『変革の哲学・弁証法─レーニン「哲学ノート」に学ぶ』より
補論 ヘーゲルから科学的社会主義へ
一、哲学と政治
人間解放は、社会の合法則的発展をつうじて
「哲学と政治」というのは、大変深いつながりをもっております。マルクスの『ヘーゲル法哲学批判』に、「哲学がプロレタリアートのうちにその物質的武器を見いだすように、プロレタリアートは哲学のうちにその精神的武器を見いだす。そして、思想の稲妻がこの素朴な国民の土壌のなかまで底深くはしったとき、はじめて、ドイツ人の人間への解放が成就されるであろう」「ドイツ人の解放は人間の解放である。この解放の頭脳は哲学であり、心臓はプロレタリアートである。哲学はプロレタリアートを揚棄することなしには実現されえず、プロレタリアートは哲学を実現することなしには己を揚棄されえない」⑴ と書かれています。
人間解放の事業というのは、社会を合法則的に発展させることを通じて、実現されるものです。そのためには、社会の法則性を認識し、社会を科学的に把握することが必要です。
社会を法則的に発展させるというのは、なかなか大変な事業であります。それは、真理の細い糸をたぐる科学の目によってのみ、実現されるのです。長い歴史を通じて一歩ずつ社会を発展させていくためには、そのすべての道筋において、もっとも正しい道を選択し続けていくことが、求められているのです。
時々の政治課題に対して、どのように対応するのかの選択は、日々刻々求められているわけであり、その政治的な選択を重要な場面で誤った場合には、直ちに国民の側から厳しい批判が寄せられる。そして、その政党は国民から見放されていくことになるわけです。そういう意味で、真理とは何か、真理をいかにして探求するのかという、哲学を学ぶ必要があるのだろうと思います。
哲人政治と科学的社会主義の政党
実は、政治と哲学の関係は、ギリシャ時代から論議になっていたのです。ギリシャ時代の有名な哲学者に、プラトンという人がおります。プラトンは、主著である『国家』において、「政治というものは、正しい道筋を歩んで行くもの、真の理想を実現するものである。それは、哲学者によってのみ実現しうるのだから、政治は本来、哲学者が担当すべきである」という「哲人政治」を唱えました。
これは、一見すると、とんでもない偏った考え方、エリート支配のように考えられていますが、世の中の真理を見極めることによってのみ、社会の合法則的な発展は成し遂げられるという意味に解せば、「哲人政治」というのは、今日、私たちにとっても求められているところではないかと思います。いいかえれば、社会の発展を願っている私たち自身が、哲学を身につける必要があるということなのです。
今の日本にもいくつもの政党があります。政治というのは、権謀術数、つまり、謀を巡らしていかに多数派を獲得するか、という多数派工作にその最大の目的がある、というふうにとらえている政党がほとんどです。その中にあって科学的社会主義の政党である日本共産党は、哲学をその理論的構成要素としている唯一の政党です。他の政党は、独自の哲学をもっていません。
二、変革の哲学
真理を探究することを通じて人間を解放する
なぜ、科学的社会主義の政党だけが、哲学をもっているのでしょうか。それは、科学的社会主義の政党が、真理を探究することを通じて人間の解放を実現することをめざしているからです。
では科学的社会主義の政党にとって、いかなる哲学が必要なのか。それを一言でいうならば、変革の哲学ということになるわけであります。
マルクスの「フォイエルバッハにかんするテーゼ」の第一一テーゼに「哲学者達は、これまで世界をいろいろに解釈してきただけであった。しかし肝腎なのは、それを変えることである」とあります。ロンドンにありますマルクスのお墓に二つの文章が彫ってありまして、一つは、「万国の労働者、団結せよ」というものであり、もう一つが、この文章です。
解釈の立場というのは、世界はどうあるのかという「存在」を問題にするわけです。これに対し変革の立場というのは、世界はどうあるべきかという「当為」を問題にするのです。
いわば変革の立場においては、いかにあるべきかを問題としつつ、それに従って実践をするということになるわけで、いいかえると、それは「実践の哲学」といってもいいだろうと思います。
そこで「フォイエルバッハにかんするテーゼ」の、第一テーゼは次のようにいいます。
「これまでのすべての唯物論(フォイエルバッハのそれも含めて)その主要な欠陥は、対象、現実、感性が、ただ客体の、あるいは観照の形式のもとでのみとらえられていて、人間的な、感性的活動、実践として、主体的に捉えられていないことである」。
これまでのすべての唯物論は、人間的な感性的活動、実践をとらえていないという批判をしており、それに続いて「それゆえ活動的な側面は、唯物論とは別に、かえって観念論によって、展開されることになった」と書いています。つまり、実践の問題は、これまで、唯物論者が取りあげるのではなくて、観念論者が取りあげていたというのですが、実はこの観念論の立場から実践をとり上げたのがヘーゲルなのです。
実践を哲学上に位置づけたヘーゲル
科学的社会主義の哲学が確立される上で、ドイツ古典哲学が源流になっているわけですが、ドイツ古典哲学の頂点に立つのが、ヘーゲルです。ヘーゲルは観念論者ではあったけれども、実践という問題を哲学に位置づけた初めての人なのです。
このヘーゲルの観念論を批判したのが、フォイエルバッハです。この人は唯物論者ではありますが、実践をどう位置づけていたかというと、汚らしい、金もうけ的なものにすぎないというふうに、とらえていました。
「それゆえ、彼はキリスト教の本質において、観想的態度のみを真に人間的なものと見なし、他方では、実践は、さもしいユダヤ人的商人根性的な現象形態においてのみとらえられ、固定化されている。それ故、彼は、『革命的』活動、『実践的で批判的な』活動の意義を理解しない」(「第一テーゼ」)と、マルクスは批判をしています。
マルクスは革命的な活動、実践的で批判的な活動は、観念論者であるヘーゲルにおいて、はじめて、哲学上位置づけられたといっているわけであります。ヘーゲル哲学の核をなしているのは『論理学』であり、第一部「有論」、第二部「本質論」、第三部「概念論」という構成になっています。
先ほど、世界はどうあるかという存在の問題と、どうあるべきかという当為の問題の区別についてお話をしましたが、第一部、第二部の「有論」、「本質論」というのは、世界がどうあるかという存在に関する、哲学的な探求をしている分野であります。ヘーゲルが実践を取り上げているのは、第三部の「概念論」なのですが、そのなかで人間の認識と実践を通じて、世界がどうあるべきかという当為を論じているのです。
社会の発展法則は解明できず
ヘーゲルが初めて実践という問題を哲学に取り入れはしたのですが、マルクスによって「しかしただ抽象的にだけである」と批判されています。人間の実践は、自然や社会を変革する力になるわけですが、ヘーゲルは、社会の発展法則を明らかにすることができず、明確な階級的な観点もありませんから、人間のいかなる実践を通じて社会変革をするのか、という問題に的確な解答をだすことができなかったのです。そういう意味では、実践を取り上げながらも、抽象的なものにならざるをえませんでした。
三、社会発展におけるヘーゲル哲学の意義
史的唯物論の登場
エンゲルスの『空想から科学へ』に、唯物史観と剰余価値学説によって社会主義は科学になったと書かれています。唯物史観というのは社会発展の土台は経済にあり、社会を経済的関係から生まれる階級の見地から分析して、その発展法則をとらえるものです。
ヘーゲルは人間の社会にも法則的発展があるということを見抜いた最初の人です。彼の歴史の見方は、自由という問題を根底にすえ、それが発展してきた歴史だととらえました。
たとえば、東洋では専制君主が支配していて、自由なのは専制君主ただ一人である。それがギリシャやローマ時代になりますと、奴隷所有者はすべて自由となり、多数の奴隷は不自由な社会という意味で、「少数者の自由の歴史」の時代である。中世のキリスト教の時代に入りますと、キリストのもとにおいて、みんな平等だという意味において、すべての人が自由になる時代だととらえています。もちろん、そのとらえかたが正しいということではなくて、社会には法則があり、かつ、社会というのは発展的に展開されてきているんだという意味で、社会の法則性をとらえようとした人物であります。
しかし、エンゲルスは次のようにいってヘーゲルの歴史観を批判しています。
「発展法則の探求の必要性は承認しながらも、こうした諸力を歴史そのもののなかで探すことをせず、むしろ外部から、哲学的イデオロギーから、歴史の中に輸入する」。
自由の問題を念頭に置いて、歴史を描き出そうというわけですから、社会を発展的にみたという点では評価しうるものの、その原動力を社会の内部に求めることなく、外から哲学的イデオロギーを歴史の中に持ち込んだといわれても仕方がないのです。しかし、ヘーゲルは、自由を、必然を揚棄して自己のうちに含むものと理解していますので、ヘーゲルの歴史観には後述するように積極的なものが含まれています。
ともあれヘーゲルの実践は、唯物史観も、剰余価値学説もふまえていないところから、ただ抽象的な実践を問題にするにとどまったのです。
真理実現の過程としての「実践」
では史的唯物論が確立された今日、ヘーゲル哲学を論じる意味がどこにあるのでしょうか。
それは、ヘーゲルが実践を真理実現の過程ととらえている点にあります。
科学的社会主義の哲学で、実践というものを認識の正しさを検証する基準だという一面からのみ理解する傾向があります。
しかし、実践の意義はそれにつきるのではありません。実践というのは、社会や自然を変革する人間の力であり、この点を正しく評価する必要があるのです。
したがって、実践には二つの意義があります。一つには真理を検証する基準であり、もう一つは自然や社会を変革する力です。
生産労働という自然変革の実践、あるいは労働運動や政治活動などの社会変革の実践、というようなものが重要な意義をもつことはいうまでもありません。実践をするということは、世界がどうあるべきかということにかかわる問題です。どうあるべきかを頭の中で考えて、それに基づいて実践をするのです。
どうあるべきかということについては、世の中にはいろんな考え方があります。そのことを一言で「多様な価値観」といいます。人それぞれに価値観があり、意見があるということになると、実践というものには、そもそも真理はありえないのではないかということになる。
世界がどうあるべきかという当為、実践、または価値の問題については、真理はありえないから、多様な価値観があるなかでどれを取るかにおいて優劣の問題は生じないという考えが広く存在します。そして当為、価値観が問題になると「それは見解の相違だ」と一蹴してしまう傾向があります。つまり、存在と当為の問題を全く切り離して、存在の問題には真理はあるけれども、当為の問題には真理はありえないと考えるのです。
それに対して、ヘーゲルは存在について真理があるように、当為についても真理があるはずだという立場から彼の哲学を展開しているのです。ここに、今日なお私たちが学ぶべき重要な観点があると思われます。
このことにマルクスは気づいたのです。ヘーゲルの実践観というのは、実践の中における真理を求めるという点で、やはり学ぶべきものがあるのではないかと考えて、「フォイエルバッハにかんする第二テーゼ」で、「実践において、人間は、自分の思考の真理性を、すなわち彼の思考の現実性と力、その思考の此岸性を証明しなければならない」と述べました。
ちょっとわかりにくい文章ですが、実践を通じてその人の考えていたことが、正しかったかどうかが明らかになるとともに、真理をとらえての実践というのは、現実となる力をもっている、といっているわけです。「思考の此岸性」とは、思考が思考の世界にとどまるのではなくて、客観世界の側にあらわれ、現実となることを意味しています。
しかし、マルクスはヘーゲル哲学をわかりやすくまとめようとする意図はあったのですが、結局、時間がなくてこの第二テーゼそのものを展開したマルクスの文章というのはありません。政治的・社会的実践をすすめ、現実を深く認識し変革するうえでも、ヘーゲル哲学から学び、科学的社会主義をさらに発展、豊富化させることが必要だと思います。
四、真理とはなにか
真理には段階がある
もう少し説明すると、皆さん方は日々、職場や地域や学園で、さまざまな社会変革のための実践をしておられると思いますけれども、その中で、いかなる実践をするべきかということが、日々、問われているわけです。
この真理の問題でもヘーゲル哲学というのは、いわば、弁証法的唯物論の認識論、真理観というものを発展させる要素をもっているのではないかと思われます。
ヘーゲルの真理観にはいくつかの点があるんですが、三つほどあげると、一つは、真理には段階があるということです。つまり、浅い認識の真理から、より深い認識の真理まで、大きく三段階があるという考えです。先ほど、「論理学」は第一部・有論、第二部・本質論、第三部・概念論というふうにいいましたけど、それぞれの段階で有の真理、本質の真理、概念の真理というのがあるわけであって、後になるほどより高い真理になっていくということをいっているわけです。
有の真理と本質の真理というのは、「世界はいかにあるか」という問題に関する真理ですから、ある意味では「事実の真理」といってもいいだろうと思います。有の真理というのは何かといいますと、表面的な認識の正しさです。たとえば、「今日はいいお天気ですね」ということをいいます。確かに太陽が出ていて青空であれば、いいお天気であることには間違いないわけですから、これは間違った認識ではありません。
だけれども、それは非常に浅い認識だということは、皆さんもおわかりでしょう。これに対し、世界はどうあるかにかかわる、より深い真理の認識は何かというと、それは本質とか、法則性とか、実体とか、類とか、そういう表面から隠された、より深いところにある真理であり、そういうものを「本質の真理」というようにヘーゲルはとらえています。
では、表面的「有の真理」から、本質をとらえ、法則をとらえる「本質の真理」に達したときに、人間の認識は最高の段階になるのかといったら、そうではないと彼はいうのです。
つまり、人間の認識が最高の段階に達するのは、世界がどうあるかを認識するだけではなくて、どうあるべきかの認識の段階まで前進しなければならない。それを彼は、「概念の真理」というわけです。「概念の真理」とは、いうなれば価値(当為)の真理であり、それこそが最大の真理ということであります。ヘーゲルのいう「概念」とは真にあるべき姿を意味しており、それを認識することが「概念の真理」となります。
事実は真実の敵なり
「しんぶん赤旗」に、俳優の松本幸四郎さんが「事実は真実の敵なり」と色紙に書いていたということが紹介されていました。
「事実は真実の敵なり」── 、これは非常に逆説的な表現なのですが、現実だけにとらわれると、あるべき姿、理想を見失うという意味だそうです。そういう意味だとすると、この「事実」は世界の現実がどうあるかに関する認識であり、「真実」といってるのは、世界がどうあるべきかに関する認識です。そこから、現実だけにとらわれるとあるべき姿、理想を見失うという意味になるわけです。
これは、まさにヘーゲル哲学のいわんとしているところと同じです。認識にはいろいろ段階がありまして、事実の認識よりも当為の認識、どうあるべきかという認識の方が重い意味をもつということをいっているわけです。日本にもこういう言葉があったということを、私は初めて知りました。
ヘーゲルが概念の真理、あるいは当為の真理、実践の真理を主張したことには大きな意味があると思います。人間が自然や社会の変革を考えるということは、いわば当為を追求することなのです。どういう社会であるべきなのか、どういう労働生産物をつくるべきかは、当為を追求することになるわけで、その点に真理がないということになれば、いわば、社会的実践には優劣がつけられないことになります。自民党政治も、共産党のめざす政治も同列でおかれてしまい、それぞれ理念が違うだけの話ということになってしまいます。そういう問題ではないのであって、社会的変革における真理の一筋の道というのは、必ずつけられなければならないということだろうと思います。
真理の二つの側面
二つ目のヘーゲルの真理観の特徴というのは、真理には二つの側面があるということをみていることです。
エンゲルスの『フォイエルバッハ論』の中に、「思考と存在をめぐって、哲学の陣営は、二つに分かれた」「唯物論と観念論に分かれた」という有名な文章があります。そこを論じたあとで、思考と存在には、もう一つ別の側面があるとして、思考と存在の同一性を論じております。
それは人間の思考が存在と一致するかどうかという問題であり、いうなれば、真理の認識の問題なのです。一般的に真理の認識とは、客観的事実に一致する認識であるといわれています。つまり、存在に思考が一致するとは、客観世界のあるがままの姿を人間が認識するということです。
では、人間の認識がそこで終わりになってしまうのかというと、そうではないとヘーゲルはいうのです。「存在に認識が一致する」という場合の認識というのは、現にある姿に一致する認識というだけではなく、あるべき姿に一致する認識という意味まで含めて考えているのです。だから認識論というのは、あるものをあるがままの姿で認識するだけにとどまらず、どうあるべきかをも含めて認識するのだといっているのです。
さらにヘーゲルのもう一つの側面は、そういうあるべき姿の真理を認識したとき、そのあるべき姿は、あるべき姿のままでとどまるのではなくて、必ず現実になる必然性をもっているんだといっています。そういう意味で、今度は認識が存在に一致するということをも問題にし、ここに実践がでてくるのです。
真理としての思考と存在の一致の問題は、「存在に一致する認識」という面と「認識に一致する存在」という面、つまり、真理を認識したときには、それは必ず現実になるという意味で、認識は存在に一致するという面があるというのです。ヘーゲルがこの二つの側面を指摘している点は、変革の立場、実践の立場から物事を論じるうえで、非常に重要なところだと思うのです。
理想と現実の統一
三つ目の特徴ですけれども、理想と現実の統一です。「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」。ヘーゲルの『法の哲学』の序文にでてくる有名な言葉です。
『小論理学』の第六節に「私の『法哲学』の序文には、理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である、という命題がある。この簡単な命題は、多くの人に、驚きと敵意を起こさせた。しかも自分は宗教はもちろん、哲学をも持っていると考えている人々の内にさえそうした人々があった」とあります。
「理性的なもの」というのは、理想と同じように考えていいわけですが、理想は現実であり、現実は理想であるというふうにいっているわけですから、理想と現実が完全に一致するなんて、そんなバカなことがあるのかという、批判を受けたというわけです。
「一般の漠然とした考え方にも、すでに理性的なものの現実性を否定するような考え方がある」。つまり、理想と現実とを全然別のものとして切り離す考え方がある。その一つが、「理念や理想は、幻想にすぎず、哲学とは、そういった幻想の体系だという考え方」です。つまり理想などというものは、しょせん幻想にすぎないという考え方であり、もう一つは逆に、理念や理想は現実性をもつには、あまりにも優れたものであるとか、理念や理想は現実性を手に入れるには、あまりにも無力だというような考え方です。
つまり、どちらの考え方も理想と現実とを切り離す考え方なのです。しかし、ヘーゲルは、こういう考えに異議を唱えた。
「哲学はただ理念をのみ取り扱うものであるが、しかもこの理念は、単にゾレンにとどまって現実的ではないほど無力なものではない」。この場合のゾレンというのは、先ほど「存在と当為」といいましたが、その「当為」のことです。
「当為」とは、「まさにかくあるべし」という意味です。理想というのは、「そうあるべきだ」というところにとどまるほど無力なものではなくて、現実になる必然性をもっているんだということをいっているのです。そういう意味で、「理想的なものは現実的であり、現実的なものは、理想的である」と述べているのです。
真理は必ず勝利する
エンゲルスは、『フォイエルバッハ論』のなかで、この文章を引用して、ここにヘーゲル哲学の真髄と革命的性格が現れていると解説しています。ヘーゲルは、理想と現実を切り離す考え方に反対し、真理としての理想を掲げるならば、それは必ず現実となる必然性をもっているということを明らかにして、真理としての実践の課題を探求した初めての人なのです。
このヘーゲルの真理観というのは、あまり取りあげられてきませんでしたが、実は、弁証法的唯物論の真理観に、基本的に一致しているものだと思います。
それが先ほどのマルクスの「フォイエルバッハにかんするテーゼ」であり、それを今日的な用語でいうならば、「真理は必ず勝利する」ということなのです。
この場合の真理というのは、あるべき姿としての真理を問題にしています。あるべき姿としての真理は必ず勝利する、必ず現実を変える力をもっているといっているのです。実践の真理、当為の真理は、はじめは少数の人々の認識ではあっても、真理の持つ力により、いずれは多数の認識になり、勝利するのです。
日本共産党の二十回党大会の報告で「歴史に対する前衛党の責任とは何か。それは、そのときどきの歴史が提起した諸問題に正面からたちむかい、社会進歩の促進のために、真理をかかげてたたかうことであります」⑵ と述べています。歴史が提起した諸問題の真理とは何かというと、その諸問題の当為の真理を問題にしているわけです。
つまり、当面の政治的課題に対してどう対処すべきか、どうあるべきかという当為を問題にしているわけです。その問題に正面から立ち向かうということは、国民の前にあるべき姿の真理(真にあるべき姿)を提案する、そこに前衛党の責任があり、そして提案した真理に向かって実現のためにたたかうのだというのです ⑶ 。
五、理念
理念と空想の同一と区別
理想や理念を問題にするということは、即、観念論であるという問題ではありません。唯物論的な理想もあれば、観念論的な理想もあるわけで、我々が退けなければならないのは観念論的な理想(空想)ということにすぎません。理想そのものを論じなくなったら、そもそも実践を課題としないことになり、単に解釈の立場に立つということになってしまいます。実践を問題にする限りは、常に当為の真理としての理想を問題にせざるをえないのです。
そこで、理想というものをいかに唯物論的に考えるかということが重要になってくると思います。いいかえれば「理念と空想の同一と区別」を考える必要がある。
理想も空想も主観的意識の作用としては同一ではあるけれども、空想は客観世界と無関係な意識の作用であるのに対し、唯物論的理想は客観世界と直接性と媒介性の統一の関係にあります。
客観世界の現にある姿を認識するだけでは、理想は生まれてきません。客観を乗り越えることによって、理想は生まれてくるのです。その意味で理想は客観に媒介されながらも、客観に媒介されず、客観からは自由な存在としてあるわけで、そういうことを「直接性」といっているわけです。だから、理想は客観に媒介されながらも客観を乗り越えた自由な存在としてあるという意味で、「直接性と媒介性の統一」なのです。
もう一つは、理想は「自由と必然の統一」です。『反デューリング論』をお読みになった方は、「ヘーゲルは、自由と必然をその統一においてとらえた初めての人である」という有名な文章が出てくるのをご存じだと思います。ヘーゲル自身の言葉では、「自由というのは、必然を前提し、それを揚棄されたものとして自己の内に含んでいる」といういい方をしております。
社会における法則(必然)を認識することを通じて、その社会を揚棄した(乗り越えた)真にあるべき姿(理想)というものをとらえることによって、外的自然の支配が可能となり、自由となるのです。だから全体としてまとめると、唯物論的な理想の探究は、実践を媒介として、客観の法則性を次第により深く認識することによって、客観をより自由に支配し、人間はより自由になっていくのです。ここに「世界史を自由の概念の発展」ととらえたヘーゲルの歴史観の一定の積極面をみることができます。
理念は客観を否定するものです。現にある客観は、あるべき姿ではないとして、これを否定して、真にあるべき姿につくりかえようとするもの、それが理念(ヘーゲルのいう「概念」)なのです。だから、理念をつかむことによって人間は自由になることができるのです。このようにヘーゲルは、真にあるべき姿というものを「唯物論的」に理解しようとしたわけであります。
理念は当面の真理の認識根拠
根本的な当為の真理としての理念は当面の当為の真理の認識根拠となります。つまり、理念という根本は真理を高く掲げることによって、はじめて当面の課題についてどうあるべきかということも、正しく真理として認識することができるのです。プラトンは、理念というのは、当面の課題の認識根拠になり、その真理性を担保すると、『国家』で述べています。
こういういい方ではわかりにくいかと思うので、日本共産党を例にとってお話します。同党の綱領は日本社会の発展の道筋を明らかにしたものですけれども、その最終的な目標(理念)は、資本主義の日本から社会主義、共産主義の日本に発展させることです。その理念を掲げているからこそ、資本主義の枠内での民主的な改革というものを提起し、当面の「日本改革」を導き出しているのです。いわば、社会主義、共産主義の日本が理念となって独立・民主の日本を、ひいては日本改革という、より下位の理念が生まれてきているのです。綱領の根本的理念が認識根拠となって、日本改革という当面の理念、当面の当為の真理を認識しうるのです。
理念を考えることによって、当面、何をすべきかという問題についても正しい道を選択することができるということです。
資本主義の枠内での民主的改革といっても、民主連合政府が今すぐに実現できるということではありません。では当面、何をすべきなのかという問題について答えがでないようであれば、やはり社会を一歩ずつ発展させるうえでは問題が残ります。一階から二階までの階段が順についていて初めて二階に上がることができるわけですから、そこへ向かって当面の正しい諸課題を通じて、一歩でも社会を前進させるための具体的な提案をするという建設的な提案も、すべておおもとになっている綱領の理念があればこそ可能となっているのです。綱領の理念が認識根拠になって、当面の諸課題についても日本改革という理念を国民の前に提起しうるのです。
公共投資五〇兆円と社会保障二〇兆円という逆立ちした財政を直すとか、サービス残業をなくすなどルールなき資本主義を改めるとか、外交についても紛争の平和的解決と自主的外交を進めるとか、そういう当面の建設的な提案ができるのも、綱領の理念があるからこそ具体化できるというわけです。
理念のもつ力というのは、こういう点にあるのです。真理としての理念を掲げることによって、その下位に、そこから生まれてくるより小さな理念というか、より当面の理念というか、そういうものを定めることができるのだろうと思います。
たとえば、税制改革の問題では、そもそも日本の税制はどうあるべきなのか、税をめぐる理念が所得の再分配にあることを明らかにすることを通じて、消費税の引き上げがおかしいではないかという意見を述べることができるわけです。当面の問題について、正しい方針を出すことができるかどうかというのは、その問題の根本における理念の正しさを、きちっと捉えているかどうかということにかかっているのです。
「建設的提案とは、現実となる必然性を持った理念を提示」することです。現実となりえない理念から脱却し、現実となる力をもった理念を提起すると同時に、理念を二階にあげたままにしないで、二階にあがるための階段をつける必要があり、そういうものが建設的提案ということになるのだと思います。
いいかえるならば、日本の変革というのは日本の社会の真にあるべき姿という根本的理念が座ってこそ、その下位の理念が順次形づくられていくのであり、こうしてつくられた真理の階段を国民の大多数が一歩ずつのぼっていくこと、そのことが社会の合法則的な発展になる。
理念の基準としての「国民こそ主人公」
こういうことを考えるうえで大事なことは、理念の基準を「国民こそ主人公」におくことにあるわけです。日本の社会における真にあるべき姿というものを、何を基準にして考えていくのか、その基準になるのが「国民こそ主人公」ということだと思います。
ジャン・ジャック・ルソーは『社会契約論』のなかで、「万人の意志」と「普遍的意志」というものを区別しています。「万人の意志」というのは、日本の一億数千万の国民全員に共通する意志ということです。「普遍的意志」というのは、万人の意志ではないどころか、むしろ少数の意志かもしれないけれども、国民の、真にあるべき日本を展望した普遍的真理としての意志です。ヘーゲルはそういう万人の意志と普遍的意志とを区別し、「国家の本質というは、普遍的意志から生じなければならない」といっております。
つまり、普遍的意志をとらえて、それを政治に実現することが、本来の国家の役割なんだというふうにいってるんですけれども、それは国民こそ主人公という見地から、理念の問題を考えていくということを意味しているのだと思います。
日本共産党の綱領のなかに行動綱領というのがあります。そこのなかに「議会制度、地方制度、教育制度、司法制度などの改悪に反対し、主権在民の精神にたった民主的改革を要求する」とあります。主権在民の立場にたつというのは、いいかえれば、国民が主人公の見地から、そのあるべき姿を考えていくということだと思います。
理念の単一性
こういう理念というのは、真にあるべき姿としての真理ですから、真理であるがゆえにそれは単一なものなのです。真理が二つも三つもあったのでは、真理を認識するといっても、どれが真理かわからないわけで、真理は一つしかありません。政治の理念は、真理として単一なものでありまして、それを常に追求していくという姿勢が大事なのです。
先ほど「存在と当為」ということで、あるべき姿に「当為」という言葉を使いましたが、政治はある意味では、すべての政党が当為を追求しているわけです。自民党は自民党なりに日本の社会をこうするんだという当為を持っています。それが各政党の選挙公約になるわけです。政党の公約というのは、すべて日本の現実はこうあるということではなくて、こうあるべきだという当為を問題にしているわけです。
政治というのは必ず当為を問題にするわけですが、数ある当為のなかで、真理としての当為(理念)、それが何なのかを探求するのが、科学的社会主義の政党の役割だろうと思うわけであります。「前衛党の歴史に対する責任とは何か。それは、真理を掲げてたたかうことである」とありましたが、数ある当為のなかから、理念を見つけだして国民の前に提示するところに、前衛党の責任があるといっているのだと思います。
当為の問題については多様な価値観があるといいましたが、多様な価値観があり、階級的利益においても多様な階級的利益があります。そうしたなかで、革新三目標に基づく民主連合政府の樹立ということをいうわけですが、どうしていろんな考え方の人がいるのに、革新三目標で統一戦線が結成されて、そこに国民の大多数を結集することが可能なのでしょうか。
それは統一戦線としての目標が、真理としての理念を掲げることによって、国民の普遍的意志を表したものだから真理のもつ力によって、国民の多数を結集するという展望をもつにいたるわけであります。「真理は必ず勝利する」とは、このことを意味しているのです。間違った理念を掲げたときには、決して国民の多数を結集することはできないでしょう。それはそもそも統一戦線の目標にはなりえない、ということになるのだと思います。
六、真理実践の意味
昨年(一九九九年)の一年間をとってみても、国会の前半は自自公の多数の横暴で、次から次へと戦争法(ガイドライン法)だとか、日の丸・君が代法案とか、いろんな悪法が通ったわけです。いくら反対しても悪法が次々通ってしまうというので、無力感、脱力感に陥る人もなかにはいるわけです。そういうなかで、「実践しても無駄ではないか」との考えも生まれてきます。「二十回党大会」決定のなかに、「今日の客観的情勢の中では、私たちが全力を尽くしてたたかったとしても、相手の横暴が通ることもあります」とあり、ここから挫折感が生まれることがあるとしています。
したがって、「わが党のなかでも、よくさまざまなたたかいにたちむかうさいに、『たたかっても勝つ見込みがあるのか、たたかってもむだではないのか』という声が、一部から聞かれる」のですが、「その方向が、真理にそっているかぎり、たたかってむだなたたかいはない」⑷ と述べています。
ヘーゲルの「大人の立場」
ヘーゲルは、この点に関してなかなか奥深いことをいっています。ヘーゲルは理念にかかわる三つの実践観を指摘していますが、まず第一の宗教的意識というのは、神が世界をつくり給うたものであって、すべて世はこともなしという現状肯定の考え方です。存在と理念とは常に一致しているとして、何ら変革の必然性を認めない考えです。
第二の若者の立場というのは、世界は害悪に満ちていて、根こそぎ改革されなければならないのであり、根こそぎの改革にならない実践は少々やってみても意味がないという考えです。
それに対して第三の考えというのは、理念を掲げての実践は「世界の究極目的が、不断に実現されつつあるとともに、また実現されているのだということを認識するとき、満足を知らぬ努力というものはなくなってしまう」として、社会変革の努力に満足する実践観です。理念を掲げて実践するときに、世界の究極目的は不断に実現されつつあるとして、満足する立場を大人の立場といっているのです。我々も、ヘーゲルのいう若者の立場ではなく、大人の立場が必要なのではないでしょうか。
真理をかかげたたたかいに無駄はない
つまり、理念という真理を掲げてたたかうことは、それは多数派の横暴によって実らないことがあっても、そのたたかいは決して無駄ではないのです。なぜかというと、理念を掲げた実践というものは、真理のもつ力によって、いずれは多数派になる、多数派の認識になるからです。
さらに、真理は、非真理を突き崩すということです。非真理の側にたっている体制側の内部を揺るがすという問題としても無駄がないのです。今度の国会の後半において、彼らが当初掲げていた年金改悪法案とか衆議院の定数削減法案などが、国民の反対世論の前に数の横暴では強行できなかったのは、そのあらわれといってよいでしょう。
真理を掲げてたたかうということは、国民の力を強める意味でも、支配の力を弱める意味でも、無駄がないということです。
いよいよ総選挙の年でありますが、二千年紀で最初の選挙でありまして、まさに変革の時代の変革の選挙になるだろうと思われます。変革の時代だからこそ、変革の哲学を学ぶ必要がある。このことを最後に強調し、広島県労学協としても今年をおおいに学習の年にしたいと思いますので、皆さんのご支援をお願いします。
(二〇〇〇年一月一〇日)
⑴ マルクス・エンゲルス全集①四二八ページ。
/『ヘーゲル法哲学批判』国民文庫、三五一ページ。
⑵ 「日本共産党第二〇回大会特集」『前衛』
一九九四年九月臨時増刊四一ページ。
⑶ 日本共産党は二〇〇一年の第二二回党大会で「前衛党」という規定を「誤
解をともないうるこの言葉を規約上でははずし、不屈性や先見性を、内容
に即して表現することにした」(『前衛』二〇〇一年二月臨時増刊一四四
ページ)。
⑷『前衛』前掲四二ページ。
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