『21世紀の科学的社会主義を考える』より
第六講 資本主義社会の人間疎外
一、資本主義社会の搾取の特徴
ブルジョア社会の二義性
第四講で、人間には抽象的な人間の本質が存在するのか、それとも現実的な人間は「社会的諸関係の総和」にすぎないのか、の議論があることを紹介し、真理は「あれか、これか」という形式論理学にあるのではなく、両者の統一という弁証法にあることをお話ししました。すなわち、人間もすべての事物と同様に、人間としての本質(類本質)をもつと同時に、具体的な存在としては「社会的な諸関係の総和」として現象するのです。
言いかえると、人間の類本質を疎外する階級社会にあっては「社会的諸関係の総和」 としての具体的人間は、その内面に人間の類本質をもちつつも、現象的に疎外された類本質という仮象としてあらわれることになります。この矛盾が階級闘争を生みだし、階級社会における具体的人間としての搾取され、支配される階級は、階級闘争をつうじて疎外された類本質を回復し、類本質をより発展したものに顕在化させようとするのです。
人間疎外の具体的形態は、人間疎外の土台となる経済的諸関係、つまり生産力と生産関係、とりわけ搾取の諸形態によって規定されることになります。
「彼らがなんであるかは、彼らの生産と、すなわち、彼らがなにを生産するのか、また、彼らがいかに生産するのかと一致する。したがって諸個人がなんであるかは、彼らの生産の物質的諸条件に依存する」(『「新訳」ドイツ・イデオロギー』一八ページ)。
したがって、資本主義のもとでの人間疎外の具体的形態は、資本主義的生産と搾取の諸条件によって規定されることになります。人類のこれまでの階級社会は、大きく奴隷制、封建制、資本主義という三つに区分されます。資本主義的生産の特徴は、搾取者と被搾取者との生産関係が社会的強制にもとづいて形成されるのではなく、当事者双方の自由な意志にもとづく合意による関係として形成されることです。奴隷制社会では、奴隷所有者は自己の所有する奴隷を自由な人格をもたない牛や馬と同然に扱い、奴隷所有者のために働かせました。封建制社会では、封建領主は農奴を強制的に土地に縛りつけて封建領主のために働かせました。しかし資本主義の場合、労働者が資本家のもとで働くのは、資本家に強制されてのことではなく、労働者の自由な意志にもとづき自ら資本家と労働契約を結ぶからにほかなりません。
こういう生産関係の特徴を反映して、搾取の形態についても独特の性格があらわれます。奴隷制の場合、奴隷所有者は奴隷が生産したすべての生産物を自己の所有とするのですから一見して搾取は明白ですし、封建制の場合も、農奴の生産した生産物の半分あるいはそれ以上も封建領主が取りあげるのですから、ここでも搾取は目に見える形にあらわれています。いわば搾取は衆人環視のもとにおける「流通過程」で行われているのです。
これに対して資本主義的搾取は、一見すると対等・平等で、しかも自由な意志にもとづいた労働契約における「生産過程」の内部で生じるところから、目に見える形では存在しません。ここに階級社会としての「ブルジョア社会」の本質的な特徴があるのです。
「ブルジョア」には大きく二つの意味があります。一つは市民という意味であり、もう一つは資本家という意味です。ですから「ブルジョア社会」は、市民社会と資本主義社会という二つの意味で用いられています。この「ブルジョア社会」の二義性のなかに、実は資本主義的搾取の特徴が示されているのです。
市民社会は資本主義社会
都市の市民は、封建制の桎梏から逃れて自由民となり、商業の拡大をつうじて次第に一つの階級、市民階級として歴史的に形成されてきます。
「各都市の市民たちは、中世においては、地方貴族に対抗して命がけの抵抗のために結合せざるをえなかった。商業の拡大、交流諸手段の確立は、個々の都市にたいして、同じ対立者との闘争において同じ諸利害を貫徹していた他の諸都市を知るようにさせた。個々の都市の多数の局地的な市民集団から、ようやく非常にゆっくりと市民階級が成立した。個々の市民の生活諸条件は、現存の諸関係との対立をとおして、また、それによって条件づけられた労働のしかたをとおして、同時に、彼らすべてに共通で各個人から独立した諸条件となった。市民たちは、彼らが封建的な結びつきから身を引き離していたかぎりで、これらの条件をつくりだしていた」(『「新訳」ドイツ・イデオロギー』八三ページ)。
市民階級の「生活諸条件」とは、自由にして平等な身分と、自由にして平等な取引でした。こうした市民階級の要求にこたえて、一七・一八世紀のイギリス、フランスの啓蒙思想家たちは、封建制社会の身分的束縛(身分的不自由)、不平等、不合理を批判し、自由、平等な個人による理性的な結合の社会としての「市民社会」を提唱することになります。
こうした啓蒙思想家(イギリスのジョン・ロック、フランスのルソーなど)に啓発されて、一七世紀のイギリス革命(ピューリタン革命と名誉革命)、一八世紀のフランス革命が勃発し、これらのブルジョア民主主義革命は市民社会を実現する「市民革命」としてとらえられるようになります。
「いまようやく夜が明け、理性の国が出現した。これ以後は、迷信、不正、特権、圧制は、永遠の真理、永遠の正義、自然にもとづく平等、人手に渡すことのできない人権によって、とって代わられるべきだ、とされた」(『空想から科学へ』全集⑲一八七ページ)。
これらの市民革命によって資本主義は発展し、産業革命をつうじてこれまでの商業資本にとって代わる産業資本を中心とする本格的な資本主義が確立されることになります。市民社会は市民社会であることによって資本主義社会となっていったのです。自由、平等は、市民社会を代表する概念として定着することになります。
二、市民社会はなぜ資本主義社会なのか
自由・平等な商品交換から搾取が生まれる
エンゲルスは『空想から科学へ』で先の文章に続けて次のように述べています。
「いまではわれわれは知っている。この理性の国とはブルジョアジーの国の理想化にほかならなかったのだということを。永遠の正義はブルジョア的司法として実現されたということを。平等はけっきょく法のもとでのブルジョア的平等になってしまったということを。最も本質的な人権のひとつと宣言されたもの――それはブルジョア的所有権であったということを」(同)。
ここにいう「ブルジョア」とは「資本家」を、「ブルジョアジーの国」とは「資本主義国家」を意味しています。市民社会実現のためのブルジョア革命は、をあけてみると資本主義国家実現のためのブルジョア革命にすぎなかったのです。なぜブルジョア革命が市民としてのブルジョア社会ではなく、資本家としてのブルジョア社会を生みだしたのかというところに、実は資本主義的搾取の秘密があったのです。
資本主義社会とは、すべてのものが、すなわち労働力までもが商品となる商品生産・交換の社会です。資本主義的生産は、資本と労働力が結合して生産することで富(剰余価値)を生みだしますが、その結合のためには資本は市場で労働力という商品を手に入れなければなりません。「資本は、生産諸手段および生活諸手段の所有者が、みずからの労働力の売り手としての自由な労働者を市場で見いだす場合にのみ成立する」(『資本論』②二九一ページ/一八四ページ)のです。
「自由な労働者」とは「自由な人格として自分の労働力を自分の商品として自由に処分」(同二八九ページ/一八三ページ)しうるという意味でも、「売るべき他の商品をもっておらず、自分の労働力の実現のために必要ないっさいの物から解き放されて」(同)いるという意味でも自由であるという、二重の意味での「自由な労働者」を意味しています。
商品交換は市場でおこなわれます。市場においては、すべての商品所有者が対等・平等な商品所有者として登場し、かつ自己の所有する商品を自己の自由な意志にもとづいて商品交換します。市場を支配する原理は、等価交換の原則です。すべての商品所有者は、対等・平等の関係にありますから、誰もが自己の所有する商品を価値どおりにしか交換しえないのです。その商品の価値は労働によって生みだされ、その商品の「生産に社会的に必要な労働時間」(同①六七ページ/五四ページ)によってその価値量が規定されます。したがって市場を支配する原理は、誰もが商品所有者として自由であり、平等であるという自由・平等の原理です。労働者がもっている労働力という唯一の商品についても、この商品を資本家のもつ貨幣(という商品)と交換するときには、等価交換の原則と自由・平等の原理が働くことに変わりはありません。
封建社会のなかから台頭してきた市民階級は、封建的な身分的制約から解放され、自由・平等な商品交換を実現するために「市民社会」を求めたのです。
しかし資本家は労働力という商品を価値どおりに等価交換によって手に入れ、それを自己の所有する生産諸手段(原材料、道具、機械)と結合することによって、自由・平等の原理をつらぬきながら剰余価値を手に入れ、搾取を実現します。この秘密を明らかにしたのがマルクスの『資本論』でした。
なぜ等価交換をつうじて搾取を実現しうるのかの秘密は、労働力という特別の商品にあります。労働力は、他の商品と異なり、それを使用すること(つまり労働すること)が新たな価値を生みだすのみならず、その使用によって労働力の価値(労働者とその家族の生活費)という自己のもつ価値以上の価値物を生産しうるという「独特な使用価値」(同②三三一ページ/二〇八ページ)をもつ特別の商品なのです。
「労働力はまる一日作用し労働することができるにもかかわらず、労働力の日々の維持(すなわち労働力の価値――高村)は半労働日しか要しないという事情、それゆえ、労働力の一日のあいだの使用が創造する価値がそれ自身の日価値の二倍の大きさであるという事情は、買い手にとっての特殊な幸運ではあるが、決して売り手にたいする不当行為ではないのである」(同)。
商品の等価交換の法則は、労働力という特別な商品の「独特な使用価値」によって、一転して「資本主義的取得法則への転換」(『資本論』④九九三ページ/六〇五ページ)をとげます。
「商品生産および商品流通にもとづく取得の法則または私的所有の法則は、明らかに、それ独自の内的で不可避的な弁証法によって、その直接の対立物に転換する。最初の操作として現われた等価物どおしの交換は、一転して、外観的にのみ交換が行なわれるようになる。……労働力の不断の売買は形式である。内容は、資本家が、絶えず等価なしに取得し、すでに対象化された他人の労働の一部分を、より大きな分量の生きた他人の労働と絶えず繰り返し取り替えるということである」(同一〇〇〇~一〇〇一ページ/六〇九ページ)。
いわば、商品流通にもとづく等価交換という「取得の法則または私的所有の法則」は、労働力という特別の商品の場合にはその「独特な使用価値」によって「その直接の対立物に転換」し、「外観的にのみ」等価交換がおこなわれ、内容的には「資本家が、絶えず等価なしに取得」する不等価交換となるのです。その結果「商品生産の所有諸法則は資本主義的取得の諸法則に転換」(同一〇〇六ページ/六一三ページ)し、自由・平等の市民社会とは資本主義的搾取の資本主義社会にほかならないのであり、市民階級としてのブルジョアジーは、資本家階級としてのブルジョアジーにほかならないことが明らかになるのです。
言いかえると自由・平等の市民社会とは、ブルジョア的な自由・平等の資本主義社会であり、搾取され抑圧された人民にとっては普遍的・本質的「人間的価値」としての自由と民主主義の疎外された社会でしかないのです。
平田清明「市民社会論」批判
これに対して、マルクスは市民社会と資本主義社会を区別していたのに、それを混同してとらえるのは誤りだとする議論があります。『マルクス・エンゲルス全集』(大月書店)の翻訳者の一人でもある平田清明氏の『市民社会と社会主義』(一九六九年、岩波書店)がそれです。
平田氏は、まずマルクスが史的唯物論を定式化した『経済学批判序言』における時代区分である「アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的生産様式」(全集⑬七ページ)とは「直接に階級的な生産様式そのものを指すのではない」(平田前掲書九七ページ)のであって、「商品論の論理次元に視座をおいた世界史の抽象的段階設定」(同)であるというのです。つまり史的唯物論は商品の「生産=および交通様式としての市民社会」(同五七ページ)を「社会の総体把握のための方法概念」(同五六ページ)にすえることによって世界史を「共同体から近代市民社会への移行」(同九八ページ)としてとらえるものであり、マルクスの史的唯物論の定式化も階級的視点からの時代区分(原始共同体、奴隷制、封建制、資本主義という時代区分)ではないというのです。
そのうえで、史的唯物論は第一次社会形成としての市民社会概念から第二次社会形成としての階級概念への転化をとらえたものであるとする独自の見解を展開しています。すなわち史的唯物論は第一次社会形成としての古典古代的共同体から第二次社会形成の奴隷制社会へ、第一次社会形成としてのゲルマン的=封建共同体から第二次社会形成の農奴制社会へ、第一次社会形成としての近代市民社会から第二次社会形成としての資本家社会への自己変転を述べたもの(平田前掲書九八ページ)とするのです。いうまでもなく平田氏の議論の中心をなすのは、近代市民社会から資本家社会への転化の部分であり、『資本論』の「商品生産の所有諸法則は資本主義的取得の諸法則に転換する」という箇所は「市民的所有権の資本家的領有権への転変」(同五三ページ)と読みかえられ、近代市民社会から資本家社会への転変を示す最大の論拠とされています。
こうして平田氏は、マルクスは市民社会と資本主義社会を区別していたのに、後代のマルクス主義者は両者を混同して市民社会の独自の意義を見失い、その結果史的唯物論では「共同体から近代市民社会への移行」という基礎視座が失われることによって、「単純粗野な階級一元論」(同九九ページ)におちいってしまった、と批判をしています。
まず最初に指摘しておきたいことは、マルクスの「社会の総体把握」のカテゴリーは「経済的社会構成体」であって、市民社会ではありません。それは生産力と生産関係という経済的諸関係を土台とし、そのうえに土台によって規定された法、政治、意識の諸形態という上部構造が存在するという構造をもつものとして、法、政治、経済、文化、イデオロギーなど社会のすべての要素を有機的に結合してとらえる概念です。平田氏のいう市民社会は、経済的社会構成体の一要素を取り出したものにすぎませんから、それをもって「社会の総体把握のための方法概念」とすることには無理があるというものです。
次に焦点となっている資本主義社会の問題をとりあげても、近代市民社会が資本主義社会に転化するのではなく、近代市民社会と称されるものの本質が資本主義社会にほかならないのです。いわば、自由・平等な近代市民社会は現象にすぎず、その本質は利潤第一主義の資本主義というのが資本主義社会の特徴をなしているのです。平田氏は、現象と本質の関係としてとらえるべき近代市民社会と資本主義の関係を、第一次社会形成から第二次社会形成への転変としてとらえる誤りをおかしています。
資本主義社会とは、自由・平等の市民社会という現象と利潤第一主義の資本主義という本質をもつ、本質と現象の乖離した社会であり、それをもたらしたのが労働力という独特の商品でした。
一つには労働力が商品となり、二つには生産手段の私的所有が認められ、三つには自由な商品交換が確保されるならば、資本主義的な搾取の自由は保障されるのです。したがって資本主義社会の基本法は、自由、平等、所有を保障するたんなる「市民社会法」(民法)が存在するだけで十分なのであり、特別な「搾取法」を必要としないのです。
「労働力の売買がその枠内で行なわれる流通または商品交換の部面は、実際、天賦人権の真の楽園であった。ここで支配しているのは、自由、平等、所有、およびベンサム(「最大多数の最大幸福」を唱えたイギリスの功利主義者――高村)だけである」(『資本論』②三〇〇ページ/一八九ページ)。
「天賦人権の真の楽園」こそ資本主義的搾取の「真の楽園」であり、したがって「近代国家による人権の承認は、古代国家による奴隷制の承認となんらちがった意味はもたない」(全集②一一八ページ)のです。すなわち「古代国家が奴隷制をその自然的土台としたのとまさにおなじように、近代国家が自然的土台としたのは、市民社会、ならびに市民社会の人間」(同)であり、「近代国家は、そのようなものとしてのみずからのこの自然的土台を普遍的人権のかたちで承認した」(同)のです。ここにいう「近代国家」が、資本主義国家を意味していることはいうまでもありません。
マルクスのいう「アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的生産様式」とは、平田氏のいう市民社会の観点からした時代区分ではなくて、社会構成体としての原始共同体、奴隷制、封建制、資本主義を示すものであり、社会構成体という「社会の総体把握」を「生産様式」という土台によって規定されるととらえているところに史的唯物論の唯物論たるゆえんがあるのです。
マルクスが資本主義を「近代ブルジョア的生産様式」とよんでいるのは、近代ブルジョア社会が「近代」の仮面をかぶった「社会」であるという「ブルジョア」の二面性を指摘したものとして理解すべきものでしょう。ここに資本主義社会における階級闘争の複雑さがあります。労働者は自ら学習しないかぎり、人間の類本質の疎外を感性的には理解できても、それが資本主義的搾取に由来していることを理性的には理解できないのです。そのため労働者は、労学協のような自らの独自の学習組織をもたねばならないのであり、労働者は学習しないと資本主義そのものと持続的・系統的にたたかうことはできません。ですからマルクス、エンゲルスによって結成された労働者階級の最初の政党「共産主義者同盟」が最初に取り組んだ仕事は、「公然たるドイツ人労働者教育協会の設立にあった」(全集⑭四一九ページ)のです。
三、現代日本における人間疎外
新自由主義型国家独占資本主義
現代日本は、新自由主義型国家独占資本主義のもとにあります。自由・平等を求めて出発した資本主義は、弱肉強食の自由競争のもとで一九世紀末には独占資本主義の段階に突入します。生産と消費の矛盾は激しくなり、一九二九年の世界恐慌と第二次世界大戦を機に、独占資本は国家独占資本主義の局面に突入します。それは国家と独占資本とが結合し、軍備増強と大型公共投資によって有効需要を拡大すると同時に、体制維持のため貧困と失業問題という資本主義の矛盾を緩和しようというものであり、一般にケインズ型国家独占資本主義とよばれています。
一九七〇年代までは、これが一定功を奏しますが、次第に不況とインフレの同時進行するスタグフレーションにおちいるとともに国家の財政破綻が顕著になり、一九八〇年代以降新自由主義型国家独占資本主義の局面に入ります。これは市場に任せればすべてうまく行くという市場原理主義にたって、大企業に対する規制や労働者保護法を取り払い、福祉、社会保障の切りすて、大企業の負担軽減、金融自由化を求めることにより、独占資本、とりわけ金融独占資本の搾取と収奪を強化しようとするものでした。
日本の新自由主義型国家独占資本主義は、中曽根内閣の臨調「行革」にはじまり、小泉「構造改革」でほぼ完成され、民主党政権のもとでも継続しています。このもとで、労働者の不安定雇用と限りなき賃金引き下げにより、「ワーキングプア」と「派遣村」という新語が誕生し、中小企業は続々と倒産するなど、国民の生活苦はかつてなく深刻になっています。他方大企業は空前のもうけをむさぼり、日銀の白川総裁を「経営者から『手許金は潤沢だが問題は使う場所がないことだ』と聞く」(二〇一〇年九月八日、衆院財務金融委員会)と言わしめるほどに至っています。
ほんらい経済は発展すればするほど国民の暮らしは良くなるはずのものですが、利潤第一主義の資本主義のもとにあっては、経済が発展すればするほど、ますます少数の者がますます多くの富を蓄積し、ますます多数の者がますます貧困におちいることになるのです。二〇〇五年のOECD(経済開発協力機構)の調査によると、世界第一位の経済力をもつアメリカが相対的貧困率第一位であり、世界第二位の経済力をもつ日本が第二位となっています。
小泉構造改革のブレーンの一人であった中谷巌氏は、二〇〇八年の世界経済危機を受けて、自ら「の書」と称して『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社インターナショナル)と題する著作を発表しました。そのなかで彼は、新自由主義の掲げる市場原理や自由競争は、大衆を搾取するための「ツール」あるいは「隠れ蓑」だったと述懐しています。
その意味では、資本主義という社会構成体は、経済が発展すればするほど貧富の格差を拡大するという矛盾を内包することによって、いずれは破綻し永続することのできない社会構成体ということができるでしょう。とりわけ現代日本の新自由主義型国家独占資本主義はその矛盾を極限にまで拡大し、人間疎外を限界にまで押しすすめています。
まず労働による疎外に関していうと、労働者は労働力を価値どおりに販売することによってもなお搾取されるというマルクスの想定した疎外をはるかに越える労働の疎外を生みだしています。
すなわち本来の労働力の価値は、労働者とその家族の生活費相当額であり、労働力が価値どおりに販売されるならば、男子労働者の賃金で妻と子ども二人、計四人の生活が支えられることになり、こうした条件のもとでも資本家は搾取が可能なのです。
しかし現代日本においては、労働者派遣法の改悪による不安定雇用と失業者の増大により、男子労働者の賃金では家族四人の生活をまかなうどころか、その男子労働者の生活すらまかなえないところから、本来ありえないはずの「ワーキングプア」という概念矛盾の事態が生じているのです。
他方資本家は、労働力を価値どおりに購入しても、マルクスの時代ですら労働力の価値の約二倍のもうけをあげていたのですから、現代日本のように、価値の四分の一以下で労働力が購入されれば、理論的には単純計算でも労働力の価値の八倍以上という空前のもうけをあげることになるのです。
極限状態の人間疎外
こうして現代日本の労働者は、「自由、平等、所有」という天賦の人権すら奪われた存在になってしまっています。労働力を自由に売買しうるどころか、売ろうに売れない不自由に苦しめられ、労働力という商品の所有者として資本家と対等、平等な等価交換を実現するどころか、労働力商品を価値の四分の一以下で売らざるをえない不等価交換を強いられています。そのため一方では労働者は低賃金と不安定雇用のもとで「過労死」にいたるまで働かされ、他方で買い手のつかない労働力はもはや商品ですらなく、労働者は唯一の商品すら所有しえない存在となっています。労働の疎外は極限にまで達しているといわざるをえません。
マルクスは、人間が労働から疎外されることの「直接の帰結は、人間の人間からの疎外」(全集㊵四三八ページ)であると述べましたが、「自由な意識」の疎外が極限状態に達していることを反映して「共同社会性」からの疎外も同様の状態にあります。競争原理が支配し、人間がモノのように使い捨てられるなかで、人間を社会と結合する四つの場である家族、学校、職場、地域という社会的共同体のすべてが破壊され、一人ひとりがバラバラにされてしまっています。
「行旅死亡人」という言葉があります。いわゆる「行き倒れ」であり、旅先で死亡して身元不明のため引き取り手のいない人を意味しています。逆にいえば、「行旅死亡人」とは、身元さえ分かれば親族か知人の誰かが引き取り手となってくれる社会を前提にした言葉です。
しかし現代の「行旅死亡人」とは、身元は判明していても引き取り手のない無縁死の人を意味しています。十三年間も続く年間三万人を超える自殺に加えて、無縁死三万二千人のNHKテレビ報道(二〇一〇年一月)は衝撃を与えました。しかも無縁死予備軍といわれる単身世帯は、いまや夫婦と子供一人または二人の「標準世帯」に迫るほど急増しており、二十年後には全世帯の四〇パーセントに達すると予想されています。現代日本は、いまや「共同社会性」から完全に疎外された「無縁社会」に大きく一歩足を踏み出しているのです。朝日新聞も、二〇一〇年一二月二六日から「孤族の国」の連載を始めました。
「人間的価値」の疎外もまた同様です。現代日本においては、人間的価値にとってかわって貨幣的価値が一切の価値基準となっているというだけではありません。反面からすると人間的価値に関する一切の権利が自由権、社会権として憲法上は保障されていながらも、実際にはほとんどの人間がその人間らしく生きる権利のすべてを奪われ、人間の尊厳を事もなげにされているのです。
芥川賞作家の辺見庸氏は『しのびよる破局――生体の悲鳴が聞こえるか』(大月書店)のなかで、世の中は「うまくコーティングされ、塗装され、やさしげなことばで包まれている」(同六四ページ)けれども、「実態はかつてのタコ部屋時代よりもひどい」(同)のであり、労働者を監禁同然にして働かせ、クビを切った途端に追いだし、貧困ビジネスが活気づくなど「基本的に人を人としてあつかっていない」(同)と告発しています。
以上、現代日本における人間の三つの類本質の疎外をみてきました。どれをとっても類本質の疎外は極限状態にまで達しており、だからこそ、現代日本は人間解放の旗印が高く掲げられるべき時代なのです。
辺見氏は、「いまの社会は、人間の生体に合っていない」(同三〇ページ)社会であり、「鬼気迫るほどに、足がすくむほどに怖い」(同一二九ページ)時代だから、生体が悲鳴をあげており、その一つの現れが秋葉原の無差別殺傷事件だったのではないかと指摘しています。その犯人は、典型的な派遣労働者でした。彼は「翌月いっぱいで寮をでていかなければならなかったし、給料から、寮費、冷蔵庫代、テレビ使用料まで差っ引かれて、ろくに貯金ができるような状態ではなかった」(同四四ページ)のであり、仕事を失うことは直ちに路上生活者に転落することを意味していたのです。人間の三つの類本質を完全に疎外されたもとで、彼の生体は悲鳴をあげ、絶望的事件に突っ走っていったというのです。
辺見氏の指摘は、人間疎外の言葉こそ使用してはいないものの、現代日本の人間疎外を見事にえぐり出したものということができます。生体が悲鳴をあげているのは、秋葉原事件の犯人だけではありません。現代日本の圧倒的多数の国民の声です。だからこそ私たちは、辺見氏のいうように、「人間とはなにか。人間とはどうあるべきなのか」(同五一ページ)という人間の真にあるべき姿を問い続け、人間解放への道を示し続けなければならないのです。
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