『科学的社会主義の哲学史』より
第一講 科学的社会主義の哲学は
人類の知的遺産の集大成
一、本講座の目的
科学的社会主義
本講座は「哲学史の総括としての科学的社会主義の哲学」と題して開催されます。一九世紀前半、フランス革命の挫折を受けて、革命の精神である真の「自由、平等、友愛」を求め、さまざまな社会主義思想が誕生します。そのなかで、マルクス、エンゲルスは自分達の創設した社会主義思想を、サン・シモン、フーリエ、オーエンという三人の偉大なユートピア社会主義者との対比において「科学的社会主義」とよんだのです。
マルクスは、エンゲルスの有名な『空想から科学へ』の「フランス語版(一八八〇年)へのまえがき」のなかで、この著作を「科学的社会主義の入門書」(全集⑲一八三ページ)とよんでいます。
マルクス、エンゲルスが自称した科学的社会主義は、その後「マルクス主義」とよばれるようになり、さらにロシア革命を指導したレーニンの科学的社会主義の学説に対する理論上の貢献もあって、スターリンの時代に「マルクス・レーニン主義」とよばれるようになりました。
科学的社会主義を理論的基礎とする日本共産党も、その例にならって科学的社会主義の呼称と併せて「マルクス・レーニン主義」という呼称も使ってきましたが、一九七六年の第一三回臨時大会で、「科学的社会主義」に一本化しました。その理由として、今日とは異なる事情のもとで述べられたマルクス、エンゲルス、レーニンの言説を金科玉条とすることは安易な保守主義であること、レーニンの死後世界の共産主義運動や革命運動は豊かな経験をしており、その教訓に学ばなければならないことが指摘されています。
本講座では、マルクス、エンゲルスの学説を「マルクス主義」とよび、マルクス、エンゲルス以降レーニンをはじめとする革命的実践をつうじてより豊かになった「マルクス主義」を「科学的社会主義」とよんで、両者を区別して使用したいと思います。
科学的社会主義の哲学は人類の知的遺産の集大成
こうして日本共産党は従来の「マルクス・レーニン主義」の呼称を廃止して「科学的社会主義」に一本化すると同時に、科学的社会主義の学説を次のように規定しました。
「この学説は、それまでに人類が生みだしたすべての価値ある知識の発展的な継承者であると同時に、歴史とともに進行する不断の進歩と発展を特徴としている」(『前衛』四〇〇号、五〇ページ)。
この規定の後半部分は、科学的社会主義への呼称の変更理由につながるものとしてある意味当然といってよいでしょうが、前半の「人類が生みだしたすべての価値ある知識の発展的な継承者」という箇所は、科学的社会主義の学説にかんする日本共産党の独自の規定といえます。マルクス、エンゲルスは、自らの学説を「科学的社会主義」と称したものの「すべての価値ある知識の発展的な継承者」ととらえたことはありません。
科学的社会主義をはじめて体系的な学説としてとらえようとしたのが、レーニンです。彼は「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」(レーニン全集⑲)という一九一三年の小論文で、マルクスの学説は「人類が十九世紀にドイツ哲学、イギリス経済学、フランス社会主義という形でつくりだした最良のものの正統の継承者」(同三~四ページ)ととらえました。さらに一九一八年グラナート百科辞典のために書いた論文「カール・マルクス」(レーニン全集)では、この考えを発展させ、「マルクスは、人類の三つのもっとも先進的な国に属する十九世紀の三つの主要な思想的潮流の継承者であり、天才的な完成者であった。この潮流とは、ドイツの古典哲学、イギリスの古典経済学、および一般にフランスの革命的諸学説とむすびついたフランス社会主義である」(同三七ページ)としています。
このレーニンの規定からすると、科学的社会主義とは、ヘーゲルに代表される一九世紀のドイツ古典哲学、イギリス古典経済学、フランス社会主義の発展的な継承者ということにしかなりませんから、科学的社会主義の「哲学」とは、ドイツ古典哲学を発展的に継承したものということになるでしょう。またレーニン以外に科学的社会主義誕生の思想的系譜を述べたものも特に見当たらないように思えます。
科学的社会主義の哲学とは、一般に弁証法的唯物論と史的唯物論とされています。日本共産党の規定によると科学的社会主義の哲学が、たんにドイツ古典哲学だけではなく、「それまでに人類が生みだしたすべての価値ある知識の発展的な継承者である」ことが事実に照らして証明されなければならないとともに、マルクス、エンゲルス、レーニン以降の「歴史とともに進行する不断の進歩と発展」の哲学であることもまた明らかにされなければならないことになるでしょう。
それは言いかえると、まず第一に、二千六百年の哲学史を学ぶことをつうじて科学的社会主義の哲学が歴史上のすべての価値ある哲学の発展的な継承者であることが明らかにされなければならないことを意味しています。
長い哲学の歴史のなかで、無数の哲学者が登場し、さまざまな見解を示しています。その知的遺産は、歴史のにかけられて、価値あるものは永遠の生命を保って現在まで生き残り、価値のないものは歴史のくず箱に捨てられ、消え去っていきました。現代にまで生き残っている哲学史上の価値ある知的遺産のすべてを、たんに継承するだけではなくて、発展的に継承したものが社会主義の哲学だというのです。それはまた科学的社会主義の哲学がレーニンのいうようなドイツ古典哲学のみの発展的継承者ではない、として消極的にレーニンの規定を否定していることにもなってくるのです。
科学的社会主義の哲学の進歩・発展
第二には、二〇世紀以降の社会主義をめざす諸国の動向を科学的社会主義の哲学にどう反映させ、「不断の進歩と発展」の哲学にするかの問題です。
レーニン以降の社会主義をめぐる歴史は、文字どおり激動とよぶにふさわしいものでした。社会主義をめざす国は、一九一七年のソ連に始まり、第二次大戦を経て東欧全体に広がり、大戦後中国、ベトナム、キューバへと拡大し、それらの諸国で生活する人々は、一時は世界の人口の三分の一にも達しました。日本共産党第一三回臨時大会はこうした世界情勢のもとで、先に述べたような科学的社会主義の規定を採択したのです。
しかし二〇世紀末にソ連、東欧は相次いで崩壊し、「社会主義崩壊論」の大合唱が生まれました。崩壊直前のソ連や東欧は社会主義とは無縁の存在でしたが、それでもこれらの諸国が出発時に社会主義をめざしていたことには間違いありません。したがってこれらの諸国の崩壊の原因の究明も含め、こうした歴史を科学的社会主義の学説、とくにその哲学からみてどう評価すべきなのかは大きな問題であり、その批判的総括のうえにその学説の発展もなされなければなりません。
また二〇世紀末から始まった中南米の相次ぐ左派政権の誕生のなかから、「ソ連型社会主義」を否定して、新しい「二一世紀の社会主義」を展望する動きも出ています。これらの教訓を学ぶことをつうじて、科学的社会主義の哲学が「歴史とともに進行する不断の進歩と発展」の哲学であることを証明することが求められています。
本講座が「哲学史の総括としての科学的社会主義の哲学」と題されているのは、大きくいって、この二つの目的を実現しようとするものです。
二、未知への挑戦
マルクス、エンゲルスの哲学史の研究
ヘーゲルは生涯にわたって十回も哲学史を講義し、その総括のうえに自らの弁証法的論理学を確立しました。彼は「哲学史の研究こそ即ち哲学そのものの研究」(『哲学史』上六一ページ、岩波書店)であることを身をもって実践した人物です。
マルクスもエンゲルスも、ヘーゲルの『哲学史』を深く研究するにとどまらず、自らの手で直接二千五百年におよぶ哲学の発展の歴史を学びつくそうとしました。
マルクスは、ベルリン大学法学部に学びながら、哲学博士の学位をとった人物であり、二十三歳の博士論文が
「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学との差異」(全集㊵)というものです。この論文のなかで、マルクスは古代から近代までの哲学史を詳細に述べたヘーゲルの『哲学史』について、「そもそも哲学史は彼の哲学史から始まるものとすることができる」(同一八九ページ)として、それは「驚嘆に値するほど偉大で大胆な構案」(同)と高く評価しています。いかにヘーゲルの『哲学史』を深く学んだのかを理解することができます。またこの論文は、エピクロス(ヘレニズム時代)の原子論は古代ギリシアのデモクリトスの原子論をそのまま継承したものとするそれまでの定説を批判して両者の差異を論じたものであり、マルクスが古代哲学の歴史について該博な知識をもっていたことを証明するものとなっています。こうした古代哲学の研究のうえに、マルクスは「僕は古代の哲学者のうち彼(ヘラクレイトス――高村)よりも好きなのはアリストテレスだけだ」(「ラサールへの手紙」全集㊳四二七ページ)と語っています。
さらにマルクスは、ヘーゲルのみならず近代哲学全体にも通じていました。マルクスとエンゲルスの最初の共著「聖家族」(全集②)のなかに、マルクスの執筆として有名な「フランス唯物論にたいする批判的戦闘」(同一三〇ページ以下)という箇所があります。そのなかでマルクスは近代哲学全体を視野のうちに入れながら、フランス革命を生みだしたフランス唯物論が、ベーコンに始まるイギリス唯物論(イギリス経験論)とデカルトの物理学に由来することを明らかにすると同時に、フランス唯物論は「直接に社会主義と共産主義とにそそいでいる」(同一三六ページ)ととらえています。このマルクスの唯物論の叙述は、後にエンゲルスが『空想から科学へ』の「英語版(一八九二年)への序論」(全集⑲五四五ページ)のなかで引用していることでも有名な箇所です。
このようにマルクスは古代哲学のみならず近代哲学についても深い関心を寄せていましたが、朋友エンゲルスはそれ以上でした。というのも、マルクスが『資本論』の執筆に打ち込むようになってから、二人の任務分担によって、哲学の問題はもっぱらエンゲルスの肩にかかってきたからです。彼は『自然の弁証法』(全集⑳)のなかでヘーゲルの『哲学史』の一部を抜粋してノート(同四九六ページ以下)を作成しており、マルクス同様ヘーゲル『哲学史』を「最も天才的な著作のひとつ」(「シュミットへの手紙」全集㊳一七〇ページ)と高く評価しています。
またエンゲルスは『空想から科学へ』の「序説」において、古代から近代に至る哲学史を大きく弁証法と形而上学の関係から総括して、古代哲学の弁証法から近代自然哲学の発展による形而上学へ、さらにドイツ古典哲学における弁証法の観念論的復活からマルクス、エンゲルスの唯物論的な弁証法への発展としてとらえており、彼が哲学史全般につうじていたことを示すものとなっています。それは「哲学の二五〇〇年にわたる発展の成果を身につけることを学んでこそ、……イギリスの経験論から受けついだ、それに固有な狭い思考方法からもぬけだすことができるであろう」(『反デューリング論』全集⑳一五ページ)との言葉にも示されています。エンゲルスは「哲学の二五〇〇年にわたる発展の成果を身につけ」たからこそ、近代哲学を画するイギリス経験論(イギリス唯物論)の固有の狭さもとらえることができたし、またそれを打ち破ることができたのだという自負がここに示されています。
こうしてみてくると、マルクス、エンゲルス自身は古代哲学以来の全哲学史を研究してマルクス主義の哲学に生かしているのをみてとることができます。その意味でも、マルクス主義の哲学の源泉をドイツ古典哲学に限定することには問題があるように思われ、レーニンのとらえ方よりも日本共産党の「それまでに人類が生みだしたすべての価値ある知識の発展的な継承者」との規定の方が正しいのではないかを推測させるものとなっています。それをたんなる推測にとどめるのではなく、本講座で検証してみようというのです。
未知への挑戦
しかしそうなるとまた別の問題が生じてきます。古代哲学の最高峰をなすのが、プラトン、アリストテレスであることは衆目の一致するところです。ところがこれまで科学的社会主義の哲学におけるプラトンの位置づけは客観的観念論の一言で片付けられてしまい、そのなかに「価値ある知識」は何も存在しないかのように扱われてきました。またアリストテレスに至っては、マルクスが最も好きな哲学者に掲げているにもかかわらず、その功績について一言も触れられていません。
因みにヘーゲルは、その『哲学史』のなかでプラトン・アリストテレスの功績を高く評価しているのみならず、『エンチクロペディー』の「第二版への序文」において「古いもの……が復活されねばならないとすれば、例えばプラトンが、そしてはるかに深い形でアリストテレスが与えているような理念の形態は、以上述べたようなものとは比較にならないほど想い起す価値を持っている」(『小論理学』上四九ページ)と述べています。そのうえでヘーゲルは、「それをわれわれの思想のうちに取り入れて明かにするという仕事は、単にそれを理解することを意味するにとどまらず、哲学そのものの進歩をも意味するからである」(同)としています。ヘーゲルは「第一版への序文」のなかで、この著作は「それが唯一の真実な、内容と同一な方法であることが認められることを私が期待しているような方法にしたがって哲学を革新しようとする」(同二〇ページ)ものだと語っています。したがって「第二版への序文」は、ヘーゲルがプラトン、アリストテレスを自己の哲学に取り入れることによって「哲学を革新」して、弁証法的論理学を確立したといいたいのです。いったいそれが何なのかも本講座で検討すべき重要な課題の一つとなります。
科学的社会主義の哲学が、プラトンやアリストテレスから何も学んでいないとすれば、すべての人類の知的遺産の発展的継承者ということはできないでしょう。もし学んでいるというのであれば、プラトン、アリストテレスからヘーゲルが学んで「哲学そのものの進歩」をもたらしたものを含め、科学的社会主義の哲学として何を学び、発展させていったのかが明らかにされなければなりません。
こうした問題も含め、本講座は「未知への挑戦」ということができます。本来なら哲学史の総括をつうじて、科学的社会主義の哲学が古代、中世、近代哲学におけるすべての知的遺産の発展的な継承者であることが証明されなければならないにもかかわらず、今日まで実際にはその結論のみが示されるにとどまっていました。
この残された課題という「未知への挑戦」ですから、多くの困難が待ち受けているでしょうが、「哲学史の研究こそ即ち哲学そのものの研究」であるとすれば、この挑戦自体が科学的社会主義の哲学をより豊かなものに発展させることにつながると思われますので、それを信じて本講座を進めていきたいと思います。
三、科学的社会主義の立場にたって哲学史をとらえる
以上のような問題意識をもってこれから哲学史を学んでいくことになりますが、学ぶにあたって科学的社会主義の立場から二つの観点を貫きたいと思います。一つは、哲学史を真理認識の弁証法的発展の歴史としてとらえ、その知的遺産が真理を探究する科学的社会主義の哲学のうちにどのように生かされているのかの観点から哲学史を学ぶということであり、もう一つは、哲学を社会における上部構造の一つとして、土台である経済的諸関係との関係においてとらえるという唯物論の観点です。
哲学史、とりわけ西洋哲学史については、古代から現代まで無数といってよいほどの著作があります。しかし残念ながらこの二つの見地を貫き、科学的社会主義の立場にたって二千六百年の哲学史を総括する哲学史はこれまで存在しませんでした。この二つの見地を貫くことによって、科学的社会主義の哲学が「人類が生みだしたすべての価値ある知識の発展的な継承者」であり、かつ「歴史とともに進行する不断の進歩と発展」の哲学であることを証明するのが本講座の課題となるのです。
哲学史を真理認識の発展史としてとらえる
エンゲルスは「反デューリング論への旧序文」のなかで、「思考にかんする科学(哲学――高村)は、他のすべての科学と同様に、一つの歴史的な科学であり、人間の思考の歴史的発展にかんする科学」(全集⑳三六一ページ)であって、論理的思考を「育ててゆくためには、従来の哲学を研究する以外のどんな手段もいままでのところではないのである」(同)と述べています。つまり哲学史を学ぶことによってのみ「人間の思考の歴史的発展」を知り、論理的思考を育ててゆくことができるというのです。
哲学は、真理を探究する学問です。真理とは人間の思考(認識)が客観的事物と一致すること、つまり「思考と存在との同一性の問題」(エンゲルス『フォイエルバッハ論』全集㉑二八〇ページ)を意味しています。人類は真理を認識するために必要な思惟の諸形式を哲学史をつうじて作りあげてきました。それがいわゆる「論理学」といわれるものです。哲学の歴史は、より深い、より発展した真理を探究すると同時に、そのためのより発展した思考の諸形式をとらえていく歴史なのです。
哲学史をはじめて真理認識の発展史としてとらえたのが、ヘーゲルの『哲学史』であり、マルクス、エンゲルスがそれを高く評価した理由もそこにあります。ヘーゲルは、これまでのすべての哲学は何らかの意味で否定され、反駁されてきたけれども、哲学史はけっして「さまざまの過ちの陳列場」(『小論理学』上二六五ページ)ではないといいます。「反駁」とは、その哲学を全否定して片づけてしまうことを意味するものではなく、その哲学を弁証法的に揚棄すること、つまり「その哲学の特殊の原理を理念的な契機へひきさげること」(同)によって、より高い、より普遍的な真理へと前進することを意味しているからです。
その意味で哲学史は「人間の精神が犯したさまざまの過ちの陳列場ではなく、神々の姿のまつられてあるパンテオンに比すべきもの」(同)なのです。したがって哲学史上に残されている哲学は、何らかの相対的真理の粒をもっているのであって、いかなる哲学も否定されると同時に否定されないのです。否定されるのはその真理が究極のもの、絶対的規定だとされることであり、否定されないのはそこに含まれている相対的真理の粒なのです。私たちはすべての哲学を肯定と否定の両面から評価しないと、正当に評価することはできません。哲学の歴史は、こういう相対的真理の粒を一つずつ拾いあげ、積み重ねていく歴史ということができます。
「従って最も後の、最も若い、最も新しい哲学は、最も発展した、最も豊富な、最も深い哲学だということである。この最後の哲学の中には、一見過去のものであるように思われるすべてのものが保存され、包含されておらねばならない」(『哲学史』上七四ページ)。
これはヘーゲルが、自分の哲学を「最も新しい最後の哲学」であると宣言した文章です。ヘーゲルの『哲学史』は古代哲学に始まり、中世、近代の哲学を経て、ドイツ古典哲学のカント、フィヒテ、シェリングで終わっています。その後に登場したヘーゲルの哲学こそ最も新しい、最後の哲学だといいたいのです。しかしヘーゲルの死(一八三一年)後、すでに百八十年が経過し、その間にヘーゲル哲学を源泉の一つとして科学的社会主義が誕生しました。また科学的社会主義の創始者であるマルクスの死(一八八三年)から百三十年、エンゲルスの死(一八九五年)からも百二十年近くが経過しています。
科学的社会主義の哲学が「人類が生みだしたすべての価値ある知識の発展的な継承者」であることを証明するためには、その後の現代哲学の発展をふまえてもなお科学的社会主義の哲学が真理を探究するうえで「最も発展した、最も豊富な、最も深い」哲学であり、二一世紀の現代においてもなお「最後の哲学」であることを証明しなければならないのです。これがなされてこそ、はじめて私たちは、科学的社会主義の哲学は真理探究の唯一の思考形式であり、「正しいので全能」(レーニン全集⑲三ページ)ということができるのであり、また私たちがほかならぬ科学的社会主義の哲学を学ぶべき理由もそこにあるということができるでしょう。
レーニンは、「マルクス理論の道をすすめば、われわれはますます客観的真理に近づくであろう。……ところがそれ以外の道はどんな道をすすんでも、われわれは混乱と虚偽以外のなにものにも到達することができない」『唯物論と経験批判論』同⑭一六七ページ)といっていますが、これはレーニンの直観的感想にすぎないものであって、その結論は正しいとしてもその裏付けが求められることになります。
本講座の全体をつうじて、科学的社会主義の哲学が、二千六百年の哲学史を総括する「最も発展した、最も豊富な、最も深い」真理探究の哲学ということができるのかを検証していきたいと思います。
哲学史を史的唯物論の立場からとらえる
史的唯物論では社会は構造をもっており、土台となるのは経済的諸関係であって、そのうえに政治的、法律的諸関係と社会的イデオロギーという上部構造が存在しているととらえます。
土台と上部構造は相互に作用、反作用する関係にありますが、究極的に規定的要因となるのは土台である経済的諸関係となります。いうまでもなく哲学は社会的イデオロギーの一形態ですから、その時代を反映した時代の精神ともいうべきものです。
ヘーゲルは「哲学史は世界史の核心である」(『哲学史』下の三、二〇二ページ)ととらえ、マルクスも「およそ真の哲学はその時代の精神的精髄である」(マルクス「『ケルン新聞』第一七九号の社説」全集①一一二ページ)としています。この観点を貫き、哲学史をたんにイデオロギーの歴史的発展としてのみならず、それぞれの時代を反映した時代の精神の歴史としてとらえていきたいと思います。特に重要なことは、私たちは哲学史をつうじて科学的社会主義の哲学を学ぼうとするものだということです。社会主義の思想は、冒頭にみたようにフランス革命の挫折のもとで、革命の精神を発展的に継承するものとして歴史上に登場しました。その社会主義思想を資本主義の発展のもとでの資本家階級と労働者階級との間の階級矛盾の激化と階級闘争の発展という土台のうえに、科学的な思想に発展させ、革命的理論にまで高めたのが科学的社会主義の学説です。その意味では科学的社会主義の学説は、資本主義のもつ矛盾をイデオロギーのうえに反映したものということができます。
四、本講座の概説
ここで本講座の概要を説明しておきます。第二講から第五講までは古代哲学です。古代哲学は世界の根源的存在を探る自然哲学に始まり、やがて自然(ピュシス)に対する人為(ノモス)の探究にむかい、ソクラテスの人間哲学に移行します。古代哲学で最も重要なのは、プラトン、アリストテレスであり、彼らによって弁証法、とりわけ理想と現実の統一が論じられ、アリストテレス哲学のもとで世界観としての哲学が確立されます。古代哲学は自由なポリスの集合体であったギリシアで発展したものですが、ヘレニズムの時代を経てローマ帝国の成立でポリスは解体し、ローマ帝国の圧制のもとでギリシア哲学の輝きは失われていきます。
第六講は中世哲学です。ヘレニズム・ローマ時代の過渡期の哲学を経て、中世の哲学は封建制社会の主柱であったカトリック教会の「神学の侍女」となり、暗黒の時代を迎えます。人間哲学から神の哲学への移行です。
第七講から第一二講は近代哲学です。一五世紀のルネッサンスと宗教改革により、「神からの脱却」による新たな哲学の発展が生まれます。歴史的区分としては封建制から資本主義への移行と資本主義の矛盾の顕在化の時代となります。
近代は自我の確立、人間が自己を取り戻すことに始まり、「近代的自我の確立」によって、思考と存在とはどういう関係にあるのかという認識論への関心を高めます。そこからイギリス唯物論と大陸の観念論の対立を経て、フランス唯物論とドイツ観念論の対立が生まれます。
フランス唯物論はフランス革命を準備すると同時に、その精神を引きつぐ社会主義・共産主義に直結するものとなりました。このフランス革命の影響のもとに、革命を理論的に総括し、理想と現実の統一を論じるドイツ観念論が誕生し、ヘーゲルの革命の哲学で完結することになります。ドイツ観念論のもう一つの産物が真理認識の最高の形式としての弁証法を復活させたことでした。認識論においてフランス唯物論が機械的自然観におちいっていたのに対し、ドイツ観念論はそれを批判し、ヘーゲル弁証法に結実することになります。
こうした近代史をふまえ、その到達点としてのマルクス主義の弁証法的唯物論と史的唯物論が誕生しますが、それは同時に、古代、中世哲学の価値ある遺産をも継承・発展させるものでした。マルクス主義哲学によって唯物論の勝利は決定的となり、以後哲学は変革の立場にたつのかどうかが厳しく問われることになるのです。
第一三、一四講は現代哲学です。世界最初の社会主義をめざしたロシア革命の指導者であったレーニンは、マルクス主義哲学の発展に貢献し、マルクス主義を科学的社会主義に発展させました。しかしそれ以外の現代哲学は、観念論の諸潮流の立場から科学的社会主義の哲学を批判し、攻撃はするものの、全体として消極的批判にとどまり、それにとってかわる新たな哲学は示せないままとなっています。
第一五講はまとめです。科学的社会主義の哲学が、現代においてもなお「最も発展した、最も豊富な、最も深い」真理探究の哲学であることが哲学史の総括のうえに証明されなければなりません。
さらに科学的社会主義の哲学が現代においてもなお「最後の哲学」であることを証明していると言いきるためには、ソ連・東欧の崩壊が提起した問題点をも発展の契機として取り込み、「歴史とともに進行する不断の進歩と発展を特徴としている」ことを示さなければなりません。その意味でまとめでは、現代の科学的社会主義の哲学が考えるべき新たな問題点を整理して提起し、今後の議論の素材になればと考えています。
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