『科学的社会主義の哲学史』より
第九講 近代哲学③
一八、一九世紀のフランス唯物論と
ドイツ観念論
七、一八、一九世紀のフランス唯物論とドイツ観念論
フランスの政治革命とドイツの哲学革命
前講で学んだように、一八、一九世紀の哲学は、近代哲学の根本問題の一つである唯物論と観念論の対立を鮮明なものにしましたが、一八、一九世紀になるとそれはフランス唯物論とドイツ観念論の対立として展開されることになります。
イギリス唯物論は、すべての認識の源泉を経験に求める経験論として華々しく登場しますが、その経験論は、バークリの観念論やヒュームの不可知論によって唯物論の本来の輝きを失ってしまいます。それにかわって大陸の観念論がその壮大な世界図式論をかかげて台頭してきます。特に神を唯一実体として幾何学的な演繹推理で世界図式論を展開したスピノザの観念論は、ドイツ観念論にも大きな影響を与え、「スピノザ主義は一八世紀を支配した」(「聖家族」全集②一三〇ページ)といわれたほどでした。
しかしこうした観念論の広がりのなかで、現実を直視する本来の唯物論がその勢いを吹き返してくるのはある意味で当然のことでした。イギリス唯物論を発展的に継承したフランス唯物論は、当時の社会制度に無関心な姿勢をとる大陸の観念論に対して公然たるたたかいを開始することになります。
「一八世紀のフランス啓蒙思想、とくにフランス唯物論は、現存の政治的制度ならびに現存の宗教と神学にたいする闘争であっただけでなく、おなじく、一七世紀の形而上学とすべての形而上学にたいする、ことにデカルト、マルブランシュ、スピノザおよびライプニッツの形而上学にたいする公然たる明白な闘争でもあった」(同)。
彼らは、一切の外的な権威を認めず、すべてを容赦なく批判し、「理性こそは現存するいっさいのものの唯一の審判者」(『空想から科学へ』全集⑲一八九ページ)としてフランス絶対主義を徹底的に批判し、フランス大革命への道を切りひらいたのです。そのなかでも人民主権論と平等思想によって大革命を理論的に準備したのがルソーでした。
このフランス革命によるフランス唯物論の勝利によって一八世紀は「すぐれてフランス人の世紀となった」(「『空想から科学へ』英語版への序論」同五四八ページ)のであり、フランス啓蒙思想、とりわけルソーの思想は、一九世紀前半のヨーロッパ全体をその支配下においたのです。それだけではなく、ルソーの平等思想は、たんなる政治的平等ではなく、経済的、社会的平等をも主張するものだったところから、バブーフの共産主義思想に引きつがれ、一九世紀の社会主義・共産主義思想の主柱の一つとなり、マルクス主義の社会主義論に結実していきます。
とりわけフランス革命の影響を強く受けたのが、隣国の後進国であったドイツでした。「フランスの政治革命に伴って、ドイツでは哲学革命がおこった」(エンゲルス「大陸における社会改革の進展」全集①五三五ページ)のであり、それがカントに始まり、フィヒテ、シェリングを経てヘーゲルで完結するドイツ観念論哲学でした。彼らが壮大な観念論的な世界図式論を展開したという点では、一七世紀の大陸の観念論と共通していましたが、大陸の観念論が形而上学的観念論であったのと異なり、弁証法的観念論であったところから、弁証法への敬意をこめて「ドイツ古典哲学」または「ドイツ啓蒙思想」ともよばれています。
ここに「一八世紀のフランス啓蒙思想、ことにフランス唯物論のためにうちまかされた一七世紀の形而上学は、ドイツ哲学、ことに一九世紀のドイツ思弁哲学として、かちほこった、実質的な復興を体験した」(全集②一三〇ページ)のです。「思弁哲学」とは「弁証法哲学」と理解すればよいでしょう。
エンゲルスは「ドイツ哲学の最大の功績は、思考の最高の形式としての弁証法をふたたびとりあげたことであった」(『反デューリング論』全集⑳一九ページ)としています。しかし他方でマルクス、エンゲルスは、ヘーゲル弁証法は観念論的に逆立ちしており、それをひっくり返すことによって、マルクス主義の哲学、弁証法的唯物論が誕生したとしています。
確かにヘーゲル哲学は観念論的装いをもっていますが、エンゲルス自身も「観念論的にさかだちさせられた唯物論」(『フォイエルバッハ論』全集㉑二八一ページ)とよんでいるように、唯物論的内容において一貫しており、何よりも理想と現実の統一という革命の哲学を明確に打ち出しています。厳しい弾圧を回避するための偽装をしながらも、その本質は第一〇講で詳述するように「観念論的装いをもった唯物論」と規定すべきものだと考えます。このヘーゲルの革命の哲学を発展的に継承したものがマルクス主義であることはいうまでもありません。しかしこの装いのため、ヘーゲルは生前反動的プロイセン国家の擁護者とみなされたのですが、それを不満とし、死の床で誰一人自分の哲学を理解してくれなかったと嘆いたとされています。
こうしたヘーゲル哲学の外見上の二面性は、ヘーゲルの死後、ヘーゲル右派とヘーゲル左派(青年ヘーゲル派)に分裂し、ヘーゲル左派のなかからマルクス、エンゲルスが登場するのです。
以上近代哲学の歴史をふりかえってみると、イギリス唯物論から大陸の観念論へ、大陸の観念論からフランス唯物論へ、フランス唯物論からドイツ観念論へ、ドイツ観念論からマルクス主義の弁証法的唯物論へと、あざなう縄のごとく唯物論と観念論との対立と闘争を経て、弁証法的唯物論に辿りついているのをみることができます。
フランス唯物論とドイツ観念論は思考と存在との同一性の問題を提起
このように近代哲学は、唯物論と観念論との対立を軸に展開されることになりますが、同時に一八、一九世紀の近代哲学は、フランス大革命を経験するなかで、近代哲学のもう一つの根本問題である「思考と存在との同一性」(全集㉑二八〇ページ)の問題をうきぼりにすることになります。というのも、革命とは理想という「思考」を掲げて現実という「存在 」を変革しようとする運動であり、したがってそこから、思考と存在、主観と客観、理想と現実の統一という課題が問題にならざるをえないからです。
フランス唯物論は、政治革命という実践をつうじて「思考と存在との同一性」を問題としたのに対し、ドイツ観念論は、哲学革命を通じて理論的に「思考と存在との同一性」を問題にしました。フランス革命を理論的に準備したルソーは、人民の真にあるべき意志である「一般意志」を理想として掲げる革命の哲学をはじめて明確に打ち出すことで、哲学史上にその名を残すことになりました。革命とは社会の合法則的発展をめざす運動ですから、そこにかかげられる理想は合法則的な「当為の真理」でなければなりません。ルソーの「一般意志」は「当為の真理」を掲げるものとして革命にふさわしいものでした。しかし他方で、万人の意志は一般意志にまで高まりうるのかという実践的矛盾により、「思考と存在との同一性」の実現に疑問を投げかけるものとなりました。
これに対しドイツ観念論は、主観と客観、理想と現実の統一の問題を理論的に論じ、現実から社会を変革しうる理想はいかにして生じるのか、また理想はいかにして現実に転化しうるのかの議論をつうじて「思考と存在との同一性」には、理論的に二つの側面があることを明らかにしました。一つは、思考は「事実の真理」のみならず「当為の真理」を認識しうるのかの問題であり、もう一つは、当為の真理としての思考は現実と同一になることができるのかの問題です。ドイツ観念論を切りひらいたカントは、一方で観念論的認識論を前提として、「当為の真理」は認識できないという不可知論にたちながらも、他方で部分的には理想と現実の統一を認めるという矛盾した態度をとりました。
これに対しヘーゲルは、フィヒテやシェリングの議論もふまえ、「当為の真理」は認識しうるのみならず、実践を媒介して、それを現実性に転化しうるという革命の哲学を理論的に確立し、理想と現実の統一を主張したのです。しかし「事実の真理」から「当為の真理」への認識の飛躍の問題にかんし、自己の哲学が革命の哲学であることを覚られないような偽装工作もあって、不十分な展開のままとなっています。この問題の解決は、マルクス主義の弁証法的唯物論と史的唯物論に委ねられることになるのです。
以上を前置きとして、以下に一八、一九世紀のフランス唯物論とドイツ観念論の対立をみていくことにしましょう。
八、一八、一九世紀のフランス唯物論
フランス唯物論の二つの方向
一七、一八世紀のイギリス唯物論は、その唯物論的自然観においても啓蒙思想においても、一八、一九世紀のフランス唯物論に発展的に継承されることになり、フランス革命によって一八世紀は「すぐれてフランス人の世紀」となります。
「ベーコンやホッブスやロックがあの輝かしいフランス唯物論者の学派の父祖だということは、やはり否定できないことである。この唯物論者の学派のおかげで、一八世紀は、陸上や海上のあらゆる戦闘でドイツ人やイギリス人がフランス人に勝ったにもかかわらず、すぐれてフランス人の世紀となった」(全集⑲五四八ページ)。
フランス唯物論の特徴の一つは、認識の源泉についてはベーコン、ロックの経験論を引きつぎながらも、自然全体をどうみるかという点においては、デカルトの機械論的自然観という唯物論の特殊な一形態を継承しているところにあります。
他方ホッブス、ロックの啓蒙思想を引きついだフランス啓蒙思想は、フランスの絶対君主制に対する公然たる宣戦布告をして、フランス革命を理論的に準備すると同時に、より発展した啓蒙思想としての社会主義の思想に直接結びついていくことになります。
こうして「フランス唯物論には二つの方向があって、そのうちの一つはデカルトにその源泉を発し、他のものはロックにその源泉を発している。後者はとくにフランス的教養の一要素であり、直接に社会主義にそそいでいる。前者すなわち機械論的唯物論は、本来のフランス自然科学に流れこんでいる」(全集②一三一ページ)。
認識論としてのフランス唯物論の三つの固有の狭さ
唯物論の立場について、エンゲルスは「現実の世界――自然と歴史――を、先入見となっている観念論的幻想なしにそれに近づくどの人間にも現われるままの姿で、把握しようと決心」(全集㉑二九七ページ)したところにあり、「唯物論とは、これ以上の意味をまったくもっていない」(同)としています。
しかし一九世紀のフランス唯物論は、自然全体をどうとらえるのかという自然観について、「イギリス経験論から受けついだ、それに固有な狭い思考方法」(全集⑳一五ページ)におちいっていたのです。
一つには、デカルトの機械論的自然観を引きついで、自然のすべてを機械的、力学的運動としてとりあげたことがあります。機械論的なフランスの唯物論は医師ルロアとともに始まり、「医師カバニスでその頂点にたっし、医師ラメトリがその中心」(全集②一三一ページ)となっています。彼らは人間の意識をも機械的運動ととらえ、デカルトの動物機械説からさらに一歩進め、ラメトリの『人間機械論』で機械論的自然観を完成させました。
一八世紀の唯物論がこのような特殊な形態をとることになったのは、「当時、すべての自然科学のうちにただ力学だけが、しかも天体および地球上の剛体の力学、要するに重力の力学だけが、ある程度完成されていた」(全集㉑二八三ページ)ため、生命体についても力学を基準にした機械論的運動として理解せざるをえなかったからでした。
二つには、フランス唯物論は形而上学という狭さをもっていました。前講で大陸の観念論は、数学的な論理的完全性をもって真理の基準と考えたところから、同一律にもとづく形而上学におちいったことをお話ししました。これに対しフランス唯物論は、当時の自然科学の研究方法をつうじて形而上学的唯物論になっていったのです。形式論理学にもとづく形而上学的考えは、一面的ではあっても真理認識の思惟形式であるところから、さまざまな入り口から接近しうることを示しています。
一五世紀に始まった自然科学の発展は「自然をその個々の部分に分解すること、さまざまな自然過程や自然対象を一定の部類に分けること、生物体の内部構造をその多様な解剖学的形態について研究すること」(全集⑳二〇ページ)によるものであり、こういう自然科学の研究が形而上学的考え方を生みだしました。
「それはまた、自然の事物や自然過程を個々ばらばらに、大きな全体的連関から切りはなしてとらえるという習性、したがって、運動するものとしてではなく静止しているものとして、本質的に変化するものとしてではなく固定した恒常的なものとして、生きているものとしてではなく死んだものとしてとらえるという習慣を、われわれに残した」(同)。この形而上学的な考え方は、ベーコンやロックによって自然科学から哲学に移され、フランス唯物論特有の狭さを生みだしたのです。
三つには、フランスの唯物論が、すべてを因果法則にもとづく力学的運動としてとらえたことに関連して、偶然性を否定しすべてを必然的なものとしてとらえる「機械的決定論」の立場にたっていたことです。この決定論は「フランス唯物論から自然科学にやってきたもので、偶然性一般を否認することによって偶然性をかたづけてしまおうとこころみる。このような見方からすれば、自然にあってはたんなる直接的な必然性だけが支配的である。このエンドウのさやに五つのエンドウ豆がはいっていて四つでも六つでもないこと、この犬の尾が五インチの長さでそれより少しでも長くも短くもないこと、……すべてこういうことは原因と結果との動かしがたい連鎖により、ゆるぎない必然性によって生じてきた事実」(『自然の弁証法』全集⑳五二六~五二七ページ)とするのです。
自然や社会におけるすべての存在は偶然と必然の統一として存在しているのであって、偶然性の外見のうちに必然性を発見するところに科学の役割があり、また必然性のうちに偶然が存在するところに、必然性を現実性に転化させるうえでの人間の実践の役割が存在するのです。ここに機械的決定論に対立する弁証法的決定論の意義がありますが、詳しくは第一二講で述べたいと思います。
以上一八世紀のフランス唯物論の三つの狭さをみてきましたが、それは世界の根源性を自然に求めるという意味では唯物論であっても、自然を「現われるままの姿」で把握しようとする認識論の問題では、唯物論ではなく観念論の立場にたっているというべきでしょう。
この観念論的な「固有な狭い思考方法」から抜け出し、自然を「現われるままの姿」で、つまり弁証法的にとらえる唯物論的認識へ至る契機となったのが、「三つの大発見」(同五〇七ページ)であったことは、前講でお話ししたところです。フランス唯物論の認識論は、三つの固有の狭さによって、みるべき遺産は何も残さなかったといえるでしょう。
フランス啓蒙思想
これに対してフランス唯物論のもう一つの側面であるフランス啓蒙思想は、哲学的にも政治的にも大きな歴史的遺産を残すことになり、文字どおり一八世紀を「フランス人の世紀」としたのです。フランス革命は絶対君主制と封建的土地所有を徹底的に廃止したブルジョアジーの封建制に対する第三の決戦でした。革命の原動力となったのは、封建的な特権階級であった貴族と僧侶に対し、資本主義の発展によって台頭してきた「第三身分」とよばれる人々であり、彼らはブルジョアジーとサン・キュロット(貴族がはいていたキュロットとよばれる裾をしぼった七分丈のパンツをはかない貧しい人々)から成っていました。実際に大革命の推進力となったのはサン・キュロットとよばれる無産階級の人々であり、ブルジョアジーとサン・キュロットの統一と闘争のうちに大革命はさまざまな歴史的局面を生みだしつつ展開していくことになります。
このフランス革命を思想的に準備したのがフランス啓蒙思想でした。それを代表するのがヴォルテールやモンテスキュー、そしてディドロ、ダランベールなどの「百科全書派」、特筆すべきなのがジャン・ジャック・ルソーでした。ヴォルテールはイギリス経験論をフランスに導入し、フランス革命の精神的基盤を準備しました。また百科全書派は、一八四名の執筆者から成る全十七巻の大著『百科全書』をつうじてブルジョアジーの利益を代表し、「理性」の名において鋭い封建制批判を展開しました。
同じ啓蒙思想家たちのなかにも、はっきりとその階級的立場の違いがあらわれていました。「モンテスキューが貴族階級に、ヴォルテールが上層ブルジョアジーに権力を留保していたときに、ルソーは賎しい人びとを解放し、国民全体に権力を与え」(ソブール『フランス革命』上三六ページ、岩波新書)ようとしたのです。
ルソーの啓蒙思想は、革命の過程をつうじて、近代哲学のもう一つの根本問題である「思考と存在との同一性」の問題、つまり理想と現実の統一の問題を理論問題として提起することになります。またルソーの思想は、バブーフ共産主義とそれを普及したブオナロッティを媒介して社会主義・共産主義の思想に結びつき、マルクス主義に結実することになります。
「フランス唯物論の他の方向は、直接に社会主義と共産主義とにそそいでいる」(全集②一三六ページ)のであり、この意味でルソーの思想はマルクス主義の源泉の一つになっているのです。
フランス革命におけるルソーとバブーフ
大革命は一七八九年七月一四日のバスチーユ監獄の襲撃に始まり、八月には早くも歴史的な「人および市民の権利宣言」いわゆる「人権宣言」という旧体制の死亡宣告が発せられ、これまでの絶対君主制から立憲君主制に移行する「第一革命」が成功します。「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する」(『人権宣言集』一三一ページ)に始まるこの宣言は、近代社会の基本原理を宣言するものとなり、「法は一般意志の表現である」(同)と規定することによって、ルソーの思想を基礎とするものとなっていました。
こうして封建制身分と特権は廃止され、九一年憲法にもとづく立憲君主制が実現します。しかしその実体はブルジョアジーのみの自由・平等であって、「貧しい市民は選挙権を奪われ、結社、ストライキ、請願の権利を取りあげられ、自由ではあったが無防禦」(ソブール前掲書一三四ページ)なもとにおかれる不平等な体制でした。
特にサン・キュロットが問題にしたのは、市民が財産をもつ「能動的市民」と財産のない「受動的市民」に二分され、サン・キュロットは「受動的市民」として選挙権を与えられなかったことでした。彼らは第一革命の成功に大きく貢献しながら、その成果はすべて王党派と妥協したブルジョアジーに横取りされてしまったのです。歴史的な「人権宣言」も、外見上はルソーの「一般意志」をかかげた人民主権の装いをもちながら、内実はブルジョア主権でしかなかったのです。
彼らはブルジョアジーの裏切りに怒り、再び革命の継続を訴えて蜂起し、九二年いわゆる「第二革命」を起こし、ついに王制を廃止して第一共和制を実現します。そしてルソーの人民主権論を文字どおり具体化した憲政史上もっとも民主的といわれる「一七九三年憲法」を制定します。このとき以来第一共和制と九三年憲法は、ヨーロッパの社会変革の旗印となるのです。しかしブルジョアジーは、クーデターによって第二革命の中から生まれた「ジャコバン独裁」を打ち倒し、ブルジョアジーの権力を確立します。
このブルジョアジーのクーデターに反対して、サン・キュロットの最後の革命の試みとしてなされたのが、バブーフによる「平等のための陰謀」でした。それは事前に察知され、弾圧されてしまいますが、そのなかでルソーの人民主権論は財産の共有による経済的平等の実現という明白な社会主義・共産主義の思想にまで発展させられました。ここにフランス啓蒙思想は社会主義思想にまで発展し、バブーフ共産主義の思想を理論化して広めたブオナロッティによって、フランス大革命の影響は平等思想をかかげた社会主義思想とともに全ヨーロッパに広がり、そのなかから一八七一年の「パリ・コミューン」という世界最初の人民主権原理に立脚した社会主義をめざす国家が誕生することになります。この大きな世界史的変革の歴史をうけて革命の哲学としてのマルクス主義の学説も完成することになります。そこで以下にフランス啓蒙思想を代表する人物であり、かつマルクス主義の源泉の一つとなったルソーとバブーフの二人の思想について詳しくみていくことにします。
(一)ルソー(一七一二~一七七八)
・ルソーの思想は『資本論』と瓜二つ
ルソーは独学で幅広い教養を身につけ、パリに出てヴォルテールや「百科全書派」とも交流します。しかしサロンに属する彼らに飽きたらず、決別して貧しく抑圧された人民に共感を寄せ続けます。『人間不平等起原論』と『社会契約論』でフランス革命に大きな影響を与え、一九世紀前半のフランスはルソーの影響圏内にあったとまでいわれています。彼は「真理のために命を捧げる」を座右の銘としただけではなく、文字どおりそれを貫く生涯を送り、彼の遺骸は「偉人の殿堂」パンテオンに埋葬されています。
ルソーが他のフランス啓蒙思想家より抜きんでている理由は、大きくいって四つあります。一つは、啓蒙思想家の自然法思想によって立つのではなく、人間論の探究という唯物論的見地から自由・平等を論じたことがあげられます。自然法思想はストア派に始まり、中世スコラ哲学で「神の法」と考えられ雄大な体系を作りあげますが、近代の啓蒙思想において人間の理性に内在する普遍的法則と考えられるに至ります。いわゆる「天賦の人権」思想であり、第八講でみたようにロックの影響を受けたアメリカ独立宣言にもこの自然法思想が示されています。
しかし自然法思想は観念論的なフィクションにすぎず、自然法なるものは現実には存在しないのですから、これに依拠して自由・平等を論じるのは根拠がないといわざるをえません。これに対してルソーは、自然法なるものは虚構にすぎず、それは「一般に実施してみてその結果が良いということ以外にはなんらの証拠もない」(『人間不平等起原論』三〇ページ、岩波文庫)としてしりぞけ、「人間の自然そのものから、人間の構造とその状態とから、この学問(法学)の諸原理を演繹しなければならい」(同二八ページ)という唯物論の立場から自由・平等を論じようとするのです。
この人間の本質の探究をつうじて、自由、平等に人間的価値を見いだそうとする試みは、マルクス、エンゲルスの人間論に引きつがれていくことになります。ルソーは、自然状態の人間は自由で平等であったものが、生産力の発展のもとで私有財産制が誕生し、「奴隷制と貧困とが芽生え、生長する」(同九六ページ)ものととらえます。「人間を文明化し、人類を堕落させたものは、詩人からみれば金と銀とであるが、哲学者からみれば鉄と小麦とである」(同九六~九七ページ)との名文句を残しています。もちろんルソーのいう人間の自然状態もまだ裏付けのないものでしたが、それは当時の歴史認識としてやむをえないことでした。
このような階級分化により、人間は自然状態から社会状態に移行し、「生れたばかりの社会はこの上もなく恐ろしい戦争状態に席を譲」(同一〇三ページ)ることになります。この社会状態から抜け出すためには、社会契約を結んで、より高度の平等を復活させなければならない、というのです。エンゲルスはルソーの人間論にもとづく思想を次のように紹介しています。
「こうして、不平等はふたたび平等に転化する。だがそれは、言語を知らない原人の古い自然のままの平等ではなく、社会契約にもとづくより高度の平等である。抑圧者は抑圧される。それは否定の否定である。だから、ルソーのこの書物には、すでにマルクスの『資本論』がたどっているものと瓜二つの思想の歩みがある」(全集⑳一四六ページ)。ルソーの二つの書物には、人間の本質は階級社会において疎外されており、したがってその疎外から解放された人間の本来の姿を回復しなければならないという人間解放論が含まれており、この点でマルクスと「瓜二つの思想」がみられるのです。
二つには、その平等思想です。ルソーの「平等主義のテーゼ、それも政治の領域におけると同様、社会の領域においても平等であるべきとするテーゼは一八世紀には新しいものであり、この主張によってルソーはヴォルテールとも百科全書派とも決定的に対立」(ソブール前掲書三六ページ)したのです。たんなる政治的平等のみならず、経済的、社会的平等というルソーの思想は、バブーフ共産主義を経て一九世紀の社会主義思想の柱になっていきます。
平等の「観念は、とりわけルソーによってある理論的な役割を演じ、(フランス)大革命のさいやそれ以後には実践的=政治的な役割を演じ、今日なおほとんどすべての国の社会主義運動においていちじるしい扇動的な役割を演じているものである」(全集⑳一〇七ページ)。
三つには、ルソーの「直接民主主義論」です。ルソーの人民主権論の特徴の一つは、人民は常に主権者であり続けなければならないとして、直接民主主義を主張したところにあります。原発、オスプレイ、TPP、憲法九条などの問題で、国会が全く民意を反映せず、間接民主主義の機能麻痺が強調され始めているだけに、ルソーの指摘は新鮮な響きをもっています。
人民主権の思想は、ロックの社会契約論に端を発していますが、ロックとルソーとでは大きく異なっています。というのもロックの人民主権論は、国家権力の基礎は最終的には「人民の同意」にあるとしながらも、主権の行使は人民の代表を選出するところにあるという間接民主主義にとどまっています。つまり人民は国家意志の形成に参加するというかぎりでの主権者であって、あとは人民の代表たる国会と政府にその権力を信託し、政府が信託目的に反したときに、抵抗権、革命権を行使しうるのみだということになります。極論すれば人民は選挙権と抵抗権を行使するときのみの主権者であって、そのとき以外の主権者は政府ということになります。
これに対してルソーは、代表制は人民主権の欺瞞でしかないとして、直接民主主義を主張します。それは「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無に帰してしまう」(『社会契約論』一三三ページ)という有名な文章にはっきりと示されています。
ルソーは、主権は本来代表されえないものであり、譲渡することは不可能であると考えました。人民は常に主権者なのであって「執行権をまかされた人々は、決して人民の主人ではなく、その公僕であること。人民は、好きなときに、彼らを任命し、また解任しうる」(同一四〇ページ)として、直接民主主義を訴えたのです。
・ルソーの人民主権論
四つには、何といってもルソーの最大の功績は、人民主権とは「人民の、人民による、人民のための政治」でなければならないとして、「人民による政治」と同時に、「人民のための政治」を主張したことにあります。ルソーは「多数決は真ならず」であって、人民主権というためには、たんに人民の多数の意志にもとづく権力というだけでは足りないのであり、人民を統治する根本原理を人民の真にあるべき意志とする、治者と被治者の同一性を実現する権力でなければならないと主張しました。
そのために、人民の多数の意志を「万人の意志」、人民の真にあるべき意志を「一般意志」とよんで、両者を区別したうえで、万人の意志は一般意志とならねばならないとして、両者の統一の重要性を指摘したのです。この「一般意志」は、ルソーの哲学を「革命の哲学」にするうえで決定的役割をもつものでした。というのも、一般意志とは人民の意志の「当為の真理」を示すものだからです。革命とは社会の合法則的発展をめざすものとして「当為の真理」を目標にかかげることが求められるのであり、「当為の真理」を目標とするからこそ「真理は必ず勝利する」ことになるのです。
ルソーの「一般意志」の提起は、自然や社会を変革する能力をもつ人間にとって、「世界はどうあるか」という「事実」の問題と「世界はどうあるべきか」という「当為」の問題は区別すべきものであり、真理にも「事実の真理」と「当為の真理」の区別があることをはじめて明確にした画期的なものでした。人間は事実と当為を区別し、当為を実現しようとするところに「変革の哲学」が生まれます。しかしたんに変革するというだけでは、その方向性を問わないことになり、進歩的変革もあれば反動的変革もあるということになります。そこからたんなる変革の立場ではなく、当為の真理をかかげて自然や社会の合法則的な発展をめざす「革命の哲学」が求められることになります。それは思考にあわせて存在を変革する「思考と存在との同一性」の問題なのです。
その当為の真理が唯物論的な理想であり、プラトン、アリストテレスのいうイデア(理念)にほかならないのであって、人間は理念をもって世界のすべてを合法則的に発展させようとするところに、人間の人間たるゆえんがあるのです。したがって、ルソーが「万人の意志」と「一般意志」を区別しながらも統一のうちにとらえたということは、万人の意志はいかにすれば一般意志に揚棄されうるのかの問題を提起することになります。
ルソーは、万人の意志を一般意志にまで高めるためには、人民の「導き手」となる「立法者」が必要だと考えました。その「立法者」は、すぐれた知性をもち、自己犠牲的な神にも等しいような先憂後楽の精神の持ち主でなければならないから、母国フランスにおいてすら存在せず、したがってフランスにおける人民主権国家は実現困難であり、ヨーロッパで人民主権の可能な国は、コルシカ島のみだと述べています。ルソーは人民の一般意志は人民のなかから生まれなければならないと同時に、人民自身はそれを生みだしえないという矛盾をどう解決するのか、との問題を提起したのです。それは言いかえると、いかにして「当為の真理」を認識し「思考と存在との同一性」を実現しうるかという問題だったのです。
もう一つ明らかにされた「思考と存在との同一性」の問題は、フランス革命の実践のなかから生まれてきた、理想を現実化するという意味で「思考は存在と同一になりうるのか」という問題でした。フランス革命における最左派、ロベスピエールの率いる「ジャコバン独裁」のもとで、外形的にはルソーの人民主権論をかかげた「九三年憲法」が制定される第一共和制が実現します。しかし人民が主人公となったジャコバン独裁のもとで、実際には断頭台を血の海と化す恐怖政治が始まり、人民の暴走はブルジョアジーのクーデターを許すことになってしまいました。この経験は、どんなに理想が正しくても、正しい実践がなければ理想は現実にはなりえないという意味で、「思考と存在との同一性」、つまり理想と現実の統一が求められることを教えてくれたのです。
ジャコバンの恐怖政治は、人民主権への強力な巻き返しを生みだしました。いわば実践上の誤りが思考上の誤りに置きかえられてしまったのです。終生フランス革命の自由の精神に共感をよせ続けたヘーゲルも、『法の哲学』において真にあるべき国家を人民主権国家としながらも、それは「定形のない塊り」としての人民の手によってではなく、すぐれた知性をもつ優秀な官僚の導きによって実現するという卑俗な考えにおちいってしまったのです。官僚の本質は、階級支配の機関としての国家の一構成部分ですから、これでは理想において正しく、実践において間違ったものとなり、「思考と存在との同一性」を実現することはできないでしょう。
こうして真にあるべき国家を、人民の一般意志を統治原理とする治者と被治者の同一性の国家とするためには、一般意志を形成するという意味でも、一般意志を実践するという意味でも、人民の導き手が求められることになります。この問題は、マルクス主義の「プロレタリアート執権」論によって初めて解決することになります。
いずれにしても、ここではルソーの平等思想と人民主権論はマルクス主義の重要な構成部分となっていることを先取りして指摘しておきたいと思います(詳しくは拙著『科学的社会主義の源泉としてのルソー』参照)。
(二)バブーフ(一七六〇~一七九七)
・平等のための陰謀
フランス革命のなかから生まれた社会主義・共産主義思想を代表する人物がバブーフでした。彼は革命家であって哲学者ではありませんので、これまでの哲学史では全く取りあげられることはありませんでした。しかし科学的社会主義の観点から哲学史を考察するとき、ルソーの平等思想と人民主権論をマルクス主義の社会主義論に取り込む橋渡しをした人物として不可欠だと思われますので紹介しておきます。因みに彼の名前は『マルクス・エンゲルス全集』のなかに社会主義・共産主義の先駆者として数十回も登場しており、そのことからしても、本講座で紹介するに値すると考えるものです。
「デカルト派唯物論が本来の自然科学に流れこんでいるように、フランスの唯物論の他の方向は、直接に社会主義と共産主義とにそそいでいる」(全集②一三六ページ)。
この「フランス唯物論の他の方向」を代表する人物がバブーフなのです。一七九四年七月、ブルジョアジーによるクーデターによって「ジャコバン独裁」の時代は終わります。ブルジョアジーは九三年憲法の復活を警戒しつつ、サン・キュロットの選挙権を認めない制限選挙制を堅持します。これに対しサン・キュロットによるフランス革命を完成させる「最後の革命」が試みられ、それがバブーフを中心とする「平等のための陰謀」とよばれるものでした。
バブーフの「陰謀」は、「フランス革命における『人民主権論』の最高の到達点」(杉原泰雄『国民主権と国民代表制』二二八ページ、有斐閣)を示すものとして「ほんとうの自由およびほんとうの平等、すなわち共産主義」(全集①五二四ページ)の原理をもっていました。というのも「陰謀」はたんに政治的に人民主権を規定するにとどまらず、私的所有を廃止し財産の共有による経済的不平等の解消という社会主義・共産主義の原理まで含んでいたからです。
バブーフは「不幸と奴隷状態は、不平等に由来し、不平等は財産権に由来する。したがって財産権は、社会の最大の災禍である。それはまさしく公的な犯罪である」(杉原前掲書二三一ページ)ととらえ、人民が主権者となることによって私有財産を廃止し、「財産と労働の共有」「負担と享有の平等配分」という真の平等原則をうちだしたのです。
バブーフの「陰謀」が「平等のための陰謀」とよばれたのは、「平等はたんに外見上で、たんに国家の分野で実施されるだけであってはならない、それはまた現実にも、社会的、経済的な分野でも実施されなければならない」(全集⑳一一〇ページ)と考え、私有財産の廃止による「階級そのものの廃止」(同)という「プロレタリア的な平等の諸要求をともなって」(同)いたからにほかなりません。
・バブーフの思想はルソーとマルクス主義をつなぐかけ橋
エンゲルスは、「今日のヨーロッパの社会運動全体は、革命の第二幕にすぎず、一七八九年にパリにはじまっていまでは全ヨーロッパをその舞台にしている劇の大団円の準備にすぎない」(エンゲルス「ロンドンにおける諸国民の祝祭」全集②六三九ページ)と述べて、一九世紀前半のヨーロッパの社会主義運動は、フランス革命の精神を引きついだフランス革命の「第二幕」であると指摘しています。バブーフはルソーの思想を徹底させるならば社会主義・共産主義にたどりつかざるをえないことを明らかにしたという意味で、ルソーと科学的社会主義とを結びつける役割を果たしたということができます。バブーフの思想は、彼と「陰謀」を共にしながら処刑を免れたブオナロッティの著作『バブーフの、いわゆる平等のための陰謀』(一八二八年)によって明らかにされました。
ルソーの人民主権論と真の平等は、私有財産制を廃止することによる階級そのものの廃止によって実現されるとするバブーフの思想は、ブオナロッティの著作をつうじて一九世紀のフランス人民の心をとらえ、一八三〇年の七月革命、一八四八年の二月革命の思想的土台となっていきます。
「バブーフの陰謀によって一時敗北した革命的運動は、共産主義理念を生みだした。この理念をバブーフの友人ブオナロッティが、一八三〇年革命ののち、ふたたびフランスにひきいれた」(全集②一二四ページ)。
一八四八年の二月革命をつうじて権力は金融ブルジョアジーから産業ブルジョアジーへと移行し、この革命のなかで労働者階級ははじめて独自の政治勢力として歴史の舞台に登場します。彼らは革命の成果を守るために武装蜂起します(六月革命)が、これはブルジョアジーに対するプロレタリアートの世界最初の決戦となりました。このときプロレタリアートの掲げたスローガンが「社会的共和制」というものでしたが、それは「階級支配そのものをも廃止するような共和制への漠然たるあこがれを言いあらわしたものにほかならなかった」(マルクス「フランスにおける内乱」全集⑰三一五ページ)のです。
当時「共和制」という言葉は、フランス大革命の「第二革命」から生じた「第一共和制」とそのもとでの「九三年憲法」を念頭においたものとして、ルソーの人民主権とほとんど同じ意味をもっていたのですが、二月革命において労働者階級はたんに人民が政治的に主権者となるだけでなく、バブーフのいう真の平等を実現するために階級の廃止そのものを要求するようになったのです。
こうした状況を背景として、一八七一年三月世界最初の労働者階級と人民の政府である「パリ・コミューン」が誕生します。それは一七九二年フランス大革命のなかで第一共和制を誕生させたサン・キュロットの「パリ・コミューン」の名を借りて、人民主権の「社会的共和制」を実現しようとするものであり「コミューンこそは、そういう共和制の明確な形態」(同)だったのです。
マルクスは、それを「人民による人民の政府」(同三二三ページ)とか、「真に国民的な政府であったが、それと同時に、労働者の政府として、労働の解放の大胆な戦士として、断然国際的であった」(同)といっています。そこには大きく三つの特徴がありました。
一つは、ルソーの掲げる人民主権と直接民主主義の開花がみられることです。コミューンの議員は普通選挙によって選出され、彼らは人民に責任を負い、その責任を全うしないときは即座に解任されました。それだけでなく、コミューンは何よりも「人民自治」の政府であり、労働者や職人によって各種の革命的民衆クラブが無数に組織され、コミューンを支えたのです。
「コミューンのクラブは、人民の権利を守り、人民が自己統治できるように、人民に政治教育を行なわせ、われわれの委任者が原則を逸脱したら原則を思い出させ、彼らが共和国を救うために行なうすべてのことで、彼らを支持する目的を持つ。人民よ。公けの集会、人民による出版を通して、自らを統治せよ。諸君の代表者に圧力をかけよ」(桂圭男『パリコミューン』一六三ページ、岩波新書)。コミューンは文字どおり人民が自ら統治して治者と被治者の同一性を実現する人民主権の政府だったのです。
二つは、バブーフのいう真の平等のための経済的解放を実現するために、コミューンは私的所有の廃止という曖昧な規定から生産手段の社会化というより具体化した、かつ正確な規定を打ち出した政府だったということです。
「コミューンは、多数の人間の労働を少数の人間の富と化する、あの階級的所有を廃止しようとした。それは収奪者の収奪を目標とした。それは、現在おもに労働を奴隷化し搾取する手段となっている生産手段、すなわち土地と資本を、自由な協同労働の純然たる道具に変えることによって、個人的所有を事実にしようと望んだ」(全集⑰三一九ページ)。こうしてバブーフの粗野な私的所有の廃止という社会主義思想は、より洗練された生産手段の社会化による階級廃止という、マルクス主義の学説に発展していくことになります。
三つには、コミューンは、ルソーの提起した人民の一般意志は人民のなかから生まれなければならないと同時に生まれることができない、という矛盾を実践的に解決した政府でした。それは「労働者階級が社会的主動性を発揮する能力をもった唯一の階級であることが、富んだ資本家だけを除いて、パリの中間階級の大多数――小店主、手工業者、商人――によってさえ、公然と承認された最初の革命」(同三二〇ページ)であり、労働者階級の「主動性」のもとで一般意志を形成しうることを明らかにした政府でした。
エンゲルスは、コミューンをみて「あれがプロレタリアートの執権だったのだ」(エンゲルス「マルクス『フランスにおける内乱』〔一八九一年版〕の序文」同五九六ページ)と訴えました。被抑圧階級の先頭にたつ労働者階級こそが真理探究による社会変革の導き手であり、労働者階級が導き手となって一般意志を人民の前に提示し、それが人民の多数の意志になることで人民解放の権力を実現しうるという理論が、科学的社会主義の学説にいう「プロレタリアートの執権」にほかならないのです。
こういう三つの特徴をもったパリ・コミューンを間近に観察することによって、マルクス、エンゲルスは、これこそ社会主義の真にあるべき姿ととらえたのです。
「それは、本質的に労働者階級の政府であり、……労働の経済的解放をなしとげるための、ついに発見された政治形態」(同三一九ページ)としての「プロレタリアートの執権」だったのです。
そういう意味では、バブーフの社会主義思想は、ルソーとマルクス主義とをつなぐかけ橋の役割を歴史的に果たしているのです。
九、一八、一九世紀のドイツ観念論(その一)
弁証法の再興と哲学革命
全ヨーロッパを席巻したフランス革命によって一七世紀の大陸の観念論はフランス唯物論にうち負かされてしまいますが、観念論は、ライプニッツ、ヴォルフの観念論を生みだしたドイツにおいて復活することなります。 「フランス唯物論のためにうちまかされた一七世紀の形而上学は、ドイツ哲学、ことに一九世紀のドイツ思弁哲学として、かちほこった、実質的な復興を体験した。ヘーゲルがそれを、天才的なしかたで、それ以後のあらゆる形而上学およびドイツ観念論と結合して、一つの形而上学的(観念論的――高村)世界王国を建設」(全集②一三〇ページ)しました。
一八、一九世紀のドイツ観念論には大きく二つの特徴があり、一つは、同じ観念論ではあっても一七、一八世紀の大陸の観念論が、形而上学的観念論として哲学史上に見るべき遺産をほとんど残さなかったのに対し、一八、一九世紀のドイツ観念論は「思考の最高の形式としての弁証法をふたたびとりあげた」(全集⑳一九ページ)ことにより、マルクス主義の哲学の源泉の一つとなったのです。その功績に対する評価も込めて、一八、一九世紀のドイツ観念論は、「ドイツ古典哲学」とよばれています。
しかし、ドイツ古典哲学にはもう一つ大きな功績がありました。それはドイツ古典哲学がフランス革命の影響を受けた哲学上の革命であったところから、観念論的にではあっても主観と客観の統一、理想と現実の統一という問題を論じることで、近代哲学のもう一つの根本問題である「思考と存在との同一性」の問題を大きく浮上させるという功績を残したのです。
「思考と存在との同一性」の問題には、存在を対立物としてとらえる「事実の真理」の認識、「事実の真理」を揚棄してえられる「当為の真理」の認識、「当為の真理」を目標にかかげた実践により自然や社会を変革するという三段階があります。その三段階を統一することによって資本主義社会の「事実の真理」から「当為の真理」としての社会主義の真にあるべき姿をとらえ、革命的実践により社会主義を実現するという「思考と存在との同一性」を全面的に解明したものが、ほかならぬマルクスの『資本論』なのです。
(一)カント(一七二四~一八〇四)
・カントの功績
カントは、フランス革命の影響を強く受けたところから、マルクスは「フランス革命のドイツ的理論」(「歴史法学派の哲学的宣言」全集①九三ページ)とよんでいます。彼はルソーに傾倒し、『エミール』がはじめて出版されたときは、毎日かかさなかった散歩を二、三日やめたほどの感銘を受けたとされています。彼の啓蒙思想は、晩年の著作『永久平和論』によく現されており、そこでは平和とはたんに戦争のない状態ではなく、いっさいの敵対行為が存在しなくなることを意味するとして、常備軍の廃止と今日の国連に相当する「世界共和国」の設立が語られています。
また彼が若いころに著した『天界の一般自然史と理論』(一七五五年)は、機械論的自然観に「最初の突破口をひらいた」(全集⑳三四六ページ)記念すべき著作でした。それはニュートンの「神の最初の衝撃」(同三四五ページ)を否定し、「地球と全太陽系とは時間の経過とともに生成してきたもの」(同三四六ページ)とすることにより、「それ以後のあらゆる進歩への跳躍」(同三四七ページ)をもたらしたのです。
「もしも地球が生成したものであるならば、地球の現在の地質学的・地理学的・気象学的状態や地球上の動植物は同じく生成したものでなければならなかったし、地球は空間のなかでの並列的な自然誌ばかりでなく、時間のなかでの継起的な自然史をももつはずであった」(同)。
彼のこの天才的な、弁証法的な自然観に道をひらく大発見は、「カント・ラプラス説」とよばれていますが、この歴史的大発見だけでも、カントは歴史に名を残す自然科学者になったことでしょう。
・観念論的に逆立ちしたカントの認識論
しかし何といっても彼の名を一躍有名にしたものは『純粋理性批判』でした。それ以後『実践理性批判』『判断力批判』と批判三部作が出されたところから、カント哲学は「批判哲学」とよばれることになります。彼はヴォルフの独断論的合理論を学ぶところから出発しますが、経験論者ヒュームの懐疑論を知って、「独断のまどろみ」から目覚め、合理論と経験論を観念論的に統一して、認識論のコペルニクス的転換をおこなうのです。
まず彼はすべての認識は経験から始まるという経験論の立場は正しいが、しかしヒュームがいうように普遍性、必然性は経験のうちには含まれないと考え、かといってそれをヒュームのいうように「単なる習慣」というのも正しくないとします。
というのも、数学や自然科学において私たちは「七+五=十二」であるとか、「すべての物体は重さをもつ」というような、いつ、どこにおいてもあてはまる普遍的、必然的認識が存在していることを承認しているからです。ではその普遍性、必然性の認識がどこからきたのかといえば、それは経験的認識ではない以上、人間に本来備わる「ア・プリオリ(先天的)」な認識能力としての感性、悟性によるものであり、認識は感性と悟性の統一によって成立するというのです。したがって「感性がなければ対象は我々に与えられないだろうし、また悟性がなければいかなる対象も思惟されないだろう。内容のない思惟(直観のない概念)は空虚だし、また概念のない直観は盲目である」(『純粋理性批判』上一二四ページ)とされます。
ではなぜア・プリオリな感性と悟性の統一によって、普遍性、必然性を認識することができるのかといえば、まず感性に先天的に備わっている時間と空間という直観形式により、経験をとおして多様な直観が時空のうちにとらえられ、ついで悟性に先天的に備わっている「純粋悟性概念」(カテゴリー)によって、多様な形式に統一がもたらされるのであり、このカテゴリーによって、普遍性、必然性を認識しうることになるというのです。
「我々はこれまで、我々の認識はすべて対象に従って規定されねばならぬと考えていた」(同三三ページ)から、ヒュームのように普遍性、必然性は認識しえないという結論になったのだが、それを逆にして「対象が我々の認識に従って規定せられねばならない」(同)と考えれば、我々が現実に普遍性、必然性を認識しえているのも何ら不思議はないということになる、またこう考えることによって、経験論と合理論の一面性も克服しうるというわけです。
以上がカントの認識論におけるコペルニクス的転換の概観です。要するに、経験そのものからは普遍性、必然性の認識は生じないにもかかわらず、我々の認識のうちに普遍性、必然性が存在するのは、自己のうちにおける多様な直観を統一する先天的能力によるものであり、したがって普遍性、必然性は「思惟の自発性に属する。言いかえれば先天的である」(『小論理学』上一六五ページ)というものです。
これに対し、ヘーゲルは「多様のうちへ絶対的な統一を導入するものは、自己意識というような主観的作用ではない」(同一七二ページ)のであって、普遍性、必然性とは客観のうちに含まれる「真実在そのもの」(同)を我々が認識のうちにとらえたものにすぎない、という唯物論的な批判を加えています。カントの認識論の一番の問題は、ヒュームの懐疑論を正しいと考え、それを前提にして議論を展開しているところにあります。しかし第八講で学んだように、ヒュームの懐疑論は「実践による経験」を無視した誤った認識論であって、「観察による経験」に「実践による経験」をくわえるならば、私たちは自らの手で普遍性、必然性が客観的なものであることを証明することができるのです。
・カントのカテゴリー論
カントの功績の一つにカテゴリー論があります。アリストテレスのカテゴリーがある意味で寄せ集めにすぎなかったのに対し、カントは合理的にカテゴリーを導き出そうとします。先にみたように、感性によってとらえられた多様な直観を、一つの意識に統一する悟性の思惟形式が、「純粋悟性概念」とよばれるカテゴリーとされています。
カントは、カテゴリーを判断の諸種類から引き出しています。悟性は多様な直観を思惟することによって「概念」に統一しますが、その概念と概念の結合から判断が生まれます。したがって悟性のいっさいの作用は判断に還元しうるのであり、判断に含まれる統一の機能をあますところなく取り出すことによって、カテゴリーを論理的に規定しうるというのです。ところで、これまで判断には、量の判断、質の判断、関係の判断、様態の判断の四種類があるとされていました。このうち量の判断からは「単一性」「数多性」「統体性」のカテゴリーを、質の判断からは「実在性」「否定性」「制限性」のカテゴリーを、関係の判断からは「実体と付随性」「原因と結果」「相互性」のカテゴリーを、様態の判断からは「可能性と不可能性」「現実性と非現実性」「必然性と偶然性」という計十二個のカテゴリーをそれぞれ導き出すことができる、というものです。
このカントのカテゴリーについて、ヘーゲルは三つの観点から批判をくわえています。
一つは、カテゴリーは「その必然性において示されなければならない」(同一七〇ページ)にもかかわらず、カントは経験的に挙げられている判断の諸種類から安易にカテゴリーを引き出しているというのです。カントに対し、フィヒテは、自我(主体)と非我(客体)の対立という根本的対立から始まってカテゴリーを必然的な発展としてとらえており、ここに「フィヒテの哲学の没することのできない高い功績」(同)があると評価し、ヘーゲルはフィヒテに学んでカテゴリーの「萌芽からの発展」を展開する弁証法的論理学を確立することになるのです。
二つは、カントが「カテゴリーを単にわれわれにのみ属するもの(主観的なもの)」(同一七三ページ)とみなしているという、唯物論の立場からの批判です。
「たとえカテゴリーが……思惟そのものに属するにしても、このことから、カテゴリーは主観的なものにすぎず、対象そのものの規定ではないという結論は決して生じない」(同一七四ページ)のであって、カテゴリーは認識の対象となる客観的事物のなかに含まれる普遍性を最高度に抽象した客観的なものととらえねばならないと、唯物論の立場からカントの観念論を批判したのです。
三つには、カテゴリーは客観的事物のうちに含まれる普遍性、必然性を思惟形式としてとらえたものですが、事物の最も根本的な必然性は「すべてのものは対立している」(同下三三ページ)ことにありますから、すべてのカテゴリーも一対の対立するカテゴリーとしてとらえられなければなりません。カントは、原因と結果、可能性と不可能性、必然性と偶然性など、いくつかのカテゴリーについては一対のものとして論じながら、不徹底なものにとどめています。
ヘーゲルは、後にみるカントのアンチノミーが「対立」を問題としていることは評価しながらも、対立は「むしろあらゆる種類のあらゆる対象のうちに、あらゆる表象、概念および理念のうちに見出される」(同上一八六ページ)のであって、「対象をこうした特性において認識することは、哲学的考察の本質に属するものであって、この特性こそ、後に論理的なものの弁証法的モメントとして述べられるものをなしているのである」(同)として、ヘーゲル論理学におけるカテゴリーをすべて一対のものとして展開しているのです。
・カントのアンチノミーと不可知論
「カントによってはじめて悟性と理性とがはっきり区別された。カントによれば、悟性の対象は有限で制約されたものであり、理性のそれは無限で制約されぬものである」(同一七八ページ)。
このカントの区別からすると、悟性は有限な真理しか認識しえないが、理性は無限の真理を認識しうるということになるのかと思うと、とんだ肩すかしをくうことになります。カントによると、有限な経験的事実を認識するのは、感性と悟性の機能だというのであり、経験をとらえる悟性の統一機能からカテゴリーが生まれるというのですから、カテゴリーの適用範囲は経験的事実に限られることになります。
そこでもしこの純粋悟性概念としてのカテゴリーを、理性の対象となる経験を超える事実に適用するとどうなるのかを論じたのが、有名な「カントのアンチノミー」なのです。アンチノミーとは、「二律背反」とか「矛盾」とかの意味であり、カテゴリーを経験を超える事実に適用すると矛盾におちいるのであり、かといってカテゴリーを使用することなく認識することはできないから、結局人間は理性の対象となる事実は認識しえないとして、認識能力に限界を設け、そこから先を不可知論の世界とするのです。つまり経験的事実は「現象」として認識しうるが、経験を超える事実は「物自体」として認識しえないというのです。
この論理の展開をもう少し詳しくみてみましょう。カントが理性の対象として挙げたのは、世界、物質、因果法則、究極的原因の四つです。世界と物質とは、そのすべてを経験し尽くすことはできないという意味で経験を超えるものとして理性の対象となります。因果法則は、ヒュームが論じた意味で経験を超えるものです。最後の根本的原因というのは、因果の系列を逆にたどっていくと、最後は経験を超える究極の第一原因(スピノザの「自己原因」)が問題となるという意味で、これも理性の対象となるのです。カントはこの四つの理性の対象について、悟性概念としての対立する二つのカテゴリー、すなわち有限性と無限性、単一性と数多性、必然性と偶然性、原因と結果を適用するとどうなるかを検討していきます。
まず第一のアンチノミーは、世界は時間的・空間的に有限であるか、無限であるか、第二のそれは、物質は無限に分割されうるか(数多性か)、それともそれ以上分割しえないアトムから成るのか(単一性か)、第三のそれは、世界のすべては必然的な因果法則のもとにあるのか、それとも自由な存在があるのか、第四のそれは、世界には根本的原因が存在するのか、否か、というものです。
カントは、この四つのアンチノミーに関し、定立、反定立のいずれも証明しうるとして、結局理性の対象となる経験を超える事実(カントのいう「物自体」)にはカテゴリーは適用しえないし、人間はカテゴリーをつうじてしか対象を認識しえないから、「物自体」は認識しえないとの結論を引き出したのです。ヒュームの不可知論は、経験によって個別は認識しえても、普遍性、必然性は認識しえないというものでした。これに対してカントの不可知論は、思惟の自発性という主観的なものによるとはしながらも、経験によって個別のみならず、普遍性、必然性をも認識しうることは認めながら、経験を超えるものは認識しえないとしたのです。
カントが経験を超える「物自体」の例として挙げたのは世界、物質、因果法則、究極的原因の四つのみでしたが、それ以上に問題なのは、カントの論理からすれば「世界がいかにあるべきか」という当為の問題も、経験を超えるものとして丸ごと不可知論の領域に入ってしまうことです。言いかえれば、世界はいかにあるべきかについて、人間は真理を認識しえないことになってしまうのです。人間は自然や社会を変革する動物です。世界のすべてについて変革の立場から「いかにあるべきか」を問題とするのであり、当為の問題が不可知論の世界だとなれば人間が人間として生きていく意義の大半が失われていくことになります。例えば、政治の世界でいうと自民党型政治も日本共産党のめざす政治も優劣がつけられないものとなり、道徳、倫理の問題についても、ギャンブルに生きようと社会変革のために生きようと優劣はつけられないことになってしまいます。したがってカントの不可知論の最大の問題は「当為の真理」を否定することによって、「思考と存在の同一性」、理想と現実の統一の問題から目をそむけてしまったことにあるといわなければなりません。
カントの不可知論への最も適切な反駁は、ヒュームの不可知論と同様に「実践、すなわち実験と産業」(全集㉑二八〇ページ)にあります。目標として掲げられた「当為」が真理であるか否かは、実践によって検証されるのであり、実践により掲げられた「当為」が現実のものになれば、その当為は真理であったのであり、そうでなければ、真理でなかったことになるのです。
結局カントの認識論は、コペルニクス的転換という独特の観念論的認識論を振りかざしながら、人間が自然や社会を変革するうえで最も重要な「当為の真理」を認識しえないとする無惨な結果に終わってしまったのであり、認識論史上にみるべき遺産を残しえなかったのです。
ヘーゲルは、人間は「事実の真理」を認識しうるのみならず「当為の真理」をも認識しうることによって、はじめて理想と現実の統一を論じうるとして、カントの不可知論を次のように批判しています。
「一方では悟性は現象しか認識しないことを認めながら、他方では『認識はそれ以上に進むことはできない、そこに人間の知識の自然的な、絶対的な制限がある』と言うことによって、この認識が絶対的なものであることを主張するのは、この上もない不整合である。……われわれが或るものを制限、欠陥として知る場合には、否、感じる場合でさえ、われわれは同時にそれを越えているのである。……認識の制限、欠陥が、制限、欠陥として規定されるのは、普遍的なもの、全体的なもの、完全なものの理念が現にそこにあって、それと比較されるからである」(『小論理学』上二〇六、二〇七ページ)。
カント哲学の問題点はそれにとどまらず、「思考と存在との同一性」の問題について『判断力批判』では『純粋理性批判』と異なり、美術と生命体に限定しながらも理想と現実の統一を論じるという「二元論的な体系」(同二〇六ページ)をとっていることにありますが、それは次講でお話しすることにしましょう。
それはともかく、カントのアンチノミーは不可知論という消極的意味しか持たなかったものの、そこに弁証法の契機という積極的意義が含まれており、それを評価したのが、ほかならぬヘーゲルでした。彼は「アンチノミーの真実で積極的な意味は、あらゆる現実的なものは対立した規定を自分のうちに含んでおり、したがって、或る対象を認識、もっとはっきり言えば、概念的に把握するとは、対象を対立した規定の具体的統一として意識することを意味する」(同一八六~一八七ページ)ととらえ、カントのアンチノミーを契機として、ヘーゲルの弁証法的論理学を確立していくことになるのです。
エンゲルスは、「カントについて弁証法を研究しようとすることは、……弁証法の包括的な要綱がヘーゲルの著作に現に存在するようになってからは、無駄な骨おりであり、骨おりがいのあまりない仕事」(全集⑳三六五ページ)だとしています。
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