『ヘーゲル「小論理学」を読む(下) 』より

 

 

後期第一一講 概念論・主観的概念 Ⅴ

c 推理―続き

 今日は一八二節からです。この推理について、ヘーゲル独自の見地があります。その見地から「理性的なものは推理であり、しかもあらゆる理性的なものは推理である」とか「推理はあらゆる真実なものの本質的な根拠である」とか「絶対者は推理である」と述べているわけです。前回、判断に二つあるように推理にも二つの意味があるんだということを言いました。一つは形式論理学でいう意味の推理であって、もう一つは、文字通り概念の否定的自己内反省としての推理です。後者の見地から「理性的なものは推理である」とか「推理はあらゆる真実なものの本質的な根拠である」というわけです。
 樫山金四郎さんは次のようにのべています。
 「もともとヘーゲルによれば、体系は『推理』である。カントは真なるものの決定点を『判断』において、この真なる判断に立たない、それ自身なる『推理』を先験的仮象という名のもとに斥けた。が、ヘーゲルは『推理』こそは真実であると考えた。これは、概念が自己の契機(判断)の展開を経て自己に帰り、自己を実現したものという意味である。ということは、自己の否定を媒介として、これら契機を内に含むものが真理だということを意味する。体系もまたこの意味での概念であり、推理である。つまり、概念は推理をうちに含むものなのである。絶対者(絶対的概念)もこの意味で考えられている。ロゴス(論理)が自己の否定を媒介として自己に帰ったもの、それが具体的になったロゴスつまり絶対知(哲学)なのである。哲学とはこの絶対知であるが、それは同時にこの展開過程つまり、推理の全体でもある。だからこのことは、論理学、自然哲学、精神哲学という三つの部分が、それぞれ『種』のように別個に存在していて、それが集まって全体(体系)という『類』に統合されているという意味ではない。そういう固定した部分が独立に在ると考えているのではない。それらはみな、絶対的なものの展開の契機なのである。それら各々はそれ自身絶対でありながら、自己否定されざるを得ない契機なのである。そうなっていく必然性を、自己疎外(外化)と内化(自己復帰)の弁証法を通じて説いたのである(樫山金四郎「『エンチクロペティー』解説」河出書房新社四七二ページ)。
 ちょっと分かりにくいかもしれませんが、ヘーゲルがいう推理とは、概念の統体性が、判断という三つの区別をつうじて再びその統一性を回復した状況をいっているわけで、樫山さんは「概念が自己の契機の展開を経て自己に帰り、自己を実現したもの」といっております。そういうものが体系だということなのです。ヘーゲルの哲学体系が論理学、自然哲学、精神哲学という三つの部分から構成されているけれども、その一つひとつは絶対者の契機なのです。一つひとつは絶対者であり、しかもそれが相互に媒介されつつ統一を保っているという意味でヘーゲルは推理をとらえています。
 テキスト㊦一六七ページを開いて下さい。推理の格について述べたところですが「推理の格は非常に根本的な意義を持っているのであって、その意義は、推理のモメントの各々が、概念の規定として、それ自身全体的なものおよび媒介する根拠となるという必然性にもとづいているのである」といっています。これがヘーゲルのいう推理なのです。つまり概念の三つのモメントの各々が、それ自身独立しながら媒介しあい、三つのモメントが展開して一つの統体性をなしているという有機的連関においてとらえているというイメージで推理を理解したらよいと思います。?『ヘーゲル用語事典』(未来社)の説明もみておきましょう。
 「一般的にいえば相互に媒介し合い、有機的関連を保つ多様な側面、契機をそれ自身のうちに含んだ統体性の論理が、ヘーゲルのいう推理なのである。それゆえに、推理は、理性的なものの形式、真理の形式とも規定され、体系構成的原理ともなっているのである」(一三五ページ)。
 推理が、理性的なものの形式、真理の形式とありますが、推理は概念そのものですから、概念そのものは具体的普遍として普遍、特殊、個別というモメントを自己のうちに区別しながらも統体性をもっているものです。概念の真にあるべき姿は、普遍のままにとどまるようなものであってはならないのであって、それは自らを特殊化し個別になるものでなければ真理とはいえないのだ、というのです。一八一節の本文の中で「理性的なものは推理であり、しかもあらゆる理性的なものは推理である」といっているのは、六節で「理念は、単にゾレンにとどまって現実的ではないほど無力なものではない」というのを前に学習しましたが、そういうことをイメージしてもらえばいいと思います。
 概念は普遍にとどまっていて自らを特殊化して個別にならない、そんなものではないのです。そういう意味で概念は推理であり、理性的なものであり、真理であるのです。推理は三つのモメントがいったん区別されながら、しかもそれが相互に媒介し合って統一されているから、概念そのものといえます。

悟性推理と理性推理

 一八二節 直接的推理は、概念の諸規定が抽象的なものとして相互に単なる外的関係のうちに立っている推理であり、したがって二つの端項は普遍とであるが、両者を結合する中間項としての概念も同じく抽象的な特殊にすぎない。そのために二つの端項は相互的にも、またその中間項にたいしても無関係的にそれだけで存立しているものとして定立されている。この推理はしたがって、概念を欠いたものとしての理性的なもの、すなわち形式的な悟性推理(Verstandesschluss)である。

 一八二節では、理性的な推理と悟性的な推理の区別をしています。悟性的な推理とは従来の形式論理学でいっていた三段論法のことです。理性的な推理が先ほどお話しましたように概念が自己の契機の展開をへて自己に帰るという推理なのです。
 なぜ悟性的な推理と理性的な推理とを区別しているのでしょうか。上巻の予備概念の七九節以下に「論理学のより立ち入った概念と区分」というのがあり、ここで悟性と理性の問題を扱っています。悟性というのは固定した規定性だというのに対し、理性というのは弁証法的な対立物の統一(八〇節)だというのです。「悟性は規定し、理性は否定する」という言い方もしています。悟性は規定するというのは、区別を設けるということです。理性はその区別したものを否定して統一します。それと同じような意味で悟性推理、理性推理を使っているわけで、悟性推理は個別、特殊、普遍をバラバラなものとしてとらえたたうえで、それを形式的に結合するような推理なのだというのです。俗に形式論理学でいう三段論法はそういうものです。それに対し、本当の推理は個別、特殊、普遍を概念のモメントとして区別しながらもそれを統一したものとして理解する、それが理性的な推理だというのです。
 文脈にそっていきますと、直接的推理は最初の推理であって、概念の諸規定が「相互に単なる外的関係のうちに立っている推理」だといっています。推理の要素となる普遍、特殊、個別は、それぞれバラバラな関係にあるものを推理によってくっつけただけだというのです。
 そこで、そもそも形式論理学の推理とは何かということをいっておきます。

大前提 すべての惑星は 球形である     A―媒概念
        (A) (B)
小前提 地球は 惑星である         B―大概念
    (C) (A)
結 論 よって地球は 球形である      C―小概念
       (C) (B)

 Aが媒概念であるというのは「CはBである」という結論を導くうえでAが仲介しているからです。仲介しているけれど推理の結論の中ではAは消えてしまっているのです。そういう意味で媒概念というのです。大概念は証明されるべきもの、推理されるべきものです。小概念はその主語です。だから「小概念は大概念であるということを媒概念を通じて推理する」ことになるのが三段論法といわれるものです。
 また「すべての惑星は球形である」を全体として大前提といい「地球は惑星である」が小前提「よって地球は球形である」が結論です。ヘーゲルは直接的推理として、特殊を媒介にして個が普遍であるという推理を頭において述べています。一六〇ページの一行目「したがって二つの端項は個と普遍とである」とありますが、この「端項」は大概念と小概念のことをいっているのです。この場合は小概念が個であり大概念が普遍、媒概念が中間項の特殊だということを頭において述べています。個と普遍と特殊という本来無関係なバラバラなものがたまたま推理という形式をつうじて結合されているだけであり、それが悟性推理だというのです。
 質的推理が悟性推理の具体例になります。詳しくみていきましょう。ヘーゲルは三段論法では、具体的普遍としての概念は出てこないとして「概念を欠いた理性的なもの」と呼んでいます。形式上は理性的なものですが魂の概念がぬけているから悟性推理なんだといっています。

 ── この推理においては、主語は自分とは別な一つの規定性と結合される。あるいは逆に言えば、普遍はこの媒介を通じて自己に外的な主語を包摂する。これに反して理性的な推理は、主語が媒介を通じて自己を自分自身と結合するということである。かくしてはじめてそれは主語となるのであり、あるいは、かくしてはじめて主語はそれ自身に即して理性推理となるのである。

 悟性推理においては「主語は自分とは別な一つの規定性と結合される」とありますが、これは定有の判断と同じことです。「このばらは赤い」という定有の判断がありましたが、ばらと赤は、必然的に結びつくものではなくて、単に一点で結合しているだけです。同様に悟性的な推理では、主語は、本来自分とは別な普遍と結合するだけです。「これに反して理性的な推理は、主語が媒介を通じて自己を自分自身と結合するということである」。つまり理性的な推理は、結合される項がいずれも概念のモメントとして、自己自身と結合する推理だということです。

 以下の考察においては、悟性推理は普通行われているような意味にしたがって、主観的に表現されている。すなわち、われわれがこうした推理をするのだという風に表現されている。実際悟性推理は主観的な推理にすぎないのであるが、しかしそれはまた、形式がここで到達している一定の仕方においてではあるが、事物の有限性をのみ表現しているという客観的な意味をも持っている。

 悟性推理が「主観的な推理にすぎない」という「主観的」の意味ですけれど、これは偶然的とか、真実ではないとかいう意味合いで使っています。この主観と客観という言葉は、このあとも出てきますが、ヘーゲルの独特の用法があります。それをみておきましょう。
 テキスト㊤一六九ページを開いてください。これはカントを批判しているところですが、それに関連してヘーゲルのいう客観性とはどういう意味なのかということを、四二節の六行目から述べています。「客観性という言葉は三つの意味をもっている」とあり、その二つ目が「カントが確立したような意味、すなわち感覚に固有な偶然性、特殊性、主観性などと区別された普遍的で必然的なものという意味」となっています。だから主観性とヘーゲルがいうときには、偶然性、特殊性という意味で使うことがあるのです。それに対して、客観性は普遍的で必然的なものです。単に頭の中で考えられたものにすぎない主観的なものというのはまだ本物ではない、真実ではないという意味でこの第二の用法が使われています。ここで主観的な推理と述べているのは、第二の意味で述べています。
 だから悟性的な推理が、主観的な推理だということは、まだ本当の推理ではない、偶然的な推理にすぎないという意味です。悟性推理は事物の有限性を表現している、なぜなら有限な事物においては、普遍・特殊・個別はバラバラになっているからだといっています。普遍・特殊・個別が一体となったところに事物の無限性が生まれると理解して、この事物の無限性が真理だということになるのです。

 一八二節補遺 人々は、上に述べたような意味で、推理を理性的なものの形式と考え、こうした解釈にしたがって、さらに、理性そのものは推理の能力であり、悟性はこれに反して概念を作る能力である、と定義している。こうした定義は、精神を並存的な諸能力の単なる総括とみる、皮相な考え方にもとづいているのであるが、それはまず問わぬとして、悟性を概念と一緒にし、理性を推理と一緒にすることについて言えば、概念を単に悟性規定とみるのも誤っているし、推理を直ちに理性的なものとみるのも誤っていると言わなければならない。

 普通の考え方からすると、理性は推理の能力、悟性は概念を作る能力だというようにとらえがちですが、こういう定義は誤っている、皮相な考えだと批判をしています。悟性と概念を結びつけるのはまちがっており、概念は単なる悟性規定ではなく、理性、理念だというのです。また推理が直ちに理性的だというのも誤っており、推理のなかには悟性的推理もあるではないかというのです。そういう意味で理性は推理の能力であり、悟性は概念を作る能力であるという一般的な見解は正しくないという批評をしております。

 というのは、一方においては、形式論理学が普通取扱っているのは、実際は単なる悟性推理であり、これは理性的なものの形式という名に値せず、ましてこれを理性そのものとみることはできないからであり、他方においては、概念そのものはけっして単なる悟性の形式ではなく、むしろ概念を悟性の形式へひきさげるものこそ、抽象をこととする悟性であるからである。

 形式論理学では、推理を形式的な三段論法としてとらえています。それは推理であっても悟性推理にすぎず、まだ理性推理ということはできないから、推理をすべて理性というわけにはいかない。概念を抽象的普遍と理解する形式論理学の考えは、概念を悟性へひきさげるものだとヘーゲルはいうのです。概念を抽象的普遍ではなくて具体的普遍としてとらえることによって、概念は理性のいとなみとなります。

 かくして人々は、しばしば、単なる悟性概念と理性概念とを区別してはいるが、しかしこのことは概念には二つの種類があるという意味に解されてはならないのであって、単に消極的な抽象的な概念に立ちどまるかそれとも概念の本性にしたがって、概念を同時に積極的な具体的なものと考えるかはわれわれの主観的行為であるという意味に解されなければならない。

 悟性概念と理性概念とは、概念に二種類あるという意味ではなく、悟性概念は抽象的普遍としてしか概念をとらえない低レベルの考えであり、それに対して理性概念は、概念を「エネルゲイアとしてのイデア」としてとらえるより高いレベルの見解だということです。

 例えば、自由を必然の抽象的な対立とみるのは、自由の単なる悟性概念であるが、これに反して自由の真実な理性的な概念は、必然を揚棄されたものとして内に含んでいる。同様にいわゆる理神論が掲げている神の定義は神の単なる悟性概念にすぎないが、神を三位一体として知るキリスト教は神の理性概念を含んでいる。

 悟性的にとらえるということは、対立するものをその媒介のない対立においてとらえるわけです。悟性概念によると、自由と必然は対立したままだととらえるのに対して、理性的な概念は、自由と必然性を対立物の統一としてとらえる、自由とは必然性を揚棄して内に含むものだととらえます。対立物をその媒介においてとらえ、その統一を実現するより高いレベルの認識なのです。同様に神の定義にかんしても、理神論がかかげている神の定義は単なる悟性概念にすぎないといっています。理神論というのは、神による世界創造は認めるのですけれども、創られた後は、神と世界とを区別したままにしておく考えです。そういう意味でこれは悟性概念というのです。これに対してキリスト教の場合には三位一体として神をとらえる。父と子と聖霊は、区別されながらも一体だということで、神と世界とを統一してとらえるから理性概念なのだということで、理性概念と悟性概念とを区別しています。


イ 質的推理(Qualitativer Schluss)

 これから推理の各論に入りますが、一八三節から質的推理、一九〇節が反省の推理、一九一節から必然性の推理という三つの推理に分かれます。
 判断には四つの判断がありました。定有の判断、反省の判断と必然の判断、概念の判断です。推理と判断とを対応させて考えようとする考えもありますが、それがいいのかどうなのか。判断の場合は「真か偽か」かを問題にするのですから、定有の判断から概念の判断にまで段階的に、より真理に接近するといってよいと思うのですが、推理の場合はそういえるのかどうか疑問です。結論的に言えば、推理として意味をもつのは、反省の推理だけではないのかと思います。必然性の推理も果たして推理として独自の役割をもっているのか、疑問に思いますが、後に詳しく述べることにします。まず質的推理は、言いかえれば悟性推理のことなのです。

 一八三節 最初の推理は、前節に述べたように、定有の推理(Schluss des Daseins)あるいは質的推理(qualitativer Schluss)である。⑴ その第一格は個―特―普である。すなわち個としての主語が一つの質を通じて或る普遍的規定性連結されているのである。
 ここでは主語(小概念)が個という以外になお諸規定を持ち、またもう一つの端項(結論の述語、大概念)も、単に普遍であるという以外になお規定されているということは考察の外におかれ、両者が推理を形成する諸形式だけが問題となるのである。

 定有の推理は定有の判断と同様に、個と普遍を一点で結びつけるものであり、ただ特殊が媒介項となっているだけの違いにすぎません。

 一八三節補遺 定有の推理は悟性推理にすぎない。というのは、ここでは個と特殊と普遍とが互に全く抽象的に対峙しているからである。かくしてこの推理は、概念がこの上なく自己の本来の姿を失ったものである。ここには直接的な個が主語としてあり、この主語からなんらかの一側面、一特性が取り出され、これを介して個が普遍であることが示される。例えば「このばらは赤い」と言うとき「赤は色である」「ゆえにこのばらは色を持つものである」、となる。普通の論理学が取扱っているのは、主として推理のこうした形である。」

 定有の推理は「このばらは赤い」が大前提で「赤は色である」が小前提「ゆえにこのばらは色を持つものである」という結論を導き出すという、形式論理学でいう三段論法です。こういうものは定有の推理、悟性の推理として概念を欠いているとヘーゲルはいうのです。個と特殊と普遍とが互いに全く抽象的に対峙しているにすぎない、本来バラバラなものがくっつけられているだけであり、概念としての統一性を欠いている「概念がこの上なく自己の本来の姿を失ったものである」というは、㊦一六〇ページのはじめから四行目にある、悟性推理は「概念を欠いたものとしての理性的なもの」と同じ意味です。この定有の推理においては、まず「このばら」という、直接的な個が主語としてあり、主語の一つの側面、つまり「このばらは赤い」ということを介して、個が普遍であることが示されるのです。「このばらは赤い」の主語はばらです。ばらは個であり、赤が特殊であり色が普遍になるのです。だから、赤という特殊を媒介にしてばらという個が色という普遍と結びつけられる、それが定有の推理です。

 昔は推理があらゆる認識の絶対の基準と考えられ、学問上の主張は推理によって媒介されていることが証明されるときのみ正当であるとされていた。今日では推理の諸形式は論理学の概要書でみられるくらいのもので、その知識は、実際生活においても学問においても少しも役に立たない机上の空論と考えられている。この点についてまず注意すべきことは、もちろんあらゆる場合に型にはまった推理の全機構を持ち出すのは、余計なことでもあり衒学的でもあるが、しかし推理の諸形式は常にわれわれの認識のうちに存在しているということである。

 三段論法は「実際生活においても学問においても少しも役に立たない机上の空論」だと考えられているけれども、推理がまるっきり役に立たないのかといったら、そうではないというのです。推理は日常生活で明確に意識はしなくてもよく使う論理形式なのです。例えば、政治の世界をみても、橋本内閣が景気対策をやるとなれば、おそらくゼネコン優先の公共事業型の景気対策だろうという推測ができます。そういう推理から、出されてくる財政改革法の「改正」案なども批判をするわけです。また統計は推理の一つの手法です。折れ線グラフを書いて、その延長線がどうなるかという景気変動の予測も推理です。日本の景気は依然として下を向いているのか、それともやや右肩上がりになってきたのかというのは、推理の問題になってくるわけです。明日の天気がどうなるのかも推理です。将来予測の問題だけではなくて人間関係でも、昨日までなかよくしていた二人が、きょうは全然話もしないとなれば、けんかでもしたのかなという推理になるのです。そういうふうに推理は日常的な思考の中に生きているのです。

 例えば、或る人が冬の朝目を覚まして、車が街路の上をきしる音を聞き、それによって夜の間に厚い氷が張ったのだろうと考えるとすれば、かれは推理という操作を行ったのである。そしてこうした操作は、われわれが毎日種々様々の条件の下に繰返しているものである。

 推理は、日常生活のなかで無意識的にもやっているのです。それだけに、推理を哲学的に明確にすることが重要なのです。もちろん論理学を知らなくても推理はできるのですが、推理はどういうものかを論理的に明確にすることによって、その推理の精度を高めていくことができるということではないでしょうか。

 ── 推理の諸形式およびいわゆる格をはじめて主観的な意味において考察し記述したのはアリストテレスである。しかもかれは、根本的な点では何も附加するものがないほど正確にそれをなしとげている。この業績はアリストテレスに大きな名誉をもたらすものではあるが、しかし、同時にわれわれが忘れてならないことは、かれがその本来の哲学的研究に用いているものは、けっして悟性推理の諸形式ではなく、一般に有限な思惟の諸形式ではないということである(一八九節の註釈を見よ)。

 この質的推理の第一格は個―特―普という、特を媒介にして個は普遍であるという推理をするものです。この個、特、普の組み合わせは、三つの組み合わせですから全部で六通りあります。この組み合わせを全部検討したのがアリストテレスです。「分析論前書」のなかで、この推理の諸形式、推理の格というものをアリストテレスは徹底して検討しています。しかし、アリストテレスが推理の格を述べているのは、それは何も悟性推理の形式を述べているのではなくて、それをつうじてヘーゲルが言っている理性推理を追求したいがためにそういう格を論じているということを、ヘーゲルは読み取っているのです。
 テキストでは一八九節の註釈となっているのですが、一八七節のまちがいでしょう。直しておいてください。

質的推理は要素からして偶然的

 一八四節 この推理は(イ)その要素から言って全く偶然的である。中間項は抽象的な特殊であるから、主語の何か一つの規定性にすぎず、他方主語は直接的なものであり、経験的に具体的なものであるから、こうした規定性をいくつも持っており、したがってその他多くの普遍と連結されうる。また個々の特殊にしても、それはそのうちにさまざまな規定性を持っているから、主語は同じ媒概念を通じて多くの異った普遍に関係させられうる。

 この質的推理、定有の推理は、いかに推理としてはつまらないものであり、偶然的なものであるかということを、本節は要素の面からみており、一八五節では、形式の点からみています。要素の面からも形式的な面からも定有の推理は偶然的、あるいは主観的だというのです。先ほど主観的というのは偶然的という意味に理解したらよいといいましたが、ここをみてもそれが分かります。㊦一六〇ページの終りから六行目に「悟性推理は主観的な推理にすぎない」とあり、この主観的というのは偶然的という意味だと述べました。それは一八四節、一八五節で、要素の面からも、形式の面からも偶然的と述べているところからも、主観的という意味は偶然的という意味に理解すべきだということが分かります。一八四節で、この推理はまずその要素からいっても偶然的である、つまり普遍、特殊、個別というのが必然的結びつきをもっていないというのです。ばらと赤と色は、本来バラバラなものが一点で結びついているだけなのです。「中間項は抽象的な特殊であるから、主語の何か一つの規定性にすぎず」とありますが、ばらは赤かもしれないし、甘い匂いかもしれないし、あるいは植物の一つかもしれないし、いろんな特殊と結びつくわけですから、その中間項の特殊は主語の一つの規定性にすぎないのです。
 「他方主語は直接的なものであり、経験的に具体的なものであるから、こうした規定性をいくつも持って」いるとは、ばらは具体的な個物としていろいろな規定性をもっています。だからいろんな普遍と結びつくことができるのです。結局、その主語は中間項においても結論においても、その結びつきは偶然だというのです。だから媒概念、中間項は同じであっても、結論部分の普遍はいろいろな普遍になりうるのです。

 型にはまった推理が今日用いられなくなったのは、人々がその正しくないことを洞察して、それを用いなくなったというより、むしろはやらなくなったのである。この節および次の節には、こうした推理が真理にとって価値のないものであることが示されている。

 個別・特殊・普遍がそれぞれ一点で偶然的に結びつくような推理をとりあげても、真理にとって価値はないのであって、われわれがやりたい推理とはこんなものではないということでしょう。

 この節に示したような側面からすれば、われわれはこうした推理によってありとあらゆることを証明する── 人々が呼んでいるところによれば── ことができる。それにはただ、自分の欲する結論へ移っていくことのできる媒概念を見出しさえすればいいのである。そして別の媒概念をもってくれば、また別のことが、否反対のことさえ証明される。

 「先に結論ありき」ということです。質的推理の場合は、媒概念の使い方しだいでどんな結論でも出てきます。自分の望む結論を導き出そうと思ったら、それに見合う媒概念をくっつけさえすればいいのです。媒概念をどう使うかによって、どんな結論にも到達できるのですから、こういう推理は真理にとっては価値がないというのです。

 ── 対象が具体的であればあるほど、それは、それに属しそして媒概念として用いられうる側面をますます多く持っている。そしてこれらの側面のうち、どれが他よりも本質的であるかを決定するには、再び同じような推理によらなければならない。すなわち、この推理もまた、個々の規定性の一つを拠りどころとし、そしてこの規定性にたいしてそれを重要で必然的とするような側面あるいは見地を容易に見出すことができるのである。

 「対象が具体的であればあるほど」というのは、抽象物とちがって、いろいろな要素をもっている具体的な問題になればなるほどいろいろな媒概念をもちだすことができます。その結果さまざまな推理ができる、いろいろな結論に達することができるわけです。どの推理が一番正しいのかというと、再び同じような推理にたよらなければならないことになってきます。結局、定有の推理はさらに別の定有の推理を前提として必要とするから、それ自身の中に真理をもたないということです。

 一八四節補遺 人々は日常の交渉のうちでは悟性的推理の自覚などほとんど持っていないが、しかしそれはそこで常に働いているのである。例えば、民法上の訴訟においては、自分の依頼人に好都合な権限を強調するのが弁護士の仕事である。ところでこうした権限なるものは、論理的にみれば、一つの媒概念にほかならない。同じことは、例えば、列強が同じ領土を要求するの場合の外交上の討議にも見出されるのであって、この場合は継承権、領土の地理的位置、住民の系統、言語、その他あらゆる理由が媒概念として強調されうる。

 民法上の訴訟では、たとえば、貸した金を返せと催促します。それに対して借りたのは借りたがもう返したとか、あれは私が借りたのではなく会社として借りたのだとか、借りたのは借りたがもう時効で消滅したとか、いろいろな反論をするわけです。そういう依頼人に好都合な権限、つまり媒概念を引き出すのが弁護士の仕事だといっているわけで、これはこれでなかなか面白いところです。法の解釈は一種の価値判断であり、いかに自分に都合のよい媒概念をもってくるかという法解釈の多義性はあるのです。しかし、その中にも真の解釈はありうるのです。それは何かというと、日本の法体系の中では最高規範である憲法の国民主権原理を根底とする解釈をすることによって、多義的な法解釈のなかにあって、本来的に正しい解釈が一義的に決まってくるのだろうと思います。現在の裁判所の判断では、その一番大事なところ、憲法の判断を回避することによって、相対的な価値判断の問題にもちこんで、国民の要求を総なめに切り捨てていくところがあります。彼らの判断の特徴は、憲法の問題に正面から目を向けようとはしないことです。そこに目をつむってしまって、いろいろな理屈をこねるのです。都合のいい媒概念をもってきさえすれば、どんな解釈でもできるというところはあるのですが、その中で真理を探究することが必要になってきます。いかなる媒概念が最も正しい媒概念なのかを憲法に照らして探求することは必要なことだと思います。
 それから外交上の討論についてですが、例えば、北方四島の領土権がどうなるかにかんしていろいろな論拠があります。かつてのソ連からいえば、あれは第二次世界大戦の戦後処理をつうじて得たものだということになるのでしょうし、自民党政権にいわせれば、それは北千島だけの話で南千島は別なのだという論拠をもってくるわけです。いずれも自分に都合のよい「媒概念」というべきものです。千島をめぐる領土の帰属問題は、日本とロシアの間の千島樺太交換条約によって、全千島を日本が合法的に取得したわけです。その千島を第二次世界大戦における領土不拡大の原則に反して、米ソの話し合いで分け取りしてしまったのは間違っているというところに正しい媒概念があるのです。領土問題にはいろいろな媒概念があるけれど、それは全部相対的なものかというとそうではありません。ただ定有の推理、それ自体には、正しい媒概念の根拠はないということでしょう。

質的推理は形式からしても偶然的

 一八五節 (ロ)この推理はまた、そのうちにある関係の形式の点でも、同様に偶然的である。推理の概念にしたがえば、区別されたものが、その統一である媒概念によって関係するのが本当の姿である。しかしこの推理においては、二つの端項(いわゆる両前提、すなわち大前提小前提)と中間項との関係は、むしろ直接的な関係である。
 この推理のこうした矛盾はまたしても無限進行として自己を表現する。すなわち、二つの前提の各々もまた同じく推理によって証明されることを要求しているが、この推理もまた二つの直接的な前提を持っているから、この常に二重となっている要求は無限に繰返される。

 惑星は球形である。地球は惑星である。よって地球は球形であるという推理を例にとってみますと、この結論は正しいといえるでしょう。しかし問題は、惑星は球形であるという大前提と、地球は惑星であるという小前提は、正しいものであるとして証明されているかといえば、それは証明されていないのです。だから結局、形式自体が偶然であって、大前提・小前提そのものが証明されるべきなのに、証明されることなく証明ずみの前提として扱われていますから、さらにそれを証明しようと思えば、大前提を結論とするような大前提・小前提がいるわけだし、小前提を結論とするような大前提・小前提がいることになります。つまり二つの前提のさらにその前提をたどっていかなくてはいけないことになって、結局それは無限進行にならざるをえません。そこにこの定有の推理の形式上の有限性があるのです。
 大前提・小前提が証明されていないので、それを証明しようと思ったら無限に推理をさかのぼっていくことになり、どこまで行ってもおわりがありません。ですから形式の点でも偶然的だといっているのです。

推理第一格から第二格へ

 一八六節 こうした形式のうちにある推理は絶対に正しいと考えられているが、わたしはここに(経験的に重要であるから)この推理の欠陥を指摘した。しかしこの欠陥は、推理の規定が進むにつれて、おのずから除去されなければならない。われわれは今概念の領域にいるのであるから、判断においてそうであったように、ここでもまた、対立的な規定性は単に即自的に存在しているのではなく、定立されている。したがって推理の規定を進めるにも、推理そのものがそのときどきに定立するものを取ればいいのである。

 定有の形式の第一格である、個―特―普という推理の形式は、要素からいっても偶然的であり、形式からいっても偶然であるという欠陥をもっています。したがってこういう第一格の欠陥は除去されなければなりません。ではどのように除去されるのかといえば、いまわれわれは概念論として議論しているわけだから、個―特―普という対立的な規定性は、それぞれバラバラに存在しているのではなくて、概念のもとに統一されているととらえることによって欠陥は克服されるべきだというのです。推理の規定をすすめるにあたっても、この個―特―普の関係が相互に媒介されるような関係においてとらえる必要があるのです。もともと概念においては、個―特―普は区別されながらも一体となっているという関係があるのですが、この定有の推理の第一格の個―特―普という格は、結論としての普のみが媒介されたものとしてあって、個と特は媒介されたものとしては存在していません。ですから今度は個と特を媒介されたものとしてみる必要があるから、この第一格は第二格に前進すべきものなのです。

 個―特殊―普遍という直接的推理によって個は普遍と媒介され、結論のうちに普遍として定立されている。かくして個別的な主語は、このようにそれ自身普遍的なものであるから、二つの端項の統一であり媒介者である。これが推理の第二格 ⑵ 普―個―特を与える。第二格は、媒介が個において行われ、したがって偶然であるという、第一格の真理をあらわしている。

 個―特―普という第一格においては、特殊が媒介項になって個は普遍であるということが結論づけられます。結論において普は個と同じであるということになってくるから、個―特―普の個は普におきかえられて、普―個―特になる、こういう第二格になるというのです。こういう屁理屈をいっていますが、結局、ヘーゲルがいう第一格、第二格、第三格は媒介項を問題にしているのです。第一格は媒介項が特であり、第二格は媒介項が個であり、第三格は媒介項が普なのです。『大論理学』では、推理の第二格というのは普―個―特ではなくて特―個― 普になっている。だから大論理学と小論理学では、個と普とが逆になっており、第二格がちょっと違うのです。ということは、ヘーゲルにおける推理の格は、媒介項が個・特・普のいずれであるかということによる区別だとみておいた方がよいのであって、そうなると、そこに至る論理の展開はちょっと納得できない面があります。第一格の「個は普遍である」ということから、主語の個を普に置き換えたものが第二格という言い方をしているのですが、ここにポイントがあるのではなくて、第二格は媒介項が個になるところに特徴がありそうです。第一格、第二格、第三格というのは媒介項が個・特・普のいずれかによる区別だということでよいと思います。

推理第二格から第三格へ

 一八七節 第二格は普遍を特殊と連結する(普遍は第一格の結論から個によって規定されて第二格へ移るのであるから、第二格では直接的な主語の位置を占めるのである。かくして普遍は第二格の結論によって特殊)として定立される。したがってそれは二つの端項を媒介するものとして定立され、他の二つが今や端項の位置を占めるようになる。これが推理の第三格 ⑶ 特―普―個である。


 「第二格は普遍を特殊と連結する」といっているのは、普は個を媒介にして、特殊と結びつくことにより、普遍は特殊であるという結論になるということです。第二格の主語である普遍は特殊に置き換えられるという説明の仕方をしているのです。だから一八六節・一八七節で第二格への移行、第三格への移行はいずれも主語の問題であるかのような書き方をしているのですが、内容的には媒介項を問題としていると思われます。それはなぜかというと推理の格は三つしかないということをいっているのです。もしヘーゲルのいったような説明の仕方でいうと、例えば推理の第二格は普―個―特でなくても普―特―個でもよいわけです。また第三格も特―普―個でなくても特―個―普でもよいのです。そういうことになると格はまだまだいっぱいあるわけですが、三つの格しかないということは、媒介項で区別しているからです。

 人々がいわゆる推理の(アリストテレスは正当にもそれを三つしか挙げていない。第四格は後世の人々の、余計な、否、馬鹿らしくさえある追加である)を取扱う場合、普通人々はそれらをただ並べるだけで、それらの必然性を示すことや、ましてそれらの意味および価値を示すことなどはまるで念頭にないのである。それを思えば、それらが後にいたって空虚な形式主義として取扱われているのは少しも不思議ではない。

 推理の格は一格・二格・三格の三つしかない。一格は特殊が媒介項であり、二格は個別が媒介項であり、三格は普遍が媒介項になる。だからこの三つしかないのです。第四格は、後で出てきますけど、A=A=Aというものです。それを含めると四つになるのですが、四つ目はあたりまえのことですから推理は三つの格があるということでよいのだといっています。それは単に三つ並べるということではなくて、推理の格を論じるということは単なる形式の問題ではなくて別の意味があるといいたいのです。

推理の格の意義

 しかし推理の格は非常に根本的な意義を持っているのであって、その意義は、推理のモメントの各々が、概念の規定として、それ自身全体的なものおよび媒介する根拠となるという必然性にもとづいているのである。

 推理の三つの格の媒介項は、普遍・特殊・個のそれぞれが媒介項になっています。普遍・特殊・個は概念の規定性です。概念そのものではなくて概念の規定された姿です。規定された姿としての普遍・特殊・個別は、それぞれ概念そのものでありながら、相互に媒介しあう関係になっており、それが推理なんだといっているのです。個別・特殊・普遍の一つひとつが概念の規定されたものとして、それ自身が概念であると同時に媒介する根拠となるのです。普遍は特殊と個別を媒介し、個別は普遍と特殊を媒介し、特殊は個別と普遍を媒介する。そういうものが推理なんだというのです。相互に媒介しあって統一を保っているところに推理の真理たるゆえんがあるのです。

 ── しかしさまざまな格において正しい推理を作り出すためには、諸命題がそのほかどんな規定を持たなければならないかということ、すなわち命題が全称であるか、否定であるか等々ということは、機械的な研究であって、こうした研究は、その没概念的なメカニズムと内的な無意味とのために、正当にも忘れ去られてしまっている。── もし人々がこうした研究および悟性推理一般の重要性を証明するために、アリストテレスを引合に出すとすれば、それこそ最も不適当な人を引合に出すのである。アリストテレスがこうした諸形態やその他精神および自然の数かぎりない諸形態を記述し、その特性をさぐりかつ明示したのは確かである。しかしかれはそのメタフュシカの諸概念においても、自然および精神の諸概念においても、悟性的推理の形式を基本においたり基準にしたりしようとはおよそしていないのであって、むしろわれわれは、もしアリストテレスの用いた諸概念のただ一つでも悟性の法則に従わされていたら、それは作られえなかったか、あるいはそのままの姿を保つことができなかったであろう、と言うことができる。アリストテレスは、かれ特有の仕方で、多くの記述的なものおよび悟性的なものを与えてはいるが、しかし支配的なものは常に思弁的概念であって、かれがはじめてあんなに明確な表現を与えた悟性的推理は、思弁的領域には用いていないのである。

 一八三節補遺の最後で、アリストテレスが推理の格を論じているのはけっして悟性推理ではないということで、「一八七節の注釈を見よ」と書いているのは、この部分のことです。アリストテレスは「分析論前書」や「形而上学」で推理のいろんな格を論じているのですが、それは悟性推理にいろんな形式があるということを議論したいためではなくて、それをつうじて理性推理をいいたかったのだとヘーゲルは解釈しています。一格・二格・三格をつうじて普遍も特殊も個別もそれぞれ他の二つのモメントを媒介する役割を担えるということで、概念の三つのモメントは、それぞれが概念の規定体として独立していながら、しかも相互に媒介されている関係の中に真理がある、とみています。
 この推理の補遺の部分は、樫山さんの『エンチュクロペディー』の解説で先に読んだ趣旨が繰り返されております。また樫山さんは、先の引用に続けて「絶対精神の亡霊のようなものがいて、存在世界を動かしていると、ヘーゲルが考えていたかのように思う人々がいる。だが絶対者は『エンチュクロペティー』からいえば、体系の各々において現にいながら、そこにいないのである」(『 エンチュクロペディー』四七三ページ) という言い方をしています。この言い方は正しいだろうと思います。つまりヘーゲルは観念論者であり、絶対理念というどこにあるかわからないものが客観世界を動かしているというまったく合理性のない観念論者だととらえるむきもあるけれども、そうではなくてヘーゲルのいう絶対者というのは、概念論のいう概念が、普遍・特殊・個別という形態をとりながら、どこにもあるし、どこにもないというのと同じような関係にあり、絶対者は存在すると同時に存在しないというのは、きわめて優れた理解だと思います。ヘーゲル論理学は絶対理念がなかったら成り立たない哲学なのかといったら、そうではないだろうと思います。成り立たないと同時に成り立つということがいえるのではないか。論理学の最後が絶対的理念となるのには、それはそれで合理性があるけれども、絶対理念を取り去ったら論理学全部が雲散霧消するのかというと、そういうものではないと思います。私はこの樫山さんの指摘は重要なものだと思います。

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