『21世紀の科学的社会主義を考える』より
第一七講 ユーゴの自主管理社会主義とその崩壊 ②
一、自主管理社会主義の成果と八〇年代の「経済危機」
自主管理の成果
ユーゴスラビアの自主管理社会主義は、経済活動における生産者が主人公、政治活動における人民が主人公という社会主義の理念をかかげた社会主義の実験でした。しかも一九五〇年の「自主管理法」制定以来、「七四年憲法制定」までの二十四年の歴史は、自主管理を徹底させる方向での改革の連続だったということができます。言いかえると、自主管理はその大筋の理念において正しかったというのみならず、実践的にも政治的・経済的に大きな成功を勝ちとったために、自主管理を徹底させる改革へと歩んできたということができます。
ユーゴ共産主義者同盟中央委員会幹部会執行書記だったドルーロビィチは、一九七三年に出版した『試練に立つ自主管理』において、五〇年以来の自主管理を次のように中間総括して、「及第点」を与えています。
「ユーゴスラヴィアの直接的な社会的実践をみれば、人間的な面でも物質的な面でも、自主管理には及第点をつけることができる。物質的な面では、ユーゴスラヴィアは、後進国の中で、工業先進国と後進世界を隔てているギャップを縮めることに成功した唯一の国である。人間的な面では、自主管理は、資本主義、社会主義を問わず発達した産業社会にみられるテクノクラート支配や官僚制への強い収斂傾向に対する選択肢として現われることがますます多くなってきている。自主管理は、現代社会主義が直面している最大の難問に解答を与えることができそうである」(同二六七~二六八ページ)。
つまり自主管理社会主義は、七三年当時の「ソ連型社会主義」が「直面している最大の難関」である生産力の発展の問題でも党官僚という新しい階級の支配の問題でも「解答を与えることができそうである」と自信のほどを示しています。しかもそれは、ユーゴがマルクスの示した「共産主義の基本的なヴィジョン」に忠実であったからだと総括しています。
「マルクスにあっては、共産主義の基本的なヴィジョンは、人間から疎外された権力、すなわち政治的ヒエラルキーと官僚制の揚棄によって達成され、その核心は『生産者の自治』にあった。……『人間は人間にとって最高の存在である』と、マルクスは言っている。この言葉によってマルクスは、新しい社会の新しい社会関係を主張したのであった」(同二六二ページ)。
前講でユーゴの党が五二年に「共産党」から「共産主義者同盟」に名称変更したのは、ソ連共産党とは異なるマルクスの党に立ち戻る決意を表明するものだったとお話ししましたが、自主管理社会主義も本来の科学的社会主義の社会主義論に立ちかえり、社会主義・共産主義を「人間を最高の存在とする」真のヒューマニズムの社会、人間解放の「生産者の自治」の社会ととらえ、その社会主義の理念を追求してきたというのです。
そして結論として、「わが国の自主管理は、まだ多くの点で完全とはいえない。しかし、われわれの周辺にはモデルにしたくなるような、もっと完全で人間的な社会は見当らない。われわれは、開始したものをさらに発展させ、前進させた」(同二七七~二七八ページ)として他に例をみない体制的優位性を示した社会主義国と評価しています。
ユーゴの自主管理社会主義の四半世紀の実践をつうじて、「共産主義の基本的ヴィジョン」が人間解放にあることをあらためて明確にし、人間解放の「理念」に接近しつつあることを中間総括で確認していることは、ジラスのいう「新しい階級」の指摘を無視する自画自賛の面を差し引いたとしても、「ソ連型社会主義」に対する圧倒的優位性を示すものといっていいでしょう。
こうした中間総括のうえにたって、自信をもって自主管理をさらに徹底する「七四年憲法体制」へと前進します。しかしこの「七四年憲法体制」のもとでユーゴ経済は七三年の第一次石油危機の影響を受けて七〇年代後半から次第に陰りを見せ始めます。七九年の第二次石油危機と世界的な不況を契機として悪化の一途をたどり、八〇年代の「経済危機」とそれを原因とする民族間・共和国間の対立の激化につながっていくのです。
八〇年代の「経済危機」
まず社会的生産物の成長率は、七〇年代は五パーセント台だったのに対し、八一年から八七年にかけて〇・八パーセントに急降下し、社会的生産物にしめる粗投資の割合は、七〇年代後半の約三六パーセントから、一九パーセント以下に低下します。他方インフレーションは「一九八七年には三桁になり、八九年には四桁に突入し、ついに年率二六〇〇パーセント」(暉峻衆三他『ユーゴスラビア社会主義の実像』一七八ページ、リベルタ出版)という爆発的インフレを記録します。
このため実質個人所得は「ピーク時の一九七九年を一〇〇とすると、八四年は七二にまで低下」(同一七九ページ)し、失業率は社会主義諸国では異例に高い一四・七パーセント(八八年)に達しました。「一九八三年末には対外累積債務は二〇五億ドルに達し、GDPの約四分の一」(同)を占めるまでになりました。
南北間の経済格差も拡大し、八〇年対八七年の一人あたりの個人所得(全体を一〇〇とする)は、スロベニア共和国では一一九対一五七に増大しているのに対し、コソボ自治州では遂に八一対六八に減少しており、八〇年代に入ってそれまでに存在していたスロベニアとコソボ間の所得格差はさらに拡大していき、八〇年代だけでスロベニアの個人所得はコソボの二・三倍(一五七/六八)にも達したのです。
こうした「経済危機」の要因は、対外的要因があったにせよ、主たる原因は「七四年憲法体制」そのものにあったということができるでしょう。
なぜそれまでうまくいっていた自主管理が、「七四年憲法体制」のもとで経済危機につながっていったのでしょうか。それは「理想と現実の統一」の観点からすれば、理想の問題でも現実の問題でもあったのであり、どちらも社会主義の三つの基準を「ソ連型社会主義」のアンチテーゼとしてとらえることからくる一面性に傾斜していったところにその原因が求められるのではないかと思われます。いわば「ソ連型社会主義」もその一面性によって崩壊したのと同様に、ユーゴの自主管理社会主義はその逆の一面性に傾斜していくことによって崩壊していったのです。
それを社会主義の三つの基準の視点からみていくことにしましょう。
二、社会主義的な計画経済をめぐる矛盾
下からの計画と上からの計画の矛盾
ソ連における中央集権的な計画経済は、たんに官僚主義の温床になったというのみならず、上からの計画の限界をも示すことになりました。
それは「上から物量の生産を中心指標とする計画目標がおろされ、その遂行が法的に義務づけられること、また、資源の配分も中央の資材・機械補給局が直接分配する」(聴濤弘『世紀と社会主義』二〇九ページ)という「量的生産第一主義」でした。例えばある冶金工場で水力発電用により改善された発電機を開発したところ、従来のものより三百トン軽く、六千キロワット強力なものとなりました。しかし工場の総生産高目標は、トン数で定められていたために、強力で軽いその発電機は、以前の性能の悪い発電機よりも安い価格となり損をしてしまったそうです(同二一一~二一二ページ)。
また、この欠陥をなくそうとして「総生産高」という量的指標に加え、質を考慮した指標や原価を下げるための指標などをつけ加えていったところ、最後には数えきれないほどの指標になってしまい、企業は身動きとれなくなってしまった、というのです(同二一五ページ)。
この事実は、社会主義的な計画経済も、市場原理を活用しないと合理的な計画になりえないと同時に、上からの計画と下からの計画が組み合わされなければならないことを示しています。言いかえると、計画経済の真理は、計画経済と市場経済の統一、上からの計画と下からの計画の統一という対立物の統一にあるということができます。
ユーゴの自主管理にもこの経験は生かされていました。自主管理も初期の段階では、計画作成にあたって企業内での労働者の主体性・自主性が尊重されながらも、中央集権的な計画経済により、マクロ的な生産・分配計画、投資計画による計画経済は確保され、個々の企業への指針とされていました。いわば上からの計画と下からの計画が統一されていたのです。
しかし「七四年憲法体制」のもとで過度の分権化が進むことになり、「連邦機関が弱体化し、共和国からコミューンへと権限が分散され、結局、何百とあるコミューン組織と何万とある連合労働組織(日本の会社や事業所に当たる)が何もかも決定」(岩田昌征『凡人たちの社会主義』一八ページ、筑摩書房)することになります。
上からの一定の経済的政策をもとにすすめられる計画経済にとってかわって下から上へと協議を積み重ねていく「協議経済」に転換していったのです。
「これらの計画においては、計画作成における下から上への原則が貫かれており、計画は連合労働基礎組織、労働組織およびその連合体、近隣共同体、コミューン、自治州、共和国、そして連邦といった順で作成かつ調整される」(中央大学社研『自主管理の構造分析』二八三ページ)。
これは上からの計画を事実上放棄するものであり、民主的ではあっても、国家的見地にたった生産・分配・投資計画の樹立を困難にします。計画経済における個(基礎組織)と普遍(国家)の統一が否定され、結局は後者が犠牲にされることになってしまいます。
社会主義的な計画経済と市場経済との矛盾
六〇年代の市場経済の導入のもとで、ユーゴは七〇年代末まで比較的高い成長率で経済発展をとげました。GNPの年平均成長率は「六一~六五年は六・八%、六六~七〇年は五・八%、七一~七五年は五・九%、七六~八〇年は五・六%」(暉峻他前掲書一七八ページ)であり、戦前のユーゴはヨーロッパで最も経済成長の遅れた地域であったのに、七〇年代半ばには中所得国になり新興工業国の一つに数えられるまでになりました。しかし市場経済の導入は反面からすると競争原理によって貧富の格差も拡大し、共和国間の経済格差を拡大していくことになりました。
ユーゴはもともと経済的に豊かなスロベニア、クロアチア、貧しいセルビアという共和国間の経済格差があったところに、全面的な市場経済が導入されたのですから、本来なら連邦国家は社会主義的な計画経済により経済格差を解消する経済政策を同時に打ち出さなければならなかったのです。しかし実際には「七四年憲法体制」のもとで「緩い連邦制」がとられ、共和国の経済主権が実現されるなかで社会主義的な計画経済は共和国内に貫徹できず、格差解消に有効に機能しませんでした。
そこには官僚制と官僚主義を同一視する理論的誤りがあって、社会主義的な計画経済自体とそれを作成する経済官僚を官僚主義として否定しようとする傾向が働いていたのです。官僚制とは国家機構を支える人的施設ですから、社会主義国家においても不可欠の存在であり、この官僚制とそこから派生する官僚主義という病弊とは関連はしながらも区別しなければなりません。官僚主義とは規則をたてに杓子定規な態度をとる形式主義、傲慢な人民を見下す態度などを意味しています。国家が存続するかぎり官僚制は肯定されなければなりませんが、官僚主義は否定されなければなりません。ユーゴでは、官僚制と官僚主義の同一と区別の弁証法を理解しえなかったために、自主管理に対する国家権力(官僚制)の干渉を排除しようとする傾向を伴っていたのです。
こうして「七四年憲法体制」のもとでは、国家の管理する計画的な「中央投資フォンド制」(岩田前掲書一八ページ)が廃止されることにより、「今日、社会的生産物の四〇パーセントが投資されながら、経済成長率は零に近い」(同)という、無駄な設備投資が行われることになります。その結果「ユーゴスラヴィアを旅行すると、一〇〇キロメートルおきに失敗した投資の残骸にぶつかる」(同一五ページ)「失敗した投資の数や規模において、ユーゴスラヴィアはヨーロッパの中で首位を争うのではなかろうか」(同)といわれるまでになりました。
それでも失敗した投資が国内に蓄積された資産に基づくものであれば、将来の拡大再生産が先にのばされるにとどまりますが、実際には、投資のための資金は各共和国が外国から借り入れることで調達されたのです。一九七七年の「外為法」により、外貨収入は国家にではなく、借り入れした共和国に帰属することになったため、外貨は各共和国に自由に持ち込まれ、流通し、二重通貨体制となります。それによって国内通貨の価値が下がって、途方もないインフレになると同時に、共和国間、コミューン間の経済関係も薄れ、それぞれが外国に直結し、かつ従属していき、統一的な計画経済は機能せず、国内統一市場も失われてしまったのです。
この外貨貸し付けの中心となったのが、国際通貨基金(IMF)です。IMFはアメリカ主導のもとで新自由主義型国家独占資本主義を推進する立場にたっており、市場原理を振りかざして国際金融面から発展途上国への植民地主義的政策をすすめる機関としての性格をもっています。IMFは各共和国の資金調達にあたり、貸し付けの条件としてユーゴに市場原理の徹底と社会主義の放棄を求め、ゆさぶりをかけます。アメリカ大使は「われわれの陣営にとどまれ。さすれば、国内で何をしでかそうとも、債務の返済を続けようとする限りは、われわれは最後までみてやろう」(阿部望『ユーゴ経済の危機と崩壊』一三三~一三四ページ)と方言したといわれています。
こうしてユーゴは、IMFの思惑どおりに社会主義を放棄することになるのです。それは社会主義的な計画経済と市場経済の統一という社会主義の基準から逸脱し、市場経済にのみ傾斜していった当然の帰結ともいうべきものでした。
三、生産手段の社会化をめぐる矛盾
生産者と消費者の矛盾
生産手段の社会化は、社会主義の三つの基準の中心をなすものであり、生産手段の私的所有を廃止することにより、搾取と階級を廃止しようというものです。生産手段の社会化には、実は二つの側面があります。一つは、社会が生産手段を所有するという場合の社会的所有の主体とは一体誰なのかという問題です。これは社会化における人と物との関係の側面、生産力の側面ということができます。二つは、生産手段の社会化とはどのように社会化するのかという問題であり、これは「生産者の自由なアソシエーション」にみられるような、社会化における人と人との関係、生産関係の側面といえます。
ユーゴでは、第一六講で紹介したカルデリの言葉にみられるように、生産手段の社会化(ユーゴでは「社会的所有」とよばれていた)を人と人との関係としてのみとらえていたので、人と物との関係、つまり生産力の発展という側面が軽視されることになります。
「七四年憲法体制」における民主化の徹底は、生産力の発展にどのように影響したのでしょうか。一九七〇年代のユーゴ経済は、一方では平均して約六パーセント弱の経済成長率を維持しましたが、他方でこの間投資と消費の合計である総支出は総生産(所得)をたえず七パーセント上回り続け、そのため通貨を増発し、外国からの借款に頼らざるをえませんでした。
岩田氏が、その原因を労働者のなかの生産者性と消費者性の矛盾としてとらえているのは卓見だと思います。例えば、「ある連合労働組織で一〇〇万ディナールの所得をいかに投資と個人所得に分配すべきか、が討論されている」(岩田前掲書四二ページ)と仮定してみましょう。その場合、「技術革新を重視すれば、投資七〇万ディナールと消費三〇万ディナール」(同)となり、「生活充実を重視すれば、投資三〇万ディナールと消費七〇万ディナール」(同)となります。
しかし「協議経済」のもとで、この違いはいわば生産者か消費者かの立場の違いですから、協議しても合意に達することは容易ではありません。そこで「もしも、消費七〇万ディナールと投資七〇万ディナールの合計一四〇万ディナールを、自己資金一〇〇万ディナールのほかに借入れ金四〇万ディナールを利用してファイナンスできるならば、短時間で人々は合意できる」(同四三ページ)ことになります。
利潤第一主義の資本主義的企業の場合でしたら、こうした無責任な借り入れに対してはブレーキが働くことになります。しかし「七四年憲法体制」のもとにあって「社会的所有」とは、「なんびとも社会的生産手段に対する所有権を有していない」(憲法序文、基本原則Ⅲ、第四項)というわかりにくい規定になっており、その解決をめぐってユーゴの内部でも議論が定まりませんでした。要するに生産手段は誰のものでもなく、「社会的所有」とは、労働に応じて取得するものだというのですから、生産力がどうなろうと生産物がどのように分配されようと誰も責任をとる者がいないことになります。この見地にたつかぎり生産性の向上とか、効率的な運営とか、企業の損益というような人と物との関係は軽視されざるをえません。
自主管理では、労働者集団と労働者評議会が意志決定をし、それを企業長以下の経営会議が執行することになりますが、経済的損失が生じたとき、誰が責任をとるかは明確にされていなかったのです。
「企業活動の失敗が明らかになったとき、労働者集団と労働者評議会は企業長以下、専門的経営委員会のメンバーが真剣に決定を実行しなかったから失敗したと非難し、他方、企業長以下、専門的経営委員会のメンバーは労働者評議会の決定があまりにも政治的であり経済的無知に満ちたものであったと嘆くのが普通である」(中大社研前掲書二七六ページ)。
このような「社会的所有」の無責任体制のもとにあっては、先ほどの例で所得は一〇〇万ディナールにもかかわらず一四〇万ディナールの合意が容易に形成されるであろうことは想像に難くありません。こうして、投資と消費の合計はたえず総生産を七パーセント以上上回り続け、財政赤字を蓄積していくことになったのです。
もしこの借入額の四〇万ディナールをすべて通貨の増発によって賄うとすれば、インフレーション率は、四〇パーセント(140÷100=1.4)となります。
「また、借入れ額四〇万ディナールのうち二〇万ディナールが外国からの信用供与であるとすれば、インフレーション率は、140÷120≒1.17 、約一七パーセントであり、これが一九七〇年代のユーゴスラヴィア経済を表現する模式である。次に、逆に外国への元利返済が二〇万ディナールであるならば、140÷80≒1.75 、約七五パーセントのインフレーション率になり、これが一九八四年のユーゴスラヴィア経済を表現する模式である」(岩田前掲書四四ページ)。
結局ユーゴでは、「社会的所有」における人と人との関係(生産関係)は重視されながら、人と物(生産力)との関係が重視されなかったために、労働者のもつ生産者性と消費者性の矛盾により、インフレ経済への道を歩まざるをえなくなったということができます。
このようにユーゴの経験は、生産手段の社会化には生産力の社会化と生産関係の社会化という二つの側面があることを歴史上はじめて鮮明にしたのです。ユーゴでは生産関係の社会化の側面のみが強調され、生産力の社会化の側面が軽視されることによって八〇年代の経済危機が生じたのであり、真理は生産力の社会化と生産関係の社会化という対立物の統一にあることがあらためて明らかになったのです。すなわち人と人との関係に関わる生産関係の問題は個々の企業に委ねられるべきものでしょうが、人と物との関係にかかわる生産力の問題については社会主義的な計画経済のもとにおいて経済の持続的発展を可能にするような国家的生産目標が設定され、それにしたがって個々の企業の生産目標も設定されるべきものでしょう。こうした生産力と生産関係の統一が実現してこそ、生産手段の社会化は経済的アソシエーションであると同時に国民のくらしをより豊かなものに発展させていくことができるのです。
岩田氏は、「貨幣錯覚に頼らないでは基本的経営問題に関して合意できない以上、社会全体の利益をはかる国家、その実体装置である官僚制が経済運営を誘導するノルマティーヴやパラメータを設定する役割を社会的に必要なものとして承認すべき」(同)であるとし、先の例に戻ると、その場合「各労働集団は投資率四〇パーセント、消費率六〇パーセントを選択」(同四五ページ)すれば「インフレーションによる媒介を必要としない」(同)と指摘します。
この指摘に対し、著名なマクシモヴィッチ教授は「あなたの官僚制の役割を評価する発言は、わが国の現状では良い一言だった」(同)と評価してくれたそうです。先にも一言したように、官僚制と官僚主義とは区別すべきものであり、官僚主義は否定されなければなりませんが、社会主義的な計画経済を推しすすめる官僚制は必要なのです。
個と普遍の矛盾
社会主義社会においては、生産者が主人公、人民が主人公ですから、企業において生産者は経営に参画し、国家において人民は自ら統治しなければなりません。人民は、個人としての立場と同時に企業の主人公、国家の主人公という普遍的立場をもつ個と普遍の統一の立場にあります。
しかしユーゴの自主管理のもとで、個と普遍は次第に分裂していくことになるのです。労働者は生産と分配の主役として位置づけられていましたが、実際には「経営戦略的な領域よりも労働条件、人事問題への参加を希望」(中大社研前掲書二八八ページ)し、「経営管理機能に属する問題には、提案することのみならず共同決定的な参加にもそれほどの関心を示してはいなかった」(同)のです。そのため生産力の問題にかかわる「職場規律の確立やインセンティヴやモラールといった問題は、資本主義的企業における労務管理上の手法としてしか考えられず、自主管理企業におけるその機能と役割はほとんど無視されてきた」(同二八ページ)のです。
「強力なリーダーシップによって分権化と参加のプロセスが一定程度に押さえられ、『慈善的な独裁者』によってリードされた企業の方が経済改革(七四年憲法体制――高村)以降の状況に逞しく対応し、高い組織効率を達成していった」(同二九〇ページ)という逆説を生みだすことにもなりました。
ヘーゲルがいうように人民主権のもとにあっては、生産者の企業への経営の参加は「生産者が主役」となるための権利であると同時に義務であって、生産者は経営に参加するという義務を履行することによってはじめて解放されるのです。科学的社会主義の政党の主導性は、この権利と義務の面でも発揮され、企業における個と普遍の統一が実現されなければなりません。しかし自主管理のもとでそれがたんなる権利としてしかとらえられなかったところから、生産者の経営参加は消極的なものとなり、個と普遍の対立が固定化されるに至ったのです。
四、「プロ執権」をめぐる矛盾
「七四年憲法体制」と「プロ執権」
「プロ執権」とは、科学的社会主義の政党(共産党)の主導のもとにおける人民主権の権力であり、言いかえると共産党の主導性と人民主権の統一です。
第一六講で学んだように、ジラスによる『新しい階級』の出版の影響もあったのか、五七年の共産主義者同盟第七回大会では人民が主人公の立場を押し出すと同時に、党の積極的役割を否定する方針を採択しました。それは党の主導性を後景に追いやると同時に、人民もまたその導き手を失うことにより「人民のための政治」を実現しえない危うさをもつことになりました。いわば「プロ執権」は党の主導性の面でも人民主権の面でも後退することになったのです。
「七四年憲法体制」は「プロ執権」の問題に関して、二つの重要な方針を決定します。一つは「緩い連邦制」であり、もう一つは七四年の共産主義者同盟第一〇回大会で党の「指導的役割」が再び前面にかかげられたことです。
まず「七四年憲法体制」は、官僚主義批判と一体化した官僚制(国家権力)批判となり、連邦よりも共和国、共和国よりもコミューンへとその重点を移す分権化、自由化となってあらわれ、「緩い連邦制」とよばれました。
国家の最高の政策決定機関は連邦幹部会ですが、その構成は六共和国各三人、二自治州各二人、それに国家元首のチトー大統領の二十三人で構成されました。この「緩い連邦制」は連邦統一国家といっても事実上共和国・自治州の協議機関となり、その「調停者」として共産主義者同盟議長の肩書きをもったチトー大統領が位置づけられたのです。
また党の「指導的役割」が再び正面にかかげられたものの、それは理論的主導性を発揮して人民の導き手となることを意味するものではなく、「調停者」として連邦を統合し、共和国間の矛盾を連邦軍を使って強権的に抑圧することを意味するにすぎませんでした。皮肉なことにそのいずれもが党の主導性も人民主権をも空洞化することになり、「プロ執権」はその内実を失っていくことになるのです。また党の主導性の後退は、自主管理社会主義の基本理念である人間解放を忘却のかなたに追いやってしまったのです。
連邦の党と共和国の党との矛盾
八〇年代の「経済危機」のなかで、急激なインフレによる国民生活の圧迫、共和国間の経済格差にともない、国民の批判は「経済危機」にすみやかに対処しえないユーゴ共産主義者同盟や連邦政府に向けられることになります。また共和国間の格差を背景として、一方では経済的に遅れたセルビア共和国では連邦の権限強化を求めると同時に、他方で先進経済のスロベニア、クロアチア共和国は連邦解体を求め、「緩い連邦制」のもとで各共和国の共産主義者同盟もユーゴ共産主義者同盟の存在を無視して独自の動きをはじめます。
その最初の契機となったのが、セルビア共和国のミロシェビッチでした。彼は「七四年憲法体制」のもとでセルビアはクロアチアやスロベニアに比べ政治的・経済的に差別をこうむってきたとして、その改善のために八九年三月共和国内のコソボ、ボイボディナ自治州の権限を縮小してしまいます。それを機にコソボ内のアルバニア人とセルビア人、モンテネグロ人との対立関係は激化し、いわゆる「コソボ問題」をめぐってセルビアとスロベニアの共産主義者同盟は激しく対立することになります。
こういう共和国間の矛盾をさらに加速させたのが、九〇年の自由選挙でした。東欧革命とそれを受けてのソ連の覇権主義の脅威の消滅によって連邦国家における諸民族の結束のタガが緩み、そのなかでたたかわれた初の自由選挙で各共和国では民族主義をかかげる政党が大きく進出します。それに各共和国の共産主義者同盟も同調していくことになるのです。
各共和国の共産主義者同盟は、ユーゴ共産主義者同盟の存在を無視して独自の方針を採択していくことになります。まず八九年二月「スロヴェニアでは、共産主義者同盟自らの主導により、複数政党制への第一歩が踏み出され」(柴前掲書一五二ページ)、一二月には、クロアチア共産主義者同盟が「複数政党制の導入を承認」(同一五三ページ)し、セルビア共産主義者同盟も、その「共産主義者同盟の指導的地位の放棄と政治的複数主義を承認して、複数政党制の方針を打ちだし」(同)ました。
ユーゴ共産主義者同盟は、各共和国の共産主義者同盟の動きに追従し、九〇年一月ユーゴ共産主義者同盟第一四回臨時大会が「一党体制の放棄と複数政党制による自由選挙」(同)を掲げて開催されますが、「民主集中制」の原則を否定し、連邦からの分離独立を主張するスロベニアが大会から退場するに及び、「ユーゴ共産主義者同盟は分裂し、解体し」(同)、こうして連邦自体の解体につながっていくのです。
結局「緩い連邦制」は「緩いユーゴ共産主義者同盟」を意味するところとなり、党の主導性を失い、自ら解体するところまで追いこまれてしまったのです。「緩い連邦制」のもとで党が理論的主導性の役割を担うのではなく、各共和国の共産主義者同盟の「調停者」の役割にとどまることは、各共和国の矛盾が激化してもはや「調停」不能となったとき、ユーゴ共産主義者同盟もその存在意義を失って解体されざるをえなくなってしまったのです。
党と人民との矛盾
また別の側面からすると、党が「調停者」としての役割を果たしえなくなるもとでの党の「指導的役割」とは、共和国間の矛盾に対し、連邦軍を使って軍事介入し、内戦を引きおこし、党と人民との矛盾を拡大することにしかなりませんでした。
まず最初に独立宣言した九一年のスロベニア、クロアチア共和国に対し、ユーゴ共産主義者同盟=連邦国家は、連邦軍を出動させて独立を阻止しようとし、いわゆる「スロベニア戦争」「クロアチア内戦」を引きおこしました。
先にもみたように、セルビア共和国とスロベニア、クロアチア共和国とは、連邦強化か解体かをめぐって対立していたところから、こうした内戦に介入することにより連邦軍は次第にセルビア人色を強め、セルビア人保護の立場から内戦に介入することになります。それを象徴するのが、九二年の「ボスニア内戦」でした。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国では、ムスリム人、セルビア人、クロアチア人の三民族が長い間共存してきたのですが、九一年一〇月、ムスリム人主導でセルビア人の反対にもかかわらず「独立確認文書」を採択したのに対し、連邦軍がセルビア人保護を理由に軍事介入し内戦へと発展していったのです。
こうして自主管理社会主義のもとで人民が主人公の理念をかかげてきたユーゴでは、民族紛争にかかわる連邦軍の軍事介入によって、人民主権はあとかたもなく消滅していったのです。
「自主管理社会主義の国ユーゴは、東欧諸国のなかで最も『民主的』な国と見なされてきたが、八〇年代の民族対立を通じて最も『民主化』が遅れた国となってしまった」(柴前掲書一五二ページ)。
結局、党の主導性と人民主権のどちらもその本来の意義を喪失し、「プロ執権」そのものが否定されることになってしまいました。ユーゴ共産主義者同盟は党の主導性の役割を果たせなくなると同時に、人民主権の政治も実現できず解体に追い込まれ、もはや統合の絆を失ったユーゴも解体せざるをえなくなるのです。
五、真理は対立物の統一に
ユーゴの自主管理社会主義は、「ソ連型社会主義」のアンチテーゼとして出発することによって、マルクス、エンゲルスの提起した社会主義の三つの基準にも対立した二つの側面があることを明らかにし、対立物の統一にのみ真理があるとする弁証法に接近する功績を残しました。すなわち自主管理社会主義はその理念において、 生産手段の社会化に関して、ソ連の党官僚の支配に対する生産者が主人公を、 社会主義的な計画経済に関して、ソ連の極度に中央集権的な計画経済に対する計画経済と市場経済の統一を、 「プロ執権」に関して、ソ連の一党(党官僚)支配に対して党の主導性と人民主権の統一を、それぞれ対置したのです。
しかし「七四年憲法体制」のもとで、実践的には自主管理社会主義も「ソ連型社会主義」と同様にまた一面的なものになっていきました。生産手段の社会化に関しては、生産力の発展が問題視され、社会主義的計画経済に関しては上からの計画経済の軽視と市場経済への一面的傾斜がすすみ、「プロ執権」に関しては、党の理論的主導性が発揮されず、人民主権も民族紛争で形骸化されてしまいました。
しかし第一〇講の弁証法で学んだように、重要なことは「あらゆる現実的なものは対立した規定を自分のうちに含んで」(『小論理学』上一八六ページ)いるとしてとらえるにとどまらず、「対象を対立した規定の具体的統一として意識すること」(同一八六~一八七ページ)にあるのです。つまり「ソ連型社会主義」もそれに対立するユーゴの「自主管理社会主義」もいずれも一面的な社会主義にすぎないのであって、「社会主義論」の真理は、このユーゴの経験もふまえながら、社会主義の三つの基準について対立物の統一としてとらえることが求められているように思います。すなわち「生産手段の社会化」とは、生産力の社会化と生産関係の社会化の統一を、「社会主義的な計画経済」とは、計画経済と市場経済の統一、上からの計画と下からの計画の統一を、「プロ執権」とは、党の主導性と人民主権の統一を、それぞれ意味しているのではないかと思われます。
二一世紀の社会主義の探究も、弁証法という真理認識の唯一の形式の採用なくしてはありえないように思います。対立する二つの極は、それ自体では絶対的に区別された自立的統一のうちにあるのであって、それを統一するには自立的統一を媒介的統一にかえ、かつ対立を揚棄する運動が求められるのです。
おかれている具体的な政治的・経済的状況のもとで、何と何をめぐる対立なのかという対立する二つの極を明確にし、真理は対立物の統一にあることを示して人民の導き手となり、運動を組織するところに、科学的社会主義の政党の果たすべき役割があるのです。
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