『21世紀の科学的社会主義を考える』より

 


はじめに

 広島県労働者学習協議会(県労学協)が再建されたのは、一九八九年九月でした。この年、六月には天安門事件があり、八月から十二月にかけて東欧諸国が崩壊し、九一年一二月にはソ連も崩壊しました。
 こうして、社会主義とは国民から自由と民主主義を奪う人民抑圧の社会というイメージが定着するとともに、社会主義はもはや過去の存在にすぎないという「社会主義崩壊論」が時代を席巻しました。
 科学的社会主義の立場にたって、その基礎理論、内外情勢の特徴などを教育・普及することを目的としている県労学協としては、再建直後から否応なしに「科学的社会主義とは何か」の課題に立ち向かわざるをえませんでした。こうした問題意識を背景に、この間途切れることなく県労学協の「哲学講座」を担当し、県下の労働者・国民とともに原点に立ち返ってマルクス、エンゲルスの古典の学習を軸にしながら、ルソー、ヘーゲルなど科学的社会主義の源泉にもさかのぼり、レーニンの著作にも学んできました。そのなかで「科学的社会主義とは何か」の問題に対する回答が次第に内心にまとまった形で形成されてきました。
 そこで二十数年来の研究の一つの到達点を示すものとして本書を上梓することになったのです。本書は、「二一世紀の科学的社会主義を考える」という標題にも示されるように、二〇世紀の壮大な社会主義の実験の総括のうえに、二一世紀の真にあるべき科学的社会主義について問題提起した著作です。
 結論的にいえば、科学的社会主義の学説とは、人間を「人間にとっての最高の存在」(マルクス)にする人間解放の真のヒューマニズムの学説である、とするものです。それを二〇世紀の社会主義の実験が二一世紀に提起した宿題ともいうべき、「人間論」「弁証法的唯物論の定式化」「社会主義論」の三つのテーマから考察してみました。
 第一のテーマである「人間論」は、マルクスが科学的社会主義に向かって足を踏み出した原点ともいうべき問題でありながら、その後十分には展開されなかった課題であり、現代の社会主義を考える基本的立脚点になるべきものではないかと思われます。
 科学的社会主義の政党は、真理認識の唯一の武器である弁証法的唯物論の哲学を手にすることによって、はじめて人民の進むべき行く手を指し示し、人民を社会変革に導くことができます。しかし第二のテーマである「弁証法的唯物論の定式化」は、マルクス、エンゲルス、レーニンによって意図されながらも完成には至らず、二一世紀に残された課題となっています。
 第三のテーマである「社会主義論」はいうまでもなく科学的社会主義の学説の中心に位置するものであり、「社会主義崩壊論」を根本から打ち砕くと同時に、真にあるべき社会主義の検討が求められています。そのためにソ連・東欧の崩壊の原因の究明はもとよりとして、「ソ連型社会主義」のアンチテーゼとして、生産者が主役、人民が主人公の社会主義を模索したユーゴスラビア社会主義崩壊の解明にも力を注ぎました。こうした経験をふまえて、日本共産党の社会主義論を検討し、それが本来の社会主義の理念を体現するものであることを改めて確認することになりました。
 「真理の前にのみ頭(こうべ)を垂れる」との県労学協のスローガンにしたがって、右の三つの課題に挑戦したつもりですが、もとより真理への接近が個人的、歴史的に大きく制約されていることは当然のことです。ましてやこれまであまり議論されていない領域に踏み込んでの問題提起の書ですから、異論、反論はない方がおかしいといえます。
 ヘーゲルは、反駁のほんとうの意味は或る理論を抽象的に否定することにあるのではなく、その理論の制限を踏み越えて、その特殊な理論をより普遍的な「理念的な契機へひきさげること」にあると指摘し、こういう本当の反駁をつうじて、理論は真理に向かって弁証法的に発展していくことを明らかにしました。
 日本の未来社会を「国民が主人公」の社会にしていくには、社会主義についても国民的討論が必要になってくることでしょう。本書が、二一世紀の科学的社会主義を論じる活発な討論の一素材になれば、これにすぐる喜びはありません。
 なお装丁は、娘婿であるプロダクツ・デザイナーのロス・ミクブライドが担当しました。

二〇一一年 九月 三日 

      高村 是懿