『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より
第三六講 第三部「概念論」④
一、「A 主観的概念」 「c 推理」各論(二)
第三五講で「理性的なものは推理であり、しかもあらゆる理性的なものは推理である」(一五八ページ)ことを学びました。つまり推理とは、個別的なものは特殊を媒介して普遍と結合したものであるという「あらゆる事物の普遍的形式」(㊤一二二ページ)をとらえるものとして、「理性的なもの」ととらえられたのです。
しかし最初の推理である「質的推理」では、「個と特殊と普遍とが互に全く抽象的に対峙」(一六二ページ)する空虚な形式にすぎず、その内容において「概念を欠いたもの」(一六〇ページ)として悟性推理にすぎませんでした。
しかしこの質的推理は、形式上の欠陥を克服する推理の三つの格をつうじて概念の「本来の姿」(一六二ページ)を内にもつ理性的推理としての「反省の推理」へ進展していくのです。
「ロ 反省の推理」
一九〇節 ── 反省の推理は普遍から個を、個から普遍を推理する理性的推理
「 ⑴ 中間項が単に主語の抽象的な特殊的規定性であるだけでなく、同時にすべての個別的な具体的主語である場合、したがってまた抽象的な規定性はこの主語の多くの規定性の一つにすぎない場合、この中間項は全称推理を与える」(一七一ページ)。
反省の推理には、全称推理(演繹推理)、帰納(帰納推理)、類推の三種類があり、推理の中心的カテゴリーとなっています。
全称推理とは、特殊を媒介に普遍から個を推理する演繹推理です。例えば、「すべての人間は死すべきものである、カイウスは人間である、ゆえにカイウスは死すべきものである」というものです。大前提における主語は「すべての人間」です。主語が「すべての個別的な具体的主語」であるところから、全称推理とよばれているのです。
全称推理は理性的推理です。というのもこの推理においては「普遍を特殊化したものが個である」という概念の本来の姿がうちに含まれているからです。
全称推理は、こうして概念をうちに含むものとして「悟性推理の根本形式の欠陥を訂正する」(同)ものですが、しかし「また新しい欠陥が生じてくる」(同)のです。
「特殊な規定性すなわち媒概念を全称性として主語に持っている大前提は、大前提を前提として持つべき結論を、むしろそれ自身前提としている」(同)。
全称推理は悟性推理の形式上の欠陥を克服するものではありますが、問題は「すべて」という大前提が正しいというためには、人間の一人であるカイウスも「死すべきもの」でなければなりません。つまり大前提の正しさを証明するものは結論の正しさであり、大前提は「結論を、むしろそれ自身前提としている」のであって、本末顛倒の推理となっているのです。
したがってこのような推理をみると、「誰しもそれが単に衒学的であるだけでなく、無意味な形式主義であると感じるのは当然」(一七二ページ)のことなのです。
「したがって全称推理は 帰納に依存している。帰納の媒介項はa、b、c、d、等々、個別的なものの全体である」(一七一ページ)。
この全称推理の欠陥を補うためには、「全称性」という主語(普遍性)そのものの正しさが証明されなければなりません。
そこで登場するのが「帰納推理」であり、「個別的なものの全体」を媒介に個から普遍を推理するのです。「人間aは死んだ、人間b、c、d、eも死んだ、ゆえにすべての人間は死ぬ」というものです。この推理も「普遍を特殊化したものが個である」という概念の本来の姿を逆にたどることで個から普遍を推理するものとして、理性的推理なのです。
「しかし直接的な経験的個別性は、普遍性とは別なものであり、したがってけっして完全でありえない」(同)。
しかしこの帰納推理にも欠陥があり、エンゲルスは「帰納推理は本質的に蓋然的推理」(全集⑳五三五ページ)であり、「帰納推理もまた誤りうることではいわゆる演繹推理と同様」(同)といっています。というのもa、b、c、d、等々という「経験的個別性」をいくら積み重ねても、すべてを経験しつくすことはできませんから、個別的なものと「すべて」という「普遍性とは別なもの」といわざるをえないからです。いわば帰納推理には「経験的個別性」をもって「すべて」とみなす論理の飛躍があるのです。
したがって「帰納は ⑶ 類推に依存している。類推の媒介項は個別的なものであるが、しかしそれは本質的な普遍性、類、あるいは本質的な規定性という意味を持っている」(一七一ページ)。
こうした個から普遍を推理する帰納推理の欠陥を補うものが類推です。類推も帰納推理と同様に概念の本来の姿にもとづき個から普遍を推理する理性的推理ですが、「個別的なものの全体」から普遍を推理するのではなく、個別のなかの類という普遍性に着目して普遍を推理するのです。
すなわち「a、b、c、d、等々は死んだ、彼らはいずれも人間である、ゆえにすべての人間は死ぬ」というものです。類推の媒介項は、「個別的なもの」ではありますが、同じ人類に属するという「本質的な普遍性、類」としての性質を共通にもっているところから、その類的同一性に着眼して個から普遍を推理し、人間は類として、つまりすべての人間は死すべきものであることが結論されるのです。
「第一の推理は、それを媒介するものとして第二の推理を指示し、第二の推理は、第三の推理を指示する。しかしこの第三の推理も、今や個と普遍との外面的な関係のさまざまな形式を反省推理の諸格のうちで経ているのであるから、自己のうちで規定されている普遍性、あるいは類としての個を要求する」(同)。
では類推が完全な推理かといえば、そうではありません。類推は、個が共通にもつ性質を類としての性質であるとして、個から類を推理するものです。しかし人間a、b、c、dが死んだとしても、それは人間だから死んだのか、それ以外の理由で死んだのかは不明であり、そこでは「個と普遍との外面的関係」がとらえられたにすぎません。類推においては、個が共通にもつ性質を類としての性質であるとして類を推理するものですが、類を異にしながらも個としての性質が共通であるということもありうるのであり、したがって類推にもまた論理の飛躍があり、誤った結論に到達する可能性をはらんでいます。
結局反省の推理の三つの形式は、どれもそれだけでは完全なものではありえないのであって、相互に補完しあって、はじめて正しい結論を推理することができるのです。
このように、第一、第二、第三の推理をつうじて「個と普遍との外面的な関係のさまざまな形式」の欠陥が明らかになったのですから、いまや「自己のうちで規定されている普遍性」、つまり普遍が自らを規定して個となるという「類としての個」が要求されているのであり、こうして反省の推理は、「類としての個」の関係を推理する「必然性の推理」に移行しなければならないのです。
一九〇節補遺 ── 演繹、帰納、類推の相互補完性
本節でみたように、全称推理は「すべて」という普遍から個を推理する演繹推理であり、大前提となる全称性(普遍)の正しさは結論の正しさを前提としているという欠陥をもっています。
したがって「全称推理は、個が連結する中間項をなしているところの帰納へ導く」(一七二ページ)のです。
帰納推理とは、例えば「あらゆる個々の金属にたいしてなされた実験の結果」(同)から「すべて金属は伝導体である」(同)と推理する「経験的な命題」(同)なのです。
この推理は「普 ── 個 ── 特」という推理の第二格であり、「すべての金属」という「完全に枚挙された個」(一七三ページ)が、「連結の役目をしている」(同)のです。いわば帰納推理は全称推理とは逆に、個から普遍を推理するのです。
しかし経験は限られているのであって、「けっして個を余すところなく汲みつくすことはできない」(同)のであり、「帰納はしたがって不完全なもの」(同)です。
帰納のこうした欠陥が「類推へ導く」(同)のです。類推も帰納と同様個を媒介に普遍を推理するのですが、「類推においては、一定の類に属する事物が一定の性質を持つということから、同じ類に属する他の事物もまた同じ性質を持つことが推理される」(同)のです。
ヤコービの直接知は、思惟に対立するカテゴリーとして「直観」というカテゴリーを用い、直観によってこそ無限の真理をとらえうると考えました(六三節)。
これに対しヘーゲルは、一見直観と思えるものも、媒介を揚棄した直接性であるとしてヤコービを批判しました(六六節)。
この類推は、ヤコービの直観に相当するものです。或るものと他のものとの間に「一定の類に属する」共通な性質を見出し、その共通な性質をつうじて類的同一性を類推するためには、類に関して多くの知見をつみ重ね、その類のもつ諸性質を知りつくすことによってはじめて直観として類推することができるのです。その意味で類推とは、「最も複雑な、この上なく多くの媒介を経た考察の結果」(㊤二二二ページ)を土台とし、その媒介性を揚棄した直接性という推理なのです。
ヘーゲルは、類推によって経験科学に「非常に重要な成果が達成されている」(一七三ページ)ことを指摘したうえで、「類推は理性の本能であって、それは、経験的に見出される個々の規定が事物の内的な本性あるいは類にもとづいていることを予感させるもの」(同)といっています。しかしもし類推が「理性の本能」だとすれば、誰もが正しい「予感」、直観をもちうることになるものと思われますが、そうではありません。「理性の本能」というより「蓄積された悟性の産物」というべきものでしょう。現にヘーゲル自身も類推には「皮相なものと深いもの」(一七四ページ)とがあることを指摘しています。類のもつ性質の一面のみをとりあげた類推は「皮相なもの」となり、全面的にとりあげた類推は「深いもの」となります。「空虚な外面的な類推」(同)は「無意味な遊戯」(同)にすぎません。
将棋の羽生善治名人は「直観の七割は正しい」といっています。多くの悟性的認識の蓄積のうえにたつ直観は多くの場合「深い」理性的類推であることを示す言葉として興味深いものがあります。
このように帰納、類推は、いずれも論理の飛躍をともなうという欠陥をもっていますが、反面からするとこの欠陥となる飛躍こそが新たな理論の発見を生みだすものとなっています。
推理というものは、既知のものを土台としながら未知のものについて推理をし仮説をたてます。帰納、類推という反省の推理は、論理的飛躍を伴う仮説を生みだすことで新たな理論を生みだす理性的推理となっているのです。
「ハ 必然性の推理」
一九一節 ── 必然性の推理は類と種、個の関係を推理する理性的推理
「単に抽象的な諸規定からみればこの推理は、反省の推理が第二格にしたがって個を媒介項としているように、第三格にしたがって普遍を媒介項としている(一八七節)。もっとも、この普遍はそれ自身のうちで本質的に規定されているものとして定立されている」(一七四~一七五ページ)。
必然性の推理も反省の推理と同じく理性的推理であり、概念の三つのモメントが一体不可分の関係にあるのですが、概念の統体性がより強固なものとして回復されているのです。
反省の推理(帰納、類推)が推理の「第二格にしたがって個を媒介項として」普遍を推理しているように、必然性の推理は「第三格にしたがって普遍を媒介項として」個を推理するのです。
普遍から個を推理するという形式からすると演繹推理と同じということになりますが、演繹推理の普遍は、全称性だったのに対し、必然性の推理における普遍とは「それ自身のうちで本質的に規定されているもの」としての類です。つまり必然性の推理は、普遍としての類を媒介してその類に属する種(特殊)や個との関係を推理することで必然的な推理となるのです。
言いかえると必然性の推理は、類という普遍に包摂される特殊、個の関係を推理するものであり、「普遍を特殊化したものが個である」という概念の規定をそのままの姿でもっている推理として、理性的推理であるということができます。したがってそこに論理の飛躍という欠陥はないものの、反面からするとある類に属する新種の発見にはつながっても、新たな理論の発見につながることの少ない推理ということができるでしょう。必然性の推理には、定言的推理、仮言的推理、選言的推理の三つがあります。
「 ⑴ まず定言的推理においては、特殊が媒介規定であって、この特殊は特定の類あるいは種という意味を持っている」(一七五ページ)。
定言的推理とは、例えば「両生類は脊椎動物である。カエルは両生類である。ゆえにカエルは脊椎動物である」というものです。この推理においては、普遍としての脊椎動物(類)から、「特定の」種としての両生類(特殊)を媒介に、カエル(個)を推理するのです。
「 ⑵ 仮言的推理においては、個が媒介規定であって、この個は直接的な存在、媒介するものでもあれば、媒介されるものでもあるという意味を持っている」(同)。
例えば「もし両生類ならば幼生時水中、変態後陸上で生活する、カエルはそうである、よってカエルは両生類である」というものです。仮言的推理の媒介項であるカエル(個)は、大前提の両生類に「媒介される」と同時に、結論の両生類に「媒介する」ものでもあるのです。
「 ⑶ 選言的推理においては、媒介の働きをする普遍が、またその特殊化の総体、個々の特殊、排他的な個として定立されている。したがって選言推理の諸規定のうちには、形式をのみ異にして同一の普遍が存在している」(同)。
例えば「両生類はイモリかカエルかサンショウウオである。これはイモリでもサンショウウオでもない、よってこれはカエルである」というものです。
この選言的推理においては両生類という普遍(類)が媒介の働きをしていますが、大前提では類が「特殊化の総体」として規定され、小前提では類が類の特殊化としての「個々の特殊」として規定され、結論では類が、「統体」から「個々の特殊」を除いた「排他的な個」として定立されています。いわば大前提、小前提、結論という「選言推理の諸規定」のうちには、「形式をのみ異にし」た類という「同一の普遍が存在している」のであって、「個 ── 特 ── 普」の推理の形式が揚棄され「普 ── 普 ── 普」という形式になっているのです。
概念の推理
ヘーゲルは判断を概念の分裂、推理を概念の統一としてとらえ、判断における質的判断、反省の判断、必然性の判断に対応して、推理では質的推理、反省の推理、必然性の推理を述べながら、概念の判断に対応する概念の推理については何も述べていません。
しかし、概念の判断のうちの「確然的判断」では、例えば「この家はしっかりした土台を持っている。しっかりした土台を持つ家は家の概念に一致する良い家である。ゆえにこの家は良い家である」というように、「判断の根拠」(一五七ページ)が示されています。推理とは判断に根拠を与えるものであり、確然的判断は、この意味で概念の判断ではあっても「推理である」(同)とされています。
このことからしても、概念の推理は認められるべきものでしょう。例えば「社会主義国家とは国民が主人公の社会である、旧ソ連では国民は主人公ではなかった、ゆえに旧ソ連は社会主義国家ではない」という推理は、概念の推理といえます。
概念の推理は、大前提、小前提、結論のすべてにおいて統体性としての概念(真にあるべき姿)が貫かれているという意味で、もっとも理性的推理といえるにとどまらず、価値にかんする推理として最高の推理ということができます。
概念の判断は、概念(真にあるべき姿)に一致するか否かという価値にかんする判断、価値判断として本当の「判断力」(一五六ページ)を示す最高の判断でした。同様に概念の推理も、価値にかんする推理として最高の推理ということができます。ヘーゲルが概念の判断については論じながら、概念の推理について言及していない理由は不明ですが、あえていえば、概念の推理を問題にすると、当時のプロイセンが真にあるべき国家であったか否かの推理をも論理的に求められることを回避したかったのかもしれません。一九節補遺三で、論理学は「国家」(㊤一〇一ページ)のためにも必要としたことから、筆禍をおそれたことも予想されます。
一九二節 ── 推理は媒介を揚棄して客観に移行する
「われわれは推理を、それが含んでいる諸区別にしたがって、考察してきた。そしてこれらの区別を経過してえられた一般的な成果は、この経過のうちでこれらの諸区別および概念の自己外有が揚棄されるということである」(一七五ページ)。
「それが含んでいる諸区別」とは、個、特、普の区別のことであり、「概念の自己外有」とは概念が自己の外に出た存在、つまり概念が自己の統体性の外に出て個、特、普の諸モメントとして存在することを意味しています。
こうした推理の進展をつうじて定有の推理は「三重の推理」(一六八ページ)として示され、「その各項はいずれも端項の位置を占めるとともに、また媒介する中間項の位置をも占める」(同)ことになり、推理における両端項と中間項との「諸区別」が揚棄されることになります。
また必然性の推理の最後に位置する選言的推理においては、「形式をのみ異にして同一の普遍が存在している」(一七五ページ)のであって、推理における個 ── 特 ── 普という「概念の自己外有が揚棄」されているのです。
「詳しく言えば、⑴ 諸モメントの各々はそれ自身諸モメントの全体、すなわち完全な推理であることがわかったのであり、したがってそれらは即自的に同一である。⑵ それらの区別および媒介の否定は向自有である。したがってこれらの形態のうちにあるのは同一の普遍者であり、したがってそれはまたそれらの同一性として定立されてもいる」(同)。
⑴ は定有の推理における三重の推理を意味しています。三重の推理では「推理のモメントの各々が、概念の規定として、それ自身全体的なもの」(一六七ページ)となっているからです。
⑵ は、選言的推理を意味しています。そこにあるのは「同一の普遍者」であり、個、特、普の「区別および媒介」は否定されているのです。
こういう推理の進展をへて、いまや概念はその諸モメントへの区別を揚棄し、概念の統一を回復したのです。
ヘーゲルのいう概念は、普遍が特殊化して個となるという普遍と特殊の統一としての個でした。判断において分裂した概念の諸モメントは、推理においてその統一性を回復します。普遍、特殊、個は、それぞれ三重の推理をつうじて推理の両端項、中間項となり、区別されつつも「即自的に同一」としての概念となっているのです。また選言的推理により、推理における「個 ── 特 ── 普」の「区別および媒介」は否定され、「同一の普遍者」による「向自有」(一者)、つまり統一体としての概念という一者に還元されているのです。
「諸モメントのこうした観念性のうちで推理は、それが経過する諸規定性の否定を本質的に含むようになり、それとともに媒介の揚棄による媒介、主語を他のものとではなく、揚棄された他のものと、すなわち自分自身と連結するものとなる」(一七五~一七六ページ)。
このように推理の進展のなかで、概念の諸モメントの区別は単なる「観念性」となり、推理が「経過する諸規定性」は否定され、概念の統体性が回復することになります。それはつまり推理という「媒介の揚棄」によって主観的概念そのものを揚棄し、「主語」である主観的概念が「揚棄された他のもの」としての客観という統体性に移行することを意味しています。主観的概念は客観に移行することで統体性をもつ客観的概念(客観そのもの)となり「自分自身と連結する」のです。
二、主観的概念から客観への移行
一九二節補遺と一九三節は「ハ 必然性の推理」の一項目とはなっていますが、内容的には推理ではなく、主観的概念から客観への移行を主題としています。一九三節は六ページにもわたる最も長い節となっています。
この主観的概念から客観への移行の問題は、ヘーゲルの観念論を示すものとして批判を受けやすい箇所であるところから、ヘーゲルは多くの紙数をつかって、そもそも主観、客観とはいかなる思想なのか、なぜ主観から客観への移行の問題を論じなければならないのか、なぜヘーゲルは自己の哲学を「絶対的理念論」と称しているのかなどの理論問題を解明しています。
そういう重要な箇所だということを念頭において学んでいくことにしましょう。
一九二節補遺 ── 主観と客観の二元論は真理ではない
「普通の論理学」(一七六ページ)では、概念、判断、推理などを扱った第一部原理論と、原理論を「現存する諸客体へ適用する」(同)第二部方法論とで「一つの全体的な学問的認識が作り出される」(同)としています。
「これらの客観がどこから来るか、一般に客観性という思想はどういうものなのか、これについては悟性的論理学はそれ以上何の説明も与えない」(同)。
そこでは「思惟は単に主観的で形式的な活動と考えられており」(同)、「客観がどこから来るか」の説明もないまま、「客体はなんら主観の影響を受けぬ独立の存在と考えられ」(同)ています。
「しかしこうした二元論は真理ではない。このように主観性と客観性という二つの規定を無造作に受け入れて、その起源を問わないのは、無思想な仕方である。主観性も客観性も明かに思想であり、しかも規定された思想であるから、われわれはそれらを自分自身を規定する普遍的な思惟にもとづいているものとして示さなければならない」(同)。
主観と客観というカテゴリーは、一見すると自明なもののように思えます。しかしヘーゲルは、このカテゴリーも「規定された思想」だから、われわれはこのカテゴリーを思惟によって媒介された規定として示さなければならないというのです。言いかえればこのカテゴリーを「無造作に受け入れ」、主観、客観のカテゴリーがどこからくるのかを思惟によって明らかにすることなく、「その起源を問わないのは、無思想な仕方」にほかならないのです。
「このことは、これまで述べたところにおいて、まず主観性にかんして行われた。われわれは主観性すなわち主観的概念を ── これは概念そのもの、判断、および推理をそのうちに含んでいるが ── 論理的理念の最初の二つの主要段階、有および本質の弁証法的成果として認識した」(同)。
論理学は「思惟の学」(㊤九五ページ)であり、すべてのカテゴリーも「自分自身を規定する普遍的な思惟にもとづいているものとして示さなければ」なりません。そのため「客観にたいする思想の第一の態度」(㊤一三四ページ)とか、カントのいう主観と客観(同一六八ページ)など、予備概念では主観と客観のカテゴリーを使用してきたものの、論理学の本論では、ここまで、主観、客観のカテゴリーは使用されてきませんでした。「こうした区別は、論理の世界ではまだ存在していない」(一三八ページ)とされてきたのです。
ヘーゲルは主観性の「起源」について「主観性すなわち主観的概念」は、「有および本質の弁証法的成果として認識した」と述べています。しかし「有および本質の真理」(一一七ページ)が概念であることは論じられてきたものの、「A 主観的概念」との見出しがつけられながら、ここまで概念そのものが「主観性」であり、「主観的概念」であることも「有および本質」が客観であることも論じられてきませんでした。ここにきて概念が「概念のうちにあらわれている規定とはちがった形態へ移っていく」(一七九ページ)ことが明らかにされ、概念がその「ちがった形態」との対立のうちにおかれるようになってはじめて、概念は「主観的なものとして規定され」(一七八ページ)、主観的なものとしての概念とは「ちがった形態」が客観として思想のうちにとらえられるのです。
こうして概念は主観的なものであり、概念、判断、推理ははじめて「主観的概念」としてとらえられることになるのです。
「概念が主観的、しかも単に主観的であると言うのは、全く正しい。なぜなら概念は主観性そのものであるからである。さらに判断および推理も、概念そのものにおとらず、主観的なものである」(一七六~一七七ページ)。
真にあるべき姿としての概念は認識のうちにとらえられた「主観性そのもの」であり、概念の展開としての判断、推理もまた思惟の諸形式として主観的なものなのです。
そこで今度はこの主観性という思想を前提に、「客観がどこから来るか、一般に客観性という思想はどういうものなのか」が論理的に解明されなければならないことになります。この客観の起源を問題にすれば「二元論は真理ではない」ことが明らかになるのであり、ここにヘーゲルの革命的立場が明確に示されています。
精神と物質、主観と客観とは、世界の二大要素をなしており、そのどちらを根源的、第一次的と考えるかにより、哲学は大きく唯物論と観念論とに分かれます。自然科学の発展により、人間が存在する以前から地球や宇宙が存在していたことが明らかになり、次第に物質、客観こそ根源的とする唯物論が支配的な世界観となってきます。
こういう状況のなかで唯物論にたちながらも「事実と価値」「存在と当為」を峻別し、世界がどのようにあるかという事実の問題と、人間がどのように生き行動するか、言いかえると世界はどうあるべきかという価値の問題とを切りはなしてとらえる唯物論的二元論が登場してきます。事実の問題とは客観の問題であり、人間がどのように生き行動するかの問題は主観の問題といえますから、唯物論的二元論は、主観と客観の対立を絶対化し、客観を主観の影響を受けない独立の存在としてとらえる形而上学の立場、悟性的認識の立場ということができます。この考えを代表するのが第三五講で学んだマックス・ウェーバーです。
ヘーゲルはウェーバー以前の人ですが、あたかもウェーバーの二元論を知っていたかのごとくこの唯物論的二元論を批判し、「存在と当為」は弁証法的に統一されなければならないという唯物論的一元論を唱え、人間の創造的思惟による客観の変革という理性的認識の立場を訴えたのです。
「哲学がめざしているのは、こうした(主観と客観の ── 高村)統一を証明すること、すなわち、思想あるいは主観性は、本質的に、存在あるいは客観性と不可分であることを示すことにある」(㊤二一九ページ)。
ではどうやって二元論を退け、唯物論的一元論の真理性を証明するのかといえば、まず主観性とは何かを思想として明らかにし、次いで次節で主観性から客観性への移行を理論的に解明し、客観を「主観の影響を受けぬ独立の存在」(一七六ページ)であることを否定することによって証明することになるのです。
概念、判断、推理という「三つの規定は、いわゆる思惟法則(同一、区別、および根拠の法則)とともに、普通の論理学ではいわゆる原理論の内容をなしている。しかし、概念、判断、および推理という以上三つの規定から成っているこの主観性は、独立に存在している客体によって外部から充実されねばならない空虚な区劃ではなく、主観性そのものが、弁証法的なものとして、自己の制限をうち破り、推理を通じて客観性への道をひらくのである」(一七七ページ)。
第三三講でお話ししたように、形式論理学では、四つの基本法則(同一律、矛盾律、排中律、充足理由律)と三つの論理形式(概念、判断、推理)が第一部の「原理論の内容をなし」、それを「現存する諸客体へ適用する」(一七六ページ)のが第二部の方法論であるとして、主観と客観とを全く切りはなしてとらえています。
しかし「主観的概念」は「客体によって外部から充実されねばならない空虚な区劃」ではなく、主観的概念そのものが「自己の制限をうち破り、推理を通じて客観性への道をひらく」のです。ここに精神の創造性と革命の立場にたつヘーゲル哲学の真髄が示されているのです。
一九三節 ── 概念はエネルゲイアとして客観に移行する
「このように概念が実現された場合、前節に述べたように、普遍者は自己のうちへ復帰した一つの統体をなし(この統体の諸区別も同じくこうした統体をなしている)、そしてこの統体は媒介の揚棄によって自己を直接的な統一として規定している。概念のこうした実現がすなわち客観である」(一七七ページ)。
八節で「思惟のうちになかった何ものも感覚のうちにはない」(㊤七四ページ)との命題は、「広い意味では、ヌースあるいは精神(これはヌースのより深い規定である)が世界の原因である」(同)ということを意味していました。
この「精神」が、ここで概念として明確に規定されるにいたったのです。現実性のカテゴリーを論じるなかで思想と現実を対立させてとらえるのは誤りであり、「理念はけっしてわれわれの頭脳のうちにのみあるものでもなく、またわれわれが勝手に実現したり、しなかったりできるような無力なものでもなく、絶対的に活動的なものであり、現実的なものである」(八三ページ)ことを学びました。
ヘーゲルはそれを「イデアが……本質的にエネルゲイアであること」(八四ページ)、つまりエネルゲイアとしてのイデアとしてとらえましたが、いまや概念がそのエネルゲイアとしてのイデアとしてあらわれているのです。すなわち真にあるべき姿という人間の認識のうちにとらえられた概念(イデア)は、必然的に現実性に転化して客観となり、客観を真にあるべき姿に変革するのです。
一九二節で学んだように、主観的概念は三重の推理をつうじて概念の諸モメントの区別を揚棄することで、概念は「自己のうちへ復帰した一つの統体」として自己を実現するのであり、この概念の「実現がすなわち客観」なのです。客観世界は「一つの統体」であり、客観世界を構成する個々の客観(「統体の諸区別」)も「同じくこうした統体」をなしています。
概念の実現としての客観は、概念に媒介されたものでありながらその媒介を揚棄した「直接的な統一」として、それ自体として独立に存在する世界となっているのです。
「主観すなわち概念一般」(一七七ページ)から客観へ移行するというと、「一見非常に奇妙に思われる」(同)かもしれませんが、問題はこのようにとらえられる客観が、普通の客観の表象と「大体一致しているかどうか」(同)にあり、これから述べるようにヘーゲルのいう客観は普通の表象と「大体一致」しているのです。
まず一般に客観という言葉によって理解されているものは「現存在する物とか、現実的なもの一般」(一七八ページ)ではなく、「具体的で自己のうちで完結している独立的なもの」(同)というものですが、「この完全性」(同)こそ、ヘーゲルのいう「概念の統体性」(同)のあらわれとしての客観にほかなりません。
また普通の表象では「客観はまた対象であって、他のものにたいして外的なものであるという規定性」(同)をもつもの、つまり客観とは主観によって働きかけられる対象であり、主観にたいして外的なものとしてとらえられています。ヘーゲルのいう客観は、ここではまだ「単に直接的な客観」(同)としてしかとらえられていませんが、一九四節補遺一では、客観は「主観的なものへの対立のうちに定立され」(同)、しかも主観と客観との相互媒介をも論じているのであって、表象のとらえる客観と何ら異なるところはありません。
さらに普通の表象は客観を「一つの全体」(同)としてとらえながらも、「自己のうちに区別を持ち」(同)、区別されたものも「それぞれ一つの客観」(同)としてとらえていますが、これこそ以下にみるようにヘーゲルのいう客観にほかなりません。
「客観性は有、現存在、現実性と比較されたが、客観性への移行もまた、現存在および現実性への移行と比較されることができる」(同)。
このように、客観性とは主観的概念の客観性への移行です。これまでにも、根拠から現存在への移行、本質から現実性への移行をみてきましたが、概念から客観への移行も、これらの移行と同様な移行の一つということができます。
しかし根拠から現存在への移行、本質から現実性への移行は「まだ十分に顕在的になっていない概念にほかならず、言いかえれば、概念の抽象的な側面」(同)にすぎません。というのも根拠は同一と区別の統一ですが、この統一は「概念の統一が本質の領域においてあらわれたもの」(同)にすぎません。また本質から現実性への移行は、一つのものの「うちへのみ反省している」(同)内的なものと外的なものという「実在的な二つの側面の関係」(同)にとどまっています。
「客観は単に本質にみられたような統一ではなくて、自分自身のうちで普遍的な統一であり、単に実在的な諸区別をそのうちに含んでいるのではなくて、諸々の統体としての諸区別を含んでいるのである」(一七九ページ)。
これに対して概念から客観への移行は、「自分自身のうちで普遍的な統一」である概念が、統体性を保ちつつ自ら統体性を持つ諸区別を定立するという概念の顕在化としての客観への移行なのです。したがってヘーゲルのいう客観はこの点からも普通の客観の表象に一致しているのです。
以上のすべてからしてヘーゲルが概念から客観への移行を論じることは一見奇妙に思われるとしても、ヘーゲルのいう客観は一般の表象する客観と何ら異なるところはないのですから、あとは概念から客観への移行の意味するところを理解しさえすればいいのです。
概念から客観への移行は一面性の揚棄による真理の定立
「これらすべての移行において、ただ一般的に概念あるいは思惟が存在から離しがたいものであることを示すだけではたりないのは明かである」(同)。
この概念の客観への「移行の意義」(同)は、概念が存在を含んでおり、その「単に含まれているままの諸規定をとりあげるということ」(同)ではなく、イデアとしての概念がエネルゲイアとして自らを客観として実現するところにあるのです。
ヤコービは、神から存在への移りゆきを「本質的に本源的な、無媒介的な連関である」( 二二六ページ)ととらえましたが、ヘーゲルはそれを批判し、「自己そのものうちで自己を完結する」(同)真の媒介であるととらえました。
概念から客観への移行は、エネルゲイアとしてのイデアが外的なものによることなく、自己媒介する真の媒介にほかなりません。
これまでみてきたように、概念論における概念には、真にあるべき姿と具体的普遍という二つの側面があります。「A 主観的概念」では、主として具体的普遍の見地から概念がとりあげられ、具体的普遍としての概念の諸モメント(個、特、普)の分離と結合が判断、推理の主題として論じられてきました。これに対して「B 客観」「C 理念」における概念は主として真にあるべき姿の見地からとりあげられ、概念論が理性的認識であるという側面が強く打ち出されてくるのです。
「それはまず概念を、有や客観というような別の抽象物とはまだ全く無関係に、概念そのものとして考察し、あくまで概念本来の規定性としてのその規定性に即しながら、この規定性が、概念に属し、概念のうちにあらわれている規定とはちがった形態へ移っていくかどうかをみ、また実際に移っていくのをみることにある」(一七九ページ)。
概念から客観への移行は、まず概念をイデアとしての「概念そのものとして考察」し、概念の「規定性」が「概念のうちにあらわれている規定」、つまり判断、推理とは「ちがった形態へ移っていく」のをみることにあるのです。概念を「ちがった形態」との関係で見直してみるとき、概念は主観的概念、主観性そのものととらえられ、「ちがった形態」は客観としてとらえられ、ここに主観と客観という対立するカテゴリーが定立されることになるのです。
「この移行の産物である客観を、客観のうちでその特有の形式を失っている概念と関係させる場合、その結果を表現して、概念と ── これはまた主観性と言ってもいい ── 客観とは即自的には(本来的には ── 高村)同じものであると言うのは正しい。しかしまた両者が異っていると言うのも同様に正しい」(同)。
こうして概念から客観への移行を、主観と客観との関係としてとらえた場合、両者は本来的には同じものであると同時に異なっているものであるということができます。というのも、「概念そのものは一面的であって、その一面性は、それに対立している一面性であるところの客観へ移っていく」(一七九~一八〇ページ)ことによって克服される同一性であって、けっして「平凡な同一性」(一八〇ページ)ではないからです。
概念は、主観的概念としては一面的であり、概念と存在との一致という真理を実現することで、「自己そのもののうちで自己を完結する」媒介として、自己を完成させるのです。
「この同一が全く一般的にとられて、それが即自的であるという一面性を顧みないとき、それは周知のごとく、神の本体論的証明のさいに前提されているもの、しかも最も完全なものとして前提されているものにほかならない」(一八〇ページ)。
アンセルムスは「最も完全なもの」としての神の概念には神の存在も含まれるとして、神(概念)と存在との即自的な同一を主張しました。つまり、神の概念と神の存在とは直接かつ不可分に結びついているのであって、概念から存在への移行としてとらえなかったのであり、そこに彼の「神の本体論的証明」の「一面性」が示されています。
アンセルムスは、「有限な事物とは、その客観性がその思想、すなわちその普遍的規定、その類、およびその目的に一致していないものである」(一八一ページ)ことを正しく理解し、神は無限なものだから神の「普遍的規定」(概念)と「客観性」とは一致しなければならないと考えました。
そこには、有限な事物は概念に一致しないから「変化し消滅する」(同)のであり、完全なものは概念と存在との一致、つまり「単に主観的にだけでなく同時に客観的にも存在する」(一八二ページ)という正しい思想が含まれているのであって、「こうしたアンセルムス的規定をどんなに軽蔑しても、それは無益」(同)といわなければなりません。
アンセルムスのみならず、デカルト、スピノザも概念と客観の一致にこそ真理があると考えました。それは正しいのですが、問題は「この統一が前提されているということ、すなわち単に即自的なもの」(同)と考えられていて、概念が単に主観的なものという一面性を揚棄して客観に移行し、それによって主観と客観の同一が定立されて真理となる過程としてとらえられていないところにあるのです。
そこから、彼らのように主観と客観は一致するといっても、有限なものは、客観ではあっても、概念(主観)と一致していないではないか、との反論が生じてくることになるのです。
こうした反論に答えるためにも「有限なものは真実でないものであること、二つの規定は単独では一面的であり空無なものであること、したがって両者の同一は、両者がそれ自身でそのうちへ移っていき、そこで両者が宥和されているような同一であること」(一八二~一八三ページ)を示すことがもとめられているのです。
概念はその主観的一面性を揚棄して客観に移行し、「概念と客観性との絶対的な統一」(二〇八ページ)としての理念となります。ヘーゲルにおいて理念は絶対的真理とされますので、ヘーゲルは自己の哲学を「絶対的理念論」とよんでいるのです。
こうして主観的概念はその一面性を否定して「B 客観」へと移行することになります。
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