『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より
第三七講 第三部「概念論」⑤
一、「B 客観」の主題と構成
第三三講で学んだように、ヘーゲルのいう概念には、具体的普遍という意味と事物の真の姿、真にあるべき姿という二つの意味があります。「A 主観的概念」では、主として具体的普遍としての概念が取り扱われましたが、「B 客観」「C 理念」では主として真にあるべき姿としての概念が論じられています。
第三六講でみたように、概念そのもの(主観的概念)は、自己のもつ主観性という一面性を揚棄して客観に移行することになります。では概念論の「B 客観」と、客観的論理学としての有論、本質論とはどのような関係にあるのでしょうか。
第一講でお話ししたように、大きくとらえた場合、有論、本質論は客観的論理学であり、概念論は主観的論理学ということができます。有論、本質論は、客観的事物の表面的な真の姿、内面的な真の姿をとらえるものとして客観的論理学とされるのです。これに対して概念論は、客観的事物のうちに潜在的には存在するものの、人間の主観のうちにはじめて顕在的にとらえられる客観的事物の真にあるべき姿を問題とするところから主観的論理学といわれているのです。この事物の真にあるべき姿は、また具体的普遍でもあり、「A 主観的概念」は主としてこの具体的普遍の側面から概念を論じたものでした。
これに対して「B 客観」では、主観的な真にあるべき姿が客観に移行(概念と存在との統一)して真理となった客観を論じています。つまり「B 客観」では、概念としての客観、真にあるべき姿としての客観を考察しようというのです。いわば有論、本質論は、客観的事物の現にある真の姿をとらえようとするものであるのに対し、概念論の「B 客観」は、客観的事物を真にあるべき姿の見地からとらえようとするのです。
「B 客観」は、総論(一九四節)と各論としての「a 機械的関係」「b 化学的関係」「c 目的的関係」の四つに区分されます。
総論では、客観とは概念のあらわれとして独立と非独立との絶対的な矛盾であること、また概念を媒介にして主観と客観の相互移行と統一(理想と現実の統一)が実現され、それが理念であることが明らかにされます。
機械的関係から、化学的関係、目的的関係と進展するにしたがって、客観のうちにある概念が潜在的なものから次第に顕在化してきます。つまり機械的関係が「単に即自的な概念」(一八六ページ)であるのに対し、化学的関係は「概念の統体性が定立されたもの」(一九三ページ)であり、目的的関係は、「向自的に存在する概念」(一九六ページ)としてとらえられます。
目的的関係において概念と客観との統一が定立されるところとなり、こうして理想と現実の統一という絶対的な真理として「C 理念」に移行することになります。
二、「B 客観」総論
一九四節 ── 客観は多様なものの独立と非独立の絶対的な矛盾
「客観は直接的な存在である。なぜなら、客観においては区別が揚棄されているために、客観は区別にたいして無関心であるからである」(一八三ページ)。
前節で学んだように、客観は概念が移行したものとして概念の統体性をもつ「直接的な存在」です。「直接的な存在」とは、主観的概念に媒介されながらも媒介を揚棄した存在として「自己のうちで完結している独立的なもの」(一七八ページ)を意味しています。
この直接的な存在としての客観は、客観世界という統体性をもった独立した世界を形づくり、とりあえずは主観との「区別にたいして無関心」なのです。
「それはさらに自己のうちで統体をなしているが、同時にこの同一は諸モメントの即自的な同一にすぎないから、それはまたその直接的な統一にたいしても無関心である。かくしてそれは諸区別へ分裂し、その各々がそれ自身統体である。したがって客観は、多様なものの完全な独立と、区別されたものの完全な非独立との絶対的な矛盾である」(一八三ページ)。
概念は統体性であると同時に概念の諸モメントという区別をもち、その諸モメントの各々も概念の統体性をもっていました。概念のあらわれとしての客観も、客観世界としての統体性をもつと同時に、そのうちに「それ自身統体である」個々の独立した客観という区別をもっています。個々の客観は、客観世界の「諸モメント」として「現象の世界」(五九ページ)でみたように「無限の媒介」(同)のうちにおかれています。しかし個々の客観は、無限の媒介のうちにあることは知っていても、客観世界の統体性、「直接的な統一」に媒介されていることに対しては「無関心」のままにとどまっています。しかし、現象の世界の無限の媒介は、客観世界の統体性に媒介された無限の媒介にほかならないのです。
こうして多様な個々の客観は、それ自身統体性をもつ独立した存在でありながらも客観世界の統体性に媒介される非独立な存在であり、したがって客観は「多様なものの完全な独立と、区別されたものの完全な非独立との絶対的な矛盾」となるのです。
「絶対者は客観であるという定義は、ライプニッツのモナドのうちに最も明確に含まれている。モナドは各々一つの客観であるが、しかし即自的に表象するものであり、しかも世界の全体を表象するものである。その単純な統一のうちでは、あらゆる区別は単に観念的な、非独立的な区別として存在するにすぎない」(一八三ページ)。
こうしてヘーゲルは、「絶対者は客観である」、つまり「絶対的真理は、完全な独立と非独立との矛盾のうちにある客観にある」ととらえるのですが、それはライプニッツのモナド論に学んだものということができます。
ライプニッツは、モナド(単子)を世界の実体としてとらえました。モナドは原子論の原子と同様に世界の実体をなすものですが、物質的なものである原子とは異なり精神的な実体と考えられています。彼は、モナドを「一つの客観」ととらえていますが、同時に「世界の全体を表象するもの」として、独立と非独立の絶対的矛盾としてとらえています。さらに彼は、機械論と目的論との対立を調停する予定調和説により主観と客観の統一を実現しようとするなど、ヘーゲルの客観論に大きな影響を及ぼしました。「かくしてライプニッツの哲学は完全に展開された矛盾である」(一八四ページ)とされています。
一九四節補遺一 ── 真理は主観と客観の相互媒介的統一にある
一九三節で学んだように、主観的概念は一面的であって、同じく「それに対立している一面性であるところの客観へ移っていくことによって、自己を揚棄」(一八〇ページ)します。つまり主観も客観も、どちらか一方のみでは真理ではなく、真理は両者の統一にあるのです。
主観と客観とを区別したままで放置するのは悟性的認識です。これに対して理性的認識にたつヘーゲルは、主客を区別したうえで「思想あるいは主観性は、本質的に、存在あるいは客観性と不可分」(㊤二一九ページ)であり、「哲学がめざしているのはこうした統一を証明すること」(同)にあるとしています。
したがって「絶対者(神 ── 高村)は客観である」(一八三ページ)と定義して、そこに立ち止まるのは「迷信と奴隷的恐怖の立場」(一八四ページ)です。というのもその場合の神は「客観そのもの」(同)であって、「われわれの特殊な(主観的な)意見や欲求」(同)は、「なんらの真理も妥当性も持たない」(同)ものとして否定され、「暗黒で敵意にみちた威力として主観性に対峙している」(同)からです。
しかし神は絶対的な真理として「絶対的な客観」(同)ではあっても「主観性に対峙」するものではなく、「むしろ主観性を本質的なモメントとして自己のうちに含んでいる」(同)のです。このことをキリスト教では、「神はすべての人が救われ、すべての人が幸福になることを望みたまう」(同)と表現していますが、これは「人間が神との統一を意識する」(同)ことによる客観と主観の統一を意味しているのです。
このように「宗教および宗教的儀式の本質」(一八五ページ)は、「主観と客観との対立を克服すること」(同)にあるのですが、同様に「科学および特に哲学の任務も、この対立を思惟によって克服することにある」(同)のです。
「一般に認識の目的は、われわれに対峙している客観的世界からその未知性をはぎとり、そのうちに自分自身を見出すことにある。自己を見出すことはすなわち、客観をわれわれの最も内的な自己である概念へ還元することである」(同)。
認識の目的も、客観に一致する主観性を実現することにあります。すなわち、主観としてのわれわれは客観世界の「未知性をはぎとり」、客観のうちに「自分自身を見出す」のであり、言いかえると客観のうちに潜在的に存在している概念(真の姿、真にあるべき姿)を取り出し、客観を「最も内的な自己である概念へ還元する」ことで、客観に一致する主観性を獲得するのです。
ここに概念というイデアが客観から発生するものであることが明確に示されています。それだけではありません。主観と客観とは、「動かすことのできない抽象的な対立」(同)のうちにあるのではなく、「弁証法的」(同)な相互に媒介された対立物の統一の関係にあることが重要なのです。
「最初単に主観的である概念は、外的な材料また素材を必要とすることなしに、それ自身の活動にしたがって自己を客観化するようになり、他方客観は凝固し過程のないものでなく、その過程は自己を同時に主観的なものとして示す過程であって、これが理念への進展をなしている」(同)。
すなわち、一方でわれわれは客観を主観としての「概念へ還元する」と同時に、他方で主観的な概念は「それ自身の活動にしたがって自己を客観化」することにより、客観を「主観的なものとして示す」のであり、これが概念から「理念への進展」をなしているのです。こうして客観から主観へ、主観から客観へという相互移行をつうじて、主観と客観の統一、理想と現実の統一という真理が実現されるのです。
一九四節補遺二 ── 「B 客観」の進展は概念の顕在化する過程
客観は、機械的関係、化学的関係、目的的関係の三つに区分されます。
本節で客観は「多様なものの完全な独立と、区別されたものの完全な非独立との絶対的な矛盾」(一八三ページ)であることを学びましたが、以下において多様な客観の矛盾が具体的に展開されることになります。すなわち多様な客観は、独立したものとされながら他の客観に媒介される非独立の関係が検討され、その矛盾を貫くものが概念であることが明らかにされます。
機械的関係における客観は「直接的で無差別の客観」(一八五~一八六ページ)です。つまりそれは概念の統体性をもつという意味では「無差別の客観」ですが、その概念はまだ「即自的な概念」(一八六ページ)にすぎません。機械的関係においても「区別を含んで」(同)はいますが、その区別は概念の諸モメントとしての区別ではなく「相互に無関係」(同)な区別であって、それらの結合も「外的」(同)な結合にすぎません。
これに対し化学的関係では、概念を自己のうちにもち、そこにおける区別は、概念の統体性が分裂して生じた区別となっています。したがってその区別は「相互に関係することによってのみそれらがあるところのものであり、区別がそれらの質をなしている」(同)のです。つまり区別されたものは概念の統体性を予定しつつ、いまだ統一されないかぎりにおいてのみ意味をもつ区別なのです。
目的的関係は、「機械的関係と化学的関係との統一」(同)です。すなわちまず目的的関係は機械的関係と同様に概念の統体性をもち、しかも即自的な概念ではなく、顕在化した概念としての目的という統体性をもっています。目的は主観と客観の対立と「区別の原理」(同)を解消することにより目的を実現しようとするのであり、その意味で目的的関係は「化学的関係のうちであらわれた区別の原理によって豊かにされ、自己に対峙している客観へ関係」(同)するような客観なのです。
目的的関係における目的の実現が主観と客観の統一をもたらし「理念への移行」(同)をもたらします。
エンゲルスは、「ヘーゲルの区分(はじめの)、すなわち機械論、化学論、有機論(目的論 ── 高村)の区分は、その時代にとっては完全だった」(全集⑳五五七ページ)と述べています。
もし現代において客観を論じるのであれば、量子の世界の量子論、原子、分子の世界の機械論と化学論、多数の原子の集まった凝縮系物理学(半導体、レーザー、超伝導など)、そして生命の世界の目的論(有機体論)ということになるのでしょうか。もっともその場合をも概念の顕在化する過程としてとらえうるかは、検討課題といえます。
三、「B 客観」 「a 機械的関係」
一九五節 ── 形式的な機械的関係は概念を自己の外にもつ
機械的関係は、さらに「形式的な機械的関係」、「親和的な機械的関係」、「絶対的機械関係」の三つに区分されます。
「客観は ⑴ その直接態においては単に即自的な概念であって、主観的なものとしての概念を最初は自己の外に持ち、すべての規定性は外的に措定された規定性として存在する。したがってそれは、区別されたものの統一としては、寄せ集められたもの、合成物であり、他のものへのその作用は、外的な関係にすぎない。これが形式的な機械的関係である」(一八六ページ)。
一九三節で学んだように、客観は概念の実現、概念のあらわれとして、そのうちに概念を含んでいます。しかし、最初の客観の形態である機械的関係においては、そこに含まれる概念は「即自的な(潜在的な ── 高村)概念」にすぎないのです。
さらにその機械的関係のうちの最初の形態である「形式的な機械的関係」にあっては、「主観的なものとしての概念」を自己のうちにではなく「自己の外に持」っているために、本来は機械的関係とは称しえないのですが、「区別されたものの統一」という形式においてのみ機械的関係といいうるのであり、そこから「形式的な機械的関係」とよばれているのです
形式的な機械的関係にあって、「区別されたものの統一としては、寄せ集められたもの、合成物」であり、区別されたもの相互の作用は「外的な関係」にすぎません。
区別された「もろもろの客観的なもの」(一八七ページ)は、形式的な機械的関係において単に「寄せ集められたもの」にすぎず「あくまで独立的であって、抵抗しあい、相互に外的」(同)な関係にとどまっています。
この機械的関係は、客観そのものの相互の関係ですから、時計の部品のように物質相互間の関係のみならず、精神活動の産物としての客観的精神にも妥当するのです。例えば、「言葉」(同)にしても、なじみのない外国語であれば、無意味な外的な機械的関係にすぎず、それを覚えるのも、暗記するのみという機械的関係となるのです。神を敬うのも「かれ自身の精神と意志」(同)とにもとづくものでなければ、外的で機械的な関係となります。
一九五節補遺 ── 機械的関係は普遍的なカテゴリー
機械的関係は「客観性の最初の形態」(同)であり、「反省が対象的な世界を考察する場合最初に見出」(同)し、「非常にしばしばそこで立ちどまってしまうカテゴリー」(同)です。
ヘーゲルは論理学のあちこちで唯物論の批判をしていますが、その一因は当時の唯物論が機械的唯物論であり、生命体も含めすべてを機械的関係としてとらえ、「そこで立ちどまってしまう」ところにあったものと思われます。
エンゲルスも『フォイエルバッハ論』(全集㉑)のなかで、「前世紀(一八世紀)の唯物論は、大体において機械論的であった。それは、当時、すべての自然科学のうちただ力学だけが、……ある程度完成されていたからである。……一八世紀の唯物論者たちにとっては、人間が機械であった。化学的あるいは有機的性質の諸事象……にこのようにもっぱら力学の尺度を適用したことが、フランス古典唯物論に特有の、しかしその時代としては避けられなかったせまさである」(同二八三ページ)と批判しています。
「しかしそれは皮相で浅薄な考察方法であって、自然にかんしてさえも不十分であり、まして精神にかんしては不十分である」(一八七ページ)。
自然において機械的関係にしたがっているものは、「まだ自己のうちで発展していない物質の全く抽象的な関係」(同)にすぎません。したがって「光、熱、磁気、電気」(同)などは機械的関係としては説明できず、また生命体を把握するには全く不十分なカテゴリーです。このあたりはヘーゲルの物理学に関する知的水準を示すものとして興味深いものがあります。
「あくまで機械的関係を固執し、もって自然を十分に認識する道を塞ぐのは、近代の自然研究のきわめて根本的な欠陥、いな、主要欠陥とみられなければならない」(一八八ページ)。
後にみるように近代の自然科学は、アリストテレスの目的因を否定し機械的自然観を確立するところから出発しましたが、逆に「機械的関係に固執」することが「近代の自然研究」の「主要欠陥」ともなったのです。
しかし、他方で機械的関係は「普遍的な論理的カテゴリー」(同)としての性格をもっているのであって、自然のうちでも「本来の力学の領域外」(同)である「物理学と生理学」(同)のみならず、精神の領域にも妥当するのです。ただし「これらの領域内では機械的関係の法則がもはや決定的なものでなく、従属的な位置をとってあらわれる」(同)のであり、「有機的な諸機能」(同)が故障すると、「すぐに平常は従属的である機械的関係が支配的なものとして頭をもたげてくる」(一八九ページ)のです。したがって「例えば、胃の悪い人は、ある食物を少し食べても、そのあとで胃に圧迫を感じ」(同)るのに、正常な人は「それを感じない」(同)のです。
精神の世界でも「機械的な記憶」(同)ということがあります。そこでは「読むこと、書くこと、演奏」(同)することなどが「それらの意味および内的な結合」(同)の理解されないままに、「一定の記号や音」(同)としてのみ理解され記憶されるのです。
一九六節 ── 親和的な機械的関係は即自的な概念
「客観は、それが独立的であるかぎりにおいてのみ、外的な力に左右される非独立性を持っている(前節)。そして客観は即自的な概念が定立されたものであるから、上の二つの規定の一方が他方のうちで揚棄されるということはなく、客観はその否定である非独立性を通じて自分自身と連結され、かくしてはじめて独立的である」(一九〇ページ)。
客観は、独立と非独立との「絶対的な矛盾」(一八三ページ)として、独立しながらも「外的な力に左右される非独立性」をもっています。
形式的な機械的関係と異なり、親和的な機械的関係における客観は「即自的な概念が定立されたもの」として、概念の統体性と諸モメントの区別をもっており、この矛盾は揚棄されることなく、客観はこの矛盾のうちにとどまっています。したがって親和的な機械的関係にあって、客観は「独立的であるかぎりにおいてのみ」非独立的であり、「非独立性を通じて」「はじめて独立的」なのです。
「外的なものと区別されていながら、同時にその独立性のうちで外的なものを否定するという、この自己との否定的統一が中心性、主観性である」(一九〇ページ)。
親和的な機械的関係では、二つの客観は独立的ではあってもそれぞれの客観が自己のうちに「中心性」をもち、この中心性によって区別された二つの客観が相互に引きあい「外的なものを否定」する「否定的統一」を実現しようとし、あるいは実現するような関係を意味しています。
ヘーゲルは、その例として「落下、欲求、社交本能」(同)をあげています。「落下」とは、地球と地上へ落下する物体とが、それぞれのもつ中心性としての引力によって引き合い、一体となる関係であり、「社交本能」とは、異性への愛が中心性となり、お互いに惹かれあい一体になろうとする関係なのです。
一九七節 ── 絶対的機械関係は即自的な概念の完全な展開
「このような関係の展開は一つの推理を形成する。すなわち、ある客観の中心的個別性(絶対的中心)としての内在的な否定性が、もう一つの端項をなしている非独立的な客観と、客観の中心性と非独立性とをそのうちに合一している一つの媒介項、すなわち相対的中心を通じて関係する。これが 絶対的機械関係である」(同)。
絶対的機械関係とは、一九八節に「太陽系がそうである」(一九一ページ)とありますので、太陽(普) ── 地球(特) ── 月(個)の関係をとらえたものといえます。絶対的機械関係において「中心的個別性(絶対的中心)」としての太陽は、「相対的中心」としての地球を「媒介」として、「もう一つの端項をなしている非独立的な客観」としての月と結合する「一つの推理を形成」しているのです。
ここにおいて「即自的な概念」(一八六ページ)としての客観は、推理の形式をもつことにより完全に展開され、化学的関係に移行することになるのです。
一九八節 ── 絶対的機械関係は三重の推理
ヘーゲルは月 ── 地球 ── 太陽という絶対的機械関係は「三重の推理」(一九一ページ)だといっています。
確かに、この関係を「個 ── 特 ── 普」の推理の推理としてとらえるのは正しいといえますが、「絶対的な中心」(太陽)と「相対的な中心」(地球)が「分離されて二つの端項となり、しかも両者が相互に関係しているのは、この非独立性」(同)としての月によってであるとして「普 ── 個 ── 特」の推理第二格が成立するというのは、太陽系を例とするかぎり現代科学からすれば無理というものでしょう。同様に「絶対的な中心」としての太陽のもつ重力により、太陽が地球と月の媒介者となり、「特 ── 普 ── 個」の推理第三格が成立するというのにも無理があります。
これに対して、絶対的機械関係における三重の推理として、国家(普遍)、市民社会(特殊)、個人(個)の関係を論じているのは納得のいくものとなっています。
「太陽系がそうであるように、実践的なもののうちでは、例えば、国家は三つの推理からなる体系である。⑴ 個(個人)はその特殊(肉体的および精神的な諸要求)、これがそれだけで完成されたものが市民的社会(市民社会)を通じて普遍(社会、法、法律、政府)に連結される。⑵ 個人の意志、活動が媒介者であって、これが社会、法、等々に即して諸要求に満足を与え、また社会、法、等々に達成と実現とを与える。⑶ 普遍的なもの(国家、政府、法)が実体的な媒介項であって、そのうちで諸個人および諸個人の満足が達成された実在、媒介、および存立を持ちかつ維持する」(一九一~一九二ページ)。
ヘーゲルはルソーの『社会契約論』に学んで、真にあるべき国家を構成するものは、個(個人)、諸個人の特殊意志の結合としての市民社会(経済社会)、国民の普遍的意志(真にあるべき意志)を実現した国家という、個、特、普からなる三重の推理と考えています。つまり ⑴ 市民社会を媒介して、個人と国家を結合する、⑵ 個人が媒介して、経済活動、国家の政治活動に満足を与え、⑶ 国家が媒介して、個人と経済活動の満足を達成するという三重の推理をつうじて、真に人民が主人公の人民主権国家が実現されるととらえているのです。
「これら三つの規定の各々は、媒介によって他の端項と連結されることによって、まさに自分自身と連結され、自己を生産するのであって、この生産が自己保存である。 ── こうした連結の本性によってのみ、すなわち同じ三つの項からなる推理のこうした三重性によってのみ、全体が有機的組織をなしていることが本当に理解されるのである」(一九二ページ)。
この個人、市民社会、国家の三者の関係を論じた著作が、晩年の主著『法の哲学』です。『法の哲学』は当時のプロイセンの立憲君主制を美化した保守反動の著作であるかのような批判がありますが、これがいかに的外れのものであるかは、この箇所をみただけでも理解することができます。
資本主義社会とは、利潤第一主義という特殊意志の結合としての市民社会(経済社会)が「絶対的中心」となっていて、国家、個人をそれに従属させる社会であり、その批判のうえにヘーゲルの国家論は構築されているのです。
ヘーゲルは、国家が人民の真にあるべき政治的意志を国家統治の意志とすることにより、経済活動も人民のための経済活動となり、個人も人間性を全面的に回復して、「全体」が人民主権国家という「有機的組織」として実現されることを訴えているのです。ここにヘーゲルの革命の哲学が具体的な姿として描き出されています。
一九九節 ── 機械的関係から化学的関係へ
「諸々の客観が絶対的機械関係のうちで持っている現存在は直接的である。しかし、諸々の客観の独立性は、それら相互の関係によって、したがってそれらの非独立性によって媒介されているのであるから、この点でこの直接性は即自的に否定されている。かくして客観は、その現存在において自己に固有の他者にたいして吸引的なものとして定立されなければならない」(同)。
絶対的機械関係のうちにあって、三つの客観は三重の推理の関係におかれてはいるものの、一つひとつの客観は「独立」した「直接的」な客観となっています。
しかしもともと客観とは独立と非独立との「絶対的な矛盾」(一八三ページ)ですから、この独立性は非独立性によって「即自的に否定」されています。
この独立する二つのものの即自的な非独立性が顕在化されたものが、化学的関係です。化学的関係においては、ある客観は独立した「現存在」をもちながらも「自己に固有の他者」である他の客観と「吸引的なもの」、すなわち化合しあう非独立的なものとして定立されているのです。
四、「B 客観」 「b 化学的関係」
二〇〇節 ── 化学的関係は概念をうちにもつ
「親和的な客観は一つの内在的な規定性を持っており、これがその本性をなし、このうちにそれは現存在を持っている。しかしそれは概念の統体性が定立されたものであるから、その統体性とその現存在の限定性との矛盾であり、したがってそれはこの矛盾を揚棄し、そしてその定有を概念に等しくしようと努める」(一九三ページ)。
化学的な関係にある客観は、それに固有の他者との間に「親和」性をもった客観です。すなわちその客観は固有の他者と一体となりたいという「一つの内在的な規定性」をもっていて、これがその客観の「本性」をなしています。化学的関係のもつ親和性は、化学的関係にある二つのものの真にあるべき姿を示す「概念の統体性」のあらわれということができます。
しかし親和性の関係にある二つの客観はとりあえず別個の現存在ですから、「その統体性とその現存在の限定性との矛盾」のうちにおかれており、この二つの客観は「この矛盾を揚棄し、そしてその定有を概念に等しく」なるよう一体化しようと努めるのです。
二〇〇節補遺 ── 化学的関係と機械的関係の同一と区別
「化学的関係は客観性の一カテゴリーであるが、概して特別に強調されず、機械的関係と一緒にされ、同じく機械的な関係と呼ばれて、合目的性の関係に対立させられている。この原因は、機械的関係と化学的関係とは同じく潜在的にのみ現存在する概念にすぎないが、これに反して目的は顕在的に現存在する概念であるという点に求められなければならない」(同)。
アリストテレスは、自然には質料因、形相因、始動因、目的因の四つの原因があると考え、この自然観が近代にいたるまで支配してきました。つまり物質に運動をもたらすものは、機械的関係のみならず、すべての物質に含まれる目的的関係でもあると考えられていたのです。
この目的論的自然観を打ち破ったのが、ガリレイの落下実験であり、デカルト、ニュートンを経て、十七世紀には自然のすべてを力学的関係で説明しようとする機械的自然観が確立します。それを代表するのがフランス唯物論であり、その一人ラ・メトリは『人間機械論』を著し、人間の生命活動をすべて機械論で説明しようとしました。ヘーゲルが唯物論に強い嫌悪感を示しているのには、当時の唯物論が機械的唯物論であり、目的的関係、さらには人間の意識の創造性を否定していたことに主要な根拠があったといえるでしょう。
これに対し、再び目的論を自然観のなかに復活させたのがカントでした。カントは、外的目的と内的目的とを区別し、内的目的性という概念によって「特に生命という理念を再びよびさました」(一九八ページ)のです。ヘーゲルは「もしカントが内的な合目的性という原理をその学問的適用において堅持し発展させていたら、全く異った、一層高い考察方法がもたらされていたであろう」( 二〇四ページ)として、カントの考えを発展させ、特に内的目的性の原理を自然的および社会的生命体と結びつけることによって偉大な功績を残したのです。それを可能にしたのが、客観を概念の実現としてとらえる概念論でした。
ヘーゲルは、一般に機械的関係と化学的関係とが一括りにされて広義の機械的関係とよばれ、目的的関係、つまり「合目的性の関係に対立させられている」理由について、前者における概念は「潜在的にのみ現存在する」のに対して、後者は「顕在的に現存在する概念である」と指摘しています。つまりそれぞれの客観のなかにおける概念が潜在的であるか、顕在的であるかによる違いだというのです。
「しかし機械的関係と化学的関係とのあいだにはまた非常に明白な区別」(一九三ページ)があります。というのも機械的関係のうちにある客観は単なる「自己関係」(同)にすぎないのに対し、「他方化学的な客観はあくまで他のものへ関係」(同)しているからです。
自己関係としての機械的関係にあっても、親和的な機械的関係や絶対的機械関係では「他のものへの関係」をもつに至っていますが、「機械的な諸客観の相互関係」(同)は「まだ独立性の外見」(同)を残す「外的な関係」(同)にすぎないのに対し、化学的関係にある客観はその固有の他者としての客観との間に「親和性」(一九四ページ)をもち、「相補って一つの全体となろうとする絶対的な衝動」(同)をもっているのです。
二〇一節 ── 化学的過程の産物は中和的なもの
したがって化学的関係にある二つの客観は、その親和性により一つの全体(産物)となります。いわば「二つの端項」(同)はその親和性により「中和的なもの」(同)となりますが、それは「具体的な普遍者である概念が、客観の親和性(特殊化)を通じて、産物(個)と連結し、そしてそのうちでただ自分自身と連結する」(同)という推理の過程とみることができます。
つまり化学的過程は普 ── 特 ── 個の推理とみることができますが、それだけではなく産物(個)が媒介者として概念(真にあるべき姿)と客観を結合する推理とみることもできますし、概念が媒介して客観の親和性と産物(個)を結合する推理とみることもできるのであり、結局化学的過程は「なお二つの推理」(同)を含む三重の推理とみることができるのです。
二〇二節 ── 化学的関係では中和と分離が相互に外的
化学的関係は、「客観性の反省的関係」(同)といえます。というのも化学的関係にあって一方では「諸客観の親和的な性質」(同)があり、他方で「それらの直接的な独立」(同)があって、「二つの形態の間をいったりきたり」(同)する過程とみることができるからです。
しかし、化学的関係では、「この二つの形態はあくまで相互に外的」(同)であり、概念の統体性としての「中和的な産物」(一九五ページ)には「分化という生動的な原理」(同)は存在しません。たしかに「中和的なもの」(同)は再び概念の諸モメントへと「分離の可能を持ってはいる」(同)ものの、その「分離する過程は、第一の過程とは無関係」(同)なものにすぎないのです。
概念は同一から区別へ、区別から同一へと「交替運動をしながらも、あくまで自分自身のもとにとどまる」(一一五ページ)のですが、化学的関係においては同一と区別の過程が無関係なところにその有限性があるのです。
二〇二節補遺 ── 化学的関係の有限性は概念の潜在性に由来
では、この化学的関係の有限性がどこから生じたのかといえば、「概念そのものは、まだこの過程の内にひそんでいるものにすぎず、顕在的に現存するにいたっていない」(一九五ページ)ところに求められるのです。というのも概念の「交替運動」と異なり、化学的関係においてはこの中和と分離の「交替運動」は「相互に外的」(一九四ページ)であり、「中和的な産物のうちで過程は消失しており、この中和的な産物に刺激を与えるものは、そのうちには存在しない」(一九五ページ)からです。
二〇三節 ── 化学的関係から目的的関係へ
このように化学的関係において、中和と「中和的なものの分化」(同)という「二つの過程は、相互に外的であって、それぞれ独立的にあらわれ」(同)ます。
「しかしこの外在性は、二つの過程を揚棄している産物へ二つの過程が移行するということのうちに、二つの過程の有限性を示している。逆にこの過程は、差別されている客観の前提された直接性が、空無なものであることを表現している」(同)。
「二つの過程を揚棄している産物」とは概念のことです。概念においては統一と分離という交替運動のなかで「二つの過程」が揚棄されているのに対し、化学的関係では、「二つの過程」が外的であるところにその「有限性を示して」いるのです。逆にいえば化学的関係は「差別(区別 ── 高村)されている」二つの客観の「直接性」は「空無なもの」にすぎないのであって、概念に移行すべきであることを「表現している」のです。
この化学的関係の有限性は、化学的関係における概念が客観の「外面性および直接性のうちへ沈められていた」(同)ことによるものであり、今やこの「外面性および直接性」が否定され、概念が「自由かつ独立なもの」(一九六ページ)として顕在化して目的となり、概念の交替運動が定立されることになります。それが目的的関係なのです。
二〇三節補遺 ── 目的的関係は概念の顕在化
化学的関係では、中和と分離という二つの過程が「相互に外的」(一九五ページ)であることにより、概念とその諸モメントとの一体不可分の関係がまだ完全には定立されておらず、概念は「即自的にのみ存在」(一九六ページ)していたのですが、それが顕在化して、「独立的に現存する」(同)にいたった概念が目的なのです。
五、「B 客観」 「c 目的的関係」(一)
二〇四節 ── 目的とは自由になった概念
「目的とは、直接的な客観性の否定によって自由な現存在へはいった、向自的に存在する概念である。目的は主観的なものとして規定されている。というのは、上述の否定は最初は抽象的であり、したがって最初は客観性もまた単に対立しているからである」(同)。
目的とは、客観のうちに「沈められていた」(一九五ページ)概念が「直接的な客観性の否定」によって客観から区別され、「自由な現存在」としてそれ自体として存在するにいたった概念(真にあるべき姿)です。したがって目的も最初は単に「主観的なもの」として規定され、客観性に対立したものとなっています。
「こうした主観性という規定性は、しかし、概念の統体性とくらべると一面的であり、しかも目的そのものにたいしても一面的である。なぜなら、目的のうちには、あらゆる規定性が、揚棄されたものとして、定立されているからである。したがって目的にとっても、前提されている客観は観念的な、本来空無な実在にすぎない」(一九六~一九七ページ)。
しかしこのような客観に対立する主観的な目的は、概念がエネルゲイアとしてのイデアとして客観に必然的に移行するものであることからして「一面的」といわざるをえません。また「目的そのもの」からしても、目的は客観の「真にあるべき姿」として「あらゆる規定性」(「客観」)を揚棄し、「前提されている客観」を「空無な実在」に変えてしまうのですから、単なる主観性ではなく、客観を変革するものなのです。
「目的は、そのうちに定立されている否定と対立とにたいするその自己同一の矛盾であるから、それ自身揚棄であり、対立を否定して、それを自己と同一なものとして定立する活動である。これが目的の実現であって、そのうちで、目的はその主観性の他者になり、自己を客観化することによって、両者の区別を揚棄し、もって自己を自分自身とのみ連結し、自己を保存しているのである」(一九七ページ)。
客観の真にあるべき姿としての目的は、客観との同一性を定立しようとしながら、客観に対立する主観的なものという矛盾をもっています。この矛盾により、目的は客観との「対立を否定して、それを自己と同一なものとして定立する活動」としてあらわれます。それが「目的の実現」であり、これにより主観的な目的は「自己を客観化」し、客観を真にあるべき姿に変革することにより、客観のうちで「自分自身とのみ連結し、自己を保存」するのです。一四七節補遺で、「必然性の過程」(九六ページ)は盲目であるのに反して、「目的はあらかじめ意識されている内容であるから、目的活動は盲目ではなくて予見的である」(同)ことを学びました。その意味で「目的という概念」(一九七ページ)は、特殊をそれ自身のうちに含む「理性的概念」(同)とよばれており、「特殊をそれ自身のうちに持っていない悟性の抽象的普遍に対立させられている」(同)のです。
先にもみたように、アリストテレスは「目的原因」(同)と「作用原因」(同)とを区別しました。作用原因、すなわち原因とは、「他者へ移行」(同)することにより「その本源性を失う」(同)ものであるのに対し、「目的は、その作用のうちで他のものへ移行することなく、自己を保持」(同)します。すなわち目的は、「終わりにおいてはじめの、すなわち、本来の姿を保っている」(同)のです。
「目的は思弁的に(弁証法的に ── 高村)理解されなければならない。というのは、それは、諸規定の統一および観念性のうちに本源的分割あるいは否定、すなわち主観的なものと客観的なものとの対立を含みながら、同時にまたその揚棄でもあるところの概念であるからである」(一九八ページ)。
目的は「思弁的に理解されなければ」なりません。というのも目的は「自由な現存在へはいった」概念としての統体性でありながら、主観と客観の対立を含みつつそれを揚棄することによって客観を弁証法的に真にあるべき姿に発展させるからです。一六一節で概念の進展は「発展である」(一二三ページ)ことを学びましたが、目的は発展という概念の本性を示すカテゴリーなのです。
外的目的と内的目的
ここまで目的とは「主観的なもの」であり、客観から区別され客観に対立するものとしてとらえてきましたが、より正確にいうと主観的な目的には外的目的と内的目的とがあります。外的目的とは、人間の「意識のうちに存在する形式」(一九八ページ)としての目的です。これに対し内的目的とは、生命体という自立した主体が生命体としてもつ目的(魂)であり、「C 理念」「a 生命」で取り扱われることになります。
エンゲルスは、ヘーゲルのいう内的目的について「意図を持って行為する第三者、たとえば摂理の智恵というようなものによって自然のなかにもちこまれたものではなくて、事柄そのものの必然性のうちにふくまれている目的」(全集⑳六八~六九ページ)としています。生命体がその環境にふさわしい肉体をもつに至っているのも生命体の内的目的(魂)によるものであり、またDNAの偶然的な突然変異を必然的な種の進化に結びつけるのは、生物の「種」としての内的目的によるものです。
カントは「内的な目的性という概念」(一九八ページ)によって、「理念一般、特に生命という理念を再びよびさまし」(同)ました。
外的目的も内的目的もともに客観を変える力をもった「主観的なもの」(一九六ページ)であり、目的にしたがって客観を揚棄し、客観を目的に一致させるのです。いわば外的目的は外にあって客観をつくり変えるのに対し、内的目的は生命体のうちにあって生命体の肉体という客観をつくり変えるのです。
外的目的にとっても内的目的にとっても、「欲求、衝動は目的の最も手近な例」(一九八ページ)となっています。例えば「生きた主体自身の内部」(同)で、主観的な目的と客観との矛盾が「欲求、衝動」を感じさせ、「まだ主観的なものにすぎない」(同)目的を否定して客観との同一を定立しようとする衝動となってあらわれるのです。「衝動とは、主観的なものは一面的であって、客観的なものと同様になんらの真理をも持たないという確信」(一九八~一九九ページ)であり、この「確信の遂行」(一九九ページ)によって、主観と客観との「対立」(同)およびそれぞれの「有限性を揚棄するにいたる」(同)のです。
「目的活動についてさらに注意すべきことは、目的活動は実現の手段を通じて目的をそれ自身と連結するという推理であるが、この推理においては本質的に三つの項の否定が見出されるということである」(同)。
外的目的においても内的目的においても、目的の実現という推理においては、主観的目的、実現の手段、対象となる客観という「三つの項の否定が見出され」ます。例えば外的目的としての生産労働を考えてみると、或るものを生産しようという主観的目的が労働と労働手段を媒介に、原材料という客観と結びついて労働生産物を産み出しますが、労働生産物のうちに主観的目的も、手段も、対象となる客観も、すべて形をかえ「否定」され、揚棄されているのです。
つまり目的活動にあっては、主観的目的と手段と対象となる客観の三つが「連結するという推理」ですが、「この推理においては本質的に三つの項の否定が見出される」のです。
「この否定は上述の、目的そのもののうちに見出される直接的な主観性および直接的な客観性(これはさらに手段と前提された客観とから成る)の否定にほかならない。それは、精神が世界の有限な諸事物や個人的な主観性を去って神へまで高まるときに行われるのと同じ否定である」(同)。
この目的的活動における否定は、主観性(目的)と客観性(手段と前提された客観)のそれぞれの一面性を揚棄して主観と客観の統一へ高まる否定性であり、それは主観的精神が神という客観に高まるのと同じ否定、つまり揚棄なのです。
「このモメントが、序論及び一九二節(一九三節の誤り ── 高村)にも述べたように、いわゆる神の存在の証明のうちでこの高揚に与えられる悟性推理の形式においては、看過され除去されているのである」(同)。
アンセルムスは、神の思想には神の存在が「直接かつ不可分に結びついている」(㊤二一八ページ)として神の存在を証明しようとしました。彼が「単に主観的にだけでなく同時に客観的にも存在するものをのみ完全なものと言った」(一八二ページ)のは正しいのですが、主観と客観は「単独では一面的であり空無なものである」(同)から、目的活動にみられるように両者は否定されて主観と客観の統一へ揚棄されるという「高揚に与えられる悟性推理の形式」(一九九ページ)が看過され、主観と客観の「統一が前提されている」(一八二ページ)こと、つまり主観と客観とは即自的に(本来的に)統一されているとしていることに問題があるのです。
「一般的に概念あるいは思惟が存在から離しがたいものであることを示すだけではたりないのは明か」(一七九ページ)であり、概念としての目的が客観に移行することが示されなければならないのです。
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