2008年12月17日 講義
第11講 予備概念 ⑥
カント批判 ⑵
『純粋理性批判』の批判
42節 ── カントは「純粋統覚」がカテゴリーをもたらすという
<(a)理論的能力、認識そのもの>
●「自我の本源的同一性」(自己意識の先験的統一)(170ページ)
・多様で無秩序な表象を普遍性・必然性に統一する「理論的能力」(同)が
「自我の本源的同一性」(同)
・この理論的能力が悟性概念(カテゴリー)を特定する根拠
● 感覚、直観によって与えられる表象の多様性
・表象は内容・形式ともに多様
・カントは時間・空間を「相互外在的」(同)な「直観の形式」と考えたか
ら、形式面でも表象は多様
・カントは多様な表象が「純粋統覚」によって、「一つの意識としての自己
のうちで結合」(同)し、カテゴリーになるという
● ヘーゲルのカント批判
・自我(自己意識の統一)というのみでは、全く抽象的、無規定であり、自
我の諸規定としてのカテゴリーには到達しえない
・そこでカントは、形而上学の「判断の諸種類」(同)から安易に「思惟の
諸規定」としてのカテゴリーを引き出してくる
・カントはフィヒテと違ってカテゴリーをその必然性において示していない
・フィヒテはカテゴリーを経験的に寄せ集めるのではなく、自我と非我の対
立から弁証法的に導出しようとして「没することのできない高い功績」(
同)を残す
・「論理学はまず第一に自分自身の内容を証明し、その必然性を洞察するこ
とができなければならない」(171ページ)
→ヘーゲル論理学はそれを証明しようというもの
42節補遺1 ── 自我は多様なものを統一に還元する
● カントの主張は、自我がカテゴリーの源泉だとする
・カテゴリーは多様なものを「単純態」(同)に還元する
・感性的なものは「自己の外にある」(同)(自己の外にあるものをそのま
ま反映)多様なもの
・これに対し「思惟あるいは自我」(同)は多様なものを統一し、「自己同
一なもの」、自己の内にあるものにかえる
・自我とは「無関係な多様を焼きつくして統一へ還元する」(172ページ)
坩堝=「純粋統覚」(同)
● ヘーゲルのカント批判
・世界を認識するには、世界をつきくずし、観念化しなければならない
・しかし、「多様のうちへ絶対的な同一を導入する」(同)のは、「主観的
作用」(同)ではなく「真実在そのもの」(同)
42節補遺2 ──「自己意識の先験的統一」とは何か
● 自己意識は、多様なものを統一(対立物の統一)へ還元する
・「超越的」とは対立する二つのものを統一することで悟性を越える
・微分では直線と曲線とを同一と規定する
● カントは、この自己同一の超越的意識を「先験的」とよぶ
・「先験的」とよぶことで「自己意識の同一は単に主観的なもの」(173ペ
ージ)であって「対象そのものには属さない」(同)と誤って考えている
・よって「自己意識の先験的統一」は正確にいうと「思惟における自我の本
源的同一性」と言いかえられるべきもの
42節補遺3 ── カテゴリーは対象そのものの真の内容
● カテゴリーは「直接の感覚のうちには含まれていない」(同)が、単に主
観的なものではない
・カテゴリーは「思惟そのものに属する」(174ページ)
・カント哲学は、カテゴリーを主観的というのみならず、「感覚」(時間・
空間という直観形式)によって素材に現実性が与えられるとするから「主
観的観念論」(同)
● 重要なのは「内容が真実であるかどうか」(同)
・カントの主観的観念論は、対象の「実在性」を否定するとの批判は正しく
ない
・唯物論も、一時的・偶然的なものを「存在」するというのなら正しくない
し、観念論も世界を「感覚的直観の集まり」というのなら正しくない
・重要なのは、内容が真の姿、真にあるべき姿をとらえているかどうか
43節 ── カントは経験にしかカテゴリーを適用できないという
● カテゴリーは、経験によって間接的に与えられた普遍性・必然性であるか
ら「経験にしか適用できない」という
● ここから、経験を越える「物自体」、絶対的なものは認識しえないという
不可知論に
43節補遺 ── カテゴリーは空虚ではなく内容をもつ
● カントはカテゴリーを「それ自身として空虚である」(175ページ)とす
る
● ヘーゲルの批判
・カテゴリーは、感性的な内容、あるいは時間・空間のうちに特定されるよ
うな内容はもたないが、規定された思想という内容をもつ
・内容とは「思想」
・もっとも論理学のカテゴリーは「自然および精神という実在的な領域」(
176ページ)にまでは進んでいない、という意味では「空虚」ともいえる
44節 ── カントはカテゴリーによって物自体は認識しえないと
いう
● カテゴリーは「物自体を認識する能力を持たない」(同)
・カテゴリーは経験のうちに与えられる現象を認識しうるのみ
・経験をこえる「絶対的なもの」「物自体」は認識しえない
● ヘーゲルのカント批判
・「物自体」とは「蒸溜の残滓」(同)であって、ありもしないもの
・「空虚な自我の産物」(177ページ)
・空虚な自我の「否定的規定」(同)がカントのいう「理性」
45節 ── 理性とは制約されていないものの能力
● 理性は無制約な能力
・「経験的知識が制約されたものであることを洞察」(同)
・無制約な理性とは「自我の本源的同一性」(純粋統覚による多様なものを
統一する能力)
・理性は「抽象的な同一性」(同)としての物自体を求めようとする
● カントは物自体の認識を「絶対的真理(理念)」(同)としながら、それ
は認識しえないという不可知論に
・反面からすると経験的認識は「真実でないもの、現象」(同)にすぎない
という
45節補遺 ── 理性とは何か
● カントが理性と悟性を区別したのは、「重要な成果」(178ページ)
・悟性の対象は「有限で制約されたもの」(同)、理性のそれは「無限で制
約されぬもの」(同)
● ヘーゲルの理性批判
・理性の無制約性は「区別を排除する抽象的な同一」にではなく、同一と区
別の統一に求めるべき
・単に理性を悟性の有限性をこえるものとのみ考えることは、理性を有限な
ものにひき下げてしまう ── 理性は「有限なものを揚棄されたものとし
て自己のうちに含む」(同)有限と無限の統一でなければならない
● カントの理念
・理念を「抽象的な悟性規定や単なる感覚的表象」(同)から区別して、理
性に固有なものであることを明らかにした
● ヘーゲルの理念批判
・理念を現実の彼岸という「消極的なものと単なるゾレン」にとどめている
・物自体という理念は「単なる現象」の根拠になりえず
・「精神が世界の原因」(74ページ)ととらえるべき
・理念は「単にゾレンにとどまって現実的でないほど無力なものではない」
(71ページ)
● イデアリスムス
・イデアリスムスとは「イデーにのみ実在性を与え、事物は個々別々に現わ
れる通りでは真実体ではないと主張する哲学」(『哲学史』㊦の1 185
ページ)
・カント哲学は「主観的イデアリスムス」── そのイデー(物自体)は彼岸
(主観的なもの)にとどまる
・ヘーゲル哲学は「絶対的イデアリスムス」── イデーは必然的に現実に転
化する
46節 ── 無制約者にカテゴリーは使用しえない
● カントは無制約者を認識するのにカテゴリーを使用すると「高踏的(超越
的)」(180ページ)になるという
・理性は「無限者あるいは物自体」を認識しようとする
・認識の手段はカテゴリーのみ
・カテゴリーを使用して物自体をとらえようとすると、カテゴリーの適用範
囲をこえて理論的に破綻する
● ヘーゲルの批判
・カントの第2の面は第1の面(カテゴリーは主観的)より重要 ── カテ
ゴリーの内容が問題となってくる
・カントは魂、世界、神という「無制約者」へのカテゴリー適用すると破綻
することを証明しようとする
・カントの古い形而上学批判は「特に興味がある」(181ページ)── ヘー
ゲル弁証法への地ならし
|