『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より
第三三講 第三部「概念論」①
一、「概念論」の主題と構成
「概念論」の難解さは革命的立場の偽装に由来する
今回から第三部「概念論」に入ります。これまで繰り返し、ヘーゲル哲学の本質は革命の哲学にあるとお話ししてきましたが、ヘーゲル哲学の革命性は、主として概念論において展開されています。したがって概念論はヘーゲル哲学の核心部分となっていますが、それだけに入念に偽装が施されており極めて分かりにくいものとなっています。
ヘーゲルのいう概念には、大きく二つの意味があります。一つは具体的普遍という意味であり、もう一つは真の姿あるいは真にあるべき姿という意味です。
一般に概念とは、人間が思惟するうえでの基本単位となる事物の普遍性をあらわすカテゴリーと考えられています。しかしヘーゲルはこれを抽象的普遍とよんで、具体的普遍としての概念に対置しています。抽象的普遍としての概念は形式論理学で用いられる事物に共通する普遍としての概念であり、これに対して具体的普遍としての概念とは普遍と特殊、個が一体不可分となった普遍です。
しかし重要なことは、概念は具体的普遍ではあっても、具体的普遍はただちに概念ではないことです。すべての具体的な事物は具体的普遍であり、例えば、人間は人類という普遍の特殊化としての個人としてのみ具体的人間として存在しています。その意味で個人は具体的普遍として普遍、特殊、個の一体不可分の関係にありますが、だからといって直ちに真の姿あるいは真にあるべき姿としての概念ではありません。
他方でヘーゲルのいう概念は、事物の真の姿または真にあるべき姿を意味しています。有論、本質論での概念は主として真の姿としての概念、概念論での概念は主として真にあるべき姿としての概念が論じられています。真にあるべき姿としての概念は、具体的普遍であり、自らを特殊化して個とするエネルゲイアとしてのイデアです。他方真の姿としての概念については、具体的普遍として論じてはいません。
これまでにお話ししてきたように、哲学の目的は真理の探究にあります。有論、本質論は客観的論理学であり、客観世界の真理の認識を目的としていました。有論は客観的事物の表面的な真の姿を認識しようとするものであり、本質論は事物の内面的な真の姿である本質、法則、実体、類をとらえようとするものです。
これに対して概念論では客観的事物の現にある姿は不完全な揚棄さるべきものであるとして否定し、客観的事物のうちに潜在する真にあるべき姿を認識においてとらえ、かつそれを実現することにより客観的事物を真にあるべき姿に発展させるという革命の立場が論じられています。いわば、有論は感性的に事物の真の姿を認識し、本質論は悟性的に事物の真の姿を認識するのに対し、概念論は理性的に事物の真にあるべき姿を認識し、かつそれを実現するものということができるでしょう。
人間の人間たるゆえんは、自由な意志により自然や社会を変革することにあります。しかし問題はどのような方向に変革するのかにあり、自然や社会の必然性、法則性に逆行する変革もあるし、それを無視する変革もあれば、必然性、法則性に沿った変革もあります。人類の発展にとって積極的意義をもつ変革は、現にある事物の真の姿をとらえその事物の必然性、法則性に沿いつつ、真にあるべき姿へ発展させることであって、これこそ人類の進歩と発展につながる革命的立場といわなければなりません。またそれは当然にも唯物論にならざるをえないのです。概念論をつうじてこの革命的立場を高らかに宣言したヘーゲルの功績は、どんなに評価しても評価し足りないくらいです。
問題なのは、その革命的立場がなかなか読みとれないように偽装されているところにあります。これまでも随所にすべての問題は概念論で解決されることを示唆しながら、肝心の概念論ではその革命的立場が正面から語られることが少ないため、『小論理学』のあちこちをつなぎ合わせて読み解かなくてはならないのです。
「概念論」の主題と構成
第六節で、「哲学の最高の究極目的」(㊤六九ページ)は理想と現実の統一にあることを学びました。というのも、それこそ真理の実現にほかならないからです。理想は空想ではありません。理想とは事物の真にあるべき姿であり、それがヘーゲルのいう「概念論」の概念なのです。真理の実現とは「概念と存在との一致」(同一二四ページ)にほかなりません。
概念は「有および本質の真理」(一一七ページ)です。つまり真にあるべき姿としての概念は、「有および本質」という客観世界の真理なのです。
その概念を実現するにあたって、人間の実践が介入することになります。概念は潜在的には客観的事物のうちに含まれているのですが、まず人間の認識のうちにはじめて顕在化したものとしてとらえられ、主観的な概念となります。こうしてとらえられた主観的概念が実践をつうじて客観化され、概念と存在とが一致した「理想と現実の統一」が「理念」となるのです。
概念論では概念を認識のうちにとらえることによって理性的認識となり、概念を実現することによって理念という絶対的真理が実現されるのです。
これまで有論は感性的認識、本質論は悟性的認識であるのに対し、概念論は理性的認識であることをお話ししてきました。悟性的認識は、曖昧な感性的認識に対して区別すべきものを区別して確固として対象をとらえます。しかし反面からすると、区別や対立を絶対化してとらえるという硬直した偏狭さをもっています。この悟性的認識の有限性を揚棄し、対立するものを相互媒介による統一としてとらえることにより、対象を固定したものとしてではなく、運動するものとしてとらえるのが理性的認識です。したがって理性的認識は対立物の統一という弁証法の形式をもつのです。
本質論は「概念の対自有と仮象に関する理論」(㊤二五六ページ)として形式論理学では悟性的認識の分野とされていますが、ヘーゲルはこれを理性的認識としてとらえようとしています。これに対して概念論は「即自かつ対自的概念に関する理論」(同)として、文字どおり理性的認識の分野となっています。
こうした概念論の主題は、概念論の構成のなかに屈折した形で展開されています。まず概念論は、総論(一六〇~一六二節)と各論としての「A 主観的概念」「B 客観」「C 理念」として構成されています。「A 主観的概念」では、主として具体的普遍の観点から概念が論じられ、「B 客観」「C 理念」では主として真にあるべき姿の観点から概念が論じられています。
総論では、まず自己の哲学を「絶対的理念論」と称するゆえんが明らかにされます。概念とは認識のうちにとらえられた真にあるべき姿という主観的なものです。主観的な概念は客観を真にあるべき姿につくりかえる「あらゆる生命の原理」(一二一ページ)であり、エネルゲイアとしてのイデアなのです。また概念の運動は発展であることが論じられています。概念、判断、推理も、普通の論理学が考えているような空虚な悟性的形式としてではなく、真理をとらえる理性的な「現実的なものの生きた精神」(一二六ページ)としてとらえられています。
各論の「A 主観的概念」とは、概念そのものであり、概念は個、特殊、普遍を統一した具体的普遍であること、この概念の三つのモメントの展開したものが判断、推理という真理をとらえる思惟形式であることが論じられています。
形式論理学では、概念をつかい、判断、推理をおこなって正しい結論をうる思考の枠組み、思惟形式が論理学だと考えています。すなわち事物を抽象的普遍においてとらえたものが概念であり、概念(主語)と概念(述語)を結合したものが判断であり、判断(大前提)と判断(小前提)を結合したものが推理だというのです。
ヘーゲルも形式論理学に学んで「主観的概念」において概念、判断、推理を論じていますが、形式論理学と異なり概念を真の姿、真にあるべき姿という真理としてとらえることにより、判断、推理も単なる空虚な形式ではなく、理性的な真理認識の思惟形式という内容をもった形式とされているのです。
「B 客観」とは、真にあるべき姿としての主観的概念が自らを特殊化して直接態となったものです。いわば客観とは客観的概念なのです。客観は、その内に含まれる概念が顕在化する度合に応じて「機械的関係」「化学的関係」「目的的関係」としてとらえられています。
最後の「C 理念」は、人間の認識と実践を論じた概念論のもっとも重要な革命的立場に関するものであり、理想と現実の統一という哲学の「最高の究極目的」が理念として示されることになります。
理念とは、主観的概念と客観との統一、つまり概念と存在との一致です。まず理念は、即自的理念としての「生命」としてあらわれ、ついで対自的理念としての「認識」となり、最後に即自的理念と対自的理念の統一としての「絶対的理念」が論じられます。絶対的理念では、有論、本質論、概念論が真理認識の絶対的形式である弁証法の諸モメントの展開であることが論じられています。
二、「概念論」総論
一六〇節 ── 概念とはエネルゲイアとしてのイデア
「概念は向自的に存在する実体的な力として、自由なものである。そして概念はまた体系的な全体(Totalität)であって、概念のうちではその諸モメントの各々は、概念がそうであるような全体をなしており、概念との不可分の統一として定立されている。したがって概念は、自己同一のうちにありながら、即自かつ対自的に規定されているものである」(一二一ページ)。
この「トータリテート」も「全体」ではなく「統体」と訳すべきものでしょう。
一五八節で「必然の真理は自由であり、実体の真理は概念」(一一五ページ)であることを学びました。概念そのものは「必然の真理」、つまり客観世界の真理として、客観世界の必然性から解放された「自由なもの」であり、精神の自由な働きから生まれた客観的事物の真にあるべき姿です。また概念は「実体の真理」である真にあるべき姿として、客観をつくりかえる「実体的な力」をもつエネルゲイアとしてのイデアという具体的普遍なのです。
このように自由な実体的な力である具体的普遍としての概念は、自己を特殊化して個となりながらも、それらの「他者のうちで自己自身のもとにある」という「体系的なトータリテート」(統体性)なのです。つまり、概念の「諸モメントの各々」である普遍、特殊、個は、具体的普遍としての概念から区別されつつも「概念がそうであるような統体をなして」いるのです。つまり普遍は普遍であって特殊と個をうちに含み、特殊は特殊であって普遍を内在させる個であり、個は個であって普遍と特殊をうちに含んでいるのです。その意味で「諸モメントの各々」は、「概念との不可分の統一として定立されている」のです。
したがって概念は、真にあるべき姿としての「自己同一」性を保ちながら、普遍、特殊、個として「即自かつ対自的に規定されている」のです。
一六〇節補遺 ── 概念の立場は絶対的理念論の立場
「概念の立場は一般に絶対的観念論(絶対的理念論 ── 高村)の立場であり、哲学は概念的認識である。というのは、哲学はその他の意識が存在するものとみ、またそのままで独立的なものと考えているものが、単に観念的なモメントにすぎないことを知っているからである」(一二一ページ)。
ヘーゲルは、すでに予備概念において自己の哲学がなぜ「絶対的理念論」とよばれるべきかを、次のように語っています。
絶対的理念論とは「われわれが直接に知る事物は、単にわれわれに対してのみならず、それ自身単なる現象にすぎない。そしてその存在根拠を自分自身のうちに持たず、普遍的な神的理念のうちに持つ」(㊤一七九ページ)ととらえる、理想と現実の統一の立場であり、その「普遍的な神的理念」がここにいう概念にほかならないのです。
概念の立場は、「精神が世界の原因である」(㊤七四ページ)として、精神の創造性を主張する「絶対的理念(イデア)論」の立場です。それは、独立して存在すると思われている客観世界を理念(イデア)の「一モメント」にすぎないととらえるのです。
「悟性的論理学」(一二一ページ)は、概念を「思惟の単なる形式、あるいは一般的な表象」(同)と考えているところから、概念を「生命のない、空虚な、抽象的なもの」(同)ととらえています。
ヘーゲルはこれを批判し、「概念はむしろあらゆる生命の原理であり、したがって同時に絶対に具体的なものである」(同)と述べています。
というのも、一つには概念は思惟形式ではあっても「あらゆる豊かな内容を自己のうちに含み、また自己のうちから解放する、無限の、創造的な形式」(一二二ページ)という内容と形式の統一だからです。真にあるべき姿は客観的事物のすべてについて考えうる「絶対に具体的なもの」であり、その意味で概念は客観的事物のあらゆる豊かな内容を自己のうちに含むと同時に、その豊かな内容を「自己のうちから解放」して客観を真にあるべき姿につくりかえる「無限の、創造的な形式」なのです。
二つには、概念は手でつかめたり目や耳でとらえうる「感覚的に具体的なもの」(同)ではありませんが、すべての客観的事物について問題になる真にあるべき姿です。その意味で概念は有および本質の「領域の富全体」(同)、つまり客観世界の豊かな内容全体を「観念的な統一において自己のうちに含」(同)む「絶対に具体的なもの」なのです。
予備概念において、「ヌースが世界を支配している」(㊤一一七ページ)とか「世界のうちには理性がある」(同)という命題を学びました。その場合の理性は「客観的思想」(同一一六ページ)ともよばれ、「思想が客観的思想として世界の内面をなしている」(同)ことを学びました。われわれはいまようやく、その「客観的思想」が概念にほかならないことを知るに至ったのです。
本質論ではすべてが「相対的なもの」(四五ページ)としてとらえられ「どこにも確かな拠りどころが見出されない」(四四ページ)という、「相対性の立場」(四五ページ)でした。現実性のカテゴリーですら、そこではエネルゲイアとしてのイデアが論じられはしたものの、本質がエネルゲイアとしてあらわれ出るという悟性的な「相対性の立場」を越えることはできませんでした。いまようやく概念をとらえることにより、これこそ世界の根本原因であり「相対性の立場を越え」(四五ページ)絶対性の立場、理性的立場に到達したことを確認することができるのです。「概念をとらえようとする理性は、論理的理念の一層の発展とともに、このような単なる相対性の立場を越えて進んで行く」(同)のです。
こうして「今ここでわれわれが見出す絶対者の定義は、絶対者は概念である」(一二二ページ)となります。つまり「絶対的真理はあらゆる事物のうちにある概念の原理である」ということです。
概念は「無限の、創造的な形式」をもつ文字通りのエネルゲイアとしてのイデアであり、したがって「概念の立場」は「絶対的イデアリスムス(絶対的理念論)」の立場なのです。
一見するとイデアとしての概念は、「形式論理学で言う概念」(一二三ページ)と全く異なるようにみえます。しかし「真にあるべき姿」としての概念は「一見そうみえるほど、一般の用語に縁のないものではない」(同)のであって、例えば「財産にかんする諸法律を財産という概念から導き出す」(同)使い方にもみられるように、概念はけっして「本来無内容な形式」(同)ではないのです。というのも、もともと抽象的普遍としての概念にも、その事物に共通なものとしての「真にあるべき姿」が潜在的に含まれているのであって、その意味でヘーゲルのいう概念と重なる部分をもっているからです。
一六一節、同補遺 ── 概念の進展は「発展」
「概念の進展は、もはや移行でもなければ、他者への反照でもなく、発展である。なぜなら、概念においては、区別されているものが、そのまま同時に相互および全体と同一なものとして定立されており、規定性は全体的な概念の自由な存在としてあるからである」(同)。
一一一節補遺において、有論は「移行するもの」(㊤三三一ページ)であるのに対し、「本質においてはもはや移行は起らず、ただ関係があるにすぎない」(同)ことを学びました。
いわば、有論の論理が「移行」、本質論の論理が「他者への反照」であったのに対し、概念論の論理は「発展」なのです。なぜ論理学の論理が発展かといえば、統体性としての概念は自己のうちから概念の諸モメントを区別しながら、区別されたものを再び相互浸透による同一、あるいは区別を揚棄した全体的同一へと発展していくからです。つまり概念の「規定性」、諸モメントは、統体性としての概念の自由な運動、概念の発展としてとらえうるのです。
「発展は、すでに潜在していたものを顕在させるにすぎない。自然においては、概念の段階に相当するものは、有機的生命である。かくして例えば、植物は胚から発展する」(一二四ページ)。
ヘーゲルは、発展を「潜在していた」概念の「顕在」化としてとらえています。植物の概念は胚であり、胚には「植物の諸部分である根や茎や葉など」(同)が「実在的に」(同)ではなく「観念的に含」(同)まれていて、それが顕在化するから、植物は胚からの発展だと説明しています。
これに対して「箱詰めの仮説」(同)は、「観念的にのみ存在しているものを、すでに現存在しているものとみる」(同)ところに欠陥をもっていますが、「概念がその過程において自分自身のもとにとどまり、過程は内容上なんらの新しいものをも定立せず、ただ形式上の変化をひき起すにすぎない」(同)という点においてのみこの仮説は正しいといっています。
しかし発展を潜在的な概念の顕在化というだけでは十分でないように思います。というのも、「論理学のより立入った区分」において「思弁的なものあるいは肯定的理性的なもの」(㊤二五二ページ)は、「対立した二つの規定の解消……のうちに含まれている肯定的なものを把握する」(同)と述べていますが、これは矛盾の解決としての発展を意味しているからです。
また一一九節補遺二では「一般に世界を動かすものは矛盾である」(三三ページ)として、矛盾は「最後のものではなく、自分自身によって自己を揚棄する」(同)として矛盾の揚棄としての発展を問題とし、二四二節でも弁証法の三つのモメントを最後に矛盾の「解消」(二四四ページ)「揚棄」(同)としての発展を論じています。
では発展には、萌芽としての発展と矛盾の揚棄、解決による発展の二種類があるとした場合、その両者の関係をどうとらえるのか、の問題が生じます。
これまでカテゴリーの進展は、すべて即自 ── 対自 ── 即対自の三分法として展開されてきましたが、それは一方では矛盾の揚棄、解決であると同時に、他方では「理念のより高い」(㊤二七七ページ)段階への萌芽からの発展として論じられてきました。つまり矛盾の揚棄による発展とは、同時にその事物に含まれる潜在的概念が顕在化していく萌芽からの発展でもあるのです。ヘーゲルが概念の顕在化の例としている植物の胚からの発展も、種子のうちにおける胚と胚乳の矛盾の揚棄とみることもできるのです。結局発展とは、矛盾の揚棄(アウフヘーベン)によるより複雑なもの、より高度なものへと移行する変化であり、それは同時に発展をつうじて客観的事物はそのうちに潜在していた概念を顕在化させ、客観的事物をその真にあるべき姿に変化させるものということができるでしょう。
本質論の「C 現実性」において、必然の法則は「絶対的な相関」(一〇三ページ)であることを学びましたが、もう一つの重要な必然性の法則がこの発展の法則です。客観的事物の反覆する運動をとらえる必然の法則を代表するものが、「因果性の法則」(一〇七ページ)と「交互作用」(一一二ページ)であるのに対し、人間社会のように一回だけの後戻りできない運動をとらえる必然の法則が発展法則なのです。
一六二節 ── 概念論の構成
「概念論は ⑴ 主観的あるいは形式的概念の理論、⑵ 直接態へ規定されたものとしての概念、あるいは客観性の理論、⑶ 理念、主観=客観、概念と客観性との統一、絶対的真理の理論にわかれる」(一二五ページ)。
概念論の各論は、先にもみたように「A 主観的概念」「B 客観」「C 理念」に区分されています。単に主観的なものであった概念(真にあるべき姿)が、客観的なものに転化し、主観と客観の統一、概念と存在との統一を実現したものが「理念」という「絶対的真理」であることが論じられているのです。
「A 主観的概念」では、概念、判断、推理という「論理学固有の領域に属する思惟の諸形式」(同)を扱います。形式論理学では、これらの諸形式を「理性的思惟ではなくて悟性的思惟の諸規定にすぎないと考え」(同)ていますが、ヘーゲルはそれを理性的認識のうちにとらえようとしています。
これまで論じてきた有論、本質論の諸カテゴリーにおいても、「確かに単なる思惟の諸規定」(同)としてではなく対立物の統一としてとらえることで「自己が諸概念であること」(同)を示してはきました。しかしそれらはまだ「限定された概念」(一二五ページ)にすぎないのであり、真の概念の名には値しないものでした。
「というのは、第一に、各々の規定がそのうちへ移行し、そのうちで反照し、かくして相関的なものとして存在する他のものは特殊として規定されていないし、第二に、各々の規定がそのうちで統一へ帰る第三のものは個あるいは主体として規定されていないし、第三に、各々の規定は普遍ではないから、対立規定におけるその同一、すなわちその自由が定立されていないからである」(一二五~一二六ページ)。
というのも有論、本質論にあっては、第一に対立する他のものへの移行は、概念のように「特殊として規定されていない」し、第二に対立物の統一における統一は、概念のように「個あるいは主体として規定されていない」し、第三に対立する「各々の規定は普遍ではない」から、概念のように真にあるべき姿によって貫かれた「自由が定立されていない」のです。
これに対して概念論の概念は、普遍、特殊、個が一体となった自由な実体的な力としての真の概念です。普通「概念」というと「制約され媒介されたものの形式」( 二一三ページ)として、有限な「悟性の規定」と思われていますが、そうではなく無制約な自由な実体的力として理性の規定なのです。
有論、本質論は客観的論理学としてまだ「主体」の登場しない「限定された概念」にすぎないのに対し、概念論は主観的論理学として無制約な自由をもつ主体的存在としての「a 生命」一般、および人間主体の精神活動である「b 認識」が扱われるのです。
「概念の論理学は普通単に形式的学問と考えられ、それは概念、判断、および推理の形式そのものを取扱って、或るものが真理であるかどうかは全く問題とせず、そうしたことは全く内容にのみ依存する、と考えられている」(一二六ページ)。
先にもみたように形式論理学でも「主観的概念」に属する概念、判断、推理という「思惟の諸形式」を論じていますが、そこではこれらの諸形式が内容のない単なる形式としてのみとらえられ、「或るものが真理であるかどうかは全く問題とせず、そうしたことは全く内容にのみ依存する」と考えられています。
これに対しヘーゲルは、もし概念、判断、推理という概念の諸形式が単に「生命のない、無活動な容器」(同)にすぎないとしたら、それは「真理にとって全く余計な、なくてもよい」(同)ものにすぎないと断じています。
ヘーゲルは、本質論において形式論理学の四つの基本法則を悟性的認識として批判し、それを理性的認識としてとらえようとしましたが、ここでも同様に形式論理学のとらえる概念、判断、推理を「悟性的思惟の諸規定にすぎない」として批判し、それを「理性的思惟」においてとらえようとしているのです。
「実際はこれに反して、それは概念の諸形式として、現実的なものの生きた精神であり、現実的なもののうち、これらの形式の力で、すなわちこれらの形式を通じ、またそのうちで、真理であるもののみが真理なのである」(同)。
予備概念で、論理学は「純粋な思惟規定の体系」(㊤一二一ページ)であるのに対し、自然哲学、精神哲学は「言わば応用論理学」(同)であり、「論理学はそれらに生命を与える魂をなす」(同)ことを学びました。
概念、判断、推理も「自然および精神の諸形態のうちに」(同)認識した「論理的諸形式」(同)として「現実的なものの生きた精神」であり、これらの思惟形式のうちで「真理であるもののみが真理」なのです。
「論理学の仕事は、思惟諸規定がどの程度まで真理をとらえうるかを研究する」(同一二五ページ)ことにあります。したがって概念、判断、推理という「形式そのものの真理」(一二六ページ)が以下に論じられることになるのです。
三、「A 主観的概念」の主題と構成
主観的概念の主題となるのは、概念、判断、推理という論理の諸形式です。
形式論理学では四つの基本法則(同一律、矛盾律、排中律、充足理由律)と三つの論理の諸形式(概念、判断、推理)をもとにし、基本法則にしたがって概念、判断、推理をすることにより論理的思考が可能となると考えています。
ヘーゲルは、「本質論」で形式論理学の四つの基本法則を取り扱い、これを弁証法的に止揚して悟性的認識から理性的認識に高めました。同様に「A 主観的概念」において三つの論理の諸形式(概念、判断、推理)を取り扱い、前節でみたようにこれを「生命のない、無活動な容器」(一二六ページ)としてではなく、「形式そのものの真理」(同)という理性的認識にまで高めようとしているのです。
その出発点となるのが、「概念そのもの」のとらえ方にあります。形式論理学では概念を諸事物の共通性を抽象した抽象的普遍という「悟性の規定」(同)ととらえているのに対し、ヘーゲルは、諸事物の真にあるべき姿をとらえた具体的普遍という「理性の規定」としてとらえます。真にあるべき姿は、普遍ではあっても自らを特殊化し個になるという力をもった普遍、特殊、個が一体不可分のものとして具体的普遍なのです。この具体的普遍が「a 概念そのもの」の主題です。
この概念の統体性(普遍、特殊、個の一体不可分性)が分裂し、概念の諸モメントに分割されたものが「b 判断」です。その意味で判断は「概念の特殊化」(一三七ページ)です。したがって判断がどの程度まで真理をとらえうるかは、判断のなかの概念がどれだけ潜在的なものから顕在的なものになるかによって決まってきます。これまでみてきたように、有論は即自的概念、本質論は対自的概念、概念論は即対自的概念と規定され、概念が顕在化してくる過程としてとらえられてきました。これに対応して、判断の諸種類も有の判断(「定有の判断」)、本質の判断(「」反省の判断」「必然性の判断」)「概念の判断」に分かれ、後になるほど真理をとらえる判断となります。
概念が分割されたものが判断であったのに対し、この分裂から統体性へ回復したものが「c 推理」です。推理において「個 ── 特 ── 普」の連結が実現され、その推理の形式からして「理性的なもの」とされます。しかしこの理性的なものとしての推理は、その内容として概念を含むか否かにより悟性的推理と理性的推理に区別されます。悟性的推理とは「質的推理」であり、理性的推理には「反省の推理」「必然性の推理」があります。概念の判断に相当する概念の推理が論じられていないのは問題だと考えます。
質的推理は、個、特、普の組み合わせによる「三つの格」による「三重の推理」をつうじて、理性的推理としての反省の推理に移行します。
推理は、この三重の推理と必然性の推理の一つである選言的推理によって推理の形式そのものを揚棄し、「A 主観的概念」は「B 客観」に移行することになります。
四、「A 主観的概念」 「a 概念そのもの」
一六三節 ── 概念は普遍、特殊、個の不可分の統一
「概念そのものは、次の三つのモメントを含んでいる。⑴ 普遍 ── これは、その規定態のうちにありながらも自分自身との自由な相等性である。⑵ 特殊 ── これは、そのうちで普遍が曇りのなく自分自身に等しい姿を保っている規定態である。⑶ 個 ── これは、普遍および特殊の規定態の自己反省である。そしてこうした自己との否定的統一は、即自かつ対自的に規定されたものであるとともに、同時に自己同一なものあるいは普遍的なものである」(一二七ページ)。
中世のスコラ哲学において、有名な「普遍論争」がおこなわれました。普遍は実体として存在するのか、それとも個物にたいする名前にすぎないものであって実際には存在しないのかの論争であり、前者は実在論、後者は唯名論とよばれています。この問題に対立物の統一の見地から決着をつけ、自らのうちに特殊と個とを含み、自らを特殊化して個別的なものを産出する力をもった具体的普遍こそ、普遍と個の真理であり、すべての具体的事物は具体的普遍であるととらえたのがヘーゲルでした。そしてその具体的普遍性は、真にあるべき姿としての概念においてもっとも明白にあらわれてくるというのです。
概念そのものは、普遍、特殊、個という「三つのモメントを含んで」います。まず普遍としての概念は、自らを規定した「特殊」のなかにあっても「真にあるべき姿」という「自分自身との自由な相等性」を保っています。次に特殊は、概念の「規定態」であり、特殊のうちで「普遍が曇りのなく自分自身に等しい姿を保っている」のです。つまり特殊のうちには普遍があるのです。最後の個は、普遍の特殊化(普遍と特殊の統一)としての真にあるべき個々の事物または個々人という主体です。ここにいう「自己反省」、「自己との否定的統一」とは、個において普遍と特殊とが一体不可分の関係として統一されているという意味でしょう。
先ほどの植物の胚の例でいうと、胚という概念(普遍)は、根、茎、葉と特殊化した個となりながらも、そのなかにあってその植物としての主体性を貫き、普遍としてとどまっているのです。
「個は現実的なものと同じものであるが、ただ個は概念から出現したものであるから、自己との否定的同一としての普遍的なものとして定立されている。現実的なものは即自的にのみ、すなわち直接的にのみ、本質と現存在との統一であるにすぎないから、それは産出することもできるものにすぎない。しかし概念の個別性は、絶対的に産出するものであり、しかも原因のように、他のものを産出するという仮象を持たず、自分自身を産出するものである」(一二七~一二八ページ)。
個は、一四二節で学んだ本質のあらわれとしての「現実的なもの」と同じものではありますが、本質のあらわれではなく、概念のあらわれとしての「現実的なもの」として、普遍を自己のうちに含んでいます。概念そのものは人間の意識のうちにとらえられた真にあるべき姿という主観的なものであるのに対し、概念の規定態としての個は現実的なもの、客観的な真にあるべき姿です。しかし現実性が「本質と現存在との統一」として、本質がたまたまあらわれ出た「産出することもできるものにすぎない」のに対し、「概念の個別性」は、現実性における「原因のように、他のものを産出するという仮象を持たず」、概念が絶対的に「自分自身を産出するもの」として産出した個別性なのです。
また個、主体は、概念のあらわれとしての現実的なものですが「個々の物や個々の人」(一二八ページ)というような「単に直接的な個の意味に解されてはならない」(同)のであって、「統体性として定立された概念」(同)、つまり真にあるべき姿としての「個々の物や個々の人」として理解されねばなりません。直接的な個は「個は普遍である」という形式をもつ「判断においてはじめてあらわれる」(同)のです。
一六三節補遺一 ── 抽象的普遍と具体的普遍
概念というと、「人々は普通抽象的な普遍をのみ考え」(同)ています。抽象的普遍とは「特殊性を除去」(同)した共通性を意味しています。「人間とは直立二足歩行する哺乳類である」というような人間の概念がそれです。
しかし概念のもつ普遍は、こういう抽象的普遍ではなく真にあるべき姿としての普遍であり、それは自らを「特殊化」(同)し特殊の「うちにありながらも、曇りない姿で自分自身のもとにとどまっている」(同)ような具体的普遍なのです。この真にあるべき姿が「真の普遍」(同)であり、「単に共通なものを真の普遍と混同しないことが大切」(同)なのです。
概念を抽象的普遍ととらえるのは悟性的認識であり、具体的普遍としてとらえるのが理性的認識なのです。
「真の包括的な意味における普遍は、人間の意識にはいるまでには数千年を要し、キリスト教によってはじめて完全に承認されるようになった思想である」(一二九ページ)。
第二講で、ヘーゲルはキリスト教の真髄を神、キリスト、聖霊の「三位一体説」に求めていることをお話ししました。この三位一体となった神こそ「真の包括的な意味における普遍」、具体的普遍であり、これは「キリスト教によってはじめて完全に承認されるようになった思想」だというのです。
キリスト教では、具体的普遍としての神が自らを特殊化することによって人間を創出したと考えています。したがって「キリスト教徒のみが人間そのものの無限性と普遍性とを認め」(同)たのであり、ヨーロッパにもはや「奴隷制が存在しない真の根拠は、キリスト教の原理そのもののうちにのみ求むべきもの」(同)としています。
「上に述べた単なる共通性と真の普遍性との相違は、ルソーの有名な社会契約のうちに見事に言いあらわされている。ルソーは、国家の法律は普遍的意志から生じなければならないが、といって決して万人の意志である必要はない、と言っている。もしルソーが常にこの区別を念頭においていたら、かれはその国家論にかんしてもっと深い業績を残したであろう。普遍的意志とはすなわち意志の概念であり、もろもろの法律はこの概念にもとづいている意志の特殊規定である」(一二九~一三〇ページ)。
ルソーは『社会契約論』において、真にあるべき国家は人民主権の国家であり、人民主権とは、人民の具体的普遍の意志にもとづく統治、つまり人民の真にあるべき意志にもとづく統治と考えました。そして法律とはこの普遍的意志を具体化するものであるととらえたところから、ヘーゲルは「普遍的意志とはすなわち意志の概念であり、もろもろの法律はこの概念にもとづいている意志の特殊規定」と理解したのです。
これに対して「万人の意志」とは多数者の意志、抽象的普遍の意志であり、万人の意志は必ずしも真にあるべき意志ではないのです。ルソーは人民を啓蒙して「万人の意志」を普遍的な意志にまで高めるためには、優れた知性をもった神のような導き手が必要だと主張し、その実現の困難さも訴えています。しかしルソーは万人の意志と普遍的意志との区別を常に念頭においていたのであって、ヘーゲルの指摘は誤解というべきものでしょう(拙著『科学的社会主義の源泉としてのルソー』参照)。
一六三節補遺二 ── 概念の発生
「概念の発生および形成にかんして悟性的論理学が普通与えている説明について、なお注意すべきことは、概念は決してわれわれが作るものではなく、また概念は全く発生したものではないということである」(一三〇ページ)。
ここは「概念の発生および形成」を正面から論じた重要な箇所ですが、ことさらに混乱を招くような記述となっており、ヘーゲルの隠れ蓑を思わせるものとなっています。
なぜ概念は「われわれが作るもの」ではないのか、ヘーゲルの主張に耳を傾けてみましょう。
「まずわれわれの表象の内容をなしているさまざまの事物があり、その後に主観的活動が行われ、そしてこの主観的活動がそれらに共通なものを抽象し総括する働きによって概念を作る、という風に考えるのは誤りである。概念は真に最初のものであり、さまざまの事物は、それらに内在し、それらのうちで自己を啓示する概念の活動によって、現にそれらがあるような姿を持っているのである」(同)。
ここでヘーゲルがいわんとしていることは明白です。すなわち概念は「さまざまの事物」からわれわれの「主観的活動」によって導き出されるものではなく、「真に最初のもの」であり、「さまざまの事物」は逆に「概念の活動によって、現にそれらがあるような姿を持っている」という、まさに絵に描いたような観念論となっています。
これに続く文章は、さらにその理解を裏付けるものとなっています。
「神は世界を無から創造したとか、あるいは世界および有限な諸事物は神の豊かな思想と意志とから生じたとか言われるのは、このことを宗教的に言いあらわしたものである。そしてそれは、思想が、もっとはっきり言えば、概念が、無限の形式、すなわち自由な、創造的な活動であって、自己を実現するのに、自己は外に存在する材料を必要としないことを認めているのである」(同)。
この箇所を素直に読むかぎり、概念が世界を無から創造する、ということになるでしょう。
しかし、ヘーゲルは一二節において、哲学と経験諸科学とは、いずれも経験から出発するものの、経験諸科学は経験のうちに含まれる必然性、普遍性を認識するにとどまるのに対し、哲学はこの出発点を否定し、「経験的諸現象の普遍的本質をなす理念のうちに……満足を見出す」(㊤七九~八〇ページ)といっています。つまりイデアは経験的諸現象から出発しながらも、経験的諸現象による媒介を揚棄した直接性としてとらえられるのであって、けっして「真に最初のもの」ではありません。
また「客観的思想」に関連して、ヘーゲルは「論理学はしたがって形而上学と一致する。なぜなら形而上学とは思想のうちに把握された事物の学であり、そこでは思想は事物の本質的諸規定を表現するものと考えられていたからである」(㊤一一五~一一六ページ)と述べています。つまり論理学とは、客観的事物がまず存在していることを前提とし、その事物の「本質的諸規定」を思想のうちに把握するものであって、その思想により把握された「事物の本質的規定」が「客観的思想」であり、その一つが概念にほかならないのです。
それだけではありません。一五九節では「概念が有および本質の真理である」(一一七ページ)とされ、概念は「有および本質」、つまり客観的事物に媒介されつつ媒介を揚棄した客観的事物の真理としてとらえられています。またこの後の一六六節補遺では、「概念は事物に内在しているものであり、そしてこのことによって事物は現にあるような姿を持っているのである」(一三七ページ)と述べています。
こうしてみると、概念は客観的事物に内在しているものをわれわれが認識においてとらえることにより「われわれが作るもの」、客観的事物から「発生したもの」であって、けっして「真に最初のもの」ではないのです。本補遺は、これまでの論理学の全展開と矛盾するものであって、全体として概念の革命性を押し隠すために、あえて隠れ蓑として挿入したものといえるでしょう。
もっとも「概念が、無限の形式、すなわち自由な創造的な活動」であるという箇所は、人間の自由な意志の本質が客観を受動的に反映するところにあるのではなく、能動的、創造的に世界を変革するところにあることを強調するヘーゲル特有の表現として評価しうるものです。
一六四節 ── 概念は真にあるべき姿として主体そのもの
「概念は絶対に具体的なものである。なぜなら、個がそうであるような、即自かつ対自的に規定されたものとしての自分自身との否定的統一が、それ自身概念の自分自身との関係、すなわち普遍性をなしているからである。概念の諸モメントはこのかぎりにおいて不可分のものである」(一三一ページ)。
概念は、客観的事物の真にあるべき姿ですから、すべての客観的事物について考えうる「絶対に具体的なもの」です。それと同時に概念はエネルゲイアとしてのイデアとして客観をつくりかえる「実体的な力」(一二一ページ)をもつものとしても「絶対に具体的なもの」であり、イデアはどんなに形を変えても「自分自身との関係」を貫くところから「概念の諸モメントはこのかぎりにおいて不可分のもの」なのです。
「反省の諸規定は、対立した規定からはなれて各々それだけで理解され妥当するという意味を持っているが、概念においてはそれらの同一性が定立されているから、概念の諸モメントの各々は直接に他のモメントから、また他のモメントとともにでなければ理解できないものである」(一三一ページ)。
「反省の諸規定」は、例えば本質と現象のように二つの規定は「各々それだけで理解され妥当する」ものです。しかし概念は「自分自身によって、自分自身と媒介」(一三〇ページ)するものですから概念の諸モメントはすべて概念との「同一性が定立されている」のであって、「諸モメントの各々は直接に他のモメントから」区別することはできず、「他のモメントとともにでなければ理解できない」のです。
それをヘーゲルは「概念の透明性」(一三一ページ)とよんでいます。普遍をつうじて「特殊と個」(同)を、特殊をつうじて普遍と個を、個をつうじて「類と種」(同)、つまり普遍と特殊をみることができるからです。「ここには、概念の諸モメントが区別されていながらも不可分であることが定立されている(一六〇節)」(同)のです。
「概念は抽象的なものであるということほど普通に言われていることはない。これは、一方では、概念のエレメントが思惟一般であって、経験的な意味で具体的なものである感覚物ではないという意味では正しいし、もう一つには、概念がまだ理念ではないという意味では正しい」(一三一~一三二ページ)。
このように概念は具体的普遍として絶対に具体的なものなのですが、他方で概念は「具体的なものである感覚物」ではないという意味では抽象的なものであり、また単に主観的なものであって主観と客観の統一としての理念ではないという意味でも抽象的だということもできます。
「概念は絶対的形式そのものであるから、規定されたもののすべてであり、しかも規定されたものの真実の姿である。したがってそれは、抽象的ではあるが、同時にまた具体的なものであり、しかも全く具体的なもの、主体そのものである」(一三二ページ)。
概念は、客観的事物の真にあるべき姿として「規定されたもののすべてであり、しかも規定されたものの真実の姿」です。したがってそれは単に主観的なものとして「抽象的ではある」ものの、同時に客観をつくりかえ、主観と客観の同一を定立しようとする「全く具体的なもの、主体そのもの」なのです。この主体としての自由な概念を論じるのが「B 客観」の「c 目的的関係」と「C 理念」の「a 生命」および「b 認識」です。
なぜ「全く具体的なもの」といえるのかといえば、一六〇節補遺で学んだように客観世界の「富全体」(一二二ページ)の内容を自己のうちに含み、かつそれを真にあるべき姿にかえて「自己のうちから解放する、無限の、創造的な形式」(同)だからです。
これに対して「人間とか、家とか、動物」(一三二ページ)のような事物の共通性を取り出した抽象的普遍は、「概念からただ普遍性の契機をのみ取り上げて、特殊と個は捨象している」(同)のであって、まさに真にあるべき姿としての「概念を看過している」(同)のです。
一六五節 ── 判断は概念の特殊化
「個のモメントがはじめて概念の諸モメントを区別として定立する。なぜなら、個は概念の否定的な自己内反省であり、したがって最初の否定としてまず概念の自由な区別であるからである。これによって概念の規定性が定立されるが、しかしそれは特殊として定立される」(一三三ページ)。
真にあるべき姿としての概念は、具体的普遍として個、特、普が不可分一体となった統体性です。この概念の「否定的な自己内反省」、つまり統体性を否定して概念の諸モメントの「自由な区別」を定立したものが、個です。個においてはじめて一体不可分であった概念の諸モメントに区別が定立されることになります。
この概念の「最初の否定」としての個において「概念の規定性」が定立され、具体的普遍は「特殊」として規定されることになります。つまり個とは普遍の特殊化なのです。
「言いかえれば、区別されたものは第一に、相互に概念の諸モメントの規定性を持つにすぎないが、第二には、一つのモメントが他のモメントと同じであるという同一性も同じく定立されている。かく概念の特殊性が定立されたものが判断である」(同)。
個は普遍の特殊化であり、普遍と特殊の統一です。したがって個において概念の諸モメントは普遍と特殊に区別されたものとしての「規定性」をもっていますが、同時に個は普遍と特殊の「統一」としてその統一のうちに諸モメントの「同一性も同じく定立されている」のです。このように概念のもつ諸モメントを同一と区別の統一という形式のうちにとらえるのが、「判断」という思惟形式なのです。
概念を分けて「明白な概念、明白に識別されている概念、および妥当な概念」(同)としたり、「下位概念と同位概念」(同)、「反対概念と矛盾概念、肯定的概念と否定的概念」(一三四ページ)などと区別されることがありますが、こうした区別は「思想の諸形態を偶然的に拾いあげる」(同)ものであって「概念の規定性そのものとは少しも関係のない」(同)区別にすぎません。
「概念の真の区別、普遍、特殊、個のみが概念の種別をつくるものであるが、それもそれらが外的反省によってひきはなされているかぎりにおいてのみそうである。概念が内在的に自己を区別し規定するのは、判断のうちでみられる。というのは、判断するとは概念を規定することだからである」(同)。
概念の真の区別は、「普遍、特殊、個のみ」であり、しかもこれらの区別が定立されるのは思惟という「外的反省」によって判断がなされるとき、その判断のうちにおいてのみこの区別が定立されるのです。その意味で判断するとは、具体的普遍としての「概念を規定」して、概念の諸モメントを区別と同一の統一として定立することなのです。
五、「A 主観的概念」 「b 判断」の主題と構成
判断とは、「犬は動物である」というように主語概念と述語概念と繋辞(けいじ)を(コプラ)の「である」でつなぐことにより主語概念が何であるかを考え定める思惟形式です。
伝統的形式論理学では、概念、判断、推理を内容のない形式的な論理形式にすぎないととらえているのに対し、ヘーゲルは、そのいずれについても客観的事物の真の姿を認識する思惟の諸形式であり、「現実的なものの生きた精神」(一二六ページ)としてとらえています。
この立場から判断とは、概念がその諸モメントに区別されると同時に統一されるという同一と区別の統一としてとらえられ、「あらゆる事物は判断である」(一三八ページ)とされます。つまりあらゆる事物は、判断の形式においてとらえられることにより、その事物の真の姿、真にあるべき姿を認識しうるのことになります。言いかえると、「犬は動物である」との判断は真であるように真偽の問われる命題が判断なのです。こうして判断の種類は、いかにより深い真理をとらえうる形式となっているかの観点から分類されることになります。
「b 判断」は五つに区分され、まず総論(一六六~一七一節)では判断とは何かが論じられます。次に各論は有の判断としての「イ 質的判断」、本質の判断としての「ロ 反省の判断」と「ハ 必然性の判断」、概念の判断としての「ニ 概念の判断」の四つに区分されます。必然の判断と概念の判断が「本当の判断」(一五三ページ)であり、概念の判断は「真の価値判断」(『大論理学』㊦一一九ページ)として最高の真理をとらえる判断となるのです。ここにヘーゲルの一元論的世界観と変革の立場が示されています。
六、「A 主観的概念」 「b 判断」総論(二)
一六六節 ── 判断は概念の諸モメントを区別しながら同一として定立する
「判断は特殊性における概念である。というのは、判断は、向自的に存在するものとして定立されている、したがって同時に、相互にではなく自己と同一なものとして定立されている、概念の諸モメントを区別しながら関係させるものであるからである」(一三四ページ)。
一六六節から一七一節までは「判断」の総論部分であり、一七二節から一八〇節までがその各論部分となっています。
判断とは、例えば「個は普遍である」(一三五ページ)という形式をもつ命題です。それは「概念の諸モメントを区別しながら関係させるもの」として、概念を特殊化したものです。言いかえると、一方では諸モメントを「向自的に(独立的に ── 高村)存在する」区別として定立しながら、同時に、区別された諸モメントを「自己と同一なものとして定立」する、諸モメントの区別と同一の統一なのです。
人々は普通判断というと、主語と述語という無関係な二つの項があって、それを「私が結合することによって判断が成立する」(同)と考えていますが、そうではありません。ドイツ語で判断は、Urteil(ウァタイル)と言います。ウァタイルとはウァ(原始の)のタイル(分割)を意味していますから、「それは概念の統一が最初のものであること、したがって概念の区別が原始的分割であること」(同)を言いあらわしており、「これが判断の真の姿」(同)なのです。
ヘーゲルは予備概念における「古い形而上学」(㊤一三九ページ)批判において、古い形而上学の方法は、単に対象となる主語にさまざまの述語を外的に「附加」(同)しようとしたものであるが、「対象の真の認識は、これに反して、対象がそれ自身のうちから規定されるのであって、諸述語を外から受取るのではないというようなものでなければならない」(同)と批判しました。
このように主語に述語を外から付け加えるのではなく、対象を「それ自身のうちから規定」するのが判断であり、したがって判断は「対象の真の認識」となることができるのです。
「抽象的な判断は、個は普遍であるという命題である。これが、概念の諸モメントがその直接的な規定性あるいはその最初の抽象態においてとられる場合、主語と述語とが相互に持つ最初の規定である(特殊は普遍である、および個は特殊である、という命題は、判断のより進んだ規定に属する)」(一三五ページ)。
「個は普遍である」という命題は、概念の不可分のモメントである個と普遍とが分割され、区別されていると同時に、「である」という繋辞によって同一とされることによって、判断となっています。主語が個、述語が普遍という判断は、「最初の規定」であり、判断が進展していくとより深い真理を認識することになります。
ヘーゲルは「個は普遍である」との判断が最初の判断であるとしています。というのもあらゆる事物は、個(個物)として存在しながらそのうちに普遍を持つ具体的普遍ですから、それを「原始分割」するとまず「個は普遍である」との判断となるからです(一六七節参照)。
本来概念においては個と普遍は一体不可分のものとして切りはなしえないものであり、それを「外的反省」によって切りはなしたからこそ、「である」という繋辞で同一性が定立されるのであり、この繋辞は「外化のうちにあっても自己と同一であるという概念の本性」(同)にもとづくものなのです。
「先に本質論で取扱った反省規定もまた、その相関のうちで互に関係を持ってはいる。しかしその連関は『持つ』という連関にすぎず、『である』すなわち同一性として定立された同一性あるいは普遍性ではない。それゆえに判断においてはじめて概念の真の特殊性がみられる。判断は概念の規定態あるいは区別であり、しかもこの区別は普遍性を失わないからである」(一三六ページ)。
このように判断は「概念の諸モメントを区別しながら関係させるもの」であり、「関係させる」という意味では本質論の「反省規定」と同様といえるかもしれません。しかし本質論における相関では、対立する二つのものは相互媒介という関係を「持つ」という連関であったにすぎず、まだ対立する二つのものの同一性は定立されていません。これに対して判断における対立する二つの概念のモメントである個と普遍は、「個は普遍である」という形式のうちに「である」という「同一性として定立され」ています。
したがって、普遍、特殊、個の一体化した概念は、「判断においてはじめて概念の真の特殊性」が定立されるのであり、しかもこの判断という「概念の規定態あるいは区別」において、「同一性として定立された同一性」としてなお概念の普遍性は失われることなく保たれているのです。
一六六節補遺 ── 概念における区別の定立が判断となる
「判断は普通二つの概念の結合、しかも異種の概念の結合と考えられている。このような考え方も、概念が判断の前提をなし、そして概念は判断のうちで区別の形式をとってあらわれるという点では正しいが、しかし、概念にさまざまな種類があると考えるのは正しくない」(同)。
「AはBである」という形式をもつ判断は、一般的には主語となる概念(抽象的普遍としての概念)と述語となる概念(同じく抽象的普遍)という異なる二つの概念の結合だと考えられています。このような考えは、「概念が判断の前提」をなしており、「概念は判断のうちで区別の形式をとってあらわれる」という点では正しいといえます。しかし一つには、二つの「異種の概念」の結合ではなく、具体的普遍という一つの概念の区別と同一の定立としてとらえるべきものであり、二つには「判断の両項が結合される」(同)とするのも正しくありません。そこには主語と述語とは「結合されることなく独立にも存在している」(同)との考えが前提とされているからです。
「われわれが『このばらは赤い』とか、『この絵は美しい』とか言う場合、われわれは、われわれが外からはじめてばらに赤を加え、絵に美を加えるのではなく、それらはこれらの対象自身の規定であるということを言いあらわしているのである」(一三六~一三七ページ)。
判断における述語は、われわれが頭のなかで勝手に考えたものを主語に附加するのではなく、主語自身のもつ規定が述語として規定されるのであり、ここにも判断が概念の諸モメントの同一と区別の統一であることが示されているのです。
「形式論理学で普通行われている判断の解釈の欠陥は、それによれば判断一般が偶然的なもののようにみえ、概念から判断への進展が示されていない、ということである。ところが概念は、悟性が考えるように自分自身のうちに静かにとどまっているものではなく、無限の形式として、あくまで活動的なもの、言わばあらゆる生動性の核心であり、したがって自己を自己から区別するものである」(一三七ページ)。
形式論理学では、概念はそれ自身としては「静かにとどまっている」のであって、判断は「外的な反省」(㊤一三九ページ)によって二つの異種の概念を結合する「偶然的なもの」であると考えています。しかし具体的普遍としての概念は自己媒介により自己産出する「あらゆる生動性の核心」であり、「無限の、創造的な形式」(一二二ページ)として自己を特殊化し、区別を生みだして判断を定立するのです。形式論理学では、概念は概念、判断は判断と区別してとらえるところから「判断一般が偶然的なもののようにみえ」るのですが、そうではなく、概念は必然的に判断へと自らの力で「進展」していくのです。
「このように概念は、それ自身の活動によって自己をその異った諸モメントへ区別するものであって、この区別の定立されたものが判断であり、したがって判断の意義は概念の特殊化と解されなければならない」(一三七ページ)。
概念はエネルゲイアとしてのイデアとして、それ自身の活動によって自己を特殊化し、「自己を自己から区別」して判断を定立するのであり、したがって判断は「概念の特殊化と解されなければならない」のです。
概念は具体的普遍として「即自的には特殊なもの」(同)でもありますが、しかし「概念そのもののうち」(同)では特殊は「まだ普遍との透明な統一のうちに」(同)あり、特殊としては定立されていません。例えば植物の胚という具体的普遍には「根、枝、葉」(同)などの特殊なものも潜在的には含まれていますが、それが顕在化するのは、「胚が発展することによってはじめて定立される」(同)のです。その意味で胚から、根、枝、葉の生じることは胚という植物の「概念の特殊化」であり、したがって「植物の判断」(同)ということができます。
「概念は事物に内在しているものであり、そしてこのことによって事物は現にあるような姿を持っているのである。したがって対象を把握するとは、その概念を意識することである」(同)。
一六三節補遺二で、概念は「真に最初のもの」(一三〇ページ)であって、主観的活動の産物ではないかのような表現がありましたが、本音は「概念は事物に内在している」と考えているのであって、その潜在的に内在するものを主観的活動によってとらえることにあるのです。そして事物に内在する事物の「真にあるべき姿」(イデア)によって規定されることにより、事物は「現にあるような姿を持っている」のです。したがって「対象を把握する」とは、対象の真にあるべき姿という「その概念を意識すること」であり、「われわれは対象を、その概念によって定立されている規定態において考察する」(一三八ページ)のです。言いかえると、われわれは「個は普遍である」としての判断をつうじて、「事物に内在している」概念という具体的普遍を取り出すのです。
マルクスもヘーゲルに学んで、物事を根本的に把握することを「概念的把握」とよんで、あちこちで使用しています。
一六七節 ── あらゆる事物は判断
普通の意識では、判断は「普通主観的な意味にとられ」(同)、思惟の「操作および形式」(同)だと考えられています。
「しかしこうした区別は、論理の世界ではまだ存在していないのであって、判断は全く普遍的に解せられなければならない。あらゆる事物は判断である。言いかえれば、あらゆる事物は、自己のうちで普遍性あるいは内的本性である個物である。言いかえれば、個別化されている普遍的なものである」(同)。
普通の意識では判断とは主観的なものだと考えられていますが、論理学のここまでの段階では、主観と客観というカテゴリーは「まだ存在していない」のですから、ここでは判断は主観的なものとしてではなく「普遍的」なものとしてとらえられることになります。
主観と客観のカテゴリーは、ようやく「B 客観」において論じられることになります。概念は客観との対比においてはじめて主観的なもの(主観的概念)としてとらえられ、ここに主観と客観の区別・対立の生じることが明らかになるのです。
「あらゆる事物は判断である」と聞くと途方もないことのように思われるかもしれませんが、判断は「個は普遍である」にみられるように「個別化されている普遍的なもの」です。言いかえると、あらゆる事物は個物でありながら自己のうちに真の姿、真にあるべき姿という普遍性を含んでおり、「自己のうちで普遍性あるいは内的本性である個物」ですから、「あらゆる事物は判断」なのです。判断はまず「個は普遍である」という形式として、「個別化されている普遍的なもの」となっているのです。
われわれは「単なる感覚的現象では満足せず、その奥をさぐり、それが何であるかを知り、それを把握しようとする」(㊤一一〇ページ)のであり、そこで「すべての個に通じる普遍的なものを認識しようとつとめる」(同一一一ページ)のです。われわれは「個は普遍である」という判断をつうじて、真の姿、真にあるべき姿という「普遍的なものを認識しようとつとめる」のです。言いかえると「あらゆる事物は判断である」とは、あらゆる事物の概念は、判断の形式において示されることになるのであり、その意味で判断は真理認識の一形式となっているのです。
もっとも「判断と命題」(一三八ページ)とは区別しなければなりません。判断では真または偽が問題となるのに対して、命題はそうではありません。例えば「カエサルは十年間ガリアで戦った」とか「カエサルはルビコン河を渡った」との命題における述語は、主語の「或る状態、個々の行為」(同)を表明するのみであって、主語のもつ「普遍性という関係を持っていない」(同)から真偽を問う判断にはなりえません。
しかしカエサルがガリアで戦ったかどうか、ルビコン河を渡ったかどうかが「疑わしい場合」(一三九ページ)には真偽が問題となり、「主観的判断ではあるがとにかく判断」(同)となります。
「一口に言えば、まだ確定されていない表象をわれわれが確定しようとする場合」(同)にのみ、真偽が問題となり、したがって「そうした命題も判断となる」(同)のです。
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