『21世紀の科学的社会主義を考える』より

 

 

第一二講 科学的社会主義の社会主義論

 

一、社会主義論は科学的社会主義の中心的課題

社会主義とは何か

 今回から本講座の三つめの主題である「社会主義論」に入ります。社会主義論は、二一世紀の科学的社会主義を論じるうえで最重要の課題といえますから、一二講から一九講までをそれにあてたいと考えています。
 というのも二〇世紀における社会主義の実験のうちにはソ連・東欧の「社会主義」の問題が含まれており、それによって「社会主義は崩壊した」「社会主義は時代遅れとなった」との大合唱が展開されたのであり、その問題の検討なくして二一世紀の社会主義は論じえないからです。
 また二〇世紀の社会主義の実験のなかには「ソ連型社会主義」を否定し、「国民が主人公」の社会主義を建設しようとしたユーゴスラビアの「自主管理社会主義」が含まれています。ソ連・東欧の崩壊については学ぶ機会も多いのですが、ユーゴの崩壊については科学的社会主義の陣営内でのまとまった研究成果は存在しないように思われます。しかしわれわれ日本国民にとって、日本共産党の社会主義論に近似したユーゴ社会主義がなぜ崩壊したのかの解明は、ソ連・東欧の崩壊以上に関心のある問題です。その検討もまた二一世紀の社会主義を考えるうえで避けて通ることのできない課題といえるでしょう。
 そもそも科学的社会主義の学説は、空想的社会主義を科学的社会主義へと発展させる学説として誕生したものです。したがってその学説にとって社会主義論は中心的課題となっているのであり、ソ連・東欧やユーゴの「社会主義」の崩壊の問題も含め、果たして「社会主義」は人類の未来を託すに値する社会なのかが問われかねない問題であるところに、二一世紀の社会主義論のおかれている問題の重要性があるといえるでしょう。
 まず最初に、科学的社会主義の学説にいう「社会主義」とは何かという、社会主義の理論問題から検討していくことにしましょう。
 第一一講でお話ししたように、資本主義社会の基本矛盾は「生産力と生産関係の矛盾」を本質とし、「社会的生産と資本主義的取得」との矛盾を現象とする社会であり、この矛盾を揚棄する社会が社会主義・共産主義の社会としてとらえられることになります。それを言いかえると「社会的生産と資本主義的取得」の矛盾を解決した「社会的生産と社会的取得」の社会ということになります。したがって、問題はどうすれば資本主義の基本矛盾を解決して「社会的生産と社会的取得」を実現しうるのかにあります。それが社会主義論の中心課題となってくるのです。
 ここまで資本主義とは何かを正面から議論してきませんでしたので、ここで資本主義の本質とその基本矛盾との関係を簡単にみておきましょう。
 資本主義とは、資本家が私的に所有する生産手段(土地、工場、機械、原材料)に、購入した労働力を結合して剰余価値(利潤)を生産し、それを資本家が独り占めにする生産様式の社会であり、その本質は利潤の獲得を規定的目的とする利潤第一主義にあります。そこから第六講でお話しした「資本主義の人間疎外」という現象が生じることになります。
 人類の長い歴史のなかで、利潤第一主義の経済活動が行われるのは資本主義社会以外にはありません。史的唯物論で学んだように、経済活動が「第一の歴史的行為」(『新訳ドイツ・イデオロギー』三五ページ)となるのは、それが人間の生きるために必要な「物質的生活そのものの生産」(同)をするからです。経済とは「経世済民」の略です。「経」とは織物の縦糸のことであり、縦糸は織物の枠組みをつくります。そこから転じて経世済民とは、世の中の枠組みをつくって丸くおさめ、民を救うことを意味しています。つまり経済とは発展すればするほど世の中を丸くおさめ、民の暮らしを守るものなのです。本来の経済活動は、民の消費生活の維持向上のためにあるのに、資本主義はこの経済の理念そのものに反する経済でしかありません。
 いわば消費のための生産ではなく、利潤のための生産、「生産のための生産」(『資本論』④一〇二一ページ/六二一ページ)となっていて、生産の目的が転倒してしまっているのです。
 資本主義的生産様式のもとでは、利潤は生産過程の内部において商品の形態として作られ、市場での商品交換をつうじて貨幣形態として実現されます。同じ品質の商品であれば、より安い商品ほど市場において競争力をもちます。そこで資本家たちは競って新しくより生産力の高い機械を大量に導入して、商品一個あたりのコストを引き下げ、安い商品を作り出して特別の利潤を手に入れようとします。
 こうして利潤第一主義の資本主義のもとでは、市場での激しい競争による弱肉強食のたたかいがくり広げられますが、それに勝ち残るのは質・量ともにまさる機械によってより高い生産力を手にしうる大企業のみとなり、生産力の劣る中小企業は大企業に吸収されるか、打ち負かされてしまいます。資本主義は、自由競争から出発しながら市場での競争をつうじて大企業が中小企業を吸収・合併して市場を独占する独占資本主義の段階に移行し、独占資本が競争不要の独占価格を設定して独占利潤を手にする一人勝ちとなる社会なのです。
 この結果、生産はますます社会的になるにもかかわらず、生産物はこれまでの小生産と同様資本家が個人的に取得することになり、「一方の極における富の蓄積は、同時に、その対極における、すなわち自分自身の生産物を資本として生産する階級の側における、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、野蛮化、および道徳的堕落の蓄積」(『資本論』④一一〇八ページ/六七五ページ)という階級間の矛盾を激化させていくことになります。
 こうして利潤第一主義という資本主義の本質は必然的に独占資本主義を生みだし、「生産力と生産関係の矛盾」と「社会的生産と資本主義的取得」の矛盾を激化させ、階級間の矛盾を深化させることになるのです。

資本主義の矛盾の解決としての社会主義

 この問題を解決するには、「生産力と生産関係の矛盾」を解決し、社会的規模にまで発展した生産力にふさわしい生産関係をつくり出す以外にはありません。
 「この解決は、近代の生産力の社会的な本性を実際に承認すること、したがって生産、取得、交換の様式を生産手段の社会的性格と一致させることのほかにはありえない。そして、そうするためには、社会以外のなにものの指揮の手にも負えないほどに成長した生産力を、社会が公然と、あからさまに掌握するよりほかには道がない」(全集⑳二八八ページ)。
 生産力を「社会が公然と、あからさまに掌握する」とは何を意味しているのでしょうか。資本主義的生産は、形式的には社会的生産となっていますが、内容的には資本家が生産手段を私的に所有することで私的生産となっているために、生産物の「資本主義的取得」が生じているのです。したがって生産力を「社会が公然と、あからさまに掌握する」ためには、生産を内容・形式ともに社会的生産にかえる新たな生産関係をつくり出さなければなりません。そのためには生産手段を社会的に所有する生産関係が求められます。これが「生産手段の社会化」とよばれるものであり、これによりこれまでの資本家と労働者という生産関係は消滅し、生産そのものも形式・内容ともに社会的生産となり、その結果生産物も社会的に取得されることになります。したがって社会主義とは何よりも「生産手段の社会化」であるということができます。
 しかし生産手段の社会化のためには、それを実現するために「プロレタリアートの執権」という政治権力が必要になりますし、社会化された生産手段は、この権力により「社会主義的な計画経済」のもとに管理・運営されなければなりません。
 こうして資本主義の矛盾を揚棄した社会主義とは、一般に生産手段の社会化、社会主義的な計画経済、プロレタリアートの執権という三つの基準をもつ社会としてとらえられることになります。そこで以下において社会主義のこの三つの基準について、もう少し詳しく検討してみることにしましょう。

 

二、社会主義の三つの基準① ── 生産手段の社会化

社会主義的変革の中心課題は生産手段の社会化

 資本主義の基本矛盾を解決するには、社会的な生産から生まれた生産物を資本家の個人的取得から解放しなければなりません。
 なぜ生産物の「資本主義的取得」が生じるのかといえば、先にみたように形式上は多数の労働者による「社会的生産」ではあっても、内容上は資本家の所有する生産手段と資本家の購入した労働力とを結合しておこなわれる資本家の個人的生産となるため、資本家は自ら労働しないにもかかわらず、生産過程全体をその支配下におくことによって生産物を独占することになるのです。したがって、「資本主義的取得」を解決するためには、生産手段を社会化することが求められます。
 生産手段の社会化とは、生産手段を私的所有から社会的所有に移行させることを意味しています。社会的所有の形態には、国有化、公有化、協同組合有化、その他の集団有化などさまざまの形態がありえます。
 生産手段には、一般的な物質的財貨の生産にかかわる生産手段と、公共サービスの性格をもつ金融、通信、交通運輸、教育、福祉、医療、年金、防災、救急などにかかわる分野の生産手段とがあります。公共サービスにかかわる生産手段の場合には、サービス水準の統一化のために多様な社会化の形態のなかにあっても国有化が最も適当だと思われます。これに対して一般的な物質的財貨の生産にかかわる生産手段の社会化の形態は、条件に応じて多様なものになるでしょう。
 対象となるのは、生産自体が社会的になっている巨大化した生産手段です。小農民の農地や中小企業の手工業的生産は、そもそも「社会的生産」には該当しないものですから、社会化の必要もありませんし、対象にもなりません。日本共産党綱領に「社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である」とあるのも、この趣旨を明確にしたものです。
 生産手段の社会化によって搾取階級としての資本家階級は存在しなくなり、搾取も階級もない社会への土台が築かれますが、それだけで自動的に搾取と階級がなくなるわけではないことに注意しなければなりません。というのも資本家階級は存在しなくなっても、生産手段の社会化によって資本家階級にとってかわる新たな階級が生じる可能性も否定しえないからです。後にお話しする「ソ連型社会主義」はその一つの例となっています。

経済的アソシエーション

 搾取と階級をなくすためには、社会化した生産手段の管理・運営、さらには生産物の所有・管理を誰がするのかという問題が生じてきます。資本主義的生産様式にあって、資本家は機械をつうじて労働者を専制的に支配し、労働者の「形式的包摂」(『資本論』③八七四ページ/五三三ページ)に代わって「資本のもとへの労働の実質的包摂」(同)を生みだします。生産手段の社会化は、生産手段の管理・運営、さらには生産物の所有・管理をつうじて労働者の強制的結合にもとづく「資本のもとへの労働の実質的包摂」を解消するものでなければなりません。
 「これまでは、人間自身の社会的結合が、自然と歴史とによって押しつけられたものとして、人間に対立してきたが、いまやそれは、人間自身の自由な行為となる」(全集⑳二九二ページ)。
 それが第六講で学んだ「コンバインドな労働」から「アソシエイティッドな労働」への移行の問題であり、生産手段の社会化とは生産者が生産・分配の主役として自由な意志で結合する経済的アソシエーションを実現するという問題なのです。
 それをマルクスは『資本論』で「共同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体(アソシエーション――高村)」(『資本論』①一三三ページ/九二ページ)とよび、エンゲルスは「生産者の自由で平等なを基礎にして生産を組織しかえる社会」(全集㉑一七二ページ)とよんでいます。つまり「生産者が主役」(日本共産党綱領)となり、自由、平等な関係のもとに生産・分配に携わると同時に、主体的に経営に参加していくことになります。
 この経済的アソシエーションの連合体が社会主義社会の経済を担うことになります。各経済的アソシエーションは、社会的分業として大きく生産諸手段の生産部門と消費諸手段の生産部門との二部門に分かれることは資本主義と異なるところはありません。しかし資本主義のもとでは、どちらの部門の生産物も商品として流通していきますが、社会主義の場合はそうではありません。
 「この生産物の一部分は、ふたたび生産手段として役立つ。この部分は依然として社会的なものである。しかし、もう一つの部分は、生活手段として、連合体の成員によって消費される。この部分は、だから、彼らのあいだで分配されなければならない」(『資本論』①一三三ページ/九三ページ)。
 つまり社会的生産物のうち生産手段は商品として流通過程にはいるのではなく、社会的な管理のもとにおかれることになり、社会的生産物のうちの消費手段のみが商品として流通し、分配されることになります。
 「ゴータ綱領批判」(一八七五年)では、これをさらに一歩進めて「個々の生産者は、彼が社会にあたえたのと正確に同じだけのものを――控除をしたうえで――返してもらう」(全集⑲二〇ページ)と規定し、生産物の社会的分配によって搾取を否定することを明確にしています。
 生産者は社会的生産物のなかから生産手段分と社会的諸費用分(税負担分)を「社会にあたえ」ますが、逆に生産者は社会から生産手段の提供を受けると同時に、教育、医療、社会保障等の公的サービスを受けることによって、「彼が社会にあたえたのと正確に同じだけのものを」社会的諸費用の人件費などを「控除したうえで」返してもらうことになるのです。
 こうして搾取がなくなれば、これまでの生産力のもとでも生産者はより豊かな生活を営むことができるようになります。また資本主義のもとでは、生産力が発展すればするほど、労働者・国民の貧困率が進んでいきましたが、社会主義のもとでは搾取がなくなることにより、生産力が発展すればするほど等しく国民のくらしが豊かになり、本来の意味の「経済」が回復することになります。
 搾取がなくなるとその分労働時間の短縮が可能になり、生産者は経済的アソシエーションを担う事務に携わることができるようになります。こうして生産者が経済的アソシエーションの主役となるのです。
 これまでの階級社会では、労働者は自分たちの生活を維持する必要労働に忙殺されていましたが、搾取がなくなることにより「各人の労働時間をいちじるしく短縮して、社会の全般的な事務――理論的な、また実践的な――にたずさわる十分な余暇がすべての人々に残されるようにすることが可能」(全集⑳一八八ページ)となるのです。

生産手段の社会化は生産力を発展させうるのか

 二〇世紀の社会主義の実験は、生産手段の社会化は果たして生産力を発展させうるのか、という新しい問題を提起しています。
 マルクス、エンゲルスは、生産手段を社会化すれば「桎梏」がなくなり当然生産力は発展すると考えていたものか、この問題についてあまり立ちいった論評はしていません。
 しかし実際には、生産手段を国有化したソ連、東欧はもとより、中国、ベトナムでも国有企業の非効率性と生産力の低さが問題となりました。その結果中国、ベトナムでは生産力を発展させるには市場経済を導入するしかないとして「社会主義市場経済」に転換し、そのもとで生産力を発展させています。
 もしその判断が正しいとなれば、社会主義のもとで生産力を発展させるには市場経済を導入するしかないことになりますから、生産手段の社会化を中心課題とする社会主義とは、「貧しさを分かち合う平等社会」ということになってしまいます。
 したがって、生産手段の社会化(国有化)は生産力を発展させうるのかの問題は、二一世紀の社会主義論に残された課題となっているのです。

 

三、社会主義の三つの基準② ── 社会主義的な計画経済

利潤第一の生産から国民のくらし第一の生産に

 資本主義社会では、生産の無政府状態が支配しており、一八二五年以来ほぼ十年に一度の恐慌がくり返されています。二〇〇八年の世界的経済危機(リーマン・ショック)は、百年に一度の大恐慌といわれ、「資本主義限界論」がマスコミに公然と登場するようになりました。
 この恐慌は、利潤第一主義の資本主義社会に固有の病であり、そのたびに生産力と生産物の浪費と破壊がくり返されています。なぜそうなるのかといえば、個々の資本(企業)は、利潤を求めて「生産のための生産」に突っ走りますが、他方労働者・国民の消費能力は貧困の進行にともない相対的に抑制されているところから、資本主義のもとではつねに生産が消費を上回るという「生産と消費の矛盾」が内在しているからです。はじめは覆い隠されているこの矛盾が次第に顕在化し、ついには爆発して「生産と消費の矛盾」の一時的かつ暴力的な解決により生産と消費の均衡を回復するのが恐慌です。恐慌によって生産力は急激に低下するため、一時的に消費との均衡を回復します。それによって景気回復し、再び「生産のための生産」がくり返され、「生産と消費の矛盾」を蓄積し、次の恐慌へという道をくり返していくのです。二〇〇八年の経済危機の直接の契機となったのはアメリカにおける住宅の生産と消費の矛盾でした。アメリカの住宅メーカーは、生産にみあう消費を人為的につくり出すために、いずれは破綻することが分かっているサブプライム・ローンにより、もともと住宅購入能力のない低所得者層の「消費」をむりやり作り出したものの、案の定ローン返済は不能となり「生産と消費の矛盾」が顕在化するに至ったのです。この住宅をめぐる生産と消費の矛盾のうえに、サブプライム・ローンの金融商品にして売りまくることによる金融経済と実体経済の矛盾が加わり、この二つの矛盾がともに爆発することによって世界的経済危機という大恐慌が生じたのです。
 社会が生産手段を掌握する社会主義のもとでは「社会的生産内部の無政府状態に代わって、計画的、意識的な組織が現われる」(全集⑳二九二ページ)ことになります。
 「社会主義的な」計画経済によって、資本主義的な利潤のための生産、「生産のための生産」から、国民のくらし第一の生産、「消費のための生産」に転換し、本来のあるべき経済の姿に立ち戻ることになります。ここに「社会主義的な計画経済」というのは、資本主義のもとでも「所得倍増計画」というように大企業本位の計画経済は存在するところから、それと区別する意味で「社会主義的な」という形容詞がついているのです。
 その結果一部の者が社会的な富を独占することによる貧富の格差拡大は解消され、国民は等しく豊かなくらしを保障されることになります。社会主義とは何よりも経済的平等を実現する社会なのです。しかしその平等主義とは直ちに全員一律の機械的平等を意味するものではなく、その業務内容、社会的役割、家族構成などもふまえて上下の格差を一定限度内にとどめる実質的平等の実現ということができます。
 また「社会主義的な計画経済」により、生産と消費の矛盾として生じた恐慌という資本主義に固有の病も解決されることになります。
 「もし連合した協同組合諸団体が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくしてそれを諸団体自身のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断の無政府と周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それは共産主義、"可能な"共産主義以外の何であろう」(『新メガ』1-22-143)。
 一九二九年の世界大恐慌にただ一つ巻き込まれなかった国がありました。それが生まれて間もないソ連だったのです。ソ連では「一九二九年から一九三二年までに鉱工業生産額は二倍にふえ、……一五〇〇の新しい大企業が建設された」(ソ連共産党中央委員会付属社会科学研究所編『コミンテルンの歴史』㊦四ページ)とされ、ここでも社会主義的な計画経済が生産の無政府性に対して優位性をもっていることが示されたのです。
 さらに計画経済のもとでは、工業と農業とのつり合いのとれた発展が可能となります。資本主義の利潤第一主義のもとでは、新しい機械の採用により無限に生産力を発展させ、それによって利潤を高めうる工業生産は、農業生産に対する優位性を保ちます。土地への依存度の高い農業生産は、機械に依存する工業生産に比べて生産力の発展が相対的に遅れたものとなり、利潤も相対的に少なくなるからです。
 それだけではありません。工業と農業の利潤の格差は、工業の集中する都市と、農業の集中する農村との間の所得格差を生みだします。工業と農業の利潤をめぐる対立は、都市と農村の対立を生みだし、農村から都市への人口移動を生みだし、都市の過密化と農村の過疎化とを生みだすことになります。
 したがって一定の農業保護政策がとられないかぎり、工業は農業を、都市は農村を駆逐することにならざるをえません。しかし、工業と農業は一国の経済を支える二大基幹産業であり、食糧の自給なくして、自立した経済はありえません。社会主義的な計画経済は農業保護政策をとることによって、工業と農業の、また都市と農村のつり合いのとれた発展と自立した経済を可能にするのです。
 現代の生産力はマルクス、エンゲルスの時代とは桁外れに大きくなっており、化石燃料の使用による二酸化炭素の発生によって地球温暖化は年々深刻になり、人類の生存条件そのものが否定されようとしています。またチェルノブイリ原発事故と並ぶ世界最悪レベルとなった福島原発事故は、いまなお放射性物質を外部に放出し続け、収束の見通しすらたっていません。原水爆のみならず、原発と人類も共存しえないことが明らかとなっています。もちろん地球の環境保全は一国の努力だけで実現できるものではありませんが、社会主義的な計画経済は、地球環境保全、クリーンで安全なエネルギー政策への転換にも道を開くものとなります。
 
計画経済は市場経済を否定しない

 マルクス、エンゲルスは生産手段を社会化して、社会主義的な計画経済が実現すれば、商品も、商品交換のための市場も、ひいては価値自体も消滅すると考えていました。
 例えばマルクスの『ゴータ綱領批判』では、「生産手段の共有を土台とする協同組合的社会の内部では、生産者はその生産物を交換しない。同様にここでは、生産物に支出された労働がこの生産物の価値として、すなわちその生産物にそなわった物的特性として現われることもない」(全集⑲一九ページ)とされています。
 同様にエンゲルスの『反デューリング論』でも、「直接の社会的生産と直接の分配」(全集⑳三一八ページ)とがおこなわれる社会では、「商品交換、したがってまた生産物の商品への転化(すくなくとも共同体の内部での)、それとともにまた生産物の価値への転化は、いっさい起こりえない」(同)としています。
 しかし社会主義的な計画経済というのは、経済の大枠である生産と消費、工業と農業などのマクロ経済をどう計画的にバランスを保ちつつすすめるかという問題であって、価値、商品、市場という経済の基本単位となるミクロ経済の問題に直接つながるものではなく、その間には巨大な距離があるということができます。したがって社会主義的な計画経済と市場経済とは矛盾するものではなく、局面を異にすることにより両立しうる関係にあります。市場には市場価値の変動をつうじて需要と供給の関係を調整したり、その競争原理をつうじて技術革新と生産性向上をもたらすなどの独自の機能があります。しかし反面では、市場での競争の強制法則は、資本の集中と弱肉強食、貧富の格差拡大というデメリットももっています。
 こうして社会主義的な計画経済と市場経済という対立物の統一は、二一世紀の社会主義の課題となっています。またヨーロッパ型資本主義のもとでは「社会的市場経済」というカテゴリーが使用されています。これは西ドイツに始まり、いまやEU二十七ヵ国の共通の経済的理念となっているものですが、資本主義的な市場経済と計画的な福祉政策との統一を実現しようというものです。ここにも計画経済と市場経済の統一に真理があることが示されているように思われます。
 したがって計画経済による価値、商品、市場消滅論は、二〇世紀の社会主義の実験をつうじて、行きすぎた議論であったことが証明されたといえるでしょう(拙著『エンゲルス「反デューリング論」に学ぶ』参照)。その誤りは、やがてソ連の社会主義建設上の問題として顕在化することになります。

 

四、社会主義の三つの基準③ ──「プロ執権」

「プロ執権」は「人民のための政治」を実現する民主共和制

 マルクス、エンゲルスが科学的社会主義の最初の綱領的文書として発表した『共産党宣言』では、「労働者革命の第一歩は、プロレタリアートを支配階級の地位に高めること、民主主義をたたかいとることである」(全集④四九四ページ)と宣言しています。
 社会主義とは、ブルジョアジーの国家としての資本主義国家を、プロレタリアートの国家に転換することにほかなりません。
 この当初の考えは、次第に発展して「プロレタリアート執権」(以下「プロ執権」と略す)として定着することになります。第七講の『人間解放論』でも、政治的アソシエーションを築くものとして「プロ執権」に触れましたが、もう少し別の角度から検討してみることにしましょう。
 第七講で、「プロ執権」とは労働者階級の政党(科学的社会主義の政党)の主導性のもとにおける「人民の、人民による、人民のための政治」を実現する権力であること、それはパリ・コミューンの経験をふまえて定式化されていったことを学びました。
 パリ・コミューンは、労働者階級の主導性のもとに徹底して普通選挙によって支えられた民主共和制の国家でした。「コミューンは、市の各区での普通選挙によって選出された市会議員で構成されていた。彼らは(選挙人にたいして)責任を負い、即座に解任することができた」(全集⑰三一五ページ)のであり、コミューン議員のみならず、行政、司法の職員、「治安判事や裁判官」(同三一六ページ)も同様でした。
 この経験をふまえ、エンゲルスはマルクス著「フランスにおける階級闘争」(一八九五年版)への序文で、一九世紀の階級闘争を総括して次のように述べています。
 「すでに『共産党宣言』が、普通選挙権の獲得、民主主義をたたかいとることを、戦闘的プロレタリアートの第一の、最も重要な任務の一つとして宣言していた」(全集㉒五一四ページ)。
 ここは、本章の冒頭に引用した『共産党宣言』の箇所を念頭においたものです。冒頭の引用文をみれば分かるように『共産党宣言』には「普通選挙権の獲得」という言葉はありません。しかしエンゲルスは、パリ・コミューンの経験からして、「プロ執権」の政治形態として普通選挙権にもとづく民主共和制という多数者革命を当初から構想していたことを強調したかったものと思われます。こうしてエンゲルスは、パリ・コミューンの経験もふまえ、普通選挙にもとづく民主共和制を「プロレタリアートの執権のための特有な形態ですらある」(同二四一ページ)としてとらえたのです。
 コミューンの敗北後、ヨーロッパの労働運動の重点はフランスからドイツに移ります。ドイツの労働者は一八六六年に実施された普通選挙権を積極的に活用し、社会主義政党は急速に成長します。それをみたエンゲルスは、ドイツの労働者は「これまでは欺瞞の手段であったものを、解放の道具にかえてしまった」(同五一四ページ)と高く評価し、選挙権が多数者革命という「解放の道具」に転化することにより、「一八四八年(二月革命――高村)まではどこでも最後の勝敗を決めたバリケードによる市街戦は、はなはだしく時代おくれ」(同五一五ページ)になったと断じました。
 こうして、エンゲルスは一八九二年二月六日付の手紙で「マルクスと私とは、四〇年も前から、われわれにとって民主的共和制は、労働者階級と資本家階級との闘争が、まず一般化し、ついでプロレタリアートの決定的な勝利によって、その終末に到達することのできる唯一の政治形態であるということを、あきあきするほど繰りかえしてきているのである」(同二八七ページ)として、「プロ執権」の「特有の形態」ないし「唯一の政治形態」が人民の普通選挙にもとづく民主共和制にあることを明らかにしたのです。
 しかし、「プロ執権」は、たんなる多数者の意志にもとづく民主共和制ではありません。資本主義のもとでの民主共和制は、やはり資本家階級の国家でしかありません。
 「民主共和制のもとでは、富はその権力を間接に、しかしそれだけにいっそう確実に行使する。一方では、これは直接に官吏を買収するというかたちでなされる。その典型的な見本はアメリカである。他方では、これは政府と取引所の同盟というかたちでなされる」(全集㉑一七一ページ)。
 エンゲルスがパリ・コミューンをとらえて「あれがプロレタリアートの執権だったのだ」(全集⑰五九六ページ)といったのは、それがたんに人民の普通選挙による民主共和制だったからではなくて、それ以上に「人民の、人民による、人民のための権力」、つまり人民主権の権力だったからです。では普通選挙による民主共和制という「人民による政治」のもとで、どうすれば人民の多数の意志を「人民のための政治」という一般意志に高めることができるのでしょうか。そのためには第七講で学んだように、「定形のない塊り」としての人民に、一般意志を提示し、その当為の真理のもつ力によって人民を導く導き手としての科学的社会主義の政党が必要となるのです。
 今回の福島原発事故をつうじて、原発の「安全神話」にはまったく根拠がなかったことが明らかとなりました。その「安全神話」を広めたのがアメリカと日本の「原発利益共同体」であり、彼らに抱き込まれたマスコミでした。朝日、読売、毎日をはじめとする日本のマスコミは、すべて彼らに買収されて「安全神話」の旗振りの役割を果たしたのです。これに当初から警告を発してきたのは、政党では日本共産党以外には存在しなかったところにも、人民の導き手としての科学的社会主義の政党の役割が示されています。

「プロ執権」は共産党の一党支配を意味するものではない

 二〇世紀の社会主義の実験をつうじて、社会主義とは科学的社会主義の政党の一党支配による、党=国家の体制であると理解されている向きもあろうかと思われます。
 しかし、これは「プロ執権」を誤解するものでしかありません。「プロ執権」とは科学的社会主義の政党の主導性のもとにおける人民主権の権力であり、「人民のための政治」は普通選挙という「人民による政治」をつうじて実現されることが予定されています。「人民による政治」とは、人民が政治結社をつくる自由を前提とするものであり、当然にも複数政党の存在を予定し、複数政党が存在するもとでの普通選挙ということになります。
 そういう複数政党のもとでの普通選挙によって、はたして「人民のための政治」を実現しうるのかが問題となります。そのためには政治活動・政治運動の完全な自由と民意を正確に反映しうる選挙制度が保障されなければなりません。人民のなかで自由に政治が語られ、自由にその意志を投票に反映し、真に民主的な普通選挙がおこなわれるならば、一般意志について人民的合意を形成することは必ずできます。なぜなら一般意志とは意志の「概念(真にあるべき姿)」であり、当為の真理、未来の真理を示すものであり、「真理は必ず勝利する」からです。逆にいえば科学的社会主義の政党は、人民的合意に達しうるような当為の真理を大衆の前に提示すると同時にその一般意志が人民の多数の意志となるように導き手としての責任を負っていることになります。複数政党が存在するもとで、科学的社会主義の政党が人民の「一般意志」を提示することにより、すべての政党がそれに導かれて「一般意志」の形成に合意し、その結果「人民のための政治」が実現されることになります。日本共産党は統一戦線をつうじて民主主義革命から社会主義革命へと「国民の合意のもと、一歩一歩の段階的前進」をするという展望を示していますが、統一戦線とは複数政党の存在を前提としながらも社会変革の目標で一致した統一した組織を意味しているのです。
 したがって社会主義国家における権力の担い手は、あくまで普通選挙という多数者によって選ばれた人民の権力であり、科学的社会主義の政党ではありません。科学的社会主義の政党の役割は、あくまで一般意志を提示し、それが人民の多数の意志となるよう人民の導き手になることにあります。党が統一戦線勢力とともに人民の代表として選ばれることは当然ありうることですが、党の役割はあくまで人民の導き手となることにありますので、党と国家とは普通選挙制を前提とするかぎり基本的には区別されることになります。
 こうして複数政党による普通選挙のもとで、党と国家とは区別されることになり、これによって党と人民とは国家に対する全人民的監視と統制を実現し、官僚主義、専制主義を防ぐことができるのです。

「プロ執権」は直接民主主義と間接民主主義の統一

 「パリ市民へ」と呼びかけた赤い貼り紙で、はじめてコミューンの名乗りを上げた「二〇区代表委員」(後の「二〇区共和主義委員会)」は、後のコミューンの綱領を先取りして次のように宣言しています。
 「コミューンは自律的でなければならない。すなわち自らを統治し、その特殊的能力、伝統、必要に従って自己管理し、政治的、国民的、連合的集団の中で、完全な自由と個性と、都市の中の個人としての完全な主権とを保持する、道徳的人格として存在しなければならない」(桂圭男『パリ・コミューン』一三二~一三三ページ)。
 いわば、コミューンは人民が自ら統治する人民自治の権力であり、コミューン議員や公務員が人民の利益に反するときはいつでも解任しうることにより、治者と被治者の同一性を実現する権力だったのです。マルクスが、コミューンを一方で労働者階級の主導性にもとづく「本質的に労働者階級の政府」(全集⑰三一九ページ)とよびながら、他方で「人民による人民の政府」(同三二三ページ)「人民自身の政府」(同三三五ページ)とよんだのは、この治者と被治者の同一性に注目したものにほかなりません。
 「普通選挙権は、支配階級のどの成員が議会で人民のにせ代表となるべきかを、三年ないし六年に一度決めるのではなくて、どの雇主でも自分の事業のために労働者や支配人をさがすさいには個人的選択権を役だてるのと同様に、コミューンに組織された人民に役だたなければならなかった。それに、会社の場合も、個人と同じに、実務の面では概して適材を適所に配置することを心得ており、たまたま選択を誤っても、すぐにそれを訂正することを心得ていることは、だれでも知っている」(同三一七ページ)。
 「プロ執権」とたんなる民主共和制とのもう一つの決定的違いは、たんなる民主共和制とは「三年ないし六年に一度」の選挙のときだけ人民は自由になり、あとは普通選挙で選ばれた代表者が自由に振る舞う間接民主主義であるのに対し、「プロ執権」では間接民主主義と直接民主主義という対立物が統一されているのです。すなわち「プロ執権」のもとでは、普通選挙にもとづく民主共和制という間接民主主義は、人民は選挙のときのみならず、いついかなるときも主権者として行動し、人民の代表者の動きをチェックし、場合によってはリコールするという直接民主主義によって補完されているのです。
 「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無に帰してしまう」(『社会契約論』一三三ページ)。
 ルソーはこう指摘することをつうじて、主権は譲渡もしえないし、代表もされえないとして、人民はいかなるときにも主権者であり続けることを強調したのです。
 すなわち、「プロ執権」は直接民主主義と間接民主主義を統一した民主的権力なのです。普通選挙により一般意志を体現し、間接民主主義を実現したとしても、人民主権の権力も権力であるがゆえに人民のうえにたつ存在であって、常に腐敗し、人民の一般意志から離反し、離脱し、官僚主義をもたらす一般的可能性をもっています。人民の草の根の組織である科学的社会主義の政党と労働組合のナショナルセンターはそれを不断に監視し、チェックし、軌道修正する役割をもっているということができます。
 生産手段の社会化によって搾取はなくなり、労働時間の短縮への道が開かれます。それは一つには余暇を利用して、人間の全面的発達の可能性が生まれることを意味しています。
 「社会の全員にたいして、物質的に完全にみちたりて日ましに豊かになってゆく生活というだけでなく、さらに彼らの肉体的及び精神的素質が完全に自由に伸ばされ発揮されるように保障する生活を、社会的生産によって確保する可能性、そういう可能性がいまはじめて存在するようになったのである」(全集⑳二九一ページ)。
 しかし、それだけにとどまるものではなく、二つには「社会の全般的な事務」(同一八八ページ)、とりわけ人民が自ら統治する事務に携わることを可能にします。
 人民は一個人として自由であると同時に、平等な主権者として自ら国家の統治に参加するのです。これが「プロ執権」のもとでの「政治的アソシエーション」にほかなりません。人民主権の政治とは第七講で学んだように、たんに「人民のための政治」を権利として認めるのみならず、それを人民の義務とします。人間解放とは人民が特殊的な一個人であると同時に普遍的な主権者として、個と普遍の統一した存在となることを意味しているのです。
 「現実の個別的な人間が、抽象的な公民を自分のうちにとりもどし、個別的人間のままでありながら、……類的存在となったときはじめて……人間的解放は完成されたことになるのである」(全集①四〇七ページ)。