2009年2月18日 講義

 

 

第15講 予備概念 ⑩
     ヤコービ批判 ⑵

 

● ヘーゲルのヤコービ批判

 ・ヘーゲルは、まず形式論理学の同一律の観点からヤコービのカテゴリーの
  混乱を指摘し、続いて直接性と媒介性の統一という弁証法の見地からヤコ
  ービを批判する


63節 ── ヤコービのカテゴリーの混乱

● ヤコービの理性には2種類ある

 ・1つは、媒介知としての悟性 ── これは有限な認識

 ・もう1つは、直接知、信仰としての理性(理性的信仰)── 神、真実在を
  とらえうる

● カント、ヤコービ、ヘーゲルの悟性と理性

 ・カント ── 悟性は有限な認識、しかし理性は有限なものを認識しえない

 ・ヤコービ ── 悟性は有限、無限なものをとらえる理性は思惟ではなく信
  仰

 ・ヘーゲル ── 悟性は有限、理性的思惟は弁証法により無限なものを認識
  しうる

● ヤコービは直接知にかんして「知、信仰、思惟、直観」(215ページ)と
 いうカテゴリーを使用

 ・これらのカテゴリーの「本性および概念が何であるか」(同)は探究され
  ていないところから混乱が生じている

 ・一方で知を信仰に対立させつつ、他方で信仰を「直接知」という「知」と
  してとらえる

 ・一方で「思惟」を「直観」に対立させつつ、他方で直観を「知的と規定」
  (同)し、思惟と同一視 ── 直観のうちにとらえられる神は「本質的に
  普遍的な人格」(同)としての神であり、「思想」の対象となるもの

 ・信仰、直観が神のような「高い領域へ移される場合」(同)もはや信仰、
  直観と思惟とは区別されない

● ヘーゲルは、キリスト教的信仰とヤコービの哲学的信仰とを区別

 ・キリスト教的信仰は「教会の権威を含み」(217ページ)豊かな内容の「
  教義および認識の体系」(同) ── 思惟の対象

 ・哲学的信仰は「神一般、最高の存在というような抽象」(同)

 ・ヤコービの信仰、直接知は「良識とか常識」(218ページ)と全く同じも
  の


64節 ── 表象と存在との結合

● 直接知は、表象のうちの神は「存在」と直接結びつく、という

 ・いわば主観と客観の一致を主張するもの

 ・主・客一致の命題は「哲学の一般的な内容の全体を表現」(218ページ)
  するものだから、反駁は「思いもよらない」(同)

 ・ 直接知はさらに「外的事物」(219ページ)一般の表象と存在との結合に
  よる主客の一致まで主張 ── 「哲学がめざしているのは、こうした統一
  を証明すること」(同)

● しかしヤコービは主客一致という哲学と同一の立場にたちながら、哲学が
 媒介知としての主客一致を主張しているとして哲学に反対

● デカルトの「我惟う、ゆえに我あり」の命題も主観と客観の直接的結合を
 主張するという点ではヤコービと共通

 ・主観的「我」と客観的な「我あり」は、媒概念によらない直接的結合 ─
  ─ 推理による主観と客観の結合ではない

 ・デカルトは、この命題を絶対に疑いえない第一の真理として、近代合理主
  義の哲学を確立 ── 世界を精神と物質に二分する二元論に。この土台の
  うえに唯物論と観念論の区別

 ・これに対しヤコービの直接知は近代合理主義哲学の全成果を否定するもの

 ・ヤコービの「表象と存在との結合」はデカルトの命題の前には「余計な繰
  り返し」(221ページ)でしかない


65節 ── 直接性と媒介性の統一

● ヤコービは「媒介を排除した直接知」(221ページ)のみを真理とする

 ・直接性と媒介性とを媒介のない対立としてとらえる ── 悟性の立場

●しかし実際には、媒介を含まない直接性も、直接性を含まない媒介性も存
 在しない ── 直接性と媒介性の統一に真理

 ・「真の姿」も「真にあるべき姿」も概念であり、それは媒介性を揚棄した
  直接性としてとらえられる真理

● ヤコービの立場は「事物の本性すなわち概念を考察することを拒む」(
 221ページ)

 ・第2部「本質論」では真の姿という概念を、第3部「概念論」では真にあ
  るべき姿という概念を考察する

 ・しかしヘーゲルは、革命性隠蔽のため「概念論」に言及せず


66節 ── 知識・技術の直接知は媒介知の結果

● 最も複雑な真理も「この上なく多くの媒介を経た考察の結果」(222ペー
 ジ)

 ・専門的知識や深い技術は、多くの媒介を経ながら、揚棄され、直接的意識
  のうちにあらわれる

 ・熟練とは、媒介を揚棄した直接性

 ・直接知は、媒介知の排除ではなく「媒介知の所産であり結果」(223ペー
  ジ)

●「天上であれ、自然の中であれ、精神の中であれ、……この直接性ととも
 に媒介性を含まないようなものは何一つとして存在しない」(『大論理学
 』㊤の1、58ページ)


67節 ── 本能、生得観念も媒介知

●「本能、生得観念、常識、自然的理性」などは直接知の例

 ・こうした直接知が意識にもたらされるには、「必ず教育、育成」が必要

 ・プラトンの「イデア想起説」も同様

 ・キリスト教の洗礼も、後に「教育される義務」を含む

● 生得観念とその反駁に対するヘーゲルの批判

 ・前者は生得観念につき客観世界の媒介性を否定、後者は「タブラ・ラサ(
  白板)」として、意識の直接性(創造性)を否定

 ・前者は直接性、後者は媒介性という「排他的な規定」(224ページ)の一
  方のみを主張

●「経験によればそうしたものを持たない人間がある」との反論の考察

 ・「生得観念」説には妥当しない ──「生得するもの」必ずしも「観念にあ
  らず」

 ・「生得観念反対」説には有効 ── 直接知は「直接的な諸知識」がすべて
  の人の「意識のうちにある」と主張しているから


67節補遺 ── イデア想起説の真の意味

● プラトンのイデア想起説の真の意味

 ・イデアは「潜在的に人間のうちにあるもの」

 ・うちにある「潜在的なもの」が発展し、顕在化するのは「媒介にほかなら
  ない」(225ページ)


68節 ── 神の信仰も媒介知

● 神にかんする知は「感性的なもの、有限なもの」(同)を越えた「高まり
 」(同)

 ・この「高まり」は「信仰に終わるような高まり」(226ページ)

 ・それは「媒介過程を前提および条件として持っている」── 無媒介的直接
  知ではない

 ・有限な存在から神の存在証明にいたる過程は、媒介された「上昇」(同)
  を意味するのであり、「精神そのものの必然的媒介」(同)