『変革の哲学・弁証法─レーニン「哲学ノート」に学ぶ』より
第一講 『哲学ノート』とレーニン
一、哲学とはなにか
これから十五回かけて、『哲学ノート』をテキストに弁証法について一緒に学習しましょう。
まず、哲学とは何なのか、何のために哲学を学ぶのかということを最初にお話しします。「哲学」は英語でフィロソフィーといいます。もともとはギリシャ語のフィロソフィア(philosophia)という言葉からきています。フィロというのは、「愛する」という意味、ソフィアというのは「知」ということですから、フィロソフィアとは、「知を愛する」という意味です。知を愛するというところに哲学の原点があるということをまず理解をしておいていただきたいと思います。
ギリシャ時代の有名な哲学者ソクラテスは、青年たちを惑わし、神を信じなかったという理由で死刑判決を受けます。唯々諾々とその判決を受けいれて死ぬわけですが、そのときに彼に恩赦の話がでてくるのです。「これまでのように青年をたぶらかすような哲学を教えなければ、勘弁してやってもいい」ともちかけられるのですが、ソクラテスはそれをきっぱり断るのです。
真理の探究とよりよく生きること
ソクラテスは自分が裁かれる法廷で、「自分の息が続く限り哲学することを決してやめない」と宣言するのです。どうして「哲学することを死ぬまでやめない」といったのか。この答えは哲学をソクラテスがどのように理解していたのかということと分かちがたく結びついています。ソクラテスはいいます。
「ただ金銭を、できるだけ多く自分のものにしたいというようなことに気をつかっていて、恥ずかしくはないのか。評判や地位のことは気にしても、思慮と真実には気をつかわず、たましい(いのちそのもの)をできるだけすぐれたよいものにするように、心をもちいることもしないというのは」⑴ 。
同じくプラトンの著作に『クリトン』がありますが、「ただ生きることではなくて、よく生きること」⑵ こそ何よりも大切にしなければならないのだ、と述べています。哲学というものは真理、真実を探究すると同時に、よりよく生きるための学問であるというように位置づけることができるといっています。私たちはそういう哲学を探究する必要があるのだろうと思います。
よりよく生きるとはどういうことかというと、『哲学ノート』を学んだ最後に考えることになるかもしれませんが、さしあたりいえることは、生きることそのものの質を高めていくことではないでしょうか。
人類の知識の総和
私たちが学ぼうとしているのは、科学的社会主義の構成部分としての哲学であり、別の言葉でいうと弁証法的唯物論の哲学です。弁証法的唯物論の哲学は、ソクラテスのいう哲学とどう関連するのでしょうか。科学的社会主義の哲学というのは人類の知識の総和として生まれた哲学です。いわば二五〇〇年以上におよぶ哲学の歴史のなかで真理、真実を探究するというのはどういうことなのか、よりよく生きるとはどういうことなのかをいろんな観点からさまざまに探求してきた、その総括として科学的社会主義の哲学が誕生したのです。
レーニンは『哲学ノート』において「哲学の歴史は簡単にいえば、認識一般の歴史、知識の全領域」(三二二ページ)だと書いています。科学的社会主義の哲学というのは、これまでの二五〇〇年におよぶ哲学の流れを総括することを通じて生まれた哲学であり、真理、真実を探究し、よりよく生きるうえで、最も完成された姿としての哲学だということがいえます。
なぜ、そういえるのか。科学的社会主義の哲学の源流になったのは、ヘーゲルの哲学です。ヘーゲルは、過去の二五〇〇年に及ぶ哲学を総括し、そのなかから価値あるものをくみ上げてみずからの哲学体系をつくりだしました。ヘーゲルは生涯の間に一〇回、「哲学史」の講義をやっていて、一〇回目の途中で亡くなりました。ギリシャ哲学をはじめインド哲学や中国哲学まで幅を広げて勉強し、中世のスコラ哲学、近世のカントやフィヒテにいたる哲学の歴史をくり返し講義しながら自分の哲学を完成していった人なのです。
このヘーゲル哲学を引きつぎ発展させたものが科学的社会主義の哲学なのです。だから、科学的社会主義の哲学は人類の知識の総和として生まれたのだということができるのです。ヘーゲル哲学は根本において観念論でした。それをさらに乗り越え、唯物論的につくりかえたものとして弁証法的唯物論が誕生したのです ⑶。
全一的な世界観
こういう科学的社会主義の哲学を一言でどういいあらわせばいいのか。レーニンはマルクスやエンゲルス、ヘーゲルの哲学を学ぶなかで科学的社会主義の哲学を「全一的な世界観」と呼びました ⑷ 。不破哲三さんの『レーニンと資本論』のなかでも、レーニンが科学的社会主義の世界観を「全一的世界観」としてとらえたことを高く評価し、一九一〇年代におけるレーニンの哲学学習の成果であるとまとめています ⑸ 。
レーニンが『哲学ノート』をとりながら、まとめた論文に「カール・マルクス」があります。マルクスの見解は「すばらしく首尾一貫した全一的なもの」とこの論文で述べているように、「全一的」というのは首尾一貫した、すなわち、一つのまとまりをもった世界観と理解していいと思います。世界全体を統一的にとらえうる世界観であることを「全一的世界観」と表現しています。
しかし、そもそも世界観というのは自然や社会、人間あるいは人間の生きかたを含め、世界全体についてのまとまった見かたを意味します。ですから、なぜ、あえてレーニンは世界観のうえに「全一的」という言葉を重ねたのか、ということが大切です。
二元論的世界観
世にさまざまな哲学があっても、世界全体を破綻なく統一的にとらえうる世界観は、他にはないのです。
二元論、つまり、自然は自然、人間は人間というとらえ方があります。二元論的なもののとらえ方は、近代自然科学の発達のなかで形づくられてきたんですけれども、存在と当為、事実と価値とを区別し、切り離す考えです。
「自然科学の没価値性」という言葉を聞いたことがあるでしょう。没価値性というのは「価値について考えがない」ということを意味します。自然科学は自然が「いかにあるか」を探求する学問であって、そこには「いかにあるべきか」という人間の価値観の入る余地はないという考えです。つまり、自然科学は自然がいかにあるのかという事実を探求するのに対して、人間の生き方にはさまざまな価値観があるのであって、自然のあり方と人間のあり方とを同一レベルで議論する事はできないという、二元論的な考え方が、今の世の中でもかなり定着しているのではないでしょうか。
人間の生き方、価値観にかかわる問題になると「それは価値観の違いの問題であり、どれが正しいとは言えない。考え方の違いに過ぎない」といって、問題を終わらせてしまう。客観的なあり方と生き方の問題、価値観の問題を切り離して考える。「全一的な世界観」というとらえ方は、こういう二元論的なあり方に対して、そういうとらえ方でいいのかと問題提起しているのです。
客観と主観の統一
つまり、世界や自然のあり方と人間の生き方、行為のあり方を別々な問題として切り離してとらえること自体が間違っているのではないか。自然や社会を認識することと、そのなかでどう生きるのかということは、決して切り離すことのできない問題だと考えるのです。そして両者を結びつけるのが人間の実践です。
自然や社会と人間の生き方の関係を「客観」と「主観」の関係といいかえれば、主観と客観とを切り離して扱うのではなく、実践を媒介にして統一されているものとして理解する。ここに科学的社会主義の世界観の特徴があり、「全一的」と強調した理由があるのです。その意味で科学的社会主義の哲学の中心をなすのは、実践というカテゴリーではなかろうかと思われます。
レーニンはこの点に注目しています。人間の実践のなかでも、政治的、社会的実践、あるいは革命的実践という言葉も使っていますが、つまり階級闘争という実践を通じての社会変革の問題をとりわけ重視しています。論文「カール・マルクス」のなかでも階級闘争の議論が欠ければ「唯物論は中途半端な、一面的な死んだものになる」とまでいっています ⑹ 。レーニンはこの実践の問題を階級的な観点から鋭く分析しましたが、そのこと自体、科学的社会主義の大きな理論的遺産だと思います。
ヘーゲルと「実践」
ヘーゲルも実践というカテゴリーを非常に重視しました。マルクスは、ヘーゲルに学びそれを継承、発展させたのだと思います。もちろん、マルクスとヘーゲルの実践観は全く同一ではなく、なによりヘーゲルには階級的な観点がありません。ヘーゲルは、社会は発展するものととらえましたが、その発展というのは自由が拡大してゆく方向の発展だというふうにとらえました。これは一面では正しく、しかし、一面では観念論的なとらえ方にとどまっています。階級闘争を通じて社会が発展するという観点は全くありません。しかし、ヘーゲルの「実践」のとらえ方は今日でも学ぶべき点が多く、社会や自然の法則的な発展と実践とはどういうかかわりがあるのかということを、ヘーゲルは意識的に追究しています。この実践のもつ意味を全面的にとらえるうえで、レーニンの『哲学ノート』は多くの手がかりを与えてくれています。
哲学と政治
もう一言、いっておきますと、科学的社会主義の理論は哲学を不可分の構成要素としてもっています。レーニンの有名な論文「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」は、その構成部分として哲学、経済学、階級闘争の理論をあげています。科学的社会主義の理論は、なぜ哲学を不可分、不可欠の構成要素としているのでしょうか。この点をよく考えてみる必要があります。いいかえれば、政治と哲学はどういう関係にあるのかということです。
一般的には政治と哲学は全然別のものだと考えられています。哲学は真理、真実を追究するのに対して、政治は真理などというものとは無縁と思われている。「権謀術数」という言葉によくあらわれているように、策略を計りめぐらし、いかにして権力の座を獲得するかということばかり考えている。およそそこには真実らしいものはかけらもみられないということで、政治と哲学は対極に位置するものであるかのように理解するむきがあります。
しかし、政治と哲学は分かちがたく結びついており、統一されるべきものです。このことも「全一的世界観」の内容のひとつといっていいでしょう。この哲学と政治の統一という問題を最初に提起したのは、観念論の創始者といわれているプラトンなのです。プラトンはソクラテスのもとで勉強して、自分の哲学を『国家』という大変長い論文にまとめます。つまり国家はどうあるべきかということを哲学者の立場から議論し、政治は哲学者が担わなくてはならないと結論づけます。
いわゆる哲人政治の実現です。プラトンは『国家』のなかで、一般に哲学や哲学者はどのような目でみられていたかというのを登場人物に語らせているんですが、これがなかなかおもしろい。「哲学をやっていると人間がだめになり、国家・社会に役に立たない人間になる」とか、「哲学をやっている連中は死人同然の人間」だとか、「哲学にくものの大多数はろくでなし、ましな連中でも役立たずの人間」などといわせています。哲学をやっている人間に対して、このような世間一般の批判があることを念頭に置きながら、プラトンは、「しかし、そうではないのだ」というのです。
「哲学者とは常に恒常不変のありかたを保つものに触れることのできる人々のことであり、他方、そうすることができずに、さまざまに変転する雑多な事物のなかにさまよう人々は哲学者ではない、ということであれば、いったいどちらの種類の人々が、国の指導者とならなければならぬだろうか?」⑺ と問いかけ、哲学者たちが国々を支配すべきであると説きます。
政治というのは、真理、真実を追究すべきものであり、そういう真理、真実を追究する目をもった哲学者こそ政治に携わるべきだというのです。この考え方は、単にプラトンだけの考え方ではありません。マルクス、エンゲルスそして、レーニンにも引き継がれていますし、日本の科学的社会主義の政党である日本共産党にも引きつがれていると思います。
マルクスは若いころから哲学を勉強してきた人ですが、とくに、ヘーゲルの哲学を一生懸命勉強して、自分は「偉大な哲学者」ヘーゲルの弟子だ、とまでいっています。マルクスは真理、真実を追求しようと思ったら哲学を学ばなければならないし、哲学を学ぶことによってのみ社会変革を実現できるんだという観点で哲学を学んだのだと思います。
科学的社会主義の不可欠の構成部分として哲学があるのは、真理、真実を見抜き、よりよく生きるすべを知ることを通じて、社会変革をめざすためです。社会を合法則的に発展させるということは、簡単なことではありません。合法則的な発展というのは、その歴史的発展の諸段階における真理、真実とは何かをみいだす作業と不可分に結びついています。
社会を合法則的に発展させるということは、いわば真理の細い糸を不断に手元に手繰り寄せながら前進していくという、大変に複雑な難しい過程です。それぞれの職場や地域で、現状を正確につかみ真理をみきわめながら運動をすすめていけば、歴史をより速いテンポで、それだけ悪政の犠牲を少なくしながら、前進することができます。だから、哲学は一部の人が学習すればいいというものではなく、社会発展の前進を願う全ての人が学ぶ必要があるのです。
二、二〇世紀の進歩と発展の方向を大きく規定したレーニン
マルクスは千年紀を代表
次にレーニンと『哲学ノート』の関係の問題をお話しします。
レーニンとはどんな人物なのでしょうか。
私は、マルクスは千年紀を代表し、レーニンは二〇世紀を代表する人物だと考えています。マルクスが千年紀を代表しているということは、イギリスのBBCという国営放送が、「過去一千年間のもっとも偉大な思想家」を選ぶ読者投票を行ったところ、マルクスが圧倒的な支持を得て第一位に選ばれたということを不破哲三さんが「世紀の転換点に立って」というインタビュー記事で紹介しています ⑻ 。二位がアインシュタインで、三位がニュートン、四位はダーウィンということですから、あとは全部自然科学者で、社会科学者といわれるのはマルクスだけです。マルクスというのはそれくらい偉大な人物だと評価されています。
マルクス以前には、未来社会の構想を科学的な裏づけをもって語った人はいません。人間の歴史を過去へ遡ることはできても、未来を予見することはできなかったのです。あれこれ夢想する人はいましたが、歴史の発展法則を過去の歴史からつかみだし、未来社会の発展方向とその推進力をあきらかにしたのはマルクスの功績です。名もなき民衆が歴史の流れに押し流されるのではなく、自分たち自身の手で社会をつくりかえることができることを明らかにし、本当の意味で人間が動物の世界から離脱し、自然と社会の主人公になることが出来るという展望をさし示しました。そういう点から、やはり過去千年のもっとも偉大な思想家がマルクスだという点についてはおそらく異論のないところであろうと思います。
不破さんは、さきほどのインタビューで、マルクスについて「なにか特殊な思想をあみだして、それを世界におしつけるという、いわゆる『思想家』ではないんですね。世界の進歩のために奮闘した変革者であると同時に、世界を科学の目でとらえることに全力をつくした科学者なんです」と評価しています。
レーニンは二〇世紀の進歩と発展の方向を示す
マルクスが、千年単位で最大の人物だとすると、レーニンは少なくとも二〇世紀という時代の進歩と発展の方向をつくりだしたという意味で、二〇世紀を代表する人物の一人といってもいいのではないかと思います。
レーニンは一八七〇年生まれで一九二四年に亡くなっていますから、主として活躍したのは二〇世紀のはじめということになります。
二〇世紀のはじめはどんな時代だったかといいますと、列強といわれた当時の先進資本主義国が、世界じゅうを植民地として支配し、世界の分割が完了した時代です。つまり、帝国主義的な支配が全世界をおおい尽くして帝国主義の支配の届かないところはどこもなくなった時代です。その時代にレーニンは、帝国主義戦争と植民地の支配に反対して、科学的社会主義の理論を導きの糸にしながらロシア革命を成功させ、ソ連をつくり、社会主義建設の道を切り開いた人物です。
ソ連や東欧が崩壊することによって、レーニンの切り開いた新しい歴史的な役割が無に帰したのかというと、そうではありません。ソ連が誕生したとき、労働者や農民の生まれであっても国の主人公になることができるという大きな展望を全世界に与えました。アメリカのジャーナリスト、ジョン・リードが『世界をゆるがした十日間』というルポを書いていますが、ロシア革命は世界中を仰天させたのです。働くものが団結してたたかえば新しい時代を切り開くことができるという展望を世界の民衆にあたえ、資本家たちは自分たちの支配が崩れる可能性があることを思い知ったのです。
それだけではありません。二〇世紀の進歩と発展の方向に多大な影響を与えた点が特筆されるべきです。
植民地支配から民族自決権へ
一つは、植民地支配から民族自決権への流れです。
二〇世紀のはじめまでは、戦争をし、勝った国が相手の国の領土を植民地として獲得し、支配するのは当然の論理とされていました。領土を奪うだけではなく、負けた国から賠償金をとることも当然のこととされていました。
レーニンはそれに対して、民族の運命は民族が自らの手で決める権利、民族自決権をもっていると主張し、植民地支配からの脱却を訴えたのです。訴えるだけではなくて生まれたばかりのソ連自らが率先して帝政ロシア時代の植民地であった国をつぎつぎ手放していきました。そして対等・平等の国交を結んでいったのです。
これが世界の流れになり、今や植民地はほとんどありません。もっとも半植民地的な国はあるわけで、日本も、ある意味ではアメリカの半植民地といえるわけです。しかし、すくなくとも形式上は独立している国が圧倒的に多くなってきたというのが二〇世紀の特徴の一つです。
帝国主義戦争から国際紛争の平和的解決へ
第二に、帝国主義戦争から国際紛争の平和的解決へという流れです。一九世紀から二〇世紀のはじめまでは、戦争するのは国家の権利だと考えられていました。戦争そのものが違法だという考え方は存在しなかったのです。
ところがレーニンが帝国主義戦争に反対し、政権をとったその翌日に、「平和についての布告」を発表し、我々は戦争を望まない、領土も賠償金もとらない講和をと呼びかけ、全世界に衝撃を与えたのです。
この流れがだんだん大きくなって、戦争は国際法違反だという考え方も出てくるようになりました。現在の国連憲章も、その考え方に立っています。国際紛争の平和的解決を原則にしており、武力行使できるのは自衛権の侵害があった場合だけだというように変わってきています。この考え方をいっそう発展させて、国際紛争を最後までとことん平和的に解決するためには武力そのものを放棄すべきではないかという考え方にたっているのが日本国憲法なのです。
まさに憲法九条は二〇世紀の本流であり、かつ二一世紀を先どりした指針なのです。国民の圧倒的多数は、この平和憲法、平和条項を支持し、守らなくてはならないと思っていますが、日本政府、自民党などはこの憲法九条のもっ真の意味を理解しようとせず、改悪を画策しています。しかし、早晩彼らは歴史の流れに取り残されることになるでしょう。
勤労者の権利の前進
第三に、勤労人民の権利の保障です。
ソ連の誕生までは、資本主義国では、弱肉強食の論理が全面に支配していました。労働者は職を失えばたちまち生活に困る、餓死せざるをえないという状況のなかで、ソ連が初めて生存権の保障や社会保障という方向をうちだします。一九二九年に世界恐慌がおき、失業、飢餓、貧困に苦しんでいる世界の人々はソ連に注目し、「三〇年代の世界の主な支配層は、その危機を脱出するために資本主義の体制でもソ連がやったようなことは可能だということを、示さなければ」⑼ なりませんでした。各国の人民のたたかいとあいまって、資本主義国でも社会保障、八時間労働制、有給休暇制度などが広がっていったのです。
生存権の保障は日本国憲法へも取り入れられています。第二五条がそれです。そして、労働者のさまざまな権利がILO条約などによって国際的にも承認されるということになるわけです。
以上、三点をあげましたが、二〇世紀の発展方向を見極め、切りひらいた人物として、レーニンはやはり一〇〇年に一人の人物だろうと思われます。もっとも二〇世紀の進歩と発展を問題とする場合、国民主権という民主主義の原則が発展したことを指摘しないわけにはいきません。二〇世紀はじめにはアメリカ、フランス、スイスの三カ国しかなかった民主共和制は、今では大多数の国に広がり、逆に君主制の国は一八八カ国の国連加盟国のなかでわずか二十九カ国にとどまっています。
マルクスやエンゲルスは、フランス革命で登場した人民主権論を高く評価し、普通選挙権にもとづく多数者革命を追求したのに対し、レーニンは、強力革命の絶対化を主張するなどの民主主義に関わる理論的誤りも犯しています。こうした限界をもちながらも、レーニンは二〇世紀の進歩の方向を大きく規定した人物として評価されるべきものと思います。
三、『哲学ノート』の意義と限界
『哲学ノート』とは
『哲学ノート』は一九一四年から一九一六年にかけてレーニン自身が「哲学に関するノート」と表題をつけた九冊のノートが中心になっています。それ以外のノートも含まれていますが、中心をなしているのはヘーゲル哲学に関するものです。レーニンは一九一四年から一六年に集中的にヘーゲル哲学を学びました。ロシア革命が一九一七年ですから、ロシア革命直前です。レーニンが国際舞台に登場し、大きく飛躍、前進する思想的な土台をつくったのが、このときの哲学の学習だったのだろうと思います。
レーニンは一九〇九年末ごろから、マルクス主義を全体としてどのようにとらえるべきかに関心を寄せていきます。不破さんの『レーニンと資本論③』に「〝カール・マルクス〟と『哲学ノート』」という章(第一四章)があります。これを読んでみますと、マルクス没後三〇周年の一九一三年から、レーニンはマルクスを全体としてどうとらえるのかという点に関心を向け、研究を始め、まとめの論文として「カール・マルクスの学説の歴史的運命」と「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」をその年の三月ごろに執筆したことが紹介されています ⑽ 。
そして、この「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」のなかで、先ほど紹介した「全一的世界観」という言葉が明確な位置づけをもって登場します。言葉としては、一九〇九年にも出てくるのですが、明確な位置づけをもって使われるのは「三つの源泉…」が初めてなのです。
こうしてマルクス主義を総体的にまとめようとしているちょうどそのころ、一九一四年の三月にグラナート社から「カール・マルクス」という項目で、七万五千字あまりの解説を百科辞典用に書いてくれと頼まれるのです。レーニンはマルクス主義を全体としてまとめるのにちょうどいい機会だと考え、それを引き受けます。
その一年前の一九一三年に『マルクス、エンゲルスの往復書簡』が初めて出版され、レーニンはそれをすぐ読み、往復書簡集の研究を通じて焦点は弁証法にある、ということをつかむのです。レーニンはそれまで『唯物論と経験批判論』など、哲学的な論文を書いてはいます。しかし、『唯物論と経験批判論』でレーニンが引用しているのはエンゲルスの『反デューリング論』ぐらいで、本格的にヘーゲルを研究した経験がなかったのです。マルクスやエンゲルスがヘーゲルを一生懸命に勉強したことをレーニンは知っていますから、弁証法をヘーゲルにまでさかのぼって研究する必要性を感じ、それを実行したのです。そして、レーニンによるヘーゲル哲学学習の成果が、完成された著作ではありませんが、「ノート」として私たちに遺されているのです。
『哲学ノート』の目次をみていただければわかりますが、そのほとんどを占めているのが一九一四年から一六年にかけてとられたノートで、ヘーゲルの著書である『論理学』『哲学史講義』『歴史哲学講義』などの摘要が大部分です。ここからも中心をなしているのがへーゲル哲学であるということはお分かりいただけるでしょう。
行動の指針として哲学を学んだレーニン
この講座では、『哲学ノート』を全般的に解説するのではなく、レーニンがヘーゲルから何を学ぼうとしたのかという点に絞って講義したいと思います。
先ほど、『哲学ノート』はグラナート社の百科辞典の項目「カール・マルクス」を執筆するために取ったノートだといいましたが、執筆が終わってレーニンはもう哲学を学習するのをやめたのかというと、そうではありません。この論文を書き上げたのは一九一四年の一一月ごろ。ヘーゲルに関するノートは一六年までありますので、「カール・マルクス」の執筆が終わっても、レーニンは引き続き哲学の研究を続けていったことが分かります。そのなかには「アリストテレスの著書『形而上学』摘要」というのもあります。レーニンはヘーゲル哲学を学習するなかで、ギリシャ哲学までさかのぼって勉強しなくてはならないと考え、アリストテレスの『形而上学』を読んだのでしょう。
不破さんも紹介していますが、レーニン夫人のクルプスカヤが『レーニンの思い出』の中でこういうことをいっています。
「イリイチ(レーニンのこと 引用者)は、ヘーゲルその他の哲学者の著書を熱心に読みかえしたが、マルクスについての仕事(「カール・マルクス」のことです)が終わった後も、この仕事はやめなかった。哲学にかんする彼の労作の目的はいかにして哲学を行動にたいする具体的な指針に転化するかという方法をえることにあった……闘争と学習、学習と学問的労作、これらはイリイチにあっては、いつも一つのしっかりした結び目に結び合わされ、それらは一見、たんに平行した仕事のように見えたかも知れないが、それらのあいだには、いつももっとも深い、直接的なつながりがあったのである」⑾ 。
レーニンは革命直前まで哲学を学び続け、学びとったものをしっかり自分の行動の指針としてロシア革命に生かしていったのです。
『哲学ノート』の意義
次に、この『哲学ノート』の意義についてお話しします。
第一は、ヘーゲル弁証法の真髄を学びとって、「弁証法とは何か」を全体として解明しようとしたということです。レーニンは論文「カール・マルクス」のなかの「弁証法」という項目で次のようにいっています。
「マルクスとエンゲルスは、もっとも全面的で、もっとも内容に富み、また深遠な発展学説としてのヘーゲルの弁証法を、ドイツ古典哲学の最大の達成であると考えた」 ⑿ 。
マルクスやエンゲルスの考えとして叙述されていますが、なによりもレーニン自身が、ヘーゲルの弁証法をそのようにとらえたのでしょう。レーニンは「ヘーゲルの『論理学』全体をよく研究せず理解しないではマルクスの『資本論』、とくにその第一章を完全に理解することはできない。したがって、マルクス主義者のうちだれひとり、半世紀もたつのに、マルクスを理解しなかった」(一五〇~一ページ)と感慨を込めて『哲学ノート』に書きつけていますが、科学的社会主義の理論を正確に理解し、発展させるためにヘーゲルの弁証法研究は不可欠のものなのです。
第二に、弁証法を、自然や社会がどうあるのかという存在法則、発展法則としてだけではなくて、認識論でもあることを明らかにしようとしたことです。認識論というのは、人間の認識が無知から知へ、知から真理へと発展していく認識そのものの発展と、その論理形式を探究するものです。だから、弁証法というのは、人間の認識を深め、真理に到達するてだてでもあり、そういう弁証法の認識論的性格を明らかにしたのです。「ヘーゲルの弁証法(論理学)のプラン」で、次のようにレーニンは書いています。
「概念は有のうちに本質をあばき出す。── これが総じてあらゆる人間的認識(あらゆる科学)の真に一般的な歩みである」(二八七ページ)、「論理学、弁証法および認識論」の三つは「同一のものである」(二八八ページ)。
この引用からもレーニンがヘーゲル論理学を人間の認識の進化していく歩み、認識論としてとらえていることが分かります。
論文「カール・マルクス」のなかでも「弁証法はマルクスの理解するところでも、またヘーゲルによっても、今日、認識論、グノセオロギアといわれるものをふくんでいて、この認識論は自分の対象を同様に歴史的に考察して、認識の発生と発展、無知識から認識への移り行きを研究し、総括しなければならないのである」⒀ と述べています。
『哲学ノート』の限界
以上述べましたように、『哲学ノート』は、ヘーゲル哲学とりわけ弁証法についての理解を格段に高めたという積極的な役割を果たしました。しかし、同時に私たちはこの『哲学ノート』の限界も知っておく必要があると思います。レーニンといえども個人的な認識には歴史的な限界がある、という一般的な事情だけではありません。その一つは、あたり前のことですが、『哲学ノート』はあくまでノートであり、公表するために練り上げられた論文ではないということです。みなさんも本を読んでノートを取り、感想、意見などを書きつけることがあると思います。そういうメモを素材にしながら、さらに考えを深めて論文に完成させていくのです。
ですから、レーニンの書き込みには卓見がいくつもあるのですが、やはりそれはレーニンが考え抜いたうえに書かれたものだとするわけにはいきません。発展途上の、未完のものとして理解することが必要なのです。レーニンの天才的なとらえ方が随所にあると同時に、それも十分に発展しないままに終わっている。これをそのまま、最終的な見解とみなしてはレーニンも不本意でしょう。「私はそんなつもりでノートしたわけではない。これはノートに過ぎないんだ」とレーニンもおそらくいうだろうと思うのです。
もう一つの制約は、レーニンはヘーゲルを集中的に学習しましたが、それでもその期間はそれほど長くはありません。しかも、条件も決してよいわけではありません。亡命先のスイスで、ベルンの図書館に通いながらの学習です。『大論理学』を読んだのは、一九一四年九月から一二月一七日の間です。どうして一七日という日まで分かるのかというと『哲学ノート』にちゃんと日付が書いてある。「《論理学》の終わり。一九一四年一二月一七日」と。その後も若干『小論理学』を学習したりしているので、実際にはもうちょっとかかったのかもしれませんが……。それにしても、四カ月あるかどうかの短期間。『大論理学』というのは、とても難解な書物です。多くの哲学者がヘーゲルの『大論理学』の研究に一生を費やしています。
一九九八年に亡くなった寺沢恒信さんというマルクス主義哲学者がおられます。この方も一生かけて『大論理学』の翻訳と注釈を出そうとしながらも、結局、第三部「概念論」の注釈と解説が完成しないまま亡くなられてしまいました ⒁ 。
『大論理学』というのは一生をかけて勉強、研究し、しかもなお道半ばということが多いのです。それを、革命運動の、実践のどまん中にいながら四カ月ほどで勉強し、しかもその真髄に迫っているわけですから、レーニンという人は偉大な人物だと思います。しかし、どんなにレーニンの頭が良くても、四カ月ではおのずから限界があるということもみておかねばならないでしょう。
ですから、今指摘した、第一と第二の事情、未完のノートであり、しかも短期間の学習の成果であることからも分かっていただけると思いますが、レーニン自身が「弁証法の問題について」という論文で弁証法をまとめようとしながら、結局それも未完成に終わっているのです。論文「カール・マルクス」のなかに「弁証法」の項目があります。エンゲルスが『自然の弁証法』で述べていた「弁証法の三つの基本法則」、つまり「量から質、質から量への転化の法則」、「対立物の統一あるいは対立物の相互浸透の法則」、「否定の否定の法則」と大きくとらえられていたのを、レーニンはさらに工夫して説明しています。しかし、それで弁証法をとらえきったというふうにレーニンが理解したのかというと、そうではないでしょう。「カール・マルクス」を書いた後にも、ヘーゲルの研究をし続けたということは、そこに満足せず、引き続き「弁証法とは何か」を全面的に明らかにしようと考えていたのだと思います。しかし、残念ながら、そこに立ち戻る時間はなかったわけです。
『哲学ノート』をどう読むのか
高い意義と同時にいくつかの制約と限界をもっている『哲学ノート』をどう学んでいくのか。何といっても、『哲学ノート』は、ヘーゲルの著作からの抜き書きとそれに対するレーニンのコメントからなっているという特徴をもっています。ですから、それを忠実にたどっていっても、全体をまとまりのあるものとして理解することは困難ですし、レーニンの真意をつかむこともできません。そこで広島県労学協編『ヘーゲル「小論理学」を読む』を全体の骨格とし、これをふまえて『哲学ノート』に沿って学んでいくことにします。また、そのなかで、レーニンが歴史的限界をもちつつも、ヘーゲル学習のなかで、いかに前進していったのかも、自ずから明らかになっていくこととなるでしょう。
『読む』では、大きくいって二つの問題提起をしました。一つは、ヘーゲル論理学は認識論として読むべきだということ。人間の認識がどう進化・発展するかという見地からヘーゲル論理学を読むべきであり、そういう見地から読むと、ヘーゲル論理学はきわめて唯物論的な認識論に立っているということです。
もうひとつの問題は、概念論の位置づけと評価です。『小論理学』も『大論理学』も有論、本質論、概念論という三部構成です。有論というのは、ものごとを表面的にとらえる感覚的な認識を扱っています。
本質論ではそのものの表面からなかに分け入って、その奥にある本質をとらえるより深い認識を扱っています。これに対し、本質の認識をふまえたうえで、そのものの「真にあるべき姿」を扱うのが概念論であり、これがまっすぐにマルクスの「変革の立場」に結びついていると理解しました。ものごとが「どうあるか」を認識することを通じて、「どうあるべきか」を認識することによって、人間の意識は最高の段階に達する。それを実践することにより、自然や社会の合法則的発展が生まれるのです。
読み解くべき理論的財産
『哲学ノート』について不破哲三さんは「この本は唯物論哲学の教科書的な本には必ずそこからのあれこれの命題の引用がある。それくらい重視されているんですが、そのわりには全体を読み解く努力はあまりされてきていないんですね。だから歯ごたえは硬くても、噛みこなす努力をする値打ちは十分にある」⒂ といっています。
不破さんは『レーニンと資本論3』のなかで、『哲学ノート』について①カント主義批判②弁証法の諸要素、諸側面をどうとらえるか③資本論の認識方法の問題などについて新しい解明をしておられます。しかし、それでも「こんどとりあげたのは、『哲学ノート』のごく一部で、研究すべき理論的な財産は、そこにまだまだ巨大な規模で残っています」と語っています。
『哲学ノート』は全体が研究の過程を書きとめたノートであり、この研究の過程というところに読み解く上での難しさもあれば、はたまたつきない興味の源泉もあります。レーニンが完成しようとして果たせなかったその意図を、私たちが変革の精神と科学の目をもって正しく汲み取ると同時に、どれだけ前進させることができるか。次講からいよいよ本論です。
⑴『プラトン全集』①八四ページ。
/岩波文庫『ソクラテスの弁明・クリトン』三七ページ。
⑵ 同、一三三ページ。/文庫、七四ページ。
⑶『フォイエルバッハ論』(新日本古典選書ほか)などを参照。
⑷『マルクス主義の3つの源泉と3つの構成部分』、全集⑲三ページ。
/『カール・マルクス』新日本文庫、一三八ページ。
訳文は「一つにまとまった世界観」。
⑸ 不破哲三『レーニンと「資本論」』③(一九九九年)、
二ページ、二七三ページ
⑹『レーニン全集』㉑六二ページ。
/『カール・マルクス』新日本文庫四八ページ。
⑺『プラトン全集』⑪四一八ページ。
⑻「しんぶん赤旗」二〇〇〇年一月一日、三日付。
不破哲三『レーニンと「資本論」』⑤と『世紀の転換点に立って』に収録さ
れている。
⑼ 真田是『社会保障 二一世紀への展望』(一九九四、かもがわブックレット)
⑽ 不破哲三『レーニンと「資本論」』③二七〇ページ。
⑾ クルプスカヤ『レーニンの思い出』青木文庫、㊦一七四ページ。
⑿『レーニン全集』㉑四一ページ。
/『カール・マルクス』新日本文庫、二〇ページ。
⒀ 同、四二ページ。/新日本文庫、二二ページ。
⒁ 寺沢恒信訳のヘーゲル『大論理学』(以文社)は一九九九年に第三部「概念
論」が出され、訳業としては完結したが、注釈は途中までである。
⒂ 不破哲三『レーニンと「資本論」』③四七一ページ。
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