『科学的社会主義の哲学史』より

 

 

第一四講 現代哲学②
     二〇世紀以降の現代観念論

(三)非合理主義(観念論②)

 現代哲学は、基本的に巨大な峰としてそびえ立つ科学的社会主義の哲学に対して、資本主義社会における支配階級のイデオロギーがさまざまな観念論の形態をとりながら、科学的社会主義に立ち向かっていくという構図のなかで展開されることになります。前回は一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて影響力をもった新カント主義の観念論を学びましたが、今回は二〇世紀以降の観念論の諸潮流について学んでいきたいと思います。
 最初は、近代科学が戦争、恐慌、貧富の差、原・水爆などの不合理を生みだしたとして、科学の立場を否定し、科学を生みだした人間の理性を疑う反科学主義、非合理主義の立場です。
 自然科学の発展と歩調をともにしてきた近代哲学は、唯物論の陣営であれ、観念論の陣営であれ、感じる能力としての感性と考える能力としての悟性、理性とを区別し、真理を探究するためには、悟性、理性は欠くことのできない能力と考えてきました。近代の自然科学の発展は悟性、理性を使って真理を探究することによってもたらされたのであり、その意味で哲学上の合理主義はすべて科学主義でもあったのです。大陸の合理論が批判されたのは、その合理論そのものへの批判ではなく、理性の名のもとに観念論的な世界図式論という「なにかの種類の世界創造をみとめた」(『フォイエルバッハ論』全集㉑二七九ページ)ことへの批判だったことを忘れてはなりません。
 これに対し反科学主義、非合理主義哲学は、資本主義のもたらした弊害をすべて近代科学の責任に転嫁させることにより、近代科学と近代哲学の成果を否定し、近代哲学の到達点を示す科学的社会主義に敵対する時代に逆行する哲学として登場したのです。この反科学主義、非合理主義哲学に属するものとして、生の哲学、現象学、実存主義の三つがあります。

①生の哲学
 「生の哲学」の代表者はニーチェ(一八四四~一九〇〇)です。彼は実存主義の先駆者であると同時に、ファシズム思想の先駆者でもあり、最後は精神病院で生涯を終えました。彼の生の哲学は、生きるということは常に苦悩を伴う非合理なものだとして、すべてを合理的にとらえようとする合理主義に反対し、非合理な生を把握するのに科学は役に立たないとして科学に対しても否定的態度をとります。
 確かに生きることはあまりにも多くの非合理を強いられることではありますが、その根源に資本主義による人間疎外があることをニーチェは見ようとしません。生きる苦悩の本質を考えず、現象面にのみとらわれることは、非合理な現実を打開しうる展望を見いだしえないところから、ニヒリズムにおちいらざるをえなくなるのです。
 こうしてニーチェはニヒリズムの立場から、キリスト教的道徳を弱者の道徳として民主主義ともども否定し、強者を優良、弱者を劣悪ととらえる強者の道徳を主張します。人間の生の本源は、この強者の道徳のもとで優良とされる高貴な、力強い人間である「超人」を生みだす「権力への意志」にあるとし、超人の前に万人がひれふす社会こそあるべき強者の道徳の社会と考えたのです。こうして、ニーチェの生の哲学は、支配と服従、強者と弱者という非合理の資本主義社会をそのまま肯定するブルジョア哲学となり、社会主義の否定につながっています。
 このニーチェの生の哲学を自分たちの独裁的な権力の哲学的基礎として利用したのが、ほかならぬヒトラーの率いるナチス・ドイツであり、さしずめヒトラーは自らを超人とみなしたのでしょう。

②現象学
 新カント主義にかわって盛んになってきたのが、フッサール(一八五九~一九三八)の提唱する「現象学」であり、その後現象学は実存主義にも影響を与え、現代においても影響力をもつ哲学的潮流となっています。
 現象学は主観的観念論の一形態であって、客観世界が経験と無関係に存在するとする「自然的態度」を否定し、経験をとおしてえられる純粋な意識体験としての「現象」のみが学問の対象となると考えます。そのためフッサールは「現象学的還元」という操作をおこないます。経験のうちにとらえられた形、香、音などの感覚的要素をよせ集めてもそれだけではまだなんら意味をもつ対象とはならず、それを意識の働き(ノエシス)によって統一し、その統一体に対して意識による意味あい(ノエマ)が与えられた対象こそが研究の対象となるとして、この「ノエシス―ノエマ」の関係が現象学的還元とよばれています。これは主観的なカテゴリーという人間の先天的能力が対象を統一体としてとらえることを可能にするものであるとして、対象それ自体の統一性を否定するカントと同様の観念論的議論ということができます。
 現象学の一番の問題は、現象学的還元によってもっぱら意識のうちに閉じこもることで自然の根源性を否定し、自然の根源性を前提とする自然科学や社会科学に対して「判断停止(エポケー)」を要求する反唯物論、反科学主義の立場にたっていることにあります。それは言いかえると、真理とは客観に一致する認識だとする客観的真理観を否定するものであり、真理探究の学問としての哲学の本流から大きく逸脱するものとなっています。
 自然や社会の意味あいを探ることが全く無意味な作業だとは思いませんが、それは結局のところ自然や社会の真理を探究し、変革するところに人間の存在意義があることを否定し、もっぱら現状美化の「解釈の立場」にとどまるものといっていいでしょう。
 ドイツで誕生したフッサールの現象学は、フランスのメルロ・ポンティ(一九〇八~一九六一)のもとで、新しい展開をとげることになります。彼は、フッサールの現象学を「生活世界」の問題に限定してとらえ、人間の日常生活における多様な生活体験の意味解明に努めました。基本的にはフッサールへの批判が彼にもそのまま妥当すると同時に、問題が生活世界の意味あいに限定されることにより、いっそう真理の探究という課題から遠ざかっていると同時に、社会の諸矛盾の解決にも何ら寄与することのできない哲学となっています。

③実存主義
 実存主義は、二〇世紀の前半から後半にかけて流行した個人中心の非合理主義哲学です。彼らは客観世界とは無関係に、個人的存在としての人間の生き方を探究します。すなわち人間は経験をつうじて不安、孤独、はかなさなどを体験し、それを通じてあるべき生き方としての「実存」を実現するというのです。
 実存主義の創始者であるキルケゴール(一八一三~一八五五)は、不安のなかで自己を鍛える単独者としての生き方を「実存」ととらえました。しかしそれは客観世界との関わりを否定して単独者として生きることを求めるものだったところから、近代社会の価値ある遺産としての自由と民主主義は、人間を平均化させ、「実存」としての自己を見失わせるものとして否定する非合理の哲学となりました。
 ハイデガー(一八八九~一九七六)は、キルケゴールの認識論を中心とする実在主義を、存在論を中心とする実存主義に転換させました。彼は、具体的に存在する人間を「現存在」とよび、これに対しあるべき人間を「実存」とよびました。現存在としての人間は、自己の独自性を見失い、「他人がするから自分もする」というように、世界のうちに埋没し、世間話や好奇心、曖昧さのうちに生活している、しかし人間の根本的性格が実存にある以上、この人間一般の立場から脱却し、本来的な自己、実存に向かって自らを「投企」すべきだと主張しました。ハイデガーも個人の内面的な生き方にとらわれ、国家、社会との関わりにおける生き方に目を向けなかったところから、ナチスに入党し、歴史に逆行する人生を送ることになりました。
 ヤスパース(一八八三~一九六九)は、精神病理学の研究をつうじて、合理的な科学ではとらえられない非合理なものが存在し、人間と世界を支配しているのであって、それを明らかにするところに最高の知があると考えました。彼はその非合理なものに支配された個々の人間を代替不可能な存在ととらえ、罪、争い、悩み、死などの「限界状況」のなかで、絶望状態に突き落とされ、真の自己としての実存になると考えました。こういう実存に目覚めた人間の「実存の交わり」が真に人間社会のあり方だというのです。
 実存主義がいやしくも人間論を論じるのであれば、まず社会的存在としての人間の本質を客観世界との関わりにおいてとらえ、その人間の本質が階級社会において疎外されていることに、人間の「生」の不合理性としての不安や限界状況の根拠が求められなければなりません。実存主義はこの唯物論的な人間論を論じることなく、もっぱら不合理な「生」を人間の内面に求め、個人的な内面の生き方を求める観念論の立場にたつことによって、非合理主義の哲学となり、実践的には反動的役割を果たしたのです。
 実存主義がもつこの限界を打ち破ろうとしたのがサルトル(一九〇五~一九八〇)でした。サルトルは、マルクス主義を基本的に正しいものとして評価しながらも、それは実存主義によって補足されるべきだと考えました。すなわち彼は、まず「実存」とはヘーゲルのいう「即自的存在」から「対自的存在」へと、自己の限界を乗り越えて発展する人間のあり方としてとらえました。他方でマルクス主義、とりわけ史的唯物論は、本来人間が主体的に実存して発展していくというヒューマニズムの立場であるにもかかわらず、現代の「硬化したマルクス主義」、すなわちソ連型社会主義は自然や社会の発展はみても、人間の発展をとらえていない、と批判します。そこで人間学そのものである実存主義がマルクス主義のなかに位置づけられなくてはならないとの結論に達するのです。
 しかしその批判を生かすためには、「硬化した」ソ連型社会主義を本来のマルクス主義の見地から批判し、マルクス主義とは、何よりも人間を「人間にとっての最高の存在」(「ヘーゲル法哲学批判 序説」全集①四二二ページ)とする人間解放の真のヒューマニズムの理論であることを明らかにすることが課題として提起されるべきだったのです。サルトルのいう人格の無限の発展のためには、人間疎外からの人間の類本質の全面的回復を実現する社会主義・共産主義の実現こそが求められているのです。マルクス主義に実存主義をつけ加えようとするのは、一方でマルクス主義が人間論を含む「全一的な世界観」であることを否定するものであると同時に、他方で著しい個人中心主義の実存主義を史的唯物論にもちこむことによって、その唯物論的性格を歪曲することにもなってくるのです。

(四) 実証主義(観念論③)

 次の「実証主義」とは、一九世紀後半から二〇世紀はじめにかけて西ヨーロッパで盛んになったブルジョア哲学の一潮流です。彼らは経験された事実や経験から生まれた感覚のみが「実証的」であり科学の対象になるとして、非合理主義と異なり科学主義を装っていますが、感覚を超えるものを探究することは形而上学だとする一種の不可知論の立場から科学に限界を設けるのです。
 実証主義の創始者であるコント(一七九八~一八五七)は空想的社会主義者サン・シモンの秘書の経歴をもつ人物ですが、彼は科学とは現象の表面的なあらわれを記述するものであるとして、究極的な原因の探求は無意味だとします。したがってなしうることは観察された諸現象の間の継起的な関係、つまりエンゲルスのいう「ポスト・ホック」の関係の探究のみであって、それ以上に「プロプテル・ホック」に向かうことの意義を否定します。その結果コントが到達したのは、資本主義は人間の歴史の頂点にたつという陳腐な資本主義美化論にすぎませんでした。
 コントの実証主義を継承したのがマッハ主義のマッハ(一八三八~一九一六)であり、 同様にマッハは、感覚だけが経験された事実であって、それを論じることが実証的態度であるとします。したがって感覚の源泉としての客観的実在(物質)とその法則性を語ることは形而上学だとしてしりぞけられ、物体は感覚の複合にすぎないと考えました。
 実証主義の最大の問題は、本質と現象の弁証法的関係を理解しない形而上学にあります。人間の認識は現象をつうじて事物の内面の真理である本質や類や法則を認識することで客観的真理に接近するのであり、そこに科学の果たす役割があります。しかし実証主義は現象の世界のみにとどまり、本質の世界にふみこもうとせず、無限の真理探究に背を向けることで科学に限界を設け、結局資本主義を美化したり、物質存在を否定する観念論にたつことになったのです。
 ここでは現代の実証主義である新実証主義とプラグマティズムについてみていくことにしましょう。

①新実証主義(分析哲学)
 新実証主義は、哲学の任務を世界を全体として統一的に理解する世界観を確立することに求めるのではなくて、日常的知識や科学的命題、理論などの意味、構造、使用法などを分析し、解明することにあるとして、現象の世界のうちをさまようのです。また新実証主義は言語の意味、構造を分析する記号論理学と結びつくところから、分析哲学ともよばれています。
 新実証主義が分析の手法としている記号論理学とは、形式論理学をすべて記号化することによって、その適用範囲を拡大し、現代数学やコンピューターのプログラミングにも適用される論理学です。しかしどんなに記号化することによってさまざまの論理計算が可能になったとしても、記号論理学は形式論理学の枠組みを一歩も踏み出すことはできないのであって、弁証法的論理学の高みにまで到達することは決してできないのです。
 また実証主義が記号論理学を使った分析により知識や命題の意味あいを明らかにすることは、ごまかしの論理や不条理な命題を批判するものとして、一定の意義をもっていることは否定できませんが、それはあくまで現象の世界をさまようのみですから「世界がどのようにあるか」の問題はもとより、「世界はどうあるべきか」という根本問題についても、何ら真理に接近するものではなく、せいぜい日常生活における諸問題について論理的思考を可能にするという以上のものではありません。彼らは対象を現象に限定し、しかもその意味あいの探究に問題を制限することによって世界全体の客観的真理を探究する科学的社会主義に敵対しているのです。

②プラグマティズム
 「プラグマティズム」とは、新実証主義とも結びつきながら、アメリカに生じた哲学であり、パース、ジェームス、デューイなどの名と結びついています。プラグマティズムとは、ギリシア語のプラグマ(行為、行動)からきた行為の哲学であって、実用主義ともいわれており、実際的行動や結果との関連で有用であるか否かを真理の判断基準にするという実用主義的方法論です。
 プラグマティズムは、認識論的にはマッハ主義を継承して客観的真理の存在を否定する不可知論の立場から、真理が客観と認識との一致であることを否定し、われわれの経験や実践がわれわれの生活にとって有用・有益であるものを真理とするのです。このプラグマティズムの源流は、イギリス産業革命期の急進ブルジョア思想を代表したベンサム(一七四八~一八三二)の功利主義にあります。彼は行為の道徳的価値をその行為の「有用性」(功利)におき、有用性が「最大多数の最大幸福」をうる手段だとして、資本主義を礼賛しました。
 しかし有用性を真理の基準にするといっても、問題は誰にとっての有用かによって答えは異なるのであり、この点を鋭く指摘したのがマルクスでした。マルクスは、ベンサムのいう功利とは「私は他人に損害を与えることによって自分を利する(人間による人間の搾取)」(『ドイツ・イデオロギー』全集③四四二ページ)ことを認めるということであって、「人間相互の多様な諸関係をすべて有用性という一つの関係に解消するという、一見ばかげたやり方」(同四四一ページ)だと批判しています。さらにマルクスは『資本論』のなかで「犬にとって何が有用であるか?を知りたければ、犬の本性を究めなければならない。この本性そのものは『功利主義』から構成されはしない」(『資本論』④一〇四九ページ)として、資本主義の本性を究めないでその有用性を説くベンサムを鋭く批判しています。
 現象の世界のみをさまようプラグマティズムのたどり着く先は、有用性の名のもとにおける無批判的な現状肯定論でしかありません。それはもはや真理探究から逸脱しているというだけでなく、哲学の一体系ということすらはばかる実用論といっていいでしょう。

(五)構造主義(観念論④)

 「構造主義」とは、一九六〇年代からフランスで始まった理論であり、社会的、歴史的現象の違いを時間的な経過のなかで発展的にとらえるのではなくて、構造の違いとしてとらえ、その構造の違いを分析することを重んじる哲学です。
 ソシュールの提唱した近代言語学の方法が他の分野にも適用され、レヴィ・ストロースの未開社会の親族構造の研究、アルチュセールのマルクス主義研究などがありますが、ここでは科学的社会主義に直接かかわるアルチュセール(一九一八~一九九〇)の構造主義を紹介しておきます。
 彼はマルクス主義者でしたが、構造主義の影響を強く受け、マルクス主義を一八四五年前後で切断します。すなわち、それ以前のマルクス主義は人間疎外論とヒューマニズムの構造をもっていたが、それ以後のマルクス主義は階級的観点にたった生産関係の構造をもつにいたったというのです。
 アルチュセールの構造主義の転機とされたのは、「人間的な本質は個々の個人に内在する抽象物ではない。それは、その現実においては、社会的な諸関係のである」(『〈新訳〉ドイツ・イデオロギー』一一二ページ)という、マルクスの「フォイエルバッハにかんするテーゼ」(第六テーゼ)でした。
 このテーゼにより、マルクスはこれまでの人間の類本質とその疎外、人間疎外からの解放を求める真のヒューマニズムというマルクス主義から、「社会的な諸関係の総和」という階級的人間観に転換し、階級とプロレタリアートの概念によって人間をとらえるマルクス主義に構造的に転換した、というのです。このテーゼにより、歴史の主体としての人間は存在せず、歴史の構造としての生産諸関係が存在するだけであり、歴史の進歩とは人間的意味をもつのではなく、異なる構造をもつ社会構成体の継起的なつながりがあるだけであることを明確にしたのが後期マルクス主義だ、というのです。
 まず最初に指摘しておきたいことは、マルクスは人間解放にその生涯をかけた人物ですから、その思想は同一性を保ちつつ発展する、同一と区別、連続性と非連続性との統一であり、中心的思想は同一なものとして連続性を保ちつつも、その内容が発展するのに応じて区別と非連続性が生じてくるのです。それをもっぱら非連続性としてのみとらえる構造主義は、事実に立脚しない観念論でしかありません。マルクスは、若いときに人間の類本質の疎外からの解放をめざすヒューマニズムを論じましたが、その後、現実の資本主義社会における人間疎外を論じるには資本主義の具体的分析が必要だと考え、経済学の研究をつうじて階級的観点を獲得します。人間解放とは、経済的土台を変革することによる搾取と階級から人間を解放する真のヒューマニズムでなければならないとの結論に達したのです。
 また若いときのマルクスは、人間解放を抽象的に論じていたのに対し、史的唯物論を確立していった一八四五年以降は、階級的観点にもとづいて個人としての労働者は階級的に結集し、階級闘争をつうじて人間解放を実現するというより具体的な人間解放を論じました。それをつうじて、人間は個であると同時に階級の一員としての普遍であることを明らかにしたのです。
 その意味ではマルクスの人間解放のヒューマニズムは生涯をつうじて一貫しており、その実現方法が前期マルクス主義で「私的所有のポジティヴな廃棄」(「経済学・哲学手稿」全集㊵四五七ページ)という抽象的な搾取の廃止であったのに対し、後期マルクス主義では階級闘争にもとづく生産手段の社会化と国家の死滅という具体的な搾取と抑圧の廃止へと発展しているのです。
 ソ連・東欧の崩壊後の反共攻撃の中心は、マルクス主義はもっぱら人間を階級の観点から論じ、個人の尊厳を軽視する反ヒューマニズムの理論であり、それが必然的に「人間抑圧型の社会」であるソ連・東欧を生みだしたというものでした。アルチュセールの構造主義は結果的にこの議論を後押しするものであることを指摘しておかなければなりません。
 さらに第六テーゼもよく読めば、「人間的な本質」の存在を否定したものでなく、人間の本質はうちに隠されたままの「内在する抽象物」にとどまることを否定し、外にあらわれて「現実においては、社会的な諸関係の総和」となっていることを述べたものであり、いわばヘーゲルのいう「本質は現象しなければならない」(『小論理学』下五五ページ)ことを表現したものにすぎません。
 結局アルチュセールの構造主義とは、「フォイエルバッハにかんする第六テーゼ」が人間の本質と現象の統一を論じたことを理解しえなかったところから、一人の人間の思想や社会の歴史を連続性と非連続性の統一としてではなく、もっぱら非連続性としてとらえ、また個人としての人間と階級としての人間とを個と普遍の統一としてとらえるのではなく、もっぱら普遍としてのみとらえる形而上学、ヘーゲルのいう悟性の立場ということができます。
 「悟性は区別された二つのものを独立的なものとみると同時に、またその相関性を定立し、しかも、この独立性と相関性とを並列的あるいは継起的に『また』によって結合するにすぎず、これらの二つの思想を総合し、概念に統一することはしない」(『小論理学』下一七~一八ページ)。
 それは本来対立物の統一として存在するものを、無理矢理二つに区別したまま固定し、「並列的あるいは契機的に『また』によって結合する」という形而上学によって真理から遠ざかり、観念論の哲学になったということができるでしょう。

(六)ネオ・マルクス主義(観念論⑤)

 「ネオ・マルクス主義」とは、一九六〇年代後半に西ヨーロッパで生まれたマルクス主義を変質させようとして登場した観念論哲学です。経済的矛盾が激化しているにもかかわらず、西ヨーロッパで革命運動、労働運動などの階級闘争が発展しないのは、マルクス主義の史的唯物論の誤りを示すものだとして、とりわけその国家論、階級闘争論に攻撃を加えてきたのです。
 ネオ・マルクス主義の代表的人物は、構造主義でもとりあげたアルチュセールのほか、プーランザス、ジェソップなどです。まず彼らは、史的唯物論における「土台・上部構造」を批判し、上部構造としての国家は、階級支配の機関ではなく、「階級的力関係の凝縮」であるとします。
 これは、現代において普遍的国家形態となっている民主共和制のもとでの国会を念頭に置いた議論ということができるでしょう。民主共和制の国会には、ブルジョアジーの代表のみならず、プロレタリアートの代表も議員に選出されていて、ある意味で「階級的力関係の凝縮」と言えなくもないからです。
 しかし史的唯物論が国家を階級的支配の機関として規定しているのは、国家の本質を問題としているのであって、民主的共和制をとっていても、資本主義国家は「資本が賃労働を搾取するための道具」(『家族、私有財産および国家の起原』全集㉑一七一ページ)にかわりがないとしているところに本質規定の意味があるのです。
 エンゲルスは、「民主的共和制のもとでは、富はその権力を間接に、しかしそれだけにいっそう確実に行使する」(同)といっています。では民主制のもとで、どうやってブルジョアジーはその権力を間接に、「しかしそれだけにいっそう確実に行使する」のでしょうか。一つには労働官僚ないし労働貴族をつうじて労働者階級を支配し、形式的には労働者階級の代表者でありながら、内容的にはブルジョアジーの利益の代表者を国会に送りこむ方法によってです。民主党政権が自民党政権と何ら変わりがないことは今や誰の目にも明らかですが、民主党の国会議員の多くは、大企業に買収され、大企業と癒着している「連合」という名の労働組合の出身なのです。
 「労働者をあざむき、堕落させ、買収する技術にかけては、この世界でこのブルジョアジーにならぶものはない」(「『ベッカー他からゾルゲ他への手紙』のロシア語訳序文」レーニン全集⑫三七五ページ)のです。したがって、国会における「階級的な力関係」はけっして「階級的利益の力関係」を意味するものではありません。
 二つには、国家の階級支配の機関としての本質は、軍隊、警察、裁判所、監獄などの「公的強力」を強化することに直接的に示されています。これらの「公的強力」は、国会も容易に立ち入ることのできない、いわば聖域であり、全体として常に労働者をはじめとする国民の労働運動、民主運動を監視し、抑圧し、弾圧することによってブルジョアジーの利益を守るとなっています。六〇年安保闘争で、反政府行動が最大の盛り上がりを示したとき、ときの政府が自衛隊出動を命じるところまであと一歩のところまで行ったことは公然の事実ですし、日本の警察の主たる目的が、万引きや泥棒を取り締まる治安維持にあるのではなく、民主勢力へのスパイ工作と弾圧を目的とする公安警察にあることもまた争いがたい事実です。
 三つには、国家を実際に支えているのは、国会でも政府でもなく、膨大な官僚群ですが、ブルジョアジーは天下り、天上りなどをつうじてその上層部を直接買収し、全体として「資本が賃労働を搾取するための道具」(全集一七一ページ)としているのです。
 結局ネオ・マルクス主義の国家論は、構造主義の影響もあって、階級社会の国家における本質と現象の対立をみようとせず、その一面的な「現象」をもって国家の「本質」と誤解する資本主義国家美化論にほかなりません。また彼らの議論からすれば、なぜ原始共同体の国家のない社会から、国家が誕生するに至ったのかも説明することができないところにもその観念論の限界が示されています。
 次に、ネオ・マルクス主義は、史的唯物論について、「土台・上部構造論」によって、社会的現象のすべてを経済的諸関係に還元してしまう経済還元主義の誤りをおかしており、この経済還元主義から、階級闘争が社会発展の原動力だとする「階級還元主義」におちいっている、との批判を加えています。
 史的唯物論の土台・上部構造論は、土台と上部構造との相互媒介の関係を論じながらも、「上部構造の全体は、窮極においてこの土台から説明されるべき」(『空想から科学へ』全集⑲二〇五ページ)としているのであって、上部構造の独自の役割を否定しているのでも、土台を社会の唯一の規定的要因としているのでもありません。エンゲルスは、経済還元主義との批判を予想したかのように、史的唯物論というのはさまざまな社会構成体の「研究にさいしての手引き」(エンゲルス「シュミットへの手紙」全集㊲三八〇ページ)であって、「これを歪曲して、経済的要因が唯一の規定的なものであるとするならば、さきの命題(土台が上部構造を規定するとの命題――高村)を中味のない、抽象的な、ばかげた空文句にかえること」(「ブロッホへの手紙」同四〇一~四〇二ページ)になると警告を発しているほどです。
 ネオ・マルクス主義の「経済還元主義」は、史的唯物論の命題を歪曲するものでしかありません。逆に史的唯物論の「土台・上部構造論」と階級的観点なくしては、上部構造の中心となる国家の本質を何一つ説明しえないことこそ強調されなければなりません。
 また階級還元主義との批判は、当時の西ヨーロッパで経済的矛盾の激化にもかかわらず、階級闘争が発展しないことを反映した議論としてあらわれたものです。この点でも、ネオ・マルクス主義は史的唯物論を歪曲しています。史的唯物論は土台における経済的矛盾の激化を短絡的、直接的に労働運動や革命運動の発展に結びつけているわけではありません。マルクスは第一インターナショナル創立宣言において、「成功の一つの要素を労働者はもちあわせている――人数である。だが、人数は、団結によって結合され、知識によってみちびかれる場合にだけ、ものをいう」(マルクス「国際労働者協会創立宣言」全集⑯一〇ページ)として、「万国のプロレタリア団結せよ!」(同一一ページ)とよびかけました。
 二〇世紀になって、資本主義が帝国主義の段階に入ると、独占資本は、その独占的超過利潤の一部を使って労働者階級の上層部を社会的に買収し、労働運動のなかに新カント派という右翼的潮流を生みだします。新カント主義者は帝国主義諸国間の植民地争奪戦としての第一次世界大戦を支持することで、労働者階級の利益を裏切り、第二インターを崩壊に導きました。レーニンは、こういう労働者階級の右翼的潮流とのたたかいなしに階級闘争を発展させることができないことを強調し、自らそれを実践して、ついにロシア革命を成功に導いたのです。
 労働者は科学的社会主義の理論に導かれ、労働者階級の右翼的潮流とたたかい、階級的観点にたって結集することによってのみ労働者階級としての力量を発揮し、階級闘争を発展させることができるのです。そのためには日々の粘り強い地をはうような組織活動が必要となってきます。経済的矛盾の激化は階級闘争発展の一つの客観的条件となるのみであって、どんなに階級矛盾が激化しても労働者を階級的に結集するという主体的条件が伴わないと階級闘争を大きく発展させることはできません。
 ネオ・マルクス主義の階級還元主義とは、革命運動が幾世代にもわたる長期かつ系統的な運動であることを忘れ、一時的な運動停滞の局面のみをみて右翼日和見主義に転化した、「解釈の立場」にたった観念論でしかないのです。

二、ソ連・東欧の崩壊

 二〇世紀末のソ連・東欧の崩壊は、二〇世紀初頭のロシア革命に次ぐ二〇世紀の大事件でした。この大事件をつうじて、「社会主義は崩壊した」「科学的社会主義は時代遅れとなった」との宣伝が鳴り響き、それは奥深いところで人民の意識に影響を与え続けているように思われます。その意味からすると、ソ連、東欧の崩壊は直接現代哲学の問題ではないにしても、現代哲学として放置できる問題ではありません。
 結論的にいうならばソ連・東欧は、社会主義をめざして出発したものの、とりわけスターリン以降の歴代指導部によって、科学的社会主義から逸脱し、人間解放の真のヒューマニズムの社会どころか、逆に国民から自由と民主主義を奪い、社会主義とは無縁の人間抑圧型の社会にまで転落してしまったのですから、その崩壊をもって社会主義の崩壊といえないことは当然であり、また科学的社会主義の学説が時代遅れになったということもできません(詳しくは拙著『二一世紀の科学的社会主義を考える』参照)。
 日本共産党綱領は、このソ連型社会主義について、「対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進」んだ結果、「社会の実態としては、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会として、その解体を迎えた」と規定しています。
 マルクス主義の核心は、資本主義の経済的諸関係を徹底的に分析・研究することをつうじて、資本主義はその内にもつ矛盾によって永続することはできず、その矛盾の解決としての社会主義・共産主義に移行せざるをえないことを明らかにしたところにあります。その意味ではマルクス主義における社会主義論は、資本主義の矛盾を解決する真にあるべき社会として、理論的にその基本骨格は打ち出されたものの、それ以上に肉付けされたものになりえなかったのは当然のことでした。
 これに対し二〇世紀の壮大な社会主義の実験は、マルクス主義の社会主義論に肉付けした「生きた社会主義」を試行錯誤のなかで建設するという前人未踏の道を歩むなかで、さまざまな偏向や誤りをおかすことにもなったのです。したがって二一世紀の科学的社会主義は、ソ連・東欧の崩壊の問題を含め、二〇世紀の社会主義の実験を総括し、より発展した社会主義論を構築すべき責務を負っているものといわなければなりません。
 ソ連・東欧の崩壊は、科学的社会主義の二一世紀的理論への発展に関して、反面教師として問題提起したという意味で、哲学史上に取りあげられるべき問題となっているのです。

三、現代哲学の意義と限界

 「神学の侍女」としての中世哲学から脱却した近代哲学は、哲学の最高の問題として、世界の根本的二大要素である思考と存在とはどういう関係にあるかの問題を提起し、それをめぐって思考と存在とはどちらが根源的であるかの問題と、思考と存在とは同一になりうるかという、二つの問題を投げかけました。この二つの問題について、マルクス主義は弁証法的唯物論と史的唯物論をつかって真理を認識する「全一的な世界観」を確立すると同時に理想と現実の統一を求める革命の哲学を示して、近代哲学の到達点となりました。
 こうして現代哲学は、マルクス主義の存在をふまえた哲学として出発せざるをえない運命をその当初から担わされていたのです。現代哲学者としてのレーニンは、マルクス主義哲学を発展させ、とりわけ民族自決権を確立することによって、二〇世紀を植民地解放の世紀とする大きな功績を残し、またその哲学的功績によってマルクス主義を科学的社会主義に発展させました。
 しかしそれ以外の現代哲学は、すべてブルジョア的観念論の立場から科学的社会主義を攻撃、批判し、葬り去ろうとする哲学でした。ここに哲学の階級性、党派性が明瞭に示されています。レーニンは、観念論である「経験批判論」との論争をつうじて、次のように「結論」をまとめています。
 「経験批判論の認識論的スコラ学の背後に、哲学における諸党派の闘争、結局において現代社会の敵対諸階級の傾向とイデオロギーとを表現している闘争を見ないわけにはいかない。最新の哲学は、二〇〇〇年前と同様に党派的である。たたかいあっている党派は、博識ぶった山師的な新しい呼び名あるいは愚鈍な無党派性によっておおいかくされてはいるが、事の本質上、唯物論と観念論である」(『唯物論と経験批判論』レーニン全集⑭四三三ページ)。
 この「結論」は現代においても、そのまま妥当するものということができます。現代哲学における科学的社会主義と現代の諸観念論との対立は、プロレタリアートとブルジョアジーとの対立のイデオロギー的反映であると同時に真理と非真理の対立となっています。現代の諸観念論は、真理探究に背を向け、人類の認識が無限に客観的真理に向かって前進していくことを否定することで非真理の道を歩んでいるのです。非合理主義は近代科学の発展をもたらした理性を否定することによって、実証主義は現象にのみとどまることによって、構造主義とネオ・マルクス主義は弁証法を否定する形而上学の立場にたつことによって、いずれも客観的真理の探究を否定してしまったのです。
 本来哲学の課題は、真理を探究することによって、自然や社会をより善いものにつくり変え、人間としてより善く生きる指針を提起するものでなければなりません。そのためには「事実の真理」のみならず「当為の真理」を探究し、「解釈の立場」ではなく「変革の立場」にたたなくてはなりません。しかし現代観念論は、科学的社会主義のあれこれの批判を試みながらも、その根本姿勢を批判することはできず、あくまで「解釈の立場」にとどまり、現代社会の諸矛盾をどう打開し、どう生きるべきかについて、何ら積極的な提案をすることのない批判のための批判となっています。それはいわば哲学のための哲学、書斎のなかの哲学、人民にとって無縁の哲学にすぎません。
 彼らは「変革の立場」にたたないから、事実の真理も当為の真理も必要とせず、科学に背を向けることもできれば、ニヒリズムにも陥るし、人間の内面にのみ目を向けていることもできるし、言葉あそびにふけることもできるのです。また彼らは変革の立場にたたないから、世界全体を統一的に理解する「全一的な世界観」にも無関心であり、あれこれの瑣末な問題について「博識ぶった山師的」議論をくり返しているのです。
 ともあれ、現代観念論の非真理性は、その哲学が歴史上の一時期にその時代の一潮流にはなりえても、短期間にその影響力を失ってしまい、歴史の後景に追いやられてしまっていることに示されています。これはソクラテス、プラトン、アリストテレスを先頭とする古代ギリシア哲学が、その真理性のゆえに二千年以上の生命力を保ち続けていることとの決定的な違いということができます。これらの観念論哲学が、科学的社会主義の哲学と異なり、一部の哲学者の関心は集めても、広く人民の共感を得るものになりえなかったことに原因があり、また人民の共感をえられなかったところに、その非真理性も示されているのです。
 結局現代観念論は、科学的社会主義の哲学を発展させるべき一定の問題提起をなしえたことはあっても、科学的社会主義を乗り越える哲学を生みだすことはできなかったのです。逆にいえば、現代哲学の挑戦を受けることによって、かえって科学的社会主義の哲学は鍛えられ、磨きがかかり、現代においてもなお「最後の哲学」であることが証明されているということができるでしょう。しかしそのことは科学的社会主義の哲学が完結した決定的真理であることを意味するものではなく、科学的社会主義の哲学をつうじてのみ無限に客観的真理に向かって接近しうることを意味しているにすぎません。エンゲルスのいうように「いまさしあたって必要なことは、この科学をそのあらゆる細目と連関とにわたってさらに仕上げてゆくこと」(『反デューリング論』全集⑳二六ページ)にあるのです。
 したがって、科学的社会主義の哲学は、その時代が提起する諸問題に弁証法的唯物論と史的唯物論を使って、一つひとつ解答しながら、自らの哲学の内容をより豊かな、より発展したものにしていくべき責務を負っているのです。当面の課題は、一つにはソ連・東欧の崩壊を含む二〇世紀の社会主義の実験をふまえて、科学的社会主義の「社会主義論」をより発展させることにあり、二つには中南米の「二一世紀の社会主義」の試みなどから何を学ぶべきかということにあるといって良いでしょう。