『21世紀の科学的社会主義を考える』より
第五講 人間疎外論
一、人間疎外とは何か
人間疎外論を論じるにあたって、疎外とは何かを検討してみましょう。
一般的には、疎外とは「のけ者にされる」「うとんじられる」という意味で用いられていますが、マルクスはこれに独自の意義をもたせています。すなわち、本来なら人間の支配に服すべき人間の社会的産物が、逆に人間を支配し、人間に敵対する力としてあらわれることにより、人間の本来の姿が失われることをもって、人間疎外とよんだのです。
人間疎外の中心をなすのが、搾取です。一般に労働生産物は、生産者の自由な意志にもとづく労働によって生産されることにより、生産者の所有となります。しかし階級社会にあっては、支配階級が生産手段を所有することによって生産者は生産手段に結合され、自由な意志にもとづく労働ではなく外的・強制的な労働を強いられます。しかも労働生産物は支配階級が独占して所有するという搾取により、自由な意志を疎外されて逆に労働生産物は労働者にとって支配的・敵対的なものとなってあらわれます。
マルクスは、搾取によって「自由な意識」が奪われると同時に、階級支配によって「共同社会性」が破壊され、外的な強制と従属的関係におかれることにより、人間の二つの本質が損なわれ、歪曲されるという意味で、人間疎外という用語を使用したのです。
二、マルクスの人間疎外論の源流
ルソーの人間の本質論
マルクスが人間疎外論を展開するに至ったのには、いくつかの源流があります。
一つは、ルソーの人間の本質論です。ルソーは『人間不平等起原論』と『社会契約論』という内容上連続する二つの著作をつうじて、人間の本質、その疎外、疎外からの解放を論じました。第四講で学んだように『人間不平等起原論』の序文には「人間のすべての知識のなかでもっとも有用でありながらもっとも進んでいないものは、人間に関する知識であるように私には思われる」とあり、続いて人間の本質の考察に入っていくのです。
エンゲルスが『反デューリング論』のなかで、ルソーのこの二つの書物には「すでにマルクスの『資本論』がたどっているものと瓜二つの思想の歩みがある」(全集⑳一四六ページ)と述べているのは、そのことをとらえたものということができます。
ルソーは、人間の自然状態における平等は、生産力の発展による私有財産制のもとで不平等に転化しているが、共有財産制の社会契約のもとで「より高度の平等」(同)を実現しうるととらえました。また自由の問題でも、「人間は自由なものとして生まれ」(『社会契約論』一五ページ、岩波文庫)ながら、私有財産制のもとで「いたるところで鎖につながれ」(同)ているが、社会契約国家のもとでその「クビキをふりほど」(同)き「自分の自由を回復する」(同)と述べています。
またルソーは『社会契約論』において、未来社会としての社会契約国家を「アソシエーション」としてとらえていますが、マルクスはルソーに学んで未来社会としての社会主義・共産主義を政治的・経済的「アソシエーション」としてとらえていることを一言添えておきます。
このようにルソーは、絶対君主制のもとで人間の自由・平等という本質が疎外されているとして、この疎外論を人間解放の「アソシエーション」に結びつけることによって、「自由・平等・友愛」を求めるフランス革命の理論的指導者となったのです。
ヘーゲルの人格疎外論
二つは、ヘーゲルの人格疎外論です。ヘーゲルは、人間は自由な意志をもつ自由な人格として最高の存在であると考えました。この自由な意志により、人間は自分自身を認識対象として客観的にみつめる「自己意識」をもち、「有限性のなかでそのように自分を無限なもの、普遍的なもの、自由なものとして知る」(『法の哲学』三五節)としています。
人間は自由な意志をもつ人格として、権利能力をもち法の主体となります。したがって「私権の享有は出生に始まる」(民法一条の三)のですが、まだ自由な人格として完成していない未成年者や自由な人格になりえていない精神障害者の行為能力は制限されているのです。人間は自由な人格として、もろもろの知識、学問を身につけます。それは自由な人格と一体化した内面的な精神であり、それを譲渡したり、放棄したりすることは自由な人格の譲渡や放棄につながるものとして許されません。しかし内面的な知識や学問も、発表したり出版したりして外面化すれば、自由な人格から区別して譲渡したり放棄したりすることが可能となります。ヘーゲルにとって疎外とはまず内面の「意志」とそれを外在化した「モノ」とを分離することを意味しているのです。
言いかえると自由な人格は、自己の内面の意志から疎外された「モノ」を自己の所有物にすることによって、かろうじて自由な人格の疎外を克服することができることになります。
すなわち自由な人格は、労働により生産物のなかへ「自分の意志を置き入れ」(『法の哲学』四四節)外在化することにより、生産物を自己の所有とするのであり、生産者による生産物の所有は「人間の、いっさいの物件にたいする絶対的な、自分のものにする権利」(同)です。したがって自由な意志を外在化した労働生産物を、生産者の意志と無関係に生産者から奪いとり、搾取することは、自由な人格の疎外の最たるモノといえます。しかしヘーゲルは、生産者が生産物を所有することは絶対的な権利だと主張するにとどまり、搾取による自由な人格の疎外を正面から論じることなく、その課題はマルクスに引き継がれることになったのです。
フォイエルバッハの宗教的疎外論
三つは、フォイエルバッハの宗教的疎外論です。
フォイエルバッハは、現実世界の苦しみの解決を宗教に求めようとする宗教的世界こそ自己疎外の根本原因であり、宗教的世界から解放されて世俗的世界に立ち戻ることにより疎外から回復すると考えました。
「フォイエルバッハは、宗教的な自己疎外という事実、すなわち世界が宗教的な世界と世俗的な世界とに二重化するという事実から出発する。彼の仕事は、宗教的な世界をその世俗的な基礎へ解消することにある」(「フォイエルバッハにかんする第四テーゼ」『「新訳」ドイツ・イデオロギー』一一一ページ)。
これに対してマルクスは、世俗的な現実そのものが自己疎外を生みだしているのであって、疎外からの解放のためには、現実世界そのものが実践的に変革されなければならないと考えました。
「この世俗的な基礎そのものが、それ自身において、その矛盾のなかで理解されなければならないのと同様に、実践的に変革されなければならない」(同)。
マルクスの人間疎外論
マルクスの人間疎外論は、こうしたルソー、ヘーゲル、フォイエルバッハの疎外論の止揚のうえに誕生することになります。
ルソーからは、人間の類本質、その疎外、疎外からの解放という、人間疎外論と人間解放論の統一、あるいは否定の否定の論理を学びました。マルクスは「資本主義的な私的所有は、自分の労働にもとづく個人的な私的所有の最初の否定である。しかし、資本主義的生産は、自然過程の必然性をもってそれ自身の否定を生み出す。これは否定の否定である」(『資本論』④一三〇六ページ/七九一ページ)として、人間解放の社会主義・共産主義を搾取による人間疎外を否定する「否定の否定」としてとらえています。
ヘーゲルからは、人間の類本質の一つが自由な人格のもとでの自由な意識にあること、および生産者が自由な意識の外在化である労働生産物を所有することが「絶対的な」権利であることを学び、マルクスはそのことをつうじてヘーゲルが明確にしなかった搾取が人間疎外の根本的要因であることを理解したのです。
フォイエルバッハからは、なるほど宗教的疎外から解放されることも重要かもしれないが、それ以上に現実世界の苦しみの根源である搾取による人間疎外からの解放を求める社会変革が重要であることを、いわばフォイエルバッハを反面教師として学びとっていったのです。
こうしてマルクスの人間疎外論は、搾取を疎外論の土台にすえながら、人間の類本質のすべてにわたる疎外論を論じ、原始共同体における類本質の顕現した人間、階級社会における類本質の疎外された人間、社会主義・共産主義社会における疎外から解放されたより発展した人間という立体的構造をもつ「人間論」のなかに位置づけられて論じられることになるのです。すなわち「あらゆる解放は、人間の世界を、諸関係を、人間そのものへ復帰させること」(全集①四〇七ページ)にほかならないととらえたのです。
三、人間疎外論
類本質の形成
人類の歴史は六百万年とも七百万年ともいわれていますが、そのうち九九・八パーセントは階級のない原始共同体の社会でした。今から約一万年前に狩猟、採集の社会から農耕、牧畜の社会へと移行し、生産力は飛躍的に発展するとともに、新たに紡績、金属加工、製陶などの生産が登場してきます。そのころから私有財産制が生まれ階級社会に突入しますが、そこにいたるまでの数百万年の歴史をつうじて人間の類本質が形成されてくるのです。
人類の歴史は生産力発展の歴史です。生産力の発展とは、自然の法則に関する認識を広め、深め、「必然的自由」をつうじて「概念的自由」を獲得することにほかなりません。
「われわれが自然を支配するのは、……他のあらゆる被造物にもましてわれわれが自然の法則を認識し、それらの法則を正しく適用しうるという点にあるのだ、ということである」(全集⑳四九二ページ)。
人間は自然に立ち向かい、自然の法則を認識することで「必然的自由」に到達し、法則の認識をつうじて「概念的自由」を手にすることで自然をつくりかえます。こうして人類は類人猿から区別される存在となり、人間の類本質である「自由な意識」を獲得するのです。
生産力の発展の歴史は、道具の発展の歴史です。狩猟における石槍から弓矢への移行は、狩猟能力を飛躍させるものでした。人間は社会のなかで道具の発展に関する経験や諸知識を言語をつうじて学び合い、かつそれを言語を媒介に世代を超えて蓄積していくことにより生産力を発展させてきたのであり、それは人間の類本質としての「共同社会性」を獲得していくことにつながりました。
人間の類本質としての「共同社会性」から、共同社会を維持・発展させるために必要な社会的諸関係が生まれてきます。社会の成員はお互いが社会的諸関係を尊重しあうことで社会の一員として生きていくことができるのです。
類本質としての「自由な意識」と「共同社会性」を現実的土台として、人間はこの二つの類本質を意識のうえに反映して価値あるものとしてとらえ、自由と民主主義という「人間的価値」――第三の類本質――が生まれてくることになります。
こうして人類の九九・八パーセントの歴史をつうじて徐々に人間の類本質が形成されてくることとなります。
一八七七年のモーガン著『古代社会』は、いわば人間が長い歴史をつうじて形成してきた類本質を顕現した社会として、「自由、平等、友愛」を「氏族の根本原理」(全集㉑九二ページ)ととらえたのです。
搾取と階級による人間疎外
農耕、牧畜の社会に移行して生産力が発展してくると「いまでは人間の労働力は、自分の生計を維持するだけのために必要であるよりも多くのものを生産できるように」(全集⑳一八六ページ)なりますが、そうなると「労働力はある価値をもつように」(同)なります。
「それまでは、戦争の捕虜をどうしてよいかわからなかったから、捕虜はあっさり打ち殺されていた。……ところが、『経済状態』がいま到達した段階では、捕虜はある価値をもつようになった。そこで、これを生かしておいてその労働を利用するようになった。……すなわち、奴隷制が発明されたのである」(同一八六~一八七ページ)。
生産力の発展は、奴隷所有者という階級と奴隷という階級、搾取する階級と搾取される階級、支配階級と被支配階級とに分裂する階級社会をもたらすことになります。
階級社会は、人間の三つの類本質をことごとく疎外することになりますが、それをマルクスの『経・哲手稿』でみてみましょう。
まず第一に、搾取は「自由な意識」を疎外します。労働生産物は、生産者の自由な意識を対象化したものとして生産者の所有に帰する絶対的な権利があるにもかかわらず、搾取によって労働生産物は生産者から取りあげられることにより、生産者の自由な意識は否定されてしまいます。したがって、搾取は「人間から彼の生産の対象をもぎ離すことによって、彼から彼の類生活、彼の現実的な類的対象性をもぎ離」(全集㊵四三八ページ)してしまうのです。
それだけではありません。搾取階級は搾取によってますます大きな富を蓄積し、その富の力で、被搾取階級への搾取と支配をより強固なものとします。
「彼の労働が彼の外に、彼とは独立に、余所ものとして存在し、そして彼に対峙する一つの自立的な力となり、彼が対象に貸与した命が彼に余所ものとなって敵対してくる」(同四三二ページ)。
たんに生産者の自由な意識が否定されるのみならず、自由な意識を対象化した生産物が生産者に敵対してくるところに、搾取による人間疎外があるのであり、マルクスはそれを「労働の疎外」とよんでいます。
マルクスは資本主義的搾取について、「労働者が対象を生産すればするほど、所有しうるものはますます少なくなるし、彼の産物であるところの資本の支配下にますます落ちていくほどの疎外としてあらわれる」(同)と述べています。この搾取による「労働の疎外」が人間疎外の土台をなしています。したがって被支配階級のうち、「労働の疎外」を受ける労働者こそが最も疎外された人間となり、労働者の「労働の疎外」からの解放が人間解放の中心的課題となるのです。
第二に、階級社会は、階級対立と政治的・経済的不平等を生みだすことにより、「共同社会性」を疎外します。
「人間が彼の労働の産物、彼の生活活動、彼の類的本質から疎外されていることの一つの直接の帰結は、人間の人間からの疎外である」(同四三八ページ)。
人間は、社会的存在として存在することによってのみ人間であるところから、マルクスは「共同社会性」の喪失を「人間の人間からの疎外」とよんだのです。ここでもこの「共同社会性」の喪失は、たんに人間としての対等、平等、友愛の関係が損なわれるのみならず、とりわけ階級間において支配と従属という敵対的な関係にまで転化しているところに、マルクスは搾取階級も被搾取階級もともに「人間の人間からの疎外」が生じていることをみています。
「総じて、人間が彼の類的本質から疎外されているという命題は、ひとりの人間が彼ならぬ他の人間から、また彼らのおのおのも人間的なあり方から疎外されていることを意味する」(同)。
それだけではありません。「共同社会性」の疎外は、言語の疎外を生みだします。言語的コミュニケーションは、本来的には人間相互の「共同社会性」を形成するものでしたが、逆に言語は人を欺し、傷つけ、攻撃する手段に転化してしまうのです。
「われわれはたがいにすっかり人間的本質から疎外されているために、人間的本質の直接の言葉はわれわれには、人間の尊厳を傷つけるものに思われ、反対に、事物の価値という疎外された言葉が、公認された、自信に満ちた、自己自身を承認する人間的尊厳のようにみえるのである」(「ミル評注」全集㊵三八一~三八二ページ)。
支配階級はつねに少数者にすぎませんので、少数者が多数者を支配する手段として言語を利用するのです。そのため支配階級は、実際には少数者である自らの階級の利益のために行動しているにもかかわらず、言語的コミュニケーションを使ってあたかも「人間的尊厳」を守り多数者の利益のために行動しているかのように欺瞞し、逆に多数者の利益を守る「人間的本質の直接の言葉」を虚偽であり、かつ「人間の尊厳を傷つけるもの」であるかのように宣伝するのです。こうして「支配的階級の諸思想は、どの時代でも、支配的諸思想」(『「新訳」ドイツ・イデオロギー』五九ページ)となり、言語の疎外は、支配的イデオロギーの欺瞞性にあらわれているのです。
第三に、階級社会は「人間的価値」を疎外します。
資本主義社会は、人間の労働力までもが商品となる商品社会です。商品社会において、貨幣は「富の、いつでも出動できる、絶対的社会的な形態」(『資本論』①二二二ページ/一四五ページ)となります。新大陸の発見で巨大な富を手にしたコロンブスは、「金はすばらしい物である! 金をもつ者は、自分の望むことはなんでもできる。金をもってすれば、魂を天国に送り込むこともできる」(同)とうそぶきました。
資本主義社会では、人間的価値は貨幣的価値に置きかえられてしまい、逆に人間的価値を否定してしまうのです。「物の世界の価値化に正比例して、人間の世界の非価値化は進む」(全集㊵四三一ページ)ことになり、人間がより善く生きるための人間的価値は無価値なものとされ、いかに生きるか、いかにより善く生きるかの探究は無意味な行為として否定されるか、または無視されてしまいます。
ウェーバーの価値自由論批判
人間的価値の疎外を理論的に合理化したのが、マックス・ウェーバー(一八六四~一九二〇)であり、彼の価値自由論は、資本主義社会の支配的イデオロギーとして今日でも大きな影響力をもっています。
彼は事実と価値、存在と当為を峻別し、事実認識と価値判断とを厳密に区別することが科学の前提になると主張しました。事実については真理を認識しうるから科学の対象にはなるが、価値については、人によって異なる「価値観の多様性」が存在するにすぎないと考え、そこにはいかなる価値を選択するのかという価値判断が存在するのみであって真理は存在しないから、科学の対象にはならないとしました。こうして彼は一方では科学は価値から自由でなければならないという価値自由論を唱えると同時に、他方で社会的価値や人間的価値の非科学性を主張し、価値論を事実上議論の対象外として棚上げしてしまったのです。
この価値自由論によって彼が強調したかったのは、史的唯物論は社会科学のなかに社会的「理念」という社会的価値観を持ち込むものであるから科学ではないとして、その真理性を否定するところにありました。
「マルクス主義的な『法則』や歴史的発展についての構成はみな……――理念型的な性格をもっていることはいうまでもないということを、はっきりというにとどめておこう。……それらが経験的に妥当するものだとか、ないしはさらにすすんで、真実な――という意味は、本当のところ、形而上学的な――『活動力』『傾向』であるなどと、考えられるならば、たちどころに、それは危険なものとなる」(『世界の大思想3・ウェーバー』「社会科学および社会政策の認識の『客観性』」一〇四ページ)。
ウェーバーのいう「理念型」とは、価値判断を含む理論を意味しており、史的唯物論は「理念型的な性格」をもっているから、科学ではないし、ましてや真理でもないというのです。
しかし真にあるべき姿としての理念には、客観的事実をふまえない観念論的な理念もあれば、客観的事実をふまえそれを揚棄した唯物論的な理念もあります。例えば空想的社会主義は観念論的な理念であるのに対し、科学的社会主義は唯物論的な理念です。前者には科学も真理もありませんが、後者は、客観的事実のうちに含まれる矛盾を揚棄するものとして理念をとらえるのであって、そこに科学もあれば真理もあるのです。ウェーバーはこの区別をみないで、すべての理念について真理性を否定する誤りをおかしています。その結果、彼は社会主義という社会的価値が、唯物論的理念として真理性をもつことに目をふさいでしまいました。
人間はたんに「世界がどうあるか」の真理(事実の真理)を認識しうるのみならず、それをふまえて「世界がどうあるべきか」の真理(当為〔価値〕の真理)をも認識して、社会的価値の真理によって世界をより善いものにつくりかえ、人間的価値の真理をつうじてより善く生きることを求めます。事実の真理と当為の真理という二つの真理の詳細は第八講で学ぶことになります。
ウェーバーの価値自由論が今日でもその影響力をもっているのは、それが真理であるからではありません。それが社会主義への展望を封じ込めようという支配階級のイデオロギーとなっているがゆえに、支配的イデオロギーとして存続しているにすぎません。しかし社会的価値や人間的価値における真理性の承認は、人類の類本質にかかわるものであり、その真理性をつうじて事実と価値、存在と当為の統一を実現するところに、人間の存在理由があるのです。
国家による人間疎外
人間疎外をもたらすのは、搾取と階級による疎外だけではありません。階級社会は階級支配の機関としての国家を誕生させ、国家による人間疎外が二つめの要因として加わります。
階級の存在しない原始共同体には国家は存在しません。モーガンの『古代社会』は「まだ国家というものを知らない一つの社会」(全集㉑九八ページ)でした。すべての社会には、構成員のすべてにとって必要な社会の共同事務(治山治水など)がありますが、原始共同体では構成員のすべてが分担して共同事務を処理してきました。
しかし階級社会に突入すると、この共同事務の処理を搾取階級が独自の機関に高めて独占的に支配し、自らは支配階級となり、ここに国家が誕生することになります。
「社会は、内外からの攻撃にたいしてその共同の利益を守るために、自分のために一つの機関をつくりだす。この機関が国家権力である。この機関は、発生するやいなや、社会にたいして自立するようになる。しかも、一定の階級の機関となり、この階級の支配権を直接に行使するようになればなるほど、いよいよそうなる」(同三〇七ページ)。
いったん成立した国家は、共同事務の処理機関として出発しながら、次第に搾取階級の階級支配の機関としての比重を高め、ついには住民の武装組織とは「もはや直接には一致しない、一つの公的強力」(同一六九ページ)をうちたてます。少数の搾取階級が多数の被搾取階級を支配するためには、軍隊、警察、裁判所、監獄などの人民抑圧のための公的強力を必要とするのです。
こうして国家は、外見上は共同の事務処理、共同の利益実現の機関としての仮象をもちながらも、搾取階級の階級支配の機関としての本質をもちます。いわば、階級社会の国家は、本質と現象とが対立し、矛盾するという二面性をもっているのです。
「国家とは、その全構成員の共同利益を実現する仮象をもちつつ、一方で支配階級の利益を擁護するとともに、他方で被支配階級を抑圧するという本質をもつ、搾取する階級の階級支配の機関である」(拙著『人間解放の哲学』九三ページ)。
これに対し、後に紹介するネオ・マルクス主義者のプーランザスは、国家の本質は階級支配の機関にあるのではなく、「諸階級の力関係の物質的凝縮にある」としています。ワイマール憲法以来、資本主義諸国の憲法には、一定の労働者の権利を認める社会権が規定されていることや普通選挙をつうじて国会に労働者階級の代表が進出していることなどをもって、このようにとらえたものでしょう。
しかしそれはあくまで現象にすぎないのであって、資本家階級はその階級的本質からして不断に労働者階級の代表が議会に進出することを抑えようとし、また社会権を空洞化させようとするのです。国家の本質は不変であり、「諸階級の力関係」によってあるときは資本家階級の利益を擁護し、あるときは労働者階級の利益を擁護するというようにゆれ動くものではありません。それを象徴的に示すのが公的強力であり、資本主義国家の公的権力はどんな政権が誕生しようとも、常に資本家階級の利益を擁護し、労働者・国民を敵視し続けているのです。
この階級支配の機関としての国家は、次のように、人間の類本質を疎外します。
第一に、国家は政治と法、および公的強力を利用して国民の自由な意志を疎外します。すなわち国家は政治と法を使って支配階級の搾取の自由を擁護し、生産者の自由な意識を疎外します。資本主義的国家にあっては所有権の保障が搾取の自由につながることについて、第六講で詳述します。
さらに国家は租税制度をつうじて、例えば大企業への減免税や庶民増税などにより間接的に搾取強化の手助けをし、また公的強力を利用して国民の反抗を弾圧、抑圧することによって思想・表現の自由などを侵害し、直接に自由な意識を疎外します。
第二に、国家は階級の存在と、階級間の支配従属の関係を肯定することによって、「共同社会性」を疎外します。また国家は公的強力を使って人間の類本質の回復を求める階級闘争を抑圧することによっても、「共同社会性」を疎外するのです。
第三に、国家は支配階級の思想を流布宣伝することによって、より善く生きるための人間的価値、ひいては国家・社会のあり方から国民の目をそむけさせ、人間的価値を疎外します。
以上みたように、階級社会は二重に人間の類本質を疎外します。一つは搾取による経済的疎外であり、もう一つは国家による政治的疎外です。したがって人間解放のためには、この二つの疎外からの回復が求められることになります。
人間疎外と階級闘争
階級社会においては、搾取する階級と搾取される階級との経済的利害は対立せざるをえませんので、必然的に階級間には階級闘争が生じることになります。これまでの階級社会の歴史は、次の事実を明らかにしています。
「これまでのすべての歴史は、原始状態を別にすれば、階級闘争の歴史であったということ、これらのたがいにたたかいあう社会諸階級は、いつでもその時代の生産関係と交易関係との、一言でいえば経済的諸関係の産物であるということ、したがって、社会のそのときどきの経済構造が現実の土台をなしているのであって、それぞれの歴史的時期の法的および政治的諸制度や、宗教的、哲学的、その他の見解からなっている上部構造の全体は、究極においてこの土台から説明されるべきであるということが明らかになった」(『空想から科学へ』全集⑲二〇五ページ)。
この歴史観が史的唯物論(唯物史観)とよばれるものであり、詳しくは第一一講で検討することになります。経済的諸関係が社会の「現実の土台」をなしており、この土台から生まれる階級間の階級闘争が社会発展の原動力となっているのです。階級闘争は経済的利害の対立を直接的契機として発生しますが、より本質的には、疎外された人間の類本質の回復を求めるという人間の類本質そのものに根ざすものであり、したがって搾取と階級による人間疎外の存在するかぎり、けっして消滅することのないたたかいであり、だからこそ歴史発展の原動力となっているのです。
階級社会にあって搾取と抑圧のもとにおける人民は、人間の類本質をもちつつも疎外されているという現象を反映し、人間の類本質にもとづく意識と疎外にもとづく意識との矛盾・葛藤のうちにおかれることになります。エンゲルスは「階級社会をひらくものは、低劣きわまる利害――いやしい所有欲、獣的な享楽欲、きたならしい貪欲、共有財産の利己的な略奪――である」(全集㉑一〇一ページ)とのべていますが、こういう階級社会の疎外された意識が被抑圧人民をも支配し、人間の類本質にもとづいて人間らしく生きたいという意識と葛藤することになります。
この意識の葛藤をつうじて人間らしく生きたい、つまり人間の類本質を顕現する生き方をしたいとの意識が人々を労働組合、民主団体、政党などに結集させ、さらには階級闘争に駆りたてることになるのです。
したがって階級闘争は、自由と民主主義という人間の価値意識を顕在化させ、発展させる人間性回復のたたかい、真のヒューマニズムの運動でもあります。いわば階級闘争の諸課題をつうじて、疎外された類本質という仮象(現象)のなかから、人間の類本質としての人間的価値が顕在化してくるのです。「本質は現象しなければならない」(『小論理学』㊦五五ページ)のであり、人間の類本質は階級闘争をつうじて現れてこざるをえません。
階級闘争の歴史は、自由と民主主義、つまり普遍的かつ本質的人間的価値の拡大の歴史であり、資本主義社会における階級闘争をつうじて、類本質を顕現したヒューマニズム豊かな人間が階級として形成され、この階級としての人間集団の手によって人間解放を実現する社会主義・共産主義の社会が準備されていくことになります。階級闘争が歴史をつくるとは、人民のたたかいが社会発展の原動力であると同時に、人民のたたかいそのものが人間を類本質の顕現する真にあるべき人間に改革し、未来社会の担い手集団を生みだしていくことを意味しているのです。
マルクスは「フランスにおける内乱」のなかで、階級闘争の産物であるパリ・コミューンがどんなに素晴らしい人間群像を生みだしたかを、感動的に語っています。
「じつにすばらしかったのは、コミューンがパリでなしとげた変化である! 第二帝政のみだらなパリは、もはや跡かたもなかった。……もはや死体公示所に一つの死体もなく、夜盗もなく、窃盗もほとんどなくなった。じじつ、一八四八年二月事件(二月革命――高村)以来はじめて、パリの街々は安全になった。しかも、どんな種類の警察もないのにそうなったのである。……(遊女たち)に代わって、古代の婦人のように雄々しく、けだかく、献身的な、真のパリの婦人がふたたび表面に姿をあらわした」(全集⑰三二五~三二六ページ)。
人間解放という偉大な事業をめざす階級闘争は、そのたたかいをつうじて人民一人ひとりの意識を改革し、本来の人間性、つまり人間の類本質を取り戻すことによって真にヒューマニズム豊かな偉大な人間群像をつくり出すことを、これまでの歴史が証明しているのです。また戦後最悪の大震災と原発事故(二〇一一年三月)のもとで、日本共産党が「国民の苦難軽減のために献身する」という立党の精神を体現して被災者救援の先頭に立ち、温かい社会的連帯を求める大きな広がりを生みだしているのも、階級闘争に参加する人間集団がいかに真のヒューマニズムの立場にたっているかの一つの現れということができるでしょう。
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