『変革の哲学・弁証法─レーニン「哲学ノート」に学ぶ』より

 

 

第二講 ヘーゲル論理学と弁証法


一、ヘーゲル論理学とは

 『哲学ノート』は前回も申しましたが、レーニンが自分のためにとったノートであり、ヘーゲル『大論理学』全体をバランスよく紹介したものではありません。ですから、レーニンの関心がある部分は詳しく抜き書きされ、コメントが加えられていますが、そうでないところは飛ばされている。だから『哲学ノート』を読んだだけでは、なかなか全体の流れは理解できないのです。
 『哲学ノート』の解説に入る前に、ヘーゲル論理学とは何かということについてお話ししておくことにしましょう。
 ドイツ古典哲学の完成者はヘーゲルであり、その幕開けをきりひらいた人はカントです。ヘーゲルの哲学は、カント哲学の批判のうえに成り立っていて、カントのなしとげた仕事がなければ、おそらくヘーゲル哲学も存在しなかったでしょう。マルクスやエンゲルスも同様にヘーゲル批判の上に存在しています。

生きた現実世界を丸ごととらえる

 ヘーゲルは、これまでのいわゆる形式論理学といわれる論理学を乗りこえると同時に、カントのめざした論理学も乗りこえ、自分で新しい論理学をつくろうというたいへん意欲的な試みをしました。形式論理学とは、AはAであるという、同一律を根本にすえ、思考の枠組み、形式のみを議論する論理学です。その形式論理学についてヘーゲルは、「生命のないの骨格の意味」 しかもたないと述べ、レーニンはその部分に「必要なのは生命のない骨ではなくて、生きた生命である」(六三ページ)とコメントをつけています。
 ヘーゲルは、形式のみの骸骨のような形式論理学ではなくて、形式と内容を統一した生きた現実の世界を認識する論理学を構築しようとしたのです。現実の世界そのものを丸ごととらえようとしたのです。

カントのカテゴリー論を批判

 ヘーゲルはまた、カントが『純粋理性批判』のなかで展開しているカテゴリー論を批判し、それを乗りこえようとしています。カテゴリーとは、最高類概念のことであり、これ以上抽象化できないところまで抽象化した概念を意味します。
 カントのカテゴリーには、量、質、関係、様相という四つがあって、それがさらに三つずつにわかれ、量が総体性、数多性、単一性、質が実在性、否定性、制限性、関係が実体性、因果性、相互性、それから様相が可能性、現実性、必然性というように、全部で十二のカテゴリーが述べられています。これらのカテゴリーはいずれも、ヘーゲルもとりあげています。
 一番問題なのは、カントのカテゴリーは逆立ちしていることです。人間がさまざまな経験をすることによってそこから感覚的なものが与えられますが、カントは多様な感覚を秩序づけ、対象として構成するのが、人間が生まれながらにもっている認識の形式であり、それがカテゴリーだというのです。
 客観世界が秩序をもった世界としてあるのは、世界が物質からなりたっており、物質の統一性に基づいているのですが、カントはそれを逆立ちさせ、人間が自分の頭の中にもっている思考の形式でもって世界に秩序を与えているのだという非常に観念的な考え方をして、その上にたってカテゴリー論を展開するわけです。ヘーゲルも観念論者ですから、カントのカテゴリーが逆立ちしているとはいいません。しかし、ヘーゲルは、カントの十二のカテゴリーは、ただ並列的に並べているだけで相互の関連がまるでないではないかという観点から批判しています。カテゴリーというものは、もっとも単純なカテゴリーからもっとも複雑なカテゴリーにむかって、カテゴリー自身の運動として発展していくような、そういう体系化され、関連づけられたものでなくてはならない。こういう点からカントを批判し、ヘーゲルは自分なりのカテゴリー論を展開していくわけです。
 ヘーゲルは形式論理学とカントのカテゴリー論を乗り越えて、新しい論理学をつくろうと試みたのです。

大論理学の構成

 ではどんな新しい論理学をつくろうとしたのか。
 ヘーゲルは、論理学を「純粋思惟の学」 であるといっていますが、どういう意味でしょうか。人間は考えることによって事物を抽象化し、抽象化することによってカテゴリーや法則をとらえます。これを取り扱う学問が論理学だということでしょう。その純粋思惟の学としての論理学は、大きく客観的論理学と主観的論理学に分かれるとヘーゲルはいっています。その客観的論理学の中に有論と本質論があり、主観的論理学の中に概念論があるという構成になっています。
 客観的論理学というのは、客観世界における法則をカテゴリーとして論じたもの、主観的論理学は、人間の認識が実践を媒介にどう前進するのかという認識の法則を論じているといっていいと思います。しかし、主観的論理学だからといって、人間の意識の問題だけを論じているのかというと、決してそうではありません。
 人間は常に客観(環境)に働きかけ、不断に客観を変革しなければ生きていくことができません。労働し、労働生産物をつくりだすということは、常に客観に働きかけることを意味します。また、人間同士が多様なかたちで働きかけあっているのが社会です。ですから、主観的論理学というのも主観的な頭の中における認識の問題だけを論じているわけではなく、主観と客観の交互作用を論じているのです。そこでは、人間の実践が大きな役割を占めています

 

二、有論、本質論、概念論の連関と発展

認識深化の過程

 それでは、テキスト五九ページの「ヘーゲルの著書《論理学》の摘要」に入ります。
 「第一版の序文」ですが、まず、有論、本質論、概念論の連関と発展をみていきましょう。有論、本質論、概念論という論理学の体系について、ヘーゲル自身はカテゴリーのもつそれ自身の矛盾によって、自己運動し、だんだん単純なカテゴリーから複雑なカテゴリーに前進していく過程ととらえています。しかし、この点にあまり意味をもたせない方がいいと私は思います。エンゲルスもいっていますが、ひとつのカテゴリーから次のカテゴリーに移行する論理の展開にはずいぶん無理なところがあるのです 。ヘーゲルには、カントのカテゴリー論を批判するあまり、無理やりカテゴリーを関連づけ体系化していった面があるのです。
 さしあたり、有論、本質論から概念論への移行は、人間の認識が浅い段階から深い段階にだんだん前進していく過程ととらえればいいと思います。
 
悟性は規定し、理性は否定する

 『大論理学』「第一版の序文」にそって、みてみましょう。
 「悟性は規定し、またその規定を固執する。これに反して理性は悟性の諸規定を無の中に解消するものであるから、理性は否定的〔消極的〕であり、弁証法的である。しかしまた、理性は普遍を産出し、普遍の中に特殊を把握するものであるから、肯定的〔積極的〕でもある」
 レーニンは、「〝自己自身を構成していく道程〟=真の認識の、認識活動の、[無知から知にいたる]運動の道程、(ここが、私の考えでは、眼目だ)」(六二ページ)とコメントしています。つまり論理学における有論、本質論、概念論への展開というのは「無知から知にいたる運動の道程」だというようにとらえるべきだとレーニンはいうのです。
 ここには、肯定、否定、否定の否定、という弁証法の真髄が述べられています。
 弁証法というのはドイツ語のDialektikであり、ギリシャ語のdialektikeという言葉からきています。弁証法とは、もともと対話問答からでてくる人間の認識の深まりのことをいっているわけです。話し合いのなかで相手の意見を批判し、それを積み重ねるなかで一面的な認識が深まり、より正しい認識へ近づいたりすることは、日常的に経験されていると思います。ですから、日本語で弁証法というとなにか難しいことのように思えるけれども、そうではない。わりと日常的にあることを、もっと純粋な思惟の形式に高めていったものなのです。
 悟性(Verstand)とは「規定する」精神の働きであり、「規定する」とは限界づけるとか、特徴づける、他のものと区別する、という意味です。すべての事物、認識もまず「規定」された肯定的なものから出発します。理性(Vernunft)は、悟性によって得られた規定を否定し、当初の規定されたものを肯定と否定との統一としてとらえる。それが弁証法であり、「有限な諸規定の自己揚棄であり、反対の諸規定への移行」 です。あらゆるものが変化、消滅し、反対のものに転化する。「理性の戦いはまさに、悟性によって固定されたものを克服することにある」 のです。

理性は普遍を産出する

 では、「理性は普遍を産出し、普遍の中に特殊を把握するものであるから肯定的(積極的)でもある」とはどういう意味でしょうか。当初の規定されたものは、その内にある対立・矛盾を通じて、より豊かな「普遍」に発展し、否定されたものが再度否定され(否定の否定)、肯定的なものへと発展していくのです。新しく生まれた「普遍」は、当初の規定されたものの持つ肯定的なものを、そのモメントとして取り込み、「普遍の中に特殊を把握」しているのです。
 続いて、「理性は精神である。理性は悟性的理性または理性的悟性の両者よりも高次のものであるところの精神なのである」 とあります。ここは論理学が、全体として認識の深まりを述べているのですが、概念論こそ人間の意識の最高の産物としての「理性としての精神」だと述べたものです。「悟性的理性または理性的悟性」というのは本質論のことをいっているのですが、本質論よりもより高次のものを概念論では述べているというのです。どうしてそういえるのかというと、そこからまただいぶんいったところに「意識とは、具体的な、しかも外面性の中に捕われているところの知識としての精神である」。そこから二行ほどおいて「現象する精神としての意識はその展開の道程において、その直接性と外的な具体的形態から解放され、……純粋知識となる」「これが即ち論理学を構成するものなのである」 となっています。
 論理学というのは、肯定、否定、否定の否定で構成されていますが、その最後の概念論というのは、客観性の中に捕われている知識からぬけだして、「外的な具体的形態から解放」された純粋知識をとりあげているんだといっているのです。したがってそれは主観的論理学、ということになるわけです。
 前回概念とは「真にあるべき姿」であるということをお話しいたしましたが、「真にあるべき姿」は客観の中にはないのです。客観がいかにあるかを知ること、つまり客観を認識するということは、客観という外面性の中に捕われているのです。けれども概念(真にあるべき姿)というのは、そこからぬけだして客観を否定したうえになりたつのです。それが「直接性と外的な具体的形態から解放された純粋知識」ということです。認識とは、はじめは客観の外面性の中に捕われているけれども、やがてはその枠を抜け出して、純粋知識に至る。いいかえれば論理学とは、外面性に捕われている有論、本質論を経て、直接性から解放された概念論にまで至って初めて精神の段階に到達する(=人間の最高の認識に到達する)ことができる、そういうことを全体としてここでいっているのではないかと思います。
 それで、「悟性は規定し、理性は否定する」云々の部分に示された悟性―否定的理性―肯定的理性とは、(肯定)―(否定)―(否定の否定) ということであり、論理学の構成でいうと (有論)―(本質論)―(概念論) にあたります。ここの部分はいわば弁証法の真髄を述べると同時に、論理学の構成をも述べているのです。ここは認識の弁証法的発展と同時に、論理学の構成と概念論の意義を語ったものととらえればいいのではないかと思います。
 
概念をとらえる

 概念という言葉をヘーゲルは独自の意味で使っています。一般的には、「特殊なものを除去し、それらに共通なもの」を取り出した思考の基本単位となるものを概念といいますが、ヘーゲルはそれを抽象的普遍と呼び、それは「悟性が概念を理解する仕方」 であって、空虚であり、図式および影にすぎないといいます。ヘーゲルのいう概念には、抽象的普遍を意味する場合と、抽象的な普遍から区別された具体的普遍、私なりのいい方でいえば「真にあるべき姿」を意味する場合とがあります。
 『大論理学』では、次のように述べられています。
 「概念はただ思惟の対象であり、思惟の所産」であり、「ロゴスであり、存在するものの理性でありそ事物と呼ばれるものの真理である」
 客観的事物、客観的に存在するものは、はじめから真にあるべき姿として存在しているわけではないのです。だから不断に変化・発展していくわけです。「真にあるべき姿」として存在していたら、もうその世界は完成された世界ですから、そこから一歩も前に進まないということになるわけですが、そうではないのであって、客観世界というのは不断の運動と発展の過程にあるわけです。いいかえれば、現実の客観世界は真にあるべき姿ではないのに対し、客観世界の真理がいわば概念ということになるわけです。こうしてヘーゲルにおいては、概念をとらえることが、哲学の最終的な目的とされることになります。
 
なぜ弁証法なのか

 エンゲルスは「弁証法とは、自然、人間社会および思考の一般的な運動=発展法則にかんする科学」 だといっています。客観世界も人間の認識も、普遍的な連関、連鎖のなかにあってすべて相対的な同一性を保ちつつ、運動、変化、発展しています。これをとらえるのが弁証法なのです。
 Aさんという個人を例にしましょう。Aさんは生まれた時からずっとAさんとして相対的同一性があるわけです。昨日Aさんだった人が、今日はBさんだったりCさんだったりしたら困るわけです。しかし、昨日のAさんや明日のAさんが、今日のAさんと全く同じかというとそうではありません。変わっていないようでも時の経過のなかで着実に年をとり、外見も内面も変化する。だから、クラス会で何十年ぶりかに友人に会うと、「ずいぶん変わったな」とか、「いやちっとも変わってない」とかいう話になる。相対的同一性の面を強調すれば「変わってない」ということになり、変化の面を強調すれば「変わった」ということになるわけです。ですから「変わったと同時に変わっていない」といわないと正しくないのです。
 すべてのものは連関、連鎖のなかで相対的同一性を保ちつつ、運動、変化、発展していくのですが、連関、連鎖を絶ち切り相対的同一性と自立性の面だけをとらえた思考の形式が形式論理学です。形式論理学というのは、物事を動かないもの、「AはいつまでもAである」という考えのうえにたってなりたっています。たしかに物事の一面をとらえてはいるのですが、それだけではものごとの真理はつかめない。相対的同一性はつかめるけど、連関と変化の面がつかめないわけです。相対的固定性、自立性と同時に媒介性、運動、変化、発展の面をもとらえるには、弁証法という発展の法則に関する科学が必要なのです。

弁証法と懐疑論

 気をつけなくてはいけないのは、弁証法と懐疑論を混同しないことです。懐疑論とは、すべてを疑ってかかる立場です。
 マルクスも「すべてを疑え」といいましたが、これは、肯定に対して否定を対置せよということです。或るものは、その肯定的側面と同時に、その否定的な面からもとらえ直さないと、そのもの全体の本当の姿をとらえることができないということです。
 懐疑論というのは、疑いっぱなしで終わってしまうのです。先ほどの例でいうと、「悟性は規定し、理性は否定する」の否定的理性にとどまって、肯定的理性にまで届かないわけです。すべてを疑い、すべてを否定すれば、真理は存在しないことになるわけで、これはニヒリズム、絶望の立場です。
 肯定に対して否定を対置することは大事なのですが、否定にとどまっていたのでは、むなしいだけであって、展望をもつことはできません。ですから、弁証法の真髄は否定にあるのではなくて、否定の否定、すなわち肯定にあるのです。
 「反対だけが実績」「何でも反対の共産党」という攻撃が日本共産党にかけられていますが、これほど的はずれなものはありません。日本共産党は、科学的社会主義の立場に立っている政党です。科学的社会主義の哲学は弁証法的唯物論であり、反対だけにとどまらないというのが弁証法の見地なんです。
 自民党は政権党として政治を握っている。これは肯定です。それに対して自民党の政治はしょせん、大企業や大銀行優先ではないかといって批判(否定)する。しかし、そうやって批判、否定するだけでなく、どういう日本をつくるのか、どうあるべきかを「日本改革」の提案として正面に掲げている。肯定に対して否定を対置するだけではなく、否定を通じての「肯定的な理性」を積極的にうちだしています。いいかえれば、それが日本の真にあるべき姿(概念)を語るということでしょう。

 

三、論理学はカテゴリーの必然的展開

カテゴリーとは

 ヘーゲルは、カテゴリーの必然的展開を論理学のなかで展開すべきだと考えています。
 「論理的諸形式は誰にも知られているものである。しかし、知られている(bekannt)ものはだからといってまだ認識されている(erkannt)わけではない」(六三ページ)。
 「知られている」段階から「認識されている」段階にたどりつくためには、個々のものから離れ、それらを抽象化したカテゴリーとしてとらえることが必要だというのです。単に感覚的にあれこれのものを知っただけでは本当に知ったことにならない。カテゴリーとして把握することによってはじめて「認識」したといえる、といっているのです。
 「論理学の諸カテゴリーは《外的存在および活動の》〝無数の〟《個々のもの》の略語である」(六四ページ)。無数にある個々のものを抽象化し、普遍化したものが論理学のカテゴリーです。レーニンはここに「客観主義」と書きつけ、「思惟の諸カテゴリーは人間の用具ではなくて、自然ならびに人間の合法則性の表現である」(六四~五ページ)と述べています。
 カテゴリーは、カントがいうような思惟の形式という主観的なものではなく、客観のなかにある普遍的なものであるという意味でレーニンは「客観主義」と書いたのだと思います。カテゴリーは、人間が頭の中にもっている、ものごとを整理して考える道具、「人間の用具」だというのがカントの考え方です。これに対しヘーゲルは、自然あるいは人間の法則的なものを普遍化してとらえたのがカテゴリーであり、その意味で、カテゴリーは客観的なものだととらえています。この点をレーニンは評価しているわけです。

カテゴリーは網の結節点

 レーニンは、「人間の前には自然の諸現象の網がある。本能的な人間、野蛮人は自己を自然から特出させない。意識的な人間は特出させる。カテゴリーは、この特出の、すなわち世界認識の小段階であり、このの認識と把握とをたすける、網の結節点である」(六七ページ)ともいっています。カテゴリーは、人間が自然を認識する過程のなかで生まれてきたものであって、人間が自然に埋没している限りカテゴリーは生まれてこない。人間が意識をもち、客観世界全体へ働きかけ、それを認識しようとして、初めて、カテゴリーというものを理解してきたのです。
 レーニンは、世界というものは無数にいろんな事物が糸として絡み合った網のようなものだというわけです。その絡み合ったいくつかの糸の結び目になっているところがカテゴリーであり、無数に絡み合った客観世界を認識するうえでの鍵となる法則的なものがカテゴリーだといっています。
そのカテゴリーにはどんなものがあるのか。「ヘーゲルの弁証法(論理学)のプラン」(二八六ページ)のところに『小論理学』の目次が出ていますが、この目次に出ているものが、カテゴリーと呼ばれるものです。

カテゴリーとしての認識と実践

 認識と実践の問題は、概念論のなかの、「理念」のところでとりあげられています。へーゲルは、「理念」を人間の認識の最高の段階ととらえています。実は、レーニンが一番よくノートをとっているのは、この「理念」のところです。テキストの一六二ページから二〇三ページまで四〇ページが理念についてであり、ほとんど全文をノートして、コメントしています。論理学についてのノートの三分の一を占めています。レーニンがヘーゲルの哲学のなかから、いかにこの実践の問題を学びとっていったかが分かると思います。

事物そのものから、事柄(法則性)、事物の概念へ

 先に、ヘーゲル論理学は、生きた現実の世界をまるごと認識しようとする形式と内容を統一した論理学だとというお話をしました。では、客観的事物の内容をとらえるとは、どういうことでしょうか。
 思惟的考察は「事物ではなくて事柄、事物の概念が対象となる」(六八ページ)とヘーゲルはいい、これにレーニンは、「事物ではなくて、事物の運動の諸法則、唯物論的だ」というコメントをつけています。
 つまり、論理学で対象になるのは、事物そのものの表面的認識ではなくて、事柄であり、事物の概念であるということにレーニンは注目しているわけです。事柄というのは、Sacheと書いてありますが、客観世界の根本的存在形式、客観世界の法則と読み替えてもいいと思います。事物そのものという具体的なものは哲学の対象にならず、事物を抽象化し、普遍化したものが哲学の対象なのです。だからその意味で事物そのものではなく、事柄という抽象化された法則なり根本的存在形式なりを哲学は問題にするんだということをまず述べています。と同時に、事物の概念を事柄と区別しています。論理学は事柄を認識するだけではなくて、概念の認識にまで前進しなければならないということがヘーゲルの言いたいことなので、「概念」を「事物と呼ばれるものの真理」 と言いかえています。レーニンもこの段階では「概念」の意味がよく分かりませんので、「事物の運動の諸法則」と理解したのです。
 しかし、レーニンは「事物の客観的概念は事柄そのものを構成する(と彼は言っている)。唯物論的に言えば―われわれの世界認識の真の深化に照応する抽象を要求する、ということである」(六六ページ)といって、事物の客観的概念が、世界認識の真の深化に照応する抽象だというふうにとらえつつあるのはおもしろいところです。世界認識、つまりわれわれの認識が最高のところまで到達した時の抽象とは何なのかといったら、それは事物の客観的概念ではなかろうかということを、レーニンはここで感じとっているわけです。ヘーゲルは概念という用語を、なんだか違った意味で使っているようだなあ、事柄を超えるような認識の深まりのようなものをヘーゲルは考えているのかなあ、という感じでこの部分をノートしているのでしょう。
 「論理学は、思惟の外的諸形式にかんする学問ではなく」(同)とありますが、「思惟の外的諸形式にかんする学問」とは形式論理学のことです。そういう形式だけを論じるのではなくて、「〝あらゆる物質的、自然的および精神的事物〟の発展の、すなわち、世界とその認識とのあらゆる具体的内容の発展の諸法則にかんする学問である」(同)、つまり論理学というのは唯物論的な認識論なんだといっているわけです。どうもヘーゲルは観念論者だと思ったけれども、案外、ヘーゲルの論理学は唯物論的な認識論の立場に立っているではないかと思うわけで、意外だなという感じも含めてこういう書き方をしていると思います。それで、まとめとして論理学は「世界認識の歴史の総計、総和、結論である」(同)、つまり、世界を根本的に認識することをヘーゲル論理学はやろうとしているんだとレーニンは理解しています。

 

四、論理学の一般概念

弁証法的否定

 序論の「論理学の一般概念」に入ります。
 「哲学の方法は哲学に固有な方法でなければならない」「《なぜなら、方法は、その内容の内的な自己運動の形式についての意識だからである》」(七〇ページ)と述べ、「四一ページ 全体が弁証法のりっぱな説明」だと評価しています。
 「弁証法と懐疑論の違い」のところでも述べましたように、弁証法にとって「否定」というのはたいへん大事な概念です。「《否定的なものは同様にまた肯定的なものである》―否定は規定された或るものであり、規定された内容を持っており、内的諸矛盾は、新しい、より高い内容による古い内容の代替に導く」(同)とレーニンは抜き書きしています。
 ヘーゲルは、「《普通、人々は、弁証法は事がらそのものには属さない外面的で否定的な行為》」(七一ページ)とみなしているが、それは弁証法についてまったくの誤解であるといいます。
 「堅固なもの、真実なものを動揺させ解体させようとする」だけの外面的否定にとどまるのは、詭弁であり、懐疑論であって、弁証法ではありません。弁証法的な否定は、そのものを内部からつき動かすような、内にある発展の契機となる否定なのです。

対立物の統一=弁証法の核心

 レーニンは「弁証法から恣意という仮象を取り去ったのはカントの大きな功績である」(同)と抜き書きしています。ヘーゲルは「(カントは)弁証法を理性の必然的な働き」 ととらえた点を評価しているのです。
 肯定的なもののうちに否定的なものを把握するところに、弁証法の最も重要な側面があります。「弁証法的なもの=〝対立したものをその統一においてとらえること〟」(七二ページ)、つまり肯定と否定の対立においてとらえることから出発し、その対立、矛盾のなかから肯定的理性を生み出すのが弁証法なのです。
 さらに「《[その統一は]抽象的な、死んだ、動かないものではなく、具体的なもの》」というヘーゲルの言葉をとらえて、レーニンは、「特徴的だ! 弁証法の精神と核心!」(七三ページ)と述べています。対立物の統一といっても、それは死んだ、動かないものではなくて、その対立物の統一のなかから新しいものが生まれる、対立物を止揚するものが生まれる運動としてみることが大事であり、それが弁証法の核心だと、レーニンはいっているわけです。

 

⑴『大論理学』ヘーゲル全集⑥a、七ページ。
⑵『大論理学』㊤の一、四八ページ。
⑶ 拙著『ヘーゲル「小論理学」を読む』㊦一八三ページ参照。
⑷「シュミット宛手紙 九一年一一月一日」
  マルクス・エンゲルス全集㊳一六九ページ。
⑸『大論理学』㊤の一、四~五ページ。
⑹『小論理学』㊤二四五ページ。
⑺ 同、一四五ページ。
⑻『大論理学』㊤の一、五ページ。
⑼ 同、六ページ。
⑽『小論理学』㊦一二八ページ。
⑾『大論理学』㊤の一、一八ページ。
⑿『反デューリング論』マルクス・エンゲルス全集⑳一四七ページ。
  /国民文庫①二一八ページ。
⒀『大論理学』㊤の一、一九ページ。
⒁ 邦訳では『大論理学』㊤の一、三九ページ。
⒂『大論理学』㊤の一、四二ページ。

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