『ヘーゲル「小論理学」を読む(上) 』より

 

 

前期第一八講 本質論・本質 Ⅴ

 今日は「根拠」の前の一二〇節からです。ここまでは、本質とは何かということを問題とし、本質を考える上では同一と区別の統一を考えなくてはならないということを学んできました。どうして同一と区別ということを議論してきたかというと、結局、本質というのは現存在の根拠になるものなんですが、根拠をとらえるには、同一と区別の統一として根拠をとらえる必要があるからです。本質は根拠であることを説明したいがために、今まで同一と区別の問題をいろいろ議論してきたわけです。この一二〇節は、同一と区別の統一が実は根拠なんだという橋渡しをする節になるわけです。

本質は根拠である

 一二〇節 肯定的なものとは、向自的であると同時に自己の他者へ無関係であってはならないような、差別されたものである。否定的なものも同様に独立的で、否定的とはいえ自己へ関係し、向自的でなければならない。しかしそれは同時に、否定的なものとして、こうした自己関係、すなわち自己の肯定的なものを、他のもののうちにのみ持たなければならない。

 肯定的なものとは、同一と区別の統一の問題でいうと同一性になるわけで、否定的なものとは区別になります。肯定的なものと否定的なもの、すなわち同一と区別とは、それぞれ自立しながらも、本質的な相互関係のうちにあるものであって、自立しながらもお互いに固有の他者なしにはありえない、という相互関係にあることです。

 両者はしたがって定立された矛盾であり、両者は潜在的に同じものである。また、両者はそれぞれ他方の否定であるとともに自分自身の否定であるから、両者は顕在的にも同じものである。両者はかくして根拠へ帰っていく。

 「両者はしたがって定立された矛盾」とありますが、これを「矛盾」といっていいかどうか。「両者は潜在的に同じもの」というのは、例えば、塩酸と苛性ソーダがいっしょになって塩になるという意味では、酸もアルカリも潜在的には同じものだ、というのです。つまり関係しあっている同一と区別とは、対立物の統一として一つになる、その一つのものになったものが根拠なんだ、といいたいわけです。
 それで「両者はそれぞれ他方の否定であるとともに自分自身の否定であるから、両者は顕在的に」も「潜在的に」も「同じものである。両者はかくして根拠へ帰っていく」。この論理の運びがこれでいいのかどうかは別として、要するに、根拠というのは同一と区別の統一だということがいいたいのです。

  ── あるいは、直接的に言えば、本質的な区別は即自かつ対自的な区別であるから、それはただ自分自身から自己を区別するのであり、したがって同一的なものを含んでいる。したがって、区別の全体、即自かつ対立的にある区別には、区別自身のみならず同一性も属するのである。

 本質的な区別とは「対立」のことです。対立は絶対的な区別として、自己に固有の他者をもっています。自己に固有の他者というのは、自分自身の分身のようなものですから、固有の他者という区別は、自己との同一なものを含んでいるのです。したがって、対立の関係にある区別は、同一と区別の統一なのです。

  ── 自分自身へ関係する区別と言えば、それはすでに、この区別が自己同一的なものであることを言いあらわしているのであり、対立したものは一般に、或るものとその他者自己と自己に対立したものとを自己のうちに含んでいるものである。本質の内在性がこのように規定されるとき、それは根拠である。

 「自分自身へ関係する区別」とは、対立のことです。対立という区別は、上述のように同一なものを含んでいます。したがって対立したものは、一般に自己の同一性のうちに「自己と自己に対立したもの」という区別を、含んでいるのです。言いかえれば、対立という本質的な区別は、同一と区別の統一なのです。本質がこのように同一と区別の統一としてとらえられたとき、それは根拠になるのです。


ハ 根拠(Der Grund)

根拠は同一と区別の統一

 一二一節 根拠(理由)は同一と区別との統一、区別および同一の成果の真理、自己へ反省すると同じ程度に他者へ反省し、他者へ反省すると同じ程度に自己へ反省するものである。それは統体性として定立された本質である。

 根拠というのは、ドイツ語のGrundで理由とも訳されます。
 まず根拠というのは同一と区別の統一だ、とあります。次の「自己への反省」とは、自己同一性のこと「他者への反省」は区別のことです。根拠というのは自己同一であると同時に自己から区別されたものとしてあるだから同一と区別の統一なのです。
 根拠は「統体性として定立された本質」とありますが、同一と区別の統一が、統体性ということです。同一と区別が一つにまとめられた統体としての本質は、現存在の根拠としてあらわれ出ることになります。根拠はいつまでも内側にあるのではなく、外側に出て本質としての姿をあらわにするのです。

 すべてのものはその十分な根拠を持っているというのが、根拠の原理である。これはすなわち、次のことを意味する。或るものの真の本質は、或るものを自己同一なものとして規定することによっても、異ったものとして規定することによっても、これをつかむことができず、また或るものを単に肯定的なものと規定しても単に否定的なものとして規定することによっても、つかむことができない。

 この「根拠の原理」とは、形式論理学でいう「充足理由律」「十分な根拠の原理」のことをいっています。「すべてのものはその充分な根拠を持っている」という根拠の原理は、すべてのものにはそのものが存在するにいたる理由がある、というものです。すべてのものには、そうなるべき理由、根拠がある、根拠なし、理由なしにそのものが存在することは決してない、というのが「根拠の原理」です。すべてのものが根拠をもっているということは、要するにすべてのものは本質をもっていて、その本質のあらわれとして存在するということなのです。
 だから、本質が根拠だというのです。
 つまり根拠というものは同一というだけでは正しくないし、区別というだけでも正しくない。両者の統一、両者の「統体性」としての、根拠としてつかまえなければならないというのです。

  或るものは、他のもののうちに自己の存在を持っているが、この他のものは、或るものの自己同一性をなすものとして、或るものの本質であるようなものである。

 これは今いったことと同じなんですが「或るものは、他のもののうちに自己の存在を持っている」、つまり他のものを根拠として或るものは存在するのです。物事の本質をつかむということは、物事を二重にみる、媒介されたものとしてみるということです。本質を根拠としてもつことによって、そのものがそのものとして存在するとみるのです。

 そしてこの場合、この他者もまた同じく、単に自己のうちへ反省するものではなく、他者のうちへ反省する。根拠とは、自己のうちにある本質であり、そしてこのような本質は、本質的に根拠である。そして根拠は、それが或るものの根拠、すなわち或る他のものの根拠であるかぎりにおいてのみ、根拠である。

 ここが非常に大事なところです。「根拠とは自己のうちにある本質」であり「根拠は、それが或るものの根拠すなわち或る他のものの根拠である限りにおいてのみ、根拠である」というのです。つまり本質というものは、現象としてあらわれ出るかぎりにおいてのみ、本質なのです。同様に、根拠も根拠づけられたものとしてあらわれ出るかぎりにおいてのみ、根拠なのです。そういう意味で本質は根拠であることになります。
 われわれがものをいろいろ考えるとき「なぜそうなるのか」という問いを発します。子どもが最初に物事を、認識しはじめたとき「なぜ、どうして」と質問攻めにします。それは根拠を聞いているわけです。人間が表面的なものから、もう一歩深い認識として物事をみようとするとき、それは或るものの根拠を知ろうとすることになるのです。

根拠と根拠づけられるもの

 一二一節補遺 根拠は同一と区別との統一であると言う場合、われわれはこの統一を抽象的な同一と考えてはならない。でないと、ただ名称が変るだけで、思想から言えば、すでに真実でないものとして認識された悟性的同一を再び持つにすぎないからである。だからわれわれは、こうした誤解を防ぐために、根拠は同一と区別との統一であるにとどまらず、また両者の区別でもある、と言うこともできる。これによって、まず矛盾の揚棄として生じた根拠は、一つの新しい矛盾としてあらわれる。しかしそれは、このようなものとして、自己のうちに静かにとどまっているものではなく、自分自身から自己を突きはなすものである。根拠は、それが根拠づけるものであるかぎりにおいてのみ、根拠である。しかし根拠から出現したものは、根拠自身であり、ここに根拠の形式主義がある。根拠づけられたものと根拠とは同じ内容であり、両者の相違は、一方は単なる自己関係であり、他方は媒介あるいは定立されたものであるという、単なる形式上の相違にすぎない。

 根拠は同一と区別の統一といいましたが、統一とは何なのかといえば、同一と区別とが同一であると同時に、同一と区別が区別されているということです。それゆえ、根拠は新しい一つの矛盾なのです。
 その矛盾が根拠のなかにじっと静かにしているのではなくて「自分自身から自己を突き放す」、つまり根拠は自分自身を突き放して、根拠づけられるものになってしまうのです。そういう意味で、根拠から出現したものは「根拠づけられたもの」になるのですが、根拠づけられたものも「根拠自身であり」、したがって「根拠と根拠」づけられたものとは同じ内容であり、形式が違うだけなのです。根拠と根拠づけられたものとは、形式が違うだけで内容は同じであるということは、言いかえれば、理由などはそう大したものではない、ということにもなるわけです。それはこれから先に詳しくでてきます。

十分な根拠の原理

 われわれが事物の根拠を問う場合、それは一般に、すでに述べたような(一一二節の補遺)反省の立場であって、われわれは言わば事柄を二重にみようとするのである。

 一一二節補遺では、哲学の課題は本質の認識にあり、認識が深まっていく過程で本質を認識することが述べられていました。本質を認識するとは何なのかといえば、事物を直接態のままに放置する、つまり表面的なあるがままの姿を正しいとみるのではなくて、表面的な現象は本質によって媒介されているとみることなのです。ヘーゲルは以上のことを前提にしながら、事物の根拠を問う場合、それは反省の立場つまり「他のものによって媒介あるいは基礎づけられたものとして」物事を示すことであり、それは「事柄を二重にみる」ことになる、というのです。

 すなわち、一度は直接態において、次にはそれがもはや直接態のうちにないところの根拠において。これが、十分な根拠の原理と呼ばれている思惟法則の簡単な意味でもあって、この法則が言いあらわしているのは、事物は本質的に媒介されたものとみられなければならないということにすぎない。

 「なぜそうなるのか」という問いを発することは「十分な根拠の原理」に立脚していることであり、物事にはすべて理由があるというのです。十分な根拠の原理とは、直接態として存在する事物は何ひとつ存在せず、すべての事物は媒介されたものとして存在することを意味しています。

 形式論理学がこの思惟法則をうち立てる仕方は、その他の諸科学に悪い手本を示していると言わなければならない。というのは、形式論理学は、諸科学にたいしては、それらの内容を媒介されたものとして考察することを要求しながら、自分では、この法則を、導出もせずその媒介を示しもしないで、掲げているからである。もし論理学者に、われわれの思惟能力は、われわれがあらゆる場合に根拠を問わなければならないようにできているのだ、と主張する権利があるとすれば、同じ権利をもって医者は、水に落ちた人はなぜ溺れ死ぬのかと聞かれた場合、人間というものは水の中では生きられないようにできているからだ、と答えることができよう。同様に法律学者も、犯罪者はなぜ罰せられるのかときかれた場合、市民社会は犯罪が罰せられずにはすまないように作られているからだ、と答えることができよう。論理学が根拠の思惟法則を根拠づけなければならないということはしばらく問わぬとしても、論理学は少くとも根拠とは何かという問いには答えなければならない。

 形式論理学は「十分な根拠の原理」ということを思惟法則としています。それはそれでいいかもしれないけれども、問題はなぜそういう法則が必要なのか、どうしてそういう法則が導き出されるのかということです。そのことを何も示さず、何ら根拠を示さないで「十分な原理」は必要なのだと彼らはいっているにすぎないと批判しているのです。
 それに対してヘーゲルは自分は、根拠はなぜ必要なのかについて、同一と区別を論じて、同一と区別の統一を述べ、それが根拠であり、根拠は本質だということを示したではないかというのです。形式論理学はただ根拠が必要だというばかりで、どうしてそれが求められるのかを説明しようとしないと批判しています。
 なぜ根拠は必要なのかの問いに対し「われわれの思惟能力は、われわれがあらゆる場合に根拠を問わなければならないようにできているのだ」と答えるかもしれないが、それは同語反復であって、まるで答えになっていないというのです。論理学は少なくとも根拠とは何かについて答えなければならないのに、形式論理学はそれをしていない、わたしはそれをやった、とヘーゲルは自慢しているわけです。

 普通行われている、根拠とは帰結を持つものであるという説明は、一見わたしが上に述べた概念規定より明白でわかりいいようにみえる。しかしわれわれがさらに帰結とは何かと問い、帰結とは根拠を持つものであるという答を得るとき、この説明のわかりやすさなるものは、私は先行の思惟過程の結果として明かにしたものを、それが前提しているということにあるにすぎないことがわかる。

 形式論理学の「十分な根拠の原理」は、根拠とは何かとたずねると「根拠とは帰結を持つものである」という説明をするが、これは説明になっていない、というわけです。この説明は同語反復なのです。「根拠とは帰結を持つもの」だという場合、それでは帰結とは何なのかというと「帰結とは根拠を持つもの」となり、ぐるぐる廻りするだけでいっこうに認識は前進しない。根拠は同一と区別の統一だということによってはじめて、根拠の意味がはっきりします。根拠は帰結だというのでは、何の説明にもなっていないのです。

 論理学の仕事は、単に表象されたもの、したがって把握も証明もされていない諸思想を、思惟の自己規定の諸段階として示すことにあるのであって、かくすることによってはじめて、それらは把握され証明されるのである。

 すべてのものには根拠がある、すべてのものはそういうものとしてあるだけの理由をもっているというのは、それはそれで正しいわけで、形式論理学がいっている「十分な根拠の原理」はまちがっているわけではありません。まちがっているわけではないが「論理学の仕事」つまり哲学の仕事は、単に直感的に把握した原理、法則を「思惟の自己規定の諸段階として示すことにある」のだといっています。言いかえれば、論理学の仕事は直感的に正しいと思われる法則を論理的に根拠づけすることなのです。
 すべてのものごとには理由がある、すべてのものは根拠をもっている、だからどんな問題に対してもなぜそうなるのかを問い返す権利があるというのは、正しいでしょう。しかし、それがどうして正しいのかを説明しないと、哲学はその役割を果たしたことにならないのです。法則の必然性を解明することが、哲学では求められているのです。

根拠は絶対的に規定された内容を持たない

 ── 日常生活でもまた有限な諸科学でも、人々は非常にしばしばこの反省形式を用い、その適用によって考察さるべき対象の本当の姿をさぐろうとしている。認識のほんの日常的要求しか問題となっていないかぎり、こうした考察方法に異論をとなえることは少しもない。しかし、われわれはそれと同時に、この方法は理論においても実践においても決して決定的な満足を与えることはできない、ということを注意しなければならない。なぜなら、根拠というものはまだ絶対的に規定された内容を持たないから、われわれが或るものを根拠づけられたものとみる場合、われわれは直接態および媒介態という単なる形式的相違をうるにすぎないからである。例えば、われわれが電気現象をみてその根拠を問うとする。その問にたいして、電気がこの現象の根拠だという答えが与えられるならば、これはわれわれが眼前に直接みていたものと同じ内容であって、ただそれが内面性の形式に移されたにすぎない。

 根拠というものは、一定の意義をもちながらも、限界をもっているのだということがいいたいのです。日常生活でもあるいは普通の経験諸科学でも、この反省形式、つまり根拠あるいは理由というものをしばしば用います。理由をたどることによって、そのものの本当の姿に接近できるというのは正しいことであり、意味のあることなんですけれども、こういう認識の段階で満足してはいけないとヘーゲルはいうわけです。
 なぜなら「この方法は理論においても実践においても決して決定的な満足を与えることはできない」からです。というのも「根拠というものはまだ絶対的に規定された内容を持たないから」です。「絶対的に規定された内容」とは、そのものがそうあるべくしてあり、それ以外のものではありえない、という意味です。
 根拠とは、事物を直接的なものではなく、媒介されたものとみるだけのものにすぎないのです。つまり、何でもいいから理由がつけられさえすれば根拠になるのです。そのような単なる媒介の認識ではわれわれは満足しないわけで、本当に認識しようと思えば、そのものがそうであってそれ以外のものではありえない、という必然的な媒介性において認識することが大事なのです。それを「絶対的に規定された内容」といっています。実は、この「絶対的に規定された内容」が、概念論でいう概念なのです。
 以前、概念論の布石であると指摘しておいたところを振り返ってみましょう。一一四節において本質は同一と区別の対立物の統一だということを述べているのですが「本質の領域は、直接性と媒介性とのまだ完全でない結合」だという文章があります。本質論でも媒介性は議論するのですが、まだ直接性と媒介性の完全でない結合の段階にとどまっています。だから物事の本質を考える、理由を考える、根拠を考えるというのは、まだまだそれだけでは不十分であって、もっと高い認識に到達しなければならないのです。
 その直接性と媒介性の完全な結合、これが概念です。ですから今度は同一性の問題を議論しているなかで、抽象的な同一性に対して具体的な同一性、つまり区別をうちに含んだ同一性を議論し「後者の場合には、後でわかるように、それはまず根拠であり、より高い真理においては概念である」(㊦一九ページ)といっているのです。ヘーゲルは本質というものと概念というものを、同一と区別の統一とか、直接性と媒介性の統一とかのカテゴリーを使いながら議論を進めているわけですが、本質から概念へと認識が深まっていく過程を問題にしています。
 物事の本質を考えることは、言いかえると、なぜそうなるかと問い返すことであって、理由を考える、根拠を考えることです。なぜそうなるかといった場合、あれこれいろんな理由を挙げることができます。いろんなものを本質としてとらえることができるわけです。したがって、それだけでは認識としてはまだ不十分なのです。絶対に、そのものがそのものであってそのもの以外にはありえないような、そういう必然的な媒介、直接性と媒介性の統一として現在あるものをとらえるのが概念論の課題なのです。こういうことを念頭に置きながらヘーゲルは根拠を論じています。
 ですから「われわれが或ものを根拠づけられたものとみる場合、われわれは直接態および媒介態という単なる形式的相違をうるにすぎない」(㊦三八ページ)といっているのです。根拠において、これまで直接態とみられてきたものを媒介態としてとらえます。そういう意味では、根拠は直接性と媒介性の統一といえないこともないのです。しかしその認識はまだまだ不十分であって、せいぜい同一と区別の統一としかいえません。
 例えば、電気現象をみた場合、電気がこの現象の根拠だと答えるとしたら、結局、同じことをいっているだけではないか、同じ内容を異なる形式で述べているにすぎないではないかといっているのです。雨が降るのはなぜか、との問いに対して、雨が降るのは雲が出ているからだというのは根拠を説明しています。根拠の説明なんですが、雲は水蒸気で雨も水ですから、やっぱり同じ水の内容を形式の違いだけで説明しているにすぎません。
 つまり根拠というのは「絶対的に規定された内容を持っていない」ということがいいたいのです。

 さらにまた根拠は、単に自己同一なものであるにとどまらず、区別されてもいるから、同じ内容にたいしてさまざまな理由を挙げることができる。そしてさまざまの理由というこの差別性は、区別の論理にしたがって、同じ内容を肯定する理由および否定する理由という形における、対立にまで進んでいく。例えば、盗みというような一行為を考えてみると、それは一つの内容であるが、それにはさまざまの区別されうる側面がある。それは所有の侵害である。が他方、困窮していた盗人は、それによって自分の必要を満たす手段をえたのである。さらにまた盗まれた人が自分の財産を善用していなかったという場合もありうる。もちろん、この場合所有者の侵害ということが決定的な見地であって、他の諸見地はこれに譲らねばならないということは正しい。しかし根拠の思惟法則のうちにはこのような決定は存在しない。

 根拠は同一と区別の統一だといいましたが、区別されているという点からいうと、いろいろな理由が考えられるわけです。いろんな理由のなかには、相反するような理由も含まれることになります。だから理由も極端なことでいえば、相反するような理由でも成り立つのだということです。
 例えば、盗みという行為をみると、内容としては一つです。それは一面では所有権の侵害としてけしからんということになるのですが、困った人からすると生きるためには盗みもしかたないことにもなって、両方の理由が成り立ちうるではないかといっているわけです。
 チャップリンの「殺人狂時代」に一人を殺せば殺人者だけども、大量に殺戮すれば英雄だというセリフがあります。人を殺すという場合、普通は殺人という犯罪の根拠になるのに、戦場において殺せば英雄の根拠になるのです。そういう相反する根拠が成り立ちうるのです。そもそも理由というのは同一と区別の統一としてあり、その区別という点だけをみてみると、それはある対立する理由を生みだすまでの区別を含んでいるのです。理由でありさえすれば何でも良い「理屈と膏薬は、どこにでもくっつく」ということです。、

 普通この思惟法則は、単なる根拠一般ではなく十分な根拠をさすと解されているから、人々は、上に例として考察した行為について言えば、所有の侵害以外に挙げられたような諸見地は、理由ではあるが十分な理由ではない、と考えるかもしれない。しかし、十分な理由と言われるとき、この十分なという形容詞は余計なものであるが、そうでないとしたら、理由というカテゴリーを越えたものである。

 形式論理学の「十分な根拠の原理」というのは「十分な」という字がついています。だから根拠一般ではなく、十分な根拠といっているところに、形式論理学にいう「十分な根拠の原理」の意味があると弁明がなされるかもしれません。例えば、盗みをした場合、これは悪いんだという方に十分な根拠があるんであって、盗みをしてもよいというのは十分な根拠とはいえないと説明するかもしれない。「しかし、十分な理由といわれるとき、この十分なという形容詞は余計なものであるが、そうでないとしたら、理由というカテゴリーを越えたものである」とありますが「理由というカテゴリーを越えたものである」というところが大事です。理由すなわち根拠というのは、そもそも物事を媒介されたものとしてみるだけの意味しかないのであって、その媒介されたものとしての根拠には、さまざまなものが考えられます。そのなかのどれか一つだけを正しい根拠とする決定権は、根拠そのもののなかには含まれていないのです。だから「十分な根拠」といってみたところで、正しい根拠を特定できるものではないのです「十分な」という言葉に何か特定な意味をもたせるとしたら、それはもう理由とい。うカテゴリーをこえて、概念の方へ移行していくことになるのです。

根拠と概念

 この形容詞が単に理由づける能力を言いあらわすにすぎないとすれば、理由はこうした能力を持つかぎりにおいてのみ理由なのであるから、それは余計なものであり、同語反復である。兵士が命惜しさに戦場から逃亡する場合、かれの行為が義務に反しているのはもちろんであるが、かれにこのような行為をさせた理由が十分でないと主張することはできない。なぜなら、もしそうだったら、かれはその位置にとどまったであろうからである。なお注意すべきことは、一方においてあらゆる理由が十分であるとともに、他方においては、いかなる理由も十分ではないということである。なぜなら、すでに述べたように、理由というものは、まだ絶対的に規定された内容を持たず、したがって自ら活動し産出するものでないからである。第三部で示されるように、このような絶対的に規定された、したがって自己活動的な内容は、概念である。

 理由というものは、ある意味ではあらゆる理由は十分だといえると同時に、いかなる理由も十分ではない、ということでしかないのです。十分という言葉をつけることによって、理由が何か特別なものに変わるわけではなく、理由は理由にすぎません。理由が理由にすぎない以上はいろんな理由が考えられ、どの理由が正しいということは判断できないのです。
 裁判の判決には、主文と同時に理由を示さなくてはならないと書いてあります。例えば、主文――被告は原告に対して一〇〇万円を支払え。理由――被告は原告から一〇〇万円を借りた、被告は返済していない、だから一〇〇万円を支払え、となります。理由のない判決はありえない、そのように民事訴訟法に書いてあるわけで、必ず判決には理由があります。理由がありさえすればよいのですから、何らかの理由をくっつけさえすれば、どんな判決でも書けるのです。そこに反動的な判決が生まれる根拠があり、裁判所のもつ階級性が判決として示されうる基盤があるのです。
 階級的な事件において、訴訟をずっと傍聴している人が「これは絶対に勝てる」と思っているにもかかわらず、ふたを開けてみると負けるというケースがしょっちゅうあります。訴訟全体の流れからしてみると、勝つべき理由がそれこそ「十分に」あるにもかかわらず、別な理由をくっつけられて簡単に負けていまう。判決に理由を書くと、もっともらしい気がするけれども、どんな理由でもくっつき、どのようにでも判決は書けるのです。だから大衆的裁判闘争が必要なのです。裁判所を傍聴して国民が監視し、公正判決要請署名を積み上げて裁判所をみんなで包囲することを抜きにしては、公正判決は勝ちとれません。裁判所の階級性と同時に判決のもつ理由の限界というものも、そこにあると思います。
 ここでも「理由というものは、まだ絶対的に規定された内容をもたず、したがって自ら活動し産出するものではない」とありますが、この「したがって」というところ以下が新しい展開になるわけです。「絶対的に規定された内容、つまり「概念」というものは「自ら活動し産出するもの」なんです。
 それでヘーゲルは植物の胚を概念の例としてよく持ち出します。米の胚の場合、やがて葉を出し茎になり稲を実らせるのであって、それ以外にありえないのです。お米の胚が育っていったら麦になることは絶対にありませんし、ヒエになることも絶対にないのです。そういうものが「自ら活動し産出するもの」であることをヘーゲルは頭に描いており、それを「概念」といっているのです。
 人間の場合でも、人の受精卵は人間にしかならないわけで、イヌになったりサルになったりすることはありません。人間の受精卵も植物の胚と同じように「自ら活動し産出するもの」「絶対的に規定された内容をもつ」ものなのです。そこで「このような絶対的に規定された、したがって自己活動的な内容は、概念である」ということになります。根拠は「絶対的に規定された内容」になっていないから、そういう認識で満足していてはだめだというのです。
 「絶対的に規定された内容」をもつ概念の認識まで、根拠の認識は前進していかなくてはならないのです。以上のようにヘーゲルは、本質論と概念論との関係を認識の浅い段階と深い段階に区別してとらえています。これは非常に大事なところです。詳しいことは概念論で学びましょう。

 ライプニッツが十分な根拠という言葉を用い、事物をこの見地のもとにみることを要求するとき、かれが問題にしているのは、こうした概念なのである。ライプニッツがその場合第一に念頭においているのは、今日なお多くの人に愛好されている単に機械的な考え方であって、これをかれは正当にも不十分と断定しているのである。例えば、血液循環のような有機的過程を単に心臓の収縮に帰するのは、単に機械的な考え方である。また、害悪の除去とか威嚇とか、その他これに類する外的理由を刑罰の目的とみる刑法理論も同じく機械的である。ライプニッツが形式的な根拠の思惟法則のような貧しいものに満足していたと考えるのは、かれをあまりにも不当に取扱うものである。かれが主張した考察法は、概念的認識が問題になっている場合、単なる根拠をもって満足する形式主義とはおよそ正反対のものである。

 「ライプニッツが十分な根拠という言葉を用い」というのは、形式論理学でいう第四の基本法則「すべてのものには理由がある」という充足理由律のことです。今まで形式論理学で三つほど基本法則を学びました。本質論の同一と区別のところで、アリストテレス以来の形式論理学を紹介しました。この三法則に充足理由律を加えたものが、形式論理学の四つの基本法則といわれています。
 一、同一律……AはAである
 二、矛盾律……AはAであると同時に非Aでない
 三、排中律……Aは+Aであるか-Aであるか、いずれかである
 四、充足理由律……物事にはすべて十分な理由がある

 矛盾律と排中律は、同一律の裏返しであって、実質的には同じものです。この三つにライプニッツが、充足理由律をもう一つつけ加えたわけです。ライプニッツのいう充足理由律というのは、十分な「根拠」といわれているけれども、実際にライプニッツが問題にしているのは単なる根拠の問題ではなくて「概念」のことなんだとヘーゲルはいうのです。
 ライプニッツは、有機体に対して機械的な考え方を適用するのは「十分な根拠」がないとして否定しているのです。つまり有機体を機械と同様に考えることはできないというのです。人間の受精卵を野球のボールの大きさに例えれば、赤ん坊の大きさは東京ドームと同じくらいになります。ボール一個の大きさの受精卵がずっと細胞分裂を繰り返していくことによって、東京ドームと同じ大きさぐらいの胎児にまで成長するわけです。たった一つの細胞が分裂していくにもかかわらず、その分裂の過程でだんだん組織や器官がつくられていくわけです。それは機械的な作用ではないのです。どうして人間の形になって生まれてくるのか、長い間人類の疑問でした。昔は小さい人間の形をしたものが卵子あるいは精子のなかにいるんだと考えた時代もありました。なぜ一個の受精卵が細胞分裂していくなかでいろんな組織や器官ができて、最後は人間になっていくのか、機械的な考え方では絶対に結論は出てこないのです。
 それで生命体を考えるときには、生命としての十分な根拠が必要なんだとライプニッツは考えたのです。それは言いかえれば「絶対的に規定された内容」としての「概念」を問題にしていたのです。「例えば、血液循環のような有機的過程を単に心臓の収縮に帰するのは、単に機械的な考え方である」。そもそも、どうやって細胞分」裂を重ねるなかで心臓ができるのかが問題です。原始的な動物のなかの循環系には心臓などありません。心臓があっても人間のように左右二つづつで、そのなかが二つに区切られ四つの部屋になっている心臓というのは、人間ぐらいのものです。生命体のなかに、このように高度に発達したものはありません。このようなものを機械的な考え方で説明しようとしても、それは無理なのです。
 「害悪の除去とか威嚇とか、その他これに類する外的理由を刑罰の目的とみる刑法理論も同じく機械的である」。刑罰の目的は何なのかといえば、盗んだら処罰するぞと嚇かすつもりで、盗んではならないというように機械的に考えてはならない、刑罰には、刑罰としての「絶対的に規定された内容がある」というのです。
 ヘーゲルのいいたいことは、ライプニッツはその充足理由律において理由(根拠)という言葉を使っているものの、その内容は「概念的認識を問題」にしているのであって「単なる根拠をもって満足する形式主義とは正、反対」の立場に立っていると、ライプニッツを評価しています。

 ライプニッツはこの見地から作用因(causae efficientes)と目的因(causae finales)とを対置し、作用因に立ちどまらず、目的因にまでつき進むことを要求している。われわれがこの区別を採用すれば、例えば光や温度や湿りは、植物の生長の作用因とみるべきものであって、それらを目的因と考えることはできない。そしてこの目的因は、すなわち植物そのものの概念にほかならない。

 ライプニッツのいう充足理由律は、概念を問題にしているのですが、言いかえれば、機械的な作用因ではなくて目的因というものを生命体については考えることが必要なんだ、ということをいっているのです。目的因というのは、先ほどの例でいえば、人間の一個の受精卵が六〇兆の細胞をもつにいたるまで細胞分裂を繰り返すなかで、次第にその組織や器官がつくられていくのは、それぞれの細胞が内的目的性をもって自ら活動し産出していっているからなのです。目的というと何か人間の意思の働きのように思ってしまいがちですが、そうではありません。アリストテレスが最初に目的因のことを言い出したのですが、目的因をもっているということを生命体に関していうと、これは長い三五億年におよぶ生命体の種の知恵なのです。種の知恵がいわば、生命体の内的目的性として存在しているわけで、その目的にしたがって細胞分裂をしてそれぞれの器官が生まれてくるのです。
 この内的目的性の問題を抜きに種の進化は考えられません。偶然な突然変異だけで種が進化するのかといえば、そんなことはないのです。突然変異は、種の進化につながる変異もあれば一歩後退する変異もあるわけで、そういう偶然的変異を繰り返していくなかで、次第に自然への適応性、対応性を高める方向に向かって種の進化が生まれてくる必然性は何もないのです。だから種の変化を偶然の積み上げとみることは、決してできません。
 今日の「しんぶん赤旗」(九七年九月三〇日付)を読んでいたら、植物は動物との密接な関係のなかで種の発展を遂げてきており、植物は動物にいかに花粉を媒介してもらうか、さまざまな知恵を働かせているという記事がありました。そういう知恵を植物自身がもつに至っていることが内的目的性なのです。種のもつ知恵というか、生命体のもつ知恵というか、そういう目的因を考えないと「絶対的に規定された内容」をとらえることはできません。目的因がなかったら、人間の受精卵がイヌになったりブタになってもおかしくないということになってしまう。しかし人間の受精卵は人間になる内的目的性をもっているから、イヌやブタになるわけはないのです。
 「光や温度や湿りは、植物の生長の作用因とみるべきであって、それらを目的因と考えることはできない。そしてこの目的因は、すなわち植物そのものの概念にほかならない」。植物の胚はそれがヘーゲルのいう植物の概念であって、胚のなかに目的因を含んでいるのです。米の胚のなかに稲になるという目的をもっているのです。
 鈴木茂さんの『偶然と必然』のなかで、エンゲルスがダーウィンの進化論はまだ不十分だと批判しているのを取り上げて、結局、種のもつ内的目的性を正しく評価していないという批判なんだと解明しています。個体のなかにおける目的性としてとらえたら間違いですが、種のもつ目的性としてとらえた場合は、目的性という概念は非常に有意義なのです。ところがダーウィンは自然の突然変異を進化の真の要因だとみてしまって、偶然による要因にまかせてしまっている。そこにエンゲルスはダーウィンの進化論の不十分さをみているのです。

ソフィストの論法

  ── ここでなお注意しておきたいことは、特に法律および道徳の領域で単なる理由に立ちどまるのが、ソフィストたちの立場であり、原理であるということである。ソフィスト的論法(Sophistik)と言えば、正しいものや真実なものをねじまげて、一般に事物を誤った光のうちに表現するのを目的とする考察法にすぎない、と普通考えられている。しかしこうした傾向が直ちにソフィスト的論法のうちにあるわけではなく、その立場はまず理由づけ(Raisonnement)の立場にほかならない。

 ソフィストの立場に対して、哲学者のことをフィロソフィストといいます。ソフィストの立場というのは「法律および道徳の領域で単なる理由に立ち止まる」「理由づけ」の立場だといっています。この「立ち止まる」というところが大事なのです。つまり理由というのは、まだ「絶対的に規定された内容」をもたないから、あれこれの理由のなかからどれを採用するかは主観の問題になってしまうのです。ソフィストは、物事のすべてには理由をつけることができるし、その理由というのはどんなものにでもつけることができるのだ、という意味で理由のもつ限界を指摘したにもかかわらず、ソフィストは屁理屈をこねる、何にでも屁理屈をつけて真実をごまかそうとするというように誤解されている。しかし、ソフィストは理由というものを絶対的なものではないといいたかったのだ、と正しい評価を与えています。

 ソフィストたちがギリシャにあらわれたのは、ギリシャ人が宗教および倫理の世界でもはや単なる権威や伝統に満足しなくなり、かれらにたいして権威を持つ事柄を思惟に媒介された内容として意識しようという要求を感じていた時代である。ソフィストたちは、事物を考察するさまざまな見地をさがし出すことを教えることによって、こうした要求を満足させるものを与えようとしたのである。そしてこのさまざまな見地とはまず理由にほかならない。しかし、すでに述べたように、理由はまだ絶対的に規定された内容を持たないから、われわれは道徳や法律にかなったものにたいすると同様に、それらに反するものにたいしても、さまざまの理由を見つけだすことができる。したがってどの理由が重要であるかを決定するものは、主観であることになり、どれをとるかは各人の個人的な心術および意図の問題となってくる。こうなると、絶対に妥当するもの、すべての人に承認されたものの客観的基礎が崩れてしまう。ソフィスト的論法が先に述べたような当然の悪評を招いたのは、こうした否定的な側面によるのである。

 ソフィストの理由づけの立場、すなわち、すべてのものには理由があるという立場ですが、その「理由はまだ絶対的に規定された内容をもたない」から「さまざまな理由を見つけだすことができる」わけで「どの理由が重要であるかを決定するものは、主観であること」になってしまうのです。だから理由には絶対的なものはないんだ、ということをソフィストはいっただけなのです。それにもかかわらず、ソフィストはたいへんな悪評をこうむったわけだけれども、それはソフィストの責任というよりもむしろ、理由のもつ否定的な側面の反映であり、理由というのはその程度のものだ、といっているのです「理屈と膏薬は、どこにでもくっつく」というようにどんな理由だって考えられるのです。だから理由なるものはあまり積極的な役割は果たさない。一定の役目は果たすけれども欠陥があるのです。そういうことをソフィストは明らかにしたのです。

  ソクラテスは、周知のごとく、あらゆる点でソフィストたちと論争した。しかしかれはソフィストたちの議論に単に権威と伝統を対置することによってではなく、単なる理由というものの無定見を弁証法的に指摘し、それにたいして正義や善、一般に普遍的なものあるいは意志の概念を主張することによって、かれらと論争したのである。

 ソクラテス自身は、何も著作を残していません。彼の弟子であるプラトンは、ものを記録するのにたいへん優れた人物であって、たいへんな量のプラトン全集が残されています。それはほとんどソクラテスの対話したものを記録した形式となっています。しかし、どこからどこまでがソクラテスの言葉であり、どこからどこまでがプラトン独自のものなのか区別しがたいものです。
 ソクラテスは論争をしかけるわけです。論争をしかけて、最初に相手がいったことがまちがっていることを認識させる、認めさせられた方は少々頭にくるのです。これはソクラテスの産婆術といわれています。彼のお母さんは産婆さんだったのですが、産婆というのは女性自身がもっている子供を産む力に手助けをするだけです。ソクラテスも相手と対話することによって、相手が真理を認識することを手助けするだけなんだという意味で、彼は産婆術といったわけです。論争をつうじて相手のいったことを前提としながらそれを次々に否定していく、要するに弁証法的否定をくり返していくことをつうじて、相手が真理だと信じていたことが実は真理でなかったことを悟らせるのです。それが「単なる理由というものの無定見を弁証法的に指摘」することだったのです。
 ソクラテスは正義とか善とかの概念を念頭におきつつ、ソフィストの「単なる理由」づけを批判しました。だからライプニッツもソクラテスも、単なる理由というのは限界があるのであり「絶対的に規定された」概念にまで人間の認識は到達しなければならないという点では共通の立場に立っていた、ということをヘーゲルはいいたいのだろうと思います。

根拠・理由の限界

  今日でもなお、宗教以外の事柄にかんする議論のみならず、説教さえ主として単なる理由づけによって行われることが多く、例えば、神に感謝すべきあらゆる可能な理由が挙げられるというようなことがなされているが、ソクラテスやプラトンがこうしたやり方をみたら、直ちにそれをソフィスト的論法と断言するところである。というのは、すでに述べたように、ソフィスト的論法がまず第一に問題とするのは、常に真実でありうるような内容ではなくて、あらゆるものを弁護することもできれば攻撃することもできるところの理由の形式だからである。今日のような反省と理由づけにみちた時代には、あるゆるもの、最も悪く最も不合理なものにたいしてさえ、何かしかるべき理由を持ち出すことのできないような者は成功はおぼつかない。すべて世の中の腐敗したものは、しかるべき理由があって腐敗したのである。理由を持ち出されると、人々は最初はたじたじとなりやすい。しかし理由というものが本来どんなものかがわかってくると、人々はそんなものになかなか耳を傾けなくなり、またそんなものにもはや威圧されなくなる。

 これはなかなか面白いところです。「今日のような反省と理由づけにみちた時代には、あらゆるもの、最も悪く最も不合理なものに対してさえ、何かしかるべき理由を持ち出すことのできないような者は成功はおぼつかない」とありますが、なんだか今日のわれわれの時代のことをいっているような感じがします。今日のような弁明ばかりの時代において、最初は理由を持ち出されるとたじたじとなりやすいのですが、しかし理由というのは本来「絶対的に規定された内容」をもたないものであって、どんな理由でもつけることができるということが分かってくると、理由を持ち出されたからといってたじたじとなることはなくなるのです。
 私も弁護士になりたての頃、裁判でこちらの主張に対して相手方から反論が出る、反論が出るとそれだけでおたおたして、どうしようかと不安におちいる時期がありました。今ではどんな反論に対しても、ソフィストではありませんが、再反論できるという自信をもっています。裁判論争の大半はその程度の理由づけに終始することが多いからです。しかし、法はあれこれの考えられる理由のなかから、どれを選択するかという理由の選択の問題としてではなく、それ以外の理由はあり得ないという必然性を示すような主張を展開する、つまり概念を論じることを心がけています。そうしないと、裁判官と同じレベルの議論になってしまいます。裁判官が「お前はこういうけど、私はこっちの理由をとる」という。それに対して「裁判官はこっちの理由をとるかもしれないが、私はあっちの理由をとる」といってみたところで、説得力がないからです。
 しかし、そういう議論がけっこう多いのです。判決の批判をするのに、裁判所はこっちの意見をとるが、私はこの意見が正しいと思う、ということで対抗するやり方がよくあります。それでは勝負はつきません。お前はお前、私は私ということになり、同じレベルの平行線をたどる議論にとどまってしまいます。真の反駁というのは、一歩高い立場から、批判する対象を内にとりこむ批判でなくてはならないのです。

根拠から現存在へ

 一二二節 本質はまず自己のうちで反照し媒介されているものである。しかし媒介が完成されたからには本質の自己統一は今や区別の揚棄、したがって媒介の揚棄として定立されている。したがってこれは直接態あるいはの復活である。が、この有は媒介の揚棄によって媒介されている有、すなわち現存在(Existenz)である。

 ここからは、本質が根拠となり現存在にあらわれ出てくる、その現存在を問題にしており、この一二二節は根拠から現存在へのカテゴリーの移行を問題にしています。「本質はまず自己のうちで反照し媒介されているもの。である」とありますが、本質を議論するということは、或るものの内側におけるものを議論しているのです。或るものと他のものとの関係ではありません。或るものの内側にその本質があるとみるわけですが、この本質は根拠であり、根拠は有となってあらわれ出るのです。この根拠のあらわれでた有が現存在なのです。
 「根拠は、それが根拠づけるものであるかぎりにおいてのみ、根拠である。しかし根拠から出現したものは、根拠自身であり、ここに根拠の形式主義がある。根拠づけられたものと根拠とは同じ内容」(㊦三六ページ)です。だから本質は根拠なんだけれども、根拠づけられたものとしてあらわれ出たものも、また本質なのです。それを媒介の完成された姿だといっています。ですから、本質があらわれ出ることによって、本質は本質として内にある、現象は現象で外にあるという区別がもう揚棄されてしまって、本質が外にあらわれ出た以上は、もはやそれは有になってしまっているのです。そういう意味で「したがってこれは直接態あるいは有の復活である」といっているのです。
 本質は内側にひそんでいた状態から表にあらわれ出た、表にあらわれ出た以上はそれはもう有になってしまっている、そういう本質があらわれ出て有になったもの、それが現存在だといっているのです。だから現存在というのは有ですけども、媒介された有であって、単なる直接的な有、定有ではないのです。そこをはっきりみておかなければなりません。

 根拠は絶対的に規定された内容を持たず、また目的でもない。したがってそれは活動的でも産出的でもなく、現存在は根拠から単にあらわれ出るにすぎない。

 根拠と概念との違いをいっています。「根拠は絶対的に規定された内容」をもつ概念ではないし、まだ概念にみられるような目的因ももっていません。「したがってそれは活動的でも産出的でもなく」、根拠は外側に「単にあらわれ出るにすぎない」し、本質は単に現象するにすぎない。そういう意味で「現存在は根拠から単にあらわれ出るにすぎない」のです。表に出たというだけの話なのであって、それ以外の姿ではありえない形としてあらわれるべくしてあらわれ出たものではなく、たまたま表にあらわれ出ただけなのです。

 したがって特定の根拠と言ってもやはりそれは形式的なものである。言いかえれば、それはどんな規定性でもいいのであって、ただそれと連関している直接的な現存在との関係において、自己関係的なもの、肯定的なものとして定立されているものであればいいのである。

 根拠を問題とするときにはどうしても「特定の根拠」となります。何かある特定の理由をつける、これが「特定の根拠」です。しかし「特定の根拠」といっても、根拠は根拠ですから何でもいいのです。だから肯定的なものとして定立されているものであれば何でもいい。現存在とは特定の根拠に媒介された有ということになるわけですけれども、根拠であることに変わりはありません。
 先ほど述べたように、判決のなかでは理由を述べなければなりません。だから判決で述べられた理由というのは「特定の根拠」になるわけです。不特定ではだめで、根拠は特定しなければなりません。しかし「特定の根拠」なら何でもいいのです。それが理由というものです。

 それは根拠でありさえすれば、同時にしかるべき根拠でもある。というのは、しかるべきという言葉は、全く抽象的には、肯定的ということを意味するにすぎず、われわれがなんらかの仕方で明白に肯定的なものとして言いあらわしうる規定性は、すべてしかるべきものであるからである。だから、われわれは、あらゆるものにたいして、なんらかの根拠を見出し挙げることができ、しかるべき根拠(例えば行動のしかるべき動機)なるものは、何事かをひきおこすかもしれないし、またひきおこさないかもしれない、結果を持つかもしれないし、また持たないかもしれない。例をもって示せば、しかるべき理由は、意志のうちへ取り入れられてはじめて何事かをひきおこす動機となるのであり、意志がはじめてそれを活動的なもの、原因とするのである。

 「特定の根拠」というのは、言いかえれば「しかるべき根拠」ということになるのですが「しかるべき根拠」というのは、ただそのような理由が考えられるというだけのものです。「しかるべき根拠」も概念と違って何ら活動的ではないけれども、その根拠が意志のうちに取り入れられてはじめてそれは活動的になるのだ、というのです。「しかるべき根拠」とは、そういう理由が考えられるというだけの話であってたいしたことではないだから考えられた理由を意志のうちに取り入れてその理由にもとづいて何かしようかというときになってはじめて、活動的なものになるのです。この点で、自己産出的な概念とは異なるものだ、といいたいのです。

《質問と回答》

 根拠は、まだ絶対的に規定された内容をもたないという点で、一定の意味をもちながらも極めて制限された役割しか果たしえない、というところまで学習しました。これに関連してライプニッツの充足理由律の話が出て、ライプニッツは物事には十分な根拠が必要だといっており、その十分な根拠とは何をいうのかということで、テキストに「作用因に立ちどまらず、目的因まで突き進むことを要求している」(㊦四〇ページ)とあります。これは単なる根拠の見地でなくライプニッツはもう一歩高い立場に立って、概念の立場にまで到達しているのだということをお話ししました。これに関連して私は進化論は目的因を考えないと説明できないといいました。
 これに対して「進化論で内的目的因はまだ証明されていないのではないか」という質問がありました。これはなかなか面白い質問で、哲学とは何なのかということにかかわるものです。
 哲学の根本は認識論であり、真理をいかに認識するかということを探求することです。アリストテレスは真理を認識しようとすると、作用因だけでなく目的因をも考えないと駄目なのではないかと、問題を提起しました。アリストテレスの時代に自然科学において目的因というものが、例えば、DNAのなかにどのような形で目的因があるのかということが科学的に解明されていないのは当然のことであり、哲学上の認識論の問題として作用因だけでなく目的因をも考えないと合理的に物事を説明できないということで、目的因を提起しているわけです。
 これはデモクリトスがアトム論を紀元前に提起した時、当時の科学では、原子や分子を認識しえたわけではないのと同様です。物質を構成するものとして原子が存在することは、一八世紀末から一九世紀にかけて初めて科学的に解明されるのです。哲学は、認識論的にみて物事を合理的に説明しようとするところから、自然科学を先取りしている面があるのです。それが後になって、哲学の認識論の正しさが自然科学の発展によって証明されることになるわけです。そういう点からいえば、進化論を論じるなかでは内的目的性は欠かせないと確かにいえるんだけれども、それでは細胞のなかの、あるいはDNAのなかのどんな機能によって進化の目的因がになわれているのかはまだ解明されておらず、二一世紀に解明されるべき課題の一つだということがいえるだろうと思います。
 だから証明されているかどうかは、自然科学的な根拠が解明されているかどうかの問題であって、その意味からは目的因はまだそういう状況ではないと思います。
この問題に関して、最近面白い論文に出会いました。雑誌『経済』九七年一一月号に「現代と唯物論哲学の課題」の特集が組まれ、粟野宏さんがなぜ複雑系の科学がいま議論になっているのか(「『複雑系の科学』と自然弁証法」を述べています。
 無機物から有機物が誕生する、つまり生命のないところから生命が誕生する過程、人間以前の類人猿から人類が誕生する過程、そういう生命や人類の起点と進化を考えてみる時に、単純なものから複雑なものへという発展の過程があります。複雑なものをみると、外界との適応能力のより高いものほどより複雑な発展した姿としてある。そこには外界との適応能力の問題があり、さらには自己組織化の問題、自分を外界に適応させていくより高度な能力をもったものに組織化していく過程があります。生命や人類の起源のような「複雑な物質系が高度に、自己組織化していることであり、外界に対して適応しうることであり、また時間的に発展、進化しうることである」ことにかんする研究が「複雑系の科学」だといっています。
 つまり「複雑系」とは、従来の「機械論的世界観の限界を克服して、世界を連関と発展とみる自然弁証法の現代的表現である」といっています。ですから、今「複雑系の科学」で問題にしているのは、まさにアリストテレスがいっている目的因の探求なのです。生物の進化の過程で人類の誕生はある意味では必然です。つまり生命体は常に外界にあるものを体内に取り込んで生きているわけだから、外界との適応能力を身につけていかないと生命体は存在しえないのです。この外界に対する適応能力のことを反映機能といいます。それが次第に高度化していけば必然的に人間の脳のような非常に高度な反映機能をもった生命体が誕生するのです。そういう生物の進化は、目的因を考えないと解明できません。その目的因を探求しようとして「複雑系の科学」が生まれ、粟野さんは目的因という言葉こそ使っていませんが、この論文の中で説明しているものは、まさに目的因の探求だということがいえると思います。
 そこまで自然科学は到達しようとしている段階なのです。そういう意味でこの粟野論文は面白いと思いました。複雑系とは何かということに対して「対象やふるまいが要素の性質やふるまいの単なる総和にはほど遠いような系」といっています。要するに、複雑系の科学となるのは機械的な寄せ集めを超えるものであり、それはすなわち有機体なのです。有機体が有機体としてもっている特徴は、自己組織化であり、外界への適応能力であり、そして高度かつ複雑なものに発展していく過程です。それは種としての進化であり、それをもたらすものが内的目的性なのです。
 目的因の問題は、これからの自然科学の課題にいよいよなりつつあります。しかし哲学はすでに二五〇〇年前にそれを認識論の問題として先取りしているのです。

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