『変革の哲学・弁証法─レーニン「哲学ノート」に学ぶ』より

 

 

第八講 概念論 三 客観性


一 、カテゴリーとしての主観と客観

主観と客観

 今日は第二篇「客観性」の講義をしますが、そこに入る前に「主観と客観とはなにか」について、少しお話ししておこうと思います。
 主観と客観というカテゴリーは、人間の認識が発展していくなかで生まれたものであり、具体的には、近代哲学とともにそれは確定されてきました。中世のスコラ哲学というのは、神学と一体化した哲学ですから、それは当然、神による世界創造を認める立場です。世界は神の意志によって創られ、世界全体は一つの目的をもったものとして存在しているというアリストテレスの目的論的自然観に支えられていたわけです。近世の自然科学の成立は、それを批判するところから始まりました。そのきっかけをつくったのはガリレオ・ガリレイ(一五六四~一六四二)です。
 それまでは重いものほど、地球の中心に向かう目的をより多くもっているという目的論的自然観から、重いものは軽いものより速く地球に落ちると考えられていました。有名なピサの斜塔の実験は実際にはガリレイによるものではなく、ガリレイが実際にしたのは、斜面を利用して物体を落下させる実験でした 。そこからガリレイは、重さに関係なく、同じ早さで斜面を落下することを明らかにし、したがって目的因などというものは存在しないといったのです。
 このように、一六世紀から始まった近代自然科学は、自然のなかから目的論的な考え方を排除して機械論的な考えをすすめていきました。このような近代的自然科学にもとづく機械論的自然観を、哲学的にまとめたのがデカルトです。
 デカルトはガリレイと同時代の人ですが、彼の哲学はスコラ哲学の批判なのです。スコラ哲学では、すべて神から出発して神が万物を創造したという考えですけれども、それを疑うところから始めたわけです。疑ってかかってどうしても疑いきれないものとして何が残るかというと、自我というものが残るというので「われ思う ゆえにわれあり」(Cogito, ergo sum)という有名な文句を残しています。まず「われ」が存在するとして、それでは「われ」の外に在るものは全部否定しきれるのかといったら、むろんそうではなく、「われ」が存在すると同時に、この世界を埋め尽くしているさまざまな個別の存在も同時にある。その個別の存在というのは、一定の空間的広がりをもったものであり、一定の質量をもっています。したがって世界には、まず物事を考える「われ」があるという意味で「思惟」が存在し、それと同時に広がりをもったものが、もう一つのものとして存在するという意味で、彼はそれを「延長」とよんだのです。
 その思惟と延長という二つが、世界における二つの根源的な存在なんだという二元論を彼はとなえたのです。その後、このデカルトの「延長」というカテゴリーが、「客観」というカテゴリーに結びつき、「思惟」というカテゴリーが「主観」というカテゴリーに結びついて、デカルト以後、主観と客観という言葉が用いられるようになってきました。

科学の「没価値性」

 客観を機械論的にとらえることは、目的論的自然観の否定でしたので「客観の中には目的もなければ、価値もない」という、没価値的な自然観に結びついてゆきます。スピノザが典型的です。彼は、「善い」とか「悪い」とか、「秩序がある」とか「混乱がある」とか、「美しい」とか「醜い」とかという価値は、すべて人間が自然のなかにもち込んだものであって、客観自体にはこのような価値は何もない、といっています。この観点はのちの科学に大きな影響を及ぼしまして、自然科学や社会科学の没価値性ということが声を大にしていわれるようになってきました。
 有名なのがマックス・ウェーバーという社会学者です。彼は社会科学における認識の問題と価値判断の問題は、厳重に区別しなければいけないのであって、科学の対象になるのは認識の問題だけだといったわけです。つまり、「ある」ということと「あるべきだ」ということを切り離して、科学の対象になるのは「あるかどうか」という問題だけであり、「あるべきかどうか」などという価値判断は、科学と無関係だといったのです。いうなれば、科学は人間に「いかにあるか」ということは教えることができるけれども、「いかになすべきか」ということを教えることはできないというわけであります。
 何らかの価値判断、世界観、イデオロギーをもつことは、偏りであり、イデオロギーからフリーになること、価値から自由になることが正しい認識を保つ保証だという考えは今日でも支配的です。それは資本主義社会の階級的利益とも結びついているのです。支配階級のイデオロギーにとって一番大事なことは、労働者階級が「何をなすべきか」ということについての価値判断をもたないことだからです。
 ですから、自然科学や社会科学の没価値性というのは、近世の科学や哲学の発展に一定の根拠をもっているのですが、同時に、支配階級のイデオロギーと結びついているのです。
 ヘーゲルは、そういう科学の没価値性を否定しています。もちろん階級的な観点から否定しているわけではなく、彼の真理を追究しようとする立場がそうさせているのです。ヘーゲルは、デカルトのような主観と客観を切り離してしまう二元論的なとらえ方をしません。主観と客観の統一にこそ真理があるという主・客一元論にたっています。その統一を実現するのが人間の認識と実践なのです。自然や社会を「真にあるべき姿」に変えていく人間の認識と実践を通じて、主観と客観の統一という最高の真理が実現されると考えるわけです。
 前講で、ヘーゲルは判断論の中で真理のいろんなレベルについて語っており、より高いレベルの真理は「真にあるべき姿」と客観的実在とが一致する関係ととらえて、それを概念の判断とよんでいるとお話ししました。概念の判断というのは、いいかえれば、価値判断のことです。価値判断こそ最高の判断であり、自然科学、社会科学の没価値性の考え方を打ち破り、いわば、真理としての価値判断をもつところに、人間の認識の最高の到達点があると考えたのです。科学の役割を、単に「いかにあるか」ということを認識することにとどめず、「いかにあるべきか」を認識するところまで広げ、そこに科学の本当の値うちをみいだしたのです。
 マルクスの仕事は当然、この見地を継承し、資本主義の現状を批判的に分析して、そのなかから未来の「真にあるべき姿」としての社会主義を展望したのです。

弁証法的唯物論における主観と客観

 弁証法的唯物論の立場から主観と客観をどうとらえるべきかも整理しておきましょう。
 まず、存在論としての主観と客観の問題と、認識論としての主観と客観の問題とを区別する必要があります。存在論としては、主観(意識)は物質である脳の一機能、すなわち客観の一部です。しかし認識論としては、主観と客観は明確に区別され、対立するものとしてあります。レーニンは『唯物論と経験批判論』で、物質を「人間の意識から独立して存在する客観的実在」と定義しています。では、物質と意識とは絶対的に対立したままなのかというと、そうではありません。実践を媒介に究極的に「思考と存在の同一性」が実現されるのであり、これはエンゲルスが『フォイエルバッハ論』において述べているとおりです。思考というのは主観であり、存在というのは客観ですから、人間の意識が客観的な世界を反映することによって、両者は無限に接近していくのです。

 

二、客観性

客観性の構成と展開

 では、第二篇、客観性に入ります。
 客観性は、機械観、化学観、目的観に分かれています。機械観というのは機械論的な因果関係に立つ自然観で、近代自然科学の発達のなかで生まれてきたとらえ方です。
 次の化学観というのは、大きな意味では機械論的自然観に含まれますが、化学反応を念頭においた自然観です。
 最後の目的観というところが、「客観性」を学ぶうえで最も重要なところであり、レーニンのノートも大半はこの目的観に関するものです。ヘーゲルは、近代科学の発展によっていったんは排除された目的観を客観のなかにふたたびもちこんだのであり、ここにもヘーゲルの重要な功績があります。
 目的観は生命体とか生産労働を念頭においています。例えば、生命体とは、不断に変化をしながらも、生命の統一体を保ち続け、その内部に生命としての生きる目的をもった存在なです。
 第一講で、哲学の目的は真実を探究すると同時によりよく生きるということを考える学問だ、というお話をしました。「よりよく生きるとは、どういうことなのか」を考えるうえで、この目的観というのは重要な素材を提供していると思います。マルクスは「フォイエルバッハに関するテーゼ」の中の第八テーゼで「社会生活は本質的に実践的である」と述べております。人間が生きるということは、他の人々とかかわりあって生きること、すなわち社会的に生きることです。そして、目的をもった実践には、よりよく生きる実践という問題が取りあげられなければならないと思うのです。
 また生産労働というものも、生産の目的をかかげ、それを実践することによって労働生産物を生み出すのです。

機械観と目的観の対立

 ヘーゲルは「世界の絶対的な本質を盲目的な自然的機械観と見るべきか、それとも目的にしたがって自分を規定する悟性と見るべきか」 が問題であると述べています。
 世界の絶対的な本質が、目的観か、機械観かという対立は、自由と必然性の対立の問題にもつながっていきます。目的観にたてば、すべての自然は各々の中に目的をもった、自由に存在しているということになるでしょうし、機械観にたてば、機械的なメカニズムの中に閉じ込められているわけだから、必然性の枠の中にはめこまれているということになります。
 テキストに、「すでに述べたとおり、目的的関係と機械的関係との対立は、まず第一には、自由と必然性というより一般的な対立である」(一五六ページ)とあります。こう述べて、ヘーゲルは目的観と機械観、自由(観)と必然性(観)のどちらが正しいのかと議論していくわけであります。
 スピノザは、中世のスコラ哲学の影響を色濃く受けていて、すべては神の決定によるものであり、自然には偶然性は存在しない、人間の意志も自由原因ではなく必然的原因であるとして、すべてを必然性の見地からとらえています。これに対してカントは、アンチノミー(二律背反)といって、自由観と必然観という二つの相反する命題をたて、そのどちらの命題も成り立つということを証明し、結局、矛盾するものは認識不能だという不可知論へたどり着くのです。

カントにおける自由と必然

 テキストでは、カントの自由と必然、目的観と機械観の対立のアンチノミーを議論しております。アンチノミーには四つあり、その一つは「世界におけるすべての現象は、自然因果律によって規定されているか、それとも自由という原因があるのか」と、このように問題をたてます。すべての因果律(必然性)によって規定されているという命題が定立、自由によって規定されている命題が反定立とよばれていますが、カントは「定立を物自体の世界に、反定立を現象界に関係させるなら、両方とも妥当するかも知れない」 として、自由と必然の両立可能性を示唆したのです。
 これに対しヘーゲルは、カントにおける自由と必然の問題を、「二つの原理のどちらがそのままそれだけで真理であるかということは研究されていない」(一五七ページ)と批判しています。
 そのうえでヘーゲルは、自由と必然、目的観と機械観を統一したところに真理があるととらえるのです。機械観と目的観とをバラバラなものとしてでなく、機械観のより発展した姿が目的観であるという関係でとらえています。だから目的を内に持った生命体は、自己のうちに機械観をとりこんでいるというのです。人間にとって手足というのは、いわば機械的関係ということになります。人間は主体的に生きる目的をもっていますが、その目的のもとに手足を動かして、食物を取り入れ消化する(化学的関係)のです。だから目的的関係は、機械的な関係、化学的な関係をより低いレベルの客観として自己のうちにとりこみ支配しているという考え方をするわけです。
 この客観の目的観は自由な概念であるのに対して、低次の機械観、化学観は自然必然性であり、外面性への概念の埋没だといっています。つまり、ヘーゲルは「目的観は機械観と化学観の真理」という立場でとらえています。
 
目的観

 レーニンは、このヘーゲルの目的観に注目してノートを半分に区切り、左側にヘーゲルの見地を、右側に「弁証法的唯物論」という見出しをつけて、自分のコメントを対置しています。
 まず、ヘーゲルを見てみますと「目的は機械的関係と化学的関係とに対して第三のものとして現れた:目的は両者の真理である」(同)と述べています。
 レーニンはそこをとらえて「機械的法則と化学的法則とに区分される(これは非常に重要である)、外界すなわち自然の諸法則は、人間の合目的的活動の基礎である」(同)といっております。自然においては機械的な法則、化学的な法則などが支配しており、そういうものをふまえて、人間の合目的な活動があるんだ、と理解しています(ここで、レーニンはヘーゲルのいう目的観をすぐ人間の実践目的というのにつなげているわけですけれども、これは正確ではありません。ヘーゲルのいう目的には、後に述べるように、外的目的と内的目的の二つがあるのであって人間の実践目的は外的目的にすぎないからです)。
 レーニンは、人間の目的というものは、自然や社会を変革する場合にどのようなものでなければならないのかということを、ここで読み取っています。「自然の諸法則は人間の合目的的活動の基礎」であり、「人間の意識、科学(概念)は、自然の本質、実体を反映するが、それと同時にこの意識は自然にたいして外的なものである(一度に簡単には自然と合致しない)」(一五八ページ)とあります。
 人間の目的は、自然の諸法則をふまえて生み出されるものだけれども、人間の意識からとらえる外的目的ですから、その意味では、目的というのは「一度に簡単には自然とは合致しない」。ヘーゲルがいう外的目的のもつ限界、自然法則の同一と区別を、レーニンは理解したわけです。

外的目的と内的目的

 目的には、外的目的と内的目的があり、両者はともに重要です。まず外的な目的というのは、人間が実践上必要とする目的を意味しています。人間は目的を頭の中に描き、実践を通じて客観に働きかけるわけですから、客観に対しては外的な存在です。そういう意味で外的な目的とよびます。これに対して、内的目的は、有機体自身がその内部にもつ目的です。
 外的な目的は、客観との関係においてどのような場合に有効に作用するのかということを問題にしなければなりません。その目的がまちがった目的であれば、客観の世界はそれを受け入れないわけです。人間が生きるということは、全て目的をもって生きているわけで、その生きる目的というものが客観世界とどのように関わるのかを考えていかないと、生き方自体が破綻することになってきます。現代社会のように生活の基盤を確保すること自体が困難な経済状況のなかで、生きる目的まで誤ってしまうと、二重、三重に生きていくことが困難に陥ることになります。
 われわれが労働をする場合にも、その目的が客観世界に照応していないと客観世界を合法則的につくりかえることはできません。その意味で、レーニンが引用している「人間の意識は自然にたいして外的なものであり一度に簡単には自然と合致しない」というところは、きわめて重要な指摘です。外的目的というのは人間が頭の中で考えたものですから、客観世界と合致するとはかぎらず、合致しなければ客観を支配することもできない、ということになるわけです。
 レーニンは「〔人間の〕目的は世界より以外のところから取ってこられたものであり、世界から独立したもの(〝自由〟)であるように見える」(一五九ページ)が、「実際には、人間の目的は客観的な世界によって生み出されたものであり、その世界を前提」すると書いています。目的というのは、人間の頭に勝手に描き出したもののようにみえるけれども、勝手につくられた目的では実践するうえで役にたたないのです。

自由とは必然性の洞察

 では、どうすれば目的を客観世界に一致させることができるのでしょうか。それは自由と必然性を統一させることによってできるのです。『反デューリング論』でエンゲルスは「ヘーゲルは、自由と必然性の関係をはじめて正しく述べた人である。彼にとっては、自由とは必然性の洞察である。『必然性が盲目なのは、それが理解されないかぎりにおいてのみである。』」 といっています。
 目的観と機械観を統一して考えたヘーゲルは、自由と必然性も対立物の統一としてとらえるわけで、必然性を認識することを通じて自由になれるといっています。自然や社会における必然性、つまり、自然や社会における本質や法則、実体などという必然性を認識し、それに基づいた目的を設定することによって、はじめて自由になることができるということです。「自由自在」といいますが、自由になるということは、その目的を思いのままに現実のものにする力、自在に扱う力をもつということでしょう。客観世界における必然性、本質、法則、実体、類、力といったものを認識することを通じて客観世界を変革する目的をもつことができるわけであり、それによってはじめて人間は自由になる、といっているわけです。

外的目的と客観を媒介するもの

 では、必然性を認識した目的をもつだけで人間は自然を自由にコントロールできるのでしょうか。「そうではない」とヘーゲルはいいます。外的な目的は、外的であるがゆえに力が弱く、自分だけの力では客観世界を変えることができない。それで外的目的と客観世界をつなぐために、目的を客観化したものとしての道具、機械が必要になってくるのです。目的があるからこそ、機械や道具という変革の手段を生み出すことができるわけです。この道具や機械を通じることによって、はじめて目的は客観を変革することができるのです。そういう面倒な手段が必要となるのも、すべては人間の目的が外的な目的、客観世界から区別された主観的な目的だからこそ、そういう媒介項が必要になってくるんだというのです。
 そこでレーニンは「人間はその目的からすれば、むしろ自然に服従しているとはいえ、道具において外的自然の支配力をもっている」(一五九ページ)というところに三本線を引いて「ヘーゲルと史的唯物論」とコメントしています。自然のなかから目的を引き出さない限りは、その目的は力をもたないという意味で、人間は基本的に自然に服従しているのです。そして目的と客観とを媒介する道具や機械を生み出すことによって、はじめて自然を支配する力をもつにいたるというわけです。
 ヘーゲルは、生産労働を念頭におきつつ、目的と手段を論じています。そして「手段は、外的な合目的性の有限的目的よりもいっそう高い」と、手段のもつ意義を高く評価しています。この人間労働における労働手段の意義づけを「史的唯物論の萌芽」とレーニンは評価したのでしょう。
 外的目的である人間の目的意識は、手段を身につけることによって初めて自然や社会を法則的に変えることができるということは、生産労働に限るものではなく、社会変革の場合も同様です。例えば、階級闘争における組織も同様に考えることができます。労働者階級は、自然発生的な抵抗運動に立ち上がり無数の敗北を喫するなかで労働組合という自らの組織を生み出していきます。さらに労働組合を通じての経済闘争だけでは状況を根本的に変えることができないというところから、政治を変えるための組織、労働者階級の政党をつくりあげていくのです。社会変革にも、それにふさわしい組織、手段をもたなかったら現実を変えることはできません。労働組合や労働者階級の政党というのは、ヘーゲルのいう「外的目的と客観世界を媒介する手段」ということができるでしょう。
 ヘーゲルは生産労働における目的は、労働手段、労働対象と労働力を結合して労働生産物を生みだすところから、「理性の」という言葉を使っています。「狡智」というのは、ずる賢い知恵という意味です(この「理性の狡智」は、『資本論』第五章第一節にも引用されています)。外的目的は機械や道具を使い、原材料を用い、それと労働力とを結び付けることによってお互いに作用させながら、自分は外にいて労働生産物ができるのをみているだけであり、それがずる賢いやり方だ、という意味なのです。資本主義的生産はまさに「理性の狡智」です。資本家は目的だけ立てて、後は全部お金で労働力や機械や道具を買い、それらを働かして自分だけしっかりもうけているのです。

内的目的

 次に、内的目的に入ります。内的目的というのは客観的な事物それ自体の中に含まれているような目的のことをいいます。それは意識をもった存在だけを問題としているのではありません。広い意味で一個のまとまりをもった有機的組織として存在するもの、たとえば、動植物のような自然的有機体はもとより、人間社会における国家、社会、個別資本、階級、政党、労働組合というような社会的有機体も、全てが内的目的性をもっています。だからこの内的目的をもった生命体の概念というのは、社会の組織を考える場合にも必要なカテゴリーといっていいでしょう。
 会社の登記簿謄本をとってみると「目的」という欄があって、そこには建築土木工事とか自動車製造と書かれています。全ての個別資本は、そういう目的をもっているわけです。社会的有機体というものは、まず目的があり、その目的に従って組織が生まれてくるのです。目的のない生命体、組織というのは存在しません。そして、社会的有機体は、その内定目的にしたがって客観としての自己を機械的、化学的関係において組織化していくのです。動物にしても植物にしても、驚くほど環境に適合したような肢体、ボディーをもっているのは、まさに生命体のもっている内的目的性のあらわれなんです。
 労働組合という有機体(組織)のなかに教宣部というのがありますが、これも労働者を教育し宣伝しなかったら組合に組織し団結することはできないという、内的目的のあらわれとしての機械的関係の一部なのです。労働組合は労働者が団結しなかったら力を出せない。ではどうやって団結するのかといえば、強制ではなく、知識によって納得と合意を引き出す以外にないのです。そのためには教育と宣伝、学習活動が不可欠なのです。
 この内的目的というのは、ちょっと難しくいえば「生命体のもつ類的目的」ということです。その生命体がその生命体としてあるうえで、必然的にもたざるをえない目的を意味しています。『反デューリング論』のなかで、エンゲルスは「事柄そのものの必然性のうちに含まれている目的」 と述べております。
 この内的目的というものをもう少し深く考えて、それは「概念」(真にあるべき姿)だとヘーゲルはとらえます。全ての広い意味の生命体は自分の真にあるべき姿に向かって、自己を発展、展開していくのであり、自分の真にあるべき姿をその生命体の内的目的としているのです。そこでヘーゲルは、「目的は客観の中で自分自身に到達した概念である」 といっています。そういう内的目的にしたがっての発展を、萌芽からの発展というのです。見田石介氏は、概念=有機体ととらえ、概念論は全体として萌芽からの発展を述べているととらえていますが、私は違うと思います。概念は「真にあるべき姿」であり、萌芽から発展する生命体はその「真にあるべき姿」に向かって自分を発展させていくという意味で、概念の一形態にすぎません。

実践とカテゴリー

 レーニンは、この生産労働における目的と手段との関係をみたうえで、「ヘーゲルは、人間の合目的的な活動が、〝推理〟(Schluß)であるとか、主体(人間)が〝推理〟の〝格〟において、或る一つの〝項〟の役割を演ずるなどと言って、人間の合目的的な活動を論理学のカテゴリーに入れようと努力している── のみならずしばしばこれに全力を傾注している── が、これは単なるこじつけでもなければ、単なる遊戯でもない。ここには非常に深い、まったく唯物論的な内容がある」(一六〇ページ)というように、人間の実践を現実に合目的的に働きかける活動としてとらえる点に「唯物論的な内容」がある、とレーニンは読み取ったわけであります。そしてどうして「目的」というカテゴリーをヘーゲルが取り上げることができたのかに思いを馳せ、「人間の実践的活動は、何十億回となく、人間の意識をしてさまざまな論理学上の格を反復させたにちがいなく、こうしてこれらの格は公理という意義を獲得することができたのである。このことに注意せよ」とノートにしています。
 どうして目的観、あるいは目的というカテゴリーが生まれてきたのか。それはつまり、人間が自然や社会を認識し実践することを繰り返す中で、反復してあらわれる共通の普遍的なものが浮かび上がってきて、それが目的というカテゴリーになってきたのだとレーニンは理解するわけです。自然や社会を変えようとする実践には常に目的が伴う、そういうことを繰り返し実践する中で目的というカテゴリーを必要とする、という点に気づいたわけです。
 ここまできて、実践を通じて浮かび上がってくるのは「目的」だけの問題ではないことに、レーニンは気がつくわけで、以上のノートの部分に「論理学の諸カテゴリーと人間の実践」という見出しをつけて、カテゴリー全般が実践のつみ重ねをつうじて獲得されたものと考え、より広く問題をとらえていきます。
 実践の果たす役割の一つは、それを通じて認識の正しさが検証されることにあります。有論、本質論、概念論全体にわたるヘーゲルの論理学のカテゴリーは、すべて幾十億回もの実践を通じて検証され済みの正しい認識をとらえたものであり、正しい認識をカテゴリー化したものであるというふうにレーニンは理解したのだと思います。

目的観と「プロレタリアートの階級闘争の戦術」

 このヘーゲル論理学をレーニンが読みはじめたのは、「カール・マルクス」を書くための準備だったということは一番最初にお話ししたと思いますが、「カール・マルクス」の中に「プロレタリアートの階級闘争の戦術」という項目があります。このことを一つの項目として取り上げたことは、レーニンの非常に大きな功績の一つだと思います。その中で、「この階級闘争の側面を欠いた唯物論は中途半端で、一面的で、死んだもの」 だと述べています。これは、やはりヘーゲルの目的観のところを学ぶことを通じて、改めて実践の意義を深くレーニンがとらえなおしたところから、こういう項目を立てることができたのではないかと私は理解しました。

客観的真理

 これで客観性を終わって、次に、主観的論理学の第三篇・理念というところに移行するのですけれども、レーニンは「注目すべきこと:概念と客観との合致としての〝理念〟へ、真理としての理念へ、ヘーゲルは人間の実践的な、合目的的な活動を通じて接近している」(一六一ページ)といっています。「真にあるべき姿」である概念を目的として掲げることによって、その実践を通じ、客観を合法則的に変革することができる、それが真理としての理念である、と理解したのです。自然や社会の合法則的な変革のためには、客観のなかから内的目的(概念)をとりだし、それを実践上の外的目的として設定することが求められており、それがレーニンのいう「実践的な合目的的な活動」ということになるのです。
 その横に「主観的な概念および主観的な目的から客観的な真理へ」というメモがありますが、要するに、主観としての概念(真にあるべき姿)を目的に掲げ、それが実践を通じて客観化されることによって客観的真理が実現される、こういうことを提起したところにヘーゲル哲学の意義があるのではないのか、というわけです。ここまでくると、レーニンは、自らの「概念」理解の限界を、目的意識的にか、無意識的にかはともかくとして、部分的に克服しつつあることを理解することができます。

 

⑴ 池内了『科学の考え方・学び方』岩波ジュニア新書、一〇二ページ。
⑵『大論理学』㊦二二六ページ。
⑶  岩崎允胤・鰺坂真編『西洋哲学史概説』(有斐閣)二六三ページ。
⑷ マルクス・エンゲルス全集⑳一一八ページ。
  /『反デューリング論』①、国民文庫、一七五ページ。
⑸ マルクス・エンゲルス全集⑳六八~九ページ。
  /『反デューリング論』①、国民文庫、一〇一ページ。
⑹『大論理学』㊦二三七ページ。
⑺ レーニン全集㉑六二ページ。
  /『カール・マルクス』新日本文庫、四八ページ。

→ 続きを読む