『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より
第三八講 第三部「概念論」⑥
一、「B 客観」 「c 目的的関係」(二)
前講から目的的関係に入っており、目的とは概念そのものであり、目的には外的目的と内的目的があることを学びました。外的目的とは人間の「意識のうちに存在する形式」(一九八ページ)にある概念であるのに対し、内的目的とは「能動的な概念、自己のうちで規定されかつ規定する普遍」(㊤二〇三ページ)、つまり生命体のうちにあって、その事物を規定し、動かしている概念であり、生命体の魂です。生命体には自然的生命体のみならず社会的生命体(会社、組合、政党、国家など)もあり、これらの生命体の存在目的となるのが真にあるべき姿という内的目的なのです。
目的は内的目的、外的目的を問わず客観を変革する力をもった「主観的なもの」(一九六ページ)であり、客観を揚棄して自己と一体化させます。
それを前提として、以下外的目的について論じられています(内的目的は「C 理念」「a 生命」で論じられます)。
二〇五節 ── 外的目的は有限
「目的論的関係は、その直接態においてはまず外的な目的性であり、概念は前提されたものとしての客観に対峙している。したがってこの場合、目的は有限である。それは内容からいって有限であり、またそれがその実現の素材として見出さなければならない客観を外的な条件として持っている、という点からいって有限である」(一九九~二〇〇ページ)。
最初の、直接的な目的的関係は、外的目的です。この場合、真にあるべき姿としての概念(目的)は、内的目的と異なり、変革される対象である客観の外に存在している人間の意識のうちにあり、「客観に対峙」しています。したがって人間の意識における外的目的は、客観の真にあるべき姿としての概念をめざすものではあっても、概念と必ずしも一致するものではなく、「内容」からいって有限といえます。また、この目的は単に主観的なものであり、客観は単に目的「実現の素材」としてのみとらえられますから、客観は目的にとっての「外的な条件」にすぎないという意味でも有限なのです。
「このかぎりにおいて目的の自己規定は形式的であるにすぎない。もっと厳密に言えば、直接態のうちには、自己へ反省したものとしての特殊性(これは形式規定としては目的の主観性である)、すなわち内容が、形式の統体性、主観性そのもの、概念と異ったものとしてあらわれる、ということが含まれている」(二〇〇ページ)。
「自己へ反省したものとしての特殊性」とは、外的な目的が対象となる客観へ「反省したもの」となり、客観を外的目的にしたがって変革することを意味しています。したがって外的な目的は、この反省により客観の「内容」となっているのです。
しかし外的目的は、その内容が客観の真にあるべき姿という「概念と異った」有限なものにすぎないため、目的は活動的なエネルゲイアであるという「形式的」な意味においてのみ概念といえるにすぎないのです。
「この差別性が、それ自身の内部における目的の有限性をなしているのである。このことによって内容は制限されたもの、偶然的なもの、与えられたものとなり、客観は特殊なもの、見出されたものとなる」(同)。
「この差別性」とは、外的目的における目的が概念(真にあるべき姿)と区別されていることを意味しています。これが目的の有限性をなし、目的の内容は「制限されたもの、偶然的なもの」となり、単に主体によって「与えられたもの」でしかないことになります。他方で変革の対象となる客観は、目的によって単に「見出された」「特殊なもの」にすぎないとされてしまうのです。
二〇五節補遺 ── 「効用の見地」批判
「目的と言うと、普通人々は外的な合目的性しか考えない。この見方によれば、事物はそれ自身のうちに自己の規定を持っているのでなく、その外にある目的の実現のために使用され消費される手段にすぎないと考えられている」(同)。
外的な目的というと、対象となる事物はその外にある目的によって「見出された」単に「使用され消費される手段にすぎない」と考られやすいのですが、これは単なる「効用の見地」(同)にすぎません。というのも、対象となる事物は「それ自身のうちに自己の規定を持って」いるのであって、外的目的がその対象自身のもつ規定性を無視して働きかけても目的を実現することはできません。外的目的がまずその目的にそった規定性をもつ対象を選択し、その対象の規定性にそって対象に働きかけてはじめてその対象を目的実現の手段に変えることができるのです。したがって「効用の見地」は「事物の本性を真に洞察するには不十分」(同)であるといわざるをえません。
「有限な事物は究極的なものでなく、自己を越えた或る物を指示している、と考えるのはもちろん正しい。しかし有限な事物のこうした否定性は、有限な事物自身の弁証法であって、この否定性を認識するためには、まずその肯定的な内容に注意を向けなければならない」(同)。
有限な事物の発展は、その「事物自身の弁証法」にもとづく発展であり、外的目的はその発展を促進するものにすぎません。したがって外的目的によりその事物を否定するためには、その「事物の本性」、つまり対象となる事物それ自身の規定性という「まずその肯定的内容に注意を向けなければならない」のです。
「目的論的な考察法は、特に自然のうちに啓示される神の智恵を示そうとする正しい意図を持ってはいる。しかしわれわれは、事物が手段として用いられる諸々の目的を探し出すということは有限の立場を越えるものではなく、むしろ貧弱な反省におちいりやすいということを注意しなければならない」(二〇〇~二〇一ページ)。
目的論的考察は、有限な事物の真理は概念(イデア)にあることを示そうとする「正しい意図」をもっています。しかし有限な事物を「手段」としてのみとらえて、目的と手段の関係で「諸々の目的を探し出す」ことは、有限な事物を止揚してイデアに向かうのではなく、「貧弱な反省」としての「効用の見地」にすぎません。
例えば、コルクの木はぶどう酒の栓という目的の手段となるために存在している、ミミズは魚のエサになるために存在していると考えるのが、この「効用の見地」です。
「外的な合目的性は理念のすぐ前に立っている。しかし入口に立っているものこそ、しばしば最も不十分なものなのである」(二〇一ページ)。
理念とは概念と存在との一致です。外的目的も、目的と存在の一致を実現しはするのですが、その目的がまだ真にあるべき姿になっていないという意味で「最も不十分なもの」なのです。
二〇六節 ── 目的的関係は主観的目的 ── 中間項 ── 外的な客観を連結する推理
「目的的関係は、そのうちで主観的な目的が中間項を通じて外的な客観性と連結する推理である。そしてこの中間項は、合目的活動としては、両者の統一であり、直接に目的に従属した客観性としては、手段である」(同)。
目的的関係は、主観的目的 ── 中間項 ── 外的な客観性の結合として推理の形式をもっています。中間項には、合目的活動と手段の二つがあります。
合目的活動は、主観的な目的と客観とを連結させようとする人間の活動として、主観と客観の「統一」を実現しようとする中間項であり、手段は「目的に従属」し、目的に従って目的実現のために作られた「客観性」であり、道具、機械などの労働手段を指しています。
生産労働を例にとると、まず労働の主観的な目的があり、それが労働(合目的活動)と労働手段という中間項を媒介にして労働生産物(外的な客観性)に結実するのです。
二〇七節以下でこの目的的関係における推理の形式が、各過程ごとに詳しく説明されていくことになります。
二〇六節補遺 ── 目的の実現への三つの段階
「目的から理念への発展は、第一には主観的目的、第二には実現の過程にある目的、第三には実現された目的という三つの段階を通じて行われる。 ── 最初にくるのは主観的目的であるが、これは向自的に存在する概念であるから、それ自身概念の三つのモメントの統体である。これらのモメントの第一のものは、自己同一的な普遍性であり、言わばすべてを含んでいるがまだ何もわかれていない中性的な最初の水である。第二のモメントは、この普遍者の特殊化であって、これによって普遍者は特定の内容を持つようになる。ところでこの特定の内容は、普遍者の活動によって作られるのであるから、普遍者はこの特定の内容によって自分自身へ帰り、自分自身と連結するのである」(二〇一~二〇二ページ)。
目的が単に主観的な概念から、目的の実現による概念と存在の統一としての「理念への発展」となる過程は、第一の「主観的目的」が、合目的活動をつうじて第二の「実現の過程にある目的」を経て、第三の「実現された目的」になるという「三つの段階を通じて行われる」ことになります。
出発点となる主観的目的は、二〇四節で学んだように「向自的に存在する概念」ですから、具体的普遍という「概念の三つのモメントの統体」です。それはまず「主観的目的」一般として「自己同一的な普遍性」であり、まだ具体的な目的としては特定されていない「中性的な最初の水」です。第二の「実現の過程にある目的」は、主観的目的という「普遍者の特殊化」であり、この段階において目的一般は特定の具体的目的となり「特定の内容を持つようになる」のです。
主観的目的は、「この特定の内容」にもとづき自己の「活動」をつうじて主観から客観へ向かって歩みはじめます。こうして「実現の過程にある目的」は、第三の「実現された目的」となって、普遍者は自分自身の実現である客観(個)と「連結する」のです。
われわれは、ある目的を立てるとき「決心する(ベシュリーセン)」といいますが、ここには「特定の規定に到達しうる」(二〇二ページ)という意味が含まれ、また「決心する(エントシュリーセン)」には、主観が「単に自分だけの内面性から歩み出て自分に対峙している客観性と交渉すること」(同)を言いあらわしており、いずれも主観と客観とを「連結する」意味合いをもっているのです。
二〇七節 ── 主観的目的は特殊を通じて個と連結する
「 ⑴ 主観的目的は、普遍的な概念が、個が自己規定として原始分裂するように、特殊を通じて個と連結するという推理である」(同)。
前節でみたように外的目的では、普遍としての目的が、自己を特殊化して、「個と連結する」という推理の形式をもっています。
「個が自己規定として原始分裂するとは、個がまだ無規定な普遍を特殊化して特定の内容とするとともに、また主観性と客観性との対立を定立し、しかもそれ自身に即してそれ自身自己への復帰であるということである。というのは、個は客観性にたいして前提されている概念の主観性を、自己のうちで完結した統体とくらべて、不十分なものとして規定し、これによって同時に外へ向うからである」(同)。
「個が自己規定として原始分裂する」とは、一六六節で判断は概念の「原始的分割である」(一三五ページ)とあるのを受けています。判断では概念の統体性が概念の諸モメントに「分裂」したうえで繋辞による同一性として定立されますが、同様に主観的目的は「主観性と客観性」との分裂を定立しながら目的活動をつうじてその同一性を定立し、実現された客観のなかで目的は「自己への復帰」をとげるのです。言いかえると、主観的目的は「まだ無規定な普遍」を「分裂」して特殊化し、「特定の内容」としての個と連結することで統一を回復するのです。
主観的目的は、客観性に対立する主観性を「自己のうちで完結した統体とくらべて、不十分なもの」にすぎないと規定し、この不十分性を揚棄するために「外へ向」い、主客同一による「自己への復帰」をめざすのです。
二〇八節 ── 目的的活動は手段を作り出す
「 ⑵ こうした外へ向った活動は、主観的目的のうちで特殊性 ── これは内容のほかに外的な客観性をも含んでいる ── と同一である個別性であるから、第一に客観へ直接的に関係し、それを手段として自己のものとする。概念はこうした直接的な威力である。なぜなら、それは自己同一な否定性であり、この否定性のうちで客観の存在はあくまで単に観念的なものとして規定されているからである」(二〇三ページ)。
前節で学んだように主観的目的は「外へ向った活動」として特殊を媒介に個と連結しようとします。
目的が外へ向かうとき、まず「客観へ直接的に関係し、それを手段」につくりかえて「自己のもの」とします。ヘーゲルはそれを概念の「直接的な威力」だとしています。なぜなら目的としての概念は、客観を単に変革の対象(「観念的なもの」)としてのみとらえ、客観の存在を否定して自己と同一な概念に支配される手段にかえてしまうからです。
「完全な媒介項は、活動としての概念のこうした内面的威力であって、客観は手段としてこの活動と直接的に結合されており、またその支配下にあるのである」(同)。
客観は、目的における概念の威力によって目的の「支配下にある」手段という目的実現の媒介項にかえられてしまうのです。
「有限な合目的性においては、このように、媒介項は互に外的な二つのモメント、すなわち活動と手段として役立つ客観とにわかれている。こうした客観へ目的が威力として関係し、客観を自己に従属させるという関係は、向自的に存在する観念性としての概念のうちで、客観が即自的に空無なものとして定立されているかぎり、直接的である。こうした関係が推理の第一前提をなしている」(同)。
外的目的において、二〇六節でみたように媒介項は、合目的「活動」と「手段として役立つ客観」とに分かれます。目的はまず客観へ「威力として関係し、客観を自己に従属させ」、客観の独立性を否定して「即自的に空無なものとし」、手段につくりかえるのです。これが目的の実現という「推理の第一前提をなしている」のです。
「しかしこうした関係あるいは第一前提は、それ自身媒介項となるのであって、それは同時に自己のうちにおいて推理である。なぜなら目的は、そのうちに目的が含まれており、かつあくまで支配的であるところのこうした関係、目的の活動を通じて客観性と連結するからである」(同)。
この手段をつくり出す活動も、また「自己のうちにおいて推理」となっています。というのも目的という普遍が、「目的の活動」という普遍の特殊化を媒介に「客観性と連結」して手段をつくり出しているからです。
しかし本来の目的の実現という「普 ── 特 ── 個」の推理からすると、手段をつくり出す活動は「普 ── 特」に該当し、「それ自身媒介項となる」客観をつくり出す「第一前提」にとどまっているのです。
二〇八節補遺 ── 目的実現のためには手段が必要
目的はその実現をめざすのですが、そこに至るためにはまず「客観を直接的に掴」(二〇四ページ)み、それを目的実現の手段にかえてしまうことも「同様に必要」(同)なのです。
なぜ目的を実現するためには手段が必要なのでしょうか。目的の実現とは、目的にしたがって対象となる客観を変革することを意味しています。二〇五節補遺で学んだように、「事物はそれ自身のうちに自己の規定を持って」(二〇〇ページ)おり、「有限な事物自身の弁証法」(同)によらなければ、客観的事物を目的にそって変革することはできません。それがつまり合法則的発展といわれるものです。客観的事物の合法則的発展を実現するには、まず目的が対象となる事物の法則性を学ばなければなりません。しかし人間の手足のもつ力には限界があるので、客観的事物を変革するには、単にその法則性を学ぶだけでは足りないのであり、主観的目的に対立して抵抗する客観的事物を押さえ込み支配するには、客観的事物を変革するに足る力を媒介項としてもつことが必要になるのです。その媒介項となる客観が手段です。人間は目的実現のために事物それ自身の規定にしたがってまず手段を作り出し、手段を媒介として客観的事物を合法則的に変革するのです。
手段(道具)は人間の手足の延長です。人間は「道具をつくる動物」(『資本論』②三〇七ページ/一九四ページ)であり、道具を発展させることによって生産力を発展させ、社会を発展させてきました。
人間も「その肉体を魂の道具」(二〇四ページ)、手段とするために、「まずそれを占取しなければならない」(同)のです。ピアニストになろうと思えば、その目的にしたがってまずその肉体をピアニストにふさわしい目、耳、手足につくりかえ、肉体を「占取」してピアニストの手段にかえなければなりません。
二〇九節 ── 目的は客観の外にあって客観を支配する
「 ⑶ 手段をもってする目的活動はまだ外へ向っている。なぜなら、この場合目的はまだ一面において客観と同一でなく、したがってこれから客観へ媒介されなければならないからである。手段は客観であるから、この第二の前提のうちで、推理のもう一つの端項、すなわち前提されたものとしての客観性、素材と直接的に関係している」(同)。
外へ向かった目的活動は、まず「客観を直接的に掴む」ことによって客観を手段に作りかえましたが、しかしこれはまだ目的の実現ではありませんから、「まだ外へ向」うことになります。
目的はこの「第二の前提」のうちで、手段という客観を使って素材というもう一つの客観と「直接的に関係」することになります。
「この関係は機械的関係および化学的関係の領域であって、それは今や目的に仕えており、その真理および自由な概念が目的なのである」(同)。
手段と素材という二つの客観の間の関係は「機械的関係および化学的関係の領域」であり、この二つの客観は「目的に仕え」て相互に作用し、ひとり目的のみが二つの客観の「真理」を実現する「自由な概念」として飛び回っているのです。
一九五節補遺でみたように、目的的関係のうちにあって、機械的、化学的関係は「従属的な位置」(一八八ページ)を占めるにすぎません。したがって目的的関係における目的が手段と素材という二つの客観の間につくり出す関係は、従属的な位置を占める「機械的関係および化学的関係の領域」となり、目的はこれを支配するのです。
「主観的目的は、客観的なものがそのうちで相互に摩滅しあい揚棄しあう諸過程を支配する力として、自分自身はそうした過程の外にありながらしかもそのうちに自己を保持している。これが理性の狡智である」(二〇四ページ)。
主観的目的は、客観相互の「摩滅しあい、揚棄しあう諸過程」を支配しながら、自分自身はその過程の外にありつつ、諸過程のなかで「自己を保持」し自己を貫くという「理性の狡智」なのです。「狡智」とは悪がしこい知恵です。
二〇九節補遺 ── 目的は「理性の狡智」
「理性は有力であるとともに狡智に富んでいる。その狡智がどういう点にあるかと言えば、それは、自分は過程にはいりこまないで、もろもろの客観をそれらの本性にしたがって相互に作用させ働きつかれさせて、しかもただ自分の目的をのみ実現するという、媒介的活動にある」(二〇五ページ)。
目的は、目的に従属する手段と素材を「それらの本性にしたがって相互に作用」させながら、自分はその過程に加わることなく、「しかもただ自分の目的をのみ実現」します。これが「理性の狡智」といわれるものです。
この箇所は『資本論』の労働過程論に影響を与えた箇所であり、マルクスは、『資本論』(②三〇七~三〇八ページ/一九五ページ)でそのまま引用しています。
同様に、神が「人々を好きなようにさせ」(二〇五ページ)ておきながら、「神の意図」(同)を実現するのも、神の「絶対の狡智」(同)ということができます。
二一〇節 ── 目的の実現は主客の統一の定立
目的の活動は外へ向かい、目的を実現することによって「主客の統一」(同)を定立します。
統一といっても、「主観と客観の一面性」(同)が揚棄されるという意味であって、主観と客観とが対等な関係で一体となるのではなく、「客観を支配する力」(同)である主観としての目的が、客観を目的に「従属し順応」(同)させる統一です。
目的は「一面的な主観」(同)ではあっても、「具体的な普遍、すなわち主客の即自的な同一」(同)でもありますから、目的の活動によって「主客の統一」を定立し、「客観的なもののうちで、自己を保存する」(同)のです。この目的という普遍は真にあるべき姿(ただし有限な真にあるべき姿)として、「推理の三つの項」(同)、すなわち普遍としての主観的目的、特殊としての活動と手段、実現された目的である個としての客観をつうじて、「常に同一にとどまっている」(同)のです。
二一一節 ── 目的の無限進行
「しかし有限な合目的性においては、実現された目的でさえ、媒介項や最初の目的がそうであったと同じように、自分のうちに分裂を含んでいる」(二〇六ページ)。
有限な目的は、それが実現され「主客の統一」が定立されたとしても、再びそれが主観と客観に分裂することになります。それはちょうど目的の「直接的な実現」(二〇四ページ)としての手段が再び「媒介項」となったのと同様に、実現された有限な目的ももっと普遍的な目的の一手段または一素材となるにすぎないからです。
有限な目的は、実現されたとしても「ここに成就されたものは、見出された材料へ外的に加えられた形式にすぎない」(二〇六ページ)のであって、この形式も目的の有限性のために「偶然的な規定」(同)にとどまり、いまだ真にあるべき姿ではありません。したがって「達成された目的」(同)はまだ一つの客観にすぎず、「それはまた再び他の目的にたいする手段あるいは材料」(同)となります。「こうした関係は限りなく続いていく」(同)のです。
二一二節 ── 目的の実現は概念と客観との統一としての理念
「しかし目的の実現のうちで即自的に行われていることは、一面的な主観性とそれに対峙して存在している客観的独立性の仮象とが揚棄されるということである」(同)。
客観は、一見すると独立した存在のように思えますが、ヘーゲルにいわせるとそうではなくて、「客観の存在はあくまで単に観念的なもの」(二〇三ページ)にすぎず、概念(目的)によって否定され、揚棄されるべき変革の対象にすぎないのです。
目的の実現が、潜在的に意味していることは、主観的な概念が主観性という一面性を揚棄して客観となり、客観の独立性という仮象を揚棄することにありました。言いかえると目的の実現は、概念が客観を支配し従属させる客観の本質であることを潜在的に明らかにしているのです。
すでに目的が手段を作り出すところに、「概念は自分が客観の即自的に存在する本質」(二〇六ページ)であることが示されていました。目的的関係に先行する「機械的および化学的過程」(同)のなかで「客観の独立性はすでに即自的には消失」(同)していましたが、目的的関係において、「実現された目的が単に手段および材料として規定されている」(同)ところに「この実現された目的である客観もすでに本来空無なもの」(同)であることが定立されているのです。
こうして目的的関係をつうじて客観の独立性は否定され、概念によって支配される「概念と客観性との絶対的な統一」(二〇八ページ)となって、客観は「理念」に移行するのです。
「これとともに内容と形式との対立も消失してしまっている。目的は、形式的諸規定の揚棄によって、自己を自己と連結するのであるから、自己同一なものとしての形式は、このことによって内容として定立されており、したがって形式の活動としての概念はただ自己をのみ内容として持つのである」(二〇六~二〇七ページ)。
目的の実現のうちで、概念の主観性は否定され、概念と客観の統一が実現されますが、それは同時に「内容と形式との対立」も消失することを意味しています。すなわち目的が自己を実現するということは二〇六節でみたように「普 ── 特 ── 個」の推理の形式をもっているのですが、目的の実現はこの推理の「形式的諸規定」を揚棄して、目的は対象であった客観のうちで「自己を自己と連結」し、目的は客観の「内容として定立され」ることになります。
こうして概念の「形式」活動は、客観のうちで概念を「内容として持」ち、形式は内容となるのです。
「したがってこの過程によって目的の概念であったものが定立され、主客の潜在的な統一は顕在するものとなっている。これが理念である」(二〇七ページ)。
目的的関係にあっては、主観的な「目的の概念」が客観との「対立を否定して、それを自己と同一なものとして定立する活動」(一九七ページ)として、主客は「潜在的な統一」でしたが、目的の実現によって「主客の潜在的な統一は顕在するものとなって」います。
このような顕在的となった「概念と客観性との絶対的な統一」が「理念」なのです。
二一二節補遺 ── 無限の目的が国家・社会を真にあるべき姿に発展させる
「目的の有限性は、その実現に際して手段として用いられた材料が外的にのみ目的に包摂され順応させられていることにある。しかし実際には客観は即自的に概念なのであるから、概念が目的としてそのうちに実現されるということは、客観自身の内面の顕現にすぎず、客観性は、言わば、その下に概念がかくされている外被にすぎない」(二〇七ページ)。
これまで外的目的の実現をつうじて、有限なものではあっても、目的のうちにある真にあるべき姿という概念が、客観において顕在化することをみてきました。
しかし、本来客観は即自的な概念であり、「その下に概念がかくされている外被にすぎない」のですから、目的の実現とは、「客観自身の内面」である概念の顕現を示したものにほかならないのです。
「われわれは有限なもののうちでは、目的の真の達成を体験することもみることもできない。したがって無限の目的は、それがまだ達成されていないかのような錯覚を除きさえすれば、達成されるのである。善、絶対の善は世界において永遠に自己を実現しつつあるのであり、したがってそれはすでに即自かつ対自的に達成されていて、われわれを待つ必要はないのである」(同)。
この箇所は、一見すると誤解されやすいところであり、「善、絶対の善は世界において永遠に自己を実現」しつつあり、「われわれを待つ必要はない」といわれると、ではわれわれは何もしなくてもいいのかと思われるかもしれませんが、そうではありません。
客観性は、「その下に概念がかくされている外被」であり、客観それ自身の矛盾と法則性により、自らの力で発展し、自己の真にあるべき姿を実現していきます。その意味で「われわれを待つ必要はない」のです。
しかしわれわれは客観のもつ矛盾を解明し、その矛盾を顕在化させる有限な目的をかかげた実践をつうじて、無限に客観を真にあるべき姿に向かって発展させていくのです。言いかえるとわれわれの有限な目的では「目的の真の達成を体験する」ことはできませんが、それを積み重ねることによって「無限の目的」を達成し、客観の外被を取り除いて客観を真にあるべき姿に変革することができるのです。
ここには客観のもつ法則的発展と、それを促進する人間の実践との関係が自由と必然の弁証法的関係として見事にとらえられています。一五八節で「必然の真理は自由」(一一五ページ)であり、同補遺で「自由は必然を前提し、それを揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる」(一一六ページ)ことを学びました。われわれは客観のもつ矛盾とその下にかくされている客観の概念という必然性を認識のうちにとらえて目的とし、その目的を実現することによって客観世界の必然性を揚棄し、自由となるのです。これが概念的自由にほかなりません。マルクスは『資本論』第一版序文のなかで、『資本論』の最終目的が「近代社会の経済的運動法則を暴露する」(前掲書①一二ページ/一六ページ)ことにあると指摘したうえで、「その社会は、自然的な発展諸段階を跳び越えることも、それらを法令で取りのぞくことも、できない。しかし、その社会は、生みの苦しみを短くし、やわらげることはできる」(同)と述べていますが、ヘーゲルもそれと同様の趣旨をここで論じているのです。
われわれは、歴史的に限界づけられた「有限な目的」ではあっても、その目的の実現をめざす実践により、国家・社会の理念(無限の目的)に無限に接近し続けているのであって、「したがって無限の目的は、それがまだ達成されてないかのような錯覚を除きさえすれば」、つまりあきらめさえしなければ必ず「達成される」のです。
ここにもヘーゲル哲学の革命性が、それと覚られないように熱く語られているのをみることができます。
「われわれは右に述べたような錯覚のうちに生活しているのであるが、同時にそれはまた世界における関心がそれにもとづいている活動力でもある。理念自身もその過程においてこうした錯覚を作り出し、自己に他者を対立させる。そして理念(人間という理念 ── 高村)の行為はこうした錯覚を揚棄することにある」(二〇七ページ)。
われわれは無限の目的は「それがまだ達成されていない」という「錯覚のうちに生活」しており、その錯覚がわれわれ人間の「活動力」を生みだしているのです。錯覚から生まれた「活動力」が「理念の行為」となって、この達成されていないという「錯覚を揚棄」し、概念と存在の一致を実現することになるのです。
「真理はただこうした誤謬からのみあらわれ出るのであって、この点に誤謬および有限性との和解がある。他在あるいは誤謬は、それが揚棄されるとき、それ自身真理の必然的なモメントである。真理は、自己を自分自身の成果とすることによってのみ、存在するのである」(二〇七~二〇八ページ)。
真理はただ誤謬からのみあらわれ出る、というのは力強い言葉です。すべての認識は、個人的、歴史的制約をもつ有限なものであり、真理と誤謬の統一としてあります。誤謬があるからこそ、誤謬を揚棄することによって真理を獲得しうるのであり、その意味で誤謬は「それ自身真理の必然的なモメント」なのです。われわれは、国家や社会の真にあるべき姿の前に誤謬をつみ重ねていますが、そのなかにあって、無限の目的はまだ達成されていないとする「錯覚」がこの誤謬を揚棄し、理念という真理に無限に接近していく「活動力」となるのです。
二、「C 理念」の主題と構成
ヘーゲルは、自己の哲学を「絶対的イデアリスムス」(㊤一七九ページ)絶対的理念論と称しており、「哲学の最高の究極目的」(㊤六九ページ)を理想と現実の統一、主観と客観の統一としての理念の実現ととらえています。
その意味で、理想と現実の統一を対象としたこの「理念」論は、ヘーゲル哲学の核心部分であり、その革命的性格が顕在化している部分であるということができます。
ヘーゲルのイデア(理念)は、エネルゲイアとしてのイデア(八四ページ)であり、このエネルゲイアとしてのイデアは二つの意味があります。一つは、デュナミス(可能態)との対比におけるエネルゲイア、つまり現実性に転化する必然性をもったイデアということであり、もう一つはキーネーシス(目的を達成しないかぎり意味のない行為)との対比におけるエネルゲイア(それ自体より善く生きる人間本来の行為)としてのイデアという意味です。
ヘーゲルが、「絶対的イデアリスムス」と称しているのは、イデア(概念)をかかげての行為は、必ず実りある成果をもたらすという意味と、それ自体生き甲斐をもたらすより善い生き方であるとの思いが込められています。
「C 理念」は、総論(二一三~二一五節)と、各論としての「a 生命」「b 認識」「c 絶対的理念」とに区分されます。
総論では、理念とは概念と客観との統一であり、それが絶対的な真理であることが明らかにされます。レーニンは、この総論部分を「弁証法のおそらく最良の叙述である」(『哲学ノート』レーニン全集㊳一六二ページ)と述べています。
「a 生命」は理念の直接態、つまり即自的な理念です。「B 客観」の目的的関係では、目的に外的目的性と内的目的性があることを前提に、もっぱら外的目的性を論じてきました。これに対し生命とは内的目的性という概念をうちにもつ存在(客観)であることが明らかにされます。なおここにいう生命とは、自然的生命体のみならず、社会的生命体(国家・民族・企業・労働組合・政党などの内的目的性を内にもち、その目的にしたがって有機的一体性をもって継続的に活動する組織)をも含む広い概念です。
「b 認識」とは人間主体の前に主観的理念(主観)と客観的理念(客観)が対立するものとして存在する対自的理念です。そこでは人間という主体を前提に、人間の認識と実践を媒介にした主観と客観との統一、つまり理想と現実の統一が論じられ、論理学のハイライト部分となっています。
「c 絶対的理念」は、「a 生命」「b 認識」の統一としての絶対的真理です。生命は即自的理念、認識は対自的理念であるのに対し、絶対的理念は即かつ対自的理念です。
ここであらためて論理学全体の総括として絶対的真理を認識する思惟形式が弁証法であることが明らかにされ、有論、本質論、概念論が理念のモメントとしての即自的な概念、対自的な概念、即かつ対自的概念として展開されている「概念の弁証法」(二四五ページ)であることが反省的に解き明かされています。
こうして論理学は「哲学の最後の成果」(㊤八九ページ)において「再びその端初に到達し、自己のうちへ帰る」(同)円として完成されることになります。
『小論理学』はここで終わりますが、『エンチクロペディー』では、第二部「自然哲学」、第三部「精神哲学」が続くことになります。
『エンチクロペディー』の最後は、アリストテレス『形而上学』の第十二巻七章の次の文章で締めくくられています。
「理性は思惟されるものにふれ、それを思惟することによって、思惟されるものとなり、理性と思惟されるものとは同一のものとなるからである」(樫山欽四郎訳『エンチクロペディー』四四ページ、河出書房)。
思惟されるものとは、客観を意味しており、理性と客観との統一、つまり理想と現実の統一というヘーゲルの根本思想は、アリストテレスに由来していることを示しているのです。
三、「C 理念」総論
二一三節 ── 理念は絶対的真理であると同時に概念の客観化
「理念は即自かつ対自的な真理であり、概念と客観性との絶対的な統一である。その観念的な内容は、概念の諸規定にほかならず、その実在的な内容は、概念が外的な定有という形式のうちで自己に与える表現にすぎない」(二〇八ページ)。
理念は、絶対的真理であると同時に「概念(真にあるべき姿 ── 高村)と客観性との絶対的な統一」です。後者は主観的概念が客観となることを意味しており、その「観念的な内容」としては、普遍としての概念が自らを特殊化して個(客観)となったという意味で「概念の諸規定」であり、その「実在的な内容」としては概念という内容の「外的な定有」化という内容の「形式」化なのです。しかもこの「実在的な内容」において、概念は「外的な定有という形式」のうちに自己を「閉じこめ」(同)、「自己をそのうちに保っている」(同)のです。
弁証法的唯物論では、真理とは客観に一致する認識であるという、「認識」の問題としてとらえます。ヘーゲルが客観の現にある姿に一致する認識のみならず、真にあるべき姿に一致する認識まで含めていることは、広義での「客観と認識との一致」ということができます(『ヘーゲル「小論理学」を読む』①一七五ページ)。
しかし真にあるべき認識を客観として実現することは、弁証法的唯物論としては「真理の実現」というべきであり、もはや認識としての真理の問題ではありません。その意味でヘーゲルが理念を絶対的真理とよんでいることは問題であるといえますが、ここは便宜上ヘーゲルの用語にしたがっておきます。
ヘーゲルは、「哲学の目標」(㊤一八ページ)は「理念をその真の姿と普遍性において把握することである」(同)とか、「哲学はただ理念をのみ取扱うものであるが、しかもこの理念は、単にゾレンにとどまって現実的ではないほど無力なものではない」(同七一ページ)などと述べ、理念にヘーゲル哲学の中心的意義を見出しました。
「絶対者は理念であるという定義は、今やそれ自身絶対的である。これまでのすべての定義は、この定義のうちへ帰ってくる。 ── 理念は真理である。というのは、真理とは、客観が概念に一致することだからである。真理とは、外的な事物がわたしの表象に対応することではない」(二〇八ページ)。
これまで絶対者は有である、本質である、概念であるなど、様々な絶対者の定義をしてきましたが、「絶対的」な絶対者の定義は「絶対者は理念である」、つまり「絶対的真理はあらゆる事物が理念となることにある」となります。「これまでのすべての定義は、この定義のうちへ帰って」きます。というのも「理念は真理」であり、真理とは外的な事物と表象との一致ではなく、客観と概念の一致であり、それこそ理念にほかならないからです。
「あらゆる現実的なものは、それが真実であるかぎり、理念であり、理念を通じて、また理念によってのみ、その真理を持っている」(二〇九ページ)のであり、有限なものは概念に一致せず、理念でないからこそ滅亡するのです。
「概念を単に特的の概念と考えてはならないと同じく、理念そのものを何ものかの理念と考えてはならない。絶対者は普遍的なそして一つの理念である。この一つの理念は、本源的に分化するものとして、規定された諸理念の体系へと特殊化する」(同)。
絶対者は理念であるという場合、「客観が概念に一致する」ことを意味していますが、そこにはそれが真理であるという意味と同時に、概念の客観化として概念をうちにもつ客観という意味があります。後者の意味における理念は「本源的に分化するもの」として「a 生命」「b 認識」「c 絶対的理念」となります。
「理念が最初は一つの普遍的な実体にすぎないが、その発展した真の姿においては主体として、かくして精神として存在するのは、この本源的分化によるのである」(同)。
「最初は一つの普遍的な実体」とは「a 生命」における類を意味しており、「その発展した真の姿においては主体」あるいは「精神」とあるのは「b 認識」における人間主体の精神活動を意味しています。生命も認識も絶対的真理の「本源的分化」を示すものです。
ヘーゲルは、「精神現象学序論」(『世界の名著ヘーゲル』中央公論社)で「真なるものを、実体としてばかりでなく、まさに主体としてし表現すること」(前掲書一〇一ページ)にヘーゲル哲学の「すべてがかかっている」(同)と述べています。
つまり人間主体が自己を否定して「対立的なものへと二重化」(同)しながら、その「対立がふたたび否定される」(同)ことによる「自分を回復する同一性」(同)という主体の精神活動のうちに真理はとらえられるのです。
ヘーゲルは、「哲学の区分もまた理念からのみはじめて理解されうる」(㊤八九ページ)として、論理学を「即自かつ対自的な理念の学」(同九〇ページ)、自然哲学を「本来の姿を失った姿における理念の学」(同)、精神哲学を「自己喪失から自己のうちへ帰る理念の学」(同)としてとらえています。倫理学と自然哲学を統一した精神哲学において「理念は、対自的に存在し、かつ即自かつ対自的になりつつあるものとして存在している」(同)のです。
理念は、人間という主体の精神活動をとらえた「精神哲学」において、「その発展した真の姿」を示すのであり、それは普遍的な「一つの理念」の「本源的分化」を示すものなのです。
理念の「発展した真の姿」は、できあがった真理ではなく、精神の働きにより、客観を変革し無限の真理を自ら実現していく人間主体であり、それが論理学においては「b 認識」として論じられることになります。
理念を「単なる論理的形式」(二〇九ページ)とか、「抽象的なものにすぎない」(同)と考えるのは間違いです。というのも「理念は、自分自身を規定して実在となる自由な概念」(二一〇ページ)ですから、「単なる論理的形式」ではなく、「それ自身本質的に具体的である」(同)からです。
「理念の原理である概念を、その真実の姿において、すなわち自己への否定的な復帰および主体性と解せず、抽象的な統一と解するとき、そのときはじめて理念は形式的な抽象物となるのである」(同)。
「理念の原理である概念」の「真実の姿」は、まさに人間主体の即自 ── 対自 ── 即対自の精神活動にあるのであり、したがって理念はけっして「形式的な抽象物」ではないのです。
二一三節補遺 ── 真理とは概念と存在の同一
「或るものがどういう風にあるかを知る」(同)という「対象と表象との一致」(㊤一二四ページ)は、「形式的な真理、単なる正しさ」(二一〇ページ)にすぎません。「より深い意味における真理」(同)は、二四節補遺二で学んだように「客観が概念と同一であること」(同)にあります。
例えば「真の国家」(同)とは、国家が真に「あるべきものである場合」(同)の国家を意味しています。これに対して客観が概念に一致しない場合は、「真実でないもの」(同)「悪いもの」(同)と呼ばれるのです。
「概念と実在との同一を全く欠くときは、何ものも存立することはできない」(同)のであって、「世界の諸事物が存立するのはただ概念による」(二一一ページ)のであり、その意味で「概念はむしろあらゆる生命の原理」(一二一ページ)なのです。
哲学の目的は、世界を思惟することによって、「世界の個々別々のもの」(二一一ページ)を「そこからそれらが出現してきた統一へ不断に還元」(同)することにあり、この「絶対的統一」(同)が理念にほかなりません。
理念が真理であることは、「ここではじめて」(同)証明されるのではなく、論理学の「全発展がこの証明を含んでいる」(同)のであり、「理念はこの経過の結果」(同)ということができます。
「これまで考察してきた諸段階、すなわち有と本質、および概念と客観性は、そうした区別の相においてあるとき、不変なもの、自主的なものではなく、弁証法的なものであり、それらの真理はただ理念のモメントであるということにあるのである」(二一一~二一二ページ)。
理念は、「有と本質、および概念と客観性」に媒介されて生じた直接的な真理であると同時に、逆に「有と本質、および概念と客観性」はそれ自身「不変な」真理ではなく、「ただ理念のモメント」としてのみ真理を持つのです。
いわば「哲学の全体がはじめて理念を表現する」(㊤八九ページ)のであって、「哲学の区分もまた理念からのみはじめて理解されうる」(同)のです。したがって有論、本質論、概念論も「論理学的理念」(同二五七ページ)の三つの主要段階としてとらえられることになります。
ヘーゲル哲学の本質は唯物論的な革命の立場
エンゲルスは、ヘーゲルを「観念論者」(全集⑳二三ページ)と規定しています。すなわち「彼の頭のなかの思想は、現実の事物や過程の多かれ少なかれ抽象的な模写とは考えられなかったのであって、逆に、事物とその発展のほうが、すでに世界よりもまえにどこかに存在していた『』の現実化された模写にすぎないと、彼には思えたのであった」(同)と。
しかし、このヘーゲル批判は、ヘーゲルのいう「理念」の誤解のうえに立っているといわなければなりません。ヘーゲルの理念は「現実の事物や過程」と無関係、無媒介的に「彼の頭のなかの思想」として生まれたカテゴリーではなく、人間主体により客観世界に媒介されつつ媒介を揚棄した直接性としてまず主観的概念(真にあるべき姿)がとらえられ、ついで、主観的概念が実践に媒介され、客観と同一となったものが理念としてとらえられているのです。いわば、理念は、人間主体による客観から主観へ、主観から客観へという二重の媒介を経てとらえられた真理にほかならないのです。
ヘーゲルのいう理念とは、人間主体による理想の現実化という意味での理想と現実の統一です。その理想は、現実から出発しながら現実を否定的に反映した真にあるべき姿であり、「彼の頭のなかの思想」としての空想からは区別される唯物論的な理想であり、その理想を人間主体が実践することによって国家、社会を合法則的に変革し、その過程を無限に反覆することによって真にあるべき国家、社会を実現し、絶対的真理に到達することができるというのです。
したがってヘーゲル哲学は、本質的に唯物論であり、しかも革命の立場にたった唯物論ということができます。ヘーゲルの観念論とも思えるあれこれの側面も、この革命的立場を隠蔽するための隠れ蓑ということができるでしょう。
二一四節 ── 理念は真理として対立物の統一
前節で理念は絶対的な真理であり、「概念と客観性との絶対的な統一」(二〇八ページ)であることを学びました。
しかし、更にいえば、七九節で学んだように、即自 ── 対自 ── 即対自という三つの側面は「真理のモメント」( 二四〇ページ)にほかなりません。したがって、真理としての理念も対立物の統一という形式のうちにのみあるのであって、概念と客観の統一もその一例にすぎません。
したがって絶対的真理としての理念は、「さまざまの仕方で理解することができる」(二一二ページ)のです。すなわち理念とは「理性であり(これが理性の本当の哲学的意味である)、さらに主観即客観であり、観念的なものと実在的なもの、有限なものと無限なもの、魂と肉体」(同)等々という対立物の統一なのです。
理性とは無制約な認識能力、つまり無限の真理を認識しうる能力ですが、それはすべての事物を対立物の統一ととらえる理念にほかならず、「これが理性の本当の哲学的意味」なのです。第三三講で、概念論は、理性的に事物の真にあるべき姿を認識し、実現するものであることをお話ししましたが、概念論が理性的認識であることは本節で明らかにされているのです。理念は真にあるべき姿を主観と客観の統一として実現することにおいて、理性であるということができるのであり、理性の「本当の哲学的意味」は理念なのです。
こうして有論は感性的認識、本質論は悟性的認識であるのに対し、概念論は理性的認識の立場にたつのです。
このように「理念のうちには悟性の相関のすべてが、無限の自己復帰と自己同一とにおいてではあるが、含まれている」(同)のです。
一三四節で、「相関」とは「外的で対立した独立の現存在としてあると同時に、また同一的な関係としても存在」(六四ページ)する対立物の統一であり、「この相関があらゆる現存在の真理」(同)であることを学びましたが、絶対的真理としての理念のうちには、「悟性の相関のすべて」が対立物の統一として含まれているのです。「無限の自己復帰」とは対立物の相互浸透を意味し、「自己同一」とは矛盾を揚棄した統一を意味しています。
悟性の立場にたつものは「理性について言われるすべてのことが自己矛盾である」(二一二ページ)として理性を批判します。「例えば、主観的なものは単に主観的であって、客観的なものはむしろそれに対立している」(同)とか、「有限なものはあくまで有限であってまさに無限の反対であるから、有限なものは無限なものと同一ではない」(同)といった批判がそれです。
それに対して理性的認識の立場にたつ「論理学はそれと正反対のことを指摘」(二一二~二一三ページ)し、対立物の統一のうちにのみ真理があることを明らかにするのです。
「単に主観的であるにすぎないような主観的なもの、単に無限でなければならないような無限なもの、等々はなんらの真理をも持たず、自己に矛盾し、その反対のものへ移っていくことを示し、そしてこのことによってこの移行と、二つの端項を揚棄されたもの、仮象、モメントとして含んでいる統一とこそ、それらの真理であることを明かにする」(二一三ページ)。
つまり真理は、自己同一なもののうちに対立を定立し、かつ対立する「二つの端項」が「反対のものへ移っていく」対立物の相互浸透、あるいは「二つの端項を揚棄」した「モメントとして含んでいる統一」、矛盾の揚棄としての対立物の統一のうちにあるのです。
悟性が理念を扱うとき「二重の誤解」(同)をします。一つは理念における対立物の「統一」を単に「抽象的なもの」(同)、つまり区別を含まぬ統一ととらえるのであり、もう一つは、理念が矛盾を含んでいることを「理念そのものとは無関係な外的な反省と考え」(同)るのです。
「理念はそれ自身弁証法であって、自己同一なものを多様なものから、主観的なものを客観的なものから、魂を肉体から不断に分離区別し、ただこの限りにおいてのみ永遠の創造、永遠の生動、永遠の精神なのである。したがって理念は、それ自身抽象的悟性への移行、あるいはむしろ転化でありながら、同時に永遠に理性である」(同)。
「理性はそれ自身弁証法」であって、まず自己同一なものから不断に区別を生みだし、「それ自身抽象的悟性」である区別されたものへ転化する「永遠の精神」であるかぎりにおいて、「永遠に理性」なのです。
「理念は弁証法であって、こうした悟性的なもの、区別されたものにその本性とその独立性の誤った仮象とを自覚させ、そしてそれを統一へ復帰させるのである」(二一三~二一四ページ)。
理念の弁証法は、このように統一から「区別されたもの」を生みだしながら、続いてこの区別されたものの独立性は「仮象」にすぎないことを自覚させ、それを「統一へ復帰させる」という「二重の運動」(二一四ページ)をおこなうのです。
この二重の運動は「いかなる点でも分離され区別されていない」(同)のですから、理念は他のものに移行する運動のなかで自分自身を「直観する」(同)のです。
すなわち、理念は「その客観性のうちで自分自身を実現している概念であり、内的な目的性、本質的な主観性であるところの客観」(同)です。主観的概念と客観は理念のうちで統一されつつ区別され、区別されつつ統一されているのです。
理念は先にみたようにさまざまな対立物の統一としてとらえられますが、「それらは規定された概念のどれか一つの段階を示すにすぎない」(同)のであり、「ただ概念そのものだけが自由で真の普遍」(同)なのです。
とりわけ重要なことは、理念を「概念と客観性との絶対的な統一」(二〇八ページ)としてとらえることであり、この主観と客観との統一のうちにあって、概念は、真の普遍として主観からも客観からも自由であり、客観から主観へ、主観から客観へと自由に移行するのです。
「理念は二つの側面の各々が独立の全体をなしながらも、同時にまさにこうした全体へ完成されることによって、他の側面へ移行しているような無限判断である」(二一四ページ)。
理念は、主観としての概念と客観としての概念という「二つの側面の各々が独立の全体をなしながらも」、その両者の統一(概念と客観との統一)として「全体へ完成され」たものですが、その理念となった客観から、再び新たな真にあるべき姿(主観的概念)が区別されたものとして生まれ、それが客観となることを無限にくり返す主観から客観へ、客観から主観への「無限判断」なのです。
「ただ概念そのものおよび客観性のみがこうした二つの側面において完成された全体であって、他のいかなる規定された概念もそうではないのである」(同)。
ただ概念と客観との統一としての理念のみが「完成された全体」であって、「他のいかなる規定された概念もそうではない」のであり、その意味で理念のみが絶対的真理なのです。
二一五節 ── 理念(真理)は無限に発展する過程
「理念は本質的に過程である。なぜなら、理念の同一性は、それが絶対の否定性であり、したがって弁証法的であるかぎりにおいてのみ、概念の絶対かつ自由な同一性であるからである」(二一五ページ)。
前節でみたように理念は「無限判断」であり、無限の真理に向って無限に前進していく運動であり、したがって「本質的に過程」なのです。理念は、概念と客観との統一ですが、その同一性はまず「a 生命」としてあらわれ、その「絶対の否定性」により生命は弁証法的に発展し、人間主体という「概念の絶対かつ自由な同一性」となるのです。
「理念は、単一性である普遍性としての概念がまず自己を規定して客観性、すなわち普遍性の反対物となり、次に、概念を実体として持っているこの外面性が、それに内在する弁証法を通じて、主観性へ復帰するという経過である」(同)。
「概念がまず自己を規定して客観性」となるとは、生命のことであり、「主観性へ復帰する」とは、生命のうちで客観のうちに埋没していた概念が人間主体において自由となることを意味しています。
理念はまず概念(魂)と客観(肉体)の統一としての「a 生命」となり、次いで客観のうちに埋没していた概念が「それに内在する弁証法を通じて」自由となり、「主観性へ復帰」して人間主体の「b 認識」となるのです。
「理念は過程であるから、絶対者を有限と無限、思惟と存在、等々の統一として言いあらわすのは、しばしば注意したように、誤である。というのは、統一という言葉は、静止した抽象的な同一を表現するからである。また理念は主体性であるから、この点から言っても、右の表現は誤である。なぜなら右の統一は、真の統一の未発展な姿、実体的なものを表現するからである。そこでは無限なものは有限なものと、主観的なものは客観的なものと、思惟は存在と、単に中和されたものとしてあらわれている」(同)。
理念を対立物の統一としてとらえるのは正しいと同時に誤っています。というのも、そこでは理念が過程であることが忘れ去られて、「統一という言葉は、静止した抽象的な同一を表現する」ものとなっているからです。また理念は人間主体の活動による真理の実現であるにもかかわらず「統一」には対立するものが「中和されたもの」として表現され、「主体」による発展的真理としてではなく、「真の統一の未発展な姿、実体的なものを表現する」にとどまっているからです。
「ところが理念の否定的統一においては、無限なものは有限なものを、思惟は存在を、主観性は客観性を、包括しているのである。理念の統一は主観性であり、思惟であり、無限である。この点から言って、それは、包括的な主観性、思惟、無限が一面的な主観性、一面的な思惟、一面的な無限 ── これらは前者の分化、特殊化によって生じたものである ── から区別されなければならないと同じく、実体としての理念から区別されなければならないものである」(同)。
「理念の否定的統一」とは人間主体を意味しています。人間主体は「理念の否定的統一」として「主観性であり、思惟であり、無限」なものであり、しかもそれは「一面的な主観性、一面的な思惟、一面的な無限」を含む「包括的な主観性、思惟、無限」です。人間主体は主体としての理念であって、「実体としての理念から区別」されなければなりません。真なるものは実体ではなく、主体だからです。
二一五節補遺 ── 理念は三つの段階を通過する
理念は、過程として、生命、認識、絶対的理念の「三つの段階を通過」(二一六ページ)します。
生命は、「直接性の形態のうちにある理念」(同)としての主体であり、認識は、人間主体による「媒介あるいは差別の形態」(同)にある理念です。さらに認識は「理論的理念および実践的理念」(同)、つまり狭義の認識と実践という二つに区別されます。
絶対的理念は、この直接性と媒介性の統一であり、論理学の「最後の段階」(同)であると同時に、また論理学の「真の始源」(同)として、有論、本質論、概念論を規定するものとなっているのです。
一五節で哲学は「それ自身のうちで完結した円」(㊤八五ページ)であることを学びましたが、こうして論理学も「再びその端初に到達し、自己のうちへ帰る」(同八九ページ)という「自己へ帰る円」(同)として完成することになります。
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