『ヘーゲル「小論理学」を読む(下) 』より
後期第八講 概念論・主観的概念 Ⅱa 概念そのもの─ 続き 今日の講義は一六四節の途中からです。 ここでは概念は絶対に具体的なものであり、抽象的なものではないということを述べています。概念はイデアだということを話してきましたが、イデアは客観のなかから生まれる主観の産物です。「真にあるべき姿」は客観をつうじて主観の働きによって生み出されるものですから、一見すると単なる主観的な抽象的な普遍であるかのようにみえるのですが、そうではなくて絶対に具体的なものだということをヘーゲルは述べるのです。例えば「社会主義の概念「社会主義の真にあるべき姿」は、まだこの世に存在していないという意味では頭のなかにのみ存在する普遍です。しかし「社会主義の真にあるべき姿」が「国民こそ主人公の国家」として、実現されるべきものとしては、全く具体的なものです。概念は絶対に具体的なものというのは、そういうことをいっているのです。
概念は抽象的なものであるといわれています。これは一方では概念というものが経験しうる具体的なものではなくて、人間の頭で考えられた主観の産物だという意味で、抽象的なものだという側面をもっています。つまり具体的で客観的なものから切りはなされた主観的なものという意味では抽象的なものだともいえなくはありませ
概念は客観のなかから導かれる主観的なものです。つまり客観から切り離された主観的なものという形式はもっています。しかしそうだからといって客観とは全く別の内容をもつとか、客観とは別の内容を受け取っているとかいうものではないのです。
「絶対に具体的なものは精神である」ということで、一五九節の註をみよとあります。㊦一一九ページの必然から自由への移行を見て下さい。一〇行目に「自由な精神」という言葉が出てきます。精神とは本質的に自由なものです。この精神が絶対に具体的なものだというのは、自由な精神こそ真理を実現する力をもっているからです。そういう意味において「絶対に具体的なものは精神である」といっております。、
形式論理学では、人間とか、家とか、動物とかいうものも概念と呼んでいます。辞書を引いてみると概念とは事物やその過程の本質的諸特徴を反映する思考の形式で、人間の思考活動の基本的単位だと書かれています。人間がものを考えるうえでの基本の単位になる思考形式、それが形式論理学上での概念なのです。そういう「形式論理学上の概念」と、自分のいっている「概念」は違うのだということをヘーゲルはいいたいのです。形式論理学の概念は「抽象的な表象にすぎ」ません。人間には様々な人種がいますし、それぞれの民族の違いがあります。そういうものの共通項をとらえた人間という概念は、抽象的な表象であり、外的に結合された多様にすぎないのです。 概念から判断への移行
ここからヘーゲルの判断論に移っていきます。判断論には二つの側面があり、その二つの側面を区別しながら考えていく必要があります。一つの側面は「真にあるべき姿」としての概念です。これは普遍・特殊・個別が区別されつつも不可分一体をなしています。そのような普遍・特殊・個別が一体化された概念が規定され、判断において普遍と特殊と個別に分かれ、さらにそれが推理において再統一されていく過程をへて、概念が理念として完成していく展開をみるという側面です。
形式論理学では、明白な概念とか、明白に識別されている概念とか、妥当な概念などという分類をしています。しかし、そんな分類はあまり意味がないというのです。「いわゆる下位概念と上位概念は、普遍と特殊を機械的に区別し、外的な比較によって両者を相関させることにもとづいている」。しかし下位概念、上位概念、同位概念というのは、われわれとしても使ってもいいと思います。抽象の度合いがより大きいものが上位概念、抽象の度合いが低いものが下位概念です。例えば、Aさんという個人は日本人であり、人間であり、哺乳類であり、動物であるように、だんだん抽象化されていきます。その場合にAさんに比べれば日本人の方が上位概念、日本人よりもさらに人間の方が上位概念です。だから人間に比べると日本人の方が下位概念となります。大事なことはもっとも抽象度の高い概念、これ以上抽象化できないという概念を「最高類概念」と呼んでおり、それがカテゴリーのことです。もうそれ以上抽象できない、最高に抽象化された概念、最高類概念ですが、そのかぎりでは下位概念、上位概念というものに一定の意味があることは否めません。
結局ここでヘーゲルがいいたいのは、概念の真の区別とは普遍・特殊・個だけであり、本来ならそれらは不可分一体のものだということです。
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一六六節 判断は特殊性における概念である。というのは、判断は、向自的に存在するものとして定立されている。したがって同時に、相互にではなく自己と同一なものとして定立されている、概念の諸モメントを区別しながら関係させるものであるからである。 |
判断は概念の特殊化であって、概念のもっていた三つの要素を、一度は区別しながら、それを繋辞( 「…である」という言葉)によって、関係させるものなのです。「向自的に存在するものとして定立されている」とは概念の特殊化ですから、概念としての自立性をもっているということです。「自己と同一なものとして定立されている」とは「AはBである」という判断は、AとBとを等しいものとして結びつけるのですから、そういう意味で、同一性の定立なのです。
判断と言うと、人々は普通まず、主語と述語という二つの項の独立を考える。すなわち、主語は事物あるいは独立の規定であり、述語はこの主語の外に、われわれの頭の中にある普遍的な規定であって、この両者を私が結合することによって判断が成立する、と考えている。しかし「である」という繋辞が主語について述語を言いあらわすことによって、こうした外面的で主観的な包摂作用は再び否定され、判断は対象そのものの規定ととられる。── ドイツ語のUrteilという言葉は、語源的に一層深い意味を持っていて、それは概念の統一が最初のものであること、したがって概念の区別が原始的分割であることを言いあらわしている。これが判断の真の姿である。 |
判断は主語と述語からなっています。主語と述語という全然無関係のものをくっつけるのが判断だと思いがちですが、そうではないのです。もともと主語と述語とは、同じ概念として必然的なつながりをもっているものが、形の上で区別されているにすぎないというのです。ドイツ語の判断はUrteilといいますが、そのurは「原始の」とか「根源的な」という意味です。teil は「分割すること」という意味です。だから、ドイツ語のUrteilの意味が判断であることは、概念という統一したものを、根源的に分割するものが判断なのだと、ドイツ語のもつニュアンスを取りあげてこのようにいっています。
抽象的な判断は、個は普遍である(das Einzelne ist das Allgemeine)という命題である。これが、概念の諸モメントがその直接的な規定性あるいはその最初の抽象態においてとられる場合、主語と述語とが相互に持つ最初の規定である(特殊は普遍である、および個は特殊である、という命題は、判断のより進んだ規定に属する。あらゆる判断のうちには、個は普遍である、あるいはもっとはっきり言えば、主語は述語である(例え)ば、神は絶対的精神である)という命題が言いあらわされているのに、この明白な事実が普通の論理学の本には少しも述べられていないのは、おどろくべき観察の不足と言わなければならない。もちろん、個と普遍、主語と述語とは異ったものではあるが、しかしあらゆる判断が両者を同一なものとして言いあらわすということは、あくまで一般的な事実である。 |
判断の一番最初の姿というのは「Aさんは人間である」というような「個は普遍である」という命題です。さらにそれが展開すると「特殊は普遍である」とか「個は特殊である」とかいう規定になります。
「あらゆる判断のうちには個は普遍である、あるいはもっとはっきりいえば主語は述語である」という「命題が言いあらわされている」と述べたのは、レーニンの『哲学ノート』のなかの「弁証法の問題について」です。「個は普遍である」「Aさんは人間である」というのは、命題としては正しいのですが、実際には、個と普遍は」、同一ではありません。Aさんと人間とは違うものですが、違うものを同一であるということによって判断は意味をもつのです。「AさんはAさんである」といったのでは、何の意味ももたないのです。個と普遍とは異なっているのに、それを同一だというのは矛盾です。判断というもっとも、人間の認識の出発となるところから、すでに矛盾をかかえているのです。だからこれは矛盾の普遍性を示す例として、レーニンは『哲学ノート』で取りあげています。異なったものが同一であるという言い方、そこに判断の意味があるのです。
「である」という繋辞は、外化のうちにあっても自己と同一であるという概念の本性にもとづいているのであって、個と普遍は概念のモメントであるから、切りはなすことのできないものである。先に本質論で取扱った反省規定もまた、その相関のうちで互に関係を持ってはいる。しかしその連関は「持つ」という連関にすぎず「である」すなわち同一性として定立された同一性あるいは普遍性ではない。それゆえに判断においてはじめて概念の真の特殊性がみられる。判断は概念の規定態あるいは区別であり、しかもこの区別は普遍性を失わないからである。 |
「個は普遍である」の「である」を繋辞といいます。主語と述語を結びつける言葉という意味です。繋辞という語はもともと結びつける言葉という意味なのです。この「である」というのは、主語と述語が同一であるということです。「個は普遍である「Aさんは人間である」というのは、Aさんと人間は同一であるということなのです。この「である」という繋辞のなかに、概念の本性があらわれているのです。概念というのは普遍・特殊・個別が不可分一体のものとして規定されているものです。だからその「である」という、個と普遍とを同一化する繋辞に概念の本性があらわれているのです。
本質論で扱った反省規定は、例えば「上と下」とか「右と左」とかいうものです。その「上と下」は、互いに切りはなせない関係があります。反省規定では、関係をもつというだけなのですが、判断においては、関係をもつのではなくて同一性が定立されているというのです。ここに概念の特徴があらわれています。「判断は概念の規定態あるいは区別である」「この区別は普遍性を失わない」とありますが、区別されながらもその中で同一性が貫かれているということなのです。そういうものが判断なのです。
一六六節補遺 判断は普通二つの概念の結合、しかも異種の概念の結合と考えられている。このような考え方も、概念が判断の前提をなし、そして概念は判断のうちで区別の形式をとってあらわれるという点では正しいが、しかし、概念にさまざまな種類があると考えるのは正しくない。なぜなら、概念そのものは具体的なものではあるが、本質的に一つのものであり、概念のうちに含まれている諸モメントは異った種類とみるべきものではないからである。 |
「判断は普通二つの概念の結合、しかも異種の概念の結合」というのは、下位概念と上位概念の結合ということです。例えば「個は普遍である」「Aさんは人間である」というようなものです。Aさんという下位概念と上位概念である人間とを結びつけるという意味では、異種の概念の結合です。異種の概念の結合といえば、いろいろな概念をくっつけるものだと思われがちですがそうではありません。概念は本質的に一つのものです。このことは大事です。概念は真理だから一つのものなのです。
くりかえしますが、概念はイデアですから「真にあるべき姿」です。ですから一つしかないのです。概念そのものは本質的に一つのものです。真理は単一性をもっているのです。ヘーゲルの概念には二つの側面があるといいましたが、始終その二つのあいだを行き来するのです。形式論理学の判断で主語は述語であるとか、個は普遍であるとか議論しているのですが、ここで概念は本質的に一つであるということで、もう一度あの「真にあるべき姿」としての概念に立ち戻って、述べているところです。
また判断の両項が結合されると考えるのも同様に誤っている。というのは、結合されると言えば、結合されるものは結合されることなく独立にも存在していると考えられるからである。こうした外面的な理解は、判断は主語に述語が附加されることによって作られると言われるとき、もっとはっきり示される。この場合、主語は外界に独立的に存在し、述語はわれわれの頭のうちにあると考えられているのである。しかし「である」という繋辞がすでにこうした考え方に反している。われわれが「このばらは赤い」とか「この絵は美しい」とか言う場合、われわれは、われわれが外からはじめてばらに赤を加え、絵に美を加えるのではなく、それらはこれらの対象自身の規定であるということを言いあらわしているのである。 |
だから形式論理学では、判断の両項は主語と述語になります。主語と述語がたまたま結合して判断になるのだと考えますが、ヘーゲルにいわせると、そうではなくて判断における主語と述語は、いずれも概念のあらわれとして本質的に結びついているものなのです。結びついているものを一たん区別したうえで、それを結びつけて、議論するのが判断だというのです。結合されているのではなく、本来的に結びついているのです。
さらに形式論理学で普通行われている判断の解釈の欠陥は、それによれば判断一般が偶然的なもののようにみえ、概念から判断への進展が示されていない、ということである。ところが概念は、悟性が考えるように自分自身のうちに静かにとどまっているものではなく、無限の形式として、あくまで活動的なもの、言わばあらゆる生動性の核心であり、したがって自己を自己から区別するものである。このように概念は、それ自身の活動によって自己をその異った諸モメントへ区別するものであって、この区別の定立されたものが判断でありしたがって判断の意義は概念の特殊化と解されなければならない。 |
形式論理学では、概念から判断への移行が示されていません。ヘーゲルは自分の哲学にこそ、それが示されていると述べます。ここでヘーゲルがいう概念は、エネルゲイアとしてのイデアです。ですからこれは絶対的に活動的なものです。絶対的に活動的でありながら自己を自己から区別するというのは、客観から主観としての概念が生まれ、主観たる概念が客観に現実化していくということです。
概念はそれ自身の活動によって自己を区別するものです。その区別の定立されたものが判断なのです。概念はすでに即自的には特殊なものであるが、しかし概念そのもののうちでは特殊はまだ定立されていずそれはまだ普遍との透明な統一のうちにある。かくして例えば、先にも述べたように(一六〇節の補遺)植物の胚はすでに、根・枝・葉、等々というような特殊なものを含んでいるが、しかしこの特殊なものはようやく即自的に存在するにすぎず、それは胚が発展することによってはじめて定立されるのである。これは植物の判断とみることができる。 |
概念そのものというのは、普遍・特殊・個別がほぼ一体のものとしてあるのです。それを「普遍との透明な統一のうちにある」という言い方をしています。
概念はイデアですから、普遍です。その普遍のなかに特殊と個別も一体化して存在しており、透明な統一のうちにあるのですが、次第に展開していくなかで、分解してモメントに分かれていくのが判断であるといっています。その例として、植物の胚をあげています。胚のなかにその植物の根や茎や葉が潜在的に含まれています。根や茎や葉のミニチュアが箱詰めにされているのではなくて、潜在的に存在しているのです。その展開(発生)のなかで、だんだんと形づくられて分化していくのだととらえています。こういうところをとらえて概念は有機体だと理解する考え方もあります。しかし、本来的には真にあるべき姿が展開してきて、客観に具体化していく過程をヘーゲルは概念としてとらえているのです。この面を社会的な側面からみれば、真にあるべき姿を人間の意識においてとらえて、実践をつうじてそれを実現していくという過程なのです。
自然的な過程については、こういう有機体が自己展開するものを念頭に置いているのですが、有機体の方にウェイトをおいてとらえる考え方には私は疑問があります。そのようにしてとらえた場合には、概念のイデアとしての側面が出てこなくなるからです。プラトンやアリストテレスをヘーゲルが論じている意味がなくなると思えるのです。概念論は、後に主観的概念から客観的概念へ、そして理念へと展開していくのですが、その中心をなすのがイデアとしての概念です。単に有機体の問題ではなく、全体をつうじて流れているのはイデアとしての概念なのです。
この例はまた、概念も判断も単にわれわれの頭のうちにあるものでなく、また単にわれわれによって作られるものではない、ということをも示している。概念は事物に内在しているものであり、そしてこのことによって事物は現にあるような姿を持っているのである。したがって対象を把握するとは、その概念を意識することである。われわれがさらに対象の評価に進むとき、対象にあれこれの述語を帰するのは、われわれの主観的行為ではなく、われわれは対象を、その概念によって定立されている規定態において考察するのである。 |
「真にあるべき姿」である概念とか判断は、頭の内にある主観的な産物ではなくて事物に内在しているのです。「そしてこのことによって事物は現にあるような姿を持っているのである」。概念によって、ものごとは現在の姿をもつというのは、ヘーゲルの観念論的な言い方です。
「したがって対象を把握するとは、その概念を意識することである」。ここが大事です。対象を把握することは、真理を認識することです。それは、客観そのものを認識するだけではなくて、客観をつうじてその「真にあるべき姿」という概念を認識するところまですすまなければならないのです。このことが「概念的把握」ということです。
『ヘーゲル論理学入門』では、概念的把握とは、ものごとを根底からつかむこととされています(一九五ページ)。ヘーゲルの弁証法的方法というのは「直接的・感性的なものから内的・本質的なものへとすすむ認識過程」であって「この認識の過程において、ヘーゲルとマルクスの弁証法はそのもっともたかい段階である概念の段階まですすみます。概念の段階での認識、すなわち概念的把握はものごとをもっとも深く認識すること、ものごとを根底からつかむことです」(同一九六ページ)と言いあらわしています。
概念的把握がものごとをもっとも深くつかむ・認識することだということについては、私もそのように思います。しかし、もっとも深くものごとを認識することは、客観における法則や必然性を認識することにとどまるものではありません。なぜなら客観は限界をもつ有限の存在であり、否定されるべき存在だからです。客観の否定のうえにたつ「真にあるべき姿」である概念を認識することが、ものごとをもっとも深く認識する(もっとも深い真理に到達する)ことなのです。だから概念的認識が重要なのです。根底からつかむという言い方よりも、「真にあるべき姿」を認識すると言いかえたうえで、概念的把握が重要であるととらえるべきだと思います。
「われわれがさらに対象の評価に進むとき、対象にあれこれの述語を帰するのは、われわれの主観的な行為ではなく、われわれは対象をその概念によって定立されている規定態において考察するのである」。これは重要です(㊦一三七ページ)。対象を評価するということは「真にあるべき姿」に照らして、その対象自身はどうなのかを評価することです。「真にあるべき日本」である革新三目標に照らして、現実の日本はどうなのかをみることが大事なのです。
「われわれは対象を、その概念によって定立されている規定態において考察するのである」とは、対象のあるがままをそのまま肯定的に受け止めるのではなく「真にあるべき姿」に照らして批判することです。ここは非常に大事なことを述べているところです。
あらゆる事物は判断
一六七節 判断は普通主観的な意味にとられ、自己意識的な思惟においてのみみられる操作および形式と考えられている。しかしこうした区別は、論理の世界ではまだ存在していないのであって、判断は全く普遍的に解せられなければならない。あらゆる事物は判断である。言いかえれば、あらゆる事物は、自己のうちで普遍性あるいは内的本性である個物である。言いかえれば、個別化されている普遍的なものである。普遍と個は事物のうちで区別されているが、しかし同時に同一でもある。 |
判断は主観的な意味では、単なる人間の思考の形式です。しかし、判断は個別のなかにある普遍を認識することですから、その意味で「あらゆる事物は判断である」とヘーゲルは述べるのです。これは客観世界における個別のなかに普遍があるという意味です。その普遍的なもののなかの最高の普遍性がイデアです。だから「普遍と個は、事物のうちで区別されているが、同時に同一でもある」のです。
われわれが主語に述語を附加するのだと考える、判断の単に主観的な解釈は「ばらは赤くある」「金は金属である」というような、判断の客観的な表現に矛盾している。われわれがはじめてばらや金に何ものかを附加するのではない。── 判断と命題(Satz)とはちがう。命題は、主語にたいして普遍性という関係を持っていない主語の規定、すなわち或る状態、個々の行為といったようなものを含んでいる。例えば、カエサルは某年ローマに生まれたとか、十年間ガリアで戦ったとか、ルビコン河を渡った、というようなのは、命題であって決して判断ではない。 |
要するに判断と命題は違うということです。確定されていない事実を確定するのが判断です。カエサルが何年に生まれたかとか、ルビコン河を渡ったとかは確定された事実ですから、それらは判断とは違います。確定していない事実に関する判断は、真と偽に分かれるのです。
正しいのかまちがっているのかが問われるような認識が判断なのです。命題はその真理性を問題にしえないのです。確定的な事実を述べるだけです。これに比べて判断が「真」または「偽」を示すということは大事なことです。
われわれはその判断のなかから真なる判断をしていかなければなりません。真なる判断が真理です。判断のすべてが「真」か「偽」を問うのですから、判断のすべての形式をつうじてわれわれは真理を認識していくことになります。真理の認識過程では判断の形式が高度になればなるほどより深い真理に接近していくことになります。このような展開としてあらわれるのです。
判断の立場は有限
一六八節 判断の立場は有限の立場である。この立場における事物の有限性は、事物が判断であること、すなわちその定有とその普遍的本性(その肉体と精神)が合一されてはいるが――でなかったら事物は無であろうから――これらのモメントはすでに異っており、また一般に分離しうる、ということにある。 |
判断の立場は有限の立場であるというのは、普遍と個を分離するからです。そもそも分離しえないものを分離するところに、有限性があるのです。普遍性から切りはなされた個別は、滅亡していきます。例えば、一人ひとりの人間は何十年か生きると死にますが、普遍としての人類は、少なくとも五〇〇万年くらい生きているのです。ですから普遍から切りはなされた個(人類から切りはなされた一人の人間)は、有限であり、個は普遍のなかで滅亡していくのです。事物は判断であることによって、個が普遍から切りはなされるから有限なのだといっています。
一六九節 個は普遍であるという抽象的判断においては、主語は、否定的に自己に関係するものとして、直接に具体的なものであり、これに反して述語は抽象的なもの、無規定なもの、普遍的なものである。しかし主語と述語とは「である」によって連関しているのであるから、述語は普遍的でありながらもまた主語の規定性を含んでいなければならない。かくしてこの規定性は特殊性であり、そして特殊性は主語と述語との定立された同一性である。特殊は、かく主語と述語という形式的区別に無関係なものとしては、内容である。 |
個は普遍であるというのは判断の一番最初の姿です。主語は個別ですから具体的・直接的なものです。述語は普遍ですから抽象的な無規定なものです。この二つが「である」によって結びつけられることによって、主語と述語の同一性が定立され一つの内容をもつようになります。
「かくしてこの規定性は特殊性であり」とあるのは、個と普遍が結びついたら特殊性になるということです。普遍が特殊化したものが個です。特殊性というのは「である」という繋辞のことをいっているのです。「である」という繋辞において主語と述語の同一性が定立されています。その特殊をつうじて主語と述語の同一性が定立されているのです。「特殊は、かく主語と述語という形式的区別に無関係なものとしては、内容である。つまり、主語と述語を特殊である繋辞で結びつけるということによって、一つの判断は一つの内容をもつのです。
主語は述語においてはじめてその明確な規定性と内容を持つ。したがって主語はそれ自身では単に思い浮べられたもの、あるいは空虚な名にすぎない。「神は最も実在的なもの、等々である」とか「絶対者は自己と同一、等々である」というような判断において、神や絶対者は単なる名にすぎず、主語が何であるかは、述語においてはじめて言いあらわされている。主語が具体的なものとしてその他なお、どのようなものであるかは、この判断には関係がないのである。 |
個という主語が普遍である述語と結びつけられることによって、一つの主語は一つの内容をもつに至るのです。別な述語がつけば別な内容をもつことになります。主語が絶対的にどのようなものであるかは、個は普遍であるという判断のなかにはまだ示されていないのです。
一六九節補遺 主語とは、それについて或ることが言いあらわされるものであり、述語とは、言いあらわされたものである、と言われるとすれば、それはきわめて平凡な定義であって、それは両者の相違について少しも明確なことを語っていない。それらがあらわしている思想から言えば、主語はまず個別的なものであり、述語は普遍的なものである。しかし判断が発展するにつれて、主語は単に直接的な個別者にとどまらず、特殊的なものおよび普遍的なものという意味を持つようになり、述語は単に普遍的なものにとどまらず、特殊的なものおよび個別的なものという意味を持つようになる。そして主語、述語という名称は不変のままで、判断の二つの項の意味は変ってくる。 |
主語の方も個別から出発したのですが、特殊・普遍的なものへと展開していきます。同様に述語の方も普遍的なものから出発しますが、特殊・個別的なものなどとの組み合わせがあります。そういう形で主語と述語の結合である判断は展開してくるのです。
一七〇節 われわれはさらに主語および述語をもっと立ち入って考察してみよう。主語は否定的な自己関係であるから(一六三節、一六六節の註釈)確固とした根柢であって、そのうちに述語がその存立を持ち、観念的に存在している(すなわち述語は主語に内属している)。 |
主語(個別的なもの)は、一六四節でみたように、特殊と普遍を自己のうちに含む「否定的自己関係」ですから、直接かつ具体的存在(根柢)であり、特殊と普遍が述語として定立されるのです。
そして主語は一般にかつまた直接に具体的なものであるから、述語の特定の内容は主語の多くの規定性の一つにすぎず、主語は述語より豊かで広いものである。、 |
主語は、具体的な、個別的なものであり、いくつかの規定性(本質・性質)が、述語として定立されるにすぎないから、主語の方が述語より豊かで広いのです。
逆に述語は普遍的なものであるから、独立に存立し、或る主語が存在するかどうかには無関係である。それは主語を越えて進み、主語を自分のもとに包摂し、主語よりも広いものである。述語の特定の内容(前節参照)のみが両者の同一をなすのである。 |
しかし逆に述語は、主語のもつ普遍を定立したものですから、主語のもつ個別性より広い外延をもつことになります。主語と述語は特定の内容においてのみ、その同一性が定立されるのです。
判断と推理との関係
一七一節 主語、述語および特定の内容あるいは同一性はまず、関係のうちにありながらも、異ったもの分離するものとして判断のうちに定立されている。しかしそれらは本来すなわち概念上同一なものである。 |
判断というのは、概念のうちに含まれる普遍・特殊・個別のモメントが、区別されながら繋辞をつうじてその同一性として定立されたものですから、主語(個別性)のもつ特殊・普遍が述語として定立されたものです。
繋辞において主語と述語との同一が定立されてはいるが、しかしそれはさしあたり抽象的な「である」として定立されているにすぎない。 |
これが判断と推理の違いです。判断においては、同一性を定立する繋辞が抽象的な「である」にすぎません。推理においては繋辞が一つの判断となります。
しかし、この同一性にしたがえば、主語はまた述語の規定のうちにも定立されなければならないから、これによって述語もまた主語の規定を持つようになり、かくして繋辞は充実される。これが内容豊かな繋辞を通じての判断の推理への進展である。 |
判断においては「である」という繋辞をつうじて主語と述語の同一性が定立されているのですから、繋辞は無内容です。ところが推理は、三段論法のように三つの判断を結合した大前提・小前提・結論となります。小前提になるのが推理における繋辞です。だから推理においては繋辞自体が一つの内容ある判断となります。空虚な繋辞は、内容をもった繋辞に取って代わられるべきであって、それが推理だということです。
こうして、判断から推理に移行するのですが、判断自体もそれに即して展開します。定有の判断から、本質の判断をへて、概念の判断に進みます。この進展に応じて最初の感覚的な認識から必然的な認識をへて、最後に概念的な認識というように次第により深い真理に展開していくのです。
判断の進展の認識がはじめて、普通に判断の種類として挙げられているものに、連関と意味とを与える。普通行われている判断の枚挙は全く偶然のようにみえるだけでなく、実際その区別は皮相であり、でたらめでさえある。肯定的判断、定言的判断、実然的判断というような区別は、一方では全くいきあたりばったりに作られているとともに、他方では明確に規定されないままにおかれている。しかし判断の諸種類は、次から次へと必然的に導き出されてくるものであり、概念の自己規定の進展とみられなければならない。というのは、判断とはそれ自身、規定された概念にほかならないからである。 有および本質という先行の二領域との関係を考えてみると、諸種の判断という形をとる規定された諸概念は右の二つの領域の再現ではあるが、しかしそれらは概念の単純な関係のうちに定立されている。 |
ここがヘーゲルの偉大なところです。エンゲルスもここに注目しました。判断の形式というのは、形式論理学ではまったく偶然的な順番で並べられているだけです。しかし、ヘーゲルの立場はそうではなくて、判断は概念の自己規定の進展とみられるものです。概念はイデアですから真理です。真理たる概念が自己を展開し、深まっていく過程が判断の進展過程なのです。判断がより高度な判断になっていくことは、より真理に接近していく過程だととらえるのです。ここは非常に意義のあるところだと思います。
これまで有論、本質論、概念論と認識の深まる過程をみてきましたが、判断という認識論においてもう一度この過程を再現することになります。「概念の単純な関係のうちに定立されている」とは、概念の即自態・対自態・即かつ対自態という関係において、判断のなかでもう一度、有論・本質論・概念論をふりかえることになるといっているのです。
判断の種類は、真理への諸段階
一七一節補遺 われわれは判断の諸種類を単に経験的な多様と見てはならないのであって、それらは思惟によって規定された統体性と考えられなければならない。こうした要求をはじめて強調したのは、カントの大きな功績の一つである。カントは、そのカテゴリー表の図式にしたがって、判断を質の判断、量の判断、関係の判断、および様相の判断に分類した。カントの分類は、一方ではカテゴリーの図式を単に形式的に適用していることと、他方ではその内容のために、十分なものとは言いがたいが、しかしその根柢には、判断のさまざまな種類を規定するものは、論理的理念そのものの普遍的形式であるという正しい考え方がある。 |
判断の種類を、単純に経験的な多様性としてのいろいろな判断の形式があるとみたのではいけないのです。判断の種類を規定するものは論理的理念そのものであり、普遍的形式だということを、カントが最初に指摘したと述べています。判断の種類は論理的理念そのものの普遍的形式だというのは、判断は真理を認識する思考の形式であるから、判断のさまざまな種類は真理のどのレベルに到達する判断なのかを示すものだというのです。
これに従うと、われわれはまず、有、本質、および概念という三つの段階に対応する判断の三つの主要な種類をうる。そしてこの三つのうちの第二の種類は差別の段階である本質の性格に対応して、再び自己のうちで二重化している。判断がこのような体系をなしていることの内的根拠がどこにあるかと言えば、それは、概念は有と本質との観念的統一であるから、判断において行われる概念の展開は、まずこれら二つの段階を概念にふさわしく変形しながら再生産しなければならないということ、そして次に概念そのものもまた真の判断として自己を規定しなければならないということに求められなければならない。 |
『小論理学』㊦の目次をみて下さい。判断のなかに、イ質的判断、ロ反省の判断、ハ必然性の判断、ニ概念の判断の四つがあります。この質的判断が定有の判断、あるいは有の判断です。反省の判断と必然性の判断が本質の判断です。最後が概念の判断ということで大きく有の判断、本質の判断、概念の判断に分かれています。本質の判断は反省の判断と必然性の判断の二つに分かれています。これらの判断はそれぞれどういう意味をもつかをみてみましょう。
── 判断の諸種類は、同じ価値を持つものとして並列さるべきものではなく、段階をなすものと考えられなければならない。そしてその区別は述語の論理的意味によるのである。このことはすでに普通の意識にも見出される。例えば人々は、常に「この壁は緑である」とか「このかまどは熱い」というような判断しかくださない者には、非常に貧弱な判断力しか認めないであろう。そして、或る芸術作品が美しいかどうか、或る行為が善いかどうか、等々というような判断をくだす人をはじめて本当に判断のできる人と呼ぶであろう。前者のような判断においては、その内容は抽象的な質にすぎす、その存在を決定するには、直接的な知覚で十分であるが、これに反して、或る芸術作品を美しいと言い、あるいは或る行為を善いという場合には、対象がそのあるべきもの、すなわちその概念と比較されるのである。 |
ここのところは非常に大事なところです。判断の諸種類は同じ価値をもつものではなくて、認識論上の段階をなすものとして、段階的な価値をもつものです。その価値とは、真理の認識です。真理の認識の度合いに応じて判断の価値が決まってくるのです。定有の判断のような「この壁は緑である」といっても、それはそれでたしかに真理かもしれません。しかし、そんな真理は大した意味をもつ真理ではないのです。ある芸術作品が美しいかどうかという判断は概念の判断です。そういう概念の判断にこそ真理としての意味があります。判断の種類は同じ価値をもつものではなく、段階をなすものであり、つまり真理の認識の諸段階である、ということを述べているのです。
《質問と回答》
ヘーゲルとキリスト教の関係、あるいは神との関係はどういう関係かという質問がありました。本来、哲学と宗教とは関係ないのではないか、ということも含めた質問です。
ヘーゲルには『宗教哲学』という著書がありますが、没後にヘーゲルの講義を弟子たちがまとめて出した本なのです。ヘーゲルは若い時からキリスト教に非常に関心があり、キリスト教にかんする論文を何本かまとめています。初期にはキリスト教を批判する立場にいましたが、後期になるとキリスト教の考えと自分の哲学とは基本的に一致しているのではないかという見解に達したように思われます。このようなことがあるので『小論理学』のなかでも、しばしばキリスト教についてふれているのだと思われます。
どういう形でキリスト教とヘーゲルの考えが一致するのかについてですが、キリスト教の三位一体論を、取り入れたかったのだと思います。つまり父と子と聖霊という三つが一体不可分の関係にあるというあたりを学びとったのではないかと思えます。ヘーゲルの哲学がすべて三分法からなっているのもその一つのあらわれでしょう。特に彼の哲学体系は論理学、自然哲学、精神哲学という三つからなっていますが、これも論理学がキリスト教でいう父に該当し、自然哲学が神の子であるイエス・キリストに該当し、キリストが死後復活して聖霊に戻ったという聖霊が精神哲学に該当するととらえる人もおります。あるいは概念論で今やっている、普遍、特殊、個別のなかにも三位一体説との関係が出てきました。
ヘーゲルは概念論における普遍、特殊、個別を、一体不可分で透明な一体感にあるという言い方をしています。この三つは区別されつつ重なっていて切りはなしがたいという表現は、三位一体説を取り入れていると考えられます。ヘーゲル哲学はその意味において、キリスト教を最高の宗教として評価しているといえます。
それではヘーゲルが神をどう考えていたのかということですが、ヘーゲルの神に対する考えは汎神論の立場です。つまり客観世界に存在する個々のもののなかに神が存在するのだと考えるのです。だから、神を認めているからそれですぐ観念論だというわけにもいかないのではないかと思います。ただ、概念論における概念を神と同じように考えているところもあるのですから、ヘーゲルとキリスト教の関係はなかなか難しく、単純にはいかないといえるのではないでしょうか。私もキリスト教について詳しくありませんので、この程度にしておきたいと思います。
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