『21世紀の科学的社会主義を考える』より

 

 

第二〇講 二一世紀の社会主義を考える

 

一、社会主義の三つの基準への反省

三つの基準は定式化されたものではない

 第一二講で、科学的社会主義の社会主義論とは、生産手段の社会化、社会主義的な計画経済、「プロ執権」の三つの基準をもつ社会だとお話ししました。それは「社会的生産と資本主義的取得」という資本主義社会の基本矛盾を解決して「社会的生産と社会的取得」を実現する社会であり、そのために、三つの基準が必要となるのです。「プロ執権」によって生産手段の社会化を実現し、社会化された生産手段によって搾取と階級を廃止し、社会主義的な計画経済によって経済活動を人間自身の支配と統制のもとにおくことで「社会的生産と社会的取得」の社会を実現しようというものです。
 この社会主義の三つの基準は、一般的に『空想から科学へ』によって定式化されたものとされています。
 「プロレタリアートは公権力を掌握し、この権力をつかって、ブルジョワジーの手からすべりおちてゆく社会的生産手段を、公共の財産に転化する。この行為によってプロレタリアートは、生産手段をそれの従来の資本としての性質から解放し、生産手段の社会的性格に、自己を貫徹する完全な自由をあたえる。あらかじめきめられた計画にもとづく社会的生産が、このときから可能になる」(全集⑲二二五ページ)。
 この箇所は『空想から科学へ』の最後のまとめの部分において「中世社会」「資本主義革命」との対比において述べられた「プロレタリア革命、諸矛盾の解決」(同)の文章です。確かにここでは社会主義の三つの基準が述べられているのですが、エンゲルスはこれに続けて「人間は、ついに自分自身の社会的結合の主人になり、それによって、同時に自然の主人に、自分自身の主人になる――すなわち、自由になる」(同)としています。ここにいう「自由」が第四講で学んだ「概念的自由」であることはいうまでもありません。
 つまりエンゲルスは、社会主義の三つの基準といわれるものも、人間が真に「自由になる」ための前提としてとらえているのです。そこから資本主義から社会主義への移行は「必然の国から自由の国への人類の飛躍」(同二二四ページ)としてとらえられ、マルクスは史的唯物論を定式化した『経済学批判序言』において、資本主義をもって「人間社会の前史は終る」(全集⑬七ページ)と規定したのです。
 こうしてみてくると、マルクス、エンゲルスは社会主義の三つの基準といわれるものも、人間解放という真の自由と民主主義を実現するための手段としてとらえているように思われます。
 日本共産党が、第一九回党大会(一九九〇年)において、東欧の崩壊を受け、社会主義の三つの基準だけでは社会主義の優位性を発揮するのに十分ではないとして、それ以外に「民主主義が、内容、形式ともに、資本主義国での民主主義よりもっと充実・発展すること」などを含む「四つの基準」を示したのもその一例といえるでしょう(『社会科学総合辞典』の「社会主義社会」の欄参照)。
 このことは、「共産党宣言」のえがく未来社会にもはっきりと示されています。
 「階級と階級対立のうえに立つ旧ブルジョア社会に代わって、各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような一つの協同社会(アソシエーション――高村)が現われる」(全集④四九六ページ)。
 アソシエーションとは、人々が支配・従属の関係においてではなく対等・平等の関係において自由に結合する民主主義的な協同社会です。したがって社会主義とは、人間解放という真のヒューマニズムにたった自由と民主主義の全面開花する社会としてとらえられていることに注目しなければなりません。三つの基準も、人間の類本質の一つである人間的価値としての自由と民主主義との関係を抜きに論じることはできないように思われます。

二〇世紀の社会主義の実験をふまえた社会主義の真にあるべき姿

 とりわけ二〇世紀の社会主義の実験のうえにたって二一世紀の社会主義の真にあるべき姿を展望するとき、社会主義をこれまでの三つの基準でとらえることへの反省が求められているといわなければなりません。
 一つには、「ソ連型社会主義」が「人間抑圧型の社会」となったことのなかには、スターリンの個人的資質の問題があったにせよ、これまでの社会主義論には「人間抑圧型の社会」をもたらしうるような理論的弱点が潜在していたのではないか、という疑問です。ソ連が崩壊した現在でも、中国の「人間抑圧型」の政治には国際的な非難も強いだけに、この問題はけっして過去の問題として切りすてることを許さないのです。ソ連は社会主義とは無縁の存在であったというだけでは、二一世紀の社会主義批判の論陣を打ちくだくことはできないでしょう。
 二つには、第二講、第三講で学んだように一九世紀前半に登場した社会主義思想は、フランス革命のかかげた「自由・平等・友愛」の精神を受けつぎ発展させたものであり、この社会主義思想を科学にまで発展させた科学的社会主義の社会主義論は、自由と民主主義を本質的要素として含んでいるはずなのに、三つの基準ではそれが必ずしも明確にされていないのです。
 三つには、科学的社会主義の社会主義論には、人間解放論が横たわっています。社会主義社会を一言で表現すれば、人間を疎外から解放し人間を「最高の存在」とする人間解放の真のヒューマニズムの社会ということができるでしょう。第三講から第七講にかけて「人間論」を学んだのも、マルクスの人間解放論は人間の本質論、人間疎外論との関連のうちにとらえなければならないこと、人間解放論が人間の類本質としての「自由な意識」と「共同社会性」の回復とあわせて、人間的価値としての自由と民主主義の全面開花する真のヒューマニズムの実現にあることを理解することにありました。しかしこれまでの社会主義の三つの基準では、人間解放による人間的価値の全面開花の問題を正面からとらえることはできなかったのであり、その弱点が「ソ連型社会主義」となって顕在化したとみることができるでしょう。
 四つには、第一六講、一七講で学んだように、二〇世紀の社会主義の実験は、社会主義の三つの基準にも実は対立する二つの側面があることを明らかにしました。それを顕在化させたのはユーゴの自主管理社会主義であり、それは「ソ連型社会主義」というテーゼに対するアンチテーゼとして登場することによって、三つの基準のそれぞれについて二つの側面があることを明らかにしたのです。ヘーゲルは「すべてのものは対立している」という有名な命題を打ち出しましたが、その命題は社会主義の三つの基準についてもそのまま妥当することが証明されたのです。
 しかしヘーゲルは、第九講、一〇講で学んだように、「すべてのものは対立している」ことを明らかにするにとどまらず、すべてのものにおける真理は、対立する二つの極の相互媒介による「対立物の統一」にあることを明らかにしました。弁証法とは分析と総合という対立物の統一としての真理認識の唯一の思考方法なのです。まず与えられた対象を分析することによって、その内部に対立する二つの側面があることを明らかにし、次いで総合により対立する二つの側面を媒介させることによって対立を揚棄して統一を実現するのです。したがって社会主義の三つの基準のそれぞれにおける二つの側面は統一されなければならないのであり、そこにこそ社会主義の真にあるべき姿という当為の真理があるものと思われます。
 前講で学んだように、日本共産党の綱領路線は、この点からしても科学的社会主義の社会主義論の真理をとらえたものであるように思われます。

 

二、二一世紀の科学的社会主義を考える

科学的社会主義は真理探究の学説

 これまで学んできたように科学的社会主義の学説は、弁証法的唯物論を駆使することによって真理を探究する学説です。しかもその場合の真理とは事実の真理と当為の真理の統一を意味しており、科学的社会主義の学説の中心に位置する社会主義論とは、この事実の真理と当為の真理の統一を問題としているのです。
 科学的社会主義の学説や運動の存在理由はこの意味の真理を探究し、当為の真理を人民の前に提示して人民の進むべき道筋を明らかにして人民の導き手となるところにあります。科学的社会主義の学説がなぜ哲学をその構成要素としているのかといえば、弁証法的唯物論という哲学のみが真理に接近しうる唯一の思惟法則、思考方法であるからにほかなりません。
 弁証法的唯物論によって真理を認識し、当為の真理をさし示すことによってのみ、科学的社会主義を名乗る資格をもつのであり、また社会発展にとって科学的社会主義の学説と運動が不可欠となってくるのです。 
 二〇世紀の社会主義の実験は、社会主義という当為の真理に接近しようとしながらも、さまざまの制約をともなっていました。その反省のうえに、真理を探究するという基本的立場にたって、最後に科学的社会主義とは何かの問題を根本からつかみ直してみたいと思います。二〇世紀の社会主義の実験はいずれの場合も本来の社会主義としての体制的優位性を全面的に発揮するには至っていないのであり、本来の科学的社会主義とは何かの問題は二一世紀に残された課題となっているのです。これまでの議論をふまえて、本講でその課題に挑戦してみたいと思います。
 まず最初に指摘しておきたいことは、社会主義の根本的基準は、若きマルクスが科学的社会主義の出発点にすえたように、人間を「人間にとっての最高の存在」とする人間解放、真のヒューマニズムの社会でなければならないということです。
 マルクスが、青年ヘーゲル派の一人として、ヘーゲル法哲学の批判的検討から出発したことには、特別の意義があったように思います。というのも「『法の哲学』の出発点となるのは、そもそも人間とは何か、人間の本質とは何かという人間論であり、その土台のうえに法、権利、国家などが論じられ」(拙著『ヘーゲル「法の哲学」を読む』五八ページ)ているからです。
 第四講でみたように、マルクスは「ヘーゲル法哲学批判序説」において、ラディカルな理論とは、人間を根本からつかむ理論であり、それは人間を「人間にとっての最高の存在」(全集①四二二ページ)とするために、「いやしめられ、隷属させられ、見すてられ、軽蔑された存在にしておくようないっさいの諸関係を、くつがえせという、……至上命令をもっておわる」(同)と規定しています。マルクスの学説は、何よりも人間疎外から人間を解放し、人間を「最高の存在」にするという至上命令で始まり、かつ終わることによって、「ものごとを根本からつかむ」(同)ラディカルな理論となっているのです。
 いわば、人間解放論は、科学的社会主義全体を規定する本質的役割を担っているということができます。この立場からマルクスは、人間の類本質が「自由な意志」と「共同社会性」にあり、それが搾取と抑圧によって疎外されていくことを明らかにし、資本主義的な搾取と抑圧から解放される人間解放の社会を社会主義社会としてとらえたのです。
 日本共産党の「自由と民主主義の宣言」は、マルクスが一八六四年アメリカ「独立宣言」(一七七六年)を受けてアメリカのリンカーン初代大統領あてに「まだ一世紀もたたぬ昔に一つの偉大な民主共和国の思想がはじめて生まれた土地、そこから最初の人権宣言が発せられ、一八世紀のヨーロッパの革命に最初の衝激があたえられたほかならぬその土地」(全集⑯一六ページ)と特徴づけた祝辞を送った事実を紹介し、次のように述べています。
 「マルクス、エンゲルスら科学的社会主義の学説と事業の創始者たちにとっては、国民の主権と自由の宣言を核心的な内容とする近代民主主義の諸原則は、社会主義への使命をもつ労働者階級にとっても、擁護し、また未来にひきつがれるべき人類社会の貴重な遺産であった」。
 このように、マルクス、エンゲルスは、自由と民主主義を人間の本質の一つである人間的価値であるとして明確にはとらえなかったものの、自由と民主主義の普遍的価値を認め、それが階級闘争の重要な政治課題であることを一貫して重視しました。しかしマルクスもエンゲルスも、他の諸課題に追われて若い時期の人間論の探求を継続することができなくなり、そのため第四講で学んだように、マルクスは一八四五年以降、人間の本質論を放棄したとの誤解が生まれたりもしました。
 もし彼らにその後も人間論探究の時間的余裕が与えられていたならば、自由と民主主義が普遍的価値を有するのは、それが「自由な意志」と「共同社会性」という二つの類本質を反映した「人間的価値」という三つめの類本質のあらわれとしてとらえたにちがいないと思うものです。

科学的社会主義は自由と民主主義をその本質的構成要素とする

 科学的社会主義の学説にとって、自由と民主主義は「自由な意志」と「共同社会性」という人間の類本質を反映した普遍的かつ本質的人間的価値としての意義をもつものです。観点をかえると、自由と民主主義は人間の類本質の全面開花をめざす科学的社会主義の学説にとって本質的構成要素となっているのであり、自由と民主主義を抜きにした科学的社会主義は存在しえないといわなければなりません。その意味からすれば、レーニンが規定した科学的社会主義の三つの構成部分――哲学、経済、階級闘争と社会主義論――には、自由と民主主義が正面から構成部分として掲げられていないという問題が含まれています。「全一的な世界観」としての科学的社会主義は、人間的価値を含む世界観であり、普遍的かつ本質的な「人間的価値」としての自由と民主主義をその不可欠の要素として含んでいるのです。
 人間は自由と民主主義を制限され、抑圧され、奪われることをもって人間疎外ととらえ、その回復を求めて階級闘争に立ちあがることになります。その意味で自由と民主主義はいつでも階級闘争の目標とされることになります。したがって階級闘争に勝利した社会主義・共産主義の社会とは、人間を「最高の存在」とする自由と民主主義の全面開花した人間解放の社会であり、人間を「最高の存在」とする真のヒューマニズムの社会となるのです。
 「自由と民主主義の宣言」の次の文章は、人間の類本質である自由と民主主義の全面開花こそ人間解放の社会主義であることを示すものとなっています。
 「もちろん、科学的社会主義の事業は、自由と民主主義の問題でも、近代民主主義のたんなる継承者の立場にとどまるものではない。この学説と事業の人類史的な意義は、それが、近代民主主義による国民の政治的解放とその徹底を重視しながらも、それだけに満足せず、搾取制度の廃止による国民の経済的、社会的解放にまで前進することによって、真の人間解放に到達する道を、あきらかにしたところにあった」。
 しかも、科学的社会主義の自由論は、第四講でも簡単にふれましたがヘーゲル『法の哲学』で展開された必然性との関係における自由論です。自由の全面開花という場合、必然性との関係における四つの段階を念頭においています。もともと自由とは、意志決定の自由を意味しており、それは必然性を考慮しつつ意志決定をするか否かによって、自由の低い段階と高い段階が区別されることになります。近代民主主義における自由とは、必然性についての知識をもつことなく意志決定する形式のみの自由、「形式的自由」にすぎません。例えば、思想の自由を例にとってみると、それはどんな思想を選択しても良いという自由にすぎず、その思想の内容が真理であるか否かは問題としないのです。こういう形式的自由を中心とする「近代民主主義による国民の政治的解放」を実現したとしても、資本主義的搾取と抑圧という必然性、法則性から免れることはできません。いわば、近代民主主義のもとにあっても、依然として資本主義の必然性、法則性に支配される不自由にとどまっているのです。
 そこで、この形式的自由から、資本主義の必然性を認識する「必然的自由」の段階に前進し、「資本主義がどうあるか」の事実の真理の認識をつうじて、「社会主義とは何か」という当為の真理を認識する「概念的自由」に到達するのです。この概念的自由は「搾取制度の廃止による国民の経済的、社会的解放にまで前進する」道を示し、概念的自由によって「真の人間解放に到達する道」が明らかにされることになるのです。この概念的自由を実現することが、自由の全面開花ということになるのです。エンゲルスが、資本主義から社会主義への移行を「必然の国から自由の国への人類の飛躍」(全集⑲二二四ページ)とよんでいるのは、必然的自由から概念的自由への飛躍を意味しているということができます。
 社会主義とは、何よりも人間を「最高の存在」とし、自由と民主主義の全面開花する人間解放、真のヒューマニズムの社会です。そしてそれを実現する手段として、生産手段の社会化、社会主義的計画経済、「プロ執権」論の三つが求められることになるのです。

 

三、社会主義の三つの基準は真のヒューマニズムの社会実現の手段

 まず明確にしておきたいことは、科学的社会主義の根幹をなす思想は人間を「人間にとっての最高の存在」にするため、それを妨げているいっさいの諸関係をくつがえすというものであり、資本主義の矛盾を解決する社会主義とは、人間を「最高の存在」とする人間解放の真のヒューマニズムの社会であって、社会主義の三つの基準はそれを実現するために必要な手段であり、それ自体が自己目的となる基準ではないということです。
 生産手段の社会化について考えてみましょう。なぜ搾取を廃止しなければならないのかといえば、第五講で学んだように、それが人間の類本質である「自由な意志」を疎外してしまうからです。人間は、自然や社会を変革する「自由な意志」をもつことによって動物から区別され、「自由な意志」を労働生産物に対象化することによって、労働生産物を自己のものとして所有します。搾取は、この生産者が労働生産物を取得するという絶対的な権利を侵害することによって、「自由な意志」を疎外するという人間疎外をもたらすから廃止しなければならないのです。
 またなぜ階級を廃止しなければならないのかといえば、階級は人間の類本質である「共同社会性」を疎外するからです。人間は社会によって人間となり、社会は人間によって社会となります。人間は社会の一員という社会的存在として人間となるのであり、そこから対等・平等、相互承認・尊重、協力、連帯、友愛という「共同社会性」、民主的諸関係が生まれてきます。階級の形成は、この「共同社会性」を疎外し、協力、連帯、友愛を、強制、分離、対立にかえてしまうのです。
 生産手段の社会化とは、搾取と階級が生産手段の私的所有から生まれたところから、その原因となった生産手段の私的所有を廃止することによって、搾取と階級を廃止する条件をつくり出そうというものです。別な観点から考えてみると、第一一講の史的唯物論で学んだように、社会主義とは、資本主義的な生産関係が生産力の発展にとって桎梏となってきたところから、発展した生産力にみあう新たな生産関係を社会主義に求めることになります。社会主義的な生産関係とは、生産手段の社会化から生まれる生産者の自由で民主的な諸関係です。
 資本主義社会の生産力と生産関係の矛盾は、利潤第一主義の本質から、資本も労働力もともに過剰になっているにもかかわらず結合しえない矛盾となってあらわれています。資本主義とは、一方で大企業はくさるほどの内部留保をかかえながらもそれを活用する有効な投資先を見いだしえず、他方労働者は失業、不安定雇用、貧困にあえいでいるという生体が悲鳴をあげている社会なのです。社会主義における生産手段の社会化のもとで、自由で平等な生産関係は「共同社会性」を全面的に発揮することで生産力を発展させ、国民のくらしをより豊かにし、失業を解決するものとなります。
 その意味で、生産手段の社会化とは、一方で搾取と階級を廃止する人と人との関係をつくり出すと同時に、他方で生産力をより豊かに発展させるのです。いわば、生産手段の社会化による「生産関係の社会化」と「生産力の社会化」の統一の問題です。概括的にいうならば、「ソ連型社会主義」はそのいずれをも実現することができず、ノーメンクラトゥーラが人民を抑圧し、生産力も発展しなかったということができます。これに対して、ユーゴの自主管理社会主義では、前者は基本的には実現したものの、後者には問題を残したといえるでしょう。
 次に社会主義的な計画経済の問題を考えてみましょう。それは「社会的生産内部の無政府状態に代わって、計画的、意識的な組織が現われる」(全集⑳二九二ページ)ことを意味し、この計画経済により生産・交換・分配という経済活動の全体にわたってコントロールすることが可能となります。これにより資源と労働力を効率よく運用して生産力を発展させ、国民のくらし優先の社会的生産にきりかえ、何よりも貧富の差を合理的な枠内におさめることによって、経済的格差を解消し、「共同社会性」を回復させることが可能となります。
 経済の大枠としてのマクロ経済は計画で定めながらも、社会が何をどれだけ必要としているかのミクロ経済は市場にゆだねなければなりませんので、計画経済と市場経済の統一が求められることになりますし、計画を合理的な、国民のくらし優先のものにするには、国民の経済要求に耳を傾けなければなりませんから、上からの計画と下からの計画が統一されなければなりません。これも概括的にいうならば、「ソ連型社会主義」にあっては、計画経済はあっても市場経済がなく、ユーゴの自主管理社会主義にあっては、下からの計画はあっても上からの計画はなかったし、市場経済はあっても計画経済はなかったに等しいといえるでしょう。
 最後の「プロ執権」の問題は、労働者階級の政党・共産党の主導性のもとに、「人民の、人民による、人民のための政治、経済」、つまり人民主権の社会を建設することによって、最高の「共同社会性」を実現し、人間解放を達成するという問題です。概括的にいうならば、「ソ連型社会主義」にあっては党の主導性というより「指導的役割」が存在したのみであり、ユーゴにあっては党の主導性にも人民主権にも問題があったといえるでしょう。
 ここで自由と民主主義の関係をみておきましょう。ヘーゲルは「最高の共同こそ最高の自由である」と述べましたが、真の共同社会、言いかえると最高の「共同社会性」が発揮される社会であってこそ、人間は真に自由になれるのであり、真の自由が保障されてこそ、最高の共同社会となります。言いかえると自由と民主主義の関係は民主主義が自由を保障し、自由が民主主義を保障するという相互媒介の関係にあるのです。マルクス、エンゲルスが『ドイツ・イデオロギー』(新訳)において、「真の共同社会においては、諸個人は、彼らのアソシエーションのなかで、またアソシエーションをとおして、同時に彼らの自由を獲得する」(同八五ページ)と述べ、「共産党宣言」で「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような一つのアソシエーションが現われる」(全集④四九六ページ)として、社会主義・共産主義の社会を論じているのは、人民主権という真のアソシエーションのもとにあって人間は真に自由であり、人間解放の社会となることを論じたものです。

 

四、日本共産党の社会主義論の真理性

 以上まとめてみますと、「真にあるべき」社会主義の社会とは、何よりも人間を「人間にとっての最高の存在」とする人間解放、真のヒューマニズムの社会であり、人間解放とは人間の類本質である自由と民主主義の全面開花を意味しているということです。それを実現するために生産手段の社会化、社会主義的な計画経済、「プロ執権」という三つの手段が求められ、この三つの手段はいずれも対立物の統一としてとらえられなければならないというものでした。
 その立場にたって検討してみると、実は日本共産党の現綱領こそ、この真にあるべき社会主義を展望しているものということができます。それは日本共産党が弁証法的唯物論という真理認識の唯一の方法を用いて、日本人民のたたかいをしっかりふまえ、自らの頭で自主的に日本の未来社会という当為の真理を探求してきた成果としての社会主義論だったからです。
 日本共産党は、出発した当初から社会主義の真髄は自由と民主主義の全面開花した人間解放にあるととらえ、社会主義に至る道も自由と民主主義がより深く、しかもより全面的に開花していく人民の民主主義革命を経て社会主義革命へ進む道でなければならないと考えました。この立場からコミンテルンの干渉をしりぞけ、日本人民の手で、二段階革命論の三二年テーゼを勝ちとりました。それは反封建の民主主義革命を経て社会主義革命へというものでした。
 戦後も武力革命を押しつけようとしたスターリンの「五〇年問題」を克服し、自主的・創造的に新しい二段階革命論の六一年綱領を決定しました。それは戦後の新しい権力構造の分析をつうじて「反帝・反独占の民主主義革命」という新しい型の民主主義革命を提起するものでした。一九七三年、第一二回党大会で「民主連合政府綱領案」を提起して民主主義革命の内容をより豊かで具体的なものにし、七六年の第一三回臨時党大会で「自由と民主主義の宣言」を発表して、自由と民主主義の全面開花と人間解放の関係も明確にしました。
 この延長線上に二〇〇四年の新綱領が誕生しますが、そこでは、社会主義・共産主義の社会とは「原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」として、人間解放の真のヒューマニズムの社会であることが明記されています。
 その社会主義のキーワードは「国民が主人公」です。「国民が主人公」の言葉に、「最高の共同性は最高の自由である」という自由と民主主義の全面開花が集中的に表現されているのです。新綱領は、この見地をしっかりとふまえて、生産手段の社会化、社会主義的な計画経済、「プロ執権」という三つの基準を対立物の統一として論じています。
 まず生産手段の社会化は、生産力の社会化と生産関係の社会化の統一としてとらえられています。すなわち「生産手段の社会化は、経済を利潤第一主義の狭い枠組みから解放することによって、人間社会を支える物質的生産力の新たな飛躍的な発展の条件をつくりだす」と同時に、「生産者が主役という社会主義の原則」にたって、「生産者を抑圧する官僚専制の体制をつくりあげた旧ソ連の誤りは、絶対に再現させてはならない」とされています。
 次に社会主義的な計画経済にかんしては、「市場経済を通じて社会主義に進む」という基本方向を示したうえで、「計画性と市場経済とを結合させた弾力的で効率的な経済運営」という計画経済と市場経済の統一を明確にし、さらに統一戦線を国家と国民との間の中間団体として位置づけることによって事実上上からの計画と下からの計画の統一を唱えています。
 最後の「プロ執権」については、統一戦線における日本共産党の役割が「決定的な条件」であることを主張すると同時に「国民が主人公」であるとして、科学的社会主義の政党の主導性と人民主権という対立物の統一が明確にされています。経済面での「国民が主人公」とは、「生産者が主役」となる経済的アソシエーションであり、政治面での「国民が主人公」とは、「人間がほんとうの意味で、社会の主人公となる」政治的アソシエーションであることが示されています。
 こうして三つの基準もすべて対立物の統一という真理においてとらえられているのです。もちろんこうした日本の社会主義への道は簡単に実現されるものではありません。しかし社会主義のあるべき姿が当為の真理をとらえた真にあるべき姿でないかぎり、つまり変革の方向性が「真にあるべき姿」に向かっていないかぎりけっして実現しえないことを二〇世紀の社会主義の実験は示しています。
 しかし社会主義の理念が正しければ、それだけで自動的にその理念が実現されるのかといえば、そうではありません。ユーゴの経験がそれを教えてくれています。ユーゴの教訓は、理念が正しくても、実践的に一面的になれば、理念も誤謬にかわることを示しています。正しい理念にもとづく正しい実践をするうえで重要なことは、「すべてのものは対立している」ことを認識し、対立物の統一にこそ真理があることを忘れないことだと思います。この真理認識の唯一の見地である弁証法を実践的に貫くことによって、どんなに時間がかかろうとも、どんなに紆余曲折があろうとも「真理は必ず勝利する」のです。
日本共産党の綱領路線は、二一世紀の社会主義論という当為の真理を示すものであることが、歴史の審判をつうじて明らかになりつつありますし、今後の日本人民の革命的実践をつうじて、当為の真理に向かってさらに精度を高め、発展していくことになるでしょう。
 二一世紀の科学的社会主義は、人間を「最高の存在」とする真のヒューマニズムと真理探究の学説、人間解放の理論として、二〇世紀以上の輝きを示すことになるでしょう。

 

五、二一世紀の社会主義

理念をかかげてのたたかいのみが社会を発展させる

 一八世紀のブルジョア民主主義革命によって資本主義が本格的に開花したとき、「いまようやく夜が明け、理性の国が出現した」(全集⑲一八七ページ)として歓呼のうちに迎えられました。しかしすぐに「この理性の国とはブルジョアジーの国の理想化にほかならなかったのだということを」(同)知らされることになります。
 二〇世紀の十月社会主義革命によって人類史上はじめて社会主義をめざす国家・ソ連が誕生したとき、ようやく労働者・農民の国家が誕生したと全世界を熱狂させました。しかし七十年余の「ソ連型社会主義」の実験をつうじて、労働者・農民の国家とは「人間抑圧型の国家」であったことを知らされることになります。
 ではブルジョア民主主義革命やロシア革命は「無意味な暴力行為」(全集⑳二三ページ)にすぎなかったのかといえば、けっしてそうではありません。ブルジョア民主主義革命はすべての人間は人間として尊重されなければならないとして、基本的人権としての自由・平等などの自由権を生みだし、ロシア革命は、新たに社会権、民族自決権、国際紛争の平和的解決への道を生みだし、ユーゴ社会主義は非同盟運動を生みだしました。
 一八世紀と二〇世紀の二つの時代の革命をつうじて、社会変革の理想、理念を掲げての人民のたたかいのみが、人類そのものと社会の進歩・発展を生みだすという史的唯物論の正しさを歴史的に証明してきたということができるでしょう。それと同時に、理想や理念を掲げてたたかうことは無条件に正しいものではあっても、どんな理想や理念もけっして「究極の決定的真理」にはなりえないことを二つの革命は証明しています。人間の認識は常に相対的真理と相対的誤謬の統一としてのみしか存在しえないのです。
 「思考の至上性は、きわめて非至上的に思考する人間たちの系列をつうじて実現され、また真理たることの無条件の主張権をもつ認識は、相対的誤謬の系列をつうじて実現されるのである。このどちらも、人類の生命の無限の持続をつうじてでなければ、完全に実現されることはできない」(『反デューリング論』全集⑳八九ページ)。
 人間の認識は無限に当為の真理に接近していきます。しかしいつの日にかそこに到達してもはや認識すべきものは何一つ残されていないことになれば退屈さのあまり死んでしまうしかないことになりますが、そんなことはけっして起こらないのです。つまり人間は無限に理想、理念を追い続けることによって人間そのものと社会とを無限に進歩、発展させる存在なのです。そのことをヘーゲルは「すべてのものは対立している」と表現しました。すべてのものは対立・矛盾を内包することによって運動・変化・発展するのであり、理想や理念もまたその例外ではありません。
 エンゲルスは、『反デューリング論』で次のように述べています。
 「われわれが事物をその運動、変化、生命、交互作用において考察するやいなや、事情はまったく違ったものになる。その場合には、われわれはたちまち矛盾におちいる。……こういう矛盾をたえず定立しながら同時に解決してゆくことが、すなわち運動なのである」(全集⑳一二五ページ)。
 その意味では、現実の社会の矛盾から不断にその矛盾を解決する理想、理念が生まれてくると同時に、その時々の理想、理念の実現もまた社会発展の一段階を画するにとどまって新たな矛盾を生みだすのであり、こうして人類と社会の進歩、発展は「矛盾をたえず定立しながら同時に解決してゆく」という運動の連続なのであり、その意味でも人民のたたかいが歴史をつくるのです。

「資本主義限界論」と二一世紀の社会主義

 第一一講で二〇〇八年の世界的経済危機のなかで「資本主義限界論」がマスコミでも公然と取りあげられるようになったこと、また資本主義における生産力と生産関係の矛盾はとりのぞかないかぎりけっしてなくならないことを学びました。いずれにしても二一世紀は「資本主義限界論」と「社会主義論」とが交錯しながら議論されていく時代になろうとしています。
 資本主義の申し子というべき伝説の金融投資家であるジョージ・ソロスは、二〇〇八年の経済危機以前に著した『グローバル資本主義の危機』(日本経済新聞社)において、すでにカジノ資本主義の崩壊の危機を指摘していましたが、二〇〇八年経済危機をうけて出版された『ソロスは警告する』(講談社)において、ドルを国際基軸通貨とした信用膨張のカジノ資本主義の終焉を次のように予告しています。
 「今回の危機は、一企業、あるいは経済の一部門に限られたものではない。世界資本主義システムそのものが崩壊の一歩手前にあるわけで、危機が来たりて、また去るというのではなしに、一つの時代の終わりなのだ」(前掲書一四〇ページ)。
 これはサブプライム・バブル以上の超バブルの崩壊を予告したものでしたが、二〇一一年八月アメリカ国債の格下げによるドル安、株安の連鎖、国際的金融危機は、実体経済を象徴する金への投機の集中とあいまってソロスの予告の正しさを示し、もはやカジノ資本主義がコントロール不能におちいったことを明らかにしました。あらためて資本主義的矛盾の激化と「資本主義限界論」を誰の目にも明らかにしています。資本主義の枠組みを乗り越える社会主義・共産主義の課題は否応なしに二一世紀に生きる私たちの直面する課題となってくることでしょう。
 それはまた反面からすると社会主義をめざす諸国の動向をつうじて、果たして社会主義が人類の未来を担いうる体制であるのかどうか、その資格と能力が問われる世紀となることでしょう。中南米の左派政権が新しい社会主義をめざして前進し続けるのかどうかも注目されるところです。
 それだけに私たちは、二〇世紀の社会主義の実験の総括のうえにあらためて二一世紀の真にあるべき社会主義という理想・理念を高く掲げることが求められているのではないかと思われます。
 幸にも私たちは日本共産党の社会主義論を手にしています。こういう理論を集団的に生みだした先人の労苦には最大限の敬意を表明したいと思います。また私たち人民の一人ひとりは来たるべき未来に備えて、政治的にも経済的にも主権者としての自覚と力量を蓄積し、どんな社会変革の激動期にも適切に対応しうる人民として成長していかなければならないでしょう。
 本講座が提示した社会主義の「真にあるべき姿」がみなさんの議論の俎上にのぼり、日本の社会変革のエネルギーの増大に少しでも貢献できることになれば、これにすぐる喜びはありません。