『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より
第一版への序文
科学的社会主義の理論に関心をもつものにとって、その源泉の一つであるヘーゲル哲学を学んでみたいという要求は、不可避的であるといってよいでしょう。
しかし、そこには大きな壁があります。ヘーゲル哲学の中心をなす「論理学」は、難解をもって鳴る古典であって、独習によって消化しようとしても、少々のことでは歯がたたないのです。またヘーゲルの観念論を批判しながら、ヘーゲル哲学の合理的核心をつかみ出すには、単にヘーゲル哲学を消化する以上の、さらに高度の読解力が求められます。『見田石介ヘーゲル論理学研究』(大月書店)や『ヘーゲル論理学入門』(有斐閣)などすぐれた解説書がありますが、こうしたものに導かれても、なお合理的核心をつかみ出すことは簡単ではありません。
私自身、最初の一〇年余り独学でヘーゲル哲学と格闘してきましたが、哲学には門外漢なため困難の割に実りの少ないものでした。
ところが、一九八九年関西勤労者教育協会が、鯵坂真先生の「ヘーゲル小論理学ゼミ」を開催することを知り、欣喜雀躍して参加しました。広島から大阪まで、二年間通うことは、それなりの負担となりましたが、真理を学ぶ喜びは比較にならないものでした。鯵坂先生が、講義前の一時間を私との一問一答のために特別に割いてくださったことは、この喜びを倍加させるものとなりました。このことを通じて、鯵坂先生の学習教育運動へのひたむきさと真理にたいする敬虔さを教えられました。
ここから私のヘーゲル哲学への理解も「量から質へ」の転化をとげたように思えます。
そのなかで、ヘーゲル哲学を学ぶために、原文にそった良き手引書の必要なことを痛感したのです。こうしたこともあって、求められるまま、広島県労働者学習協議会として最初の「ヘーゲル小論理学ゼミ」を一九九四年に、一九九六年には二度目のゼミを開催しました。
本書は、その二度目のゼミの講義に加筆・訂正したものです。私なりに、ヘーゲル哲学の合理的核心が変革の立場にあるとつかめましたので、再度のゼミとなったものです。その内容は、はからずも見田・鯵坂両先生の見解と多少異なるものとなりましたが、「真理の前にのみ頭を垂れる」との精神で講義したものですから、鯵坂先生にもご理解いただけるのではないかと思うと同時に、その学恩への多少の恩返しになったのではないかと思います。
当初は、まったく出版を予定していなかったのですが、ヘーゲル哲学の手引書を求める受講生の熱心なすすめとテープ起こしの協力により、今回、広島県労働者学習協議会再建十周年記念事業の一環として、出版の運びとなりました。
二十一世紀の早い時期に民主連合政府を樹立するためにも、いま、変革の立場からヘーゲル哲学を見直すことが求められているのではないかと思います。内容の未熟さ、個々の不十分さは、私自身十分承知していますが、ヘーゲル哲学全体を大きくとらえる一試論として、本書が科学的社会主義に関心をよせる人びとに受け入れられ、ヘーゲル哲学独習の手引書としてお役にたてれば、幸いです。また本書に対するご批判、ご意見を積極的にお寄せいただき、真理を探求する討論を通じて、科学的社会主義の理論を豊かにすることに多少なりとも貢献できるとしたら、これに勝る喜びはありません。
最後に、本書出版にあたって、長期間にわたって日夜労苦をともにして頂いた、広島県労働者学習協議会編集員会の皆さんのご協力に、心から敬意と感謝の念を表明するものです。なお、装丁は、イラストレーターの長男、高村是州が担当しました。
一九九九年八月六日(第五十四回目の原爆記念日に)
第二版への序文
難解なヘーゲル論理学を働く人々のために分かりやすく逐条的に読み解き、科学的社会主義の哲学をより豊かにしたいとの思いから第一版を出版してはや十年が経過しました。
この間何らかの形で途切れることなくヘーゲル哲学とかかわってきましたが、学ぶたびに新たな発見があり、ヘーゲルへの評価を少しずつ変えることになってきました。第一版ではヘーゲル哲学の合理的核心は「変革の立場」にあると述べましたが、現在では「革命の哲学」とよばないと正確ではないと考えています。またヘーゲルは「九五%唯物論者」との規定も、革命の哲学とられないための「観念論的装いをもった唯物論」と規定すべきとの結論に達しています。
こうした事情もあって第二版は、第一版の趣旨を引きつぎながらも内容を全面的に発展させたものとなっています。
一つは、対象の拡大です。第一版では『小論理学』のうち「序文」「エンチクロペディーへの序文」「予備概念」を省略していたのに対し、今回はそのすべてを取り入れました。そのため、全四十回の講義のうち十八回を本論までに費やすことになりましたが、ヘーゲル弁証法の真理性を理解するためには、それも避けられない作業であったと痛感しています。
二つは、内容の発展です。第一版を出版した主たる目的は、「概念論」の概念とは「真にあるべき姿」であることを明らかにしたいと考えたことにありました。当時唯物論者のなかにあっても「概念論」の正確な理解がなされていなかったところから、ヘーゲル論理学の全体像を的確にとらええなかったうらみがありました。それを払拭したいとの思いが性急ともいえる出版となったのですが、当時はまだヘーゲルをとりまく時代背景についても、「論理学」の細部の論理展開についても、ヘーゲルの観念論的"隠れ蓑"についても理解が不十分でした。
その後筆者の「概念」の理解については特段の反論もありませんでしたし、自分でも何度もするなかで確信を深めることができました。しかしより正確にいえば、概念一般とは「真の姿または真にあるべき姿」であり、「概念論」の概念とは「真にあるべき姿」を意味していると考えるに至りました。この問題も含め、第二版では全体としてヘーゲル弁証法の真の姿と細部に至るまでの論理展開を正確に読み解き、第一版における内容の不十分さを克服しえたのではないかと考えています。
エンゲルスが指摘するように、ヘーゲル哲学には「今日でもなお完全に値うちのある無数の宝」があります。ヘーゲル弁証法を血肉とするとき、もっとも鋭く時代と切り結び、社会変革の先頭に立つことができるというのが、筆者の四十数年に及ぶ社会的実践の最大の教訓です。「資本主義限界論」が公然と論じられる現代においてこそ、革命の哲学・ヘーゲル「論理学」は、社会変革を志すものにとって必読の書ということができるでしょう。
本書は、労働者・国民にこそ読んでほしいとの思いから、廉価でハンディーな新書版とすることにしました。全四十回分の講義のうち、今回は二〇〇八年七月から二〇〇九年四月までの十八回分を、第一、第二分冊として出版し、来年本論に相当する残りの二十二回分を出したいと考えています。
今回もこれまでと同様「広島県労働者学習協議会編」として出版することになりました。労働者・国民とともに学びあってこそ、理論も生きたたたかいの武器になりうると信じているからにほかなりません。編集委員のみなさんには、この場を借りてあらためて心からの感謝と敬意を表明するものです。
なお装丁は、県労学協の平野百合子事務局長が担当しました。彼女が十六歳の時、第一版の作業協力者として「あとがき」に名を連ねているのを見ると、現在の彼女に感無量を覚えます
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二〇〇九年七月
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