『ヘーゲル「小論理学」を読む(下) 』より

 

 

後期第一四講 概念論・客観 Ⅱ

B 客観 ―続き

主観と客観との関係

 はじめに、主観と客観という問題をあらためて整理しておきましょう。今、われわれは主観とか客観とかいう言葉を日常的に使っておりますが、こういう言葉が使われだしたことにも歴史的な背景があります。主観と客観は近代自然科学の発展に関連して生まれた用語です。中世をつうじて哲学の中心をなしてきたのは、スコラ哲学といわれるキリスト教とも結びついた哲学ですが、その中心になったのがアリストテレスの哲学でした。ですから近代自然科学は、ある意味では、アリストテレスの哲学の批判からはじまったといえるわけです。その先陣をきったのが「近代自然科学の祖」といわれるガリレオ・ガリレイです。一六世紀の後半から一七世紀の前半に、活躍したガリレオは、計算尺や望遠鏡などの道具を自分で作って天体観測などをして、今日の物理学や天文学の基礎を築きました。また、一七世紀は、ガリレオだけではなくて、ケプラーとかボイル・シャルルの法則のボイルとかニュートンとか、こういう自然科学者を輩出するわけで、現代まで続く自然科学の基礎は一七世紀に築かれたといってよいでしょう。
 ガリレオはどういう点でアリストテレスの批判をしたのでしょうか。アリストテレスの自然哲学は、自然を動かしている根本的な原因が四つあると考えました。一つ目は質料因、二つ目は形相因、三つ目は作用因、四つ目は目的因です。アリストテレスの自然哲学は、高い所から物を落としたら、重いものほど速く落ちるといっていました。重いものほど地球の中心に向かう目的をより多くもっているから速く落ちるという「目的因」で説明していたのです。それをガリレオが、ピサの斜塔からいろんな重さの玉を落とす実験をしまして、空気抵抗を無視して考えると重いものも軽いものもみな同じ速さで落下するという結論を出して、この目的論が誤っていることを明らかにしたのです。
 近代自然科学が一七世紀以降発展するなかで、一つの世界観が生まれました。世界の基礎には物質があり、物質、あるいはその構成要素が、さまざまに関連しあいながら全空間に広がっていて、それが世界、自然の究極的な事実だという、物質を基本とした機械論的な考え方が近代自然科学の根本的な世界観として登場するのです。アリストテレスの目的論の批判のうえに、機械論が確立され、それが自然科学を発展させていくことになりました。
 機械論の根本になるのは、原因と結果という関係です。アリストテレスにいわせると「作用因」になるわけですが、外から力が働いて物が動くという力学的な関係を基礎においたものの考え、あるいは世界は機械の部品のようなものからなっているという考え方を基本にしています。そこから自然科学の没価値性がいわれるわけです。自然には、もともと価値というものはないし、目的なんか存在しない。物質は機械的に存在するだけだから、機械的に存在する自然を科学することは、価値とは別の問題だという、科学における没価値性の考え方がだんだんに生まれてくるのです。自然科学は価値観とは別の問題だということになってきます。
 こういう自然科学における物質を基本にした機械論が哲学の面にも反映するわけで、自然科学の発展を生み出した合理的なものの考えに立った二元論を確立したのがデカルトです。デカルトは近代の合理主義的な哲学の出発点を築いたのですが、その基礎には近代自然科学の発展があったのです。デカルトは有名な「我思う、ゆえに我あり」といったのですが、これは中世のスコラ哲学を批判して、すべてのものを理性の審判にかけて、それが正しいか否かの判断をすべきだといったのです。人間の理性に無限の信頼をおいて、その理性にかなうものだけが正しいという合理論の立場にたち、世界の根本的な存在は精神と物質という二つからなっているという二元論を唱えるわけです。
 ですから、デカルトは精神を研究する「形而上学」と物質を研究する「自然学」の二つに科学を分けました。デカルトの用語でいうと、心に相当する「res cogitans」(思惟するもの)と物に相当する「res extensa 」(延長 )をもつもの)の二つに分けました。
 「res cogitans res extensa」が後に「主観」という言葉と結びつき「」が「客観」という言葉と結びついてい きます。つまり主観と客観という用語は、デカルトの二元論に源を発しているのです。一七世紀以降の自然科学の発展のなかで、人間の心の世界と物質の世界をくっきり分けて、この二つは別々なものなんだという考え方が確立され、物質の世界には人間の心の中にある目的という観念をもちこんではいけないのであって、そこは単なる機械的な関係の世界だというように分けてしまったのです。
 ヘーゲルはこの見方に二つの方向から疑問を呈します。一つは自然を機械的な関係だとみる見方、機械論的な自然観、あるいは機械論的な客観観、これを批判して、たしかにガリレイの実験にみられるように客観世界を機械論としてみるべき分野はたしかにあるけれども、それだけでいいんだろうか、アリストテレスの目的論も客観世界のなかで考える必要があるのではないかと問い直しをしたのです。
 もう一つは主観と客観をまったく切りはなす二元論でよいのかと問題提起して、主観と客観が全然別なものとして切りはなされて存在しているのではなくて、両者の交互作用の中で主観と客観の統一が実現されるというようにとらえないと正しい世界観はなりたちえないと考えたのです。このヘーゲルの批判は基本的に正しいと思います。
 第一の機械論的な自然観の批判ですけれども、客観世界の中には有機的な存在があります。これはもちろん植物や動物の生命体そのものについてもいえることですし、あるいは国家とか社会とか民族とか、一つのまとまりをもった社会的存在についてもいえることです。会社(資本)という組織がありますが、あれは法人といわれています。資本でありながら、法律上人間と同じ人格を有する存在だと認められているわけです。「法人」は、資本が人間と同様の有機体であるという前提にたって、それに法的な人格という評価を与えているわけです。ヘーゲルはそういう広い意味の有機体の主体性を考えるにあたっては、機械的な関係だけでは説明しえないのではないか、アリストテレスのいった目的論を、もう一度考慮する必要があるのではないかと考えたわけです。ですからヘーゲルの概念論における客観は、大きく三つに分かれて機械的関係、化学的関係、目的的関係となっているのです。それはそれで正しいとらえ方だろうと思われます。
 例えば、ダーウインの進化論―ヘーゲルは進化論を知らないんですが―は機械的な進化論です。それは、変異と自然淘汰の二つが組み合わさって成り立っています。まず偶然の作用(機械的作用)によって突然変異が生じて、その変異が生存競争にうちかって自然淘汰という機械的作用の中で生き残っていくことによって、その変異が次の世代にも引き継がれ、種の進化が起きるという考えをとったわけです。
 生物の仕組みもずいぶん解明されて、分子生物学が発展していますが、分子生物学が発展するなかでも新たな機械的進化論が息を吹きかえす面があるのです。ノーベル賞の分子生物学者、ジャック・モノーという人が書いた『偶然と必然という本のなかでは、種の進化というのはDNAという機械の故障だ」といって』(みすず書房)いるのです。DNAは複製機構ですから、親のDNAがそのまま子供に受け継がれていくわけですが、その複製機構がちゃんと働かなくて、コピーが故障したことによって突然変異が生まれ、それが種の進化になるという、ある意味では現代的な機械的進化論を唱えているのです。
? エンゲルスは、ダーウインの進化論を種の進化を認めたというかぎりでは評価をしながらも、ダーウインの機械論的な進化論に対しては疑問の念を表明しています『反デューリング論』のなかにヘーゲルの目的論を述べているところがあって、デューリングが意識を持たない植物のなかに目的なんていうのを持ち込むのはおかしいという批判をしていることに対する再批判をしているところがあります。そのなかでエンゲルスは「確かにダー(全集ウインは自然選択を論じるさいに、個々の個体に変異をひきおこした原因を度外視」したといっています。だから進化を引き起こした原因が何であるかという点については、ダーウインの評価がまちが⑳七二ページ)っているという前提で書いております。さらに『自然の弁証法』のなかに「生物」という項目がありますけれども、そのなかでも同様にダーウインの進化論の批判を展開しています。
 生物の進化、種の進化を考えるときには、類としての生命体の主体性を考えなければなりません。いろんな生物が自然環境の中で実に巧みに適応していることはみなさんご承知のとおりで、砂漠の生物は砂漠で生きていけるように、森の生物は森で生きていけるように、また種を保存するために驚嘆すべき進化をとげています。それを、種の主体性を抜きにして、まったく機械的な関係だけで進化を論じようとするのは、やはり無理があります。
?そういう意味でエンゲルスは、ダーウインの進化論には目的論的な見地が抜けており、ダーウインが進化を認めたことは評価できるけれども、機械的な進化を考えていて、生命体が主体的に内的目的性をもって進化していくという目的的な関係が欠落していると批判をしているのです。有機体、生命体はそこに内的な目的性をもっているのであって、その見地を抜きにして生命体の進化を論じるわけにはいかないと思われます。
 二つ目に主観と客観の二元論批判をヘーゲルがしているのも、正しいと思います。これは前回の講義で詳しく論じましたので繰りかえしませんが、二つの面があります。一つは、人間が世界変革の主体であるという点です。
?主観と客観という対立物の統一を実現するのは人間の実践ですから、人間の実践をとらえるうえでは、主客二元論は正しくないのです。人間の実践を哲学のうちに正しく位置づけるという点で、主客二元論というのは克服されるべきです。もう一つは、人間という主体自体が、いわば客観とのかかわりにおいて進化してきたという過程があるわけで、それがエンゲルスの有名な「サルが人間になるについての労働の役割」という論文になるのです。
 人間は生産労働をするなかで人間として進化し、人間らしくなってきたわけです。その両面において主客二元論は克服されるべきで、機械論的な自然観を批判したヘーゲルの見地は基本的に正しいと思います。
 ではヘーゲルがいっていることがそのまま正しいかというと、実は疑問があるわけです。ここから私の個人的な見解になりますけれども、目次をご覧になってもらえれば分かるのですが、第三部概念論のB客観は、機械的関係、化学的関係、目的的関係となっております。そしてCの理念の中で生命という問題が取り上げられています。Aが主観的概念、Bが客観あるいは客観的概念であって、Cの理念は主観と客観の統一としてとらえられていますし、ここでこの統一を実現するものとしてCの理念で人間の実践の問題が取り扱われています。そういう点からこの「理念」のなかの「生命」は、むしろ内的目的性をもつ有機体として、客観のなかの「目的的関係」のなかに位置づけられるべきであると思います。また逆にヘーゲルが「目的的関係」の中心に位置づけているのは生産労働です。生産労働はある意味では実践を媒介とする主客の統一の実現ですから、C理念のなかで扱われるべきではないかと思います。その意味で、Bの客観の一番最後は「目的的関係」というよりも「有機的関係」という項目になるのが相当であって、理念のなかで生命を扱うのはどうかと思われますし、また客観の目的的関係のところで生産労働を扱うのもどうかという思いがしております。

主観と客観の相互移行

 それではテキストの解説に入りましょう。

一九四節補遺一 絶対者(神)を客観と解してそこに立ちどまるのは、近代において特にフィヒテが正当にも強調したように、一般に迷信と奴隷的恐怖の立場である。確かに神は客観でありしかも客観そのものであって、われわれの特殊な(主観的な)意見や欲求は、それにたいするとき、なんらの真理も妥当性も持たないものではある。しかし神は絶対的な客観であるから、それは暗黒で敵意にみちた威力として主観性に対峙しているのではなく、むしろ主観性を本質的なモメントとして自己のうちに含んでいる。このことをキリスト教は、神はすべての人が救われ、すべての人が幸福になることを望みたまう、と言いあらわしている。

 神の話ですから、ここはそこそこにしておいていいと思います。一九三節でアンセルムスの神の存在証明の話をしました。アンセルムスは神は完全なものであり、完全なものだということは単なる主観にとどまらないで同時に客観としても存在するんだというところから神が存在する証明をなしたというくだりです。同様に補遺一では、こんどは神は単なる客観ではないといっているのです。こんどは逆の面からみているわけで、単なる客観ではなくて同時に主観であるといっているのです。前には単なる主観ではなくて客観であるといったわけですが、ここでは単なる客観ではなくて同時に主観でもあるという言い方をしています。
 「絶対者(神)を客観と解してそこに立ちどまるのは、一般に迷信と奴隷的恐怖の立場である」といっております。人間とは切りはされたものとして神をとらえてはいけない、神は客観そのものであるけれども同時にわれわれの主観的な意見や欲求を含んでいるんだということでしょう。だから「神は絶対的な客観であるから、それは暗黒で敵意にみちた威力として主観性に対峙しているのではなく、むしろ主観性を本質的なモメントとして自己のうちに含んでいる」とありますが、この「主観性」とは人間そのものと考えてよいと思うのです。だから神は絶対的な客観として人間に対峙しているだけではなくて、人間と神とは一体であり、人間を含んだ神なんだというわけです。
 ここでヘーゲルは主客の統一をいいたいわけですから、そういう言い方をしているのです。キリスト教では神と人間とが対立する絶対的に切りはなされたものとして存在するのではなくて、神と人間とは結びついてとらえられているといっているのです。

 人間が救われ、人間が幸福になるということは、人間が神との統一を意識するようになること、そして神が単なる客観であることをやめて、特にローマ人の宗教意識にみられたような、恐怖の対象であることをやめることによってのみ実現されるのである。さらにまたキリスト教においては、神は神と一体である神の子において、特定の個人という姿をとって自己を人間に啓示し、もって人間を救済したのであるから、神は愛として知られているが、このこともまた同じく、客観性と主観性との対立が即自的には克服されていること、そしてわれわれのなすべきことは、われわれが直接的な主観性を脱し(古いアダムを脱ぎすて、神がわれわれの真実)な本質的な自己であることを意識することによって、この救済にあずかることにある、ということを言いあらわしているのである。

 ヘーゲルは、キリスト教が三位一体説をとっている点を評価しているのですが、ここでもキリスト教では神と神の子であるキリストという人間が一体となっており、神の子であるキリストが人間を救済することによって客観と主観の対立が克服されているというのです。

 ――宗教および宗教的儀式の本質が主観と客観との対立を克服することにあるように、科学および特に哲学の任務も、この対立を思惟によって克服することにある。一般に認識の目的は、われわれに対峙している客観的世界からその未知性をはぎとり、そのうちに自分自身を見出すことにある。自己を見出すことはすなわち、客観をわれわれの最も内的な自己である概念へ還元することである。

 「科学および特に哲学の任務も、この対立を思惟によって克服することにある」とありますが、主観と客観の対立を克服するところに、哲学の任務があるんだといっているのです。特にカントの二元論を念頭において二元論はまちがいだといっているわけです。カントは人間が認識しうるのは現象だけであって、物自体は認識しえないという、人間の認識、つまり主観と、客観である物自体とを切りはなす二元論に立っているわけです。ヘーゲルはこれが気に入らないのです。主観は此岸に、客観は彼岸にというような関係ではないといいたいのです。
 その次からいよいよ概念論でヘーゲルが何を述べたかったのかという核心部分になります。「一般に認識の目的は、われわれに対峙している客観的世界からその未知性をはぎとり、そのうちに自分自身を見出すことにある」といっています。認識の目的は、客観世界を認識する、客観世界を反映することにあるわけですが、それは客観世界からその未知性をはぎとり、客観世界の表面におおわれた姿の中からその奥に隠された本当の姿を認識していくことにあるのです。
 「そのうちに自分自身を見出す」というのは、その客観のなかに主観でしか見出せないものを見出すという意味で述べているんだと思います。「自己を見出すことは、客観をわれわれの最も内的な自己である概念へ還元することである」といっています。客観を認識することは、客観のなかに含まれている本質や法則を認識するだけでは足りません。客観を本当に自分のものにするためには、客観のなかにおける本質や法則を認識したうえで、その客観の「真にあるべき姿」を概念として認識することによって、はじめて認識の目的を達するのだというのです。それが客観の主観化であり、客観を自己のうちにとらえなおして、概念として把握するということです。
 客観を認識するという場合、客観的事物が「こんなふうに存在している」と評論家的にみているだけではだめだということだと思います。こんなふうにある」と認識することが、同時に「こんなふうにあるべきだ」という認識と結びつかなければならないのです。それが概念的な把握です。概念として認識することは、ものごとを変革の対象として認識することであり、そこにまで至らないと、認識の目的は達しえないというのです。

 以上述べたところから、主観性と客観性を動かすことのできない抽象的な対立と考えるのが、どんなに誤っているかがわかる。両者はあくまで弁証法的である。

 これをヘーゲルはいいたいのです。主観と客観を切りはなしてしまって抽象的な対立と考えるのはまちがっており、両者はあくまで弁証法的であって、主観と客観は相互に作用しあうことによって対立物の統一に至るのだといっています。

 最初単に主観的である概念は、外的な材料また素材を必要とすることなしに、それ自身の活動にしたがって自己を客観化するようになり、他方客観は凝固し過程のないものでなく、その過程は自己を同時に主観的なものとして示す過程であって、これが理念への進展をなしている。主観性および客観性という規定をよく知らず、それらをあくまで抽象のうちに保っておこうとする人は、何時のまにかこの規定が指の間からすべり出して、自分の言おうとすることの丁度反対のことを言うようになるであろう。

 最初に述べているのは主観から客観への過程です。後半部分は客観から主観へという過程です。その両方の過程を統一したものが理念だといっているのです「単に主観的である概念」というのは、認識のなかでつかまれた。「真にあるべき姿」としての概念のことです「外的な材料または素材を必要とすることなしに、それ自身の活動にしたがって自己を客観化する」とは―これまでも繰りかえし概念はエネルゲイアとしてのイデアであるといってきましたが―真にあるべき姿が、それ自身の力によって、自己を客観化するということです。それを別な表現で言えば「真理は必ず勝利する」ということになるのです。真理は必ず現実となる力を持っている。真にあるべき姿としての概念は真理ですから、それは必ずや、客観になりうる力をもっている。だから「それ自身の活動にしたがって自己を客観化する」というところが、非常に意味のあることなのです。主観的概念は真理のもつ力によって自己を客観化するということです。
 「他方客観は凝固し過程のないものでなく、その過程は自己を同時に主観的なものとして示す過程」というのは、もう一度客観から概念への過程に戻ってくるわけです。概念が一度客観化されたら、それで客観はおしまいかというと、そうではないわけで、新しく生まれた客観のなかから再び新しい概念が登場してくるわけです。だから客観から主観たる概念へ、主観たる概念から客観へというのは一往復したらおしまいではなく、その往復を無限に繰りかえす過程なのです。無限に繰りかえすなかで、だんだん真理が実現されていくのであって、その過程自身が絶対的真理なのです。
 客観は「自己を同時に主観的なものとして示す」というのは、客観は自己を主観的な「概念」として示すことになり、こういうことを繰り返すことによって、理念に到達するのです。この理念の最後は絶対理念ですが、絶対理念は、絶対的真理と理解すればよいと思うのです。そういうことを繰返すことが、絶対的真理へ接近する道なのです。
 「主観性および客観性という規定をよく知らず、それらをあくまで抽象のうちに保っておこうとする人は、何時のまにかこの規定が指の間からすべり出して、自分の言おうとすることの丁度反対のことを言うようになるであろう」とは、主観と客観とを、別々のものだという二元論のままでいたのでは、真理を認識しえないということでしょう。

機械的関係、化学的関係、目的的関係

一九四節補遺二 客観性は、機械的関係(Mechanismus) 、化学的関係(Chemismus) 、および目的的関係(Zweckbeziehung )という三つの形態を含んでいる。機械的に規定された客観は直接的で無差別の客観である。もっとも、それは区別を含んではいるが、しかし別々になっているものは相互に無関係であって、それらの結合はそれらにとって外的であるにすぎない。化学的関係においてはこれに反して客観は本質的に区別されている。すなわち、多くの客観は相互に関係することによってのみそれらがあるところのものであり、区別がそれらの質をなしている。客観性の第三の形態である目的論的関係は、機械的関係と化学的関係との統一である。目的は再び、機械的客観のように、自己のうちへとじこめられている統体であるが、化学的関係のうちであらわれた区別の原理によって豊かにされ、自己に対峙している客観へ関係する。目的の実現が理念への移行をなしている。

 一九四節の本文で「客観は、多様なものの完全な独立と、区別されたものの完全な非独立との絶対的な矛盾である」という記述がありました。客観の世界に存在する事物は、一つひとつ独立したものとして存在しながら、同時に他のものとのかかわりにおいて存在しているのです。それは有論のなかで検討してきたように、(九二節)或るものは他のものがなければそのものも存在しないという関係としてあるのですが、客観はすべて独立したものが非独立としての関係のなかにおかれるものとして存在しています。その独立と非独立の統一としてある関係をみると機械的関係、化学的関係、目的的関係に分けられて、この客観の世界における対立する二つのものの関係が、しだいに強まって概念の統体性が実現されていく過程だと理解すればよいと思います。
 まず客観性の最初は機械的な関係です。客観は無差別の客観ではあるが、区別を含むとありますが、客観はそれだけで存在する一つのまとまったものとしてあるけれども、それは区別を含んでいて、区別されているものは相互に無関係であって結合は外的であるにすぎないような関係です。これは機械とその部品の関係を頭に置きながら論じています。時計は一つのまとまったものですけども、それは歯車とかゼンマイとか、針であるとかいろんな部品が外から人間の手によってくっつけられてはじめて機械として存在しているわけです。
 化学的関係は「これに反して客観は本質的に区別されている」といっていますが、念頭においているのは化学反応、中和などです。酸とアルカリは本質的な区別としての対立物の関係にあるわけです。対立を本質的な区別といっているのです。化学反応する二つの物質は、本質的に区別されたものの統一という関係にあるのです。
 「多くの客観は相互に関係することによってのみそれらがあるところのものであり、区別がそれらの質をなしている」とありますが、区別された二つのものが対立し、かつ一つにまとまろうとしている関係にあるということ、こういうものが化学的関係だといっています。
 第三の形態は目的論的な関係です。それは、機械的関係と化学的関係の統一です。つまり目的論的な関係は、統体性と区別との統一としてあるのだというのです。一個の目的が主観から客観へと具体化されつつ、客観のなかにおいても自己自身を保持しているという関係で、そういうものを統体性と区別との統一という関係でとらえています。目的は一つのまとまりをもった存在ですが、それは主観のなかにとどまっているだけではなくて、客観のなかに移行し、しかも移行した客観のなかにあって自らを保持しているものなのです。それを「目的は自己のうちへとじこめられている統体」といっているのです。「目的の実現が理念への移行をなしている」とは、目的が実現されるということを繰りかえすことによって、理念になるのだということです。


a 機械的関係(Der Mechanismus)

形式的機械的関係

一九五節 客観は ⑴ その直接態においては単に即自的な概念であって、主観的なものとしての概念を最初は自己の外に持ち、すべての規定性は外的に措定された規定性として存在する。したがってそれは、区別されたものの統一としては、寄せ集められたもの、合成物であり、他のものへのその作用は、外的な関係にすぎない。これが形式的な機械的関係(formeller Mechanismus)である。もろもろの客観的なものは、このような関係と非独立性とのうちにありながらも、またあくまで独立的であって、抵抗しあい、相互に外的である。


 機械的関係は大きく分けて三つありまして、一九五節は形式的機械的関係、一九六節は親和的機械的関係、一九七節・一九八節が絶対的機械的関係です。後者になるほど二つのものの関係がだんだん密接になってくる関係です。
 客観における関係の統一は、その最初の姿においては単に概念の潜在的な姿にすぎないのであって、主観的な概念を自分の外にしかもたないのです。その二つのものの関係は単に寄せ集められた統一として存在しており、これが形式的機械的関係です。他のものとの関係においてみるとき、それは外的な関係なのです。形式的機械的関係は、一つには部品を組み立てて作られた時計のようなものを頭においています。もう一つは、後に圧力や衝突というのが出てきますが、力学的な関係です。バットでボールを打つというような関係、外から力が加えられるという関係、こういう二つのものを形式的機械的関係というのです。
 この形式的な機械的関係においては、二つのものの間ではそれぞれ独立して存在しながら、お互いに外的に関係を結び合い、抵抗しあう。ボールをバットで打つことになれば、作用と反作用ということになるわけです。あるいは船に乗って竿で岸を突く場合、岸を突くのは作用ですけれども、反作用は沖へ出るということになるわけです。機械的関係においては外から加わる力で運動するわけですから、運動は自己運動ではありません。外的・偶然的な外からの力によって運動するのです。だから機械的関係は、同時に偶然的原因にもなってくるわけです。

 圧力や衝突が機械的関係であると同じく、言葉にしても、それがわれわれにとって意味を持たず、感覚、表象、思惟にとって外的であり、また言葉相互の間でも外的であって無意味な継起であるような場合、われわれはそれを機械的あるいは暗記的に知るのである。敬神、等々の行為も、人がそれを儀式の規則や僧侶の命令などによって行うにすぎず、かれ自身の精神と意志とが行為のうちになく、したがってかれ自身にとってそれが外的であるかぎり、同様に機械的である。

 圧力や衝突が機械的だというのは、因果関係のことであり、機械的関係の典型的なものです。原因として外から力を加えられたら、結果が生じます。この因果の関係というのは機械的関係です。ボールにバットが当たってボールが飛んでいくのは、原因と結果の関係としてあるわけですが、外から力が加えられて、結果が生じます。しかしそういう場合だけではなくて、言葉なども機械的というのに当たるということで「われわれにとって意味をもたず、感覚、表象、思惟にとって外的」な場合は、機械的だといっています。
 例えば、外国語を日本人がはじめて聞いた場合に、それは機械的な言葉にしか聞こえないのです。なぜかというと、内で受け止める力がないからです。単なる外的な音にすぎないのです。フランス語は鳥の鳴き声に似ているとか、フランス語と中国語はなんか発音が似ているとか、そんなことにしかならないのです。意味はさっぱり分からない。それから言葉を暗記的に知るというのも機械的だといっています。つまり自分で意味が分からないのに、覚えてしまう暗記は機械的な暗記なのです。意味が分からないということは、外から単に押し込まれるだけであって、外から原因として働いているだけなのです。
 それから神を敬う敬神の例が出されています、神社にいったら鈴を鳴らして手をあわします。あれはやはり人と神との心の結合がないと機械的な関係にとどまってしまう。要するに、内的な結びつきがないままの外的な結合は、機械的な関係を生み出すということをいっているのです。

機械的関係は皮相で浅薄

一九五節補遺 機械的関係は、客観性の最初の形態であるから、それはまた、反省が対象的な世界を考察する場合最初に見出し、そして非常にしばしばそこで立ちどまってしまうカテゴリーである。しかしそれは皮相で浅薄な考察方法であって、自然にかんしてさえも不十分であり、まして精神にかんしては不十分である。自然において機械的関係にしたがっているものは、まだ自己のうちで発展していない物質の全く抽象的な関係にすぎない。狭い意味でのいわゆる物理的領域の諸現象および諸過程(例えば、光、熱、磁気、電気、等々の現象)は、単に機械的な仕方では(すなわち、圧力、衝突、部分の転位、等々では)説明できない。ましてこのカテゴリーを有機的自然の領域に適用するのは、植物の営養や生長あるいは動物的感覚などのような、有機的自然に固有な特性を把握しようとするかぎり、不十分である。

 「機械的関係」は、客観性の関係の最初の形態、つまり客観における一番原始的な形態です。反省というのはここでは常識的な見解という意味でしょう。常識的な見解が客観世界を考えるときに最初に見い出して、そこでしばしば立ちどまってしまうのが機械的関係ですが「しかしそれは皮相で浅薄な考察方法」です。「自然にかんしてさえも不十分である」といっているのは、自然の中にも機械的関係ではとらえられない目的的関係もあるという意味です。「まして精神にかんしては不十分である」とありますが、精神の働きは、もっとも複雑な生命体としての人間の機能ですから、とうてい機械的な関係でははかれないのです。
 最近、人間関係がうまくいかない人が多いようです。その根底には資本主義の競争原理、差別原理があると思います。コンピューターとは対話できるけれども、人と対話するのは苦手だという人がいます。コンピューターは、すべてを一と〇に置き換えてそれを機械の言葉にしているのですから、非常に簡単明瞭な機械的な関係です。
 しかし人間関係はそうはいかない。一と〇とでは解決しえないことが圧倒的です。一かと思ったら〇だったり、〇かと思ったら一だったり、単純ではないのです。人間関係は機械的関係ではないから、それに習熟するには一定の社会的な関係がないとなりたちえないものなのです。
 ところが現在の家族関係では、家庭内で労働を共有することがほとんどないものですから、家族関係が非常に希薄になっていて、そのなかで子供たちは人間関係の葛藤を経験する場がないままに育ってきています。学校においてもそうです。だから学校でも、社会でも、家庭でも、人間関係を形成する場が存在しないところに、現代日本社会の非常に大きな問題があると思います。
 自然においても機械的な関係は、単純な力学的な関係などにはあてはまりますが、有機的自然の場合にはそうはいきません。先ほど、近代自然科学の発展の中で、機械論的な自然観が支配的になり、そういう考え方をうけてデカルトの二元論などが出てきたことをお話ししました。デカルトの二元論は、一八世紀のフランスの唯物論の源になっています。一八世紀のフランス唯物論者にラ・メトリという人がいます。ラ・メトリは『人間機械論』(岩波文庫)という本を書いています。当時としては非常に斬新だったわけです。どういう意味で斬新かというと、人間は精神をもった特別な神秘的存在であるかのようにとらえていたことに対する批判として、当時としては非常に先進的な唯物論的考えだったのです。この人間機械論も今となってみると、限界をもっているということです。
 ラ・メトリは「人間はきわめて精巧な機械である。自らゼンマイを巻く機械である」といっています。なかなか面白いことを述べていますが、公平無私な裁判官もご馳走をたくさん食べた途端に元気になってみんな縛り首にしてしまうと言ったりしています。機械にゼンマイをしっかり巻いたら、ものすごい勢いで機械が動き出すのと同じように、人間をとらえているのです。先ほどもいいましたジャック・モノーは「生命の細胞とは正しく機械」であるということをいっているわけで、ある意味ではいまだにこの人間機械論の考えは生きているわけです。

 単なる機械的関係のそれとは全く異なったより高い諸カテゴリーが問題になっている場合でも、すなおな直感の目にうつるものにそむいて、あくまで機械的関係を固執し、もって自然を十分に認識する道を塞ぐのは、近代の自然研究のきわめて根本的な欠陥、いな、主要欠陥とみられなければならない。── 次に精神の世界の諸形態について言えば、その考察においても機械的な見方が不当に勢力を持っていることが少くない。例えば、人間は肉体と魂とからなる、と言うのはそうである。この場合肉体と魂とはそれぞれ独立していて、ただ外的にのみ相互に結合されていると考えられている。また魂が独立的に並存する諸々の力あるいは能力の複合とみられる場合もそうである。

 この機械的なものの見方を、何事にもあてはめようとするとそれはまちがいになってしまいます。精神の世界でも機械的な見方が不当な勢力をもっているといっていますが、人間の肉体と魂とが独立しながら機械的に結合しているとの見方をその例にあげています。肉体は消滅するけれども魂は別の部品として不変であるという考え方です。宗教の多くも死後の世界を論じる意味では、肉体は滅びるけれども魂は生きていると考えるのでしょう。
 肉体と魂は機械的関係で結合しているわけではない、外的な結合ではない、とヘーゲルはいいたいわけです。それはそのとおりです。たとえば「病は気から」という言葉がありますが、魂は肉体に影響を及ぼすということでしょう。これは医学的にも正しいでしょう。逆に「健康な精神は、健康な肉体に宿る」といって、肉体は魂に、影響することもあるわけです。病気しているときは何事も積極的には考えられないこともあるわけで、つい悲観的になってしまうわけです。
 いずれにしても魂と肉体とは全然別なものではなくて、相互に内的に結合しあっていることがいいたいのです。

 ── 機械的な見方は、それが思惟的な認識一般にとってかわろうとするような僭越を犯す場合には、決定的に拒けられなければならないが、しかし他方またそれが普遍的な論理的カテゴリーという権利と意義を持っていることも、はっきり認められなければならない。したがってそれはけっして、この名称がそこからとられた自然の一領域にのみかぎられるべきではない。それゆえに、特に物理学と生理学でなされているように、本来の力学の領域外で機械的な諸作用(例えば、重力、槓杆の作用など)へ注意が向けられているとしても、それは少しも差支えないことである。ただその場合みのがしてはならないことは、これらの領域内では機械的関係の法則がもはや決定的なものでなく、従属的な位置をとってあらわれるにすぎないということである。

 有機体の活動はすべて目的的関係かというと、そうではなく機械的関係の部分もいろいろあるわけです。進化論の話をしましたが、突然変異が生じることが、進化の一つの引き金になることはまちがいありません。突然変異が生じるのはやはりDNAの複製機能の故障なのです。そういう意味では突然変異が生じるのは、これは機械的関係です。他からジャガイモのDNAをもってきて、トマトのDNAに入れてしまうとトマトとジャガイモがいっしょになったようなものが出来るのです。外から変えることもできるのです。しかし偶然的に生じた突然変異を遺伝として定着させるためには、その機械的な変異がその生命体にとって目的的関係と結合しなくてはならないわけです。だから突然変異は進化の過程では必要な要素だけれども、進化の全体の中でみれば、従属的な役割しか果たしていないということでしょう。突然変異がその種にとって必要な変異になるかどうかの選択は、その種が主体的に行うものなのです。いろんな突然変異がおきます。この変異はもらっておこう、この変異はいらないという選択は誰がするのかといったら、その種がするのです。種が主体的に選択するという意味で、進化の主たる要因は目的的関係ということになるわけです。
 人間の精神の働きもそうではないでしょうか。記憶力というのは機械的関係です。これは人間の精神の働きとしては低次の機能です。私はかねがねいっているのですが、記憶力がいいことをもって頭がいいなどというのは大まちがいです。それは脳の低次な機能であって、だからこそノートやフロッピーという機械的な記憶装置に代替することができるのです。人間の精神の働きの本来のあり方は、記憶力にではなく創造性にあるわけですから、記憶力のような低次の機械的機能は、代替物にとって替えるべきです。だから記憶力などというところに人間の精神の働きをとどめておいてはダメなのです。

 なおこのことに関連してもう一つ注意しておきたいのは、自然においては、正常の働きをしている高次の諸機能、特に有機的な諸機能がなんらかの仕方で妨害あるいは故障を受けると、すぐに平常は従属的である機械的関係が支配的なものとして頭をもたげてくる、ということである。例えば、胃の悪い人は、ある食物を少し食べても、そのあとで胃に圧迫を感じるが、胃腸の丈夫な人は同じものを食べても、それを感じない。病気の人が手足に重さを感じるのも同じである。── 精神の世界においても機械的関係は、同じく従属的な位置ではあるが、やはりその位置を持っている。

 高次の機能である目的的関係などが故障すると、低次の機能である機械的関係が支配的なものとして頭をもたげてくるのです。精神の働きにかんして思うのですが、老人性痴呆になってくると、昔話しかしなくなります。精神の働きが、機械的な関係に後退してしまった。やはり、脳の機能が低下すると最も低次の機能である記憶力しか働かないのだと思います。

記憶は機械的関係 

 人々が機械的な記憶という言葉を用い、また例えば読むこと、書くこと、演奏などのさまざまの活動を機械的と呼ぶのは正しい。特に記憶について言えば、機械的な働きがその本質をなしてさえいる。近代の教育学は、知性の自由にたいする誤った熱中のために、この事情を看過することがまれでないが、そのために青少年の教育に大きな害を及ぼしている。といってまた、記憶の本性をさぐるために力学へ走り、力学の諸法則をそのまま心へ適用しようとする心理学者があったら、その人は愚劣な心理学者であろう。

 記憶とか、読む、書く、演奏するというのを機械的と呼ぶのは正しいのです。だからこれは反復することによってその能力が身につきます。機械は、慣らし運転をすることによって、調子がよくなってくるものです。反復することによって機械はその機能を十分に果たすようになるわけで、だから音楽の練習というのはこれはもう繰り返すしかないのです。記憶力は反復する機械的な作用です。
 ワープロを使っていたら漢字が書けなくなるといいます。漢字を書くという作業は、終始反復することによって記憶装置から呼び出したり、押し込んだりしているので自由に使えるのです。ところがワープロを使うことにより、漢字を記憶装置のなかに押し込んだまま使わなくなると、さびてしまって動かなくなる。機械的な関係の特徴だろうと思います。ワープロを使うことは結構ですが、同時にノートもとって、記憶装置から漢字を呼び出すということもしなくてはダメだということです。
 それから「近代教育は知性の自由に対する誤った熱中のために、このことを看過して、青少年の教育に大きな害を及ぼしている」というのは、これは詰め込み教育のことです。意味を分からせることなく、内側で受け止める力を養成しないで、外からガンガン詰め込んでしまうと機械的教育になってしまいます。educationというのは、中にあるものを引きだすことです。外から押し込んでしまう詰め込みは、そもそも教育という名に値しないのです。近代教育におけるヘーゲルの批判は、あたっていると思われます。

 記憶が機械的である点は、まさに次のような点にある。すなわち、そこでは一定の記号や音が、単に外的な結合においてのみ、理解されまた再現されて、その際はっきりとそれらの意味および内的な結合に注意が向けられる必要がないのである。機械的な記憶力が持っている、こうした事情を認識するには、別に力学を研究する必要はなく、またそれを研究したからといって、心理学そのものが少しでも進歩するということはない。

 機械的な関係は外的な結合であって、内的な結合ではないのです。内的結合は、この例で言いますと、記号や音がいかなる意味をもっているのかということを理解したうえで、つまり教えられる側の受け止める内なる力と結びついて教えられる場合には内的結合だけれども、意味が分からないままに外から詰めこまれるのは外的結合になるわけです。それが機械的関係だということです。次の一九六節は親和的な機械的関係の問題になってきます。

親和的機械的関係

一九六節 客観は、それが独立的であるかぎりにおいてのみ、外的な力に左右される非独立性を持っている(前節)。そして客観は即自的な概念が定立されたものであるから、上の二つの規定の一方が他方のうちで揚棄されるということはなく、客観はその否定である非独立性を通じて自分自身と連結され、かくしてはじめて独立的である。

 「客観は、それが独立的であるかぎりにおいてのみ、外的な力に左右される非独立性を持っている」とありますが、形式的機械的関係においては、客観の一つひとつは独立的ですから、外的な力によってのみ結合されるという非独立性(=統体性)をもっているということです。その次からが親和的機械的関係ですけれども「客観は即自的な概念が定立されたもの」とは、主観的概念が移行したのが客観ですから、客観はそもそも概念なのです。
 しかし、まだこの段階では概念の統体性は潜在的な形でしかあらわれてないのです。それでも概念であることには変わりないから、二つの客観は「非独立性を通じて自分自身と連結され、かくしてはじめて独立的である」というのです。つまり自分と相対立するものとの間で相互に引き合うような関係、そういう非独立性において独立しているという関係に発展してくるというのです。お互い引き合いながら区別されているという関係、それを親和的関係といっているわけです。

 外的なものと区別されていながら、同時にその独立性のうちで外的なものを否定するという、この自己との否定的統一が中心性(Zentralität) 、主観性である。

 二つのもののうちの相対立するものとして区別されていながら、相対立するものを否定して自分に引きつけようとする関係にあるのが親和的機械的関係であり、その自分に引きつけようとする力を中心性とか主観性とか呼ぶということです。

 そして客観そのものは、この中心性のうちで外的なものに向い、外的なものに関係している。この外的なものもまた同じく自己を中心としており、そしてこの中心性のうちで同じく他の中心に関係している、すなわち、他のもののうちにその中心性を持っている。これが ⑵ 親和的な機械的関係(differenter Mechanismus)である(落下、欲求、社交本能など)。

 二つのものが相互に引き合いながら一つの対立した関係になるのが親和的関係です。「落下」といっているのは、万有引力の法則のことです。りんごが地球に落ちるのは、地球の引力でりんごを引っぱる、同時にりんごは自分のもっている引力で地球を引き寄せるという関係です。相互に中心を持っていて相互に引き合うという関係です。「社交本能」というのは面白い例です。男女の関係も、お互いに相手を自分に引きつけようとして、反発しながらも引き合う、そういう関係です。しかし、こういう親和的機械的関係にあまり意味があるとは思われません。大きく機械的関係を目的的関係との対比においてだけでとらえておけば、よいのではないでしょうか。

絶対的機械的関係

一九七節 このような関係の展開は一つの推理を形成する。すなわち、ある客観の中心的個別性(絶対的中心)としての内在的な否定性が、もう一つの端項をなしている非独立的な客観と、客観の中心性と非独立性とをそのうちに合一している一つの媒介項、すなわち相対的中心を通じて関係する。これが ⑶ 絶対的機械関係(absoluter Mechanismus)である。


 絶対的機械関係は、一つの推理としてなりたっているといっています。ここで中心的な個別性あるいは絶対的中心といっているのは太陽を念頭においているわけで、相対的中心とは地球のこと、非独立的客観というのは月のことです。月と地球と太陽とが相互に万有引力で引きあいながら、この三つが一つの全体を形づくっているのが推理と同じような関係としてとらえられるということで、それを絶対的機械関係とヘーゲルは呼んでいるのです。ここにおいて、いわば概念の統体性が実現されるわけで、だんだん概念が顕在化してくるといいたいのです。

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