『ヘーゲル「小論理学」を読む(下) 』より

 

 

後期第五講 本質論・現実性 Ⅱ

ヘーゲル哲学における「現実性」の意義

 現実性として、
  a 実体性の相関
  b 因果性の相関
  c 交互作用
 この三つの小見出しが目次に出ています。実体性の相関はテキストでは一五〇節から始まっていますが、現実性は一四二節からですから、一四二節から一四九節までは現実性の前置きとして可能性・偶然性をまず述べて、それとの対比において必然性を論議しているのです。現実性というのは必然性のこととしてヘーゲルはとらえています。一四二節から一四九節まで、可能性とは何か、偶然性とは何かをまず論議し、そのうえに立って必然性とは何かを論じているのです。
 必然性のなかに、外的必然性(相対的必然性)と内的必然性(絶対的必然性)の二つがあり、現実性は絶対的必然性だとヘーゲルはいいたいのです。その絶対的必然性のなかに実体性の相関・因果性の相関・交互作用の三つがあるという構成になっています。絶対的必然性は、内的必然性が表にあらわれ出た現実性です。
 現実性とは内的必然性が顕在化したものであり、これはアリストテレスのエネルゲイアを念頭において論理を展開したものです。a実体性の相関、b因果性の相関、c交互作用の三つは、内的必然性の展開をみているのです。内的必然性とは実体であり、他のものの力を借りることなく自らの力によって必然的に展開される、そういう絶対的な力を示すものです。「実体」という語は日常的には、例えば、この会社には実体がないなどといいます。会社という形式はもっているが、実体がともなわないというように使います。ものごとの真理を認識する場合、本質を知ることも真理を認識するということになるでしょうし、実体を知るのも真理を認識することになるでしょう。さらに概念を知ることも真理を認識することになるでしょう。真理は、さまざまなレベルでとらえることができるのです。その一つが本質であり、実体であり、概念なのです。
 本質・実体・概念をもっとわかりやすい言葉でいってみますと、
 本質…表面からは隠された本当の姿
 実体…そのものの類としての姿・本来の姿
 概念…主観の作用によって生まれた真にあるべき姿
となるでしょう。
 実体の語を最初に使ったのはアリストテレスです。ギリシャ語でウーシア(Ousia)といいますが、これは個物のことです。この人間、この馬、あの犬などのように一つ一つの個物を実体・ウーシアと呼んでいたのです。主語となって述語とならないものを第一実体と呼びました。人間は動物であるという場合の人間が第一実体です。これに対して述語の動物を第二実体と呼びます。ヘーゲルはこのアリストテレスの第二実体の意味で「実体」の語を使っています。念頭に置いているのは「類」です。
 類とは、本来の姿です。人間の本来の姿は人類です。一人ひとりの人間は人類ではありません。人類は類として自らを産出しますが、男性か女性かのいずれかの個だけでは自己産出ができません。男性と女性がそろってはじめて人類になりうるのです。個のなかに本来の姿があるのではなくて、類のなかに本来の姿があるのです。本来の姿である類が個を生み出すのであると、ヘーゲルはとらえました。だから類は実体であると理解したのです。
 本質とか実体は、客観的実在のなかにおける真理といっていいでしょう。それに対して概念は、主観の作用から生まれた真理です。われわれがものごとを認識する場合、本質・実体(類あるいは普遍)・概念を認識するところまでいかにして自分の認識を高めていくかということが、認識の発展上求められています。人類の認識もそのようなものとして発展してきたと思われます。
 このように理解をしていくと「現実性」というものがヘーゲルにおいていかに大切なカテゴリーであるのかがわかると思います。つまり、有論・本質論の一番最後に現実性がおかれているということは、現実性とは客観世界における真なるものを認識することであり、客観世界における絶対的必然性を認識することです。そしてそれは実体を認識することなのです。
 上巻の六節でヘーゲルは、哲学の内容は現実であるといいます。

 それは現実および経験と必ず一致せねばならない。実際この一致は、ある哲学が正しいか否かにかんする、少なくとも外的な試金石であり、またこの一致を認識することによって自覚的な理性と存在する理性すなわち現実との調和を作り出すことが、哲学の最高の究極目的と見られなければならない。(㊤六八〜六九ページ)

 この文章の後に、有名な「わたしの『法律の哲学』の序文には、理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である、という命題がある」が続いているのです。だからヘーゲルにおいては、現実的というのは真理を認識するうえで大事なカテゴリーになっているのをつかんでおく必要があります。

 これらを前提にして今日の講義に入ります。
 前回、現実性は内と外の統一、現象と本質の統一という話をしました。現実性というのは必然性であるという、外的必然性のところまでをやりました。外的必然性とは、条件と事柄が活動によって結びつけられて一つのものになるということです。事柄とか活動とかは広義の条件となるのです。言いかえればすべての条件がととのったときに、それは必然性になるということを外的必然性というのです。一四七節で学んだところです。


C 現実性──続き

条件、事柄、活動──続き

 今日は一四八節からです。一四八節は一四七節の復習で、条件・事柄・活動の三つのモメントが出てきます。

 四八節 a 条件は(イ)あらかじめ措定されているものである。それは、単に措定されたもの(Gesetztes)としては、事柄にたいして相関的なものにすぎない。しかし先行するもの(Voraus)としては、それは 独立的なもの──事柄と無関係に存在する偶然的な、外的な事情である。しかし偶然的であるとはいえ、このあらかじめ措定されているものは、統体的なものである事柄と関係させてみれば、諸条件の完全な円である。(ロ)諸条件は受動的であり、事柄のために材料として使用され、かくして事柄の内容へはいっていく。それらはまたこの内容に適合しており、内容の規定全体をすでにそのうちに含んでいる。

 狭い意味での条件についてです。事柄は本質的な条件であって、必然性のなかではじめから最後まで貫きとおして存在し続けるものです。事柄も大きな意味で条件になります。前回、鋼を打って日本刀をつくる場合、鋼が「事柄」であるといいましたが、鋼は最初から最後までなくなりません。いわば本質的な条件です。そういうものを事柄と呼んでいます。
 これに対して、狭義の「条件」というのは必然性となってあらわれたときにはもうすでに消滅していて、事柄に吸い込まれて(その材料の一つとして)使われるものにすぎないのです。条件は事柄に対しては「偶然的な外的な事情」なのです。
 鋼があったとしてもそこに炭火がなければ、鋼を溶かして日本刀をつくることはできないのです。炭火がそこに存在するかどうかは鋼とは直接関係ないことです。その意味で条件とは事柄とは無関係な外的事情というのです。炭火は鋼を溶かすことによって鋼のための材料として使われ、鋼のなかに鍛造された物質となって(化合物となって)生きているということができるのです。

 b 事柄も同じく(イ) あらかじめ措定されているものである。措定されたものとしては、まだ内的なものであり、可能なものにすぎないが、先行するものとしては、それだけで独立の内容である。(ロ) 事柄は諸条件を使用することによって外へあらわれる、すなわち諸条件と対応しあう内容諸規定を実現する。したがって


 事柄は内容諸規定によって自己を事柄として示すとともに、また諸条件から出現するものである。事柄とは独立の内容だといっています。条件を使用することによって事柄のもつ本質的内容、先ほどの例で言えば鋼が日本刀となって外にあらわれるのです。

 c 活動(Tätigkeit)も(イ) 同じく独立に存在するが(例えば人間、人物のように)しかもまた諸条件および事柄のうちにその可能性を持っている。(ロ)それは諸条件を事柄へ移し、また事柄を諸条件(これは現存在に属する)へ移す運動である。否むしろ、そのうちに事柄が即自的に存在している諸条件から事柄のみを取り出し、そして諸条件が持っている存在を揚棄することによって、事柄に存在を与える運動である。

 活動とは事柄と条件を結びつけるものです。そしてこの三つが結びつくことによってすべての条件(広義)が整い、それによって内にあるものは必然的なものとして外にあらわれ出ることになるのです。それが必然性です。

 これら三つのモメントが相互に独立した存在という形を持つかぎり、上の過程は外的必然として存在する。──外的必然は限られた内容を事柄として持つ。なぜなら、事柄は単純な規定態における全体であるが、しかしこの全体的なものは、形式上、自己に外的であるから、自分自身においても、また自己の内容においても、自己に外的であり、そして事柄におけるこの外面性が、事柄の内容の制限をなすからである。

 外的必然性(相対的必然性)とは、事柄・条件・活動という大きな意味で三つの条件が全部そろったときに、はじめて内にあるものが外に必然的なものとしてあらわれ出てくることをいうのです。三つのものが一つに結びつくかどうかは、事柄にとっては外的なものであり、外的必然性にすぎないのです。
 それに対して、内的必然性(絶対的必然性)とは何かといえば、それは自己産出するもの、自分で自分を生み出すものです。これは他人の手を借りなくてもすみますから、そういう意味で絶対的必然性と呼んでいるのです。
 先ほど、絶対的必然性の内容として実体をヘーゲルが考えているといいました。なぜ類というものが自己産出すると考えているのかというと、人類という普遍から個々の人間が生まれてくるからです。そういう意味で類は、個別を自己産出する絶対的な必然性だとヘーゲルはとらえているのです。

外的必然性から内的必然性への移行

 一四九節 必然性はしたがって即自的には、自己のうちで反照しその諸区別が独立の諸現実という形式を持っているところの、自己同一的でありながらも、内容にみちた一つの本質である。そしてこの同一的なものは、同時に絶対的な形式として、直接的なものを揚棄して媒介されたものとし、媒介を揚棄して直接的なものとする活動である。

 ここは、相対的必然性、外的必然性の問題を論じています。最初の必然性というのは外的必然性です。外的必然性は「自己のうちで反照しその諸区別が独立の諸現実という形式を持っているところの、自己同一的であり、ながらも、内容にみちた一つの本質である」とありますが、外的必然性においては、まだいくつかの諸条件は「独立の諸現実という形式」をもっているのです。
 条件・事柄・活動というのは独立の諸現実です。その独立の諸現実がいっしょになって一つの必然性を生み出します。それが「自己同一的」ということです。いっしょになって一つのものを必然性として生み出すという意味では、それは「内容にみちた一つの本質」なのです。外的必然性とは、バラバラに存在する独立の諸現実が一つになって、あるものを必然的なものとして生み出すものです。
 「同一的なもの」というのは、必然的なもののことです。内にあるものが外にあらわれ出てきて、内にあるものと外にあるものとが同一になることですから、そういう意味で同一性という言葉を使っているのです。そしてそれは絶対的な形式だというのです。
 絶対的な形式とは何かというと、媒介されつつその媒介を揚棄したものといっています。必然的なものは、内にあるものと外にあるものとが媒介されているのです。内にあるものと外にあるものとが一体となって、その媒介がみえなくなっていることを媒介の揚棄といっているのです。つづいて「必然的であるものは、他のものによってそうなのである」とあります。「この他のもの」というのは、媒介する根拠(事柄と活動)と直接的な現実すなわち条件とに分かれます。
 だから、相対的必然性(外的必然性)とは、事柄、活動、条件という三つのものがたまたま一つになることによって生まれる必然性にすぎません。ですから、それは「措定されたものにすぎない」のであり、絶対的な必然性とは呼べないのです。ここまでが、相対的必然性を述べているところであり、そこから以降が絶対的必然性の問題になるので「しかしこの媒介はまた直接に自分自身の揚棄である」。この媒介というのは、事柄・活動・条件が、相互に媒介され一つになって新しいものに生まれかわるので「自分自身の揚棄」だというのです。つまり、事柄自身も、条件と活動と結びつくことによって、事柄ではなくなって新しいものとして必然的にあらわれ出るのです。
 事柄である鋼の塊はいつまでも鋼の塊ではありません。鋼の塊は日本刀にかわるのです。そういうことを「媒介はまた直接に自分自身の揚棄である」といっております。事柄が自分自身を揚棄して自分自身といっしょになることを「事柄は自分自身と合一する」といっています。

 このように自己のうちへ帰ったものとしての必然的なものは、無条件的な現実性として端的に存在する。──必然的なものは、一群の諸事情に媒介されて必然的なのである。すなわち、必然的なものは、諸事情が必然的であるから、必然的なのである。と同時に、必然的なものは、媒介されないで必然的である。すなわち、必然的であるから、必然的なのである。

 「自己の内へ帰ったものとしての必然的なもの」というのが、絶対的必然性ということです。それは、自己が自分自身を反発する(自己媒介する)ことによって、自分自身を産出するのです。自分自身と同一になるのです。そういうことが、絶対的必然性ということになるのです。だから、㊦一〇三ページの最初の行からの「必然的なものは」というのは「絶対的必然性」を論議しているのです。、
 内的必然性、つまり絶対的必然性は「一群の諸事情に媒介されて必然的」なのです。自己産出するためには、条件がいるけれども、その条件を自らつくりだすことによって(他のものの力を借りないで)、自己産出するから「媒介されて必然的」であると同時に「媒介されないで必然的」だというのです。絶対的必然性というのは媒介されていると同時に媒介されないことによって必然的なのです。
 このように述べて、この絶対的必然性のもつ関係を「絶対的相関」とヘーゲルは呼んでいるのです。、
 その絶対的相関のなかに「実体性の相関」「因果性の相関」「交互作用」という三つのものがあります。絶対的相関、つまり絶対的必然性というのは、どうして絶対的な相関なのかというと、内にある或るものが絶対的に必然的なものとして外にあらわれるからです。他のものの力を借りないで外にあらわれ出るので、そういう点では、元から内側にあったものと外にあらわれ出たものとが、それ以外にはありようがない絶対的なつながりをもっているのです。
 目次をみていただきたいのですが「B 現象」の一番最後のところで「相関」を学びました。この相関では全体と部分、力とその発現、内と外というカテゴリーを扱いました。ここでいう相関とは、相互前提関係にあるような二つのものをみているのです。全体と部分というのも、二つそろってはじめて意味をなします。こういう相互前提関係にあるものを相関といいました。
 これに対して「C現実性」の「絶対的相関」は、絶対的に自己産出するような二つのものの間の相互作用の関係です。その相互作用による自己産出は、最初は一方的な作用から始まるのです。それが実体と偶有の関係なのです。一方通行なのですから、実体から偶有へという形でしか産出しないのです。それが原因と結果になると、一方のようにみえるけれども、それは相互のはたらきなのです。さらに展開した交互作用になると、文字通り相互に産出しあうのです。お互いにAからB、BからAに相互に無限に行き交うような関係をみていくことになるのです。
 ですから相関というものを相互前提関係という言葉でいうとすれば、絶対的相関は相互作用の関係といってもいいかもしれません。しかし、それは単なる相互作用ではなくて、一方が他方を生み出すような関係です。生み出すというところが大事なのです。絶対的相関は、アリストテレスのいうエネルゲイアです。


a 実体性の相関(Substatialitäts-Verhältnis)

実体と偶有

 一五〇節 必然的なものは自己のうちで絶対的な相関である。すなわち(上の諸節に述べたように)相関が同時に自己を揚棄して絶対的な同一となる過程である。
 その直接的な形態は実体性(Substantialität)と偶有性(Akzidentalität)との相関である。この相関の絶対的自己同一は実体そのものである。実体は必然性であるから、こうした内面性の形式の否定であり、したがって自己を現実性として定立する。しかしそれは同時にまたこうした外面性の否定であって、この面からすれば直接的なものとしての現実は偶有的なものにすぎない。そして偶有的なものは、こうした単なる可能性であるために、他の現実へ移っていく。この推移形式活動(一四八節および一四九節)としての実体的同一性である。

 実体性の相関とは、実体と偶有の相関ということです。実体とは、先ほども話しましたように類です。偶有とは種、あるいは個です。最初からいきますと「必然的なものは自己のうちで絶対的な相関である」とあるのは絶対的必然性は、一つのものの内部において切りはなすことのできない絶対的なつながりをもっていることです。
 絶対的な相関は、或るものが或るものとしてあらわれ出るのです。それ以外にありようがないような形であらわ
れ出るのですから、それは絶対的なつながりだということになります。
 或るものの内と外とは絶対的なつながり、それ以外のつながりようがないつながり方です。「相関が同時に自己を揚棄して絶対的な同一となる過程である」とは、その二つのものが絶対的な同一となる過程、これが大事なのです。つまり内にあったものが絶対的なつながりとして外側にあらわれ出ると内と外が同一になります。そういうことを「相関が自己を揚棄して絶対的な同一となる過程である」というのです。
 その最初の絶対的相関の形態が、実体性と偶有性の相関です。相関の絶対的な同一とは実体そのものです。まず実体と偶有の相関のなかであらわれ出るものは、実体だというのです。実体は必然的なものとして外にあらわれ出て、自らを一つの現実として定立するのです。そのあらわれ出た現実が偶有性です。「類」と「種」の関係を考えればいいのです。人間というのは、人類という類が絶対的な必然性をもってあらわれたときに人種になってあらわれるのです。黒人もいれば白人もいれば黄色人種もいます。人類が実体で、人種が偶有です。黄色人種であっても、日本人なのかモンゴル人なのか朝鮮人なのかというのは、さらに下位の偶有性の領域に属するのです。
 実体は必然性であり、自己を現実性として定立します。「内面性の形式の否定」というのは、人類はいつまでも類としてとどまっていないで、自ら種や個を産出することをいっているのです。つまり「自己を現実性として定立する」ことであり、それは自己を偶有性として定立することになるのです。
 しかし同時に、実体が現実性としてあらわれ出ることは「外面性の否定」です。外面性の否定というのは、実体がそのままの形で外にあらわれるのではないという意味です。
 「この面からすれば、直接的なものとしての現実は偶有的なものにすぎない」とは、実体が外にあらわれ出て現実性になるのですが、あらわれ出たものが実体そのものかといえばそうではなくて、もはやそれは偶有性であるにすぎないのです。そしてこの偶有的なものは実体の単なる一つの可能性「類」の一可能性にすぎないのです。黄色人種か白色人種か黒色人種かというのは「類」の一可能性にすぎません。
 「そのために他の現実性に移っていく」とは、人類という実体は白人、黒人、黄色人という「他の現実性に移っていく」のです。こういう実体と偶有の関係が「形式活動としての実体的同一性」だというのです。まず実体は絶対的な力としてあらわれ出る一方的な力であるということをヘーゲルはいうのです。同時に一方的な力といいながら実はそうでもないと、ヘーゲルお得意の反省をするのです。それが一五一節です。

実体は偶有の全体

 一五一節 したがって実体は偶有の全体であり、偶有のうちで実体は、それが偶有の絶対的否定、すなわち絶対の力であること、しかも同時にあらゆる豊かな内容であることを顕示する。この内容はしかしこうした顕示そのものにすぎない。というのは、自己へ反省して内容となった規定性そのものは、実体の力のうちで移り変っていく、形式の一モメントにすぎないからである。実体性は絶対的な形式活動であり、必然性の力である。そしてあらゆる内容は、ひたすらこうした過程に属するモメントにすぎず、形式と内容との絶対的な交互転化である。

 ですから実体は偶有の全体です。今までは実体の側から偶有をみてきました。では偶有性の側からみて実体とは何かというと、偶有性のトータルのなかに実体があるとみるのです。黄色人種、白色人種、黒色人種、それら全体を集めたものが人類ということになるのです。
 「したがって実体は偶有の全体」です。偶有のうちで実体は「絶対の力であること、しかも同時にあらゆる豊かな内容であることを顕示する」というのは、黄色人種、白色人種、黒色人種という人種をつうじて、人類こそが根本的な存在であり、人類が人種を生み出す力であるということを示すのです。同時に人類という実体は、白人もいれば黒人も黄色人もいるという豊かな内容であることを顕示するのです。
 たしかに実体は偶有として示すことによって豊かな内容であることを示すのですが、その豊かな内容をもつ偶有は、実体のなかでは単に移り変わっていく「形式の一モメントにすぎない」のす。つまり、黄色人種がいなくなっても、人類は人類であることに変わりはないのです。人種の一つがなくなったとしても人類はなくなるのではありません。種は類の一つのモメントにすぎないのです。豊かな内容であることには間違いないのだけれども、それは類たる実体の単なる一つのモメントにすぎません。
 「実体性は絶対的な形式活動であり、必然性の力である」とありますが、必然性の力とか絶対的な力というのは、先ほどから述べているように人類が人種、あるいは個人を生み出す絶対的な力ということです。
 「形式と内容との絶対的な交互転化である」とは、実体は一つの内容として、偶有という一つの形式となってあらわれ出るのです。そういう意味では内容は形式に転化します。しかし今度は逆に形式の総体が内容となります。つまり、偶有の総体が実体だというのですから、逆に形式が内容をつくっていくということになるのです。
 だから実体が偶有を生み出すのだけれども、生み出された結果をみると偶有性の総体は実体を規定している形式が内容をつくりだしているというのです。実体と偶有との関係は、実体が偶有を生み出す絶対的な力だけれども、そのなかにヘーゲルはすでに早々と交互作用のモメントを見出そうとしているのです。それが「形式と内容との絶対的な交互転化である」という言葉に示されているのだと思います。
 補遺に行きましょう。スピノザの哲学というのはいわば実体の哲学ですが、それの批判をしているところです。

 一五一節補遺 哲学の歴史においては、われわれは実体にスピノザの哲学の原理として出あう。名声と悪評の並び行われているこの哲学の意義および価値については、すでにスピノザの生時から大きな誤解があって、それ以来も多くの議論の的となっている。スピノザの体系にたいして普通なされている主な非難は、無神論という非難、さらにまた汎神論という非難である。そしてその理由は、それが神を実体として、しかもただ実体としてのみ理解しているというのである。

 スピノザの哲学というのは、実体論といわれ、神を唯一の実体だと考えています。客観世界に存在する有限なものと神との関係は、否定と肯定の関係だとみたのです。神が肯定であり、有限なものはそれに対して否定的なものにすぎないと考えました。神のみが実体として存在し、有限なものを実体のあらわれとみないのです。
 ヘーゲルは、スピノザの実体論は実体と偶有の関係を適切にとらえていないとみています。つまり実体が偶有を生み出すというのですが、神という実体が客観世界を生み出すものとしてとらえることによって、客観世界の有限性を正当に評価するのならともかく、神のみが存在し客観世界はその否定にすぎないというとらえ方をするのは、一種の無世界論ではないか、客観世界を全部否定することになるのではないか、という批判を展開しています。
 スピノザに一番欠けているのは客観世界の承認、つまり個体性という西洋的な原理です。実体と個体との関係、類と個との関係が正しくとらえられていないのです。
 これに対し、ライプニッツのモナド論(前にモナド論というのをやったと思いますが、モナドというのも一種の実体なのです)は、モナドは個体を生み出すから、そこがスピノザの実体論と違うところなのだといって、モナド論を積極的に評価しております。

 スピノザの哲学にたいしてなされた無神論という非難は、これをよくみれば、この哲学が差別あるいは有限性の原理を正当に認めないということに帰する。この哲学には積極的に存在するものという意味での世界がないから、この哲学は無神論と呼ぶべきものではなく、むしろ逆に無世界論と呼ぶべきものである。

 「この哲学が差別あるいは有限性の原理を正当に認めない」というのは、世界は本当の実在をもたない一時的なものにすぎないととらえるのですから、やっぱり客観世界を正しく評価していないではないか、類のみが存在して個は存在しないというのはおかしいと批判しているのです。これは一種の無世界論だ、世界を全部否定してしまうことになると批判しています。

 スピノザ主義の内容上の欠陥は、形式が内容に内在しているものとして意識されていず、したがって形式が単に外的で主観的な形式として内容へ歩みよっている点にある。スピノザのように、あらかじめ弁証法的な媒介をせずいきなり実体を把握すれば、実体は普遍的な否定力として、あらゆる規定された内容を本来空無なものとして自己のうちへ呑みこみ、自己のうちからはなんら積極的な存在をも生み出さない、暗黒で形のない奈落のようなものとなってしまう。

 ヘーゲルは、スピノザの実体論が、実体―属性―様相として展開するのは、実体と偶有の関係を正しくとらえたものとして評価しながらも、それが実体の運動として展開されていないのが気に入らないのです。その理由として、内容上は一種の無世界論であり、形式上は実体の展開が「知性」の働きという主観的形式によるものとされ、実体自身の運動ととらえられていないと批判しています。そのうえで、実体というものをスピノザは絶対的な否定力として、あらゆるものを自分のうちにのみこみ、自分のうちからはなんら積極的な存在を生み出さない、「暗黒で形のない奈落のようなものとなってしまう」と批判しているのです。神しか存在しないのですから、すべて神のなかにのみ込まれてしまって客観世界に存在する個別的なものは何一つ認められないことになってしまうというのです。
 だから、実体は偶有を生み出し、偶有の全体が実体をなすものとしてとらえなくてはならないとヘーゲルは、主張するのです。
 一五二節の「実体と偶有の相関」からこんどは「因果の相関に移行する」という論理を展開しております。

 一五二節 実体は絶対的な力であるから、単なる内的可能性としての自己に関係することによって自己を偶有性へ規定する力であり、かくして措定された外面性はこの力から区別されている。この点からみるとき、実体は、必然性の最初の形式において実体であったように、本来の相関、すなわち因果性の相関である。

 実体は偶有を生み出す絶対的な力です。生み出された偶有は、実体から区別されています。人類と黄色人種とか日本人とかは、人類から区別されています。生み出すものと、生み出されるものとは、区別されているのです。そこに注目したときに、それは因果性の相関になるのです。因果(原因と結果)というものは、原因が結果を生み出すのですが、原因と結果を区別されたものとしてとらえるのだから、そういう意味で実体性の相関は因果性の相関に発展していくのだといっています。


b 因果性の相関(Kausalitäts-Verhältnis)

 ここまでの実体と偶有という一方的に生み出すという関係から、こんどは交互に生み出し合う、相互作用をもつものとしての因果性がとらえられています。因果性というのは、われわれが自然や社会の法則性を認識するうえできわめて重要なカテゴリーです。
 人間の認識が発展していく段階、例えば子どもが大きくなっていく過程で、まず最初に子どもが聞くのは「なぜそうなるの」「どうして」という質問です。それはまさに根拠を問うものであり、もう少し展開すれば原因を問うものです。因果性というのは、ものごとの法則性を認識するうえでの非常に重要なカテゴリーなのです。

原因と結果

 一五三節 実体は一方では、偶有性への移行とは反対に、自己へ反省し、かくして本源的な事柄であるが、しかし他方それは、自己内反省あるいは単なる可能態を揚棄して、自己を自己そのものの否定として定立し、かくして結果(Wirkung) 、すなわち、単に定立されたものではあるが、同時に作用の過程によって必然的なものでもあるところの、現実を産出する。このかぎりにおいて実体は原因(Ursache)である。

 実体は偶有性を生み出す原因です。だから「実体は一方では偶有性の移行とは反対に、自己へ反省し、かくして本源的な事柄である」というのです。この「本源的な事柄」とは「本来の姿」ということでしょう。つまり、実体とは類ですが、別の言葉でいうならば、本来的にある姿です。しかし同時に本来の姿にいつまでもとどまっているのではなくて、自分を否定して結果を生み出すのです。種を生み出し、個を生み出すのです。つまり「現実を産出する」のです。実体は現実を産出するかぎりにおいて、原因であり産出されたものは結果であるといっているのです。

 原因は、本源的な事柄として、絶対的な独立性と、結果にたいして自己を保持する存立性とを持っているが、その同一性は、原因の本源性そのものをなしている必然性のうちで、全く結果へ移行している。特定の内容がここでも問題となりうるかぎり、結果のうちには原因のうちにないようないかなる内容も存在しない。右に述べた同一性が絶対的な内容そのものである。

 原因は本源的な事柄として絶対的な独立性と、結果にたいして自己を保持する存立性とをもっています。原因は原因として結果から独立しているのです。しかし原因と結果をその内容においてみると同一なものとして、原因は結果に移行すべき必然性をもっています。因果の相関はこの必然性のうちにあるから、絶対的相関の一つなのです。
 原因はそのまま大きくも小さくもならずに結果にあらわれます。原因よりも結果が大きくなるような場合は、「因果関係」ではなく「発展」といいます。因果の場合は原因と結果のなかで内容は同じものなのです。原因と結果の形式がちがうだけです。

 有限な原因およびその表象においてさえ、内容の同一は存在している。原因である雨と結果である湿りとは、同一の現存する水である。形式からすれば、原因(雨)は結果(湿り)のうちで消失する。しかしそれとともにまた結果という規定も失われてしまうのであって、結果は原因なしには無であり、そしてこの場合無関係な湿りが残るにすぎない。

 原因と結果は、例えば「雨が降ったら地面が湿る」という具合に、原因の雨も結果の地面の湿りも、おなじ水なのです。雨も湿りも内容は同じ水であり形式が違うだけなのです。原因と結果は別々のものであるととらえられると、原因は原因、結果は結果ということになるのです。しかしいったん原因となったものも、また別のものの結果になりうるし、結果もまた別のものの原因となります。
 そこでヘーゲルは因果関係の相関は有限のカテゴリーだといいます。悪無限を嫌うヘーゲルは、結果から原因への上向的な無限進行を、あるいはまた同様に原因から結果への下向的な無限進行を批判して、有限なカテゴリーにすぎないというのです。

 一五三節補遺 悟性は、実体性というものは容易に受け入れようとしないが、それに反して因果性、すなわち原因と結果との関係はよく知っている。或る内容を必然的なものとみようとする場合、悟性的な反省が努力するのは、主としてそれを因果関係に還元することである。もちろん、因果関係は、必然性に属してはいるが、しかしそれは必然性の過程における一側面にすぎず、必然性の過程は、因果性のうちに含まれている媒介を揚棄して、自分が全くの自己関係であることを示すものである。

 
 因果関係に還元するということは、必然的なものをみる場合に大事なことですが、必然性を因果性だけに解消してはいけないのです。必然性にはそれだけではなく、実体と偶有、交互作用があり、さらには概念もあります。ですから因果法則は必然性の一側面にすぎないのです。ですから「必然性の過程は、因果性のうちに含まれている媒介を揚棄して、自分が全くの自己関係であることを示すもの」だといいます。必然性の発展した形は自己を産出するものとしてあり、これが「概念」ということになるのです。
 前にも「必然性が発展した概念」ということは出てきました。ですから、因果の関係はまだ有限なカテゴリーにすぎません。その有限性は、原因と結果という対立するものがあくまでも区別されていて分離されていることから、無限進行につながるという点で有限なカテゴリーだと批判しています。これに対して概念は、対立物の統一としての真無限なのです。

因果関係から交互作用に

 一五四節 結果は原因とは別なものである。結果はこの意味では措定されたものである。しかし被措定有もまた自己反省であり、直接的なものである。そして原因の作用、すなわちその措定作用は、結果があくまで原因と異るものとされているかぎり、同時に結果を前提する作用である。したがって結果がそこで起るところの他の実体が存在する。この実体は直接的なものであるから、自己へ関係する否定性でもなければ、能動的でもなく、受動的なものである。しかしそれはまた実体であるから能動的でもあって、前提された直接性と自己のうちへ措定された結果とを揚棄し、反作用する。言いかえれば、それは最初の実体──これもまたその直接性あるいはそのうちへ措定された結果を揚棄するものなのであるが──の能動性を揚棄し、そして反作用する。かくして因果性は交互作用(Wechselwirkung)へ移っていく。

 実体と偶有の関係は一方的な関係でした。因果の関係も一方的な関係のようにみえますが、よくみると交互作用の関係にあるというので、因果法則は交互作用に発展していくと述べています。すなわち、原因が結果を生み出すのですが、結果は結果として存在することによって、原因を原因として定立するものです。つまり原因があるから結果があるだけではなくて、結果があるから原因があるのであって、そういう点で反作用があるというのです。この意味で因果性は、交互作用だといえるのです。
 能動的に作用するものが実体であり、実体が能動的に作用して偶有を生み出すのですから、原因は実体です。原因は実体として能動的であり、受動的なものが結果です。しかし結果が生まれることによって原因を規定するという意味で、結果もまた能動的なものであり、ある意味で実体であるという言い方をしています。要するに原因と結果の交互作用というところをみているのです。

 交互作用において、因果関係はまだその真の規定において定立されてはいないけれども、原因から結果への、および結果から原因への直線的な運動が、自己のうちへ曲り戻らされていることによって、原因と結果との無限進行は真の仕方で揚棄されている。

 因果関係は、上にも下にも無限につながる関係となるので、ヘーゲルは気に入らないのです。内側に折り曲げられた無限進行でなくてはならないというのです。そしてそれが交互作用だと述べます。交互作用は、原因から結果へ、結果から原因へと自己のうちに折り曲げられている無限進行、自分のうちで相互に無限に移行し合う作用です。「直線的な運動が自己のうちへ曲がり戻らされている」というところはいかにもヘーゲルらしいところです。

 しかしこうした関係の発展である交互作用は、それ自身区別の交替ではあるが、しかしそれは原因の区別の交替ではなくて、因果関係を構成する二つのモメントの区別の交替であり、そしてこれら二つのモメントの各々において再び、原因は結果のうちで原因であり、結果は原因のうちで結果であるという同一性、不可分性にしたがって、同じくもう一つのモメントも定立されるのである。

 原因と結果の相互作用、作用と反作用という交互作用の中で「もう一つのモメントも定立される」というのは、交互に移行しあうものを統一する、第三のモメントが定立され、この第三のモメントこそが「概念」になるということであり、概念論に移行する橋渡しが準備されるのです。


c 交互作用(Wechselwirkung)

 一五五節 交互作用のうちであくまで区別されている二つの規定は(イ)即自的には同じものである。すなわち、一方の側面は他の側面と同じように原因であり、本源的であり、能動的であり、受動的である、等々。同様に、他の側面を前提することとそれへ働きかけること、直接の本源性と交替によって措定されることとは、同一である。

 交互作用において区別されている二つのものは潜在的には同じものであるから相互に移行しあうのです。原因は結果であり、結果は原因であるのです。このことが交互作用のうちの(イ)ということです。
一五六節では、即自的には同じものが、対自的には区別されていることを述べています。

 一五六節 (ロ)しかしこの同一性はまた対自的でもある。なぜなら、上に述べたような交替の全体は、原因自身の措定作用であり、原因のこうした措定作用のみが原因の有をなしているからである。区別は即自的にのみ、あるいはわれわれの反省によってのみ空無であるのでなく(前節を見よ)、交互作用そのものが、措定された二つの規定の各々を再び揚棄して、反対の規定へ逆転させるものなのであり、したがって二つのモメントの即自的に存在する空無性を措定するものなのである。

 交互作用は対立物の相互移行による同一性の定立なのですが、対立する二つのものを区別したうえで、その区別を否定しているのです。

交互作用は完全に展開された因果関係

 一五六節補遺 交互作用は完全に展開された因果関係であり、実際また反省は、因果性の見地の下に事物を考察することが、前に述べたような無限進行のために不十分であることがわかると、普通それへ逃路を求めるものである。

 因果関係のより普遍的形態が交互作用です。エンゲルスは『自然の弁証法』で「諸物体相互のこのような作用こそがまさに運動なのである。物質は運動なしには考えられないということはすでにここに示されている」と述べて、交互作用の普遍的意義を明らかにしています。(全集⑳三八六ページ)
 人間関係はすべて交互作用です。だから難しいのです。競争原理が支配している資本主義社会では、本来「社会的存在」であり、交互作用においてのみ存在しうる人間が、バラバラにされています。対人関係を奪われてしまって、ファミコンなどの機械としか遊べない子どもたちが増えています。このことも大きな原因となってすぐに「きれる「むかつく」子供たちが大量にうみ出されているのではないでしょうか。つまり人間どうしの対話」という交互作用を十分に行えないようにされて、その結果、人間関係が成熟せず、すぐに「きれる」「むかつく」ようになっているのではないかと思われます。

 同じことはまた自然を考察する場合、特に生物を考察する場合にも行われ、生物の諸器官および諸機能は同じく交互作用の関係にあるものとして示される。交互作用は原因と結果の関係の最も近接した真理であって、言わば概念の入口に立っているが、しかしまさにそれゆえに、概念的認識が必要である場合、われわれはこの関係の適用で満足してはならないのである。

 交互作用は本質論の一番最後の段階であって、客観的実在のなかの法則としても非常に大事なものなのだけれども、まだそれは概念的意識までには発展していない不十分なものであるといっています。

 交互作用という関係の適用がなぜ不十分であるかをよく考えてみると、それは、この関係が概念に等しいものでなく、まず概念的に把握されなければならないものである、という点にある。そしてこのことは、この相関の二つの側面を直接に与えられたものとして放置せず、前の二節で示したように、それらをより高い第三のもののモメントとして認識することによって行われる。そしてこの第三のものこそまさに概念なのである。

 交互作用は対立物の相互移行、あるいは対立物の同一ですが、その対立物の同一を実現するような対立物を内に含む第三のモメントを念頭に置かないと、交互作用そのものを正確にとらえることができません。その第三のモメントが概念なのです。夫婦を例にとると、夫と妻の交互作用から生まれる「夫婦」は、夫でもない妻でもない第三のモメントです。夫と妻の交互作用は、より高い第三のもののモメントである夫婦を生みだすのです。それが概念です。

実体から概念へ

 次の一五七節は、概念への移行を論じた節です。これまでのところは絶対的相関を論じたところでした。言いかえれば実体をみているのです。この絶対的相関(絶対的必然性)の最後で、実体から概念への移行が説明されます。

 一五七節 (ハ)したがってこのような純粋の自己交替は、顕現されたあるいは定立された必然性である。必然性そのものの紐帯は、まだ内的で隠れた同一性である。なぜなら、この同一性は、それらの自立性がまさに必然性たるべきものではあるが、諸々の現実的なものと考えられているものの同一性であるからである。

 純粋の自己交替とは、交互作用における対立するモメントの相互転換の問題なのです。「純粋の自己交替は顕現されたあるいは定立された必然性である」「必然性そのものの紐帯は、まだ内的で隠れた同一性である」とは、絶対的相関の不十分さをみているのです。対立物の相互移行という必然的な関係を問題にしているなかでの議論ですが、この必然性を産み出すのは、対立する二つのものを結びつける第三のモメントです。対立する二つのものは相互に移行するという関係で結びつけられています。その二つを結びつけるヒモ(必然性の紐帯)は、内的で隠れた同一性、第三のモメントであり、それが概念なのですが、まだそれが表面化していないことをいっているのです。つまり一つに結びつけるものはまだ表面化してない概念なのです。

 したがって実体が因果性と交互作用とを通過するということは、独立性が無限の否定的自己関係であるということの定立である。なぜ否定的であるかと言えば、そこで区別および媒介が相互に独立的な諸現実の本源性となるからであり、またなぜ無限の自己関係であるかと言えば、諸現実の独立はそれらの同一性としてのみ存在するからである。

 絶対的相関というのは実体を議論してきたのです。実体が、実体と偶有、因果性、交互作用を通過し、ここまで来て振り返ってみると、結局、二つのモメントが相互に転化しあい、相互に移行しあっているのです。それは二つのモメントが同じ基盤にあるからこそ相互に移行しあったのです。その共通の基盤が第三のモメントであり、それが概念なのです。無限の否定的自己関係の定立というのは、そういうことです。
  概念のなかにあって、二つのモメントは相互に移行しあう同一性として定立されています。二つのモメントの独立性が無限の否定的自己関係だというのは、相互に無限に自己否定して対立物に移行しながら、自己同一性を貫く関係をみているのです。そのためには、二つのモメントを自分に取り込み、全ての自己内運動とするような第三のものがいるのです。

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