『ヘーゲル「小論理学」を読む(下) 』より

 

 

後期第一七講 概念論・理念 Ⅱ

c 理念 ―続き

理念の構成

 前回から概念論の「c理念」というところに入っておりますが、理念の構成について話していなかったので、そこに立ち戻りたいと思います。目次をみていただければ「c理念」というものは、a生命、b認識、c絶対的理念という三つに分かれています。b認識」というのは、さらに「イ認識」「ロ意志」と分かれておりますけれども、中味とすれば認識と実践なのです。それで「a生命」というのが直接的な理念であり「b認識」が媒介された理念であり「c絶対的理念」が媒介をへて再統一された理念だという構成になっております。、
 概念論自体の構成が主観的概念、客観的概念、その統一としての理念となっておりますけれども、主観と客観の統一としての理念そのものも、直接的統一(生命)・媒介(認識)・媒介をへた再統一(絶対的理念)という構成になっております。ですから概念論は、全体としては主観と客観の統一の問題を論じながら、そのなかにおける真理を探求しているといえるんだろうと思います。ヘーゲルはデカルト以来の主観と客観の対立という二元論を克服して、主客同一の一元論に真理を求めたのです。
 前回は、理念は絶対的な真理であり、概念と客観性との絶対的な統一だというところ(二一三節)を検討しました。理念は真理であり、真理というのは主観と客観の統一としてあるんだということだったわけです。これはかねがね言ってきましたように、ヘーゲルは理想と現実の一致したところに真理があると考えるわけで、その理想にあたるのが概念であり、現実にあたるのが客観性になるわけです。その理想と現実が一致したものが真理としての理念であるというところからはじまり、理念というのは弁証法であり、対立物の統一の形式をもつ弁証法のなかに真理があるのだというように展開していくことになるわけです。
 本質論でエネルゲイアとしてのイデアについてお話しました。ヘーゲルは、頭のなかで考えられた「真にあるべき姿」は現実に転化する必然性をもっているととらえて、それを「エネルゲイアとしてのイデア」といっているのですが、理念は現実に転化したものとしてあらわれているわけですから、その理念は同時に主体としてもとらえられるということになってきます。つまり運動するエネルゲイアとして理念をとらえているわけですから、真理は運動しているなかで生まれてくるものであり、運動の中に真理がある、そういう意味で理念を主体としてとらえることになってきます。
 ヘーゲルは、直接的理念を「a生命」という主体性をもったものとしてとらえています。次に媒介的理念とは何かというと、人間の認識と実践ということになるわけで「b認識」の中で述べられています。そして「c絶対的理念」というのは、そういう対立物の統一としての絶対的真理です。ここに到達することによって人間の認識は最高の段階まで到達するのであり、その真理の論理形式が弁証法であるという論理構成になっていると思われます。そういうことを前提に、二一三節の補遺にいきましょう。

真理とは概念と実在との一致

二一三節補遺 真理と言えば、人はまず第一に、或るものがどういう風にあるかを知ることだと思っている。しかしこれは単に意識との関係における真理にすぎず、言いかえれば、形式的な真理、単なる正しさにすぎない。より深い意味における真理は、しかし、客観が概念と同一であることである。例えば真の国家、真の芸術作品と言われる場合、そこで問題になっているのは、こうしたより深い意味の真理である。それらは、それらがあるべきものである場合、すなわち、それらの実在がそれらの概念に一致している場合、真である。

 最初に「真理と言えば、或るものがどういう風にあるかを知ることだと思っている」とありまして、これを「意識との関係における真理」といっています。唯物論の見地から真理とは客観的事実に一致する認識だという場合の真理は、この意味の真理ということになってきます。しかしヘーゲルはこの客観的事実と一致する認識は、まだ「形式的な真理、単なる正しさにすぎない」と考えるわけです。なぜそう考えるのかといいますと、ヘーゲルは客観はまだ有限な存在であって真理を体現したものとはみなしていないからです。だから客観のあるがままの姿を認識するだけでは形式的には正しい、形式的には真理といえるかしれないけれども、それだけではまだ足りないのではないのかというのです。そして「より深い意味における真理」という問題を持ち出して、それは「客観が概念と同一であることである」というのです。つまり客観が真にあるべき姿と同一になったときにはじめて、より深い意味で真理といえるのだといっております。その例として「真の国家、真の芸術作品」ということをあげています。真の国家というのは、国家の概念と国家の実在とが一致する場合です。芸術作品の場合は、芸術の概念と作品とが一致する場合に、真の芸術作品といえるということになります。
 「それらは、それらがあるべきものである場合、すなわち、それらの実在がそれらの概念に一致している場合、真である」といっておりますが「あるべきものである場合」という言い方を、私は「真にあるべき姿」と読みかえています。概念というのは「真にあるべき姿」であって、それが実在と一致している場合に真理だということになります。結局、人間の意識の創造性ないし能動性をヘーゲルは高く評価しているわけです。客観は一面的な存在にすぎず、真理を体現したものではないのであって、人間の意識の作用によって作りかえられることによって、真なるものに転化していくととらえているのです。ですから、人間の意識の創造性を念頭においた真理ということになってくるわけで「変革の立場に立った真理観」といってもいいだろうと思います。

 こう解するとき、真実でないものは、また悪いものと呼ばれているものと同じものである。悪い人間とは、真実でない人間、すなわち人間の概念あるいは人間の使命に合わないような行為をする人間である。

 「真実でないものは、また悪いものと呼ばれているものと同じものである」とありますが「悪い」といっても「真実でない」といってもいいと思います。「ソ連や東欧は真の社会主義国家ではない。悪い社会主義国家である」という場合に、社会主義国家の概念にソ連や東欧の実態ないし実在が一致していないことをもって、そのように評価をしてきたのです。
 では中国はどうなのかということが問題になるわけですが、最近、日中両共産党の関係が改善されまして、日本共産党の綱領では中国も「社会主義をめざす国」だということしかいっていないわけですけれども、それは実質的な内容規定ではなくて、その実態をこれからよく研究して真の社会主義国家なのかどうかを判断するといっています。「まったく白紙の状態でのぞむ」といっておりますが、それも社会主義国家の概念に照らしてどういう実態か、真の社会主義国家といえるのか、それを判断しようというわけで、いわば概念と実在との関係をみていくことになるわけです。
 「悪い人間とは、真実でない人間、すなわち人間の概念あるいは人間の使命に合わないような行為をする人間である」とありますが、たとえば「あいつは人間じゃないよ」という言い方をする場合があります。これは、「人間の概念には一致しない」「人間の概念とは相反するような実態をもっている」ということです。

 もっとも、概念と実在との同一を全く欠くときは、何ものも存立することはできない。悪しきものおよび真実でないものさえ、その実在がなんらかの点でその概念に適合しているかぎりにおいてのみ存在する。全く悪しきもの、あるいは全く概念に反するものは、まさにそのゆえに内的に破滅しつつあるものである。

 概念にまったく適合しないようなものは「内的に破滅しつつあるもの」とありますが、実在はしていてもそれは内容においておよそ存在しているとはいえないようなものなのです。人間としての概念を一かけらももっていないような人を「人間じゃないよ」というわけです。人間が人間であるかぎり、少なくとも真にあるべき人間の幾らかのかけらをもっているわけで、それがまったくないと、もう人間ではなくなってしまうのです。

 世界の諸事物が存立するのはただ概念によるのであって、これを宗教的に言いあらわせば、事物はただそれに内在している神的な、したがって創造的な思想によってのみ現にあるようなものなのである。── 理念と言うとき、それを何か遠いもの、彼岸的なものと考えてはならない。理念は全く現在的なものであり、またどんなに曇らされ歪められた意識のうちにも見出だされるものである。── われわれは世界を、神によって創られ、しかも神がそのうちに自己を啓示している、一つの大きな全体と考えている。同じくまたわれわれは、世界は神の摂理によって支配されていると考えている。この考えのうちには、世界の個々別々のものが、そこからそれらが出現してきた統一へ不断に還元され、この統一に適合させられているということが含まれている。

 宗教的にいいあらわすと、神の摂理によって世界が支配されているということになりますが、それをヘーゲル哲学の用語でいうと、概念に適合するかぎりにおいてのみ世界の諸事物が存在するという言い方になるわけです。この辺は観念論的な口調になっているわけですけれども、世界を理念のあらわれとしてみることによって、いわば世界の統一性とか、法則性をみている点では評価しうると思います。前にヘーゲルの観念論は、当時の自然科学における認識の制約からきているところがかなりある、といいました。理念を神の摂理だといいながらも、実際には世界の統一性とそのなかにおける法則性をみようとしているところは、評価できる点だと思います。
「この考えのうちには、世界の個々別々のものが、そこからそれらが出現してきた統一へ不断に還元され、この統一に適合させられているということが含まれている」といっていますが、世界の個々のものが勝手にバラバラに動いているのではなくて、一つの大きな法則性のもとに動いている、その法則性がヘーゲルにいわせれば概念であり理念ですから、その点は唯物論的な見地も含まれているということになります。

 ── 哲学の目的は、昔から今にいたるまで、理念を思惟によって認識するということ以外にはなかった。そして哲学の名に値するすべてのものは、悟性が別々のものとのみ考えているものの絶対的統一の意識を根柢に持っていた。

 つまり哲学の目的は、真理としての理念を認識するところにあり、世界の根本法則を探ろうとしているわけです。世界の根本原理は何なのか、世界の諸現象を統一的な原理に還元しうるのではないのかといろいろ模索してきて、それを理念という言葉でとらえたのです。ですから哲学の目的は理念を認識することにあるといっています。

 ── 人は理念が真理であるということの証明をここではじめて要求してはならない。これまでに遂行された思惟の全発展がこの証明を含んでいるのである。理念はこの経過の結果である。もっとも、こう言ったからとて、理念を単に媒介されたもの、すなわち自分以外のものによって媒介されたものと考えてはならない。理念は自分自身の結果であり、したがって媒介されたものであると同時に、また直接的なものでもある。

 『小論理学』上巻の一八ページを開いて下さい。「聴講者に対するヘーゲルの挨拶」というところで、おわりから五行目から読ん下さい。
 

 まだ健全さを失わない心は、なお真理を要求する勇気を持っている。そして真理の国こそ、哲学の故国であり、哲学がうちたてた国、そしてわれわれが哲学を研究することによってその国の一員となりうる国である。人生において真実なもの、偉大なもの、神的なものは、理念によってそうなのである。哲学の目標はこの理念をその真の姿と普遍性において把握することである。自然は理性をただ必然性をもって実現するように拘束されているが、しかし精神の国は自由の国である。人間の生活を統一するすべてのもの、価値あり意義あるすべてのものは、精神的なものであり、そしてこの精神の国はただ真理と法の意識を通じてのみ理念の把握を通じてのみ存在するのである。

 先ほど読んだところに、哲学の目的は理念を認識するところにあるとありますが、この文章と重ねて読み合わすと、ヘーゲルの考えていることが分かりやすくなると思います。ヘーゲルは自然、つまり客観世界の法則を認識するだけでは、まだ真理を認識したとはいえないと考えています。今読んだ文章との関連でいいますと「自然は理性をただ必然性をもって実現するように拘束されている」とあります。これは、自然は法則性をもっているが、それを認識するということはまだ自然に束縛されているにとどまるのであって、理念を認識するという自由な精神の働きによって、客観の法則をのりこえて真にあるべき姿としての理念を認識することができるととらえているのです。
 だからヘーゲルは唯物論的にものごとをみているわけで、客観世界における法則性を認識することを否定しているわけではなくて、それはそれで当然必要なことなんだけれども、それはある意味で真理の第一歩にすぎないのであって、それだけでは足りないというのです。客観世界における法則性を認識すると同時に、それを超えて真にあるべき姿を精神の自由な働きとしてとらえるところに人間の意識の創造性があり、偉大さがあるのです。このようにとらえて、哲学の目的は理念を認識することにあるんだとして、こういう文章につながっていっているわけです。
 もう一度、二一一ページに戻りますが「人は理念が真理であるということの証明をここではじめて要求してはならない。これまでに遂行された思惟の全発展がこの証明を含んでいるのである」といっています。だから理念というのは真にあるべき姿なのですが、なぜそれが真理なのかというと「これまでに遂行された思惟の全発展」のうえにたつ認識だからです。つまり、これまで有論や本質論をつうじて客観世界における法則性を認識してきましたが、そのうえに立って、主観的なものとしての、つまり人間の精神の働きとしての理念をとらえているのです。ここにヘーゲルの唯物論的な理解が含まれていると思われます。
 「理念はこの経過の結果である」、ここが大事なのです。有論、本質論をへて概念論に至ってはじめて理念に到達するのです。つまり客観法則を認識したうえで、その客観の有限性をのりこえる精神の働きとして理念がつかまれるのです。「もっとも、こう言ったからとて、理念を単に媒介されたもの、すなわち自分以外のものによって媒介されたものと考えてはならない」とは、理念を客観に単に媒介されたものとして考えてはならないという意味です。確かに理念は客観に媒介されているけれども、同時に直接的なものなのです。ここが面白いところです。理念というものは、いわば直接性と媒介性の統一としてあるのです。客観に媒介されながら客観から切りはなされた直接的なもの、主観の直接の産物として存在するのだといっているわけです。真にあるべき姿は、客観の法則性に媒介されなかったら生まれてきません。しかし、客観の法則性を認識するだけで真にあるべき姿をつかめるかというとそうはいかないのです。客観を否定さるべきものとしてとらえ、その否定のうえにたってはじめて、人間の主観の働きとしての肯定的なものである「真にあるべき姿」がとらえられるのです。その意味で理念は媒介されていると同時に、直接的なものだという言い方をしております。

 これまで考察してきた諸段階、すなわち有と本質、および概念と客観性は、そうした区別の相においてあるとき、不変なもの、自主的なものではなく、弁証法的なものであり、それらの真理はただ理念のモメントであるということにあるのである。

 有と本質、概念と客観性の弁証法的な発展のなかで真理としての理念が生まれてくるということをいっているのです。

理念はそれ自身弁証法

二一四節 理念は、これをさまざまの仕方で理解することができる。それは理性であり(これが理性の本当の哲学的意味である)、さらに主観客観であり、観念的なものと実在的なもの有限なものと無限なもの魂と肉体との統一であり、その現実性をそれ自身において持っている可能性であり、その本性が現存するものとしてのみ理解されうるものである。等々。なぜなら、理念のうちには悟性の相関のすべてが、無限の自己復帰と自己同一とにおいてではあるが、含まれているからである。

 「理念はさまざまの仕方で理解することができる」と、いろいろな例が出ておりますけど、まず「それは理性であり」、理念は理性であるというのです。「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という『法の哲学』序文の言葉における理性は、理念なのです。それから、それ以降の例は、理念というのは真理ですから、概念と客観の統一というふうにとらえられてきましたが、もっと広くいうならば、すべての対立物の統一から生まれる真理として理念をとらえるべきであり、そこに認識の真理があるという意味なのです。
 「主観即客観であり、観念的なものと実在的なもの、有限なものと無限なもの、魂と肉体との統一」というのは、すべて対立物の統一という意味です。「現実性をそれ自身において持っている可能性」とは、現実性と可能性の統一という意味ですが、これがエネルゲイアとしてのイデアのことです。エネルゲイアとしてのイデアは単なる可能性ではなく、可能性であると同時に現実性なのです。なぜ理念は対立物の統一としてとらえるべきなのかというと、理念のうちには「悟性の相関のすべて、つまりあらゆる相関の真理は、対立物の統一にあるから」です。
 二一三節の本文のなかで理念は単なる実体ではなくて、主体だということが出てきました。つまりそれは運動するものです。すべてのものを運動・変化・発展するものとしてとらえるところに真理があるとみるわけで、それが弁証法ということなのです。だから理念の内には、矛盾とその矛盾を止揚した統一が含まれているということです。このことをさらに展開して述べていますので、その次を読んでみましょう。

 理念について言われるすべてのことが自己矛盾であることを示すのは、悟性にとってはわけのないことである。悟性にたいしても同じことをすることができる、というより、それはすでに理念のうちでなしとげられている。これは理性の仕事であって、もちろん悟性の仕事ほど容易ではないが。── 悟性が理念の自己矛盾を指摘しようとして、例えば、主観的なものは単に主観的であって、客観的なものはむしろそれに対立しているとか、存在は概念とは全く別なものであり、したがって概念から取り出すことのできないものであるとか、あるいはまた有限なものはあくまで有限であってまさに無限の反対であるから、有限なものは無限なものと同一ではない、という風に、あらゆる規定を通じてその理由を挙げるとすれば、論理学はそれと正反対のことを指摘するものである。

 理念の中には自己矛盾があると指摘して批判するのは「悟性にとってはわけのないことである」とありますが、この場合の悟性は形式論理学のことです。形式論理学からすれば、理性というものは自己矛盾のかたまりであって、こんなものは間違っているということになります。ですから形式論理学は理念の自己矛盾を指摘して、主観的なものは単に主観的であって客観的なものではないとか、存在は存在であって概念ではないとか、有限は有限であって無限ではないとか、こういうことをあげつらうのですが、論理学はそれとは正反対のことを指摘するというのです。つまり論理学において正しい真理を認識しようとした場合、一面的な形式論理学のとらえ方では真理をとらえることはできないのであって、対立物の統一という弁証法によってものごとをとらえる、自己矛盾においてものごとをとらえる。これが真理を認識することになるのだといっているわけです。

 すなわちそれは、単に主観的であるにすぎないような主観的なもの、単に無限でなければならないような無限なもの、等々はなんらの真理をも持たず、自己に矛盾し、その反対のものへ移っていくことを示し、そしてこのことによってこの移行と、二つの端項を揚棄されたもの、仮象、モメントとして含んでいる統一とこそ、それらの真理であることを明かにするのである。

 弁証法とは、まずあるものを肯定的なものとしてとらえることからはじまるわけです。そこから出発しながら、肯定的なもののなかに否定的なものをみいだして、その肯定と否定の矛盾をとらえ、ついで肯定と否定の矛盾をのりこえる、あるいは矛盾を揚棄することによって真理に一歩前進するという運動そのものを説明するのです。まず「自己に矛盾しその反対のものへ移っていくことを示し」というのは、肯定的なもののなかに、否定をみいだすということです。肯定的なもののなかに否定をみいだし、この肯定と否定との二つの端項を揚棄して、その二つの端項をモメントとして含んでいる統一にこそ真理があるとするのです。だから弁証法的にものごとを揚棄するという場合の「揚棄」という言葉は、ドイツ語のAufhebenで、否定すると保存するの両方の意味が含、まれています。それがモメントとして含んでいる統一という意味です。このことは「予備概念」七九節でも説明しました。
 「論理的なものは形式上三つの側面を持っている」というので、第一が悟性的側面、二つ目が否定的理性の側面、三つ目が肯定的理性の側面としています。ものごとを認識するというのは悟性的側面から出発し、そのなかにおける否定的な側面を認識し、そして悟性的側面と否定的側面の矛盾を揚棄したものとして肯定的理性の側面を認識する。これが弁証法なんだというのです。このことをヘーゲルは別な言葉で、即自、対自、即対自という言い方をしたり、あるいは即自的な統一から対立に移行し、もう一度再統一を回復するといういい方をすることもあります。具体的な例で話しますと、今度の選挙で問題になった消費税ですが、まず消費税(九八年参院選)五%が悟性的な側面としてあるわけです。しかし、そのなかに否定的な理性の側面をみるというのは、五%の消費税こそ不況の原因になったという、否定としてみるわけです。ではどうしたらよいのかという肯定的理性の問題として、消費税はさしあたって三%に戻しなさいということになるのです。もともと認識するというのは、すべてまずそのものをそのものとして認識する、これが悟性的な側面です。次にそれの否定的側面を認識する。そのことをつうじて真にあるべき姿、理念を認識することになるわけで、それが肯定的理性です。理念は、最後の肯定的理性として出てくるわけで、矛盾の揚棄としてあらわれてくるものこそ、真にあるべき姿なのです。真にあるべき姿であり、それが真理だということになってくるわけです。

形式論理学は理念を二重に誤解する

 悟性が理念を取扱うとき、それは二重の誤解をする。第一に、理念の二つの端項は、それらがどう表現されようと、とにかく統一のうちにあるのであるが、悟性はそれらを具体的統一のうちになく、具体的統一の外にある抽象的なものと考える。それは、関係が明白に定立されている場合でさえ、それを看過するのであって、例えばそれは、個別的な主語について、個は同時に個ではなくて、普遍であることを述べている判断のコプラの本性さえ見落している。

 悟性つまり形式論理学が対立物の統一をとらえるとき、その統一というものを「具体的統一の外にある抽象的なものと考え」ます。この対立するものを、いわば併存するかたちで、調和的に対立するものが存在しているというように考え、矛盾としてとらえないのです。対立するもののなかにおける矛盾をみないで、対立するものは単に併存する、調和的に存在しているという抽象的なものとしてしかとらえないのです。たとえば「個は普遍である」という判断があります。コプラというのは「繋辞」のことです。この場合「である」というのがコプラですが「個は普遍である」という判断の「である」というコプラは、異なったものを同一としていいあらわすものです。個と普遍という本来は異なるものを、同一だといいあらわすわけで、そこには非同一の同一性という対立物の統一があるわけです。そういう本性を形式論理学では見失っていて、形式論理学は「個は普遍である」というなかに矛盾をみようとしないといっています。

 ── 第二に悟性は、自己同一な理念が自己の否定、矛盾を含んでいるという自分の反省を、理念そのものとは無関係な外的な反省と考えている。実際にはしかし、このことは悟性に特有な智慧ではなく、理念はそれ自身弁証法であって、自己同一なものを多様なものから、主観的なものを客観的なものから、魂を肉体から不断に分離区別し、ただこの限りにおいてのみ永遠の創造、永遠の生動、永遠の精神なのである。

 「第二に悟性は」矛盾を含んでいることを「理念そのものとは無関係な外的な反省と考えている」というのは、矛盾が客観のなかに存在しているとみないで、単に頭のなかの論理的な矛盾としてしか考えてないという意味です。しかし「理念はそれ自身弁証法」とあるように、この理念における矛盾は、まさに客観のなかにおける矛盾なんであって、そのかぎりにおいてこの矛盾は客観世界そのものを動かす「永遠の創造、永遠の生動、永遠の精神」なのです。この客観の矛盾が人間の認識に反映することによって認識の面における矛盾が生まれてくるのです。

 したがって理念は、それ自身抽象的悟性への移行、あるいはむしろ転化でありながら、同時に永遠に理性である。理念は弁証法であって、こうした悟性的なもの、区別されたものにその本性とその独立性の誤った仮象とを自覚させ、そしてそれを統一へ復帰させるのである。この二重の運動は時間的でもなければ、またいかなる点でも分離され区別されていないのであるから── もしそうであったら、理念は再び抽象的悟性にすぎないであろう── 理念は他のもののうちで永遠に自分自身を直観するものである。すなわち、その客観性のうちで自分自身を実現している概念であり、内的な目的性、本質的な主観性であるところの客観である。

 「理念は弁証法であって」「悟性的なもの、区別されたものにその本性とその独立性の誤った仮象とを自覚させ、そしてそれを統一へと復帰させる」というのは、まず、肯定的側面のなかに否定的側面を認識します。それが「区別されたもの」ということです。さらにその「区別されたもの」を統一へ回復させる。このように対立物を止揚された統一としてとらえるのが、理念の弁証法なのです。「この二重の運動」というのは、まず統一から。区別へ、そして区別から再統一へという運動のことをいっているのです。
 この二重の運動のなかで理念は「自分自身を直観する」とありますが、二重の運動という弁証法をつうじて、理念は自分自身が真理であるということを理解するのです。すなわち「その客観性のうちで自分自身を実現している概念であり、内的な目的性、本質的な主観性であるところの客観である」とありますが、理念は内的目的性として客観のなかに自己を実現する概念として、「他のもの」である客観のなかに自分自身の姿を直視するのです。

 観念的なものと実在的なものとの統一とか、有限なもの無限なものとの統一とか、同一と差別との統一、等々というような、理念をとらえるさまざまの仕方は、多かれ少かれ形式的である。それらは規定された概念のどれか一つの段階を示すにすぎないからである。ただ概念そのものだけが自由で真の普遍である。したがって理念においては、概念の規定態は同時に概念そのものにほかならない。

 理念は「観念的なものと実在的なもの」「有限なものと無限なもの」とかの、さまざまな対立物の統一として」とらえることができますが、こうしたとらえ方は、概念の規定された姿における対立物の統一であって、形式的な理念にすぎません。理念というのは、そもそも概念そのものにおける主観と客観の統一としてとらえるべきなのです。こういう有限なものと無限なものとか、同一と差別とか、そういうとらえ方は、概念の一つの規定された段階を示すにすぎないのです。
 「概念そのものだけが自由で真の普遍である」とありますが、主観と客観の統一を実現した概念そのものが理念であり、主観からも客観からも自由な真の普遍なのです。

 すなわち、普遍的なものとしての概念がそのうちへ連続し、概念がそのうちでただ自分自身の規定態、統体的な規定態を持っているような客観性である。理念は二つの側面の各々が独立の全体をなしながらも、同時にまさにこうした全体へ完成されることによって、他の側面へ移行しているような無限判断である。

 普遍的な概念が、その規定態に移行するというのは、言いかえれば主観としての概念が客観性をもつに至るということです。「理念は二つの側面の各々が独立の全体をなしながらも」というのは、主観的な概念とその規定態としての客観、この二つの側面が独立しながらも同時にまたそれが再統一された全体に完成されることであり、それが理念だというのです。理念は概念と客観の統一としてあるわけですから、まず普遍的な主観的なものとしての概念があり、それが概念の規定態としての客観性に移行し、そしてその概念と客観の統一としての理念となる。その理念(客観)から再びあらたな主観的な概念が生まれ、客観性に移行していくということを繰り返していくわけです。つまり、人間の認識と実践を相互に繰り返していくことをつうじて無限に真理性を高めていくことを「無限判断」といっているのです。

 ただ概念そのものおよび客観性のみがこうした二つの側面において完成された全体であって、他のいかなる規定された概念もそうではないのである。

 概念そのものが理念だといっているわけです。「そういう二つの側面において完成された全体」としての理念つまり、客観の統一としての理念こそ真理だということであって、そこに至るまでの有限と無限の統一とか、同一と差別の統一などは一定の真理ではあっても、絶対的真理ではないということをいっています。

理念は本質的に過程

二一五節 理念は本質的に過程である。なぜなら、理念の同一性は、それが絶対の否定性であり、したがって弁証法的であるかぎりにおいてのみ、概念の絶対かつ自由な同一性であるからである。理念は、単一性である普遍性としての概念がまず自己を規定して客観性、すなわち普遍性の反対物となり、次に、概念を実体として持っているこの外面性が、それに内在する弁証法を通じて、主観性へ復帰するという経過である。

 「理念は本質的に過程である」とは、弁証法的な過程であるということです。肯定・否定・否定の否定という過程をつうじて、理念が発展していくということです。理念というものは、その理念の弁証法的な過程全体をつうじて概念の自己同一性が貫かれているのです。理念は、まず主観的概念、普遍性としての概念が自己を規定して客観となり、その客観が否定の否定で主観に復帰し、さらにそれが客観となるという過程を無限に繰りかえしていくことをつうじて「真にあるべき姿」としての概念が「真にあるべき姿」という自己同一性を貫きつつ研ぎすまされていくのです。つまり、相対的真理を無限に積み重ねて客観的真理へ向かって前進していくのです。

 理念は過程であるから、絶対者を有限と無限、思惟と存在、等々の統一として言いあらわすのは、しばしば注意したように、誤である。というのは、統一という言葉は、静止した抽象的な同一を表現するからである。

 だから、理念を対立物の統一というだけではまだ十分ではありません。統一という言葉は、静止した抽象的な同一を表現する言葉でもあって、そのなかには運動がないからです。では、それに代わるよい言葉があるかというと、なかなかないわけですから、結局は対立物の統一とか、同一とかいうしかないということになるのです。

 また理念は主体性であるから、この点から言っても、右の表現は誤である。なぜなら右の統一は、真の統一の未発展な姿実体的なものを表現するからである。そこでは無限なものは有限なものと、主観的なものは客観的なものと、思惟は存在と、単に中和されたものとしてあらわれている。ところが理念の否定的統一、においては、無限なものは有限なものを、思惟は存在を、主観性は客観性を、包括しているのである。理念の統一は主観性であり、思惟であり、無限である。

 統一という言葉は、静止した抽象的な同一を表現しているからあいまいだというふうに言いましたが、さらに理念は主体性ですから、統一というのもまちがいだというのです。主体性というのをどういう意味で使っているかといいますと、矛盾を含んで運動するものという意味です。だから「右の統一は、真の統一の未発展な姿実体的なものを表現」していて、運動する、発展する姿を示していないから誤りだというのです。この統一という言葉のなかでは、有限なものと無限なもの、主観的なものと客観的なもの、等々が単に中和されたものとしてあらわれていて、それが運動するものとしてとらえられていないのです。
 運動するものとしてとらえようとすると「無限なものは有限なものを、思惟は存在を、主観性は客観性を包括している、つまり内部に矛盾をもっているととらえなければなりません。無限なもののなかに無限なもの」を否定する有限なものを含んでいる、思惟のなかに思惟を否定する存在を含んでいる、主観性のなかに主観性を否定する客観性を含んでいるととらえないと、そこに運動をみることはできないというのです。理念の統一というのは、運動を含まない、静止的な実体の概念から区別されなければならないのです。

 この点から言って、それは、包括的な主観性、思惟、無限が一面的な主観性、一面的な思惟、一面的な無限── これらは前者の分化、特殊化によって生じたものである── から区別されなければならないと同じく、実体としての理念から区別されなければならないものである。

 包括的な主観性、思惟などが一面的な主観性、一面的な思惟から区別されなければならないとありますが、包括的な主観性というのは客観性を含んだ主観性です。自己内に矛盾をもつ、自己の内部にその否定性をもつものです。そういう包括的なもの、自己の内部に自己を否定するものをみいだすことが、理念を主体性としてとらえることになるのです。この場合、実体としての理念と主体としての理念を区別しています。実体としての理念は、動かないものとしての理念であるのに対して、主体としての理念は運動・変化・発展する理念、そういう理念を区別しなければならないのです。

理念の三つの過程

二一五節補 理念は、過程として、その発展において三つの段階を通過する。理念の最初の形態は生命、すなわち直接性の形態のうちにある理念である。第二の形態は媒介あるいは差別の形態であって、これが認識としての理念である。そしてこれは、理論的理念および実践的理念という二つの形態をとってあらわれる。認識の過程は、その結果として、区別によって豊富にされた統一を回復するが、これが理念の第三の形態、すなわち絶対的理念である。そしてこの理論的過程の最後の段階である絶対的理念は、最後の段階であると同時に真の始源であり、ひたすら自分自身によって存在するものである。

 理念は生命・認識・絶対的理念の三つに分かれます。生命とは、主体としての理念・直接性の形態のうちにある理念であり、認識というのは媒介、あるいは差別の形態の理念だといっていますけれども、主体と客観との媒介をみています。絶対的理念というのは、媒介をへて豊かになり統一を回復した主体をみているわけです。客観を内に含む主体といってもよいと思います。この絶対的理念は認識の最後の段階になるわけで、これを認識することによって、真理を認識したいという哲学の目的は最後の到達点に至るのです。この絶対的理念は絶対的真理と理解していいと思います。


a 生命(Das Leben)

生命は主体

二一六節 直接的な理念は生命である。ここでは概念は魂として肉体のうちに実現されている。魂は第一に肉体という外面的なものの、直接に自己へ関係している普遍性であるが、第二にはまた肉体の特殊化でもあって、そのために肉体は概念規定が肉体に即して表現する以外のいかなる区別をも表現していない。最後にそれは無限の否定性としてである。

 理念の最初の形態は生命です。この生命という言葉でヘーゲルは有機的な一体性と発展性をもつ主体を念頭においているわけで、生物はもちろんのこと、社会とか民族とか国家とか、政党や労働組合なども一つの有機的一体性と発展性をもつものとして生命としてとらえています。かなり広い概念として使っているのです。『資本論』でも資本を有機体ととらえて、資本の自己増殖する過程を分析しています。
 生命は、大きく肉体と精神(魂)とに分けられます。つまり魂をもって、その魂を貫きとおしながら肉体を発展させていく過程をみているわけで、いうなれば「エネルゲイアとしてのイデア」なのです。魂としてイデアをもちながら、それが肉体として現実にどんどん発展していくようなものをとらえているわけで、別な言葉でいうと、萌芽からの発展です。木の種は、そのなかに魂としての木の概念をもっていて、その概念をだんだん顕在化していく。根を張り、芽を出し、葉を出し、幹を太らしてやがて木になっていきます。だからヘーゲルはこの生命というなかで、肉体と魂の関係をみています。「概念は魂として肉体のうちに実現されている」とありますが生命体の魂は、それがもつ概念、理念、真にあるべき姿、その内的目的性として存在しているのです。
 魂と肉体の関係ですが、第一に魂は肉体を規定します。生物はその理念、内的目的つまり種の目的にふさわしい体をもっているわけです。魂が肉体を規定します。第二に、今度は肉体が魂を規定するという側面です。魂は肉体の特殊化であるといっていますが、肉体が魂を規定します。そして最後には「無限の否定性として個である」といっていますが、魂と肉体の相互の無限の否定性をつうじて、主体というものが存在するのだといっています。つまり、魂は肉体に、肉体は魂にという相互作用が無限に繰りかえされるなかで主体が確立される。それが個なのであるということです。

 すなわちそれは、独立の存立という仮象から主観性へ復帰させられた肉体の諸部分の弁証法であり、したがってあらゆる部分は、相互に一時的な手段であると同時に、一時的な目的でもある。

 肉体の諸部分というのはすべて魂のあらわれなのです。その意味で、肉体のあらゆる部分は、相互に理念たる魂の一時的な手段であると同時に、一時的な目的でもある。魂を実現したものとしてあるのです。内的目的にしたがって、肉体のいろいろな部分が作られていくのだと述べています。

 かくして生命は、最初の特殊化であるとともに、最後には否定的な向自有する統一となり、弁証法的なものとしての肉体性のうちでただ自分自身とのみ連結する。

 生命を「最初の特殊化」といっていますが、生命は理念の最初の特殊化としての主体であって、それは魂と肉体の相互の無限の否定をつうじて、魂と肉体が完全に一致する、そういう統一体になってくるのです。それが「否定的な向自有する統一」ということです。この生命と肉体が完全に一致する統一とは何かというと、これは「類」です。個々の生命体の魂と肉体とはいつまでも統一してはいません。肉体はいずれなくなってしまいます。しかし類においては、いつまでも肉体である類的生命と魂である内的目的性とは統一しているのです。

 ── このように、生命は本質的に生命あるものであり、またその直接性にしたがって、生命ある個体である。有限性はここでは、理念が直接的であるために、魂と肉体とが分離しうるという規定を持っている。そしてこの分離の可能が、生命あるものの可死性をなしているのである。しかし魂と肉体という理念の二つの側面が異った構成要素であるのは、生命あるものが死んでいるかぎりにおいてのみである。

 生命体を個体としてみているわけです。その個体はすべて有限な存在です。有限性とは、魂と肉体とが分離しうるということです。つまり肉体が滅びてしまうということです。そしてこの魂と肉体が分離するということは、生命あるものが死んでしまうことを意味しています。そこに個体の有限性をみているわけです。たしかに生命体は魂と肉体とが結びついているのですが、個体はその結びつきが一時的な結合に過ぎない。だからこれは有限なのだといっているのです。

生命は概念そのもの

二一六節補遺 肉体の個々の分肢は、その統一によってのみ、また統一との関係においてのみ、それらがあるところのものである。例えば、身体から切りはなされた手は、すでにアリストテレスも言っているように、名の上でのみ手であるにすぎず、事実においてはそうでない。

 肉体の個々の分肢は、魂のあらわれとして統一体として存在しているわけですから、切りはなされると肉体ではあるけれど、魂でなくなる、つまり内的目的性を失います。だから体から切りはなされた手は、名前のうえだけの手であって実際はそうではないということです。

 ── 悟性の立場からすれば、生命は常に神秘的なもの、およそ概念的に把握しがたいものと考えられている。しかしこのことによって、悟性は自分自身の有限性と空無性とを告白するにすぎない。実際においては、生命はけっして概念的に把握しがたいものではなく、生命においてわれわれが目前に持っているのは、概念そのものなのであり、もっとはっきり言えば、概念として現存している直接的な理念なのである。

 悟性の立場からすると生命は神秘的であるというけれども、そうではない、生命というのは概念そのものなのだというのです。つまり真にあるべき姿をうちに秘めていて、それをだんだん自分の肉体をつうじて顕在化させていくものなのです。
 資本の場合でも、いかなる資本なのかという内的目的性をもっています。自動車をつくるのか、ビルを建てるのか、商品を卸し売りするのか、全部内的目的性をもっているわけです。それを顕在化していくために、資本の場合であれば、一つの会社組織を作って生産部門から営業部門、人事部門などいろいろな部門(部署)をもっており、その目的にふさわしい組織を作りあげていくことになります。ですから、生命というのは概念そのものということです。

 もっとも、このことによって同時に生命の欠陥もまた言いあらわされている。その欠陥は、ここではまだ概念と実在とが本当に合致していない点にある。生命の概念は魂であるが、この概念はその実在性として肉体を持っている。魂は、言わば、その肉体性という型のうちへ注ぎこまれているのであって、したがってせいぜい感じるものにすぎず、まだ自由な向自有ではない。そこで生命の過程は、生命がまだそのうちに捕えられているところの直接態を克服することにある。そしてそれ自身再び三つの過程から成っているこの過程は、その結果として、判断の形態のうちにある理念、すなわち認識としての理念を持っている。

 生命の過程は、まず個体から出発します。個体においては概念と実在、つまり魂と肉体とが本当に合致していないわけです。合致していないから肉体を失って死んでしまう。そういうものから概念と実在とが本当に一致するという過程に前進して、類となるのです。そのような過程を生命というカテゴリーのなかで見出していきます。
 最後に概念と実在とが完全に一致したものとして、こんどは第二段階の認識の問題に入っていくというのです。

生命あるものの三つの過程

二一七節 生命あるものは推理であり、その推理の諸モメントもそれ自身体系であり推理である(一九八、二〇一、二〇七節)。しかしこれらの推理は、活動的な推理であり、過程であって、生命あるものの主体的統一のうちにあって単一の過程をなしている。かくして生命あるものは、三つの過程を経過するところの自己を自己と連結する過程である。

 推理は、三つのモメントをつないで一つの統一体にするものです。生命体における三つのモメントは、魂と肉体と外界です。まず魂と肉体とが一つに結びついて、これは主体になっています。次に主体との関係では、外界がいわば客観になっているわけです。そういう三つのものがつながっているのが生命なのだといっています。

第一の過程─生命体内部の過程

二一八節 ⑴ 第一の過程は、生命あるものの内部で行われる過程である。そこで生命あるものは自分自身のうちで分裂し、その肉体性を客観、すなわち無機的自然とする。相対的に外的なものとしてのこの肉体性は、それ自身、区別や対立を持つ諸モメントにわかれ、それらは互に他のために自己を犠牲とし、自己のために他を同化し、自分自身を生産しながら自己を保持する。しかし諸分肢のこうした活動は、その主体性の単一の活動にすぎず、諸分肢の諸産物は主体の単一の活動へ帰っていくから、これら諸産物のうちで生産されるものは、主体にほかならない。言いかえれば、主体はただ自己をのみ再生産するのである。

 生命あるものは自分自身のうちで、主観と客観に、つまり魂と肉体とに分裂します。魂と肉体に分裂して、肉体はその内的目的、魂にしたがっていろいろな諸モメントに分けられるといっています。これは生命体でいえば、手足や内臓などの器官にあたります。資本では、法人内における部とか課がそれにあたるわけでしょう。
?その相互の肉体の諸モメントは、相互に関係しながら、全体としてその生命体を維持し再生産するのです。だから二一八節の最後のところに「主体はただ自己をのみ再生産するのである」とあります。肉体の個々の部分、器官はいろいろ活動をしながら相互に関連しあって結局は、生命体としての主体そのものを再生産する、資本は資本そのものを再生産することになります。

二一八節補遺 生物自身の内部における過程は、自然においては、感受性(Sensibilität) 、興奮性(Irritabilität) 、および再生産( Reproduktion )という三つの形式を持っている。

 こういう三つの形式をもっていて、生命自身は自分自身を再生産するといっているのです。感受性というのは、肉体に偏在する魂だなどといっていますが、自己の理念を実現するためにはどうしたらいいかの反応をする肉体の部分が感受性なのです。生命体でいえば神経に相当するのがそれでしょう。資本の場合、資本のトップが経営方針を立てたりするとき、他社の動向などをみながら経営方針を決定するのが、感受性になります。
 興奮性とは「生物は自分自身のうちで分裂するものとしてあらわれ」とあるように、手や足のような活動する部分です。資本の場合、いろいろな部・課が興奮性です。
 それから再生産というのは、生命体の再生産をする部分で、生命体でいえば消化器官がそれでしょうし、資本の場合は、資本の循環による資本の再生産がそれにあたるでしょう。こういう機能をもったものとして生命体は存在し、それらの相互の関係の中で自分自身を再生産し、主体性を再生産していくということです。

第二の過程─生命体と外界との関係

二一九節 ⑵ しかし概念の本源的自己分割は、自由なものとして、独立な統体としての客観的なものを自己のうちから解放するにいたる。そして生物の自己への否定的な関係は、直接的な個体性として、生物に対立している無機的自然の前提をなしている。この生命あるものの否定は、同時に生命あるもの自身の概念の一モメントであるから、同時に具体的普遍でもあるところの生命あるものにおいては、それは欠陥として存在する。客観が本来空無なものとして揚棄される弁証法は、自分自身を確信している生物の活動であってこの過程においてそれは無機的自然にたいして自分自身を保存し、発展し、自己を客観化するのである。

 二一八節は、第一の過程、生命あるものの内部の過程をみていますが、二一九節は、生命体と外界との関係をみています。生命体は外界と関係なしでは生きてはいけません。そういうことを「客観的なものを自己のうちから解放するにいたる」という言い方をしています。生命の過程というのは、生物が無機的自然、外界との対立と闘争のなかで、その生命体としての統一性を貫く過程です。簡単にいえば、同化と異化を繰りかえすなかで生きていくのです。この二一九節の最後のところで「この過程においてそれは無機的自然にたいして自分自身を保存し、発展し、自己を客観化するのである」と述べていますが、外界から食べ物を取り入れて自分のうちに同化し、かつ自分の活動したエネルギーの残り物を体外に排泄する、そういうことをつうじて外界との交互作用をもつのだということです。

二一九節補遺 生物は無機的自然に対立し、それを支配し、それを同化する。この過程の結果は、化学的過程の場合のように、対立しあっていた独立の二つの側面が揚棄されているところの中和的なものではなくて、生物はその他者を包括し、後者は前者の力に抵抗することができない。

 生物は無機的自然を支配し同化するとありますが、同化するというのは自然を支配・従属させる、客観世界を自己に同化し、従属させることです。これは化学的関係のように中和的な関係ではなく、対等平等の関係ではないのです。その後がちょっと面白い。

 無機的自然が生命あるものに従属するのは、前者が潜在的に後者が顕在的にあるところのものであるからである。したがって生命あるものは、その他者のうちで自分自身とのみ合一する。肉体から魂が離れ去ると、客観性の自然力が活動しはじめる。この力は有機的な肉体のうちで自己の過程を開始しようと絶えず待ちかまえているのであって、生命はそれにたいする不断の戦いである。

 肉体から魂が離れ去ったら、肉体は概念の支配からまぬがれて自然力が活動しはじめるといっています。つまり客観は有機的な関係の中では常に魂によって支配されているわけですが、たえず魂である概念の支配から逃れようと待ちかまえているというあたりは、とらえ方がなかなか面白いと思います。
 続く二二〇節は、類としての過程をみています。第三の過程としての類の過程です。

第三の過程─類と個

二二〇節 ⑶ 第一の過程においては自己のうちで主体および概念として振舞う生きた個体は、第二の過程によってその外的な客観性を自己に同化し、かくして実在的な規定態を自己のうちへ定立する。かくして個体は今や即自的に類、すなわち実体的普遍である。類の特殊化は、主体と、同じ類に属する他の一つの主体との関係であり、ここに存在する本源的分割は、かく相互的に規定された個体への類の関係、性別である。

 第一の過程では、主体および概念としてふるまう個体をみてきました。第二の過程では、その個体が客観を自己に同化して、主観と客観の統一性を自己のうちに定立する過程をみてきました。これによって客観を自己のなかに取り入れて、主観と客観の統一を定立するわけですから、いわば事物の有限性をのりこえて客観に依存しない状況になりつつあるわけです。事物の有限性をのりこえて、客観に依存しない主体性として確立される生命体が類ということになるわけです。
 だから類という関係において、より高次のあり方で生命は維持されるのです。類は種類の類です。個人に対する人類です。個としての生命よりも類としての生命の方がより普遍的な生命なのだと、ヘーゲルはとらえているのです。
 ヘーゲルは人類があるから個々の人間はあるのだといっているのですが、それはそうなんです。個々の人間は、人類がいなければ生まれてきません。人類は男と女からなっています。両性がいないと人類はなり立たないのです。だからこの辺が面白いところです。「類の特殊化は、主体と、同じ類に属する他の一つの主体との関係であり、ここに存在する本源的分割は、── 性別である」とあります。類というのは、具体的普遍です。人類というのも具体的普遍です。したがって類はその特殊化を伴っており、その特殊化が性別です。男女そろってはじめて人類となるのです。この類たる普遍において、個体は個体としての制約性、つまり有限性をのりこえて具体的普遍になるのです。

類は生命体の向自有

二二一節 類の過程は類を向自有へもたらす。この過程の産物は、生命がまだ直接的な理念であるから二つの面にわかれる。すなわち、一方では、最初直接的なものとして前提されていた生きた個体一般が、今や媒介されたもの生み出されたものとしてあらわれるが、しかし他方では、その最初の直接態のために普遍にたいして否定的態度をとる生きた個別者は、支配力としての普遍のうちで滅亡する

 「類の過程は類を向自有へもたらす」とありますが、類の過程は生命の向自有、つまり生命のあるべき姿をもたらすものであり、生命のあるべき姿は類としてあらわれるということです。この類の過程は個々の生命がまだ直接的な理念にすぎないから二つの面に分かれる、といっています。
 一つには、生きた個体、有限な個体が類によって生み出されたものとしてあらわれる。つまり、類があるから個体があるという考えです。人類があるから個々の人間が存在しているのです。個々の人間が先にあるわけではないのです。個々の人間、たとえば、最初に男だけが生まれてきたとしたら、それはもう、人類としてはなり立たない。女だけ生まれてもなり立たない。男と女が生まれてこないと個々の生きた個体は生まれてこないわけで、生きた個体は類によって生み出されます。
 二つめは、生きた個体は普遍たる類の否定です。類というのは普遍であり、普遍が否定されたものが個です。生きた個体は普遍たる類の否定であって、否定であるから「支配力としての普遍のうちで滅亡する」のだといっています。普遍は永遠に生きのびるけれども、個は有限なのです。なぜ個は有限なのかというと、普遍の否定だから有限だといっています。

二二一節補遺 生あるものは死ぬ。なぜなら、それは即自的には普遍者であり類でありながら、直接態においてはただ個としてのみ現存するという矛盾だからである。

 こういうところがヘーゲルの面白いところです。生あるものは死ぬ、なぜか。個体は個であると同時に普遍という側面をもっているわけで、一人の人間であると同時に人類という側面ももっています。だから潜在的には普遍者であり類でありながら、直接的な姿としては個であるという矛盾として、普遍の中で個が滅亡するというのです。

 死において類が、直接的な個を支配する力であることが証示される。

 一人ひとりの人間は死んでも次々再生産されることによって人類という類は生き残ります。だから、個体が死ぬことをつうじて、類の方が個を支配しているということが示される。個は死んでも類は生き残るのです。

 ── 動物にとっては類の過程がその生命の頂点である。しかし動物はその類のうちで独立的に存在するまでにいたらず、それは類の力に圧倒されている。

 「類の過程がその生命の頂点である」というのは、前にも話しましたが、種の進化は類の進化であって、個の進化ではないのです。個が生まれたときからもっているDNAは変化しないわけで、種の進化はあっても個の進化はないという意味では、類こそが生命の頂点だと、いうのです。「動物はその類のうちで独立的に存在するまでにいたらず、それは類の力に圧倒されている」とありますが、個体は、類から生まれ、類に没するのです。それが類の力に圧倒されているということです。

 直接的な生命は、類の過程のうちで自己を自分自身に媒介し、かくしてその直接態を越えるが、しかしそれは再び類のうちへ没する。したがって生命はまず無限進行という悪無限へ迷いこむ。しかし生命の過程によって生じてくるものは、概念から言えば、生命としての理念がまだそのうちにとらえられている直接態の揚棄であり克服である。

 個体としての生命は次々に生まれては死んでいくのですが、類としては無限進行であって無限に類として生きのびていくのです。「しかし生命の過程によって生じてくるものは、概念からいえば、生命としての理念がまだそのうちにとらえられている直接態の揚棄であり克服である」とあります。この生命の過程をみてくるなかで、類にまで到達したのですが、類の過程に到達することによって、個のもつ有限性が克服されることになるのです。
?そこで類において、肉体と魂の完全な統一が実現されて、肉体が滅びることがなくなるということが、直接態の揚棄であり克服なのです。類の肉体は無限に続き、そのなかで類の魂としての内的目的性も保持され、類はその目的にしたがって進化し続けるのです。

生命から精神へ

二二二節 生命の理念はしかしこれをもって、単に或る一つの(特殊な)直接的な「このもの」から自己を解放したのではなく、上述の最初の直接態一般から自己を解放したのである。このことによってそれはその真実態へ、自分自身へ到達し、自分自身へ向っている自由な類として現存在するようになる。単に直接的であるにすぎない個別的生命の死がすなわち精神の出現である。

 二二二節は、生命から認識へ移行するカテゴリーです。生命の理念は類への移行によって個の制約から自己を解放したのではなく、理念の直接態一般から自己を解放したのであって、これによって理念はその真実態に到達し、自分自身に向かっている自由な類として現存在するようになった。それが精神の出現であるといっています。
 この場合の精神とは、精神活動をする人間という意味で、しかも個々の人間をとらえているではなくて、類としての人間をとらえています。われわれの言葉でいえば、人類の知的遺産というふうにとらえたらわかりいいのではないかと思います。
 この精神、人類の知的遺産は、生産労働を軸として発展するわけです。この生産労働をつうじて、人間の認識がより深い真理に前進していく過程を、次の「認識」のなかでみていきます。

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