『ヘーゲル「小論理学」を読む(下) 』より
後期第二講 論理学の構成
ヘーゲルにおける理想と現実
前回、ヘーゲルは、理想と現実の関係を追及した人だという話をしたと思います。ヘーゲルは自らを絶対的観念論者と呼びましたが、それは理想主義という意味でイデアリスムスという語を用いたということにもふれました。理想と現実の関係をヘーゲルはどうとらえたかといいますと、人間は理想をかかげるところが他の動物と違うところだ、しかしその理想が単なる頭のなかだけの思いつきのような理想であってはならない。それが現実となる力をもつような理想でなければならない。そういう理想をかかげることによって理想は現実となってあらわれ、その結果、主観と客観の統一が実現される。簡単にいうとこのように考えるといいでしょう。
科学的社会主義の基本的立場は、変革の立場です。マルクスの有名な言葉のなかに「肝腎なことは世界を変えることだ」というものがあることもお話しましたが、それはヘーゲルから学んでいると思われるわけです。
ヘーゲルの変革の立場をもう一度、理想と現実との関係において詳しくみておきたいと思います。
前回お話しましたが『フォイエルバッハ論』でエンゲルスがヘーゲル論理学の真の意義と革命的性格はここにあるといってあげた『法の哲学』序文の「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」の言葉の中に理想と現実との関係の問題が述べられているのです。これを「エンチクロペディーへの序論」の第六節にそいながらみていきましょう。テキスト㊤六九ページです。
わたしの「法律哲学」の序文には、理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である、という命題がある。この簡単な命題は多くの人に驚きと敵意をおこさせた。しかも自分は宗教はもちろん哲学をも持っていると考えている人々のうちにさえそうした人々があった。 |
ここに現状肯定の思想があるのではないかという人々がいたというのですが、ヘーゲルは自分の理解はそういうことではないというので、次のように続けます。
しかしこの命題の哲学的意味を理解するには、神が現実的であるということ、神こそもっとも現実的なものであり、神のみが真に現実的であるということを知るだけでなく、形式の点から言って、一般に存在は一部は現象であるから、現実であるのは一部にすぎない、ということをも知っているだけの教養が必要である。 |
理性的なものは現実的であるというこの場合の「現実的」というのは存在するものすべてをいっているわけではないというのです。存在しているもののなかで単なる現象にすぎないものと現実とを区別しなければならないといっているのです。
日常の生活ではあらゆる気まぐれ、誤謬、悪といったようなもの、およびどんなにみすぼらしい一時的な存在でも、手当たり次第に現実と呼ばれている。しかしわれわれは普通の感じから言ってもすでに、偶然的な存在は真の意味における現実という名には値しないことを感じている。偶然的なものは可能的なもの以上の価値を持たない存在であり、有るかもしれずまた無いかもしれないものである。わたしが現実という言葉を使っているとすれば、人々はそれについてとやかく言う前に、わたしがどんな意味にそれを用いているかを考えてみるべきであろう。なぜなら、わたしは論理学を詳細に述べた本のうちで現実(Wirklichkeit)という概念をも取り扱っており、それをやはり現存在(Existenz)を持ってはいるところの偶然的なものから区別しているだけでなく、さらに定有(Dasein)、現存在およびその他の諸規定からはっきり区別しているからである。 |
偶然的なもの、あるいは現象にすぎないものをいっているのではなくて、必然的な存在のことを現実的といっているのだと述べています。そんなふうに述べて、いよいよ理想と現実の関係に入っていくのですが、六節を続けます(㊤七〇ページ)。
一般の漠然とした考え方にもすでに理性的なものの現実性を否定するような考え方がある。その一つは、理念や理想は幻想にすぎず、哲学とはそうした幻想の体系にすぎないというような考え方であり、もう一つは逆に、理念や理想は現実性を持つにはあまりにすぐれたものであるとか、理念や理想は現実性を手に入れるにはあまりに無力であるというような考え方である。 |
理想は理想、現実は現実という考え方、あるいはそんなものは単なる理想にすぎないのだという考え方に対し、ヘーゲルは自分が問題にしているのはそんな理想ではないといっているのです。
しかし特に理念と現実とを切りはなすことを好むのは、悟性的な考え方をする人々であって、かれらは悟性が作り出した非現実的な抽象物を真実なものと考え、かれらが政治の領域においてさえ特に好んで押しつけたがるゾレン(Sollen)を得意になってふりまわしている。まるで世界が、それがどうあるべきでどうあってはならないかを知るために、かれらを待っていたかのようである。 |
この場合の理念は理想と同じ意味で使っています。理念と現実を切りはなす、理想と現実を切りはなすのは悟性的な考えだといっているのです。悟性的な人々は非現実的な抽象物を理想だと考えています。非現実的な抽象物としての理想とは、頭のなかだけで作り出した理想です。これはいわば観念論的な理想です。そういうものを押しつけようとするのはまちがいであるといっているのです。それではヘーゲルがいう理想とはどこにあるのか。これについては七一ページ二行目をみて下さい。
哲学はただ理念をのみ取扱うものであるが、しかもこの理念は、単にゾレンにとどまって現実的ではないほど無力なものではない。したがって哲学が取扱うのは現実以外の何ものでもなく、上述の事物や制度や状態などは単にその表面にすぎないのである。 |
これがヘーゲルの一番いいたいところなのです。哲学というのは理念や理想を取り扱うものですが、その理想というのは単にゾレンにとどまって(単にそうあるべきだというところにとどまって)、現実となるまでに力が及ばないほど無力なものではないのだ。そんな現実に力をもたないような、頭のなかで考えるだけの理想を問題にしているのではないというのです。ヘーゲルのいう理念というのは、現実になる力、客観化する力をもった理念です。こういう理念をかかげて現実の変革を唱えるのが、ヘーゲルの変革の立場なのです。いわば現実となる理想を掲げて現実を変えていく。この理念というのが、論理学の一番最後に出てくるのです。目次をみて下さい。
下巻の目次を見ると第三部・概念論がありますが、その最後が「理念」です。
「理念」のさらに一番最後が「絶対理念」です。ヘーゲルのいう理念は単にゾレンにとどまって現実的ではないほど無力なものではないのです。私たちはこの概念や理念をこれから論理学の学習をつうじて学んでいこうと思います。
これでヘーゲルのめざしているものがどんなところにあるのかということは、大きく理解していただけると思うのです。
論理学の構成と概念論の意義
今日は論理学の構成の問題に入って行きます。論理学の構成は上巻と下巻の目次を見ていただきますとよく分かります。
第一部は八四節から「有論」
第二部は一一二節から「本質論」
第三部は一六〇節から「概念論」
有論・本質論・概念論という構成からなっています。この構成はいかにして生まれてきたのかということが問題です。そのことについてヘーゲルが述べているのは、七九節以下の「論理学のより立ち入った概念と区分」というところです。
論理的なものは形式上三つの側面を持っている。(イ)抽象的側面あるいは悟性的側面(ロ)弁証法的側面あるいは否定的理性の側面(ハ)思弁的側面あるいは肯定的理性の側面がそれである。これら三つの側面は、論理学の三つの部分をなすのではない。それらはあらゆる論理的存在の、すなわちあらゆる概念あるいは真理のモメントである(㊤二四〇ページ)。 |
これはどういう意味かといいますと、人間は真理を認識しようと思ったらものごとをこのような三つの側面において認識することが必要なんだといっているのです。つまり人間の認識がどのように発展していくのかといったら、ここに書いてある悟性的側面・否定的理性の側面・肯定的理性の側面という形で発展し、真理に接近していくのです。
この三つの側面をもっと詳しくみてみましょう。まず最初の悟性的側面というのは八〇節です。
悟性(Verstand)としての思惟は固定した規定性と、この規定性の他の規定性にたいする区別とに立ちどまっており、このような制限された抽象的なものがそれだけで成立し存在すると考えている。(同) |
人間のまず最初の認識というのはあるものをその固定性においてとらえるということです。これは人間だ、これは犬だ、これは猫だというように、固定した規定性から人間の認識は出発するということです。それをヘーゲルは悟性的側面といっているのです。だから悟性的側面とは何かというと「悟性の原理は同一性」(㊤二四二ページ)であるということです。つまり最初にものごとを認識するときに、或るものを固定した規定性で認識するということは、或るものを或るものとして認識すること、そのものの同一性においてとらえるということです。したがって悟性的な認識というのは、もっとも常識的な見方ということになります。
悟性は一般に教養の本質的なモメントである。教養ある人は漠然としたものや曖昧なものに満足せず、対象をその確固とした性格において把握する(㊤二四三ページ)。 |
悟性的にものごとを認識するということは、或るものを或るものとして、ほかのものとはごちゃ混ぜにせず、はっきり区別して認識するということです。これが教養の本質的なモメントだということです。教養とは常識なのです。ではこういう認識にとどまっていて真理を認識することができるかというと、当然ヘーゲルは不十分だといいます。
そして次に、弁証法的側面あるいは否定的理性の側面という認識の段階(八一節)です。
弁証法的モメントは、右に述べたような有限な諸規定の自己揚棄であり、反対の諸規定への移行である(㊤二四五ページ)。 |
これを言いかえると、今までは或るものを或るものとしてみてきたけれども、今度は「待てよ、これはそういうものではないかもしれない」という否定的な側面から見直すことです。悟性的側面がものごとを肯定的にみたとすれば、今度はそれを否定するという反対の方向から認識していくということです。
例えば今、行政改革が必要だといわれています。橋本内閣などは行政改革は省庁再編だなどといっています。
行政改革は省庁再編であるというのは悟性的な認識です。それに対して否定的理性の認識は「いやまてよ本当にそうなのかな」というものです。(弁証法的な否定という言い方をする場合もあります)。ものごとを弁証法的にみるというのは「いやまてよ、そうではないのではないか」という疑問を呈するということなのです。
マルクスも「すべてを疑え」といいました。これは弁証法的な否定においてものごとをみないといけないということです。単に肯定的側面からものごとをみていると真理は認識できません。
補遺一に「弁証法の正しい理解と認識はきわめて重要である。それは現実の世界のあらゆる運動、あらゆる、生命、あらゆる活動の原理である」(㊤二四六ページ)とあります。「いやまてよ」というところから、現状の否定がはじまるのです。橋本行革でいいのか、省庁再編でいいのか、そもそも行政改革はどこから出発したのか、こういう問い直しをすることによって、行政改革は省庁再編が問題なのではなくて、政・官・財の癒着の構造を断ち切ることだということが明らかになってきます。このような問い直しをすることによって、偽りの行革ではなくて本来の行政改革がすすむのです。
こういう否定のうえにたった肯定的対案を提起することが、ヘーゲルのいう「肯定的理性の側面」です。建設的討論といわれるものは、こういう「肯定的理性」を提示したうえでの討論を意味します。
つまり論理学の三つの構成部分というのは全体として悟性的認識、否定的理性の認識、肯定的理性の認識に対応し、人間の認識の深まりいく過程を、弁証法的見地から述べたものです。そして、一番最後の概念論において人間の認識は最高の段階に到達し、かつ真理に到達するのです。
まず、有論は何を述べているかといいますと、或るものを或るものとして、その内部がどうなっていようとそういうことにかかわりなく、表面の姿において認識する浅い認識、表面的な認識です。言いかえれば悟性的な認識といってもいいと思います。
そして本質論は、この物事の表面的な姿を否定してその背後に隠されている本質や法則を認識する、否定的理性の段階です。ものごとを二重にみようというものです。客観世界を認識するうえでは、この本質論で終わりです。だから人間の認識というのは、客観世界の姿をそのまま意識に写し出すというレベルにとどまっている限り、本質論で終わりにしてもいいのです。だけれどもヘーゲルは人間の認識、あるいは精神の働きというものは、単に客観世界を反映するにとどまらず、客観世界を変革する力をもっているというところに着目するわけです。
有論と本質論までの段階は、客観世界の姿をそのまま反映する認識にとどまっているのですが、人間の認識はそこにとどまるべきものではなくて客観世界を変革する段階、あるいは合法則的に変革することを認識する、そういう段階にまで達することができるわけです。それが概念論の課題なのです。つまり概念論においては、客観世界を変革の対象としてみて、その客観世界を否定し、そこから生まれる肯定的理性、言いかえれば客観世界の真にあるべき姿を認識し、それを実現していく。そういういわば認識の創造性の面をとらえたのが概念論なのです。こういうふうに私は理解したいと思います。こう理解してはじめて、八三節の補遺で述べている「概念がはじめて真実なもの、有および本質の真理である」(㊤二五七ページ)ということの意味がはっきりするのではないかと考えます。
ヘーゲルが概念論において人間の意識の能動性、創造性を述べているのは、彼自身がブルジョア民主主義革命のまっただなかで革命的な精神に触れながら哲学をしていたことと無関係ではありません。ヘーゲルは学生時代にフランス革命を経験して、フランス革命こそ自由の実現だと、双手を上げて歓迎し熱狂的にそれを迎え入れるのです。しかしその後、フランス革命は恐怖政治をへて、帝政フランス、ナポレオンのフランスに達するという過程をたどって、ヘーゲルが考えているような自由の実現する社会へとは単純に進みませんでした。
そこでヘーゲルはなぜフランス革命はうまくいかなかったのかということを、彼なりに分析するのです。そしてその結論は、フランス革命を思想的に準備したフランスの百科全書派といわれているような啓蒙主義者たちの考えというものが、逆立ちをしていた考えではなかったのかということに思い至るわけです。つまり啓蒙主義者は封建制の社会に反対して自由や平等の実現をという考えで進んだのですが、それは頭のなかで考えられた理想の社会にしかすぎないと、啓蒙主義者の観念論を彼は批判するわけです。
これに着目したのがエンゲルスです。彼は『空想から科学へ』の冒頭で、啓蒙主義者たちを批判したヘーゲルの言葉を、ヘーゲルの『哲学史』などを引用しながら紹介しています。私も最初、あの部分を読んだ時、観念論者であるヘーゲルが啓蒙主義者の観念論をなぜ批判しているのか、観念論者のヘーゲルが啓蒙主義者の観念論をどうして批判できるのか疑問だったのです。ヘーゲルを学ぶなかでそれがだんだんわかってきました。実は、この批判のなかにこそ、ヘーゲルの出発点があったのです。
現実をほんとうに合法則的に変革しようと思ったら、頭のなかで考えた理想を現実に押しつけたのではだめだということを、ヘーゲルはフランス革命の敗北を総括する痛切な思いのなかで結論づけたのでした。そこから現実になりうる理想というのは、この現実の社会のなかから導き出すしかないのだという、いわば唯物論的な反省のうえにたって「論理学」を書いたと思うのです。
その「論理学」全体をつうじて、ヘーゲルは次のように述べています。
人間はまず客観世界のなかの法則性を認識する、それが有論、本質論の段階です。人間の意識の創造性は法則性を認識すると同時にそこにとどまらないで、その客観世界を否定して、真にあるべき姿を客観世界のなかから導き出すのです。客観世界を否定して真にあるべき姿を客観世界のなかから導き出すことが必要なんだということに気がついて、ヘーゲルは概念・理念というものを打ち立てていくのです。こういう点でヘーゲル論理学のなかで一番大事なのは、概念論だろうと私は思います。
これに対して、ヘーゲル論理学で最も革命的な変革の立場にたっているのは有論であって本質論、概念論にいくほどその変革の立場が薄れていくのだという解釈があります。有論から概念論にいくにしたがって変革の立場が解釈の立場に移り変わっていって、概念論ではまさに現状肯定の調和の世界を描いている、そういうとらえ方がありますけれども、それは正しくないと私は思います。
『資本論』のなかで労働のはたす変革の役割を、マルクスは、ヘーゲルの概念論から引用して述べています。前回の講義でお話しましたようにマルクスが変革の立場をヘーゲルから学んだことは間違いないわけです。それを有論のなかから学んだのかといったらそうではなくて、概念論のなかから変革の立場を学んだのであり、だからこそ『資本論』のなかでも概念論から引用して労働のもつ役割というものを解明したんだと思います。そういう意味で今回の私の講義は、論理学の三つの構成部分のなかで、概念論こそ最も学ぶべきヘーゲルの神髄が含まれているという立場でお話していきたいと思っています。
いまはヘーゲルの論理学の構成の問題を話しているわけですが、論理学の構成を考えるとき先ほどの弁証法の三つの側面を常に念頭におきながら論理学の構成をみておく必要があります。その三つの側面をヘーゲルは別の言葉でも短く述べているわけです。それが即自、対自、即かつ対自という言葉で、これはしばしば出てきますのであらかじめお話しておいた方がいいかと思います。
即自というのは単に肯定的、悟性的な認識です。いわばものごとの一面だけを固定的にとらえるような認識の段階を即自といいます。二つ目は対自という言葉で、ものごとを肯定的な側面と否定的な側面の両面から認識する段階です。ものごとのなかに含まれる差異、対立、矛盾を認識する段階といっていいかと思います。最後の即かつ対自というのは、即自と対自の統一です。これは対立を止揚した統一、肯定的理性としての対立物の統一という認識の段階です。即かつ対自の訳は「絶対的」とするとぴったりする場合がしばしばあります。即自は、
「潜在的」、対自というのは「展開された」と訳されるわけです。そういう即自、対自、即かつ対自という弁証法の三つの要素を、常にヘーゲルは頭におきながら論理学を構成しているわけです。そこからヘーゲルの三分法といわれる方法が論理学の構成においても使われているということをみておくことが必要です。
前期の要約
ヘーゲル論理学は有論、本質論、概念論という三つの部分から構成されています。その有論というのは、ものごとを表面的に認識する段階であったのに対し、本質論というのはものごとの内側に分け入って、すべてのものごとを対立物の統一としてみるということです。有論より深い認識ということになってきます。
その対立物の統一の一つの典型が本質と現象との関係です。本質と現象のことだけを述べているのではなくて、ものごとの内部における対立するものの統一を見る、あるいは対立物の二つの側面の相互関係を見るところに、本質論というものの特徴があります。レーニンの『哲学ノート』のなかの「弁証法の問題について」という論文を見てみましょう。
「一つのものを二つに分け、この一つのものの矛盾した二つの部分を認識すること……は、弁証法の核心(本質の一つ、唯一の根本的な特性あるいは特徴ではないまでも根本的な特性あるいは特徴の一つ)である」(レーニン全集三二六ページ)とあります。
つまりものごとを、対立する二つの側面の統一として認識するということです。それに続けて、「対立物の同一(おそらく対立物の統一と言うほうが正しいのではないか?もっとも同一と統一という術語の区別は、ここでは特に重要ではないが、或る意味では両者とも正しい)とは、自然(精神も社会もふくめて)のすべての現象と過程とのうちに、矛盾した、たがいに排除しあう、対立した諸傾向を承認すること(発見すること)である」(同ページ)と、レーニンは述べています。このように対立物の統一というのが弁証法の核心です。この対立物の統一というのは、実は内容としては非常にいろんな意味を持っています。対立物の同一という意味をもっていることもあれば、対立物の相互浸透、相互移行という意味をもっていることもあります。対立物の調和的統一ということを意味していることもあれば、対立物の排斥的統一ということを意味してることもあるわけです。対立物の統一というのはいろいろな内容をもっているのですが、これらをトータルして、対立物の統一ということで簡単に弁証法の核心を述べることができるのではないかとレーニンは述べております。エンゲルスが本質論全体を貫くのは、対立物の統一なのだということを『自然の弁証法』のなかで述べていることとも重なります。
本質論の構成を見てみますと、大きく三つに分れております。まず「A 現存在の根拠としての本質」、「B 現象」、「C 現実性」となっています。つまり、最初に本質を述べ、ついで現象を述べ、ついで本質と現象の統一としての現実性を述べるという、これまでと同様の構成です。前期はこの「B 現象」に入ったところぐらいまでをやりましたので、後期の講義は現象からはじめます。ここまでの本質論をざっと要約してみましょう。
われわれは物事を認識するときに「その本質を認識する」とか「その法則を認識する」などというように本質とか法則とかいう言葉をよく使います。本質論はものごとの表面的な認識から一歩進んで、客観世界の本質や法則を認識する過程を問題にしています。その法則の中で一番大事な法則が対立物の統一という法則であるということになるのです。
本質論の全体を貫くキーワードがいくつかあり、その一つが「反省」です。一一二節補遺に「本質の立場は一般にReflexion(反省)の立場である」(㊦一〇ページ)とあります。では、反省とはなにかといえば「われわれは対象を直接態においてでなく、媒介されたものとして知ろうとする」(㊦一一ページ)ことであるとされています。
あらゆるものは表面的に見るとそのものだけで存在しているようにみえるけれども、実は媒介されたものとして存在しています。そして他のものによって媒介されたものとしてとらえることを反省と呼んでいるのです。ヘーゲルは、すべてのものは直接性と媒介性の統一としてあるという言い方をしており、それをとらえるのが「反省」なのです。
例えば、ここに来ておられる皆さん方は、みんな「自分は独立した人格だ」と考えておられます。しかしそういう人格は、あなたがたの友人だとか、家族であるとか、親兄弟であるとかいうものによって媒介されて、今日の人格があるわけです。子供も親に媒介されて存在するのですが、だんだん成長するにしたがって自分は自立した存在だという自覚をもって、親に反抗しはじめるわけです。あれもやはり、媒介された存在から直接的な存在に転化しようとするひとつの試みになるのです。しかし、どのように親に反抗しても、親に媒介された存在であることから、一生涯逃れることはできません。このように反省の立場というのは、すべてのものを直接性と媒介性の統一としてとらえることを意味しております。
普通、人々は哲学の課題あるいは目的は、事物の本質を認識することにあると考えている。そして人々の理解するところによれば、このことはまさに、事物はその直接態のままに放置さるべきではなく、他のものによって媒介あるいは基礎づけられたものとして示されなければならないことを意味するにすぎない。ここでは事物の直接的存在は、言わばその背後に本質がかくされている外皮あるいは幕と考えられているのである(㊦一一ページ)。 |
だから、すべてものはいろいろなものに媒介されているのだけれど、あえて一つだけ言うならば、それは本質に媒介されたものとして存在するということができるのだといっているわけです。「本質に媒介されている」とは、何かといいますと、もう少し先に「さらに、あらゆる事物は一つの本質をもつと言われるならば、それは事物の真の姿は直接にあらわれているとおりのものではないことを意味する」とあります。
ここが大事なのです。すべてのものが「直接にあらわれているとおりのもの」であったら科学は必要ないわけです。科学するということは、表面的な姿がそのもののほんとうの姿ではないからこそ、そのものの内面を探って本当の姿を知ろうとすることなのです。科学において本質を把握するとか、法則を把握するとかいうことは、そのことをつうじてそのものの真の姿を探ろうとすることです。その次に「事物のうちには不変なものがある。そしてこの不変なものがまず本質なのである」と述べています。「本質は何かといえばそれは不変なものだ」といっているのです。本質というのは現象に対立する概念です。現象というのは移り変わりますが、本質というのは移り変わらないのです。人間の本質とは何かというと、直立二足歩行し、労働する動物ということになるのであって、この点はどんな人間であっても変わらないということになるわけです。本質というのは変わらないものであり、自己同一を貫くものだといっています。
その本質に媒介されて、現象が存在する。ここで媒介の問題が出てくるわけです。
「現象」の目次をみてみましょう。
「現象」は、a現象の世界・b内容と形式・c相関の三つからなっています。
このうち現象の世界というのは、要するに法則のことです。現象する世界には法則がある、ということをいっています。法則というものは対立物の統一としてあり、その対立物の統一の一つが形式と内容なのです。これまで対立物の統一としては、本質と現象というところだけをみていたわけです。ここで内容と形式を、ついで相関という対立物の統一をみていきます。相関も法則としての対立物の統一なのです。はっきりとした形式を持つような対立、これが相関なのです。相関の一番最後のところでは、もう対立物が同一になるような関係にまで発展していきます。
だから現象の世界は、全体として客観世界における法則の存在の承認と、それが対立物の統一としてあることをみているのです。その対立物の統一がどんな形であらわれてくるのかということを検討しています。ちなみに、この相関がさらに、全体と部分・力とその発現・内と外という三つに分かれます。
a 現象の世界(Die Welt der Erscheinung)
現象の世界ですが、この「現象の世界」の一三二節はちょっとわかりにくい。現象の世界とは要するに目の前にある客観世界のことです。この客観世界というのは、本質に媒介されたものとしてあるというわけで、つまり一つのものが他のものの本質になる。そしてその他のものがまた別の他のものの本質になる。そういう連関の仕方をしているわけです。現象の世界というのはそういう意味で、無限の媒介の世界なのです。
この無限の媒介は、同時に自己への関係という統一であり、そして現存在は、現象すなわち反省された有限性の総体、つまり現象の世界へ発展させられている(㊦五九ページ)。 |
つまり現象の世界というのは本質によって媒介された無限の媒介、それぞれの事物が本質と現象という関係で媒介されたようなそういう世界なのだということをここに述べているのです。
b 内容と形式(Inhalt und Form)
次に内容と形式です。
これは現象の世界の法則性を探求するわけです。そして現象の世界の法則の一つが、内容と形式という対立物なのだということをいいたいわけです。
一三三節 現象の世界を作っている個々別々の現象は、全体として一つの統体をなしていて、現象の世界の自己関係のうちに全く包含されている。かくして現象の自己関係は完全に規定されており、それは自分自身のうちに形式を持っている。しかも、それは自己関係という同一性のうちにあるのであるから、それは形式を本質的な存立性として持っている。かくして形式は内容(Inhalt)であり、その発展した規定性は現象の法則(Gesetz)である。これに反して、現象の否定的な方面、すなわち非独立的で変転的な方面は、自己へ反省しない形式である。それは無関係的な、外的な形式である。 |
現象の法則ということをいっているわけですが、すべてのものは相互に関連しているから法則があるのです。法則とは何かというと、本質相互間の安定した関係です。本質と現象との関係は無限の媒介にあるということをいいました。AはBの本質であり、BはCの本質であり、CはDの本質であるという形で相互に媒介しあって無限の連関をもっているわけです。このように媒介されている本質相互の安定した関係、それが法則ということになるわけです。その法則のもっとも普遍的な形態が、対立物の統一です。
その対立物の統一として内容と形式があります。この内容と形式を、媒介のない対立においてとらえてはならないということをヘーゲルはいいたいわけです。内容は形式であり、形式は内容であるということです。一般的には、内容が本質であって、形式は内容によって規定される現象ということになります。しかし、ヘーゲルは内容が形式を規定するということもあるけれども、同時に形式が内容を規定することもあるのだとして、そういう相互媒介性において内容と形式をとらえようとします。
一三三節補遺 形式と内容という規定は、反省的悟性が非常にしばしば使用する一対の規定であるが、その際悟性は主として、内容を本質的で独立的なものとみ、これに反して形式を非本質的で独立的でないものと考えている。しかし、実際は両者ともに同様に本質的なものであって、形式を持たない質料が存在しないと同じように、形式を持たない内容も存在しないのである。 |
以上が、前期の復習ということになります。
《質問と回答》
概念論のなかには弁証法の革命的性格が一番少ないという見解、弁証法の革命的性格は、有論のなかに一番多いんだという見解を批判したことに対する質問だと思うのですが「概念論のとらえ方に、なぜ違いが生じるの、でしょうか」という質問がありました。一般的にいうならば、ヘーゲル哲学のもつ唯物論性と観念論性の矛盾からヘーゲルの解釈も二つに分かれる可能性があるのです。ですからヘーゲルの死後、ヘーゲル右派とヘーゲル左派とが生じたのです。これはヘーゲル哲学がもつ基本的な問題としてあるのです。しかし、概念論での見解の違いは、唯物論か観念論かに関わる問題ではなく、複雑かつ難解なヘーゲルの読み方の違いの問題だろうと思います。
概念論をどう理解するかという点での人間の認識も発展していくわけですから、概念論をどうとらえるかについての意見もいろいろあって当り前なのです。そういうなかでどうとらえるのが一番正しいのかという問題になってくるわけです。
私は自分の解釈を絶対化するつもりはありません。しかし、私の概念論の解釈をつうじて科学的社会主義の認識論や真理観を一歩でも前進させることができるのではないかと考えているわけです。つまりヘーゲルの概念論の解釈として「ああも考えられる」「こうも考えられる」という問題ではなくて、真理としての科学的社会主義の理論、科学的社会主義の哲学をどのようにより豊かにしていくかという見地からヘーゲルを学ぶことが重要なのです。そういう点で今回、お話するような概念論のとらえ方のほうがいいのではないかと考えております。これは最後まで講義をお聞きになって、最終的にはみなさんが判断されればいいことではないかと思います。
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