『ヘーゲル「小論理学」を読む(上) 』より

 

 

前期第二講 ヘーゲル哲学の意義前期

ヘーゲル哲学の意義

 それでは第二回目の講義をはじめます。今日は「ヘーゲル哲学の意義」についてです。前回ヘーゲルの時代について話して、ヘーゲルは観念論者だといわれているのですが、そんな観念論者がいっているようなことをなぜ勉強しなくてはいけないのかを話しました。パーセントであらわしうるのかどうかという問題はありますが、わたしは、あえてヘーゲルは九五パーセント唯物論者だといいました。けれども、われわれがヘーゲルを学ぶ本当の意味は、ヘーゲルの唯物論を学ぶところにあるのではなくて、弁証法を学ぶところにあるのです。ドイツの古典哲学というのは、ある意味で弁証法の発展過程を意味するもので、その頂点に立つのがヘーゲルであり、ヘーゲルは弁証法をはじめて包括的に述べた哲学者なのです。そういう意味でわれわれはヘーゲルを学ぶので、今回はその弁証法を概括的にみておこうと思います。
 われわれが学ぶヘーゲルのテキストは『小論理学』です。前回お話ししたように『大論理学』というヘーゲルの若い時代に書いた論理学があって、それに比べれば『小論理学』はページ数も少なく、しかもポイントだけしか述べていません。『小論理学』には一九節から二四四節までの「節」がありますが、各節には本文と一字下げて印刷されている註釈があります。ここまではヘーゲルが自分で書いたものです。
 さらに「補遺」というのがありますが、これはヘーゲルが講義したものを、ヘーゲルの死後、弟子たちがヘーゲル全集刊行のとき、書き加えたものです。もともとのテキストにあるのは、各節の本文と註釈だけなんです。それだけだとなかなか分かりにくいので、ヘーゲルが講義で口頭説明した、補遺分もあわせて『小論理学』という本になっています。
 それで『小論理学』でも『大論理学』でも、要するに「論理学」なんですけれども、なぜ論理学というのかということからはじめなくてはなりません。
 ヘーゲルは論理学を「ヴィッセンシャフト・デア・ロジック」( Wissenschaft der logik)だといっています。ロジック(=論理)の学という意味なのですが、このロジックはギリシャ語のロゴスから来ています。ロゴスというのは何かといいますと、論理、言語という意味もありますが「宇宙万物を支配する理性」という意味もあります。要するに世界の根本法則ということです。ヘーゲルは、論理学を、いわゆる論理の学と同時に世界の根本法則を取り扱っているという意味で「ヴィッセンシャフト・デア・ロジック」といっているのです。
 論理学といった場合、すぐ思い出すのは、いわゆる「形式論理学」のことであって、これは思考の形式を扱う学問です。形式論理学には三つの基本法則があります。一番基本になるのは「同一律」、つまり「AはAである」「すべてのものは自己と同一である」の法則です。この意味するところは、議論のなかで一つの概念を用いるときには、それはどんな場合でも同じ意味で使われるということです。AはA、悪いことは悪い、良いことは良い、などと一般にいうのが同一律です。これはやはり物事を論理的に考えるうえで絶対に必要なことです。最初にある一つの概念を話しているうちに、いつの間にかその概念の中身が変わってしまうことは実はよくあるんです。そうすると、聞いている方は何がなんだか分からないことになってしまいます。ですから一つの概念を問題としたら、終わりまでその内容を同じ概念として使うということは必要なのです。
 形式論理学の同一律が一番問題となるのは法解釈です。法律というのは「条文」がありまして、例えば「人を殺したる者は死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処す」という規定が刑法第一九九条にあります。法解釈では「人を殺した」に該当するかどうかが問題になります。殺したのか、自然に死んだのか、あるいは自殺したのか、それを議論するのです。自然死でもなければ自殺でもない、他殺だということになれば、殺人罪が適用されることになるのです。法解釈は、ぜんぶ形式論理学です。その条文に当てはまるのか、当てはらないのか、その条文と同一なのか同一でないのか、ということを問題とするのです。
 同一律の裏返しとして「矛盾律」があります「Aというものは非Aではない」「AとAにあらざるものは同一でない」というものです。矛盾律というと何か矛盾を認めるような感じがしますが、そうではなくて矛盾を否定する論理のことを矛盾律といいます。黒板であると同時にチョークではあり得ず、黒板であればチョークではありません。これを矛盾律といい、矛盾してはいけない、矛盾は認めないというものです「おまえのいっている。ことは矛盾しているではないか」というのは、最初に言ったことと全然反対のことをいっているのではないかということで、その矛盾を批判するのです。これは形式論理学の矛盾律のワクのなかでの議論です。
 それからもう一つは「排中律」。それは「AはB又はCである」「或るものはAか非Aかであり、第三者は存在しない」というものです。中間を排するという意味です。BとCとの中間はありえないのであって、BかCかのどちらかだということです。
 以上のことは、同一律も矛盾律も排中律も、結局、或るものは或るものであって、他のものではないという同じことをいっています。これは形式論理学の一番根本の思考形式であって、いろいろ議論するときに、常識的なものの考え方としてとても大事なことなんです。それで、この形式論理学に基づいて、われわれはものを判断したりあるいは推理したりするのです。形式論理学では「概念」「判断」や「推理」を問題とします。
 例えば「マルクスは人である」というのも一つの判断です。マルクスは個人であるのに対し、人は普遍です。だから個別は普遍のなかに含まれるんだという論理の展開なんです。これを逆にいってはいけないので「人はマルクスである」といえば間違いです。「人」というのはいろんな人がいるので、マルクスだけとは限らない。やはり論理というのは、個別が普遍のなかに含まれるとしないと真理をいいあらわせない。これが「判断」の一つの形式です。
 それからこの判断をいくつか積み重ねて未知のものを既知のものに変えていく論理的な過程のことを「推理」というのです。よく使われる推理として、形式論理学でいえば「三段論法」があります「マルクスは人である、人は死ぬ、よってマルクスは死ぬ」というものです。
 結局、形式論理学をまとめてみると、これは常識的なものの見方、固定したものの見方ということができます。しかし、この世のなかにある全てのものは運動・変化・発展しています。じっとしていて永久に変わらないものは何もないのです。昔は、宇宙は永久に変わらないと思われていましたが、今では宇宙自体が発展していることも常識になりました。それから動物や植物の種というものも、かつては永遠の昔から永遠の未来に向かって変わらぬ存在だと考えられていましたが、それもダーウィンの進化論によって種自体が発展することが明らかになりました。今年(一九九七年)の一〇月二五日の「中国新聞」に、ダーウィンの進化論を一三〇年ぶりにローマ法王が認知したという記事が出ていました。キリスト教の聖書のなかでは、すべての種は、神が創り給うたもので、神が創ったときからその種は永遠に変わらぬ存在であるという考え方にたっていますから、ダーウィンの進化論というものをカトリックではずっと否定し続けてきましたが、ようやく一三〇年ぶりに認知したのです。
 すべてのものは運動・変化・発展するのですが、ではここに来ているみなさん方は明日になったら全然別な人になっていて、誰が誰だかわからないということはないのです。昨日もAさんなら、今日もAさん、明日もAさんです。言いかえれば、すべてのものは、運動・変化・発展すると同時に相対的に安定した姿をもっているのです。「相対的に」というのは、ある期間ある短い期間をとってみたらという意味に解すればよいと思います。形式論理学は相対的安定性の側面をとらえた論理の展開になるのです。だから形式論理学は、一つの概念は一定の論理のもとにおいては常に同一の内容を有するという、同一律(矛盾律、排中律)の考え方によって貫かれています。しかし、形式論理学は相対的安定性の側面をとらえることはできますが、運動・変化・発展するものという側面はとらえることができません。ですから、形式論理学だけでは間に合わないということになるのであり、そこで必要になってくるのが弁証法です。
 弁証法というのはエンゲルスの言葉を借りていいますと「自然、人間社会および思考の一般的な運動=発展、法則の科学」(全集⑳一四七ページ)です。物事が相対的に安定している姿をとらえるのは形式論理学でもまかな」えるけれども、それを運動の面においてとらえようとした場合には、弁証法をもってしないとその真実をとらえることはできないのです。
 エンゲルスは弁証法を大きく三つの特徴としてとらえております。まず、一つ目は「連関と連鎖」においてとらえることです。物質が運動するというのは、物質相互の関連のなかで運動するのです。人間が成長するのも一つの運動ですが、ものを食べるという人間と外界との相互作用のなかではじめて成長という運動があるのです。先ほど万有引力の話をしましたが、二つの惑星の間の引力と斥力の関連で太陽系の惑星の運動が起こるんです。運動するということは、やっぱり連関と連鎖のなかで起こるのです。それから二つ目には「運動、生成と消滅」においてとらえることです。発生・生成とは、無から有への移行であり、消滅とは有から無への移行です。長い歴史のなかで、天体のなかの宇宙塵が集まって、地球という惑星が発生し、やがては燃え尽きて消滅してしまい、また宇宙の塵に戻ってしまうのです。三つ目は「固定した不動の対立」や「むりに固定された境界線」、を認めないということです。(不破哲三『レーニン「カール・マルクス」を読む』新日本出版社、五七ページ)
 こうした弁証法という運動の一般的諸法則を包括的に述べたのがヘーゲルの論理学です。形式論理学についても触れておりますけども、それにとらわれないで弁証法を包括的に取り扱っているという点に、われわれがこの論理学を学ぶ意義があるということではないかと思います。
 そこで、弁証法の三つの基本法則に触れておきます。①量から質への転化またその逆の転化②対立物の統一③否定の否定の三つです。この三つを覚えて「弁証法とはこういうものか、だいたい分かった、これで弁証法は卒業だ」というのは、たいへんな勘違いです。弁証法というのは運動に関する一般的な諸法則ですから、運動の形態は多様な形態で存在しているのであって、そのすべてをこの三つの基本法則だけでとらえるものではなく、エンゲルスもそんなことをいっているのではありません。エンゲルスの書いた『自然の弁証法』(全集⑳三七九ページ)のなかでいっていることですが、①はヘーゲル論理学の第一部有論、②は第二部本質論、③は全体系の根本法則的なものを引き出せば、だいたいこういう感じになるとのべているのです。
 弁証法のもつ豊かさは、客観世界のもつ運動の豊かさをそのまま反映しているのであって、その弁証法のもつ豊かさをヘーゲルのなかから学び取る必要があると思います。
 弁証法は物事を運動の見地からみたときの法則だということをいいましたが、運動の見地から物事をみるとはどういうことかといいますと「『資本論』第二版後記」に「現状の肯定的理解のうちに同時にまたその否定 その必然的没落の理解を含み、……」という有名な文章があります。これは非常に大事な中味をもっていると思います。つまり、物事が運動・変化・発展するというのは、物事を現にある姿でみると同時に、そのなかに運動・変化・発展する要因、つまりそのものを否定する姿をみてとるということです。現にある姿そのものを表面的にみる限り、その姿は永遠に変化しないものにしかみえません。そうではなく、現にあるものの姿のなかにそのものを否定する姿をみてとることによって、事物をその矛盾においてとらえ、かつその矛盾によって運動するのだということをうかがい知ることができます。マルクスはこういうことをいっているのです。
 肯定的理解のなかにその否定をみる、肯定のなかにその必然的没落をみることを、われわれは弁証法的な否定といっています。これはすごく大事なことです。あるものの現にある姿のなかにあるものを否定する姿を見い出し、その矛盾を通じて或るものの未来の姿をみてとる、といってよいかもしれません。
 このことをヘーゲルは『小論理学』の七九節でもう少し詳しく述べ、運動の見地から物事をみるときに三つの見地が大事であるといっています。
 一つは、聞き慣れない言葉ですけれども「悟性的側面」といっています。これはマルクスの肯定的理解と同じものです。
 二つ目は「否定的理性の側面」です。これはマルクスの「肯定的理解のなかにその否定をみる」の「否定」にあたります。ここでおしまいにしていいと思われるのですが、しかしそれではだめだとヘーゲルは考えます。なぜ肯定的理解のなかにその否定をみるだけでは駄目なのかといえば、単に否定するだけでは懐疑論にとどまるからです。懐疑論とは何かというと、すべてのものを否定してしまう考えです「そんなことをいったってどうせ駄目だよ」とか「なにをやってもどうせ駄目だよ」という人がいます。あれは哲学的にいえば懐疑論です。すべてを疑い、すべてを否定するだけで、そこからは何も積極的なものは生みだされてこないのです。そういうものは弁証法的な否定とはいわないのです。よく日本共産党のことを懐疑論の立場と思っている人がいて「何でも反対の日本共産党」という人がいます。だけど日本共産党は懐疑論の立場ではありません。「否定的理性の側面」にとどまらないのです。
 それではどういう立場なのかというと、ヘーゲルのいう三つ目の「肯定的理性」の立場です。つまり悟性的側面が単に否定されるだけではなくて、より発展した新しい姿に生まれ変わるものとしてとらえるのです。物事を運動・変化・発展の見地からみるというのは、単に否定するだけでは駄目なのであって、否定して生まれ変わらないと駄目なんです。そこをヘーゲルは強調したいのです。それが「肯定的理性」です。
 日本共産党の政策は、すべて「肯定的理性」の立場です。現にあるものをそれが真にあるべき姿ではないと否定して、そこから生ずべき新しい姿、その肯定的姿を提示するのです。これがいわゆる「否定の否定」別の言葉で言えば「矛盾の止揚」です。つまり現にあるものとその否定という矛盾を乗りこえて、新しい姿に生まれ、変わるということを「止揚」といいます。これはドイツ語で「アウフヘーベン」(aufheben)といいますが、もともとドイツ語には「否定する」という意味と「保存する」という意味の両方が含まれています。日本語の「止揚」もこの両方の意味をもっているのです。これを弁証法的な否定といいます。
 弁証法的な否定というのは、単なる懐疑論の立場の否定ではなくて、新しいものに生まれ変わる、新しいものに発展するという見地からものごとをみるのです。運動・変化・発展するということはそういうことです。より新しい、より発展した形態として生まれ変わるという「肯定的理性」を、ヘーゲルは三つ目の弁証法の契機ととらえています。それでヘーゲルはこの七九節の三つの契機からものごとをみるべきだといっているのです
 ヘーゲルの『小論理学』は、構成自体がこういう三つの見地から体系づけられ、第一部・有論、第二部・本質論、第三部・概念論の三つから構成されています。その第一部・有論は質、量、限度の三つから構成され、最初の質は、また有、定有、向自有の三つと、どこまでいっても三つに分かれています。弁証法を、肯定、否定、否定の否定という三段階でとらえることによって、物事が運動する姿を正しく認識することができるとの見地から論理学を構成しています。こういうヘーゲルの三分法を機械的だとして悪口をいう人もいるんですが、弁証法の基本を押さえている点は評価しておくべきだろうと思います。
 もう一つ紹介しておきますと、レーニンの『哲学ノート』は主としてヘーゲルの『論理学』と『哲学史』と『歴史哲学』の三つの本からつくられています。このレーニンの『哲学ノート』のなかに「弁証法の問題について」という短い論文があります。レーニンはいずれ弁証法のテキストを書くつもりでこういうノートをつくったのですが、そのなかで「世界のすべての過程を、その自己運動において、その自発的な発展において、その生き生きとした生命において認識する条件は、それらを対立物の統一として認識することである」といっています。
「『資本論』第二版後記」で「現状の肯定的理解のうちに同時にまたその否定、その必然的没落の理解を含み…」と基本的に同じものです。弁証法の核心は対立物の統一である、といっているのです。
 マルクスもレーニンもそういう意味で、ヘーゲルのいっている二つ目の段階までしかこれらの部分では述べていないけれども、内容としては先ほど話しました三つの側面をみています。

哲学を何からはじめるか

 いよいよ論理学の中味にはいっていくのですが、その前にもう少しいっておきたいことがあります。それは哲学を何からはじめるのかということについてです。八六節補遺二に「真の哲学史のはじめはエレア哲学、もっと厳密に言えばパルメニデスに見出される。かれは、有のみがあり無は存在しないと言うことによって、絶対者を有として把握している。これが哲学の真のはじめである。というのは、哲学は常に思惟による認識であるが、ここではじめて純粋な思想がとらえられ、それ自身にたいして対象となっているからである」とあります。
 哲学というのは諸科学のうえに立つ学問として「学問の王様」といわれることがあります。なぜ諸科学の上に立つのかといいますと、経験諸科学というのはある前提から出発しますが、哲学はそうではないからです。例えば「生物学」というのは生物についての学問ですから、生物が前提となり「地球物理学」は、地球についての物理を探究する科学として、地球を前提とします「遺伝学」は、生物の遺伝子について研究するものです。社会科学の場合でも「法解釈学」は、決められた現行の法律を解釈するというものです。このようにすべて経験諸科学というのは、前提をもっているのです。しかし、哲学は前提をもちません。それはどうしてかというと、物事の根本を探求しようとする学問だからです。
 物事を探求するときにぶつかるのは「カテゴリー」、つまり最高類概念です。概念というものは、或るものを抽象化してその普遍性をとらえるものですが、概念にも抽象の度合いがいろいろあります。概念を最も高度に抽象化して、もうこれ以上は抽象化できないというものが哲学上のカテゴリーなのです。例えば、Aさんという個人を抽象化していきますと、人類、ほ乳類、動物、生物そして最後に物質となります。この物質という概念はもうこれ以上抽象化することはできませんから、最高類概念として哲学的なカテゴリーとなります。哲学というのはこの最高類概念をあつかう学問であり、その意味で、世界の根本を考えようという学問です。
 これに対して、経験諸科学はこのカテゴリー(最高類概念)の下位概念から出発します。哲学は一番の大元になる哲学上のカテゴリーから出発するから前提をもたないのです。さてこのカテゴリーに関し、ヘーゲル以前のカテゴリー論として、アリストテレスのカテゴリー(一〇分類)やカントのカテゴリー(一二分類)があるのですが、いずれもヘーゲルには気に入らない。なぜなら、アリストテレスもカントもカテゴリーを並列的に述べているからです。ヘーゲルはこんなのは駄目だ、並列的に述べるということは無思想のあらわれだ、やはり世のなかの事物は相互に関連しているんだから、カテゴリーそれ自体も一定の連関のもとにつかまえないと、全体を正しくとらえることはできないというのです。
 ですから、ヘーゲルはカテゴリーの体系化を非常に重視します。つまり、世界に存在するものが相互に関連しあっている以上は、その関連しあっている結節点としてのカテゴリーそれ自体が相互に関連しあっていなければおかしいのではないか、と考えてカテゴリーを体系化するのです。そうなるといろんなカテゴリーのなかでも、どんなカテゴリーから出発すればよいかということが問題になってきます。これが先ほど読んだところに関連するのです。言いかえれば、世界における一番の根本的存在は何なのかということを探求して、哲学のカテゴリーの出発点が決まってくるということになります。あとは総じてそれの展開として述べられることになるのです。
 世界の根本をとらえる法則としてカテゴリーを論じ、それを体系化したものが論理学だということになるのですが、では何から出発すべきなのか。これは実は長い間哲学の歴史上問題とされてきた、根本的な存在とは一体何なのかが問われる問題なのです。このへんはヘーゲルの『哲学史』を読むとなかなか面白く書いてあります。ヘーゲルという人は、古今東西の哲学書を読みこなしたうえで、自分のものに作りかえたのですから、彼の勉強ぶりはすごいものです。ギリシャ哲学から東洋哲学(これはあまり深く勉強していないようです)、キリスト教哲学、ゲルマン哲学なども勉強して『哲学史』にまとめています。、
 ヘーゲルの出発点になるのはギリシャ哲学です。ヘーゲル哲学で取り上げられているほとんどの問題は、すでにギリシャ哲学で議論されているものばかりです。その意味でもギリシャ哲学というのはたいへんなものです。ギリシャにおいて哲学者たちが多数輩出したのは一体どうしてでしょうか。それはギリシャに自由な都市国家があったからです。自由人がいたからです。自由人がいたから自由に思索することができ、自由に思索することができたからギリシャ哲学は発展したのです。やはり真理を追究するには、何事からも自由であることが最も大事なことです。ヘーゲルは人間にとって一番大事なことは精神の自由だといっています。何ものにもとらわれないで自由に思索することが人間であり、人間の活動なんだといっているのです。
 哲学の歴史はターレスにはじまります。この人はエジプト人にピラミッドの高さの測り方を教えてあげた人です。どうやって測ったかというと、人間とその影との比率からピラミッドの影を測って高さを測定しました。一年は三六五日あることを計算したのもターレスですし、日蝕も予言しました。哲学者は昔は自然科学者も兼ねていたので、もともと哲学は唯物論的な自然科学から出発しています。
 ターレスは万物の原理は水である、すべてのものは水から出発して水に帰るといいました。これもわかるような気がします。自然現象を大きくみると、海の水が蒸発して雲となり、雨となって川に降り注いで地面を潤す。そのなかで植物が水を吸って大きくなり、動物は水を飲んで生きている、土も水を吸って豊かになる。ターレスは、自然のなかの無数の存在のなかに永遠に続く根本的な物質が存在するはずだと考え、それが水だと唱えたのです。つまり、無数の多様な物質の存在も、ただ一つのものから成り立っているのを見抜いたことがすごいとヘーゲルはいっています。ただぼんやりと自然をみて、いろんな自然があると感嘆するのではなくて、そのなかに根本的なものが存在するのだと考えたのがすごい。存在する特殊のなかに普遍をみ出したところに人間の思索が現れている、哲学がある、とヘーゲルはいっています。
 ターレスはイオニア派の自然哲学者ですが、イオニア派は、万物の根本原理をあれこれの自然に存在する物質に求めました。例えば、アレクシメネスは「万物の根本原理は空気である」といっています。他にも水と空気と土と金属が根本原理だという人がいたりして、いずれもこの世のなかに存在する個物のなかから普遍を見出そうとするのです。これが人類が哲学をし始めた最初のものです。
 しかし、それにだんだん飽き足らなくなって、そこから一歩抜け出たのがピュタゴラスです。ピュタゴラスは一つの学問体系をなし、ピュタゴラス派といわれています。ピュタゴラス派は「数はすべての事物の本質だ」といっています。なぜヘーゲルがこれを一歩前進とみたのかといえば、この世のなかにおける個別の存在を根本的な原理だと考えないで、個別の存在を突き抜けたところに根本的原理があると考えたからです。この世のなかにあるすべてのものは量と質の統一としてあるんだけれども、そのなかから量の面のみを抜き出して考えたのは、物事をより抽象化して考えたものです。そこに、より哲学的な思惟が存在しているとヘーゲルはみるので、ピュタゴラスはイオニア派の自然哲学を一歩進めたといっています。
 ここまではいわば哲学史の助走であって、ヘーゲルはエレア派のパルメニデスから「真の哲学の歴史が始まる」といっています。パルメニデスは「有があって無は存在しない」といいました。つまり、パルメニデスに、あっては量という要素よりも、もっと抽象化した「有」が、いわばこの世の根本原理だと考えるのです。この「有」というのは「何ものかが有る」ということであって、それは個別のものが存在するということではありません。個別的存在から切りはなされた「有」それ自体、つまり有るということだけを考え、これを根本原理とする哲学なのです。
 先ほどの文章をもう一度振り返ってみると「これが哲学の真のはじめである。というのは哲学は常に思惟による認識であるが、ここではじめて純粋な思想がとらえられ」たとあります。「純粋な思想がとらえられ」たとは、物質から切り離された「有」という純粋な思惟の産物のみが対象となっているという意味で、パルメニデスをもって哲学の真のはじまりだといっているのです。
 こうしてヘーゲルの哲学は有論からはじまります。哲学史を振り返ってみて、人間の純粋な思想として最初にとらえた根本的なカテゴリーは何かというと、それは有論にたどりつく。だから、自分の哲学もこの有論から出発しようというのです。あとは、有から出発しながら、そのカテゴリーの限界を認めてこれを否定し、否定の否定をくりかえしながら次々にカテゴリーを発展させて、カテゴリーの体系的な構築をしていくということが論理学の構成になっているのです。
 そのカテゴリーの展開の仕方を、ちょっと紹介しておきましょう。ヘーゲルは、パルメニデスが有をとらえたことは評価しているのですが、ここには有があって非有(無)がない、これでは駄目だとヘーゲルはいうのです。どうして駄目なのでしょうか。これは今までのお話ししていることのなかで考えて欲しいと思いますが、やはり有だけだと運動がないのです。有のなかに有を否定するものをみることによって、はじめて運動というものは生じるのです。だから、パルメニデスは有だけをみて非有はないといっているがそうではない、すべてのものは有と無の統一としてみなくてはいけないのだということを、ヘーゲルは有論のなかで展開しているのです。パルメニデスはたしかに哲学のはじまりを創ったという点では功績はあるけれども、まだまだ限界をもっているのです。
 ヘーゲル哲学は、有論からはじまって、本質論、概念論へと展開し、概念論では人間の意識の創造性と変革の立場を強調します。ヘーゲルが人間の意識の創造性を問題とするとき、やはり二つの側面があるのをみておかねばなりません。一つは客観世界に埋没しない人間意識の創造性を高く評価したという点であり、これはこれで大きな意味をもっています。人間の意識は、自然や社会の変革の実践に結びつくのですから、そういう意味で人間の意識の創造性を人間の実践と結びつけて、自然や社会の合法則的な発展をめざしたという点ではヘーゲルは評価されるべきだという面があるのです。同時にそれは、ヘーゲルの観念論の側面をもあわせもっています。観念論というのは人間の意識の創造性を一面的に誇張してとらえます。それが世界のすべての根元だと思ってしまう、
ヘーゲルにはそういう面もあるので、それが精神とか、絶対者とか、神とかいうような言葉を使ってこれからも度々でてきます。この点は気をつけてみておかなければなりません。
 もう一つ気をつけなければならないのは、唯物論の見地に立つことは、人間の意識の創造性を否定することではないということです。客観世界に埋没してその反映だけで足りると思っていたのでは駄目なのです。唯物論の見地に立つということは、言いかえれば、実践の見地に立つということです。そのためには、人間の意識の創造性ということを積極的に評価する必要がある。その点は前回の講義でもいいましたし、今回のわたしの講義の中心テーマになる問題でもあるので、これからもいろんな形でお話ししていきたいと思います。

《質問と回答》

 第一の質問は、現実を運動の見地からみるとはどういうことかということに関して、悟性的な側面、否定的理性の側面、肯定的理性の側面という三つのとらえ方について話しました。弁証法のものの考え方の基本になるものです。それに関連して「『資本論』第二版後記」の文章などをとりあげて、マルクスは直接的には第二段階までしか述べていないと説明したように思います「『資本論』第二版後記」では「現状の肯定的理解のうちに同時にまたその否定、その必然的没落の理解を含み…」という文章になっているので、肯定のうちに否定を含むといっているのですからこの文章からみる限り、第二段階までしかいっていないのです。それは一体なぜなんだろうかという質問がありました。
 それに関連して『ヘーゲル大論理学研究」(①一三ページ)のなかで見田さんは次のように述べています「否定的理性と肯定的理性、ヘーゲルが理性をこの二つに分けたこと、これは必要なことかどうか。わたしはそんな必要はないと思います。悟性的なものに対して、つぎに肯定的なもののうちに否定的なものをみる、あらゆるものを運動の流れにおいて、その没落の過程においてみる、これがマルクスの革命的弁証法です。マルクスは、ヘーゲルのように二つに分けていません」。つまり、悟性的側面、否定的理性、肯定的理性の三つのうち、理性を否定的理性と肯定的理性の二つに分ける必要はないのではないか、と見田さんはいっているのです。それに次いで「ヘーゲルはあらゆるものが滅びるということを、たいへん悲しい、空しいことだと考えて、それで、ものの矛盾と没落の必然性をあらわす否定的理性(弁証法)のうえに、すべての矛盾が解消して、そのものの永遠の安定と調和をあらわす肯定的理性をおいたのです。そこがまた、マルクスとちがうところです」と述べています。つまり、ヘーゲルは肯定的理性という第三段階までいうことによって、永遠の安定と調和を述べたものであり、それがヘーゲルの弁証法を保守的にしている、あるいはヘーゲルは矛盾を調和に変えているという言い方をしています。
 わたしは、それは違うのではないかと思います。マルクスは意識的に第三段階の弁証法の肯定的理性を認めないで、第二の否定的理性までにとどめたのかといえば、けっしてそうではないと思うのです。第三段階の肯定的理性というのは、矛盾の止揚(アウフヘーべン)とか否定の否定であると、私は理解しています。否定的理性というのは、いうなれば、或るものをとらえたとき、或るものはそのままにはとどまり得ないというところだけをみているのです。それに対し、ではどのように変化するかをとらえたときの側面が肯定的理性です。ですから、肯定的理性までいわないと、変革の立場が明確にならないのです。
 いわゆる「ブルジョア・マスコミ」といわれるものがあります。朝日新聞とか毎日新聞とかテレビ朝日とか大きなマスコミを、われわれは科学的社会主義の立場から、これを「ブルジョア・マスコミ」と呼んでいます。なぜブルジョア・マスコミというかといえば、マスコミ自体が大資本であり、そこからくる資本主義の限界をもっているからです。どういう限界をもっているかというと、第二番目の否定的理性に報道をとどめることにあるのではないかと思います。今の政治は腐敗堕落していると批判する、それは今の政治の否定です。ブルジョア・マスコミもそこまでは報道するのです。しかし、問題をそこにとどめたのでは、国民はどうすればよいかという展望を見出すことはできません。せいぜいニヒリズムに陥るだけです。否定すると同時に、その否定を乗り越えてどこに向かえばよいのかという展望を示すことが、実は一番大事なことなのです。それが矛盾の止揚であり、否定の否定ということです。
 今の腐敗堕落した政治のもとをただすためには、企業献金・団体献金を禁止すべきだという問題提起をするかどうかにかかっているのです。ただ単に腐敗堕落政治を嘆いてみせることまではするのですが、どうしたらいいのかという根本的な解決の道筋を示さないところに、ブルジョア・マスコミの限界があります。だから、世論調査などをみても、現状に腹は立つけれども、どうしたらよいのかわからないという「わからない」層がたいへん多いのです。ほんとうにそういう解決策を示している日本共産党という政党があるのですけれども、その政策が本当に国民の願いを実現する解決への道筋だということを、絶対にブルジョア・マスコミはいわない。あるいはこっそりとしか、ほんのちょっぴりしかいわない。だから、ブルジョア・マスコミの限界というのは、第二段階の否定的理性にとどめてしまっていて、肯定的理性を示さないところにあるのです。そういう意味で、肯定的理性というのは絶対に必要なことだと思います。
 マルクスは否定的理性にとどめているというのも、わたしは正しくないと思います。というのも、マルクスは資本主義を否定するだけでなく、同時にまた、その矛盾を乗り越える方向としての社会主義を展望したのです。その社会主義を提示することが肯定的理性です。資本主義では駄目だということが否定的理性で、そこまでは誰でもいえるのです。空想的社会主義者の人たちも、やはり資本主義を否定しました。否定的理性にまではたどりついたのです。だけれども、どうしたらよいかという肯定的理性は、空想的なものとしてしか示すことができなかったのです。そこに空想的社会主義と科学的社会主義との違いがあります。
 マルクスは『資本論』において、肯定的理性としての社会主義を展望しましたし、エンゲルスも否定の否定の法則を弁証法の三つの基本の一つとしてとらえたのです『資本論』のあの部分だけを読むと、単に否定するだけのように読めなくもないのですが、マルクスの真意は、決してそうではないとわたしは理解しております。
 それから二つ目に、否定的理性にとどまるものというのはほんとうにあるのかという質問がありました。
 これは「ある」、といえます。問題は、存在論の問題と認識論の問題の二つのレベルでみることが必要だと思います。まず、存在論のレベルでみるとき、弁証法的な否定ではない清算主義的な否定が否定的理性に属するといえます。われわれが弁証法的にいっている否定とは、そのような清算主義的な否定ではないので、発展の萌芽をなかに含んだような否定のしかたです。例えば、大麦を畑に植えることによって一粒の大麦が自らを否定し、芽を出し葉を出し茎を出し、そしてやがてもっと多くの大麦の粒となります。これが弁証法的否定です。これに対し、大麦の粒を踏みつぶしてしまえば、そこにとどまってしまい、何も新しいものはそこからは生まれてきません。発展の契機になりえないような否定が「否定的理性にとどまる」存在論的な側面といってよいかと思います。
 では認識論的側面からみて、否定的理性にとどまるものが何かといえば、前にもいいましたように、懐疑論とニヒリズムです。つまり、現存するものに対して、冷たい目を投げかけてそれを批判するにとどまるものです。しかし批判するだけでは、そこから何も生まれません。懐疑論はすべてを疑います。マルクスも「すべてを疑え」といいましたが、あれは疑いっぱなしという意味ではなく、疑って否定してそのなかから積極的なものを生み出しなさいということです。疑いっぱなしでは、救いのないニヒリズムです「あれもこれも皆駄目だ、どうせこの世はそんなものよ」ということになって、積極的な新しいものが生まれてこないのです。
 三つ目の質問ですが、対立物の統一とはどういうことかというものです。これに答えるために、論理学を今からはじめようというのですから、これから一年なり二年講義を聞いていただいてから、最後のまとめあたりでお話をすればよいかと思いますれけども、結論的に言えば、対立物の統一は弁証法の基本法則の一つといわれているものであって、レーニンはこれを「弁証法の核心」といっておりますので、これから追々説明していくことになります。
 ただ一つだけ例をお話ししますと「生きること」とはどういうことかといえば「生きる」ということは同時に「死ぬ」ことなのです。われわれは生を授かった瞬間からまっすぐ死に向かって歩いているのです。「生きる」ことは細胞の新陳代謝ですから、新しい細胞が次々生まれると同時に古い細胞が次々死に絶えています。人間の身体というのは、三カ月で全身の半分の細胞が死んでしまうといわれていますので、一年たつと一六分の一しか残らない。それくらい新陳代謝しているから、生きるということは同時に死ぬことなのです。つまり、運動するということは常に相反するものが一つのもののなかに統一した姿としてある。生命体は、生命体として一つの統一した存在ですが、そのなかでは生と死という相反するものをもっている。これを対立物の統一といっているのです。
 それから四つ目の質問というか意見として、労働組合の情勢分析とたたかいの展望を見出すという現実的な方法を学びに来たんだけれども、そういう見地から哲学を学ぶことは、妥当なのかを知りたいというものでした。結論からいえば、それは正しい意見です。このゼミナールは「科学的社会主義の運動論を深めるヘーゲル論理学のゼミナール」と銘打っているので、われわれは学者になるためにヘーゲルを勉強しているのではなくて、日々の職場や地域や学園などにおいて合法則的な活動や実践をするために、世界の諸法則を包括的に学ぶ意味で論理学を勉強しているのです。理論のための理論ではなくて、合法則的な実践を実現するための理論学習なんだということなので、その基本姿勢を明確にしておきたいと思います。

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