『21世紀の科学的社会主義を考える』より
第一三講 レーニンの社会主義
一、レーニンの社会主義
十月社会主義革命
前講では社会主義とは何かという理論問題を論じましたが、今回からは二〇世紀の社会主義の実験という実践問題を論じることになります。
レーニン(一八七〇~一九二四)は、十八歳頃からマルクス、エンゲルスの著作を学びはじめ、すぐに頭角をあらわします。一九〇五年の第一次ロシア革命を指導しながらも敗北して亡命、国外からロシア革命を指導しつつ、一九一七年世界最初の十月社会主義革命を勝利に導き、ソビエト社会主義共和国連邦の初代人民委員会議長(国家元首)となります。
世界最初の社会主義をめざす国家の誕生が、いかに世界中に激震を与えたかは、アメリカの進歩的なジャーナリスト、ジョン・リードの名著『世界をゆるがした十日間』という題名に象徴的に示されていると同時に、社会主義革命の渦中で取材したジョン・リード自身がロシア革命に共感し、後にアメリカ共産党の創立に参加したことにも表れています。
革命政府は「平和についての布告」「土地についての布告」「ロシア諸民族の権利宣言」「勤労被搾取人民の権利の宣言」などの権利宣言を次々と発表し、全世界の労働者と被抑圧人民から熱狂的な歓迎を受けました。そこにはこれまでのどの資本主義国にもみられない真のヒューマニズムにもとづく人間解放の精神が満ちあふれていました。そしてこれらの権利宣言によって開かれた新境地は、国際法そのものを大きく変える力となったのです。
一九六六年国連で採択された「国際人権規約」は、A規約とB規約に分かれており、A規約は社会権、B規約は自由権を規定しています。それまでの権利宣言、つまりアメリカの独立宣言やフランスの人権宣言などのブルジョア民主主義革命には自由権はあっても社会権は存在しませんでした。労働の権利と休息の権利の保障(八時間労働制、有給休暇制)、国の負担による社会保障制度の確立、医療、教育の無償制などの社会権は、ソ連憲法によってはじめて規定され、ここに「社会権」という新しい権利がはじめて人類史上誕生します。A規約もそれをうけて制定されたものです。
この社会権の宣言が一つの契機となり、ロシア革命の影響が全世界に大きく広がるなかで、一九一九年のベルサイユ条約(第一次世界大戦終結の条約)により、加盟国の政府代表のみならず労・使の代表を含む異例の三者構成による「国際労働機関(ILO)」が誕生することになったのです。
またA規約の第一条には「すべての人民は、自決の権利を有する」と規定されていますが、この「民族自決権」の承認も十月革命直後の「ロシア諸民族の権利宣言」によってはじめて国際法上の権利として宣言され、国際的に承認された結果A規約に盛り込まれることになったのです。このロシア革命の直接の産物である民族自決権は、全世界の民族解放運動に理論的武器を与えることになりました。こうして二〇世紀初頭には独立国は二十ヵ国しか存在しなかったにもかかわらず、現在では植民地・従属国のほとんどが独立し、国連加盟国は百九十三ヵ国に達しています。
また国連憲章は、国際紛争の平和的解決の原則を明記しており、二一世紀に入ってこの原則は確実に実効性を発揮しつつあります。しかし二〇世紀初頭まで、国際紛争は武力によって解決し、戦勝国が敗戦国から領土を奪って拡張し、賠償金をとるという帝国主義戦争は当然視されていました。これに風穴を開けたのが「平和についての布告」であり、レーニンは革命勝利の翌日、第一次世界大戦の全交戦国に無併合、無賠償の即時講和による平和の実現を訴えて世界中を驚かせました。
「平和についての布告」により、領土併合、賠償の帝国主義戦争を違法視する考えが、歴史上はじめて登場することになりました。またレーニンはロシア革命への帝国主義諸国による干渉戦争の終了後は、平和共存をかかげて多国間の軍縮交渉をリードし、これが一つの契機となり、一九二八年不戦条約がほとんどの独立国参加のもとに終結されます。ここに歴史上はじめて紛争解決の手段として戦争に訴えることが違法であることが国際法として規定され、現在の国連憲章につながっていくことになるのです。
このようにソ連や東欧の崩壊後も、ロシア革命が示した社会主義の体制的優位性は、二一世紀の国際法として定着していることを忘れてはなりません。
レーニンの社会主義からスターリンの「ソ連型社会主義」へ
しかし歴史上はじめての社会主義国家の建設は、マルクス、エンゲルスの社会主義論に導かれてのものだったとはいえ、困難を極めるものであり、また試行錯誤の連続でした。そこにはマルクス、エンゲルスの社会主義論そのものの問題も含まれていたと同時に、レーニンによる独自の社会主義論の問題もありました。
それでもレーニンの指導した最初の段階ではロシアの後進資本主義という歴史的制約にもかかわらず、冒頭に述べたように社会主義的優位性を示す一連の積極的措置がとられました。しかし革命後わずか四年半の一九二二年五月にレーニンは脳血管の発作で倒れ、その後活動に復活するものの再び発作を起こして一九二四年一月二一日死亡しました。
レーニンの死後、その後継者となったのがスターリンです。彼はレーニンの敷いた社会主義の路線から大きく逸脱するのみならず、科学的社会主義の社会主義論からもかけはなれたいわゆる「ソ連型社会主義」をつくりあげ、ソ連の人民を専制主義によって抑圧すると同時にその覇権主義で各国にそれを押しつけました。しかもそれをレーニンの権威を利用して実現しようとし、科学的社会主義を「マルクス・レーニン主義」とよび、「レーニン主義は、帝国主義とプロレタリア革命の時代のマルクス主義」であると位置づけました。そして自分をレーニンの正当な後継者をもって任じたのです。
それ以後科学的社会主義の学説は、それまでの「マルクス主義」に代えて一般に「マルクス・レーニン主義」とよばれるようになりました。日本共産党も一九七〇年半ばまでこの呼称を使用してきましたが、ソ連の「社会主義」からの逸脱が次第に明確になると同時に、個人の認識の限界からしても、また全世界の革命的実践をつうじて不断に進歩・発展する学説であることからしても、個人の名前を称するのは適当でないとして、一九七六年第一三回臨時党大会で「科学的社会主義」を統一呼称とすることに改めました。
したがってソ連の社会主義を論じるにあたっては、同じ社会主義ではあってもレーニンの時代の社会主義と、スターリン以降の「ソ連型社会主義」とを同列に論じることはできません。両者は連続性と非連続性の統一という関係にあるのです。そこで第一三講でレーニンの社会主義、第一四、一五講で「ソ連型社会主義」の建設と崩壊を、社会主義の三つの基準にてらして検討してみることにしましょう。
二、レーニンの生産手段の社会化
生産手段の国有化
エンゲルスは、『反デューリング論』で「プロレタリアートは国家権力を掌握し、生産手段をまずはじめには国家的所有に転化する」(全集⑳二八九ページ)とし、「そうすることであらゆる階級区別と階級対立を揚棄し、そうすることでまた国家としての国家をも揚棄する」(同)と述べ、生産手段の社会化とはすなわち国有化のような表現もしています。『反デューリング論』を愛読していたレーニンは、この箇所に学んだのか、生産手段の社会化すなわち国有化と考えていたようです。
彼が十月革命直後に起案した「勤労被搾取人民の権利の宣言」(レーニン全集㉖四三三ページ)では、「人が人を搾取することをすべてなくし、社会の階級分裂を完全にとりのぞ」くために、「土地の私的所有を廃止」(同)して「全勤労人民の財産」(同)にするとともに、「工場、鉱山、鉄道、その他の生産手段、運輸機関」(同)と「すべての銀行」(同)を国家の所有とすることを宣言し、実行しました。
その結果、土地と工場はすべて国有化され、農民は国家から土地を貸与される自営小農民となりました。工業生産物は国家が直接所有・管理し、農業生産物のうち農民の食べるもの以外の余剰農産物はすべて国家が徴発し、工業に従事する労働者・国民に分配することになります。いわば農民の犠牲で工業を発展させ、生産も消費もすべて国家が管理することになったのです。
これは第一二講で学んだ『ゴータ綱領批判』や『反デューリング論』に示されたマルクス、エンゲルスの見解をそのまま引き継ぎ、生産手段の国有化と社会主義的な計画経済により、商品も、商品交換のための市場も、ひいては価値自体も消滅させてしまおうとするものでした。
全人民的な記帳と統制
こうした生産手段の国有化のうえにたって、レーニンは社会主義の当面の任務を生産と分配の国家的管理に求めました。
「ロシアの社会主義革命における、プロレタリアートとそれに指導される貧農との主要な任務は、幾千万の人々の生存に必要な物資の計画的な生産と分配とを包括する新しい組織的諸関係の、きわめてこみ入ったこまかい網をあみ上げるという、積極的なあるいは創造的な仕事である」(「ソヴェト権力の当面の任務」レーニン全集㉗二四三ページ)。
レーニンは、この任務を「物資の生産と分配とのもっとも厳格な全人民的な記帳と統制とを組織すること」(同二四七ページ)とよび、これをもって「社会主義への移行」(同)の決定的任務と考えました。
国家が生産と分配のすべてについて「全人民的な記帳と統制」をおこなうことになれば、商品も商品交換のための市場も消滅することになってしまいます。こうしてソ連では「市場経済」とか「商売の自由」、言いかえると商品交換の自由は、社会主義建設上の敵となるスローガンとされるに至ったのです。
三、レーニンの社会主義的な計画経済
上からの中央集権的な計画経済
生産と分配を全人民的な統制のもとにおくということは、生産と分配のすべてについて上からの中央集権的な計画経済(指令経済)のシステムが採用されることを意味していました。経済活動のすべてを国家が掌握し、国家の指令にもとづいて生産も分配もおこなわれることになりました。指令経済をおこなう中央機関として国家計画委員会(ゴスプラン)が設立され、資源、原材料の管理と供給を計画的に決定する中央機関として国家供給委員会(ゴススナブ)が設立されました。
国有企業は国家の計画にしたがい、国家が提供してくれた原材料を使って生産し、生産物は国家がすべて所有・管理することになります。労働者の場合は、これまでの資本主義的な生産と同様に生産物は自己所有物ではなく給与をもらって働くという形態に変わりはありませんが、農民の場合はこれまでと違って余剰農産物をすべて徴発されてしまうのですから、自営小農民になっても何のメリットもないことになります。そこから農民の不満が爆発し、一部に暴動にまで発展しました。農民の犠牲で工業を振興させるというやり方そのものが、農民と労働者との間の対立・矛盾を生みだしたのです。人口の八割が農民という農業国であるソ連において、ソビエト政権はいったんは土地の国有化と自営農民化によって農民の支持をとりつけたものの、余剰農産物の徴発によって国民の大半を占める農民が離反したのでは、政権を維持することはできません。
そこでレーニンは、一九二一年一〇月「全人民的な記帳と統制」路線を転換し、「市場経済をつうじて社会主義の道へ」という大胆な路線転換をおこないます。これがいわゆる「新経済政策」(ネップ)とよばれるものです。それまでレーニンの頭には、市場経済は社会主義とは両立しないとの固定観念があったのですが、とりわけ農民の反乱の前に、市場経済導入にふみきらざるをえなかったのです。
ネップへの転換
レーニンは、ネップの当面の「『全力をあげてつかまなければならない』環」(レーニン全集㉝一〇三ページ)は、農民と労働者との間の矛盾の解決にあり、それは「国内商業の振興」(同)にあると考えました。「幾千万という小農民と大工業とのあいだに可能なただ一つの経済的結びつきは、商業である」(同一〇五ページ)とされたのです。
しかし、他方で市場経済の導入と商業の自由化は資本主義復活の危険を内包しています。というのも、資本主義の台頭にとって必要なものは、第六講「資本主義社会の人間疎外」で学んだように、自由な商品交換の可能な市民社会が存在するだけで十分だからです。そこでレーニンは、経済全体の要をなす部門を「瞰制高地」(同四四四ページ)として国家が管理する社会主義建設の拠点とし、市場での競争によっても資本主義の部門に負けない社会主義部門をつくることで、ネップのもとでの社会主義の建設は可能だと考えました。それと同時に、ネップのもとで、農業の集団化・社会化の問題を当面の課題から外し、小規模経営のままで、余剰農産物の商品化を認めることで、農民と長期にわたって同盟を組むことが基本方針として確認されました。
しかし、一九二一年一二月、レーニンは病気休暇に入り、一九二二年五月には最初の発作に見舞われます。そのためネップの政策体系を築くためにレーニンが使用できたのは一九二一年一〇月から二三年三月までの一年五ヵ月にすぎませんでした。結局レーニンはネップについてのまとまった論文や演説を残すことはできず、ネップは未完に終わってしまうことになります。
生産の無政府性を克服する計画経済なくして社会主義はありえません。しかしそれはあくまでマクロ経済の問題であって、需要と供給の調節、競争原理にもとづく生産力の発展と高品質・低価格の製品の開発などのミクロ経済の問題は、自由な商品交換を保障する市場経済のもつ独自の機能であって、これを否定することはできません。ネップによりマルクス、エンゲルスの予想しなかった社会主義的な計画経済と市場経済の統一という新しい社会主義の実験に踏みこむことになりました。それは新たな社会主義論への挑戦であると同時に、反面からすれば、レーニンも危惧したように、市場経済のもたらす競争原理は、資本主義を生みだす温床にもなりうるものでした。
こうして社会主義における計画経済と市場経済という対立物の統一の問題は、二一世紀に残された課題となっているのです。しかもレーニンの「ネップ」は労働者と農民の間の矛盾を解決するものとして提起されたのに対し、中国、ベトナムの「社会主義市場経済」は生産力を発展させることを目的として市場経済を導入したものであり、社会主義をめざす国が生産力を発展させるには市場経済を導入するしかないのか、という問題がつきつけられているのです。
一九二三年三月レーニンは三度目の重い発作に襲われ、回復することのないまま二四年一月に死亡しました。後継者となったスターリンは、ネップを中断したばかりではなく、二九年から三〇年にかけて農民から穀物を強制的に取りあげる「農業集団化」を強行し、次第に「ソ連型社会主義」へと変貌させていくことになります。
四、レーニンの「プロ執権」
レーニン流「執権論」
第一二講で学んだように、「プロ執権」とは、科学的社会主義の政党の主導性のもとに、人民主権の政治を実現することを意味していました。
レーニンは、マルクス、エンゲルスの国家論、革命論を学んで『国家論ノート』(大月書店)とそれをもとにした『国家と革命』(レーニン全集㉕)にまとめています。それにロシア革命における独自の経験を積み重ねて、レーニンは結果的に本来の「プロ執権」と一八〇度異なる執権論をつくりあげてしまうことになります。
まずレーニンは、「プロ執権」を実現したパリ・コミューンに関し、マルクス、エンゲルスが「コミューンは、『労働者階級は、できあいの国家機構をそのまま掌握して、自分自身の目的のために行使することはできない』……ということを証明した」(全集⑱八七ページ)と記した『共産党宣言』の「一八七二年ドイツ語版」への「序文」に注目します。これはいうまでもないことですが、資本家階級の階級支配の機関としての資本主義国家の国家機構は、人民支配の国家機構につくりかえなければ、そのままでは行使できないということを意味していました。
しかし、レーニンは「革命はそれを、このできあいの機構を、粉砕して、新しい機構とおきかえなければならない」(『国家論ノート』一〇ページ)と読みかえ、粉砕されるべき「できあいの機構」を民主共和制、つまり普通選挙制度のうえにたつ議会制民主主義として理解すると同時に、おきかえられるべき「新しい機構」とはソビエトであると考えたのです。
しかし第六講で学んだように、国家とは一方でその全構成員の共同利益を実現する機関という仮象をもちながら、他方で階級支配の機関という本質をもつ、現象(仮象)と本質の対立物の統一の機関です。したがって社会主義国家では、資本主義国家のもつ共同の利益実現の側面は拡大しつつ、階級支配の側面は縮小、廃止しなければならないのであって、国家機構のすべてを粉砕の対象とすることは一面的、機械的な態度といわなくてはなりません。ここでも「すべてのものは対立している」とみる弁証法の見地が求められているのです。
レーニンの一面的国家観によって、国家に関する全問題は「古い(できあいの)国家機構および議会を、労働者代表ソヴェトおよびその受任者たちとおきかえること、と。この点に核心がある!!」(同五五ページ)ととらえられるに至ります。
ソビエト=「プロ執権」
こうして「労働者・兵士代表ソヴェトは、パリ・コミューンがつくりだし、マルクスが『労働の経済的解放をなしとげることのできる、ついに発見された政治的形態』」(レーニン全集㉔五二ページ)とするソビエト=「プロ執権」の全く新しいレーニン流「執権論」が誕生することになります。
ここでは、普通選挙にもとづく民主共和制が「プロ執権」の特有の形態であることも、「プロ執権」が人民主権論と結びつく概念であることも忘れ去られ、「プロ執権」とは普通選挙とも民主共和制とも無縁な、また人民主権からも切り離されたソビエトであると規定されることになったのです。
さらにレーニンは、執権とは何かの問題を提起して、次のように規定しています。
「執権という科学的概念は、なにものにも制限されない、どんな法律によっても、絶対にどんな規則によっても束縛されない、直接強力に依拠する権力以外のなにものも意味しない」(レーニン全集⑩二三三ページ)。
これもまたソビエトを「プロ執権」とみなしたことから生じた規定ということができます。ロシア革命は、一九一七年二月ツァーリズムを打倒する「二月革命」により、ブルジョア的な臨時政府とソビエトの「二重権力」の時代に入ります。レーニンは「全権力をソビエトへ」とソビエトによる全権力の掌握を提起して、武装蜂起によって臨時政府を打倒して十月社会主義革命を勝利させたのです。こうした条件のもとでは、ソビエトという「直接強力に依拠する権力」が、臨時政府の法令に制限されない権力でなければならないのは当然のことです。しかしそれを直ちに「執権」に結びつけることは、普通選挙制にもとづく議会を最高機関とする民主共和制を否定することにつながっていったのです。
レーニン流「執権論」と民主主義
こうしてソビエト=「プロ執権」とするレーニン流「執権論」は、さらに一歩すすみ、民主主義そのものへの攻撃に向かうまでに至ります。まずレーニンは、「プロ執権」との関係で、民主主義を対立する二つの民主主義に区分します。
一つは、ブルジョア民主主義、つまり資本主義社会の民主主義であり、これは「少数者のための、有産階級だけのための、富者だけのための民主主義」(レーニン全集㉕四九七ページ)であって、「徹頭徹尾、偽善的で、いつわりの民主主義」(同四九九ページ)と断じています。
ここにもブルジョア民主主義の本質と現象を区別しえないレーニンの一面性があらわれています。
ブルジョア民主主義はすべての人民に自由と民主主義を保障するという現象をもちつつも、「富者だけのための民主主義」という本質をもつ、現象と本質の対立物の統一なのです。例えば、民主主義を代表する権利の一つである表現の自由には政治活動の自由が含まれています。政治活動の集中的表現となるのが選挙運動です。ところが歴代日本政府は選挙活動と政治活動は区別されるという屁理屈をつけて「べからず選挙法」によって戸別訪問もビラ配布も街頭宣伝も厳しく制限して日本共産党の政治的躍進を抑え込もうとし、他方で自分たちの企業ぐるみ、労組ぐるみ選挙や高級官僚の地位利用の選挙を野放しにするという「富者だけのための民主主義」を貫いているのです。
このブルジョア民主主義の本質と現象の対立という二面性をみることなく、それを「徹頭徹尾、偽善的で、いつわりの民主主義」と一面的に規定することは、逆に誇張にすぎて誤りに転化するものとなります。日本国憲法に自由と民主主義を規定していることは、人民のたたかいに法的根拠を与えるものとしての意義をもっていることはいうまでもありません。
二つは、「プロ執権」という民主主義です。これは「富者のための民主主義ではなしに、貧者のための民主主義、人民のための民主主義」(同)とされます。しかし「プロ執権」は「抑圧者、搾取者、資本家にたいして、一連の自由の除外例」(同)をもうけ、これらのものは民主主義の対象から除外されるとしています。
レーニンは「プロ執権」をブルジョア民主主義に対立するカテゴリーとしてとらえました。そうであれば、ブルジョア民主主義はその本質において一部の者の民主主義であるのに対し、「プロ執権」はその本質上すべての人々の民主主義でなければなりません。しかしレーニンは、両者を対立するカテゴリーとしてとらえながら前者を一面的にとらえたために、後者もまた逆の一面性においてとらえ、どちらも一部の者の民主主義に変質させてしまったのです。
特に「プロ執権」という概念によって「抑圧者、搾取者、資本家」の自由を抑圧し、民主主義の対象から排除しているのは問題だといわなければなりません。もともとギリシア語のデモクラティアは「人民の支配」を意味していますから、民主主義というカテゴリーは、人民の意志にもとづく統治と人民の統治意志決定への参加保障を意味しています。本講座では、人間の類本質の一つである「共同社会性」から共同社会を維持・発展させるのに役立つような社会的諸関係(対等、平等、相互尊重など)が生まれ、それが人間にとって普遍的かつ本質的な人間的価値としての民主主義として意識のうえに反映されることをお話ししてきました。
したがって民主主義を、例え少数の者であるとしても一つの階級に属する人々を抑圧する概念としてとらえることは、概念矛盾といわざるをえません。それだけではありません。社会主義・共産主義とは何よりも人間解放の理論であり、「人間をいやしめられ、隷属させられ、見すてられ、軽蔑された存在にしておくようないっさいの諸関係」(全集①四二二ページ)をくつがえし、人間を「人間にとっての最高の存在」(同)にすることを至上命令とする真のヒューマニズムの理論です。したがってどんなに少数ではあってもその例外を認めることは、社会主義・共産主義の理念そのものをも否定することになりかねません。
このレーニン流「執権論」は、「プロ執権」の名によって民主主義一般をブルジョア民主主義として否定すると同時に、一部の者ではあっても人間への抑圧を合理化する理論であったところから、すべての権力を掌握するソビエトとソビエトに組織されていない一般国民との間の民主主義的関係をも危ういものとする危険性をはらんでいたのです。それは国家と人民との関係を支配・服従ではなく、治者と被治者の同一性を実現するアソシエーションとすることの否定にもつながるものでした。
結局「革命はプロレタリアートが『行政機関』と全国家機関とを破壊して、それを武装した労働者からなる新しい機関」(レーニン全集㉕五二六ページ)、つまり「全一の権力をもつ全能の労働者・兵士代表ソヴェト」(同)に代えることを意味し、このソビエトが一般大衆を指導することにより、ソビエトと一般大衆とは指導・非指導の関係としてとらえられることになります。「プロレタリア的指導、組織され集中されたプロレタリアがこれらの大衆を指導しなければならない」(『国家論ノート』五四ページ)ということになれば、一般民主主義が否定される状況のもとにあって、ソビエトと一般大衆との間の指導・被指導、ひいては支配・従属という構造が合理化されることになります。
ソビエトのなかでソ連共産党が支配的な勢力に成長すると、一党支配の構造が国民の普通選挙による審判を受ける機会のないまま長期に固定されることになるのであり、また現実にそうなっていったのです。
五、レーニン流「執権論」の展開
コミンテルンの加入条件としての「プロ執権」論
第一次世界大戦がはじまるなかで、帝国主義戦争に協力した第二インターナショナルは崩壊し、一九一九年三月レーニンの指導のもとに第三インターナショナル(コミンテルン)が結成されます。
この創立大会でレーニンの起草した「ブルジョア民主主義とプロレタリアートの執権とについてのテーゼと報告」(レーニン全集㉘四九〇ページ)が採択されます。それは両者を対立する概念としてとらえるものであり、コミンテルンの最重要の決定とされました。以後、「ブルジョア民主主義か、それともプロレタリアート執権か」という二者択一がコミンテルンの基本方針として定着することになります。
しかしこれは哲学的に考察すると「あれかこれか」の形式論理学であって、真理は、科学的社会主義の政党の主導性と人民主権の統一という本来の意味の「プロ執権」にあるのです。
一九二〇年七月、コミンテルン第二回大会は、ロシア革命がヨーロッパ革命に転化しつつあることを思わせ、レーニンとコミンテルンの権威が大きく高まった情勢のもとで開かれました。大会には四十一ヵ国から二百人の代議員が参加し、レーニンは大会に向けて執筆した「第二回大会の基本的任務についてのテーゼ」のなかで、レーニン流「執権論」をさらに一歩すすめ、極端化しています。そこでは「ブルジョア国家機構全体、議会、司法、軍事、官僚、行政、自治体、等々の機構を、下から上まで破壊し、……搾取階級全体の真の服従を保証する」(レーニン全集㉛一七八ページ)という、ブルジョア国家機構全体の破壊と、階級敵の「真の服従」まで要求するものとなっています。
特に問題となるのは、議会主義と人民主権の問題であり、「共産党と議会主義についてのテーゼ」にまとめられています。これはレーニンの同意のもとにブハーリンがまとめたものですが、ここで決定的ともいえる「プロ執権」の転換が行われることになります。
人民主権の否定
「議会主義は、ブルジョアジーの執権からプロレタリアートの執権への過渡期におけるプロレタリア的国家統治の形態でもありえない。……この段階では、およそ『人民の総意』という擬制は、プロレタリアートにとって直接に有害である。議会的な権力分立は、プロレタリアートには不必要で、有害である。プロレタリア執権の形態はソビエト共和制である」(「コミンテルン資料集」①二二四ページ)。
ここでは議会主義と立法、行政、司法の三権分立が否定されているだけでなく、「人民の総意」を有害だとしていることに注目してください。
「人民の総意」をカギ括弧にっているのは、「ヴォロンテ・ジェネラル」というルソーの『社会契約論』の人民主権を意味する有名な言葉の引用だからです。第一二講でプロ執権とは、科学的社会主義の政党の主導のもとにおける「人民の、人民による、人民のための政治」、つまり人民主権の政治であることをお話ししましたが、その人民主権のカギとなるのが「人民のための政治」です。ルソーはそれを「一般意志」(人民の真にあるべき政治的意志)にもとづく統治としてとらえたのであり、この「一般意志」が「ヴォロンテ・ジェネラル」なのです。
つまりここでは、単に議会主義を否定するにとどまらず、「ヴォロンテ・ジェネラル」を「プロレタリアートにとって直接に有害」とすることによって、「プロ執権」概念の不可欠の要素であった人民主権論まで否定し、ひいては「プロ執権」を民主主義そのものに敵対する概念に変えてしまったのです。
マルクス、エンゲルスの「プロ執権」論は、第七講で学んだように、ヘーゲルの提起した「人民主権は人民のなかから生まれなければならないが、『定形のない塊り』としての人民のなかから生まれることができない」という矛盾の解決として提起されたものでした。すなわち科学的社会主義の政党の主導性によって人民の前に人民の「一般意志」を提起し、そのもとで人民が一つにまとまることにより人民主権の権力を打ちたてるというのが「プロ執権」論でした。それは科学的社会主義の政党の主導性と人民主権という対立物の統一によって、ヘーゲルの提起した矛盾を解決したのです。
しかしレーニン流「執権論」は、最後には人民主権論そのものを否定することによって、科学的社会主義の政党の主導性のみを強調することになり、本来の「プロ執権論」を否定するところまで行きついてしまったのです。
民主主義の戦術的、一時的利用
では議会主義を否定することは、労働者階級の代表が議会に進出することまで否定することになるのかといえば、そうではないというのです。というのも当時ドイツでは、労働者階級の代表がどんどん普通選挙権を利用して議会に進出しており、さすがにレーニンもその事実を否定することまではできなかったからです。先の「テーゼ」は次のように述べています。
「それゆえ、ここで問題となりうるのは、ブルジョア国家機関を破壊する目的でこれらの機関を利用することだけである。この意味で、もっぱらこの意味でのみ、この問題を提起することができる」(同)。
議会を破壊するために議会を手段として利用する、つまり民主主義を否定するために民主主義を手段として利用するという、人を愚弄するような戦術、策略(マヌーバー)には首をかしげざるをえませんが、実は第三講でお話しした日本共産党の最初の綱領草案(二二年テーゼ)も、以下にみるようにこの見地にたっています。
「プロレタリアートの執権のためにたたかうことをその目標とする日本共産党は、……ブルジョア民主主義の敵であるにもかかわらず、過渡的スローガンとして、天皇の政府の転覆と君主制の廃止というスローガンを採用し、また普通選挙権の実施を要求してたたかわなければならない。……したがって、民主主義的スローガンは、日本共産党にとっては、天皇の政府とたたかうための一時的な手段にすぎないのであって、この闘争の過程で当面直接の任務――現存の政治体制の廃止――が達成されるやいなや、無条件に放棄されるべきものである」。
民主主義を否定するために民主主義を利用するというこの綱領草案の立場は、コミンテルン第二回大会の「共産党と議会主義についてのテーゼ」の立場をそのまま受け継ぎ、コミンテルン主導のもとに綱領草案が作成されたことを意味していたのです。
こういうレーニン流「プロ執権」論が、ソ連国内の方針とされただけならまだしも、それがコミンテルンという国際組織の方針となったのですから、その影響は甚大でした。しかもコミンテルンは、民主主義的中央集権制にもとづく世界の共産主義運動の統一的な組織とされ、各国共産党はコミンテルン世界大会で選出された執行委員会のもとで、コミンテルンの一支部として活動するものとされていました。それに加え第二回大会で二十一ヵ条の厳しい加入条件が定められ、その条件の一つに、レーニン流「プロ執権」論の承認が定められていたのですから、この「プロ執権」論は二〇世紀の社会主義の実験全体をつらぬく最も太い理論的な柱となったのです。
コミンテルンのもとで、世界各国に共産党・労働者党が創立されますが、そのすべての党が、このレーニン流「プロ執権」論の立場にたつことになり、それは一九四三年のコミンテルン解散、いやそれ以後にまで続くことになります。
しかも後にみるように、この「プロ執権」論は、スターリン指導下でさらに歪曲され、党官僚という新しい階級の支配あるいは共産党の一党支配体制による「人間抑圧型の社会」(日本共産党綱領)という「ソ連型社会主義」にまで到達する契機となるのです。
コミンテルンが日本共産党に押しつけようとした三一年「政治テーゼ草案」も、民主主義一般を否定するレーニン流「プロ執権」論の産物ということができるでしょう。
レーニン流「執権論」と官僚主義
一九一八年から一九二一年初期までの期間は、一般に「戦時共産主義」とよばれています。革命直後の国内戦と干渉戦争によって工業と農業は破壊されつくし、そのうえソビエト政権は膨大な内外の敵軍に対して革命政権をまもるたたかいを強いられたところから、この時期はもっとも厳格な政府統制と食糧割当徴発制度の時期でした。言いかえると、最も権力の集中が求められる時期だったということができるでしょう。
それはレーニン流「執権論」のもとで官僚主義が台頭してきた時期でもありました。革命直後の一九一八年三月にロシア共産党第八回大会で早くも官僚主義の問題が論議され、「全住民が行政に参加するときにだけ、われわれは官僚主義と徹底的にたたかい、これにたいして完全な勝利をおさめるまでたたかうことができる」(レーニン全集㉙一七二ページ)と指摘したうえで、ロシアでは低い文化水準のためにそれに成功しておらず、したがって官僚主義の解決は「長期の教育」(同)を必要とするとされました。
そこで採択された綱領には、「労働組合が経済の運営に参加し、広範な大衆をそれに引き入れることは、同時に、ソヴェト権力の経済機関の官僚主義化とたたかう主要な手段でもあり、生産の結果に真に人民的な統制をくわえる可能性をもたらす」(同㉜一〇〇ページ)と記されています。
ソ連崩壊の原因について、「対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ」(日本共産党綱領)とされています。
それだけに革命直後から早くも官僚主義が台頭してきたことは重要であり、なぜそうなったのかが解明されなければなりません。革命直後から官僚主義が問題になっているということは、ソ連の国家機構そのものに問題があったことを意味しています。それを一言でいえば、レーニン流「執権論」と中央集権的指令経済そのものが官僚主義の温床になっていたということができるでしょう。だからこそレーニンも最初から官僚主義とのたたかいが長期化し、簡単には解決しえないことを自覚していたのです。また当時国内の反革命勢力が「ソビエト権力の打倒」(同一九八ページ)をめざし、ソビエト権力を官僚主義として批判していたことも、官僚主義とのたたかいを一層複雑にするものでした。
一九二一年五月「大衆の自主活動は、官僚主義的な中央管理機関と呼ばれる腫瘍を根絶するときはじめて可能である」(同㉟五四〇ページ)とする意見に対し、レーニンは、「『中央管理機関』を『取りのぞく』? つまらないことだ。あなたはそのかわりに何を設置するのか?」(同五四一ページ)と問い返し、次のように回答しています。
官僚主義的「腫瘍を『取りのぞく』ことはできない。それは治療することができるだけだ。外科手術はこのばあいばかげているし、不可能だ。ゆっくり治療することだけだ。……農民的でしかもひどく疲弊した国での官僚主義との闘争には、長い時間が必要だ。そしてはじめの不成功にくじけることなく、根気づよくこの闘争をおこなうことが必要である」(同五四〇~五四一ページ)。
ソビエト=「プロ執権」というレーニン流「執権論」のもとでは、官僚主義の発生はある意味で不可避的であり、この「執権論」にたつかぎり官僚主義は「取りのぞく」ことはできないのであって、「治療することができるだけ」なのです。
実はここに本来の「プロ執権」が科学的社会主義の政党の主導性と人民主権という対立物の統一であることの意義が存在しています。レーニン流「執権論」は、結果的に科学的社会主義の政党の主導性を一面的に強調するものとなり、ついには人民主権を否定するところにまで到達しました。レーニンも指摘したように官僚主義は「全住民が行政に参加するときだけ」、つまり人民主権の権力が真に実現され、権力が全人民的監視と統制のもとにおかれるときにのみ克服することができる病弊です。したがって人民主権を否定するレーニン流「執権」論のもとでは、どんなにレーニンがそれを「治療」し、克服しようとしても、決して成功することはなかったのです。
そしてこの官僚主義は、スターリンのもとでその極限にまで達し、スターリンの神格化と個人崇拝、専制主義にまで到達することになります。
「プロ執権」の真理は、科学的社会主義の政党の主導性と人民主権という対立物の統一にあるのであって、それを実現してこそ、官僚主義を「取りのぞく」ことができるのです。
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