『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より
第三一講 第二部「本質論」⑦
「C 現実性」総論(二)
前回から「現実性」に入りました。ここでいう現実性とは「真の意味における現実」(㊤六九ページ)、つまり本質的現実性です。
これに対して仮象としての現実性は、可能性と偶然性であり、今回はその偶然性から検討することになります。
一四四節 ── 偶然性は単に外的な現実性
「 (ロ) しかし、自己内反省としての可能性から区別された現実性は、それ自身外的な具体物、非本質的な直接的なものにすぎない。あるいは直接的に言えば、現実性がまず(一四二節)内的なものと外的なものとの、単純な、直接的でさえある統一として存在するかぎり、それは非本質的な外的なものとして存在しており、かくして同時に(一四〇節)単に内的なもの、自己内反省という抽象である」(八八ページ)。
一四三節で、仮象としての現実性は、非本質的な現実性、単に内的なものとしての可能性という現実性であることを学びました。この非本質的な内的なものである可能性に対応するものが、「それ自身外的な具体物」であり、「非本質的な外的なもの」としての偶然性なのです。
一四二節で学んだように、真の現実性は「内的なものと外的なものとの統一」(八一ページ)です。しかし一四〇節でみたように「内的なものにすぎないものは、また外的なものにすぎ」(七四ページ)ないのですから、「単に内的なもの」としての可能性は単に外的なものとしての偶然性なのです。つまり単に内にある可能性は、単に外にある偶然性にほかならないのです。
一言注意しておくと、可能性も偶然性もともに現実性の一様態です。現実性とは「現実そのもの」(八一ページ)として外的なものですから、現実性のうちに内的なものと外的なものを区別するのは理解できないと思われるかもしれませんが、ここは比喩的なものとして理解すべきでしょう。いわば現実性における単に内的なものともいうべきものが可能性であり、単に外的なものともいうべきものが偶然性なのです。
「したがって現実性自身が単に可能なものとして規定されている。このように単なる可能性という価値しか持たぬ現実的なものは、一つの偶然的なものである。そして逆に、可能性は単なる偶然そのものである」(八八ページ)。
単に内的なものとしての可能性は単に外的なものとしての偶然性であり、単に外的なものとしての偶然性は単に内的なものとしての可能性です。したがって「単なる可能性という価値しか持たぬ現実的なものは、一つの偶然的なもの」であり、またその逆も成り立つのです。
その意味で「偶然的な存在は真の意味における現実という名には値しない」(㊤六九ページ)のであって、「偶然的なものは可能的なもの以上の価値を持たない存在であり、有るかもしれずまた無いかもしれないもの」(同)にすぎません。
一四五節 ── 可能性と偶然性はその存在根拠を本質のうちにもつ
「可能性と偶然性とは現実性のモメント、すなわち、現実的なものの外面性をなす単なる形式として定立されている、内的なものと外的なものである。この二つのものは、それらの自己内反省を、自己のうちで規定されている現実的なもの、すなわち、本質的な規定根拠としての内容において持っている。したがってもっとはっきり言えば、偶然と可能との有限性は、形式規定が内容から区別されていることにあり、或ることが偶然であり可能であるかどうかは、内容にかかっている」(八九ページ)。
前節でみたように可能性と偶然性は、「現実性のモメント」です。したがってそれらは外的なものとして存在する「現実的なもの」の外面的な形式のうちにおける「内的なものと外的なもの」ともいうべきものなのです。
この二つのものは現実的なものの一様態として、それらの「自己内反省」、つまり存在根拠を現実的なものを規定する本質のうちにもっています。そこに可能性と偶然性の有限性が示されているのです。つまりこの二つのものは、「形式規定が内容から区別されている」のであり、「或ることが偶然であり可能であるかどうか」は内容としての本質にかかっているのであって自分自身では決められないのです。
一四五節補遺 ── 意志の偶然性は正当に評価すべき
「可能性は、現実性の単なる内面にすぎないから、まさにそれゆえにまた単に外的な現実性、すなわち偶然性である。偶然的なものとは一般に、その存在の根拠を自分自身のうちにでなく、他のもののうちに持つものである」(同)。
偶然性とは「単に外的な現実性」、つまり表面的にのみ現実性のようにみえる現実性にすぎません。言いかえれば「単に可能なものという意味における現実的なもの」(同)にすぎません。
それは自分自身のうちに「存在の根拠」をもつのではなく、「存在するか、存在しないか、およびそれが或る形で存在するか、あるいは他の形で存在するかということの根拠」(八九~九〇ページ)を「他のもの」(九〇ページ)である本質のうちにもっているのです。この本質が後にみる「事柄」(一〇一ページ)となります。
「実践の領域でも、意欲の偶然性すなわち恣意にとどまらないことが、われわれの任務であると同様に、このような偶然を克服することが、認識に与えられた任務である」(九〇ページ)。
認識においても実践においても偶然性の領域にとどまらず、必然性の領域にすすんでいくことが哲学するものの任務なのです。
しかし実際には認識の面において「自然についても精神の世界についても」(同)、偶然性を不当に持ち上げることがしばしば行われています。例えば人々は自然の「豊かさと多様性」(同)を嘆賞していますが、豊かさとは偶然性にほかなりませんから、「われわれはそこからさらに自然の内的な調和と法則性とへの洞察に進まなければならない」(同)のです。
「特に重要なのは、意志にかんする偶然性を正当に評価することである。人々はしばしば意志の自由という言葉を単なる恣意、すなわち偶然性の形式のうちにある意志と解している。確かに恣意は、さまざまの決定をする能力であるから、その概念上自由なものである意志の本質的モメントではあるが、しかしそれはけっして自由そのものではなく、形式的な自由にすぎない」(同)。
ヘーゲルは「意志にかんする偶然性」、つまり恣意を「正当に評価」すべきであるという、きわめて重要な指摘をしています。正当に評価するとは、偶然的意志にも積極的意義があると同時にその限界をもつことを認識しなければならないという意味です。
というのも、意志とは自由に決定をする能力ですから、偶然的意志も「概念上自由なものである意志の本質的モメント」をなしており、この偶然的意志の自由が「思想、良心の自由」とよばれるものです。
中世の封建的ヨーロッパに、はじめて「思想の自由」を持ち込んだのが、ルターの宗教改革であり、プロテスタントであるヘーゲルは、この思想の自由を「意志の本質的モメント」として正当に評価すべきだと主張しているのです。
この点からすると、エンゲルスが「意志の自由とは、事柄についての知識をもって決定をおこなう能力をさす」(全集⑳一一八ページ)と規定しているのは問題だといわざるをえません。この規定からすると必然性を認識した自由のみが自由の名に値するのであって、形式的自由、すなわち思想・良心の自由が自由の概念には含まれないことになってしまうからです(拙著『ヘーゲル「法の哲学」を読む』参照)。
しかし、同時にこの思想の自由は、まだ単に自由に決定しうるという「形式的自由」、つまり「恣意」にすぎないのであって、自由な意志はここに立ちどまることはできません。
「恣意を揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる本当に自由な意志は、その内容が即自かつ対自的に確実なものであることを意識していると同時に、それが自分自身の内容であることをも知っている。これに反して、恣意の段階に立ちどまっている意志は、内容からすれば真実で正しいものを選ぶ場合でさえ、気が向いたらまた他のものを選んだかも知れないという軽薄さを持っている」(九〇~九一ページ)。
「本当に自由な意志」は、対象となるものの「内容が即自かつ対自的に確実なものであることを意識」して決定する自由です。つまり対象となる事物における必然性、法則性を認識したうえで、その認識にもとづいて決定する意志です。これにより合法則的に行動することができるのであり、これが必然的自由または普遍的自由とよばれるものです。
この自由な意志の問題は、自由と必然との関係で後に詳しくみていくことになりますが、自由な意志は、否定的自由にはじまり、形式的自由から必然的自由(普遍的自由)を経て、さらには概念的自由へと発展していくのです。
形式的自由は、「真実で正しいもの」を選ぶ場合でさえ、たまたまそれを選んだにすぎないのであって、気が向けば「他のものを選んだかも知れないという軽薄さを持っている」のです。
ヘーゲルは、恣意は「一つの矛盾」(九一ページ)だといっています。というのも、それは、形式的には自由であっても、内容的には「外部の事情に」(同)規定されていて、けっして自由ではないからです。つまり恣意とは「形式と内容」(同)とが対立し、形式上の自由と内容上の不自由という矛盾なのです。
「偶然性は現実性の一面的なモメントにすぎず、したがってわれわれはそれを現実性そのものと混同してはならない。しかし偶然性もやはり理念の一形式であるから、それは当然客観的な世界のうちにその位置を持っている」(同)。
偶然性も現実性の一モメントとして、「理念」つまり真なるものの一形式ですから、「当然客観的な世界のうちにその位置を持って」います。しかしあくまで一モメントにすぎませんから、「現実性そのものと混同してはならない」のです。
まず自然についていえば「自然の表面には、言わば偶然がほしいままにはびこっている」(同)のであり、それを否定することはすべてを必然としてとらえる決定論の誤りに導かれてしまいます。同様に精神の世界にも「形式的自由」でみたように偶然が支配していますし、言語、法律、芸術等々についても同様です。
このように世界は、単なる偶然の集まりでも必然の集まりでもなく、偶然と必然の統一だからこそ、「科学の目」でそのなかの必然性という真理を探究することが必要となるのです。
エンゲルスは、ダーウィンの進化論が「必然性と偶然性との内的連関についてのヘーゲルの叙述を実地に証明したもの」(全集⑳六〇七ページ)と述べています。種の進化とは偶然的な突然変異が必然的な遺伝子の変化に移行するのであって、偶然の必然性への転化の一例ということができます。
「学問および特に哲学の任務が、偶然の仮象のもとにかくされている必然を認識することにあるというのは、全く正しい。しかしこのことは、偶然的なものは主観的な表象にのみ属し、したがって真理に達するにはそれを全く除去しなければならない、というような意味に理解されてはならない。一面的にこのような方向をのみ追う学問的努力は、空虚な遊戯であり、融通のきかぬペダンチズムであるという正当な非難をまぬかれることができないであろう」(九二ページ)。
哲学の任務は「偶然の仮象のもとに隠されている必然を認識することにある」のです。先に哲学の目的は「無関係を排して諸事物の必然性を認識することにあり、他者をそれに固有の他者に対立するものとみることにある」(三二ページ)ことを学びました。ヘーゲルは「必然性という概念は非常に難解な概念である」(九五ページ)と述べています。必然性はそれだけ豊かな概念であり、「対立」というカテゴリーもまた「区別」という「偶然性の仮象のもとにかくされている必然」の一例となっているのです。また「自由」というカテゴリーも、一見偶然性のもとにある自由な意志も、必然性との関連において理解しなければならないことを教えているのです。
したがって「真理に達する」には、その隠されている必然を認識することが重要なのであって、偶然性を否定し、排除して、すべてを必然的なものととらえる決定論の立場にたつことを意味しているわけではありません。決定論は「空虚な遊戯であり、融通のきかぬペダンチズム(空論家 ── 高村)」にすぎないのです。
一四六節 ── 偶然性は本質(事柄)の条件となる
「現実性の外面は、より立ち入って考えてみると、次のことを含んでいる。すなわち、偶然性は、直接的な現実性であるから、本質的に被措定有としてのみ自己同一なものであるが、しかしこの被措定有も同様に揚棄されており、定有的な外面性である。かくして偶然性は前提されているものであるが、同時にその直接的な定有は一つの可能性であり、揚棄されるという定め、他のものの可能性であるという定めを持っている。すなわちそれは条件である」(九二~九三ページ)。
本節は偶然性から必然性への移行を媒介するものが、偶然性の転化した「条件」というカテゴリーであることを論じています。
「現実性の外面」としての偶然性は、単に外的なものとして措定された(「被措定有」)現存在するもの(「自己同一なもの」)ですが、偶然性は他のものである事柄(本質)のうちにのみ根拠をもつものとして「揚棄されるという定め」をもっています。このように偶然性は事柄とともに揚棄されて新しい現実性となるという「定め」をもつことにより、事柄の条件となるのです。
条件そのものは偶然性にすぎず「他のものの可能性であるという定め」をもつにすぎませんが、「事柄」と結びついて必然的現実性に転化する一つのモメントとなっているのです。
一四六節補遺 ── 条件と事柄の結合による新しい現実の出現
「偶然的なものは、直接的な現実性として、同時に他のものの可能性でもあるが、しかしそれはすでに、われわれが最初に持っていたような抽象的な可能性ではなく、有るものとしての可能性であり、かくしてそれは条件である」(九三ページ)。
偶然的なものは一つの「直接的な現実性」ですが、偶然的なものであるがゆえに存立の根拠を自己のうちにもたない「他のものの可能性」です。その可能性は一四三節で学んだ「抽象的な可能性」ではなく、具体的な一つの現実性という「有るものとしての可能性」であり、偶然的なものはその条件となるのです。
「われわれが或る事柄の条件と言うとき、そこには二つのことが含まれている。一つは定有、現存在、一般的に言えば直接的なものであり、もう一つは、この直接的なものが揚棄されて他のものの実現に役立つという定めである」(同)。
条件は、条件として自立したものではなく、「或る事柄」と結びついて「或る事柄の条件」となるのです。条件は一つの「直接的な現実性」ではあっても、同時に「揚棄されて他のものの実現に役立つ」という定めのうちにある現実性なのです。
「直接的な現実性は真の現実性ではなく、自己のうちで分裂した、有限な現実性であり、消耗されるということがその定めである。しかし現実性のもう一つの側面は本質性である。これはまず内的なものであるが、内的なものは単なる可能性にすぎないから、同じく揚棄される定めを持っている。揚棄された可能性としては、それは一つの新しい現実の出現であって、この現実は最初の直接的な現実を前提として持っている」(同)。
「真の現実性」の一つの側面は「内的なものと外的なものとの統一」(八一ページ)であり、「自己と同一となった相関」(八二ページ)です。しかし条件としての偶然性は真の現実性ではなく単に外的なものという「自己のうちで分裂した、有限な現実性」であり、その有限性によって自己を揚棄し「消耗されるということがその定め」なのです。
これに対して「現実性のもう一つの側面」は、「本質と現存在との統一」(八一ページ)としての現実性における本質的現実性、つまり「本質性」としての「事柄」です。この事柄という本質性は「まず内的なもの」、「単なる可能性」にすぎないのですが、条件と結合することによって、条件と「同じく揚棄される定め」をもっています。事柄が揚棄されるとき、「それは一つの新しい現実の出現」となるのであって、この新しい現実は、「最初の直接的な現実」としての条件を「前提として持っている」のです。「或る事柄の条件」は、「自分とは全く別な或るものへの萌芽をそのうちに含んでいる」(九三ページ)のであり、この別なものは「自己を揚棄して現実となる」(同)のです。
「かくして出現するこの新しい現実は、それが消費する直接的な現実自身の内面である。したがってそこには全く別な姿を持った事物が生じるが、しかしそれは最初の現実の本質が定立されたものにすぎないのであるから、なんら別なものは生じないのである。自己を犠牲にし、亡びさり、消耗される諸条件は、他の現実のうちでただ自分自身とのみ合一する」(九三~九四ページ)。
このように事柄と条件とは、結合することにより両者のいずれも揚棄されて「全く別な姿を持った事物」、つまり新しい現実性となります。それは「事柄」という「最初の現実の本質が定立されたもの」であって、内容においては「なんら別なもの」ではありません。消耗される諸条件は、その新しい現実を定立させたものとして「自分自身とのみ合一」しているのです。
「現実性の過程はこうしたものである。現実は単に直接的な存在ではなく、本質的存在として自分自身の直接性を揚棄し、それによって自己を自己自らへ媒介するものである」(九四ページ)。
現実性は本質が現存在するにいたったものですから、新しい現実性が誕生するためには、一つの「過程」を必要とします。その過程とは、「本質的存在」が「自分自身の直接性を揚棄」し、「自己を自己自らへ媒介」する過程です。こういう直接性と媒介性の統一という過程をたどって展開された現実性が次節で論じられる「必然性」なのです。
一四七節 ── 展開された現実性(条件・事柄・活動)は必然性
「 (ハ) 現実性の外面性がこのように可能性および直接的現実性という二つの規定からなる円、すなわち両者の相互的媒介として展開されるとき、それは実在的可能性一般である。このような円としてそれはさらに統体性であり、したがって内容、即自かつ対自的に規定されている事柄である」(同)。
ここにいう「可能性」とは事柄のことであり、「直接的現実性」とは条件のことです。事柄と条件という二つの現実性が「相互的媒介として展開される」とき、それは「実在的可能性」となります。実在的可能性とは偶然的な抽象的可能性と異なり、必然的に現実性に転化する具体的可能性です。
条件と結合した事柄は、「統体性」としての事柄、絶対的に(「即自かつ対自的に」)規定された事柄として、すでに新しい現実性としての内容をもっているのです。
「そしてそれはまた、このような統一のうちにある二つの規定の区別から見れば、対自的な形式の具体的な総体であり、内的なものの外的なものへの、および外的なものの内的なものへの直接的な転化である」(同)。
事柄と条件の結合により、内的なものとしてあった事柄が外的に転化するという意味では「内的なものの外的なものへの」直接的な転化です。他方では外的関係にあった事柄と条件が結合し、新しい現実の内容、つまり内的モメントとなるという意味では、「外的なものの内的なものへの直接的な転化」となります。
こういう二つの側面からみた内的なものと外的なものとの交互転化をヘーゲルは、内的なものと外的なものとの対立という「対自的な形式の具体的な総体」とよんでいるのです。
「形式がこのように動いていくということが活動、すなわち自己を揚棄して現実となる実在的根拠としての事柄の働きであり、また偶然的な現実、諸条件の働きである」(同)。
このように内的なものが外的なものへ、外的なものが内的なものへと「動いていくこと」が「事柄の働き」であると同時に「諸条件の働き」であり、これが「活動」とよばれるものなのです。
「諸条件の働きとはすなわち、諸条件の自己内反省、諸条件が自己を揚棄して一つの異った現実、事柄の現実となることである。あらゆる条件が現存すれば、事柄は現実的にならざるをえない。そして、事柄はそれ自身諸条件の一つである。なぜなら、それは最初は内的なものとして、それ自身単に前提されたものにすぎないからである」(九四~九五ページ)。
諸条件の働きにより、諸条件は「自己を揚棄して一つの異った現実」となります。この場合の「諸条件」には「事柄」も含まれます。なぜなら事柄も条件と同じく「最初は内的なもの」であり、条件と同じく揚棄されるべく「前提されたものにすぎない」からです。事柄は諸条件のなかにおける本質的な条件として、新しい現実を「事柄の現実」とするのです。
あらゆる条件が現存するに至れば事柄は「現実的にならざるをえない」のであり、これが媒介を揚棄した必然性というものなのです。必然性とは現実性になることもあれば、ならないこともあるという関係ではなく、媒介を揚棄して「現実的にならざるをえない」関係であってそれ以外ではありえないのです。
「展開された現実性は、内的なものと外的なものとが一つのものとなる交互的な転化、一つの運動へと合一されているところの両者の対立的な運動の交替であって、これがすなわち必然性である」(九五ページ)。
このように条件、事柄、活動として「展開された現実性」は、「内的なものの外的なものへの、および外的なものの内的なものへ」の「交互的な転化」による「両者の対立的な運動の交替」となります。つまり、うちにあった諸条件が外的なものに転化して現実性になるのと同時に、現実性にとって外的なものであった諸条件が現実的なものの内的なものに転化するのです。これが必然性というものです。すなわち「現実は、それが自己を展開するとき、必然性としてあらわれる」(八八ページ)のです。
「必然性が可能性と現実性との統一と定義されるのは正しい。しかし単にそう言いあらわしただけでは、この規定は表面的であり、したがって理解しがたいものである。必然性という概念は非常に難解な概念である。というのは、必然性はその実概念そのものなのであるが、その諸契機はまだ現実的なものとして存在しており、しかもこれら現実的なものは同時に単なる形式、自己のうちで崩壊し移行するところの形式としてとらえられなければならないからである」(九五ページ)。
必然性を簡単に表現すると「可能性と現実性との統一」と定義することができます。つまり可能性が必然的に転化して現実性となるのが必然性だというのです。しかしこの定義では、必然性とは自己媒介による自己産出であるという必然性の本質的側面をとらえることはできないので、この規定は「表面的」であり、「理解しがたいもの」にすぎません。
いわば真の必然性とは、自己媒介による自己産出ということができます。六九節で「真の媒介」(㊤二二六ページ)とは「外的なものとの、また外的なものによっての媒介ではなく、自己そのもののうちで自己を完結する媒介」(同)であることを学びました。必然性とは、「真の媒介」である自己媒介による媒介を揚棄した直接性なのです。
したがって真の必然性は自己のうちで自ら条件を生みだし、自己媒介により自己産出する「その実概念そのもの」にほかなりません。とはいっても、概念は具体的普遍として自らを特殊化して個という現実性となるのに対し、単なる必然性の場合、概念(真にあるべき姿)とは異なり、必然性の「諸契機」となるものは外面的な関係のうちにある「現実的なものとして存在して」います。しかもこの現実的なものは事柄にしろ条件にしろ、ともに媒介を揚棄する過程で「自己のうちで崩壊し移行」してしまうところに単なる必然性の限界があるのです。
一四七節補遺 ── 必然性の真理は概念
「或ることが必然だと言われるとき、われわれはまず最初に、なぜそうなのかと問う。これによってわれわれは必然性が措定されたもの、媒介されたものとして示されることを要求するのである。しかしわれわれが単なる媒介に立ちどまるならば、それはまだ本当の意味における必然性ではない」(九五ページ)。
或ることがなぜ必然だといえるのかと問われれば、それはかくかくの理由によってそれ以外ではありえないという「措定されたもの、媒介されたもの」として示されなければなりません。というのも、或ることを「その必然性において示」(㊤一七〇ページ)すことは「本質的に導出されなければならない」(同)からです。
しかし必然とは媒介されたものではあっても、媒介には自己媒介と他者による媒介があるのですから、「単なる媒介に立ちどまる」ことは、「まだ本当の意味における必然性」とはいえないのです。
「われわれが必然的なものに要求することは、これに反して、自分自身によってそれが現にあるところのものとしてあるということであり、したがって媒介されているとはいえ、同時に媒介を揚棄されたものとして自己のうちに含むということである」(九五~九六ページ)。
真の必然は、自分自身で条件を作りだし、自らその条件と結合して媒介されつつ媒介を揚棄して自己産出することにより、「自分自身によってそれが現にあるところのもの」としてあるような必然性なのです。つまり真の必然は「媒介されているとはいえ」他のものによる媒介ではなく、自己媒介により「媒介を揚棄されたものとして自己のうちに含む」媒介なのです。
「われわれが真実なものとして認識しうる唯一の内容はどんな内容かと言えば、それは、他のものによって媒介されず有限でない内容、したがって自己を自己へ媒介し、媒介であると同時に直接の自己関係でもあるような内容である」(㊤二三二~二三三ページ)。
こういう自己媒介による自己関係(自己産出)する真の必然は「その実概念そのもの」(九五ページ)にほかならないのです。
「したがってわれわれは必然的なものについて、『それはある』と言う。すなわち、われわれは必然性を、他のものによって制約されない自己関係と考えているのである」(九六ページ)。
真に必然的なものは、「他のものによって制約され」ることなく、自分自身の力により現にあるべくしてあるのですから、「それはある」ということができるのです。
「必然は盲目であるとよく言われている。そして、必然の過程のうちにはまだ目的が顕在していないかぎり、それは正しい」(同)。
本節で学んだように「必然性はその実概念そのもの」(九五ページ)なのですが、単なる必然性はまだ概念ではなく「盲目」なものにすぎません。というのも、単なる必然性は他のものに媒介されて現にそれがあるところのものとなるのであり、目的や概念と違って自己媒介するものではありませんから、いつ、どのような形で現にそれがあるところのものとなるかは予見できないからです。
「必然の過程は、相互に全く無関係でなんら内的な連関をもたないようにみえる個々別々の諸事情の存在からはじまる。これらの事情は、直接的な現実であり、それは自己のうちで崩壊し、この否定から一つの新しい内容が出現する」(九六ページ)。
単なる必然性は概念であってまだ概念そのものではないのです。というのも「必然の過程」は「相互に全く無関係でなんら内的な連関をもたない」条件と事柄からはじまり、しかもこれらの「個々別々の諸事情」は、「必然の過程」のなかで「崩壊し、この否定から一つの新しい内容が出現する」からです。
このように「必然の過程」では、具体的普遍としての概念が自らを特殊化して個となるのとは異なり「直接的な諸事情は、諸条件として亡び去」(同)り、「全く別の或るものが生じ」(同)るところから、「必然は盲目である」といわれるのです。「これに反して、目的はあらかじめ意識されている内容であるから、目的活動は盲目ではなくて予見的」(同)なのです。
「われわれが世界は摂理によって支配されていると言う場合、この言葉のうちには、目的はあらかじめ即自かつ対自的に規定されたものとして働くものであり、したがってその結果はあらかじめ知られ欲しられていたものと一致する、ということが含まれている」(同)。
必然は盲目であるのに対し、目的は予見的であり、世界は神の摂理によって支配されるという場合、世界は神の目的活動であることを意味しています。
「世界が必然によって規定されているという考え方と、神の摂理の信仰とは、けっして相容れがたいものではない。神の摂理ということの根柢に横たわっている思想は、後に示されるように概念である。概念は必然性の真理であり、そのうちに必然を揚棄されたものとして含んでおり、逆に必然性は即自的には概念である。必然性は、概念的に把握されないかぎりにおいてのみ、盲目なのである」(九六~九七ページ)。
世界の必然性と神の摂理への信仰とは矛盾するものではありません。というのも神の摂理という思想のうちには「概念」が横たわっており、また概念は「必然性の真理」にほかならないからです。必然性の真理は概念であると把握されないとき、必然性は盲目となり、世界の必然性と神の摂理(概念)とは矛盾することになるのです。
「したがって、歴史哲学が、生起したことの必然性を認識することをその任務と考えているからといって、それが盲目な宿命論だという非難ほど誤ったものはない」(九七ページ)。
歴史哲学は「必然性を認識することをその任務と考えている」というと、「盲目的な宿命論」だと思われるかもしれませんが、それは必然性の真理が概念であることを理解しない誤った見解なのです。
ヘーゲルは、人類の歴史を人類の「真にあるべき姿」(概念)への必然的な発展の歴史ととらえました。彼の『歴史哲学』(武市健人訳、岩波書店)では「世界史とは自由の意識の進歩を意味するのであって、 ── この進歩をその必然性において認識するのが、われわれの任務なのである」(前掲書、上巻、四四ページ)という有名な文句を残しています。
「必然という見地は、われわれの心情および態度にかんして、非常に重要な意義を持っている。われわれが出来事を必然とみるとき、このことは一見全く不自由な関係のようにみえる。古代の人々は、周知のように、必然を運命と考えていたが、近代の立場はこれに反して慰めの立場である」(九七ページ)。
一般には、自由と必然とは対立するカテゴリーと考えられており、必然というと必然性に支配されることによる「一見全く不自由な関係」のようにみえます。例えば、古代人は天変地異という必然性を「運命」と考えたのに対し、近代の立場はしょうがないから諦めようという「慰めの立場」にたっており、いずれも不自由な関係に思われます。
しかし、古代人の立場は、「慰めのないもの」(九八ページ)ではあっても「けっして不自由の感情」(同)ではありません。というのも「一般に不自由とは、反対のものへの執着にもとづくものであって、われわれが現に存在し生起するものを、存在し生起すべきものに反するとみることからくる」(同)のですが、古代人は必然を「それはそうあるとおりにあるべきものである」(同)ととらえ、「なんらの対立」(同)をも感じることなく「またなんらの不自由も苦痛も悩みもない」(同)からです。彼らの立場は、そもそも「慰めを必要としない」(同)のです。
これに対し、近代の立場は、「偶然的で恣意的な内容を持つ有限な直接的主観」(同)を執拗に追求し、「その達成を断念せざるをえないときは、別な形で代償が得られるだろうという見込によってのみ自ら慰めている」(同)不自由の立場であり、これと比較するとき、われわれは無駄な抵抗をしない「古代人の運命にたいする静かな忍従を歎賞せざるをえない」(同)のです。
「しかし主観性とは、事柄に対立している悪しき有限な主観性にすぎないものではなく、その真の姿においては、事柄に内在しているものであり、こうした無限の主体性は、事柄そのものの真理である。このように理解するとき、慰めの立場は全く別のより高い意味を持つようになる。そしてキリスト教が慰めの宗教であり、しかも絶対の慰めの宗教であるとみられるのは、こうした意味においてである」(九九ページ)。
真の主観性とは、「事柄」(客観)に対立して偶然的、恣意的内容をもつ「悪しき有限な主観性」ではなく、客観の真の姿、真にあるべき姿という「事柄そのものの真理」をとらえる「無限の主体性」なのです。
このように理解したとき、「慰めの立場」は「真にあるべき姿」をいつかは実現しうるであろうという「全く別のより高い意味」をもつようになるのです。キリスト教が「絶対の慰めの宗教」とみられているのは「神そのものが絶対的主体性と解され」(同)ていて、いずれは神の国という真にあるべき姿が実現されることにより「すべての人々が救われる」(同)という慰めの立場にたっているからです。キリスト教の神は真理を実現する「絶対に現実的な人格性」(一〇〇ページ)とされているのです。
「運は自分の作るもの」(同)という古い諺があります。人間は、自分自身を自己産出するものであり、その意味で自己の今日ある姿を必然性として認識し自分の運命は自分で作り出したものとして受容せざるをえないのです。全く階級的観点を欠くことからくる主観的にすぎるとらえ方ですが、一面の真理は表現しているでしょう。
「それゆえに、必然にかんする見方こそ、人間の満足と不満足を決定するものであり、したがって人間の運命そのものをも決定するものである」(同)。
一四八節 ── 必然性の過程は条件、事柄、活動の結合
必然性は条件、事柄、活動の三つのモメントから成り立っています。
まず条件は、「事柄と無関係に存在する偶然的な、外的な事情」(一〇一ページ)であり、「事柄のために材料として使用され、かくして事柄の内容へはいって」(同)いきます。
事柄は、「まだ内的なもの」(同)にすぎない必然性の本質的な「独立の内容」(同)であり、「事柄は諸条件を使用することによって外へあらわれ」(同)、その「内容諸規定によって自己を事柄として示」(同)します。
活動は「諸条件を事柄へ移し、また事柄を諸条件(これは現存在に属する)へ移す運動」(同)であり、「事柄に存在を与える運動」(一〇二ページ)です。
例えば農作物を作る場合、種が「事柄」、畑、水、肥料が「条件」、水をまいた畑に種を播くことが「活動」となって、種は農作物という必然的現実性へ転化するのです。
しかし、「活動」を人間の活動と狭く解してはいけません。種の進化は、偶然から必然への転化の例とみることができます。偶然に生じた遺伝子の変化が「条件」となり、種の内的目的性(種の生存と繁殖への適応度)が「事柄」、種の選択が「活動」として、新たな種の遺伝子という必然性に転化する活動となるのです。
「これら三つのモメントが相互に独立した存在という形を持つかぎり、上の過程は外的必然として存在する。 ── 外的必然は限られた内容を事柄として持つ。なぜなら、事柄は単純な規定態における全体であるが、しかしこの全体的なものは、形式上、自己に外的であるから、自分自身においても、また自己の内容においても、自己に外的であり、そして事柄におけるこの外面性が、事柄の内容の制限をなすからである」(同)。
こういう条件、事柄、活動の三つのモメントが結合したとき、「必然性の過程」(九六ページ)がはじまり、必然的現実性という「一つの新しい内容」(同)が出現するのです。
これが「外的必然性」であり、いわば単なる必然です。これに対し真の必然は「内的必然」なのです。外的必然は、自己媒介による自己産出をなしえないものとして「限られた内容を事柄として持」ち、だからこそ外的な条件という「自己に外的」な「形式」を必要とするのです。必然的現実性の内容となる「事柄におけるこの外面性が、事柄の内容の制限をなす」、つまり形式の外面性が内容の制限となるのです。
一四九節 ── 外的必然から内的必然(絶対的相関)へ
「必然性はしたがって即自的には、自己のうちで反照しその諸区別が独立の諸現実という形式を持っているところの、自己同一的でありながらも、内容にみちた一つの本質である」(一〇二ページ)。
本節は、必然には、まだ盲目のうちにある必然(外的必然)と真の必然(内的必然)の二つがあることを明らかにして、外的必然から内的必然への進展を述べた箇所です。
ここにいう「即自的」な必然とは、本来的な必然、つまり真の必然を意味しています。真の必然は「自己のうちで反照」することにより、自ら「独立の諸現実」という諸条件を生みだし、その諸条件を揚棄して「自己同一的」な新しい現実をつくり出す自己媒介による自己産出なのです。
「そしてこの同一的なものは、同時に絶対的な形式として、直接的なものを揚棄して媒介されたものとし、媒介を揚棄して直接的なものとする活動である」(同)。
真の必然、内的必然は、自己のうちにおいて「直接的なものを揚棄して媒介されたものとし」、自ら生みだした条件と事柄の区別を再び「揚棄して直接的なものとする活動」という、自己産出の「絶対的な形式」として自己「同一的な」新しい現実をつくり出すのです。
「必然的であるものは、他のものによってそうなのである。そしてこの他のものは、媒介する根拠(事柄と活動)と直接的な現実、すなわち、同時に条件でもある偶然的なものとにわかれる。他のものによるものとしての必然は、絶対的でなく、措定されたものにすぎない」(同)。
これに対し外的必然にあっては、「他のものによって」必然的なのです。すなわち外的必然とは、事柄、条件、活動という「他のもの」に媒介された必然性であって、その必然は内的必然と異なり「絶対的でなく、措定されたものにすぎない」のです。
「しかしこの媒介はまた直接に自分自身の揚棄である。というのは、根拠と偶然的な条件は、直接態へ移され、そしてこのことによって、措定されたものは揚棄されて現実となり、事柄は自分自身と合一するからである。このように自己のうちへ帰ったものとしての必然的なものは、無条件的な現実性として端的に存在する」(一〇二~一〇三ページ)。
ここは、外的必然から内的必然への移行を述べた箇所であり、「自己のうちへ帰ったものとしての必然的なもの」とは内的必然のことです。
外的必然における他のものによる媒介は、「また直接に自分自身の揚棄」による自己媒介となります。というのも外的必然性における「根拠と偶然的な条件」は自己の生みだした「根拠と偶然的な条件」という「直接態へ移され」、これによって自己媒介により「事柄は自分自身と合一」するという自己産出となるからです。
このように「自己のうちへ帰った」内的必然では、他のものとしての諸条件を必要としないという意味では「無条件的な」必然的現実性として「端的に存在する」のです。
「必然的なものは、一群の諸事情に媒介されて必然的なのである。すなわち、必然的なものは、諸事情が必然的であるから、必然的なのである。と同時に、必然的なものは、媒介されないで必然的である。すなわち、必然的であるから、必然的なのである」(一〇三ページ)。
内的に「必然的なもの」は、「一群の諸事情に媒介されて必然的」なのですが、その諸事情は自己媒介により生みだされるものとして「必然的であるから必然的」なのです。と同時に、内的な「必然的なもの」は、他のものに「媒介されない」自己媒介として必然的なのであり、諸事情が自己媒介により「必然的であるから、必然的」なのです。
|