『ヘーゲル「精神現象学」に学ぶ』より
はじめに
本書は、二〇一三年一〇月から二〇一四年一二月の間に開催された、広島県労働者学習協議会の哲学講座「ヘーゲル『精神現象学』を学ぶ」の講義録に、編集委員会での議論を踏まえ加筆・訂正したものです。
県労学協としては、これまでヘーゲルの『小論理学』は何度も講座を設け、『法の哲学』も学んできましたが、『現象学』を学ぶのは今回が最初です。というのも、著者自身も金子武蔵氏訳の分厚い『精神現象学』(上下 岩波書店)に何度か挑戦してきましたが、きわめて難解な著作であり、結局全体として何を言いたいのか良く分からないところから、敬遠してきたのが正直なところでした。今回テキストに使用した『ヘーゲル精神現象学』(河出書房新社)の訳者・樫山欽四郎氏は「ルカッチ(ルカーチ――高村)やイポリトが指摘しているように、結論であるはずの『絶対知』の章が明確な結論を与えていない。この書を通じて結局何を書こうとしたのか、ということを確定することは極めて困難なことである」(『ヘーゲル精神現象学の研究』七ぺージ、創文社)と述べています。古今東西の著名な学者・研究者が『現象学』に取り組みながら、結局誰一人その意義を明確にしえなかったということができるでしょう。
今回受講生の要請にもとづき『現象学』の講座を始めることにはしたものの、いつものように講義しながら学び、学びながら講義するという、走りながらの講座となったため、先行きの見えぬまま、不安を抱えながらの無謀ともいうべきスタートとなりました。しかし「学びて思わざればし」の諺にあるように、教えることは最大の学習です。今回の講座を通じて、『現象学』を理解する鍵は、「理性」を変革の意識、「概念」を真にあるべき姿ととらえることにあり、結論の「絶対知」とは「概念と存在の統一」、つまり理想と現実の統一を意味しているという『現象学』全体の大きな流れと意義を理解することができたのは、大きな収穫でした。先人たちは、この意味の「理性」と「概念」を理解しなかったために、『現象学』が全体として何を言いたいのかを理解しえなかったと言えるでしょう。『現象学』を学びながら、何度も論者のよってたつ立場、つまりレーニンのいう哲学の「党派性」がそのままヘーゲルの解釈に直結していることを感じる機会がありました。短期間の学習でありながらも、こうした結論に達しえたのは、変革の哲学である科学的社会主義の見地にたって『現象学』を学んだことの最大の成果だったと思います。
収穫はそれだけに止まりません。『小論理学』を学んでいるときにも、概念が「真にあるべき姿」であることを読みとるのに苦労したのですが、そのうえ、私たちが認識の発展をつうじていかにして「概念」を認識するのかについて明確に回答していないことに不満を感じていました。「概念は真に最初のもの」(『小論理学』下一三〇ページ)と規定され、「このことを宗教的に言いあらわしたもの」(同)が「神は世界を無から創造した」(同)との表現も、概念の意義を故意に誤解させるように誘導しているように思われました。
しかし今回の『現象学』をつうじて、この二つの疑問が生じた原因は、反動的ウィーン体制のもとで弾圧を逃れるために故意に概念の意義を分かりにくくして、ヘーゲル哲学の「革命的性格」(エンゲルス『フォイエルバッハ論』全集㉑二七一ページ)を押し隠そうとしたことにあると、あらためて理解することができました。
それと同時に、まず事物の本質を対立・矛盾においてとらえ、その対立・矛盾を解決するものとして概念を認識し、概念を目標にかかげた実践によって事物を合法則的に発展させるという、本質、概念、合法則的発展の相互の関係を『現象学』から学ぶことができました。この三者の相互関係は、そのまま科学的社会主義の学説に採用されるべきものであり、そのことによってその学説をより豊かにしうると考えるものです。
また『現象学』は、「自己意識」をつうじて「人間らしい心」としての「社会脳」を論じているとともに、「社会的意識」として道徳と宗教を論じています。最近の脳科学の研究により、改めてヘーゲルの「自己意識」や「社会的意識」に関する問題意識の先駆性が明らかとなっており、史的唯物論の「社会的存在は社会的意識を規定する」との命題も、階級的意識の問題と同時に社会脳との関係でも考えなければならなくなってきています。その結果、本書でも科学的社会主義の見地から「社会的意識」としての道徳と宗教をどう考えるべきかについて一定の問題提起をすることになりました。
ヘーゲルは近代哲学の完成者といわれる人物です。近代を代表する一六世紀のドイツの宗教改革、一七世紀後半に始まったイギリス産業革命、一八世紀後半からのフランス革命という三大革命を、ヘーゲルがどうとらえたのかも興味深いものであり、時代の精神をとらえようとしたヘーゲルの深い洞察力に考えさせられることも多々ありました。
こうした問題点を含め、全体的結論として『現象学』は学ぶに値する古典である、というのが率直な感想です。以上のような成果は、第一五講「『現象学』から何を学ぶか」にまとめておきましたので、本書の理解を容易にするため、第一五講から読み進めるのも一つの読み方かもしれません。
これまでと同様に、本書も編集委員会の皆さんのご協力によって編集され、出版されることになりました。それぞれにお忙しい諸活動のなかを、本書のために多大の時間を割いていただいた末尾記載の編集委員の皆さんに、この場を借りて改めて心から御礼申し上げます。尚本書の装丁は、娘婿であるプロダクツ・デザイナーのロス・ミクブライドが担当しました。
二〇一五年 七月 末日
高村 是懿
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