『科学的社会主義の哲学史』より

 


               はじめに

 最近若い人と話していると、なぜ科学的社会主義を学ばなければならないのですかとの質問を受けることがあります。科学的なものの見方、考え方を身につけるためとか、いかに生きるべきかを学ぶこととかの回答をすると、さらになぜ弁証法を学ぶことがその答えになるのですかと反論されます。そう問い返されると、その答えにためらいを感じる人もいるのではないでしょうか。

 哲学とは、真理探究の学問であり、二千六百年に及ぶ長い歴史を通じて少しずつ真理の粒が積み重ねられてきました。日本共産党が科学的社会主義の学説こそ「すべての価値ある知識の発展的な継承者」としていることは、真理探究の歴史としての哲学史の中にあって、科学的社会主義の哲学が「真理認識の最高の哲学」であると同時に最高の生き方を示す哲学であり、そこに私たちが科学的社会主義を学ぶべき理由があると言っているように思えます。エンゲルスも現に『空想から科学へ』のなかで、弁証法を「思考の最高の形式」と呼んでいます。ではこれまでに、哲学史を学ぶことをつうじて弁証法的唯物論が最高の真理認識の思惟形式であることを証明した哲学史が存在したのかと言えば、残念ながら否定せざるをえません。したがって、日本共産党の科学的社会主義に関する規定は、結論的には妥当なものであろうと思われますが、現段階では無証明の単なる断言にとどまっていると言わざるをえません。本講座は哲学史をつうじてそれを論証し、科学的社会主義の哲学である弁証法的唯物論と史的唯物論が真理を認識し、より善く生きるための最高の思惟形式であることを証明しようとしたものです。その証明に成功して初めて、科学的社会主義を学ばなければならない意味も明らかになることでしょう。これが本書の第一の課題となります。
 
 二〇世紀の最大の事件は、世界最初の社会主義を目指す国・ソ連の誕生であり、二番目の大事件はソ連・東欧の崩壊ということができるでしょう。社会主義を目指して出発しながら、ソ連・東欧がなぜ崩壊するに至ったのか、その理由の解明なくして科学的社会主義が「最高の哲学」であることを主張し続けることはできないでしょう。その主たる理由は、科学的社会主義の学説の誤りではなく、政治的・実践的誤りというべきものでしょうが、しかし、そこから哲学的、理論的に何を学ぶべきかは、「歴史とともに進行する不断の進歩と発展」を掲げる科学的社会主義として真剣な探求が求められるのではないかと思われます。それを皆さんと一緒に考えていくことが本書の第二の課題となっています。
 
 ヘーゲルは「哲学史の研究こそ即ち哲学の研究である」と述べていますし、エンゲルスも理論的思考を育てるためには「従来の哲学を研究する以外のどんな手段もいままでのところではない」と断言しています。したがって科学的社会主義の観点から哲学史上の論点とされたものを総括することをつうじて、科学的社会主義の哲学をこれまで理解されてきたもの以上に、より豊かな内容を持つものに発展させることができるのではないかと思われます。本書の副題を「より人間らしく…『過去』に学ぶ『今』の生き方」としたのも、ソクラテス以来哲学の課題とされてきた生き方の真理の探究の問題は、科学的社会主義の哲学の重要な構成要素となっていることを強調すべきことを哲学史から学んだからにほかなりません。第二の課題との関連も含め、科学的社会主義の内容をより豊かなものにすることが本書の第三の課題ということになります。
 
 この三つの課題の解明にどの程度成功しているかは、読者の皆さんの判断にゆだねるしかありませんが、無数の哲学史が存在する中にあってその課題に挑戦しているところに、本書の特徴があると言っていいでしょう。一言しておくと、編集委員会の論議をつうじて、哲学史には人間は出てきても女性は出てこないとの厳しい批判がありました。女性への差別は、階級社会における階級差別とともに始まったものでしょう。したがってこの批判は、人間即ち男性とされ、女性が登場しないこれまでの哲学史の批判のみならず、人間解放を言いながら女性の解放に触れていない本書の限界を示すものとして、第三の課題の面で問題を残したことになります。
 
 本書もこれまでと同様、編集委員会の皆さんの協力によって出版されることになりました。県外からも文書発言により、吉崎明夫さん(神戸)、渡辺良忠さん(旭川)が編集委員会に参加されました。ここに改めて委員会のみなさんのご苦労に対し、深い敬意と感謝の気持ちを表明するものです。
 本書の装丁は文化学園大学大学院教授・服装学部ファッション画研究室室長である長男の高村是州が担当しました 。

二〇一三年 六月 二二日  

            高村 是懿