『ヘーゲル「小論理学」を読む(下) 』より

 

 

後期第一六講 概念論・客観 Ⅳ、理念 Ⅰ

c 目的的関係―続き

外的目的性
 
 前回から第三部概念論「B客観」の最後の「目的的関係」に入っておりますが、目的的関係というのは概念が自己を実現していく関係です。それをヘーゲルは「目的はそれ自身のうちに結果を含んでいる」という言い方をしています。つまり目的をもったものがその目的を実現していく関係を目的的関係といっているわけで、それは主として生命体と生産労働を念頭において述べていると前回お話しいたしました。
 今日は二〇五節からになりますけれども、まず外的目的性ということを述べております。

二〇五節 目的論的関係は、その直接態においてはまず外的な目的性であり、概念は前提されたものとしての客観に対峙している。したがってこの場合、目的は有限である。それは内容からいって有限であり、またそれがその実現の素材として見出さなければならない客観を外的な条件として持っている、という点からいって有限である。このかぎりにおいて目的の自己規定は形式的であるにすぎない。

 目的というものをヘーゲルは「内的な目的」と「外的な目的」に区別するわけです。外的な目的というのは外から押しつけられた目的という意味です。内的目的とは、有機体のように、そのもの自身が内にもつ目的ということです。目的的関係の最初の姿は外的な目的性だといいまして「概念は前提されたものとしての客観に対峙している」とありますから、ここの概念というのは、主観的な目的としての概念が客観に対峙しているということです。だから客観の外に目的、主観的な目的というものが存在しているのです。
 こういう外的な目的は有限だといいます。どうして有限かというと、まず内容からいって有限だというのです。そのものの内部に目的をもたないという意味で「内容からいって有限」だということと同時に「またそれがその実現の素材として見出だされなければならない客観を外的な条件としてもっている、という点からいって有限である。つまり自分自身でその目的を実現するのではなくて、自分の外にある客観を素材として用いなければ」ならないという意味でも有限だといっているわけです。「このかぎりにおいて目的の自己規定は形式的であるにすぎない」という「目的の自己規定」とは「目的はこれに反して、それ自身のうちに規定性を含んでいるもの言いかえれば、結果を含んでいるものとして定立されている」(㊦一九七ページ)ということをいっているのです。だから、本来の意味の目的というのは、それ自身の内に結果を含んでいるものでなくてはならないものですが、外的目的性においてはこの目的の自己規定性というのは、形だけのものにすぎないというのです。つまり自分自身を規定して自ら結果を生み出すのではなくて、外から材料をもってこなくてはならないという意味で「目的の自己規定は形式的であるにすぎない」といっております。

 もっと厳密に言えば、直接態のうちには、自己へ反省したものとしての特殊性(これは形式規定としては目的の主観性である)、すなわち内容が、形式の統体性主観性そのもの、概念と異ったものとしてあらわれる、ということが含まれている。この差別性が、それ自身の内部における目的の有限性をなしているのである。このことによって内容は制限されたもの、偶然的なもの、与えられたものとなり、客観は特殊なもの、見出されたものとなる。

 外的な目的性においては、目的というものが客観そのもののなかにあるのではなく、客観から切りはなされた主観的な目的として存在し、それを「内容」といっています。「形式の統体性」、あるいは「主観性そのもの、概念」とは何かというと、主観と客観の同一性が定立されるということです。内的目的においては、主観と客観の同一性が定立された統体性としてあるわけです。つまり客観のなかに主観としての内的目的が存在することによって、主観と客観の統一性が定立されているのですが、外的目的ではそういう形式の統体性がまだ定立されていないというわけです。
 「主観性そのもの」といっているのは「主観性そのものが、弁証法的なものとして、自己の制限をうち破り推理を通じて客観性への道をひらくというのと同じ意味です。つまり客観に自己をきりひら」(㊦一七七ページ)いていく主観性としても定立されていないというのです。概念というのは、主観と客観の統一としてあるわけですから、外的目的性は概念そのものとは異なるものということになるのです。ですから、外的目的性の場合は、その目的が客観の外に存在することによって、まだ概念の統体性が完全な形であらわれていないと批判をしているわけです。
 「この差別性」というのは、内容が形式に一致しないということです。内容とは目的の主観性であり、形式とは主・客の統一です。目的の主観性はまだそこにまで至っていないわけですから、内容と形式が一致しないことが目的の有限性をなしています。こういう外的な目的性は内容も制限されたもの、偶然的なもの、与えられたものとなり、その内容が実現された客観も「特殊なもの、見出だされたものとなる」といっているわけです。

二〇五節補遺 目的と言うと、普通人々は外的な合目的性しか考えない。この見方によれば、事物はそれ自身のうちに自己の規定を持っているのでなく、その外にある目的の実現のために使用され消費される手段にすぎないと考えられている。これは、一般的に言えば、効用の見地であって、かつては科学においてさえ大きな役割をつとめたことがあったが、やがて当然のこととして不信用におちいり、事物の本性を真に洞察するには不十分であることが認識されるようになった。

 普通、目的といったら外的目的性しか考えないけれども、それにとどまらないとヘーゲルはいいたいのです。外的目的性という見方によると「事物はそれ自身のうちに自己の規定を持っている」のではないことになります。目的の自己規定性とは、事物が自分自身のうちに規定性を含み、自分自身で内的目的にしたがって結果を生み出す内的目的性のことです。しかし、一般に目的というと、事物は「外にある目的の実現のために使用され消費される手段にすぎない」と考えられています。これは、一般的にいえば「効用の見地」のことで「葡萄を人間に与える周知の効用の見地からみたり、コルクの木まで、その皮から切りとられた葡萄酒ビンの栓との関係においてみたりする」という例があげられております。
 しかしそれは事物の本性にもとづいていないわけですから、人間が外から勝手にそう考えているだけのことであって、ブドウやコルクの木がその本性にもとづいてワインになったり、コルクの栓になったりすることを自己自身の規定性としてもっているわけではありません。それは効用の見地であって、事物の本性を理解するには不十分だといっているわけです。外的な目的性というのは、なるほど目的ではあるけれども、まだ不十分な関係だというのです。

 有限な事物は究極的なものでなく、自己を越えた或る物を指示している、と考えるのはもちろん正しい。しかし有限な事物のこうした否定性は、有限な事物自身の弁証法であって、この否定性を認識するためには、まずその肯定的な内容に注意を向けなければならない。

 これは、内的目的性のことを述べています。内的目的性をもっている事物とは、有機体、生命体のことです。有限な事物は運動・変化・発展するのですが、内的目的をもっている有機体は、そのなかで目的を保ちつつ変化するわけで、そこにいわば目的の自己規定性が貫かれているのです。それを「肯定的な内容」といっているわけです。だから有機体はたしかに変化するけれども、その中に目的のもつ自己規定性、あるいは変化の中における自己同一性が貫かれているところに注意を向けなければならないというのです。
 ここの「肯定的な内容」というのは、先ほどの目的の自己規定とか、それ自身の内に結果を含んでいるとか、結果においてはじめの本来の姿を保っているとか、そういうことをいっているのだと思います。

 目的論的な考察法は、特に自然のうちに啓示される神の智慧を示そうとする正しい意図を持ってはいる。しかしわれわれは、事物が手段として用いられる諸々の目的を探し出すということは有限の立場を越えるものではなく、むしろ貧弱な反省におちいりやすいということを注意しなければならない。例えば、われわれが葡萄を人間に与える周知の効用の見地からみたり、コルクの木まで、その皮から切りとられた葡萄酒壜の栓との関係においてみたりするのは、それである。昔はすべての本がこうした精神によって書かれていたものである。こうした仕方で宗教や学問を本当に進歩させることができないのは、あまりにも明白である。外的な合目的性は理念のすぐ前に立っている。しかし入口に立っているものこそ、しばしば最も不十分なものなのである。

 「目的論的な考察法は、特に自然のうちに啓示される神の智慧を示そうとする正しい意図を持ってはいる」とありますが、自然の中に合目的性をみているのです。特に動・植物をみる場合、実に自然環境にふさわしい姿態をもっています。そういうことをみると生命は本当にうまくできているから、神の意志が働いて合目的的な世界が作られているようにみえると、ちょっと神に対して敬意を表しているヘーゲルは、そういうことをいっているわけです。
 それに対して、われわれが「手段として用いられる諸々の目的を探し出す」、つまり手段としての外的な目的は「有限の立場を越えるものではなく、むしろ貧弱な反省におちいりやすい」のです。外的な目的というのは、とんでもない結論になったりすることがあるわけで、そういうカテゴリーに甘んじていたのでは仕方がないし、「事物の本性を真に洞察するには不十分」なのです。
 「外的な合目的性は理念のすぐ前に立っている。しかし入口に立っているものこそ、しばしば最も不十分なものなのである」とありますが、理念というのはイデアのことです。イデアというのは、いわば目的として設定されるものなのです。つまり資本主義のイデアは社会主義、共産主義ということになるわけで、社会主義、共産主義というのは、資本主義社会にとっての真にあるべき目的として定められるわけです。
 だから外的な目的性は目的という点からいうと、イデアとしての目的と似たようにみえるけれども、それは大変な違いであるというのです。理念すなわちイデアは目的ではあるんですけれども、いわば内的必然的な真にあるべき姿としての目的ですから、外的な効用の見地からつくられる目的とは全然異質なものです。ヘーゲルは目的的関係をつうじて外的目的から内的目的を考察し、理念に移行するというカテゴリーの展開をしております。

目的と手段

二〇六節 目的的関係は、そのうちで主観的な目的が中間項を通じて外的な客観性と連結する推理である。そしてこの中間項は、合目的活動(die zweckmässige Tätigkeit)としては、両者の統一であり、直接に目的に従属した客観性としては、手段(Mittel)である。

 「目的的関係は推理だ」とありますが、これは主観的目的が手段に媒介され、客観のなかに実現されることを推理といっているのです「主観的な目的が中間項を通じて外的な客観性と連結する」のであり、この中間項が。いわば手段です。
 ブドウをブドウ酒に変えたいという場合、まずブドウ酒に変えたいという主観的目的がある。それから外的な客観性としてブドウがある。この二つを結びつける中間項として、ブドウ酒を作る道具がいるのです。
外的な目的を達成するためには、手段がないと客観に実現できないのであり、その手段が中間項になっています。「この中間項は、合目的活動としては、両者の統一であり、直接に目的に従属した客観性としては、手段である」ということです「合目的活動としては、両者の統一」というのは、まず何とかワインを作りたいという。主観的目的と客観とが結びついて手段としての搾り器が生まれるのであって、手段というのはそういう「目的に従属した客観」として、目的によって作られるものなのです。
 外的目的は内的目的と違って、客観はそれ自身によっては規定されていないのであって、それ自身の本性にもとづいた目的ではないわけですから、客観それ自身の力ではその目的は実現できません。手段という媒介項がどうしても必要になります。

二〇六節補遺 目的から理念への発展は、第一には主観的目的、第二には実現の過程にある目的、第三には実現された目的という三つの段階を通じて行われる。── 最初にくるのは主観的目的であるが、これは向自的に存在する概念であるから、それ自身概念の三つのモメントの統体である。これらのモメントの第一のものは、自己同一的な普遍性であり、言わばすべてを含んでいるがまだ何もわかれていない中性的な最初の水である。第二のモメントは、この普遍者の特殊化であって、これによって普遍者は特定の内容を持つようになる。ところでこの特定の内容は、普遍者の活動によって作られるのであるから、普遍者はこの特定の内容によって自分自身へ帰り、自分自身と連結するのである。

 目的から理念への発展は「第一には主観的目的、第二には実現の過程にある目的、第三には実現された目的という三つの段階を通じて行われる」となっておりますが、この三つの過程をつうじて、目的における主観と客観の同一性が定立され、その完成された姿が理念になるという意味なのです。
 まず主観的な目的があって、それが外に向かって動き出して客観のなかに実現されることをつうじて主観と客観の同一性が定立されます。この主観と客観の同一性の定立された姿が、理念だといっているのです。ですから、二〇七節ではまず主観的目的を述べ、二〇八節が「外へ向かった活動」ということで実現の過程にある目的のことを述べています。それから二〇九節が手段をもってする目的活動、二一〇節が目的の実現としての主客の統一の定立についてという論理の展開になっております。
 まず、主観的目的ですが、目的というのは自由になった概念だというのが二〇二節補遺に出てきました。目的的関係というのは「概念が自由になるということ、あるいは「独立的に現存する概念が目的である」といって」おります。概念とはこれまで何度も話しましたように「真にあるべき姿」です。真にあるべき姿は具体的普遍であって、それは普遍であると同時に特殊・個別でもあるような普遍です。主観的目的は、いわば自立した概念であり、自由になった概念ですから、三つのモメントの統体としてあるのです。つまり普遍、特殊、個別を含んだものとして主観的目的はあるのです。
 主観的な目的は最初は普遍としてあります。「第一のものは、自己同一的な普遍性」とありますが、主観的な目的は、まず目的そのものとして普遍です。「言わばすべてを含んでいるが」というのは、すべての目的を含んでいるけれども、まだ何ら具体的な目的になっていないような目的一般です。いわば目的そのものです。
「第二のモメントは、この普遍者の特殊化」です。つまり目的一般が具体的目的になることによって普遍者たる目的は「特定の内容を持つようになる」のです。この「特定の内容」をもつ目的は「普遍者の活動によって作られる」普遍の特殊化です。「普遍者はこの特定の内容によって自分自身へ帰り、自分自身と連結する」とありますが、特定の内容となった具体的目的は、普遍の特殊化として、普遍のもつ個別化への衝動をもっています。主観的な目的が客観化された目的となる衝動をもつことを「自分自身と連結する」といっているのです。
 ヘーゲルは、主観的目的が客観に向って歩み出るというか、歩み出て行かざるをえない、そういう過程をみてるわけです。

 したがってわれわれは、ある目的を立てるとき、或る事をbeschliessen(ヘーゲルはここで、決心する、のほかに限定によって連結するという意味を持たせるのである)すると言うが、これは言わばわれわれが特定の規定に到達しうるという意味を含んでいる。またわれわれは(或る事をsich zu etwas entschliessen決心するの意、ヘーゲルはこれに自己の外へ出て或るものと連結するの意味を持たせるのである)という言葉を用いるが、これは、主観が単に自分だけの内面性から歩み出て自分に対峙している客観性と交渉することを言いあらわしている。このことによって単に主観的な目的は外へ向う目的活動へ進展するようになる。

 具体的な目的は外へ向って活動することを、ドイツ語のニュアンスを使って説明しているのです。ドイツ語ではある目的を立てるということは、決心するということですが、決心するという言葉は同時に連結するという意味ももっています。そこからヘーゲルは目的を立てることは、主観が客観と連結することを意味しているというのです。それからまた「或ることを決心する」というドイツ語は、自己の外へ出てあるものと連結するという意味ももっています。これは主観たる目的が自分の外に歩み出て、客観と交渉するということを意味しているというわけです。主観的な目的は、外へ向う目的活動へ進展する必然性をもっている、あるいは進展することによってのみ目的は目的となる、ということをドイツ語の意味合いで示しているのです。

主観的目的は推理

二〇七節 ⑴ 主観的目的は、普遍的な概念が、個が自己規定として原始分裂するように、特殊を通じて個と連結するという推理である。個が自己規定として原始分裂するとは、個がまだ無規定な普遍を特殊化して特定の内容とするとともに、また主観性と客観性との対立を定立し、しかもそれ自身に即してそれ自身自己への復帰であるということである。というのは、個は客観性にたいして前提されている概念の主観性を、自己のうちで完結した統体とくらべて、不十分なものとして規定し、これによって同時に外へ向うからである。

 「主観的な目的は、普遍的な概念が」「特殊を通じて個と連結するという推理である」ということは、言いかえれば概念としての普遍的目的が、具体的な目的として特殊化し、客観たる個となって実現するという推理だというのです。
 それはちょうど「個が自己規定として原始分裂する」のに似ているといっています。これは生命体のことを念頭においているのだと思います。生命体はまず自分ではもちろん自覚していないけども、生きる目的をもっている。その目的を特殊化して、生きるためには餌を取らなくてはならないということになります。「主観性と客観性との対立を定立し、しかもそれを自己自身に即してそれ自身自己への復帰であるということ」とありますが、餌を取るということは、主体になる自分と客観とが対峙しているということを自覚して、しかもその対立する客観を自己に取り入れ、それを自分自身のものにしてしまうことです。そのことを「それ自身に即してそれ自身自己への復帰である」という言い方をしているのです。生命体はそうやって自己保存のために、主観と客観の同一性を定立するんだけれども、それと同様に、主観的な目的も、単なる主観性では不十分なものとして、自分を規定し、外へ向って客観と結合して主客の同一を定立しようとするのであり、その意味で生命体の主客の同一性の定立と似たところがあるといっているわけです。
 これは二〇六節と同じで「主観的な目的は外へ向う目的活動へ進展する」と同じことを、別な言い方で述べているのです。
 
手段と活動

二〇八節 ⑵ こうした外へ向った活動は、主観的目的のうちで特殊性── これは内容のほかに外的な客観性をも含んでいる── と同一である個別性であるから、第一に客観へ直接的に関係し、それを手段として自己のものとする。概念はこうした直接的な威力である。なぜなら、それは自己同一な否定性であり、この否定性のうちで客観の存在はあくまで単に観念的なものとして規定されているからである。、、

 外的な目的性は外的な目的であるがゆえに、手段を自己のものにしないと目的を実現できず、そういう手段を作りだす活動についてここで述べています。主観的な目的は外へ向うわけですが、外に向った主観的な目的は、自己を特殊化して客観(個別)と結びつきます。まず「第一に客観へ直接的に関係し、それを手段として自己のものとする、つまり目的を実現するために手段を作りだすのです。外的な目的だから、自己自身で直接に目的」を実現できないため、手段を作りださなくてはならないのです。
 「概念はこうした直接的な威力である」というのは、概念としての目的は、まず客観をつくりかえて手段を作りだすのであり、それが直接的な威力ということです。「なぜなら、それは自己同一な否定性」とありますが自己同一な否定性とは、客観を自己の目的にしたがって変革して自己と同一化することです。いわば手段というものは客観のなかに目的が実現したものです。
 「この否定性のうちで客観の存在はあくまで単に観念的なものとして規定されている」とありますが「観念的なもの」とは、あるべき姿に変革されるべき対象という意味でしょう。だから、こういう概念、主観的な目的が手段を作り出そうとして、客観に働きかける場合は、客観は単にあるべき姿に変革される対象として規定されているにすぎないのです。

 ── 完全な媒介項は、活動としての概念のこうした内面的威力であって、客観手段としてこの活動と直接的に結合されており、またその支配下にあるのである。

 この完全な媒介項というのは、手段のことです。手段は概念(目的)が外に向った活動の威力として客観から作られるものであって、客観はこの概念の支配下におかれます。だから手段は客観と目的とが結合し、目的を直接的に実現した客観なのです。その本来の目的を実現するために、まず手段を作りだすわけです。こうして客観は手段を媒介として目的を実現することになるわけです。

 有限な合目的性においては、このように、媒介項は互に外的な二つのモメント、すなわち活動と手段として役立つ客観とにわかれている。こうした客観へ目的が威力として関係し、客観を自己に従属させるという関係は、向自的に存在する観念性としての概念のうちで、客観が即自的に空無なものとして定立されているかぎり、直接的である。こうした関係が推理の第一前提をなしている。しかしこうした関係あるいは第一前提は、それ自身媒介項となるのであって、それは同時に自己のうちにおいて推理である。なぜなら目的はそのうちに目的が含まれており、かつあくまで支配的であるところのこうした関係、目的の活動を通じて客観性と連結するからである。

 有限な合目的性(外的目的性)においては、中間の媒介項を大きく二つに分けることができます。それが「活動」と「手段」です。生産労働の場合は労働と労働手段ということになります。手段を作りだすというのは、目的が客観に威力として関係して、客観を自己に従属させることになるわけです。そういう関係は「向自的に存在する観念性としての概念のうちで、客観が即自的に空無なものとして定立されているかぎり、直接的」だといっておりますが、目的の客観支配(手段の製作)というのは、自立した真にあるべき姿としての概念のうちで、客観を空無なものとして否定し、作りかえることなのです。
 目的的関係を推理だというのは、目的―手段―客観が相互に媒介されているからです。まず目的があって目的が手段を作りだし、次いで目的と手段が活動をつうじて結合して、目的の実現となるのです。そういう意味で目的は推理の第一前提となっているわけですが、同時にこの目的はそれ自身媒介項になるものだといっています。
 つまり今度はまず手段があり、その手段を生かす目的が媒介項となって客観性と連結して目的が実現される。そういう点からいうと手段―目的―客観性という推理にもなるわけです。いわば道具や機械が新たな労働生産物を生みだす契機となるのです。だから目的は第一前提であると同時にそれ自身媒介項になるものだという言い方をしています。
 ヘーゲルはその目的論を構成する、目的、手段、客観という三つの項を、相互に媒介しあうという関係でとらえています。推理のところでも、普遍、特殊、個別が相互に媒介しあうという関係をみましたが、それと同じように考えているのです。しかし、この点はあまり重要ではないと思います。

肉体と魂

二〇八節補遺 目的の遂行は目的を実現する媒介的な仕方であるが、しかし直接的な実現も同様に必要である。目的は客観を直接的に掴む。なぜなら、目的は客観を支配する力であり、目的のうちには特殊性が、そして特殊性のうちにはまた客観性が含まれているからである。── 生命あるものは肉体を持っており、心は肉体を自己のものとし、そのうちに自己を直接的に客観化している。人間の心は、その肉体を手段とするために、多くのことをしなければならない。人間はその肉体を魂の道具とするために、言わばまずそれを占取しなければならないのである。

 ヘーゲルはまだダーウィンの進化論を知りません。種の進化は考えていませんが、生物の器官が合目的的に発展してきていることを意識しているのです。ほとんど進化論に近いところまで独自に接近しているのではないかと思います。
 「目的の遂行は目的を実現する媒介的な仕方」とありますが、媒介的な仕方というのは、手段を使って目的を実現することです。「しかし直接的な実現も同様に必要である」というので「目的は客観を直接的に掴む」といっていますが、これは生命体を念頭において、生命の内的な目的性が、生命の肉体をその生命体にふさわしく進化させるという意味です。
 「なぜなら、目的は客観を支配する力であり、目的のうちには特殊性が、そして特殊性のうちにはまた客観性が含まれているからである」、つまり目的は客観を支配する力ですから、生命体の内的な目的は、生命体のいわ」ゆるボディ(客観)の部分を支配するのだというのです。「生命あるものは肉体を持っており、心は肉体を自己のものとし、そのうちに自己を直接的に客観化している」。生命体は特殊な環境下で自己保存するのに必要なその目的にしたがって自己の肉体を改造していくといっているのです。動物や植物がその生存にふさわしくその肉体をつくりかえていることを内的目的性としてみているわけで、なかなか面白いと思います。
 人間の場合は「人間の心は、その肉体を手段とするために、多くのことをしなければならない。人間はその肉体を魂の道具とするために、言わばまずそれを占取しなければならないのである」とありますが、肉体を魂の道具にして魂の自由な行動を保障するためには、健康でなくてはならないのです。病気になってしまうと何事も消極的になって、元気がなくなってしまいます。「健康な精神は健康な肉体に宿る」というわけで、それはそれで正しいだろうと思います。

理性の狡智

二〇九節 ⑶ 手段をもってする目的活動はまだ外へ向っている。なぜなら、この場合目的はまだ一面において客観と同一でなく、したがってこれから客観へ媒介されなければならないからである。手段は客観であるから、この第二の前提のうちで、推理のもう一つの端項、すなわち前提されたものとしての客観性、素材と直接的に関係している。この関係は機械的関係および化学的関係の領域であって、それは今や目的に仕えており、その真理および自由な概念が目的なのである。主観的目的は、客観的なものがそのうちで相互に磨滅しあい揚棄しあう諸過程を支配する力として、自分自身はそうした過程の外にありながらしかもそのうちに自己を保持している。これが理性の狡智である。

 ここは「理性の狡智」という有名なところです。手段が作られただけではまだ目的は実現されていません。その意味で「手段をもってする目的活動はまだ外へ向っている」、目的はまだ実現されていないから、まだ外へ向っていることになります。「この場合目的はまだ一面において客観と同一でなく、したがってこれから客観へ媒介されなければならないからである」、つまり目的はまだ客観化され実現されてないから、客観に結びつけられなければならないのです。
 「手段は客観であるから、この第二の前提のうちで、推理のもう一つの端項、すなわち前提されたものとしての客観性、素材と直接的に関係している」。手段も客観であり、また手段が働きかける対象(労働対象、原材料)も客観です。客観としての手段と客観としての素材とが目的のもとにおける活動によって直接的に関係するのですが、この手段と素材との関係は、機械的関係および化学的関係だというのです。客観どおしの働きかけですから、それは機械的な作用であったり、化学的な作用であったりするわけです。その前提が「目的に仕えており、その真理および概念が目的」なのです。つまり手段と素材とを目的にしたがって働かせて目的を実現しようとするところに、目的の真理性があるということです。
 「主観的目的は、客観的なものがそのうちで相互に磨滅しあい揚棄しあう諸過程を支配する力として、自分自身はそうした過程の外にありながらしかもそのうちに自己を保持している。これが理性の狡智である」。この「狡智」とは、ずるがしこい知恵という意味で、イソップ物語ではキツネなんかが狡智の例とされています。どうして主観的目的がずるがしこい知恵かというと、自分は諸過程の外にいながら、客観どおしを働かせて、相互に作用し合わせ、結果的に自分の目的を実現してしまうからです。客観的なものは主観的な目的を持った活動のなかで、相互に磨滅しあい揚棄しあうというのも、労働生産物を考えればわかると思います。手段としての道具や機械は磨滅する、原材料も消耗する、そういう機械や道具、原材料のすべてが揚棄されて、新しい労働生産物の中に生かされることになるわけです。

『資本論』と理性の狡智

二〇九節補遺 理性は有力であるとともに狡智に富んでいる。その狡智がどういう点にあるかと言えば、それは、自分は過程にはいりこまないで、もろもろの客観をそれらの本性にしたがって相互に作用させ働きつかれさせて、しかもただ自分の目的をのみ実現するという、媒介的活動にある。この意味で、神の摂理は世界とその過程とにたいして絶対の狡智として振舞っていると言うことができる。神はさまざまの特殊な激情や関心を持っている人々を好きなようにさせておく。しかしその結果生じてくるものは神の意図の実現であって、それは神が手段として用いている人々が最初求めていたものとは全く別のものである。

 「理性の狡智」はどういう点にあるのかといえば、自分自身は手段としての客観と原材料としての客観との相互の働きの過程のなかには入らないで、客観同士を相互に作用させ、働き疲れさせ、しかも自分の目的だけは実現してしまうところにあります。これは神の摂理が絶対的なものとして振舞っているのに似ている、というのです。神もみんなを好きなようにさせながら、そのなかに神の意図を実現する、これはちょっと観念論者であるヘーゲルらしい言い方です。
 この二〇九節の部分は、マルクスが『資本論』でそのまま引用しているところなので、そこを確認しておきたいと思います。「労働過程の単純な諸契機は、合目的的な活動または労働そのものとその対象とその手段である」(全集㉓a二三五ページ/原書一九三ページ)とあります。労働過程を目的的関係── 労働そのものとその対」象と手段からなる目的的関係── とマルクスはとらえていますが、これはやはりヘーゲルに学んだところです。その少し先には、ヘーゲルの言葉そのままに「労働手段とは、労働者によって彼と労働対象とのあいだに入れられてこの対象への彼の働きかけの導体として彼のために役だつ物またはいろいろな物の複合体である。労働者は、いろいろな物の機械的、物理的、化学的な性質を利用して、それらのものを彼の目的に応じて、ほかのいろいろな物にたいする力手段として作用させる」とあります。労働手段と労働対象との関係を「機械的、物理的、化学的」と呼んでいるのもヘーゲルそのままです。
 そして、注二のところで、今読みました。『小論理学』の二〇四節の補遺をそのまま引用しております。そういう意味でも、この「理性の狡智」は大変有名な箇所です『資本論』のなかで直接引用されている論理学の部分はここだけなのです。

目的の実現は主観と客観との統一の定立

二一〇節 目的の実現はかくして主客の統一の定立である。しかしこの統一は、主観と客観の一面性が中和され揚棄されたという意味でのみ、統一と言いうるのであって、客観は、自由な概念でありしたがって客観を支配する力である目的に、従属し順応させられている。目的は一面的な主観、すなわち特殊なものであるほかに、具体的な普遍、すなわち主客の即自的な同一でもあるから、目的は客観的なものにたいして、また客観的なもののうちで、自己を保存するのである。この普遍は、単に自己へ反省したものとしては、内容であり、これは推理の三つの項およびそれらの運動を通じて常に同一にとどまっている。

 二一〇節では、目的が実現されるとは、主客の統一が定立されることだといっています。主客が統一されるとは、主観の一面性と客観の一面性がともに揚棄されるという意味で、一方では単なる主観が揚棄され、他方では単なる客観が揚棄されて、あるべき姿に変わるといっているわけです。
 詳しくみてみましょう。「客観は、自由な概念でありしたがって客観を支配する力である目的に、従属し順応させられている」とは、客観が、客観のなかから生まれ、客観の支配からのがれ出た自由な概念としての目的に従属しているという、客観から主観への移行をみています。次に「目的は一面的な主観、すなわち特殊なものであるほかに、具体的な普遍、すなわち主客の即自的な同一でもあるから、客観的なもののうちで、自己を保存するのである」とありますが、主観も具体的普遍として、客観として現実化され客観に移行するのです。目的を「自由な概念」といっているのは、客観のもつ必然性(法則性)を認識することによって、自由となることを意味しています。主観たる目的は客観に媒介されている。同時に主観たる目的は、目的を実現することをつうじて客観となる。そういう両面をみることによって、目的の実現は主観と客観の一面性を揚棄するものだといっております。目的・手段・客観という三つの項の運動(推理)をつうじて、目的はその全体に貫かれているといっているのです。

目的の実現の無限の過程

二一一節 しかし有限な合目的性においては、実現された目的でさえ、媒介項や最初の目的がそうであったと同じように、自己のうちに分裂を含んでいる。したがってここに成就されたものは、見出された材料へ外的に加えられた形式にすぎない。そしてこの形式もまた、目的の限られた内容のために、同じく偶然的な規定である。したがって達成された目的は、一つの客観にすぎず、それはまた再び他の目的にたいする手段あるいは材料となる。こうした関係は限りなく続いていく。

 もともと有限な目的として出発した主観的な目的は、実現された客観の中においても、有限な存在でしかないのです。だから達成された目的もまた一つの有限な客観にすぎないのであって、それ自身が他の目的に対する手段、または材料になります。つまり材料が加工されて、一つの製品となるがその製品もまた中間的な材料にすぎず、そういうものが次々と加工されて製品がつくられていくという無限の過程をみているということでしょう。

目的から理念へ

二一二節 しかし目的の実現のうちで即自的に行われていることは、一面的な主観性とそれに対峙して存在している客観的独立性の仮象とが揚棄されるということである。手段を掴むということのうちに、概念は自分が客観の即自的に存在する本質であることを示している。というのは、機械的および化学的過程のうちで客観の独立性はすでに即自的には消失しているのであって、目的に支配されながらそれらが経過していくうちに、かの独立性の仮象、すなわち概念に対立している否定的なものは、揚棄されているからである。しかし実現された目的が単に手段および材料として規定されているということのうちには、この実現された目的である客観もすでに本来空無なもの、単に観念的なものであるということが定立されている。

 目的が実現されたということのなかで無自覚的に行われていることは、一面的な主観性、つまり単なる主観性も、客観は独立しているものだという仮象も、ともに揚棄されることだというのです。客観的独立性の仮象というのは、普通、客観というものを「具体的で自己のうちで完結している独立的なものを理解している」(㊦一七八ページ)とあるように、客観は主観から独立しているものだと思いがちです。しかし、それは仮象にすぎないのであって、客観は主観によって変革さるべき対象でしかないということを「客観的独立性の仮象が揚棄される」といっているわけです。だから、目的が実現されるなかで主観の一面性、客観の一面性のいずれもが揚棄されるのです。
 次の「手段を掴むということのうちに、概念は自分が客観の即自的に存在する本質であることを示している」というのは、客観が手段化されていくことのなかに、客観の独立性は概念の前に否定さるべきことが示されているということです。客観が手段になるということは、客観は概念である目的のもとに否定される存在にすぎないことを示しているのです。
 客観の独立性は、機械的、化学的関係のなかでも、相互に作用しあって、やや消滅しかかっているということがいえるのですが、目的的関係の中で、その客観の独立性の仮象はいっそう明らかになるのです。そして「実現された目的が単に手段および材料として規定されているもとでは、客観もすでに本来空無なもの、単に観念的なものであるということが定立されている」というのは、二一一節のことです。
 客観が手段や材料となって目的が一応実現されたとしても、そういうものも、ある意味では中間製品にすぎないのであって、それもまたあらたな目的のために空無なものとして否定されることになるわけです。

 これとともに内容形式との対立も消失してしまっている。目的は、形式的諸規定の揚棄によって、自己を自己と連結するのであるから、自己同一なものとしての形式は、このことによって内容として定立されており、したがって形式の活動としての概念はただ自己をのみ内容として持つのである。したがってこの過程によって目的の概念であったものが定立され、主客の潜在的な統一は顕在するものとなっている。これが理念(Idee)である。

 この客観の独立性と仮象は、揚棄されることによって「内容と形式との対立も消失してしまっている」というのは、内容たる目的と形式における主客の同一性との対立の消滅です。先ほど外的目的性のところ(二〇五節)で、内容が形式の統体性と異なっている、内容と形式が一致しない、ということをいいました。ところが内的目的においては、潜在していた概念が顕在化して、概念の、主客同一の定立されたものが理念になるのです。つまり、外的目的の中では、まだ目的と、目的が実現されることによる主客の同一の定立とが全然別々のものになっているけれども、内的目的ではそれが一体となり、内的目的が自己自身を顕在化し実現するのです。そういう、いわば概念における主客の同一の定立されたものが理念だといっているのです。ですから理念は内的目的性の最高のものということになるわけです。

絶対的真理と相対的真理

二一二節補遺 目的の有限性は、その実現に際して手段として用いられた材料が外的にのみ目的に包摂され順応させられていることにある。しかし実際には客観は即自的に概念なのであるから、概念が目的としてそのうちに実現されるということは、客観自身の内面の顕現にすぎず、客観性は、言わば、その下に概念がかくされている外被にすぎない。

 目的の有限性というのは、手段として用いられる材料が外的な目的に順応させられることです。順応させられるけれども、実際には客観は即自的な概念なんだというのです。前に客観のところで学びましたが、主観的な概念のあらわれが客観なのです。だから客観というのは即自的には概念ですから、目的の有限性が実現されるというのも、概念が実現されることであって、客観自身の内面の顕現にすぎないというのです。だから有限な目的が実現するということは、客観に外から加えられた変革のようにみえるけれども、それは客観自身の内面の顕現にすぎないので、客観性はその下に概念がかくされている外被にすぎないというわけです。これは、客観自身の中に客観の真にあるべき姿が隠されていて、それが目的をつうじて実現されるにすぎないんだということを意味しているわけです。だから、外的な目的で客観を作り変えようというのは、外から暴力が加えられるようにみえるけれども、客観のなかの真にあるべき姿としての概念が表に出てくるにすぎないのです。客観を作りかえるには、暴力的変革ではなく、合法則的変革が求められているのです。このあたりは、ヘーゲルの合法則的発展の見地があらわれていて、興味深いところです。

 われわれは有限なもののうちでは、目的の真の達成を体験することもみることもできない。したがって無限の目的は、それがまだ達成されていないかのような錯覚を除きさえすれば、達成されるのである。善、絶対の善は世界において永遠に自己を実現しつつあるのであり、したがってそれはすでに即自かつ対自的に達成されていて、われわれを待つ必要はないのである。われわれは右に述べたような錯覚のうちに生活しているのであるが、同時にそれはまた世界における関心がそれにもとづいている活動力でもある。理念自身もその過程においてこうした錯覚を作り出し、自己に他者を対立させる。そして理念の行為はこうした錯覚を揚棄することにある。真理はただこうした誤謬からのみあらわれ出るのであって、この点に誤謬および有限性との和解がある。他在(Anderssein)あるいは誤謬は、それが揚棄されるとき、それ自身真理の必然的なモメントである。真理は、自己を自分自身の成果とすることによってのみ、存在するのである。

 有限な目的を実現するというのも、言いかえれば、客観自身の内面に含まれる真にあるべき姿が実現されることを意味しているわけです。したがって有限な目的の達成を積み重ねることをつうじて、真理が次々と実現されて、無限の目的が達成されていくということを意味しています。つまり、相対的真理を積み重ねていく過程、それ自身が絶対的真理だといっているわけです。ここは、なかなか面白いところです。無限の目的が達成されていないというのは、錯覚にすぎないとありますが、そうやって合法則的に客観を変革し、真理を実現していくことを積み重ねることは、言いかえれば無限の目的が達成されていることなのです。絶対の善とは、プラトンのいう「善のイデア」のことであって究極的な真なるものです。絶対の善というのは、無限の目的であり、絶対的真理ということです。絶対的真理は、われわれが有限な相対的な真理を探求していくなかで実現しつつあるわけで、われわれがそこに到達しえないようなものではないのです。つまり相対的真理を積み重ねていく過程そのものが絶対的真理なんだということです。これは、正しいと思います。
 「われわれは右に述べたような錯覚のうちに生活しているのであるが、それがまた活動力でもある」とありますが、われわれがまだ絶対的真理に到達していないと考えて、相対的真理を積み上げていくところに活動力があるわけです。絶対的真理に到達してしまったと思ってしまうと、そこで活動をやめてしまうわけですから、むしろまだ到達していないという錯覚が活動力を生み出しているのです。「理念の行為はこうした錯覚を揚棄することにある」とありますが、理念を実現するということは、相対的真理を積み上げることによって、絶対的真理を実現していくことなのです。
 「真理はただこうした誤謬からのみあらわれ出る」とありますが、相対的真理というのは相対的誤謬ですから、相対的真理は、言いかえれば相対的誤謬のなかからあらわれるものなのです。「この点に誤謬および有限性との和解がある」といっていますが、この点に真理と誤謬との統一があるのです。「他在あるいは誤謬はそれが揚棄されるとき、それ自身真理の必然的なモメントである」とありますが、相対的誤謬が揚棄されるというのは、もう一歩上の真理に接近するということです。「誤謬は、それが揚棄されるとき」とは、相対的真理がさらに一歩前進するとき、それ自身絶対的真理のモメントになっているのです。絶対的真理というのは、なにか絶対的な目標があって、そこに向かって接近するということではありません。相対的真理を積み重ねる過程自体が絶対的真理をなしているということであって、この点のヘーゲルの理解は正しいだろうと思います。つまり絶対的真理というのは、相対的真理、相対的誤謬からのみあらわれ出るのであって、この点に真理と誤謬との和解があるということでしょう。相対的誤謬は相対的真理と裏腹の関係としてとらえられるときに、絶対的真理の必然的モメントになるということだと思います。


C 理念(Die Idee)

 この理念は、レーニンが『哲学ノート』のなかで「エンチクロペティーの二一三節から二一五節は弁証法のおそらく最良の著述である」といった部分です。レーニンが一番感動して読んだところは、この理念の二一三節から二一五節だということになります。この理念というのはプラトンのイデア論に由来し、かつ、アリストテレスのエネルゲイアと結合したものとして、ヘーゲルはとらえているのです。ヘーゲルはこの理念というものを考えることによって、理想と現実の対立という二元論を克服して、理想と現実の統一を主張した初めての哲学者だということができるだろうと思います。

理念は絶対的真理

二一三節 理念は即自かつ対自的な真理であり、概念と客観性との絶対的な統一である。その観念的な内容は、概念の諸規定にほかならず、その実在的な内容は、概念が外的な定有という形式のうちで自己に与える表現にすぎない。しかも概念はこうした形態を自己の観念性のうちに閉じこめて自分の力のうちに保ち、かくして自己をそのうちに保っているのである。

 理念というのは即自かつ対自的な真理、つまり絶対的な真理です。絶対的な真理であって「概念と客観性との絶対的な統一である」。この場合の概念は主観的概念の意味であり、この主観としての概念が客観性をかちとることによって理念になるのです。
 「その観念的な内容は、概念の諸規定にほかならず」とありますが、その理念の観念的内容は普―特―個の統体性という、概念の諸規定の統一にほかならず、その実在的な内容としては、真にあるべき姿が客観となってあらわれているということです。つまり、普遍としての真にあるべき姿が客観のなかにあらわれ出て特殊化し、客観を真にあるべき姿に変えた個別が、理念なのです。

 絶対者は理念であるという定義は、今やそれ自身絶対的である。これまでのすべての定義は、この定義のうちへ帰ってくる。── 理念は真理である。というのは、真理とは、客観が概念に一致することだからである。真理とは、外的な事物がわたしの表象に対応することではない。それは私という個人が持っている正しい表象にすぎない。理念においては、個人や表象や外的な事物は問題でないのである。── しかしまたあらゆる現実的なものは、それが真実であるかぎり、理念であり、理念を通じて、また理念によってのみ、その真理を持っているのである。個別的な存在は理念のなんらかの一側面であり、したがってそれが存在するためには、そのほかになお、同じく特別に自分だけで存立しているようにみえる他の諸現実が必要である。それらすべてをあわせたもの、およびそれらの関係のうちでのみ、概念は実現されているのである。個別的なものは単独ではその概念に一致しない。個別的なものの定有のこうした制限性がその有限性とその滅亡をなすのである。

 「絶対者は理念である」という、この絶対者とは絶対的真理と理解してよいと思います。絶対的な真理は理念であるという定義は、絶対的に正しいというのです。これまで絶対者は有であるとか、絶対者は本質であるとかいってきましたが、認識の最後(最高)の到達点は理念だというのです。理念を認識することが人間の認識の最高の到達点になるということです。理念は真理です。というのも、真理とは客観が概念に一致することであり、客観が真にあるべき姿に一致することだからです。「真理とは、外的な事物がわたしの表象に対応することではない」といっているのは、狭い意味での反映論の批判です。ヘーゲルは客観的実在を反映した認識を、すべて真理というべきではないといっているのですが、これは、言い過ぎというべきであって、真理ではあるけれども、低いレベルの真理だというべきでしょう。ヘーゲルは正しい表象と真理とを区別するのですが、これにはちょっと疑問があることは前にお話しいたしました。
 「あらゆる現実的なものは、それが真実であるかぎり理念であり、理念を通じて、また理念によってのみ、その真理を持っているのである」というのは『法の哲学』の序文にある「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」ということを念頭におけば分かりやすいと思います。あらゆる現実的なもの、つまり必然性として展開された現実は、理念によってのみその真理をもっている。つまり真理であるからこそ現実となりえているということをいっているのです。「個別的な存在は理念のなんらかの一側面」にすぎないのであり、一面での真理性を有するにすぎません。「個別的なものは単独ではその概念に一致しない」という「制限性がその有限性とその滅亡をなすのである」といっていますが、個別的なものは理念そのものではなく、それは部分的かつ相対的真理を含むにすぎないものですから、そういう意味で有限であり滅亡するのです。これに対して絶対的真理である理念は永遠だといっているわけです。

 概念を単に特定の概念と考えてはならないと同じく、理念そのものを何ものかの理念と考えてはならない。絶対者は普遍的なそして一つの理念である。この一つの理念は、本源的に分化するものとして、規定された諸理念の体系へと特殊化するが、しかしこれらの規定された諸理念は、それらの真理である一つの理念へ帰っていくものにほかならない。理念が最初は一つの普遍的な実体(Substanz)にすぎないが、その発展した真の姿においては主体(Subjekt )として、かくして精神として存在するのは、この本源的分化によるのである。

 「概念を単に特定の概念と考えてはならないと同じく、理念そのものを何かの理念と考えてはならない」とありますが「理念そのもの」とは善のイデア、つまりイデアのなかのイデアのことです。これに対して「何ものかの理念」というのは、個々の理念、イデアです。ヘーゲルは自分が理念そのものといっているのは、善のイデアのことをいっているのであって、個々のイデアのことではないというのです。
 「絶対者は普遍的なそして一つの理念である」というのは、絶対的真理は普遍的な理念、つまり善のイデアだという意味です。「この一つの理念は、本源的に分化するものとして、規定された諸理念の体系へと特殊化するが、しかしこれらの規定された諸理念は、それらの真理である一つの理念へ帰っていく」といっていますが、ここは絶対的真理というのは対立物の統一としての弁証法としてのみ存在するということを述べているのです。最初は未分化な統一体としてあるけれども、認識が深まるにつれて対立するものとしてとらえられ、そして最後にもう一度対立物の統一としての自己を回復するのであって、ヘーゲルがいうところの即自・対自・即対自という弁証法的発展のなかにはじめて事物の絶対的真理があるといっているわけです。
 「理念が最初は一つの普遍的な実体(Substanz)にすぎないが、その発展した真の姿においては主体(Subjekt)として、かくして精神として存在するのは、この本源的分化によるのである」とありますが、主体としての理念をつかむことが重要だというのです。ここでヘーゲルがいっている主体は、自己を否定して他者になりながら、その他者のなかで自己を回復し、自己同一性を保つようなものです。言いかえれば、弁証法的な発展をするそのものです。即自・対自・即対自と発展するものが主体なのです。だから理念というのは主体なのです。
 普遍的な実体、つまりあらゆる有限なものの根底にあるような単なる自己原因にとどまらないで、発展する主体、弁証法的に発展する主体、そこに真理がある、といっています。

 理念はその出発点および支点としてなんら現存在を持っていないから、それはしばしば単なる論理的形式と考えられている。こうした考えは、現存する事物や、その他まだ理念にまで進んでいないあらゆる規定をいわゆる実在、真の現実性と考える立場をとる人々に委せておかなければならない。

 まず理念というものを単なる論理的形式、つまり単に考えられるだけで現実性を持たないというふうに考えて、むしろ現存するものこそ本当に存在するものだと理解する人がいますが、それは違うのであって、理念こそが本当に存在するものなのだ、永遠にしてかつ本当に存在するものなのだというのです。

 ── 理念は抽象的なものにすぎないという考えも、右の立場におとらず誤っている。理念のうちでは、あらゆる真実でないものは絶滅されているから、このかぎりにおいては、それは抽象的であると言える。しかし理念は、自分自身を規定して実在となる自由な概念であるから、理念はそれ自身本質的に具体的である。理念の原理である概念を、その真実の姿において、すなわち自己への否定的な復帰および主体性と解せず抽象的な統一と解するとき、そのときはじめて理念は形式的な抽象物となるのである。

 プラトンのイデア論は、理念(イデア)は抽象的なものにすぎないという考えです。理念は彼岸、つまり向こう岸にあるとプラトンは考えたのですが、アリストテレスはそれを批判したわけです。ヘーゲルもそのアリストテレスのイデア論を引き継いでいるわけですから、理念はけっして抽象的なものではなくて、自分自身を規定して現実となる自由な概念ととらえています。それは「真理は必ず勝利する」といわれるように、真理たる理念は必ず現実となる力をもっているのです。したがってそれは、けっして抽象的ではなくて、本質的に具体的なのです。
 「理念の原理である概念を、その真実の姿において、すなわち自己への否定的な復帰および主体性と解せず、抽象的な統一と解するとき、そのときはじめて理念は形式的な抽象物となるのである」とは── 先ほど理念は主体性だといいましたが── 主体性というのは次々姿を変えながらも自己同一を貫く、そういうものとしてあるわけです。だから、理念を対立物の統一としてではなく、抽象的な統一と理解したら、理念は形式的な抽象物となってしまいます。対立物の統一として矛盾を定立し、かつ定立した矛盾を解決しながら発展するものとしてつかまえなくてはならないのです。
 「善のイデア」を主体的に発展するものとしてとらえているところに、ヘーゲルの偉大さがあるのだろうと思います。

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