と考えました。これに対し数は一つの思想であっても「感覚的なものに最も近い思想」(同)です。したがってピュタゴラス派は、「物質的なもの」と「思想」との中間にある「数」を根本原理とすることにより、「感覚的なものから、超感覚的なものへの橋をなしている」(同)のです。
 或る人々は、ピュタゴラス派を「行きすぎ」(三一九ページ)と批判していますが、「事実はまさにその逆」(同)であり、「単に数という思想をもっては事物の規定された本質あるいは概念を言いあらわすに足りない」(同)のです。哲学は、客観的事物のうちの真なるものを思想のうちにとらえるのですから、「数」という感覚的な思想から「純粋な思想」(二六二ページ)へと前進しなければなりません。
 「したがって、ピュタゴラスの数の哲学を行きすぎであると主張するかわりに、むしろ逆にそれは行くべきところまで行かなかったと言うべきであろう」(三一九ページ)。
 実際にも、ピュタゴラス派を乗り越え、エレア学派は「純粋思惟」(同)としての「有」にまで前進して行ったのです。
 ピュタゴラスは、弦の長さを整数倍にすると協和音になるところから、「事物の本質を数と考えるようになった」(三二〇ページ)といわれています。「と言って思想の規定性を一般に単なる数的規定性と解するのは、全く許しがたいこと」(同)といわなければなりません。
 例えば、「一は単純で直接的なもの、二は区別と媒介、三は両者の統一」(同)といえなくもありませんが、しかしそういう「思想」は一、二、三という「諸数そのもののうちには含まれていない」(同)のであって、そういう思想は数そのものとは無関係な「全く外的な結合」(同)にすぎません。「特定の数」(同)は直ちに「特定の思想」(同)をあらわすものではありませんから、特定の数を特定の思想に結びつけるのは「一方では罪のない遊戯であるとともに、他方では思惟における無能を示すもの」(同)でしかありません。
 「哲学において重要なことは、或ることを考えうるということではなく、現実に考えるということである。思想の真のエレメントは勝手に選ばれた象徴のうちにではなく、思惟そのもののうちに求められなければならない」(同)のであり、こんな「罪のない遊戯」にとどまることはできません。

一〇五節 ── 比は量の真無限

 「このように、向自有的な規定性を持ちながらも、自分自身に外的であるということが定量の質をなしている。定量はこの外在性のうちで自分自身であり、自分自身に関係している。定量のうちには、外在性すなわち量的なものと、向自有すなわち質的なものとが合一されている」(三二一ページ)。
 本節は、比が量の真無限であることを明らかにした節です。
 一〇四節で定量には「向自有的な無差別的な限界」(三一五ページ)と「絶対的な外面性」(同)との矛盾があることを学びましたが、その矛盾が「定量の質」をなしています。定量は「この外在性のうちで自分自身であり」定量としてあるのです。
 定量は一定の量ですから質をもちませんが、それでも一〇三節で学んだようにそのうちに「質的なもの」と「量的なもの」とをもっています。定量における「向自有的な規定性」(内包量)は、定量における「質的なもの」をなし、「外在性」(外延量)は「量的なもの」をなし、両者は定量のうちで「合一」しています。しかし定量における質的なものと量的なものとの合一は、思想においてはじめてとらえられるものであり、誰の目にも明らかな顕在化されたものにはまだなっていません。
 「それ自身に即してかく定立された定量が比である。こうした規定性は、直接的な定量すなわち比の値であるとともに、また媒介すなわち或る定量の他の定量への関係である。比の両項は、その直接的な数値において妥当するのではなく、それらの値はこの関係のうちにのみあるのである」(三二一ページ)。
 このように「定量の質」のもつ矛盾が、即自的なものから、対自的なものとして誰の目にも明確に「定立された」ものが「比」なのです。
 比とは、例えば分母が二で分子が一(二分の一)のようなものです。比における「質的なもの」とは「比の値」であり、この場合は〇・五という有限な定量です。これに対し比の両項は分母と分子という「量的なもの」であり、二対一だけではなく四対二、六対三、八対四というように「或る定量の他の定量への関係」にかかわる無限の数値を取り入れることができます。この意味で比は、定量一般と異なり質的なものと量的なものとの矛盾が顕在化している定量なのです。比はその質的なものによって有限でありながら、その量的なものによって無限であり、有限な定量のうちの無限として真無限の定量なのです。

一〇五節補遺 ── 比は数の自己超出と自己復帰の統一

 量の無限進行とは「数の不断の自己超出」(同)ですが、いくら数を積み重ねても数から脱け出すことはできないので、「量はこの進行において自分自身へ帰る」(同)のです。
 このように量の無限進行により不断に自己超出しながら、自分自身に復帰するものが「比」なのです。比は、「それ自身一つの定量」(同)としての比の値と、不断に自己超出する比の両項とをもっています。比において比の両項は不断に自己超出しながらも、比の値という同一な自分自身に復帰しているから、比は有限なもののうちの無限である量の真無限なのです。

一〇六節 ── 量から限度への移行

 「比の両項はまだ直接的な定量であって、質的規定と量的規定とはまだ互に外的である。しかし、量的なものがそれ自身外在性のうちにありながらも自己関係であるという、あるいは、向自有と規定性への無関心とが合一されているという、それらの真理からすれば、比は限度である」(三二二ページ)。
 本節は「比」をつうじて「B 定量」から「C 限度」への移行を論じたものです。
 比の値、つまり比の「質的規定」と、比の両項、つまり「量的規定」とは、「まだ互に外的」な関係にあります。その意味では比において比の質的規定と量的規定とは「合一されて」はいるものの、質的規定と量的規定とが一体となった真の合一ではありません。
 したがって量における質的規定と量的規定の合一の「真理」は、両者が相互に媒介されつつ「合一」(一体)となる「C 限度」にほかならないのです。

一〇六節補遺 ── 量の弁証法は量から限度への移行をもたらす

 「量は、これまでみてきたような諸モメントを通過する弁証法的運動によって、質への復帰であることを証示した」(三二二~三二三ページ)。
 これまでの量の「弁証法的運動」をふり返ってみましょう。
 まず量とは、「揚棄された質」(三二三ページ)であるというところから出発しました。量は質と異なり、「変化にもかかわらずあくまで」(同)量としての同一性を保つような可変的なものです。
 しかし、定量は度(内包量)において量の質的なものをもつにいたり、比において「質への復帰であることを証示」します。つまり、量は質を揚棄した質の否定として出発しながら、「量の弁証法」(同)により、質に復帰したのです。
 しかしこの量の弁証法の結果は、「単なる質への復帰ではなくて」(同)、質と量とが相互に媒介されつつ合一するという質と量の統一としての限度となるのであり、この限度が質と量という「両者の真理」(同)なのです。つまり現実に存在するすべての事物は、質と量の統一としての限度をもっているのです。
 われわれが現実の世界の「考察に際して、量的規定を問題としている場合」(同)、実際に念頭においているのは、質と無関係な量ではなくて、「特定の質の根柢に横たわっている量」(同)、つまり限度を問題にしているのです。

 

二、「C 限度」

 「C 限度」は一〇七節から一一一節までの短いものとなっていますので、「主題と構成」を論じるまでもありません。モノには限度があり、限度を越えると量の変化は質の変化を、質の変化は量の変化をもたらすという「度量の結節点」が論じられています。

一〇七節、同補遺 ── モノには限度がある

 限度とは「質的な定量」(三二四ページ)、つまり定有(質)と結びついた定量です。すべての事物は「質と量の統一」(同)として存在していますから、有は「限度においてその完全な規定性」(同)に達し、「完成された有」(同)となります。
 したがって「限度は絶対者の定義の一つ」(同)として「絶対者は限度である」、つまり「絶対的真理はあらゆる事物のうちにある限度である」と定義しうるのであり、「神は万物の限度」(同)といわれています。
 ギリシャ人は「倫理にかんして、ネメシス(本来適当な分配の意)」(三二五ページ)という言葉をもっていました。「一般的に言って、富、名誉、権力、喜び、苦しみ、等々、すべて人間的なものには一定の限度があって、それを越えると破滅する」(同)という意味で用いられていました。いわば、「モノには限度がある」のです。
 ヘーゲルは当時の状況のなかで自然界の様々な限度を論じていますが、面白いのは「より不完全な、したがって無機的自然により近い有機体は、高級の有機体ほどその限度が規定されていない」(同)として「菊石(アンモナイト ── 高村)(同)の例をあげています。果たして現時点の科学的知見でも、高級な有機体ほどその限度が規定されている(外延量の上限と下限の巾が狭い)といいうるのか、疑問を呈しておきます。

一〇八節 ── 限度をこえる量の変化は質の変化をもたらす

 「限度において質と量とが直接的な統一のうちにのみあるかぎり、それらの相違は同じく直接的な仕方であらわれる。このかぎりにおいて特殊的定量は一方単なる定量であり、したがって限度(これはこのかぎりにおいて尺度である)を廃棄することなしに定有は増減されうる。しかし他方定量の変化はまた質の変化でもある」(三二六ページ)。
 「直接的な統一」とは、相互媒介的な統一ではなく相互に無関心な統一という意味です。
 限度における質と量とは、確かに二つのモメントとして統一されているのですが、とりあえずは質は質、量は量としてそれぞれ相互に無関心なところから、両者は別個に変化するにすぎません。それをヘーゲルは「それらの相違は同じく直接的な仕方であらわれる」と表現しています。
 したがって或るもののもつ「特殊的定量」(そのものに固有な定量)が、そのものの「限度」の範囲内で増減するかぎり、そのもののもつ質を「廃棄」することはないのです。つまり限度の範囲内にあるかぎり、量の変化は或るものの質の変化に何の影響も及ぼさないのです。
 しかし「定量の変化」が、或るものに固有の「限度」をこえて増減するとき、「定量の変化はまた質の変化」をもたらします。
 これが量から質への転化といわれるものであり、ここに漸次性の中断による飛躍が生じるのです。 

一〇八節補遺 ── 限度における質と量の区別と同一

 「限度のうちに存在する質と量との同一は、最初は単に即自的であって、まだ定立されていない。そのためにその統一が限度をなす二つの規定は、それぞれ独立性をも持っている。すなわち、一方では定有の量的諸規定は、その質へ影響を与えることなしに変化されうるとともに、他方ではこうした無関係な増減にはその限界があって、それを越えると質が変化される」(同)。
 或るものはその限度のうちにあるかぎり、質と量とは、或るもののモメントとして統一のうちにはあるものの、質は質、量は量として「それぞれ独立性を持って」おり、統一ではあってもまだ同一は「定立されていない」のです。
 しかし或るものの量的な増減がその「限度」を越えるとき、量の変化は質の変化と一体となり、対立する関係にあった質と量との同一が定立され、量は質に移行するのです。いわば対立物の相互移行という弁証法です。エンゲルスは『自然の弁証法』において、弁証法の三法則の一つに「量から質への転化、またその逆の転化の法則」(全集⑳三七九ページ)をあげ、これを第一部「有論」を代表する弁証法の法則としています。
 しかし有論に含まれる弁証法は、この量と質の弁証法のほかに、成(有と無)の弁証法、或るものと他のものの弁証法、限界の弁証法、変化(有限性と可変性)の弁証法、真無限(有限と無限)の弁証法、質の弁証法、向自有における否定の否定、連続量と非連続量の弁証法、単位と集合数の弁証法、外延量と内包量の弁証法、量の弁証法など、いくつもの弁証法を含んでいます。
 弁証法の基本形式は、即自 ── 対自 ── 即対自という対立物の統一であり、そこには大きく対立物の相互浸透(相互移行)と相互排斥(対立物の闘争)があります(詳しくは一二〇節で学びます)。量から質への移行は、対立物の相互浸透の一事例にすぎません。
 こうした理由からすると、量から質への移行を三法則の一つとして位置づけることには疑問を感じます(拙著『エンゲルス「反デューリング論」に学ぶ』参照)。
 ヘーゲルは、この量から質への転化を、量の変化が「質的なものを捕える言わば狡智である」(三二六~三二七ページ)ととらえ、「限度のアンチノミー」(三二七ページ)と呼んでいます。その例として、お馴染みの水から水蒸気への転化のほかに、ギリシャ時代の「一粒の小麦が小麦の山を作るかとか、馬のしっぽから一本の毛を抜けばそれは禿げたしっぽであるか」(同)などの問題をあげています。

一〇九節 ── 量から質へ、質から量への無限進行

 「限度のないものとはまず、限度がその量的本性によってその質的規定性を越えたものである。しかし最初のものの限度こそ欠いていても、第二の量的関係はやはり質的であるから、限度のないものも同じく一つの限度である。こうした二つの移行、すなわち質から定量への、および再び定量から質への移行は、無限進行、すなわち限度のないもののうちでの限度の否定および回復として表象することができる」(三二八ページ)。
 或るものは、その限度を越えることによって「限度のないもの」に移行することになります。しかし「限度のないもの」といっても、ある質をもった或るものから別の質をもった他のものに移行するに過ぎませんから、「限度のないものも同じく一つの限度」なのです。
 これが、質から量への移行といわれるものです。例えば、水という液体を熱すると水蒸気という気体になります。それは量から質への転化ですが、水蒸気という新たな質はそれとしての新たな限度を回復し、水に比べて千七百倍もの容積をもつに至ります。質の変化が量の変化をもたらしたのです。
 このように、量から質へ、質から量への無限進行は、「限度の否定」と「限度の回復」の無限進行として「表象することができる」のです。

一〇九節補遺 ── 度量の結節点

 「量は、すでに述べたように、変化すなわち増減しうるにとどまらず、それは一般に本来自分自身を超出するものである。こうした本性を量は限度のうちでも保持している。しかし限度のうちに存在している量が、一定の限度を越えると、それに対応している質もまたこれによって否定される。といっても、質一般が否定されるのではなく、この特定の質が否定されるにすぎないのであるから、その場所はすぐにまた他の質によって占められる」(三二八~三二九ページ)。
 一〇四節で学んだように量は単に「増減しうる」にとどまらず、「自分自身を超出するもの」ですが、この定量の本性は「限度のうちでも保持」されており、限度のうちの量は不断に自己超出しようとするのです。
 しかし、「限度のうちに存在している量」が一定の限度を越えると、その限度のもっている「特定の質が否定される」のであって、「質一般が否定される」のではなく「他の質」にかわるにすぎません。
 「かく交互に、単なる量の変化、次に量の質への転化として示される過程は、交点を結ぶ線として直観にもたらすことができる」(三二九ページ)。
 限度(マース)は度量とも訳されていますので、この量から質へ転換する一点は「度量の結節点」とよばれています。ヘーゲルはこれを「交点を結ぶ線」とよんでいますが、「訳者註」(同)にもあるように、「量的増減によって条件づけられる転換点」(同)ですから「度量の結節点」とよぶのが正しいでしょう。

一一〇節 ── 限度の揚棄は本質への移行

 「ここで実際に起っていることは、限度そのものがなお持っている直接性が揚棄されるということである。限度においては最初質と量とが直接的なものとして存在し、限度は両者の相関的な同一性にすぎない。限度は自己を揚棄して限度のないものとなる。しかし、限度のないものは限度の否定ではあるけれども、それ自身やはり質と量との統一であるから、限度のないもののうちで限度は同時にただ自分自身に出あうのである」(三二九~三三〇ページ)。
 一〇九節で限度から限度のないものへ、限度のないもののうちでの限度の回復という限度の無限進行を学びました。しかし限度は限度の無限進行という退屈なもののうちにいつまでもとどまっていることはできません。
 「限度のないもののうちで限度は同時にただ自分自身に出あう」という限度の無限進行を揚棄するためには、限度をもつ或るものが「なお持っている直接性」を揚棄し、或るものを本質によって媒介された存在としてとらえなければなりません。
 ここまで有論における或るものは、すべてその直接的存在において真なるものとしてとらえられてきましたが、いまやこの直接性は否定され、或るものは或るもののうちにある本質に媒介された存在としてとらえないと真理ではないとされるのです。
 こうして有論は本質論に移行することになります。

一一一節 ── 有論から本質論へ

 本節では、有論での論理の展開をふり返り、有論における質と量の弁証法は有を揚棄し、本質へと移行することを明らかにしています。
 質と量という「二つの側面は、(イ) まず質が量へ(九八節)、次に量が質へ(一〇五節)移行することによって相互に移行しあい、かくして否定的なものであることを示した。(ロ) しかし両者の統一、すなわち限度のうちで、両者はまず異ったものであり、各々は互を介してのみ存在している」(三三〇ページ)。
 以上の文章はこれまでの復習です。
 「しかし、(ハ) この統一の直接性が自己を揚棄するものであることが明かになったからには、この統一は今や、それが即自的にあるところのものとして定立されている。すなわち、有一般および有の諸形態を自己のうちに揚棄されたものとして含んでいる、単純な自己関係として定立されている。 ── 自分自身を否定することによって自分自身へ媒介され、自分自身へ関係する有、あるいは直接性、したがって自己を揚棄して自己関係、直接性となる媒介 ── これが本質である」(同)。
 限度は有論の最後に位置する「完成された有」(三二四ページ)ですから、限度を揚棄するとは「有一般および有の諸形態を自己のうちに揚棄」することを意味しています。言いかえれば量と質とをもつ或るものの直接性が揚棄され、或るものは、ナーハデンケンされることによって二重化され、或るものは或るもの自身の直接性を揚棄し、本質によって媒介されたものとしてとらえられることを意味しています。
 つまり本質とは、有のもつ表面的な姿(直接性)を否定することによって獲得することのできる有の真の姿です。本質は有の真の姿ですから、有が「自分自身へ媒介」するものであり、「自分自身へ関係する有」なのです。有は自己を揚棄して「自分自身」の真の姿である本質に自己を媒介するのです。
 ヘーゲルはこのように有論から本質論への進展を質と量の弁証法による有自身の運動であるかのように記述しています。しかし第一講でお話ししたように、ヘーゲル論理学は全体として認識論(一部実践論を含む)を論じたものであり、有論から本質論への進展も、質と量の弁証法をつうじて認識が深化し、本質論にまで達したものとして理解しなければなりません。

一一一節補遺 ── 有論は移行、本質論は関係

 限度の過程のうちで、質から量、量から質へと対立物の相互移行をくり返すなかで、質と量という有の「諸規定」は揚棄され、「揚棄された有」(三三一ページ)としての本質が認識のうちにとらえられることになります。
 「普通の意識は事物を有と考え、それを質、量、および限度の点から考察する。しかしこれら直接的な諸規定は、その実不変なものではなくて、移行するものであり、そして本質がそれらの弁証法の成果である」(同)。
 普通の意識は、事物を有の見地からとらえ、質・量・限度という表面的な感覚的認識において考察するのですが、哲学的思惟は、こうした有の諸規定は、不変なものでも真なるものでもないとしてこれを否定し、有の真の姿としての本質に移行する悟性的認識に発展するのです。
 「本質においてはもはや移行は起らず、ただ関係があるにすぎない。関係という形式は、有においてはわれわれの反省にすぎなかった。本質においては、これに反して、関係は本質そのものの規定である。有の領域においては、或るものが他のものとなれば、或るものは消失してしまう。本質の領域においてはそうでない。ここには真の他者はなく、差別、すなわち、或るもののその他者への関係があるにすぎない。したがって本質の移行は、同時になんら移行ではない。というのは、異ったものが異ったものへ移行しても、異ったものは消失するのではなく、異った二つのものはあくまで関係しているからである」(同)。
 有論においては、或るものから他のものへ「移行」が問題になりました。しかし本質においては、すべてがナーハデンケンによって二重にとらえられ、例えば本質と現象のように両者の「関係」が問題となるのです。本質論においても本質から現象へというような「移行」が問題になりますが、有論の移行とは異なり本質が現象に移行しても本質が無くなるわけではなく、「異った二つのものはあくまで関係している」にとどまっているのです。
 「例えばわれわれが有および無と言えば、有はそれだけで存在し、同じく無もそれだけで存在している。肯定的なものと否定的なものとの場合は全くちがう。……肯定的なものはそれだけでは何の意味も持たず、それはあくまで否定的なものに関係している。否定的なものも同じである」(三三一~三三二ページ)。
 ヘーゲル哲学は「最も広い意味での必然性」(七五ページ)を追求します。必然性の最も普遍的な形態が「対立」です。対立する関係にある二つのものは相手があってはじめて自分もあるという関係にあり、相互に「自己に固有の他者」( 二八ページ)をもつという必然的な「関係」にあるのです。
 有論における有と無とは確かに対立する関係にあるカテゴリーではありますが、「有はそれだけで存在し、同じく無もそれだけで存在」しています。これに対して本質論における基本的なカテゴリーは「肯定的なものと否定的なもの」であり、両者はいずれも「それだけでは何の意味も持たず」、対立する二つのカテゴリーの相互媒介の関係においてのみ意味を持っているのです。
 本質論では、事物を二重化することにより、二つのものを対立の関係においてとらえます。
 「有の領域においては関係は即自的であるにすぎない。本質においてはこれに反して関係は定立されている。これが、一般的に言って、有の諸形態と本質の諸形態との区別である。有においてはすべてが直接的であり、本質においてはすべてが相関的である」(三三二ページ)。
 有論においても関係の論じられることがありましたが、それはまだ「即自的」なものにすぎませんでした。これに対して本質論において「関係は定立されている」のであり、すべてのカテゴリーが「対立」する二つのものの関係として論じられることになります。したがって「有においてはすべてが直接的であり、本質においてはすべてが相関的」なものとしてとらえられるのです。こうして有論の感性的認識は、本質論の悟性的認識へと進展していくのです。