『21世紀の科学的社会主義を考える』より

 

 

第九講 科学的社会主義の哲学 ②
     ──弁証法

 

一、弁証法は哲学史の総括から生まれた

弁証法は二千五百年の哲学史の総括から生まれた真理認識の方法

 第八講で弁証法は真理を認識し、実現する思惟法則であり、それは対立物の統一としてとらえられること、「世界がどうあるか」という事実の真理は、自立と連関、静止と運動の統一にあること、「世界がどうあるべきか」という当為の真理は、「理想と現実の統一」、生き方に関する「存在と価値の統一」にあること、などを学んできました。
 それをふまえて、本講では真理認識の弁証法の意味をもう少し深く学ぶために、哲学史の流れのなかで弁証法がどのように発展してきたのかを検討してみることにしましょう。
 哲学は真理の認識を目的とする学問です。哲学には二千五百年という長い歴史がありますが、その歴史は一人ひとりの哲学者の見解がバラバラに、ただ時代の経過にしたがって継起してくるというものではありません。後の時代の哲学者は先人の哲学的見解を学び、検討したうえでそれを批判、反駁することをつうじて、先人の哲学のなかに含まれる特殊的真理を普遍的真理へ、部分的真理を全面的真理へ、表面的真理を内面的真理へと一歩ずつ前進させてきました。言いかえると哲学の歴史は、真理認識の弁証法的発展の歴史としてとらえることができるのです。
 ヘーゲルは、哲学の歴史とは反駁の歴史であり、反駁とは「その哲学の制限を踏み越えて、その哲学の特殊の原理を観念的(理念的――高村)な契機へひきさげること」(『小論理学』上二六五ページ)だと語っています。したがって哲学史とは、「人間の精神が犯したさまざまの過ちの陳列場ではなく、神々の姿のまつられてあるパンテオンに比すべきもの」(同)であり、哲学の歴史は「弁証法的発展をなして次々とあらわれる理念の諸段階」(同)ということができます。ここにいう「理念」は「真理」と同じ意味に理解してよいでしょう。
 その意味では「哲学史の研究こそ即ち哲学そのものの研究」(ヘーゲル『哲学史』上六一ページ、岩波書店)というべきものです。ヘーゲルは生涯に十回もの哲学史の講義をしました。彼は文字どおり二千五百年の哲学史の総括のうえに、弁証法的論理学こそ真理認識の唯一の思惟法則であることをつかみとったのです。ヘーゲル弁証法は、哲学の全歴史の総括という真理認識の大道のうえに誕生したものとして哲学史の頂点にたっているのです。
 ヘーゲルの『大論理学』を研究し、詳しい抜粋とコメントのノート(いわゆる『哲学ノート』)を作成したレーニンは、「哲学の歴史は、それゆえ、簡単に言えば、認識一般の歴史、知識の全領域」(レーニン全集㊳三二二ページ)であり、「そこから認識論と弁証法がつくらるべき知識の領域」(同)と述べています。
 弁証法という認識論は、二千五百年の哲学史の総括から生まれた真理認識の方法なのです。そこで弁証法とは何かをより深く理解するために、その歴史をたどってみることにしましょう。

ギリシア哲学と弁証法

 哲学の歴史は古代ギリシアにさかのぼります。真理を探究する哲学は、まず観念論的なギリシア神話の世界から抜け出し、自然界全体を統一的に説明する万物の根源(アルケー)の探究という唯物論に向かいます。真理探究の哲学は、その出発点においてすでに唯物論に向かわざるをえなかったのです。
 イオニア学派のターレスは、アルケーを水であると考えました。彼の哲学には万物の根源である水には濃厚な水と希薄な水という対立物があり、そのなかから万物が生じるという弁証法(対立物の統一)の萌芽がすでに見いだされます。生成という運動を考えるかぎり対立物の統一として考えるしかなかったということでしょう。アナクシメネスは空気をアルケーと考え、同様に空気の濃厚化と希薄化の統一によって万物が形成されると考えました。
 しかしヘーゲルは、「真の哲学史のはじめはエレア哲学、もっと厳密に言えばパルメニデスに見出される」(『小論理学』上二六五ページ)と語っています。というのも、「哲学はまず一般的に言って、対象を思惟によって考察することと定義されうる」(同六二ページ)のですが、イオニア学派はアルケーを地上の個々の物質に求めたのにとどまり、「思惟によって考察」されたものに求めようとしなかったからです。これに対し、個々の事物のなかにおいて思惟がとらえた「数」こそアルケーだと考えたのがピュタゴラス派でした。その意味でピュタゴラス派は、哲学的にイオニア学派を一歩のりこえたのです。
 しかしすべての事物は質と量との統一であり、量(数)は、思惟によってとらえられたものではあってもまだ個々の事物から解放されてはいません。ところがエレア学派のパルメニデスは、ピュタゴラスの数(量)をさらに抽象化し、個々の事物から完全に解放された「有」という純粋な思想を世界の根源的なものととらえることによって、「真の哲学のはじめ」となったのです。「有」とは「何物かである」「何物かがある」という場合の「ある」こと、「何物か」から解放された、たんに「ある」ことを意味しています。彼は「有のみが有り無は存在しないと言うことによって、絶対者を有として把握している」(同二六五~二六六ページ)のであり、「ここではじめて純粋な思想がとらえられ」(同二六六ページ)ることになったのです。
 パルメニデスは有と無を対立のうちにとらえて、このうち有のみを真理だとしました。ここには形式論理学としての真理があります。形式論理学とは、有は有、無は無として絶対的に区別し、その一方を真理、他方を誤謬としてとらえる「あれか、これか」「Aか、非Aか」の論理であり、常識的な真理ということができます。形式論理学は、このAはいつまでもAにとどまるというA=A(同一律)を基本にして、対象を漠然として曖昧なままに放置せず、確固としてとらえる初歩的な真理認識の思惟法則なのです。
 それだけにこの形式論理学的真理は、一定の範囲内においてのみ真理性を主張しうるにすぎません。この点を批判したのがヘラクレイトスです。彼は「同じ流れに二度と入ることはできない」といって河の流れは同じ流れのようにみえてそうではないことを指摘し、「万有は流転する(パンタ・レイ)、いかなるものも恒常でなく、また同一のものに留まらない」(ヘーゲル『哲学史』上三六七ページ)という有名な文句を残しました。
 彼は、「すべてのものは有ると共に無い」(同三六六ページ)ととらえ、真理は有と無の統一(対立物の統一)としての成(運動)にあるということを示しました。いわばパルメニデスの「あれか、これか」の形式論理学を弁証法的に揚棄したものとして、「あれもこれも」というヘラクレイトスの弁証法が登場したのです。
 ですから、ヘーゲルは、この有と無の統一は成であるとの論理を自己の「論理学」に取り入れるとともに、「ヘラクレイトスの命題で、私の論理学の中に取り入れられなかったものはない」(同三六二ページ)として、彼に高い評価を与えています。 
 「われわれはここに、一つの哲学体系が他の哲学体系によって、本当に反駁される例をみるのであって、この反駁の本質は、反駁される哲学がその弁証法において示され、そして理念のより高い具体的な形態の観念的(理念的――高村)モメントにひきさげられることにあるのである」(『小論理学』上二七七ページ)。
 ソクラテス(前四七〇~三九九)は、ヘラクレイトスとは別な形で弁証法の真理性を示しました。
 「かれはその会話において常に、問題になっている事柄をもっとよく教えてほしいようなふりをし、そしてその事柄について色々な質問をあびせることによって、相手をかれが最初正しいと思っていたものとは反対のものへ導いた」(同二四八ページ)。
 つまり彼は対話をつうじて固定化した認識の一面性を否定し、否定をくり返すことによって認識は発展し、真理に接近していくことを明らかにしたのです。彼のこの手法は「ソクラテスの産婆術」とよばれており、対話こそ真理認識の方法であるとして、弁証法の「主観的な形態」(同二四七ページ)を示したのです。ギリシア語のディアレクティケ(弁証法)が「対話」を意味しているところにも、ソクラテスの弁証法上の功績があらわれています。
 ソクラテスの弟子・プラトン(前四二七~三四七)は、「弁証法の創始者」(同)でした。彼のもとで「はじめて弁証法が自由な学問的な形をとって、したがって客観的な形をとってあらわれ」(同)たのです。
 「プラトンは、そのより厳密に学問的な対話において、弁証法を用いてあらゆる固定した悟性規定の有限性を示している。かくして例えば『パルメニデス』において、かれは一から多を導き出しながら、しかも多が一として自己を規定せざるをえないことを示している。プラトンはこのように偉大な仕方で弁証法を取扱ったのである」(同二四八ページ)。
 プラトンの哲学は「イデア論」として有名ですが、ここにいう「一」とはイデア(真にあるべき姿)を意味しており、「多」とは現に存在する個々の事物を意味しています。イデアは真実在にして不滅の「一」であり、感覚的にとらえられる個々の事物はイデアの不完全な模像あるいは似姿として生成・消滅する「多」であるとして、イデアと個物とを一と多という対立物の相互媒介の関係としてとらえたのです。
 詳しく紹介すればきりがありませんが、古代ギリシア人は事物の大局的な真理をとらえようとすることで弁証法に接近していったということができます。

近代の自然科学の発展と形式論理学

 中世全体をつうじて「哲学は神学のしもべ」とされ、神学を前提としたスコラ哲学が支配し、哲学は暗黒の時代を迎えます。スコラ哲学は、カトリックの神学上の公認の教義を合理化し、擁護する観念論的な哲学として、中世封建制社会のイデオロギー上の柱となります。プラトンやアリストテレスの哲学が、そのために利用されることになりました。
 暗黒の中世から近代が目覚め、神の支配から人間が復権するきっかけとなったのは、一五世紀後半における宗教改革とルネッサンスでした。エンゲルスはこの時代を「それは巨人を必要とし、巨人を生みだした時代である。――博識の、精神の、性格の上での巨人を」(全集⑳五〇四ページ)としています。
 これ以降自然科学は大きく発展しますが、それを支えたのは、「自然をその個々の部分に分解すること、さまざまな自然過程や自然対象を一定の部類に分ける」(エンゲルス『反デューリング論』同二〇ページ)という分析的方法であり、その研究方法は一つの哲学的認識論を発展させることにもなりました。
 「それはまた、自然の事物や自然過程を個々ばらばらに、大きな全体的連関から切りはなしてとらえるという習慣、したがって、運動するものとしてではなく静止しているものとして、本質的に変化するものとしてではなく固定した恒常的なものとして、生きているものとしてではなく死んだものとしてとらえるという習慣を、われわれに残した」(同)。
 エンゲルスは、これを「形而上学的な考え方」とよんでいますが、「形式論理学の考え方」といったほうが正確でしょう。それはすべての事物を連関と運動においてではなく、自立と静止においてとらえる認識論です。いわば分析的手法にもとづく要素還元主義の立場にたつ自然科学は、古代ギリシアの弁証法的観点を投げすててしまったのです。
 「形而上学者にとっては、事物とその思想上の模写である概念とは、個々ばらばらな、ひとつずつ順次に、他のものと無関係に考察されなければならない、固定した、不動の、一度あたえられたらそれっきり変わらない研究対象である。彼はものごとを、もっぱら媒介のない対立において考える」(同二〇~二一ページ)。
 すべての事物を自立と静止においてとらえる形式論理学は、対立の関係にある二つのものを「もっぱら媒介のない対立において」、つまり相互に媒介されない「あれか、これか」という絶対的な区別においてとらえるのです。
 この形式論理学の考え方は、「いわゆる常識の考え方」(同二一ページ)であり、「きわめて広い領域で正当性」(同)をもっているのですが、「遅かれ早かれかならず限界に突きあたるのであって、その限界からさきでは一面的な、狭い、抽象的なものとなって、解決できない矛盾に迷いこんでしまう」(同)のです。こうして形式論理学をその限界を越えて適用しようとすると、形式論理学は真理から誤謬に転化してしまうのであり、この誤謬の論理が「形而上学」とよばれるべきものです。いわば形式論理学は相対的に正しいのに対し、形而上学は誤謬の論理なのです。
 例えば脳死の人は、生きていると同時に死んでいるという生と死の統一です。生きている人の臓器だから移植可能なのです。しかし生きている人からその人の体を切りさいて臓器を取り出すことは、傷害罪または殺人罪となります。そこで生きていると同時に死んでいる人を死んでいるものとみなし、その人から生きている臓器を取り出す矛盾をおかしているのが臓器移植なのです。生きていると同時に死んでいる人から、生きた臓器を取り出しながらその人を死んでいるとみなす間違った論理が形而上学なのです。

ドイツ古典哲学による弁証法の復活

 ドイツ古典哲学は、隣国フランスのフランス革命の影響を受け、哲学上の革命として、つまり革命の哲学として誕生します。その革命の息吹が「その本質上批判的であり革命的である」(『資本論』①二九ページ/二八ページ)弁証法を復活させることになったのです。
 ドイツ古典哲学は、カントにはじまり、フィヒテ、シェリングを経て、ヘーゲルによって完結します。「このドイツ哲学の最大の功績は、思考の最高の形式としての弁証法をふたたびとりあげたこと」(全集⑳一九ページ)にありました。エンゲルスが弁証法を「思考の最高の形式」、つまり最高の真理認識の方法としてとらえていることに注目してください。
 特に弁証法の復活で大きな功績を残したのはカントでした。それが「カントのアンチノミー」(二律背反、矛盾)とよばれるものです。彼は『純粋理性批判』のなかで、①世界は時間的・空間的に有限か無限か、②物質は無限に小さなものに分割しうるか否か、③世界のすべての現象は自由か必然か、④世界は絶対的原因をもつか否か、という世界に関する四つのアンチノミーを提起し、どちらも正しいということを証明してみせました。そこからカントが引き出した結論は、世界の根本的なものを認識しようとすると、理性は矛盾におちいらざるをえなくなるのであり、したがって世界の根本は認識しえないという不可知論だったのです。
 ヘーゲル哲学は、カントの提起したアンチノミーにヒントをえながら、矛盾に積極的意義を見いだし、「すべてのものは対立している」(『小論理学』㊦三三ページ)ととらえると同時に、対立・矛盾こそ運動、変化、発展をもたらすとの考えにたって弁証法的論理学を完成させたのです。ヘーゲルは、まずカントのアンチノミーの指摘はいかなる意味をもっていたのかを論じ、「それが悟性的形而上学の硬直したドグマティズム(一面観)を除き、思惟の弁証法的運動に注意を向けさせた限りでは、哲学的認識の非常に重要な促進であった」(『小論理学』㊤一八六ページ)ことを明らかにしています。「悟性的形而上学」とは形式論理学を指しています。「思惟の弁証法的運動に注意を向けさせた」とは、すべての事物は対立をうちに含んでおり、したがって真理の認識もまたこうした対立をうちに含むものでなければならない、ということです。
 しかし、そこから先が問題であり、カントが対立は矛盾を生みだすから世界の真理は認識しえないという消極的な不可知論に達したのに対し、ヘーゲルは対立を揚棄した対立物の統一にこそ事物および認識の真理があるととらえ、矛盾に積極的意義を見いだしたのです。
 「アンチノミーの真実で積極的な意味は、あらゆる現実的なものは対立した規定を自分のうちに含んでおり、したがって、或る対象を認識、もっとはっきり言えば、概念的に把握するとは、対象を対立した規定の具体的統一として意識することを意味する、ということにある」(同一八六~一八七ページ)。
 「概念的に把握する」とは、その事物を「真の姿において把握する」という意味です。ヘーゲルが、すべての事物は、「対立した規定を自分のうちに含んで」いるととらえたのみならず、事物の真の姿は「対立した規定の具体的統一」にあるととらえたのは、当時としては天才的な直観ともいうべきものですが、今日の量子論のもとでその正しさが証明されていることは、第八講で学んだとおりです。
 こうしてヘーゲルは、その「論理学」をつうじて「弁証法の一般的な運動諸形態をはじめて包括的で意識的な仕方で叙述した」(『資本論』①二八ページ/二七ページ)のです。「包括的で意識的な仕方」とは、弁証法の基本法則が対立物の統一であることを明らかにするとともに、この基本法則を使って世界の真理を認識する環となる根本原理を弁証法の諸カテゴリーとして「包括的」に、かつ「意識的な」体系として示したのです。弁証法の諸カテゴリーとは、世界のすべての事物の連関する網の目のなかにおいて、真理を認識するために必要な認識の環となる対立する二つの概念、例えば量と質、本質と現象、偶然性と必然性、個(特殊)と普遍などを意味しています。
 彼の論理学は、「有論」「本質論」「概念論」という三部構成となっています。有論では事物の表面的真理(有的真理)を、本質論では事物の内面的真理(本質的真理)を、概念論では事物のあるべき真理(概念的真理)を扱っています。いわば有論、本質論は事実の真理を扱っているのに対し、概念論では当為の真理を扱っているのです。
 革命の哲学であるヘーゲル哲学にとって最も重要なのは当為の真理を扱った概念論なのですが、弾圧を免れるために入念の偽装工作が施されているところから、読解がきわめて困難となっています。エンゲルスも概念論の意義がつかめなかったところから、実際には「概念論」がヘーゲル哲学の最も重要な部分であるにもかかわらず、「『論理学』のとりわけ最も重要な第二部、本質論」(全集⑳三七九ページ)として、本質論が「最も重要」いうとらえ方をしています。
 ヘーゲルは、二千五百年の哲学の歴史を総括するという哲学史の大道を歩むことをつうじて、弁証法の基本法則とその体系化を試みた唯一の哲学者です。それだけに現代においてもなおヘーゲルの完成させた弁証法をのりこえる哲学は存在しないといっても過言ではありません。

 

二、マルクス、エンゲルスの弁証法

ヘーゲルは観念論者か

 マルクス、エンゲルスは、ヘーゲルの弁証法には重要な欠陥があると考えていました。それは、ヘーゲル弁証法は観念論であり、さか立ちしているというものです。
 マルクスは『資本論』第二版への「あと書き」で、「『資本論』で用いられた方法」(『資本論』①二三ページ/二五ページ)は、弁証法的方法であるとしたうえで、次のように述べています。
 「私の弁証法的方法は、ヘーゲルのそれとは根本的に異なっているばかりでなく、それとは正反対のものである。ヘーゲルにとっては、彼が理念という名のもとに一つの自立的な主体に転化しさえした思考過程が、現実的なものの創造者であって、現実的なものはただその外的現象をなすにすぎない。……弁証法はヘーゲルにあってはさか立ちしている。神秘的な外皮のなかに合理的な核心を発見するためには、それをひっくり返さなければならない」(同二八ページ/二七ページ)。
 エンゲルスも『フォイエルバッハ論』で同様の批判を加えています。
 「ヘーゲルでは、弁証法は概念の自己発展である。絶対的概念は、永遠の昔から――どこにかはわからないが――存在しているばかりでなく、また現存する全世界の本来の生きた魂でもある。……このようなイデオロギー的なさかだちは除去しなければならなかった。われわれは、現実の事物を絶対的概念のあれこれの段階の模写と見るのではなしに、ふたたび唯物論的にわれわれの頭脳のなかの概念を現実の事物の模写と解した。……こうして、ヘーゲルの弁証法はさかだちさせられた。と言うよりはむしろ、さかだちしていたのが、もういちど足で立つようにされた」(全集㉑二九七~二九八ページ)。
 マルクス、エンゲルスの批判をまとめてみますと、ヘーゲル弁証法は、「概念」とか「理念」を第一次的、根源的なものと考えており、現実的なものはその模写、反映にすぎないとしているという観念論の立場としてさか立ちしているから、これを逆にして現実的なもの、存在を第一次的なもの、根源的なものとする唯物論的な弁証法につくりかえなければならないのであり、マルクス、エンゲルスはそれをやりとげた、というものです。ヘーゲルは客観的観念論者であるとの定着した見解は、ここに由来するものといっていいでしょう。
 しかし、もしヘーゲルが「自然および歴史のなかに現われる弁証法的発展」(同二九七ページ)を「概念の自己運動のつまらぬ模写にすぎない」(同)としてとらえていたとすれば、それは単なるにすぎないのであって、誰にも注目されることもなく、何らの真理をもとらえるものではないとしてとっくの昔に歴史のくず箱に放り込まれていたことでしょう。
 ヘーゲル弁証法のもつ生命力は、彼が哲学の全歴史を総括し、唯物論という哲学の大道にたって弁証法的論理学を打ちたてたところにあります。しかも彼の哲学は単に唯物論であっただけでなく、理想と現実の統一を唱える革命の哲学であり、ヘーゲルの理想主義を象徴するのが「概念」(真にあるべき姿、理想)「理念」(概念が現実になったもの、理想と現実の統一)というカテゴリーなのです。しかも彼の「概念」は、客観的事物に媒介されつつ、媒介を揚棄した唯物論的な理想であり、だからこそ必然的に現実に転化して「理念」となるものとしてとらえたのです。ヘーゲルの「概念」はプラトンの「イデア」に学んだものです。しかしヘーゲルのイデアはプラトンとは異なり、唯物論的に客観的事物から生成するものであると同時に「現実性としてのイデア」(『小論理学』下八四ページ)としてとらえました。イデアは彼岸に存在するものではなく、「本質的にエネルゲイアであること、言いかえれば、端的に外にあらわれている内的なものである」(同)として、必然的に現実性に転化するものとしてとらえたところから、プラトンの「イデア」と区別してあえて「概念」というカテゴリーをうちたてたものと思われます。
 マルクス、エンゲルスは、ヘーゲルの偽装工作のために「概念」「理念」の意味を正確に理解しえなかったところから、これらのカテゴリーにヘーゲルの観念論を見いだしたのです。
 実は、ヘーゲルを観念論者だとするマルクス、エンゲルスの見解に対して、最初に疑問を呈したのが、ほかならぬレーニンでした。彼は『資本論』『フォイエルバッハ論』『反デューリング論』などを学ぶことをつうじてマルクス、エンゲルスがヘーゲルを観念論者であるととらえていることを学びます。ですから彼がまだヘーゲルを本格的に研究していなかった一九〇八年の『唯物論と経験批判論』ではマルクス、エンゲルスのヘーゲル観をそのまま請け売りして「絶対的理念とは観念論者ヘーゲルの神学的な作りもの」(レーニン全集⑭二七二ページ)と決めつけています。
 しかし本格的にヘーゲル『大論理学』を研究し終えたとき、第八講で学んだようにレーニンは「概念」の意味をほぼ正確に理解し、「人間の活動は……この現実性から仮象、外面性および空無性という特質を取りさり、この現実性を即自かつ対自的に有るもの(=客観的に真なるもの)にする」(『哲学ノート』レーニン全集㊳一八七ページ)としています。つまり人間は「概念」という真にあるべき姿を掲げた実践により、客観世界の「現実性」は「仮象」にすぎないとしてそれを「客観的に真なるもの」に変革するととらえたのです。こうした「概念」の唯物論的理解のうえにたって、レーニンは『大論理学』の研究ノートの最後に「ヘーゲルのこのもっとも観念論的な著作のうちには、観念論がもっともすくなく、唯物論がもっとも多い。"矛盾している"、しかし事実だ!」(同二〇三ページ)と書きつけ、ヘーゲルを観念論者だとして請け売りしていたことに対する深刻な自己批判を感動的に語っているのです。
 ではマルクス、エンゲルスは、どのようにヘーゲルのさか立ちをひっくり返したのでしょうか。彼らがおこなったのは、実際にはヘーゲル「論理学」の第一部「有論」、第二部「本質論」の弁証法的カテゴリーはそのままに利用しながら、第三部「概念論」の諸カテゴリーのうちから「概念」と「理念」に直接的に関係する部分を「除去」するだけにとどまっています。マルクスの『資本論』では、ヘーゲルの「有論」「本質論」の弁証法をそのままさか立ちさせることなく使用しています(拙著『「資本論」の弁証法』参照)し、エンゲルスの『自然の弁証法』で用いている弁証法も同様です。
 こうしてみると、エンゲルスが実際には最も重要な「概念論」にふれることなく、「『論理学』のとりわけ最も重要な第二部、本質論」(全集⑳三七九ページ)ととらえている理由も理解できるように思われます。

マルクス、エンゲルスの弁証法定式化の試み

 エンゲルスは、マルクスの没後三年の一八八六年に著した『フォイエルバッハ論』において、「ながらくわれわれの最もよい道具でありわれわれの最も鋭利な武器であったこの唯物論的弁証法」(全集㉑二九八ページ)と、あたかも唯物論的な弁証法は定式化され、完成されたものであるかのように記述していますが、実際にはそうではありません。
 マルクスは生前、「この弁証法は無条件にあらゆる哲学の最後の言葉であればあるほど、弁証法がヘーゲルの場合にもっている神秘的な外見からこれを解放するのが、他方でますます必要なのだ」(全集㉙四三七ページ)とか「経済的な重荷を首尾よくおろせたら、『弁証法』の本を書くつもりです。弁証法の正しい諸法則はすでにヘーゲルにちゃんと出てはいます、ただし神秘的な形態で。肝心なのは、この形態をはぎ取ることなのです」(全集㉜四五〇ページ)などと語っていました。
 ヘーゲル哲学を「あらゆる哲学の最後の言葉」と表現しているところに、マルクスがヘーゲル哲学を最高の哲学として評価していることが示されています。なお「経済的な重荷」が『資本論』の完成を意味していることは、いうまでもありません。
 重要なことは、マルクスが問題にしているのはヘーゲル哲学の内容そのものではなく、あくまでその「神秘的な外見」「神秘的な形態」であって、この神秘的な形式を取り除きさえすればそのまま唯物論的な弁証法として使えるというニュアンスで語っていることです。ヘーゲル哲学はその内容からすれば「無条件にあらゆる哲学の最後の言葉」であり、「弁証法の正しい諸法則」を取り扱っているものとして、マルクスも無条件に評価しているのです。
 ともあれマルクスの没後、エンゲルスがマルクスの遺稿の中から真っ先に発見しようとしたのが、この弁証法の草稿でした。「私はあすはマルクスの遺稿を調べなければなりません」(全集㊱三ページ)として、「なによりも問題なのは、彼がいつも仕上げようとしていた弁証法の草案です」(同)と語っています。
 しかし結局マルクスの弁証法草案は発見されませんでした。他方エンゲルスは、ヘーゲルの「自然哲学」をふまえ、一八七三年五月から『自然の弁証法』の執筆をはじめますが、七六年五月から七八年七月まで『反デューリング論』執筆のために中断し、その後再開して八三年まで継続したものの、八三年マルクスの死去に伴う『資本論』第二、三部完成のために中断し、その後若干の補足がなされたものの完成させることはできませんでした。
 『自然の弁証法』の「全体的計画の草案」(全集⑳三三九ページ)によると、エンゲルスは単に自然過程の弁証法的性格を浮き彫りにするにとどまらず、世界全体の「全体的連関の科学としての弁証法」(同)の諸法則を定式化すると同時に、当時の経験諸科学の到達点をふまえて弁証法的唯物論を包括的、体系的に論じたいと考えていたようです。そのなかでも特に強い関心をもっていたのが、弁証法の諸法則であり、エンゲルスは「主要法則は以下のとおり」(同)として、次のように述べています。
 「量と質との転化。――両極的対立物の相互浸透と、極端にまでおしすすめられたときのそれら対立物の相互の転化。――矛盾による発展または否定の否定。――発展の螺旋的形式」(同)。
 これは後に弁証法の「三法則」とよばれるようになりますが、エンゲルスは、この三法則をヘーゲル「論理学」に学んだのであり、第一の法則は「有論」、第二の法則は「本質論」から導き出されたものであり、「第三の法則は全体系の構築のための根本法則としての役割を演じている」(同三七九ページ)と述べています。
 しかし結局『自然の弁証法』が未完成にとどまったため、この弁証法の諸法則の定式化も成し遂げられないままに終わりました。

 

三、レーニンの弁証法

レーニンの弁証法定式化の試み

 ロシア革命の指導者レーニンは、マルクスの没後三十周年の一九一三年、科学的社会主義を全体としてどうとらえるかの問題について研究をはじめ、「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」を執筆し、そのなかで弁証法を論じています。翌一四年グラナート社から百科辞典の一項目として「カール・マルクス」の執筆を依頼されたことから、さらに弁証法をヘーゲルにまでさかのぼって研究する必要にせまられ、一四年から一六年までヘーゲルの著作を中心とする「哲学にかんするノート」九冊を作成します。それがいわゆる『哲学ノート』としてレーニン全集第三八巻にまとめられています。
 レーニンは自分の大著を著す前には、その準備としてノートを作成することを常としていました。例えば有名な『国家と革命』(レーニン全集㉕)の準備として『国家論ノート』(大月書店)を作成しています。『哲学ノート』も弁証法に関する著作のための準備として作成されたものですが、そのノートの量からしても、また「ヘーゲルとマルクスとの事業を継承することは、人間思想の歴史、科学および技術の歴史を弁証法的に仕上げることであらねばならない」(『哲学ノート』一一七ページ)としていることからしても、相当大部な、かつ包括的な弁証法の著作を考えていたように思われます。
 レーニンの弁証法の定式化の試みには、マルクス、エンゲルスのそれとは異なる大きな特徴があります。先にみたようにヘーゲル『大論理学』の研究をつうじて、「概念」の意義をほぼ正確に理解していたところから、レーニンには、観念論的に逆立ちしているヘーゲル弁証法を唯物論的につくりかえるという観点はまったくみられないのです。レーニンはヘーゲル弁証法を基本にしながら、その基本法則を明らかにし、その展開として弁証法の諸カテゴリーを位置づけようとしていたように思われます。
 「カール・マルクス」において、レーニンは「弁証法の若干の特徴」(レーニン全集㉑四二ページ)として ①否定の否定、らせん型の発展、②飛躍、漸次性の中断、量の質への転化、③矛盾による発展への内的衝動、④すべての側面の相互依存性と緊密な連関、単一の、合法則的な世界的運動過程をなしている連関(同)などの四つをあげています。
 さらに『哲学ノート』のなかのヘーゲル「『論理学』の摘要」においては、多少表現は異なりながらも「弁証法の諸要素」(レーニン全集㊳一九〇ページ)として十六の諸要素を指摘したうえで、「弁証法は簡単に対立物の統一の学説と規定することができる。これによって弁証法の核心はつかまれるであろうが、しかしこれは説明と展開とを要する」(同一九一ページ)と述べています。弁証法の基本法則を「対立物の統一」としてとらえたのは、レーニンの功績の一つといっていいでしょう。これはエンゲルスの「三法則」にもみられなかったものだからです。

レーニンの弁証法定式化は未完成

 また、レーニンは『哲学ノート』のなかでヘーゲル「『論理学』の摘要」作成後に「弁証法の問題について」(同三二五ページ以下)という小論文を作成し、弁証法の核心となる部分を定式化しようとしています。そのこと自体、「カール・マルクス」の四法則も、十六の諸要素も、まだ試案にすぎないことを示すものです。このなかで対立物の統一を「弁証法の核心("本質"の一つ、唯一の根本的な特性あるいは特徴ではないまでも、根本的な特性あるいは特徴の一つ)」(同三二六ページ)ととらえています。
 さらに対立物の統一(同一)とは「自然(精神も社会もふくめて)のすべての現象と過程とのうちに、矛盾した、たがいに排除しあう、対立した諸傾向を承認すること(発見すること)である」(同三二六ページ)としたうえで、「対立物の統一(合致、同一、均衡)は条件的、一時的、経過的、相対的である。たがいに排除しあう対立物の闘争は、発展、運動が絶対的であるように、絶対的である」(同三二七ページ)と述べています。
 これは、対立物の統一には、均衡的・自立的統一と闘争的・媒介的統一の二種類があるとしている点は重要な指摘だということができますが、なぜこの二つなのかの必然性は示されておらず、二つの対立物の相互媒介の関係も明確にされていません。
 またこの小論文のなかで、レーニンは『資本論』においては商品交換という社会の「もっとも単純な現象のうちに(ブルジョア社会のこの"細胞"のうちに)、現代社会のすべての矛盾(あるいはすべての矛盾の萌芽)をあばきだす」(同)としたうえで、「弁証法一般」(同三二八ページ)の叙述も、このように萌芽からの発展としてなされなければならないとして、弁証法の体系的な叙述の意図を明らかにしています。
 いずれにしても、レーニンの弁証法の定式化の試みも完成することなく、『哲学ノート』という草稿にとどまってしまったのです。

 

四、弁証法的唯物論の定式化

弁証法的唯物論の定式化は体系化ではない

 結局エンゲルスの『フォイエルバッハ論』における弁証法的唯物論は完成されたものであるかのような記述にもかかわらず、弁証法的唯物論の定式化の課題はマルクス、エンゲルスにおいてはむろんのこと、レーニンによっても実現するには至らず、二一世紀の科学的社会主義の課題として私たちに残されたままとなっています。
 では、弁証法的唯物論の定式化とは何を意味しているのでしょうか。それはエンゲルスやレーニンの考えていたような、弁証法の包括的かつ体系的な叙述としてではなく、弁証法の基本法則とその展開を示し、その真理性を証明することにあるのではないかと思われます。
 マルクスも「ヘーゲルが発見はしたが、同時に神秘化してしまったその方法における合理的なものを、印刷ボーゲン二枚か三枚(注 一ボーゲンは原稿用紙十六枚――高村)で、普通の人間の頭にわかるようにしてやりたい」(全集㉙二〇六ページ)と述べていますので、基本法則のみをまとめたかったものと思われます。
 体系化するということは、「世界体系の総連関をあますところなく認識しようとする」(全集⑳三六ページ)ものですが、世界全体が運動、変化、発展しているうえに、人間の認識は個人的にも歴史的にも限界づけられているところから、そもそも体系化することは不可能な事業といわなければなりません。
 エンゲルスは、ヘーゲルが『エンチクロペディー』で展開した「論理学」「自然哲学」「精神哲学」の体系を引き写しにしようとしたデューリングを批判し、「ヘーゲル以後は、体系づくりは不可能になった。世界が統一的な一体系、すなわち相連関した全体をあらわしていることは明らかであるが、この体系を認識するためには、自然と歴史の全体の認識が前提されるのであって、そういうことは、人間にはけっして達成できないことである。だから、体系をつくる者は、無数の隙間を自分のつくりごとで埋めなければならなくなる」(同六一八ページ)と述べています。
 したがって弁証法的唯物論の定式化とは、ヘーゲルが展開したような世界全体を視野に入れた弁証法的諸カテゴリーを体系化して世界のすべてをあますところなく叙述することではなく、基本法則とその展開を示すことにあると考えるものです。
 弁証法の諸カテゴリーについては、「包括的で意識的な仕方」でそれを述べたヘーゲル「論理学」の諸カテゴリーを継承しつつ、それにその後の経験諸科学の成果から生まれた新たなカテゴリーを付加していけばいいのではないかと思われます。自然科学に関しては粒子と反粒子(自然の対称性)、物質と反物質、粒子と波動などをその例としてあげることができるでしょう。本講座ではヘーゲル弁証法の諸カテゴリーを論じる紙数の余裕はありませんので、拙著『ヘーゲル「小論理学」を読む』第二版をご参照ください。

弁証法的唯物論の定式化のための諸課題

 弁証法的唯物論を定式化するにあたっては、まず弁証法の基本法則としての対立物の統一とは何かが明確にされると同時に、対立物の統一という弁証法の基本法則がなぜ真理認識の唯一の方法なのかを証明することでなくてはなりません。そうでないかぎり「科学的社会主義は弁証法的唯物論という哲学を理論的基礎とする」と宣言しても、それは単なる独り合点にすぎないのであって、「だから何なの?」ということにしかならないからです。
 そのうえで対立物の統一からなぜその展開として自立的統一と媒介的統一の二種類の対立物の統一が生まれるのか、また媒介的統一には、なぜ対立物の相互浸透と対立物の相互排斥の二種類があるのか、その必然性が明らかにされなければなりませんし、エンゲルスの三法則やレーニンの諸法則もそれらとの関連で論じられるべきものでしょう。
 さらにマルクス、エンゲルスがヘーゲルの観念論としてしりぞけた「概念」「理念」は、革命の哲学であるヘーゲル論理学の「合理的な核心」(『資本論』①二八ページ/二七ページ)をなすものですから、弁証法的唯物論のなかで当為の真理を示すカテゴリーとして積極的に生かされなければならないと考えます。 
 私見では、ヘーゲル哲学は「観念論的装いをもった唯物論」というべきものであり、その「観念論的装い」は、革命の哲学を偽装する必要から生じているものと思われます。この点に関して、エンゲルスが「ヘーゲルの体系は、その方法と内容とにおいて観念論的にさかだちさせられた唯物論」(全集㉑二八一ページ)だと指摘しているのは、興味をひくものとなっています。その「観念論的装い」を取り除き、「普通の人間の頭にわかる」ような唯物論的な記述に整理することが求められているのです。それはまたマルクスのいう「神秘的な外見」「神秘的な形態」を取り除くというマルクスの意向にも沿うものだと思われます。
 最後に弁証法的唯物論は、客観的事物の真理を認識するという「認識論」の領域にかかわる思惟法則であり、その意味では主観的弁証法は客観的弁証法を反映した弁証法ということができます。客観的事物の弁証法を主観のうちに反映することにより、思考と存在の同一性を実現するのですから、そのかぎりでは主観的弁証法は客観的弁証法と同一だということができます。
 しかしそれと同時に主観は客観から相対的に自立して自然や社会さらには人間をも変革する運動をおこないますので、当為の真理を問題とします。これは客観的弁証法を反映した主観的弁証法の枠ぐみを越えるものですから、この当為の真理にかかわる弁証法は主観的弁証法に固有の分野となります。「概念」や「理念」はこの固有の分野としての主観的弁証法のカテゴリーに属するものです。
 したがって弁証法的唯物論の定式化は、客観的弁証法と主観的弁証法の同一と区別を論じるものでなければなりません。こうした問題意識をもちながら、次講で弁証法的唯物論の定式化の問題を考えていくことにしましょう。この作業は本来集団的な論議をつうじて行われるべきものですが、誰かが先鞭を付けなければ前に進みませんので、これを機に議論が深まることを期待して、とりあえず私見を明らかにしておきたいと思うものです。
 なお二〇〇一年一〇月出版の拙著『変革の哲学・弁証法』において、寺沢恒信氏の『弁証法的論理学試論』をふまえ、「唯物弁証法の一般的叙述(試案)」(前掲書三〇〇ページ)を提起したことがありました。「個別に様々な仕上げの試み」(同三〇一ページ)がなされ、その積み重ねが弁証法的唯物論の定式化になるとの基本的立場から「問題提起の意味」(同)をこめて提案したものでした。
 今回の弁証法的唯物論の定式化の試みも、その延長線上のものとして、自己内反省をつうじて先の「試案」を「反駁」したものとして理解いただければ幸です。