2014年9月27日 講義
第12講 「D 精神」④
─「C 自己確信的精神、道徳性」②
4.「c 自己確信的精神、道徳性」②
③ 「b おきかえ」
● カントの道徳的世界観は「思想なき矛盾の全巣窟」(352ページ)
・カントの道徳的世界観は、道徳性と自然(幸福)、理性と感性、多くの義務
と純粋義務という3つの対立の調和を「要請」する
・しかしそれは対立を表象するだけで概念に統一しない無思想にすぎない
・すなわち「一方では、意識自身が(道徳性という―高村)その対象を意識的
に生み出」(同)しながら、「他方では、意識自身は対象をむしろ自分の外
に、自らの彼岸として立て」(同)ることによって、道徳的意識は存在する
と同時に存在しない、という
・その意味でカントの道徳的世界観は、「思想なき矛盾の全巣窟」(同)であ
る
・すなわちそれは「1つの契機を固定させ、そこから直ちに他の契機に移り、
初めの契機を廃棄するという態度」(同)をとりながら、「いま第2の契機
を掲げたかと思うと、それをまた置きかえてしまい、むしろその反対を知だ
とする」(同)
・これがつまり「おきかえ」(同)であり、こうした「おきかえ」は、対立す
る契機の「どれに対しても真剣でないことを告白している」(同)
● 道徳性と自然との調和にかんするおきかえ
・まず第1の要請は、道徳的意識において、道徳性と自然とは調和すべきとい
う要請だが、「その現実は、道徳性と(自然とは―高村)調和しないという
ふうになっている」(353ページ)
・しかし道徳性の現実は「行動する」(同)ところにあり、「行動は内的道徳
的目的の実現にほかならない」(同)から、この要請はたんなる要請ではな
く、目的と現実との「調和をつくり出す」(同)というおきかえが生じる
・現実の行動は、「個々の意識の行動」(同)、つまり多様な義務の履行にす
ぎず、したがって「その結果も偶然である」(同)ことになる
・しかし道徳の目的は「純粋義務が唯一で全体的な目的をなしている」(同)
のであって、多様な義務の履行がこの最高善を実現するというのはおきかえ
にすぎない
・したがって「最高善を認めると、道徳的行動は余計であり、全然成り立たな
い」(354ページ)ことになる
・まとめてみると、道徳的意識にとって「道徳性と現実が調和しないというこ
とから、出発」(同)しながら、「行動のなかにこそ、この調和が現存して
いる」(同)とおきかえられる。他方で道徳的行動は最高善の実現でなけれ
ばならないのであって、個別的・偶然的行動ではこの目的は達しえないとの
おきかえがなされ、さらに最高善が実現されるためには、偶然的な「道徳的
行動の廃棄」(355ページ)がなされねばならないというおきかえが求めら
れることになり、終わりのない矛盾に
● 道徳的意識と感性にかんするおきかえ
・第2の要請は、道徳的意識が理性にもとづく目的をかかげて、「自然すなわ
ち感性との調和」(同)を求める要請であり、それは感性を「自分のなかで
亡ぼ」(同)す要請である
・しかし、道徳的意識が行動において「自らの目的を現実」(同)にしようと
するとき、感性は行動を起こすための「衝動、傾向」(同)として「純粋意
識が自らを実現するための道具」(同)となり、その意味では「感性は、純
粋意識と現実の間のちょうど中間にある」(同)ことになる
・したがって感性は、純粋意識に向かう衝動として「理性に適っている」(同)
ものとなり、廃棄さるべきではないものにおきかえられてしまう
・言いかえると「真剣に受けと」(356ページ)るべきものは、「完成に向っ
て進むべきである」(同)とする感性の衝動という「中間状態」(同)だと
いうことになる
・「こうして、真剣に受けとっているのは、道徳性完成ではなく、むしろ中間
状態」(同)という「非道徳性」(同)ということになるから、「他面から
言えば、われわれは最初の要請の内容(自然的意識―高村)に帰って来る」
(同)というおきかえがなされることになる
・道徳的意識が自然的意識に帰って「道徳性に関係のない幸福をそれ自体で問
題にしている点に、非道徳性」(同)が示されるというおきかえに
・こうして「意識における不完全な道徳性」(357ページ)は、完全な道徳性
を「聖なる道徳的立法者」(同)におきかえをする
●「聖なる立法者」にかんするおきかえ
・すなわち、不完全な道徳性のうちでは「多様な多くの道徳的命令が生ずる」
(同)ことになるが、道徳的意識にとっては「大切なのは1つの純粋義務」
(同)だけであるから、多くの義務は、「神聖な立法者によってのみ神聖に
なる」(同)
・しかし「それ自身また事態のおきかえにすぎない」(同)。というのも「道
徳的意識にとっては、自分自身によって、また自分のなかで神聖であるもの
だけが、端的に神聖である」(同)から、「別の存在者が神聖なものである
と、真剣に受けとることはない」(同)のである
・結局、「聖なる立法者」を求めることは、自己のうちに純粋義務は存在しな
いことになるし、他方で自己のうちに純粋義務を認めることは、多様な義務
と純粋義務の区別を曖昧にしてしまい、現実的でないことに
● 道徳的表象から良心へ
・このようにカントの道徳的世界観の要請は、「矛盾のなかをさまよ」(358
ページ)い、「相対立したいくつかのもまたを継起させるが、それらの自分
の思想を総合しないでそのままとし、反対のものをいつも別のものに代らせ」
(同)るおきかえに終始して結論が出ないことになる(「矛盾の混合主義」
359ページ)
・「その結果、意識はここで自らの道徳的世界観を捨てて、自らに帰らなけれ
ばならない」(358ページ)
・意識は、おきかえという「不真に嫌気がさして、自分に逃げかえ」(360ペー
ジ)り、「こういう道徳的世界表象を軽んずる純粋良心となっている」(同)
・純粋良心は、「自己を確信する単一な精神」(同)であり、「表象などに媒
介されないで、直接良心的に行動し、この直接態のうちに、自らの真理を
もっている」(同)
④ 「c 良心、美しき魂、悪とその赦免」
〈自己確信的精神としての良心〉
● 道徳的自己意識は自らに帰って良心となる
・結局カントの「道徳的世界観の二律背反は、1つの表象のうちに総合された」
(同)のみであって、概念に統一されないところから、おきかえに終始
・そこで自己意識はこの二律背反から「自らに帰って行き、現実的なものを、
同時に純粋知であり純粋義務とするものが、自己自身」(361ページ)のう
ちにある良心であることに気がつく
● 良心とは「自己確信的精神」
・つなり良心とは、「自らを直接絶対的真理であり存在であると、確信してい
る精神」(同)―つまり、自己疎外から回復した「自己確信的精神」(343
ページ)
・「かく自らの真理に達したので、道徳的自己意識は、おきかえのもとになっ
ていた、自分自身のなかの分裂」(361ページ)を「廃棄する」(同)
・したがって「この精神は無媒介の統一にいながら、自己を実現する道徳的実
在であり、その行動はそのまま具体的な道徳的形態をとる」(362ページ)
・良心にもとづく行動は「単純な義務にかなった行動」(同)として、これま
での「行果のない」(同)道徳的意識と異なり、「初めて行動らしい道徳的
行動」(同)となる
・「良心のうちには、意識があちらこちらと動いて、確信をもてない状態は存
在」(363ページ)せず、良心は「道徳的世界観の位置をきめたり、それを
置きかえたりすることをすべて断念する」(同)
・つまり良心による行動は、「純粋義務とは別のもの」(同)であり、「自分
自身で自分の真理をもっている」(同)「自己の信念」(同)にもとづく行
動
・「こうしていま、自己は自己であるが故に法則」(364ページ)なのであり、
「信念として、義務なのである」(同)
● 良心において「ことそのもの」は実体から主体に転化する
・しかしこの法則は自己にとっての法則、「自独存在」(同)であるだけでは
なく、「対他存在」(同)でもある
・というのも、良心の内容は他人との「共通の場」(同)として「他人によっ
て承認される」(同)ことを「本質的契機」(同)とするものであって、他
人の承認によってのみ「義務であると知ったことは実現されるし、現実とな
る」(365ページ)から
・その意味で良心の内容は「誠実な意識」(同)としての「ことそのもの」
(同)であり、いまや「ことそのもの」は、良心として述語から主語に、実
体から主体に(23ページ)転化している
・つまり「ことそのもの」としての誠実な意識は、社会的実体であったものか
ら良心の内容に転化し、個人と共同体、個と普遍の統一を生みだす主体とい
う真に転化している
● 良心は「絶対至上の独裁権」(369ページ)
・以上により自己自身を確信する精神、つまり良心はその「規定と内容」
(366ページ)を「自己自身の直接的確信」(同)、言いかえると「自然的
意識」(同)のうちにおいている
・したがって、良心の「活動圏はいわゆる感性であり」(367ページ)「結局
それは、個別人の恣意であり、個別人が無意識的に自然的に在るときの、偶
然の姿」(同)にすぎない
・つまり良心の「自由は、任意のどんな内容」(368ページ)をも、「純粋義
務と知」(同)にしてしまう
・例えば「個人の福祉」(同)よりも「公共の福祉」(同)を優先すべきだと
しても、その公共の福祉の「内容は、良心が、自分の自然的な個人性からと
り出したもの」(369ページ)にすぎない
・したがって自己自身を確信する良心は「絶対至上の独裁権をもつことになる」
(同)
・しかしこの「絶対至上の独裁権」も対他存在として他人の承認がないと現実
の行動にならない
・しかし「他人は、この良心が道徳的に善であるか悪であるか」(370ページ)
を「知ることができない」(同)
・他人の承認を得るには「自らの信念を言表する」(371ページ)することが
必要であり、他人はその信念を知ることによって承認するか否かを判断する
・いわば、「自己自身の直接的確信」(372ページ)を内心の「確信の形式」
(同)から、外面的な「断言の形式に移」(同)さなければならない
・「この断言を言表することは、それ自体で、それが特殊であるという形式を
廃棄している。そのとき言表は自己の必然的な一般性を認めている」(同)
・「自らを真であると言表する」(同)ような「断言の形式」によって、良心
は「すべての自己から承認され」(同)て現実となる
〈良心は「美しき魂」となる〉
● 美しき魂
・以上みてきたように、良心は絶対的至上権として「任意の内容」(同)をも
ち、「内なる声が、神の声であると心得て」(373ページ)いる「道徳上の
天才」(同)であり、「美しき魂」(375ページ)
・こうして自己意識は「自らの最内奥に帰り、あらゆる外面が消え去っている」
(373ページ)
● 美しき魂は、意識の「最も貧しい形態」
・しかし、このように自己意識が「純粋態に転化されたいま、意識はその最も
貧しい形態となっている」(374ページ)
・というのも、もともと意識とは、主観と客観の交互作用としてのみ存在する
にもかかわらず、この「絶対的確信」(同)は、客観としての「実体を解体」
(同)し、「自己のなかで崩壊」(同)させてしまうから
・この意識にとって「自体存在する実体は、自らの知としての知」(同)とい
う主観のうちに解消されてしまう
・したがって「この意識に欠けている」(同)のは、「自分を物とし、存在に
耐える力」(同)、つまり「外化の力」(同)であり、その結果「最も貧し
い形態」となっている
・「意識は、内面の輝かしさを、行動と定在で汚しはしないかという不安のな
かに、生きており、自らのこころの純粋な姿を保とうとして、現実との触れ
あいから逃れ」(374ページ)る「美しき魂」となっている
・こうして意識は、「不幸ないわゆる美しき魂」(375ページ)となり、「形
を失って消えてしまう」(同)―ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修
業時代』の「美しい魂の告白」からとったもの
〈悪とその赦し〉
● 行動する良心は善と悪の統一
・行動しようとする良心は、自分を普遍的道徳意識としての「一般態」(同)
に対立する「特殊な個別者と意識」(同)している
・この「特殊な個別者」としての意識は、「自己内存在であるため一般者と等
しくない」(376ページ)から「悪と認められる」(同)
・しかし行動しようとする良心は、自己の意識を悪と知りながら「良心にかな
っていると言表する」(同)のだから「偽善」(同)でしかない
・悪は、一般者に反抗して「自分の内面の法則と良心に従って行動している」
(同)と主張することで、「実際には自分が悪」(同)だと告白している
・他方良心の偽善を批判する一般者は、「自分の法則を引き合いに出して」
(377ページ)批判する
・となれば、「一般的意識も、悪しき意識に反対する結果、或る特殊な法則と
して現われることになる」(同)から、「少しも他方にまさっているわけで
はなく、むしろ他方を正当化している」(同)ことになる
・こうした「個別的意識と一般的意識の対立」(367ページ)が生じるのは、
良心が「美しき魂」として現実的行動となっていないからにすぎない
・というのも「具体的な行動」(378ページ)となると、それは個と普遍の統
一、悪と善の統一としてのみ存在するから、そこには「義務だと受けとられ
るような一般的な側面をもっているが、それと同じように、個人が関与し関
心をもつような特殊な側面をも、自分でもっている」(同)からである
・「下僕にとっては英雄などはいない」(同)という諺があるが、この諺は、
行動には、一般的側面と個別的側面があるにもかかわらず、下僕は英雄の行
動の個別性の側面に注目はしても、一般的側面を評価しようとしないことを
指摘したもの
・このように行動する良心には、特殊な側面と一般的な側面が統一しているの
であり、ここに悪の意識と、善の意識の間に「互いに承認し合う」(379ペ
ージ)関係の生じる土台がある
・したがって、悪い人が「私がそうなんだ」(同)と告白した場合を考えてみ
ると、この告白者は自己を否定することで「自分の特殊性(悪―高村)を棄
てたのであり、その結果相手と連続し、一般者」(380ページ)となってい
る
・このとき相手方が、その告白を受けいれれば相互承認が生じるが、そうでな
いとこの相手方は一般者としての「精神を捨て、精神を否認する意識となっ
て、現われてくる」(同)ことになる
・美しき魂は、こういう事態を恐れて「自分自身の知を外化」(同)しようと
せず、そのため「つき放された意識(一般者―高村)と自分とが等しいとい
う点には達しえない」(同)
・つまり美しき魂は、行動にでることをしないため、善と悪との「固定した対
立の直接態のなかにいる」(同)「空しい無」(同)である
・「かくして美しき魂は、・・・和解されない直接態のなかで乱れて、……身
も世もなくなってしまう」(同)
● 赦免(赦し)
・美しき魂が乗り越えられなかった個別的側面と一般的側面の対立を解消する
には、「現実的な行動であった他方を自分と等しくし」(381ページ)相互
承認による「赦し」(同)あいが必要となる
・つまり「特殊な自独存在という、悪の一面的な承認されていない定在が砕か
れねばならなかったように、他者(評価者)の一面的で承認されていない判
断も砕かれねばならない」(同)のである
・それが「赦し」(同)といわれるものであり、それは「善悪というきまった
思想上の区別と、自分で定める判断と、を棄ててしまう」(同)ことである
・赦しから生まれる「和らぎという言葉は、定在する精神のこと」(同)
・つまり和らぎにおいて、ようやく自己疎外的意識は疎外から回復し、「一人
はみんなのためにみんなは一人のために」という「精神の概念が現存」
(115ページ)するに至り、「定在する精神」となる
〈良心は、赦しをつうじて絶対的精神となる〉
● 赦しによる和らぎは絶対的精神
・精神は実体ではなく主体(23ページ)であり、「本質的に結果であり、終り
に至って初めて、自ら真にある通りのもの」(24ページ)、つまり絶対的精
神となる
・精神は主観と客観の相互作用をつうじて主体として発展するのであり、「絶
対的他在のうちに純粋に自己を認識する」段階に至って絶対的精神となる
・いま良心は和らぎの世界において、ようやく絶対的精神に達した
・すなわち、「一般的本質としての自己自身の純粋知を、その反対のなかに、
絶対に自分のなかにいる個別性である自己についての絶対知のなかに、直観
する。それは相互の承認であり、絶対的精神であるようなものである」
(381ページ)
・つまり和らぎの世界は、「相互承認」の世界として、そこでは「自己自身の
純粋知を、その反対のなかに……直視する」(つまり「絶対的他在において
純粋に自己を認識する」(27ページ))ことにより、精神は自己を完成し、
「自ら真に在る通りの」絶対的精神となっている
・つまり和らぎの世界は、ポリスの個人と異なる理性的かつ普遍的個人のもと
で、「われとわれわれの統一」(115ページ)、つまり個人と共同体の一体
化した人倫的世界
・それは、ポリスより高次の人倫的世界の回復として、自己疎外的精神から回
復した、絶対的精神(絶対知)の世界
・和らぎの世界は、疎外から回復した「自己の統一に帰」(382ページ)り、
「自らの絶対的反対において、……自己を一般的に知る」(同)絶対的精神
・こうして精神は道徳において、精神の最高の段階に達する
・しかしヘーゲルは、後の『法の哲学』においては良心を「一方、即自かつ対
自的に普遍的なものを原理にする可能性であるとともに、他方、普遍的なも
の以上におのれ自身の特殊性を原理にして、それを行為によって実現する恣
意―悪である可能性でもある」(139節)と批判
・したがって『法の哲学』では理性のもとづく人倫的世界の実現を、内面的世
界としての「道徳」にではなく、客観的世界の「人倫」(国家・社会)に求
めているが、ここにもヘーゲルが『現象学』の体系を廃棄した大きな要因が
ある
*** *** *** *** コラム *** *** *** ***
〈史的唯物論と疎外論、道徳論〉
1.史的唯物論と疎外論
〈ヘーゲルの疎外論の発展的継承〉
■ ヘーゲルの歴史観から史的唯物論が誕生
・エンゲルス「(ヘーゲルは)歴史のうちに、内的連関を示そうとした最初の
人であった」(全集⑬ 476ページ)
・「このような画期的な歴史観は、新しい唯物論的見解の直接の理論的前提で
あった」(同)
・ヘーゲルの歴史観は、疎外論を軸に展開されている
・すなわちヘーゲルは、人類の歴史を即自(個人と共同体の一体化した社会)、
対自(個人と共同体の対立が顕在化した疎外社会)、即対自(対立を揚棄し
た個人と共同体の統一した社会)ととらえた
・史的唯物論も同様に、個人と共同体の一体化した原始共同体とそこにおける
人間の類本質の形成、階級社会における個人と共同体の対立する人間疎外の
社会、疎外から回復して個人と共同体が一体化する人間解放の社会主義・共
産主義の社会の、即自・対自・即対自という疎外論を軸とした三段階歴史観
を展開
● ヘーゲルの疎外論は、直接的に科学的社会主義の学説のうちの
「社会主義論」に発展的に継承されている
・科学的社会主義の学説の本質は、「真のヒューマニズムにたった人間解放」
にある
・人間解放の社会主義・共産主義とは人間の類本質の疎外を前提として、その
類本質の疎外からの全面回復を意味する
・「人間疎外としての私有財産の積極的止揚としての共産主義、それゆえにま
た人間による人間のための人間的本質の現実的な獲得としての共産主義」
(『経・哲草稿』130ページ)
・「この共産主義は完成した自然主義(ナチュラリズム)として=人間主義
(ヒューマニズム)であり、完成した人間主義として=自然主義である」
(同131ページ)
〈ヘーゲルの疎外論の意義と限界〉
■ ヘーゲル疎外論の意義
・ヘーゲル『現象学』が宗教、国家、市民生活などの批判をつうじて「人間の
疎外を―人間がただ精神という姿で現われているにすぎないとはいえ―しっ
かりとつかんでいる限り、現象学のなかには批判のあらゆる契機が隠されて」
(同198ページ)いる
・ヘーゲルの批判的精神は、「理性は、全実在であるという意識の確信である」
(142ページ)という変革の立場に象徴されるが、とりわけ「主と僕」、宗
教改革、フランス革命にその批判的精神が示されている
・しかし、資本主義(「ことそのもの」「有用性」)への批判がみられないの
は、『法の哲学』と大きく異なるところ
・『法の哲学』では、資本主義は「もろもろの欲求のかたまり」(182節)とし
てとらえられ、「放埒な享楽と悲惨な貧困との光景を示すとともに、このい
ずれにも共通の肉体的かつ倫理的な頽廃の光景を示す」(185節)
・資本主義の評価を180度転換したことも『現象学』体系放棄の一因となって
いる
■ ヘーゲル疎外論の唯物論的批判
・ヘーゲルの疎外論は、自己意識という「意識の疎外」(『経済学・哲学草稿』
202ページ)にすぎず、「自己意識の疎外は、人間的本質の現実的な疎外の
表現」(同)とみなされていない
・この立場から、マルクスは人間の類本質をまず明らかにし、人間の類本質が
労働における搾取をつうじて現実的に疎外されることを解明
・「労働者がより多くの対象を生産すればするほど、彼の占有できるものがま
すます少なくなり、そしてますます彼の生産物すなわち資本の支配下におち
いっていくほど、それほど激しい疎外として現われる」(『経・哲草稿』87
ページ)
・「一方の極における、冨の蓄積は、同時に、その対極における……貧困、労
働苦、奴隷状態、無知、野蛮化、および道徳的堕落の蓄積である」(『資本
論』④1108ページ)
・こうして人間の類本質の疎外からの回復、つまり人間解放が、科学的社会主
義の最高善として求められることになる
2.史的唯物論と道徳論①
■ 国家の二面性は、道徳の二面性としてあらわれる
・国家とは、一方で国民全体の利益を実現する機関という仮象をもちつつ、他
方で搾取する階級の階級支配の機関という本質をもつ、仮象と本質の対立と
統一の上部構造としての機関である
・この国家の二面性は、同じ上部構造に属する道徳にも反映し、一方では仮象
とされながらも、抑圧される人民全体の共同の利益を反映する普遍的道徳
(例えば旧教育基本法)と、他方で国家の本質からくる階級支配のイデオロ
ギーとしての階級的道徳(例えば現教育基本法)が対立している
・階級社会においては、「道徳もつねに階級道徳」(全集⑳ 97ページ)であ
り、「道徳は、支配階級の支配と利益を正当化するものか、それとも抑圧さ
れる階級の……未来の利益とを代表するものか、そのどちらかである」(同)
・「支配階級の諸思想は、どの時代でも、支配的諸思想」(『新訳ドイツ・イ
デオロギー』(59ページ)であり、社会における支配的道徳は階級支配の道
徳であって、人民の道徳は真の道徳であるにもかかわらず、仮象に引き下げ
られている
・資本主義社会における階級支配の道徳は、ブルジョアジーの「支配と利益を
正当化」する搾取の自由と、国民を分断して支配することを中心とする非人
道的道徳である
・すなわち、それは一方で金もうけを最高善とすることによって、非人道的な
戦争、軍需産業、原発、環境破壊、劣悪な労働条件を正当化し、他方で退廃
的で、不誠実な、かつ非人道的な差別、憎しみ、排除の意識を肯定する道徳
である
・しかし、マルクス、エンゲルスは、科学的社会主義の道徳論は正面から論じ
ていない
・わずかに『反デューリング論』で「真に人間的な道徳」(全集⑳ 98ページ)
といい、「国際労働者協会創立宣言」で「私人の関係を規制すべき道徳と正
義の単純な法則を諸国民の交際の至高の準則として確立すること」(全集⑯
11ページ)を指摘するのみ
■ 科学的社会主義の道徳論
・社会生活において、人間としてふみ行うべき正しい道すじを論じる道徳は不
可欠な意識であるから、科学的社会主義の道徳論を示すことは、現代に生き
るわれわれに残された課題となっている
・日本共産党規約第5条に「市民道徳と社会的道義をまもり、社会にたいする
責任をはたす」と規定されているが、道徳と道義はどう異なるのかも含めて、
その内容は明確にされていない
・科学的社会主義の学説は、「それまでに人類が生み出したすべての価値ある
知識の発展的な継承者であると同時に、歴史とともに進行する不断の進歩と
発展を特徴としている」(第13回臨時党大会)とされている
・したがってその道徳論は、カント、ヘーゲル、三浦梅園の「価値ある」道徳
論の発展的な継承者であると同時に、現代の支配階級の道徳がもたらした社
会の病理現象を解決しうる道徳論でなければならない
・またその道徳論は、科学的社会主義の学説の本質である「真のヒューマニズ
ムにたった人間解放の学説」と調和するものでなければならない
・カント、ヘーゲル、梅園の道徳論に共通なのは、道徳的意識は、感性(自然
的自己)を理性(教養ある自己)に高めることから生まれる「当為」の意識
だとすることにある―唯物論とは自然主義を意味するものではなく、理性的
人間に成長・発展していくことを肯定するもの
・カントの道徳論が「思想なき矛盾の全巣窟」(352ページ)であるのに対し、
ヘーゲル、梅園の道徳論の特徴は個と普遍の対立物の統一のうちに道徳性を
見いだす、弁証法的道徳論にある
・したがって科学的社会主義の道徳論は、まず自然的自己としての人間そのも
のを肯定するヒューマニズムの道徳論であると同時に、それを乗り越え、理
性にもとづく人間の真にあるべき生き方、行動の仕方という、人間の「概念」
(真にあるべき姿という当為)を問題にするのであり、したがって人間の本
質論にもとづく「真に人間的な道徳」が求められる
・人間の本質は、「自由な意識」と「共同社会性」「自由と民主主義を本質的
かつ普遍的価値とする価値意識」の3つであり、この3つの本質をもつこと
によって、人間らしく(人間性豊かに)生きることができる
・科学的社会主義の道徳論は、カントの定言命令のような一般的道徳法則とし
てまず示されるべきであって、個々の道徳的行為はその展開として示される
べき
・以上を整理してみると、「科学的社会主義の道徳論とは、人間が人間らしく
生きるためのヒューマニズムと理性の道徳論であり、人間の生命の尊厳と自
由な精神を尊重すると同時に、個と普遍の統一による人間解放を求める民主
主義的かつ変革の立場にたった人道的道徳である」ということになる
・因みに、日本共産党第20回大会決定は「科学的社会主義の事業は、人間解
放の事業」(『前衛』651号、81ページ)であり、「理性と人間性」(同)
の生かされる活動が求められるとしているのも、同様の趣旨ということがで
きる
・この一般的道徳法則は、さらに説明と展開を要するが、それは次回のコラムで
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