『21世紀の科学的社会主義を考える』より

 

 

第八講 科学的社会主義の哲学 ①
     ──弁証法的唯物論

 

一、弁証法的唯物論は真理認識の思惟法則

哲学と経験諸科学の同一と区別

 今回から本講座の二つめのテーマ「科学的社会主義の哲学」に入ります。科学的社会主義の哲学は、弁証法的唯物論だといわれています。なぜ弁証法的唯物論なのかと問われれば、それが唯一の真理を認識するための思惟法則、または思考の方法ないし形式であるからと答えることができます。
 真理認識の唯一の方法であるということは、この方法を選択する以外には真理に接近することはできないという意味であって、弁証法的唯物論を活用すれば一挙に究極的真理に到達しうるという意味ではありません。幾重もの弁証法を駆使することによってのみ、相対的真理から絶対的真理へと無限に前進しうるという意味なのです。
 「われわれの知識が客観的・絶対的真理に近づく限度は、歴史的に条件づけられている。しかし、この真理の存在は無条件的であり、われわれがそれに近づきつつあることは無条件的である」(『唯物論と経験批判論』レーニン全集⑭一五八ページ)。
 この「客観的・絶対的真理」に接近する方法が弁証法的唯物論なのです。その根拠をこれから四回に分けて考察していきたいと思います。
 哲学(フィロソフィー)という用語は、ギリシア語のフィロソフィアからきています。フィロとは「愛する」、ソフィアとは「知」を意味していますので、フィロソフィアとは「知を愛する」こと、言いかえると学問一般を示す用語でした。哲学は紀元前五世紀の古代ギリシアに始まり、今日まで二千五百年以上の歴史をもっていますが、一九世紀前半に至るまで世界全体の真理を科学的かつ体系的にとらえようとする学問として、経験諸科学一般と重なり合う性格をもっていました。
 一九世紀前半の哲学者ヘーゲルは、「哲学という名称は、経験的個別性の大洋のうちにある確かな基準および普遍的なものの認識、一見無秩序ともみえる無数の偶然事のうちにある必然的なものや法則の認識に従事(する)……、あらゆる知識に与えられるようになった」(『小論理学』㊤七一ページ)として、当時ニュートン物理学は「自然哲学」(同七二ページ)とよばれ、寒暖計や晴雨計は「哲学的器械」(同)とよばれていたことを指摘しています。
 一八三四年、英国科学振興学会は、自然を対象とする研究者を「自然哲学者」とよぶことは実情に合わなくなったとして、「物質世界(マテリアル・ワールド)に関する知識の研究者」の意味で「科学者(サイエンティスト)」という新造語をつくり哲学からの「科学」の独立宣言を発しました。
 一八三一年に死亡したヘーゲルは、哲学と科学の分離を知りませんでしたので、彼の哲学大系は、自然科学、社会科学の対象をも包摂するものとなっており、世界全体の真理を認識する思惟法則としての「論理学」、自然の真理をとらえる「自然哲学」、人間および社会の真理をとらえる「精神哲学」という構成になっています。
 哲学が経験諸科学と重なり合っていたという事実は重要な意味をもっています。というのも科学の対象となるのは客観的事実であり、科学的な真理の探究は、存在を第一次的なものととらえる唯物論の立場にたたざるをえないからです。したがって経験諸科学と歩みをともにしてきた主要な哲学も基本的に諸科学と同じ唯物論の立場にたってきたということができますし、ヘーゲルもまたその例外ではありません。
 しかし経験諸科学の発展により、世界全体を構成する自然、社会、人間のうち、自然の真理をとらえる学問は「自然科学」、社会の真理をとらえる学問は「社会科学」、人間の真理をとらえる学問は「人文科学」として、それぞれ哲学から独立した学問となっていきます。
 こうして哲学と経験諸科学とは袂を分かつようになり、「これまでのいっさいの哲学のなかでなお独立に存続するのは、思考とその諸法則とにかんする学問――形式論理学と弁証法である。そのほかのものはみな、自然と歴史とにかんする実証科学に解消してしまう」(エンゲルス『反デューリング論』全集⑳二四~二五ページ)のです。
 エンゲルスは明言してはいないものの、ここにいう「形式論理学と弁証法」も、いうまでもなく唯物論的な「形式論理学」と唯物論的な「弁証法」を意味することになるでしょう。

唯物論と観念論

 世界全体は大きく、自然、社会、人間の三つに区別することができます。自然を意味するギリシア語のピュシスは、人工的でなく存在するものを指し、自然物と人工物を対立する概念としてとらえました。その後人工物は、社会という概念におきかえられ、ここに自然と社会とは対立した概念としてとらえられます。しかし社会や自然は、人工的か人工的でないかの区別はありますが、いずれも「存在するもの」であるのに対し、人間は意識をもって「存在するもの」に働きかけ、それを作りかえるところから、もっと大きくとらえると人間は社会や自然に対立するものとしてとらえることができます。
 そこから世界をより根本的には人間の意識と存在、言いかえると主観と客観に二分する考えが生まれてきます。近代哲学の祖、デカルトは、神から出発する神学的哲学に対し、人間から出発する哲学を対置しました。彼は哲学の第一原理を「われ思う、ゆえにわれあり」にあるとしました。すべてを疑った後になお残るものは、一つには「われ」の存在であり、二つには「思う」という思考の働きであるとして、「われ」という物体的実体と、「思う」という思惟実体の二つをもって世界の根源とする二元論の立場を確立しました。その後、物体的実体は客観とよばれ、思惟実体は主観とよばれることになり、ここに世界の根本を客観と主観としてとらえる二元論が定着することになります。客観とは、存在、物質、自然(社会)であり、主観とは、人間の思考、意識、精神を意味しています。
 こうしてデカルトの二元論以来、世界の根源的なものは、客観か主観か、存在か思考か、物質か意識か、自然か精神かを論じることが、哲学の根本問題となったのです。客観、存在、物質、自然を根源的なもの、第一次的なものと考える陣営は唯物論とよばれ、主観、思考、意識、精神を根源的なもの、第一次的なものと考える陣営は観念論とよばれています。観念論には、神のような超自然的な客観的精神の存在をみとめ、それが物質的世界を創造し支配しているとする客観的観念論と、主観的意識、精神が世界を成立させるとする主観的観念論とがあります。
 自然科学の発展により、自然のすべてが神の存在なくして説明されるようになり、また人間の存在以前に宇宙や地球の存在していたことが解明されることで、非科学的な観念論は次第に駆逐されつつあり、唯物論が勝利しつつあります。
 「われわれは、現実の世界――自然と歴史――を、先入見となっている観念論的幻想なしにそれに近づくどの人間にも現われるままの姿で、把握しようと決心したのである。……そして唯物論とは、これ以上の意味をまったくもっていない」(エンゲルス『フォイエルバッハ論』全集㉑二九七ページ)。
 しかし、科学の発展した現代において観念論が全く存在しないかといえば、そうではありませんし、部分的には観念論の方が支配的となっている分野もあります。それにはいくつかの理由があります。一つには、科学的に未解明であったり、また例え解明されていてもそれが広く知られていないところから、その解決を観念論的根拠に求めることがあります。資本主義的搾取と貧困からの脱却を宗教に求めるのはその一例です。二つには、真理の認識は事物の抽象化をつうじて実現されますが、抽象化とは客観的事実から遠ざかることを意味していますから、それは同時に観念論に道をひらくことにもなるのです。「思惟は、具体的なものから抽象的なものへ上昇しながら――もしその思惟が正しいものであれば……真理から遠ざかるのでなく、真理へ近づくのである」(『哲学ノート』レーニン全集㊳一四一ページ)。逆にいえば抽象化が正しくなければ真理から遠ざかることによって観念論に接近することになります。三つには、人間のもつ意識の創造性を一面的に肥大化することによって、意識の創造性も客観的事物を反映することのうえにたってはじめて生まれてくることを見失い、精神・意識を第一次的なものと考える観念論につながっていくのです。四つには、これが最大の理由といってもいいでしょうが、現実への関心を失わせ、社会変革に意識が向かわないようにするために、支配階級の側が意識的に観念論的イデオロギーを持ち込むことです。人間は心がけ次第で、どんなに貧乏であろうが、生活苦があろうが幸せになれるといった観念論的生きがい論や、企業や政治の責任に頬かむりして、貧乏や生活苦をすべて個人の責任にしてしまう自己責任論は、その一例といえるでしょう。
 このように観念論がはびこるにはそれだけの根拠があるのですから、私たちは不断に観念論とのたたかいを心がけなければならないのです。

真理とは何か

 次に、科学的な立場である唯物論にたって事物を認識するとき、真理とは何かの問題が生じます。
 この問題を考えるにあたっては、まず認識とは何かが検討されなければなりません。一般に生物は自然との代謝をつうじて生命を維持・発展させます。生物のなかにあって動物は、自ら食物となる物を自然のなかから選択し、体内に取り入れることで代謝をおこないます。そこから、動物には自然を反映する機能が必要とされることになります。原生動物としてのアメーバーですら、虚足を出して対象物を取り囲み、食物だとみなせば体内に取り込み、そうでなければそのまま放出するという反映機能をもっています。この動物の反映機能はやがて発展して脊椎という反映機関として独立し、さらには脳となります。人間の脳は動物のもつ脳を最高度に発達させたものであり、脳の機能として意識、思考、認識が生まれます。
 人間の思考は、存在するものを意識のうえに反映することから出発しながらも、その抽象作用により存在から相対的に独立し、区別されることになり、ついには創造的機能をもつに至ります。
 そこから、人間の思考と存在の関係が問題になり、存在に一致する思考、客観に一致する主観が唯物論的にみた真理とされるのです。したがって真理とは、「思考と存在との同一性の問題」(全集㉑二八〇ページ)、とか「主観と客観との同一性の問題」であるといわれています。真理はこのように客観に一致する「認識」であるところから、客観的真理とよばれています。真理は客観的真理であるがゆえに、科学的に検証することのできる科学的な認識なのです。
 これに対して観念論の真理は、例えば神の言葉(聖書)に一致する認識をもって真理としたり、自分が真理だと確信するものが真理であるとか、みんなが正しいと言っているものが真理(「一般の一致」とよばれる)であるとするなど、明確な基準をもちえず、したがって科学的に検証しえない非科学的な非真理といわなければなりません。
 しかし唯物論の立場にたって認識を客観の反映としてとらえるとしても、真理を認めない立場があり、それは不可知論とよばれています。例えばカントは、意識から独立した客観的実在は認めるものの、その本当の姿は認識できないと考えました。ヒュームに至っては、客観的実在はあるのかどうかも知りえないとしました。エンゲルスは不可知論への「最も適切な反駁は、実践、すなわち実験と産業とである」(同)としました。実践とは、人間が一定の認識を目的としてもち、その目的を遂行しようとして自然に働きかけることを意味しています。もしその認識が正しければ、目的を達成することができますし、間違っていれば失敗に終わることで、自分の認識が真理であったか否かを検証しうるのです。そこからエンゲルスは不可知論を「唯物論をかげではうけいれて世間のまえでは否認する、はにかみやのやり方」(全集㉑二八一ページ)と評しました。

事実の真理と当為の真理

 このように真理とは客観に一致する主観、つまり「認識」の問題ですが、重要なことは「客観に一致する認識」としての真理には二種類あるということです。一つは世界を認識の対象ととらえ、「世界がどのようにあるか」という事実の真理であり、これは客観世界を認識のうえに正しく反映させた反映論的真理ということができます。もう一つは世界を変革の対象ととらえ、「世界はどうあるべきか」という当為の真理であり、これは世界を真にあるべき姿に変革する前提となる真理であり、「真理は必ず勝利する」という場合の真理がそれです。当為の真理は、事実の真理の上にたって認識されるところから、これもまた広い意味で「客観に一致する認識」ということができますし、他方で当為の真理は実践をつうじて客観を変革し認識に一致する客観を実現するという意味でも認識と客観の一致ということができるのです。
 したがって真理には、事実の真理と当為の真理の二種類があることになります。当為の真理は自然や社会を変革する力をもつ人間に固有の真理ということができます。第七講で学んだルソーの「一般意志」は、「人民の真にあるべき意志」を意味していますから、当為の真理ということができます。
 「世界がどのようにあるか」という事実の真理が存在することは不可知論を除いてほぼ異論のないところといえますが、「世界がどのようにあるべきか」という当為の真理については、真理の存在を否定する見解もあります。したがって真理を論じるにあたっては、この二つの真理を認めるのかどうかが検討されなければなりませんし、また当為の真理を認める場合には事実の真理と当為の真理との関係をどう考えるのかの問題が生じてきます。
 二千五百年におよぶ哲学の歴史の総括から生まれた弁証法的唯物論は、この問題への回答を含むものであり、二つの真理を肯定すると同時に、両者は統一されなければならないという一元論的真理観にたつものとなっています。

 

二、弁証法的唯物論は事実の真理と当為の真理を統一する

弁証法的唯物論はまず事実の真理を認識する

 以上唯物論でなければ真理を認識しえないことを語ってきましたが、それではなぜ唯物論にとどまらず弁証法的唯物論が真理認識の唯一の思惟法則なのかを検討してみましょう。
 最初に指摘しておきたいことは、弁証法的唯物論は、弁証法と唯物論という二つの思惟法則が並置されたものではないということです。教科書によると、科学的社会主義の哲学として、①唯物論、②弁証法、③史的唯物論として記述されることがありますが、これは正しくありません。科学的社会主義の哲学とは、弁証法的唯物論という一つの哲学、一つの真理認識の思惟法則です。この弁証法的唯物論を人間の社会に適用したものが史的唯物論(唯物史観)です。史的唯物論は弁証法的唯物論を人間社会に具体化して適用したものですから、そこにおいてどのように弁証法的唯物論が具体化されているのかが示されると同時に、史的唯物論をつうじて弁証法的唯物論の真理性が証明されなければなりません。
 まず弁証法的唯物論は、客観世界がどうあるかの真理(事実の真理)を認識する方法です。なぜ弁証法的唯物論が真理認識の唯一の方法かといえば、世界の客観的事物を唯物論的に考察するならば、すべての事物は「対立物の統一」という弁証法の形式をもっているからです。弁証法的唯物論とは、まず客観的事物をその事物に即して唯物論的に考察すると、真理は対立物の統一にあるとする認識論なのです。対立物の統一とは、すべての事物は対立していると同時に、対立する二つのものは分離されたまま固定されているのではなく、相互に媒介しあう関係にあることを意味しています。なぜ対立物の統一が真理なのかは、第一〇講で検討します。
 一般に弁証法とは、連関と発展に関する科学的認識だといわれることがありますが、それはエンゲルス著『空想から科学へ』の次の文章をその根拠としています。
 「われわれが自然、人間の歴史、ないしはわれわれ自身の精神活動を考察する場合に、まず第一にわれわれの前に現われるのは、もろもろの連関と交互作用が限りなくからみ合った姿である。このからみ合いのなかではどんなものも、もとのままのものではなく、もとのままのところ、もとのままの状態にとどまってはいないで、すべてのものが運動し、変化し、生成し、消滅している」(全集⑲一九九ページ)。
 このエンゲルスの記述は、形式論理学がすべての事物を自立し、かつ静止・固定したものとしてとらえる一面性をもっていることを批判する論理として展開しているところから、弁証法を形式論理学に対立する連関と運動の法則としてとらえているのですが、しかしそれは弁証法のもつ統体性を否定し、弁証法も形式論理学と同様一面的なものとして描き出すという問題を含んでいます。
 弁証法は、けっして形式論理学に対立する論理ではなく、形式論理学をそのうちに含みながらも、その一面性を克服し、全面的に真理を認識する方法なのです。すなわち、唯物論的に対象となる一つの事物を考察すると、すべての事物は一つの事物として自立・独立して存在すると同時に他の事物との連関・連鎖のうちにあり、また一つの事物として固定し、静止していると同時に運動し、変化しています。すなわちすべての事実の真理は、自立と連関の統一、静止と運動の統一という「対立物の統一」のうちにあるのです。
 ヘーゲルは「すべてのものは対立している」(『小論理学』下三三ページ)という有名な命題を明らかにしました。しかし当時の自然科学としては、磁気がプラスとマイナスという対立物の統一であることが明らかにされた程度の知見のもとで「すべてのものは対立している」ととらえることは、まだヘーゲルの直観的天才に依存する見解でしかありませんでした。
 しかし量子論の発展により、二一世紀の弁証法は、それを宇宙と物質の歴史によって裏付けることが可能となっています。
 私たちの宇宙は、粒子と反粒子という対立物が一対として生成したり(対生成)、一対として消滅する(対消滅)という対立物の統一をくり返している真空の場から始まります。真空の場は真空という意味では何もない無の場であると同時に、粒子と反粒子の生成・消滅という超高温、高エネルギーをもった有の場という有と無の統一(対立物の統一)の場なのです。
 真空の場のゆらぎによってエネルギーが噴出しビッグバンとなって私たちの宇宙が始まります。宇宙は急速な膨張による温度低下にともなって、重力、強い力、電磁力、弱い力とよばれる四つの力が生まれ、この四つの力にもとづいて、核子(陽子、中性子)、電子が誕生し、さらに温度が下がると飛び回っていた陽子と中性子が強い力によって結合し(陽子と中性子の対立物の統一)て原子核となり、水素、ヘリウムなどの軽い元素の原子核が誕生します。さらに宇宙は膨張を続けることにより温度は低下し続け、高温のため飛び回っていた電子が電磁力によってこれらの原子核と結合し(電子と原子核の対立物の統一)、中性原子ガスの宇宙となります。いわゆる「宇宙の晴れ上がり」とよばれる状態です。その後の宇宙は七割の水素と三割のヘリウムからなっていますが、重力によって結合して恒星となり、恒星内部でのゆっくりした核融合反応(対立物の統一)によって炭素、酸素から鉄に至る重い元素を蓄積していきます。やがて鉄だけになった恒星は、自らの重力によって収縮することで高エネルギー化し、超新星として爆発します。その爆発のエネルギーによる核融合で、鉄より重い、現存する諸元素が誕生することになり、これらの諸物質からなる地球も誕生し、百三十七億年の歴史を経て現在の私たちの宇宙となっているのです。
 この事実は、すべての物質は自立と連関の統一のうちにあり、またすべての物質は静止と運動の統一にあることを証明するものとなっています。すなわち粒子と反粒子の対生成から私たちの宇宙に現存するすべての物質が生じたのですから、すべての物質は、一つの物質として自立した存在でありながら他の物質との連関のうちにあり、地球も地球として自立しながらも、太陽との連関のうちにあります。また私たちの宇宙は百三十七億年の歴史をつうじて形成されてきましたから、すべての物質は、一つの物質として静止した存在でありながらも運動、変化し、地球も地球として静止した存在でありながら運動しているのです。
 私たちの宇宙のすべての物質は、こうした宇宙形成の歴史をふまえて対立物の統一のうちにあるということを「自然の対称性」とよんでいます。この事実は、世界がどうあるかの真理は対立物の統一にあるとする弁証法的唯物論が真理認識の唯一の方法であることを証明するものにほかなりません。
 しかし二〇〇三年、私たちの宇宙の二一パーセントが暗黒物質、七五パーセントが暗黒エネルギーであり、したがって宇宙の九六パーセントが正体不明であるという驚くべき事実が明らかになりました。いまその正体探しに世界的な競争がおこなわれていますが、その正体が明らかになれば、宇宙が物質と反物質の統一であることも含めて、自然の弁証法を検証することになるであろうことは想像に難くないところです。

弁証法的唯物論は客観世界の当為の真理を認識する

 エンゲルスの名著『空想から科学へ』の正式な標題は『空想から科学への社会主義の発展』です。主題とされているのは「社会主義」という当為の真理の問題です。それは資本主義という「世界はどうあるか」という事実の真理を前提として、社会主義という「世界はどうあるべきか」という当為の真理を問題とし、「空想的社会主義」の非真理性と「科学的社会主義」の真理性を論じたものです。
 人間の人間たるゆえんは、与えられた世界のなかで受動的に生活するのみならず、与えられた世界をより良いものにつくり変える力をもっているところにあります。いわば人間はその自由な意志により「世界はどうあるべきか」という世界の当為を考え、その真理を探究することをつうじて、自然や社会さらには人間自身をより良いものにつくり変えてきたのです。
 その意味で人間は事実の真理のみならず、当為の真理を探究してきたのです。当為の真理は大きく客観世界(自然、社会)の当為と人間に関する当為の問題に分けて考えることができます。
 まず客観世界の当為、すなわち「客観世界はどうあるべきか」の問題は「どんな客観世界に価値を見いだすのか」という価値の問題であり、その真理は、「理想」とか「理念」とよばれています。理想、理念は「客観世界はどうあるか」という事実の真理をとらえることによって「客観世界はどうあるべきか」という当為の真理を導き出すという唯物論的性格にその真理性の根拠があります。これに対し、空想とは、「客観世界がどうあるか」の真理と無関係に「客観世界はどうあるべきか」を論じるという観念論的性格にその非真理性があるのです。
 先に学んだように、すべての事物は運動、変化、発展します。運動には、他の事物との相互媒介による他の事物が原因となる運動もあれば、自己運動もあります。他の事物が原因となる運動のみしか認めないことになれば、最後は究極の原因として「神の一撃」をもちだすしかないことになってしまいます。
 媒介された運動か自己運動かは別として、その事物の運動という事実の真理を認識することをつうじて、その事物の運動法則にもとづく未来の真にあるべき姿という当為の真理をとらえることができるのであって、それが空想と区別された理想、理念となります。
 人間は「客観世界はどうあるか」という事実の真理を認識し、その認識を媒介して「客観世界はどうあるべきか」という当為の真理を認識し、それを実践を媒介に客観化し、世界を真にあるべき姿に変革するのです。つまりここには「理想と現実の統一」という対立物の統一が存在するのであり、この意味で「客観世界がどうあるべきか」の問題もまた弁証法によってその真理がとらえられることになります。こうして「客観世界がどうあるべきか」の認識の問題で存在から思考へと運動し、「客観世界がどうあるべきか」の実践の問題で思考から存在への運動という方向を異にする二つの運動をつうじて「理想と現実の統一」が実現されることになります。
 「真理は必ず勝利する」との格言がありますが、その場合の真理は、「世界はどうあるべきか」という当為の真理であり、それは真理であるからこそ真理のもつ力によってやがて大多数の人々の共通の認識となり、世界を真にあるべき姿に変革し、勝利できることを意味しています。第七講で学んだように、科学的社会主義の政党は当為の真理を探究し、それを人民に提示することにより、その真理のもつ力によって人民の導き手となるのです。

ウェーバーの二元論批判

 第五講でもお話ししたように、マックス・ウェーバーは事実と価値、存在と当為を峻別する二元論の立場にたちました。彼は「世界がどうあるか」の事実認識については真理はあるし、科学の対象になるけれども、「世界がどうあるべきか」あるいは「人間としてどう生きるべきか」の問題は、何をもって価値あるものとするかの価値判断の問題であり、いかなる価値を選択するかは人によって異なる価値観の問題にすぎず、価値には真理がないから科学の対象にはなりえないと主張しました。
 彼の二元論は一見すると科学的装いをもちながらも、その意図するところは、一九世紀後半から二〇世紀にかけて全世界に大きく広がった科学的社会主義の理論を批判するところにありました。彼は弁証法的唯物論を、存在と価値を混同する一元論の立場にたつものであって科学ではないと批判しました。
 ウェーバーの二元論には、大きく二つの問題があります。一つにはウェーバー的二元論は変革の立場ではなく、解釈の立場にたっているという問題です。それは結局のところ人間の存在を動物のレベルでとらえて、人間は与えられた環境のもとで生きていくだけでいい、社会科学は社会変革に目をむけてはならないとする資本家階級の観念論的イデオロギーにほかなりません。人間は、自然はもとより社会をも変革する存在だからこそ、価値や当為の問題をとりあげ、そこにも真理があるからこそそれを求め、価値や当為の真理を媒介として客観世界をより良いものに変革してきたのであり、けっしてウェーバー的二元論に安住することのできない存在です。そもそも政治の世界はすべて当為の世界であり、あるべき政治を問題とします。もしそこに真理がないことになれば、自・公・民も日本共産党も同列に論じられることになり、政治革新を求める科学的社会主義の政党の存在理由もなくなってしまいます。
 もう一つは、人間はその変革の立場から「世界はどうあるか」を知ることによって「世界はどうあるべきか」を求めるのであって、両者はけっして切りはなすことのできない関係のうちにあるのです。ウェーバーの見解を哲学的にみるならば、存在と当為、事実と価値という対立する二つのものを絶対的に区別する「あれか、これか」の形式論理学の立場にたっているのであって、それは一面的なドグマティズムにすぎません。真理は存在と当為、事実と価値という対立物の統一のうちにあるのです。
 なお一言すれば、価値や当為の真理を認めることは価値観の多様性を否定することではありません。それは事実や存在の真理を認めることが事実認識の多様性を否定するものではないのと同様です。つまり価値判断の問題でも事実認識の問題でも、多様な判断や多様な認識が存在しうるのは当然のことであり、それを肯定することは第四講で学んだ第二段階の「形式的自由」に属するものです。しかしその多様な判断や認識のいずれもが等しい価値をもつものではなく、価値判断、事実認識のいずれの問題についても、多様な判断、多様な認識のうちに一つの真理が存在するのです。価値判断における真理が当為の真理であり、事実認識における真理が事実の真理であり、それらの真理にこそ最高の価値があるのです。
 必然性との関係における自由は、次第に発展する四つの段階の自由として理解されるべきものですが、事実の真理は、第三段階の「必然的自由」であるのに対し、当為の真理は第四段階の「概念的自由」であり、この「概念的自由」という最高の自由に到達するところに、自然や社会をより良いものに変革する人間としての本質的特徴があるのです。

弁証法的唯物論は客観世界の当為の真理をとらえ実現する革命の哲学

 マルクスは『資本論』第二版への「あとがき」のなかで、弁証法は「その本質上批判的であり革命的である」(『資本論』①二九ページ/二八ページ)と述べています。弁証法的唯物論は、何よりも人間の主体的実践をつうじて客観世界をより良いものへと発展させる革命の哲学なのです。
 マルクスの墓碑には「哲学者たちは、世界をさまざまに解釈しただけである。肝要なのは、世界を変えることである」(『「新訳」ドイツ・イデオロギー』一一三ページ)との銘が刻まれています。しかし変革の立場はまだ革命の立場ではありません。というのも変革には進歩的、発展的変革もあれば、反動的、後退的変革もあるからです。さまざまな方向への変革のうち、「真にあるべき姿」という当為の真理への変革のみが社会を合法則的により良いものに発展させる革命の立場となるのです。
 この「真にあるべき姿」という当為の真理を「概念」というカテゴリーとしてとらえたのがヘーゲルであり、したがってヘーゲル哲学の本質は革命の哲学にあります。ヘーゲルは厳しい検閲のもとで弾圧を免れるために自己の革命的立場を隠れ蓑でおおい、「概念」の意義をられないよう偽装しましたので、マルクス、エンゲルスもそれを見抜くことができませんでした。
 これに対しレーニンは、ヘーゲル「論理学」を詳細に検討し、「概念」の意義をほぼ正確に理解し、次のように述べています。
 「客観的な世界像をつくりあげた人間の活動は、……この現実性から仮象、外面性および空無性という特質を取りさり、この現実性を即自かつ対自的に有るもの(=客観的に真なるもの)にする」(『哲学ノート』レーニン全集㊳一八七ページ)。 
 ヘーゲルのいう「概念」とは、客観的事物のうちにある矛盾を解決することによってえられる「真にあるべき姿」を認識(主観)のうちにとらえたものを意味しています。この概念という当為の真理を目的にかかげた実践によって、社会を「客観的に真なるもの」に変革することができるのであり、革命とは当為の真理の実現(客観化)にほかなりません。これまで科学的社会主義の哲学には「概念」のカテゴリーが存在しなかったのですが、ヘーゲルに学んでこのカテゴリーを補充することで革命の哲学を完成させなければなりません。

弁証法的唯物論は人間に関する当為の真理を認識する

 次に弁証法的唯物論は自然や社会という客観世界の当為の真理を認識するにとどまらず、人間に関する当為の真理をも認識します。
 ソクラテスは「大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、よく生きるということなのだ」(プラトン全集①一三三ページ)として、哲学の課題の一つが、人間としてより善く生きる当為の真理の探究にあることを明らかにしました。
 客観世界の当為の真理が「理想」「理念」の問題であるのに対し、人間自身の当為の真理は「人間としてどう生きるべきか」「人間としてどう生きることが価値ある生き方なのか」という「生き方」の真理の問題となってきます。ここでは「人間としてどう生きているのか」という事実の真理をつうじて「人間としてどう生きるべきか」「どう生きることに価値があるのか」という当為の真理が問われることになります。客観世界の当為の真理が「理想と現実の統一」という対立物の統一であったのに対し、人間に関する当為の真理は、生き方に関する「存在と当為の統一」という対立物の統一の問題となります。そこに人間の類本質がかかわってくるのであり、人間の類本質を開花させる生き方こそが人間自身の当為の真理、価値の真理となるのです。
 したがって一つには、人間の類本質の一つである「自由な意識」にもとづいて客観世界、とりわけ国家・社会を変革するという人間にしかできない生き方こそ、生き方という当為の真理ということができます。
 国家・社会はどのようにあるべきかという当為の真理を実践する生き方は、人間を「最高の存在とする」ことであり、人間が国家・社会の真にあるべき姿(概念)という理想、理念をもって生きることこそ人間がより善く生きることの真理としてとらえるのです。
 江戸時代の百姓一揆は一八世紀に入って急増し、幕府は一七四一年、一揆の頭取は死罪、名主は重追放などの処罰をきめます。それにもかかわらず世直しを求める一揆は頻発し、一揆指導者は文字どおり命がけでたたかい、死罪となり、その墓を公然とつくることさえ認められませんでした。しかし人々は指導者を「義人」とよび、密かに神としてまつることまでして後の世に語り継いだのです。この事実は、真にあるべき国家・社会を求めて生きることは、人間にとってより善く生きることの真理であることを問わず語りに示しています。
 二つには、価値ある生き方の真理は人間の類本質の一つである、「人間的価値」を求める生き方にあるということができます。
 人間は何にでも価値を見いだすことができますが、人間にとってもっとも本質的かつ普遍的な価値が「人間的価値」であり、この本質的かつ普遍的な価値としての自由と民主主義を求める生き方こそ、生き方という当為の真理ということができるのです。それが第五講で学んだ階級闘争にほかなりません。