『ヘーゲル「小論理学」を読む(下) 』より
後期第一〇講 概念論・主観的概念 Ⅳハ 必然性の判断―続き必然性の判断から本当の判断になる
「金は金属である」という場合、金が個体であり、金属が類です。こういう、個体がいかなる類に属するかという判断、これが定言判断であって、それは直接的な必然判断であるというのです。どうして必然的かというと、あらゆる個物は類の見地のもとに必然的に規定されているからです。すべてのものは個別、特殊、普遍の統一として存在しているわけで、いかなる普遍に属するかということを明らかにすることが、そのものの必然性を明らかにすることになるということです。
「金は高価である」という判断は、反省の判断でした。ある意味では金の法則をあらわしているわけです。こういう反省の判断と「金は金属である」という類にかんする判断、必然性の判断とは、同じ判断であってもレベルが違うのです。本質の判断よりも必然性の判断の方が、より深い真理をとらえた判断なのです。金が高価だというのは外面的関係を示すにすぎないといっています。
「金は金属である」という定言判断がまだ不十分だというのは、先ほどもいいましたが、どんな金属なのかということが示されていないからです。だから「それは特殊性のモメントに正当な地位を与えていない」のです。金属という類のなかに一定の種差が加えられてはじめて、金というものに正当な地位が与えられます。その金属のなかのいかなる金属なのかということが説明されていないから、定言判断はまだ不十分だというのです。「種に無関係に振舞っている」というのは、そういう意味です。
仮言判断においては「内容の規定性が媒介されたもの」としてあらわれるといっていますが「内容の規定性」というのは、その金属が金として規定されるということです。それが「媒介されたもの、他のものに依存するものとしてあらわれる」というのは、王水に溶けるということによって金であると規定されることです。王水に溶けるということを原因として、金という結果が規定されるというのです。
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一七八節 概念の判断の内容をなしているものは概念、すなわち単純な形式における総体性、完全な規定性を具えた普遍者である。その主語は ⑴ まず、特殊な定有のその普遍者への反省を述語として持っている個である。すなわち、この述語は、特殊な定有と普遍者との一致あるいは不一致をあらわすものであって、善い、真実である、正しい、等々がそれである。これが実然的判断(assertorisches Urteil )である。 |
「概念の判断の内容をなしているのは概念」であるとありますが、要するに概念の判断というのは、個体が概念に一致するかどうか、客観的実在が真にあるべき姿と一致しているかどうかという判断です。「概念の判断の内容をなしているのは、概念すなわち単純な形式における総体性、完全な形式を具えた普遍者」とありますが、この完全な規定性をそなえた普遍者というのは「真にあるべき姿」となってあらわれている具体的な普遍です。単純な形式における総体性というのは、普遍、特殊、個別を統一したものとしてあらわれているということです。概念の判断の内容をなしているものは、概念、言いかえれば普遍、特殊、個別が一体となった「真にあるべき姿」としての具体的普遍である、という意味です。「その主語は」「まず、特殊な定有のその普遍者への反省を述語として持っている個である」。主語はまず個体であり、述語になるものは「特殊な定有のその普遍者への反省」、つまり「真にあるべき姿」との関わりにおける判断ということです。述語は、概念との一致あるいは不一致をあらわすものであって、善い、真実である、正しい、等々で示されます。言いかえれば、概念の判断は、或る個体が概念と一致するか、一致しないかにかんする判断であって、一致すれば、それは善い、真実である、正しいあるいは本当であるという判断となります。一致しなければ、それは悪い、真実ではない、正しくないという判断になります。「真にあるべき姿」である概念に照らしておこなわれる、善いかどうか、真実であるかどうか、正しいかどうかの判断が、実然判断だということです。
ソ連は、社会主義の概念に照らして本当の社会主義ではない、という判断になるのです。だから、社会主義の概念に照らして、どうなのかという判断を示すものであり、あくまでも概念の判断の内容をなすものは「真にあるべき姿」としての概念に照らしてどうなのかという判断となります。
日常生活においても、ある対象、行為、等々が善いか悪いか、真実であるかそうでないか、美しいかそうでないか、等々という判断がはじめて判断と呼ばれている。われわれは、或る人が「このばらは赤い「この絵」は赤い、緑である、ほこりだらけである」等々のような肯定判断や否定判断をくだしうるからといって、その人に判断力があるとは言わないであろう。 |
ある対象、行為等々が、善いか悪いか、真実であるかそうでないか、美しいかそうでないかという、概念の判断こそが、真の判断だというのです。そこに至らない「このばらは赤い」という定有の判断だけでは、判断力があるとはいえない、概念の判断までたちいたることができてはじめて、真理を認識しうるといっているのです。判断というのは真か偽かを明らかにするものです。それを判断というわけですから、判断は真理を求めるものなのです。ヘーゲルは概念と対象が一致することをもって真理だととらえています。その意味で実然的判断がはじめて判断とよばれるにふさわしいと、いっているのです。
人が実然的な〔断言的な〕判断をそれだけで相手に認めさせようとすれば、相手はそれを不当と考えるであろうが、しかも直接知や信仰の原理を主張する人々は、哲学においてさえ、この判断を学説の唯一の根本形式としている。この原理を主張しているいわゆる哲学的著作には、理性や知識や思惟などについておびただしい断言がみられるが、これは、今日ではもはや外的な権威はあまり役に立たないので、一つのことを何度も何度も繰り返すことによって信用をえようとするのである。 |
直接知とか信仰の原理というのは、実然判断を唯一の根本形式にしています。しかしこれは概念をとらえるものではあるけれども、断言的に判断するだけで、不十分だとヘーゲルはいいたいのです。直接知というのはシェリングを念頭においているのですが、シェリングはその芸術的な認識にかんして、もっぱら真理を、直接的に判断するものだということを強調しました。それに対してヘーゲルは、真理の認識を直接性と媒介性の統一として考えていますので、そういう意味でシェリングを批判しているのです。
概念的な判断として、概念に照らして正しいかどうかといっても、概念のいかなる側面に照らして正しいのかということをいわないと、単に結論の押しつけになってしまいます。直接知というのはそういう理由を示さない断言だというのです。概念の判断として、ソ連は社会主義ではないというのは結論において正しいわけです。正しいのですが、なぜそうなのか理由をいわない以上は「いや、ソ連は社会主義だ」という意見が出てきたとしても、水かけ論になってそれを批判できません。
社会主義の概念はどうやって把握されるのかといいますと、直接つかまれるわけではありません。資本主義における搾取の自由に媒介され、それを否定するものとして「国民こそ主人公」という社会主義の概念が生まれてくるのです。
蓋然的判断、確然的判断
一七九節 実然的判断は、その述語においては、特殊と普遍との関係を表現しているが、その主語は直接的であるから、主語においてはこの関係を含んでいない。この判断はしたがって主観的な特殊性であり、これには反対の断言が同等の権利をもって── あるいはむしろ不当をもって── 対立している。したがってそれは ⑵ すぐに単なる蓋然的判断(problematisches Urteil)となる。 |
実然的判断というのは、単なる断言です。概念に照らしての判断ではあるんだけれども、理由が説明されていない。言いかえれば、概念との関係を表現しているけれども、その主語は直接的であって、なぜこの概念との関係でそうなるのかということが説明されていないから、この判断は「主観的な特殊性」にすぎないのです。したがってこれと反対の断言が同等の権利をもって対立していることになります。
「ソ連は社会主義である」という断言と「ソ連は社会主義ではない」という断言が、同等の権利をもって存在しうるのであり、その意味で実然的判断というのは不十分な判断だから、それは次の蓋然的判断に移行せざるをえないというのです。蓋然的判断というのは「ソ連は多分本当の社会主義ではないだろう」というような「多分──だろう」という判断です。概念との関係を示すものだけれども、problematischesと書いてあるように、蓋然的とは「疑問がある」という意味なのです。「多分──だろう」という、疑問のある判断です。実然的判断は根拠のない断言にすぎないから、反対の断言が同等の権利をもって対立するわけで「ソ連は社会主義だ「ソ連は社会主義でない」という両者をあわせて考えると「ソ連は多分社会主義ではないだろう」というような判断になってくるんだという意味です。
要するに実然的な判断というのは、この主観的な特殊性で、主語がなぜ述語と結びつくのかが展開されてないから判断が主観的にならざるをえないのです。それでは不十分ですから、蓋然的な判断にたどりつきますが、「多分──である」という判断では、真理を認識したとはいえません。そこで、蓋然的判断は、確然的判断に移行することになります。
しかし、⑶ 客観的な特殊性が主語に即して定立され、主語の特殊性が主語の定有の性状として定立されるにいたれば、主語は客観的な特殊性と主語の性状すなわち類との関係を表現し、したがって述語の内容をなしているものを表現する(前節)。この(直接的な個体性)家(類)は、かくかくの性状(特殊)を持っているから、よい、あるいは悪い。これが確然的判断(apodiktisches Urteil)である。 |
確然的判断というのはちょっと分かりにくい言葉ですが、ドイツ語では「明白な、疑いのない」というような意味です。ですから疑問の余地のない判断、という意味です。要するに実然的判断は、概念に照らして正しいか、正しくないかという判断を示してはいるのですけれども、いかなる理由でそうなのかを示していないわけで、そのいかなる理由でそうなるのかを示しているのが確然的判断だということです。「ソ連は、国民が主人公ではないから、社会主義の概念に照らして正しくない」という判断です「国民が主人公でないから」というのが入ってくるのですが、このことが「主語の特殊性が、主語の定有の性状として定立される」ということなのです。ヘーゲルは、この家はかくかくの性状を持っているから良い、あるいは悪いという例をあげていますが、かくかくの性状という特殊性に主語を結びつけて、概念的な判断をするのが確然的判断です。
「すべての事物は、特殊な性状を持つ個別的な現実性のうちにある類(事物の使命および目的)である。そしてそれらの有限性は、それらの特殊性が普遍にしたがっていることもあれば、そうでないこともある、という点にある。 |
「すべての事物は、特殊な性状をもつ個別的な現実性のうちにある類である」というのは、すべての個物のもつ有限性はその特殊性が普遍にしたがっていないこともあるわけです。その特殊性が普遍に根ざした特殊性でないときには正しい判断にはならない、ということです。確然的判断では特殊な性状を示すのですが、その特殊な性状というのが普遍に根ざした特殊性であるかどうかによって、正しい判断かどうかが決まってくるということになります。例えば「ソ連は、国民が主人公ではないから社会主義国ではない」という場合、国民が主人公というのは社会主義という普遍に根ざした特殊なのです。だからそういう判断をかかげるのは正しいのです。しかし、ソ連は資本家がいないから社会主義国であると判断する場合、資本家がいないということは資本主義ではないということではあっても、社会主義であることを意味しないのです。だから資本家がいないという理由をあげることは、普遍に根ざした特殊性ではないわけで、正しくない判断になるのです。
判断から推理へ
一八〇節 かくして主語および述語は、各々それ自身全き判断である。主語の直接的な性状はまず第一に、現実的なものの個別性と現実的なものの普遍性とを媒介する根拠、すなわち判断の根拠としてあらわれる。実際そこに定立されているものは、概念そのものとしての主語と述語との統一である。概念は「である」という空虚な繋辞の充実であり、概念の諸モメントは主語および述語として区別されながらも、概念は両者の統一、両者を媒介する関係として定立されている。これがすなわち推理(Schluss)である。 |
一八〇節は、判断から推理への移行にかんする節です。「主語および述語は、各々それ自身全き判断である」とあります。先ほどの例でいいますと、ソ連という主語は、国民が主人公という性状(特殊性)を媒介にして社会主義国ではないという述語と結びついているのです。だから、その主語の性状は、判断の根拠となって主語と述語を媒介しているわけです。
判断というのはもともと主語と述語とを「である」で結びつけていました「である」というのは内容のない。「空虚な繋辞」だという言葉をヘーゲルは使っていました。ところがこの確然的判断になると、かくかくの性状をもつという、その性状を媒介として主語と述語とが結びつくのですから、媒介するものが空虚ではなく充実されているわけです。ですから「である」という言葉が内容のない繋辞ではなくなってきているのです。そして媒介するものが一つの内容のあるものとして「充実した繋辞」として存在するときに、それは推理になるのだといっています。
推理は、大前提・小前提・結論という、三つの判断からなっています。中間項自身も一つの判断として内容をもっているのです。ところが確然的判断になると、主語と述語とをかくかくの性状という特殊が結びつけて、媒介しています。その媒辞が一つの内容をもっているという点では、もはや推理の中間項と同じようになってきているので、確然的判断は推理に移行するものだというのです。主語と述語は区別されながらも、媒介された統一としてあるのが推理であるという意味で、推理は概念の統一を示すものです。
推理とは何か
一八一節 推理は概念と判断との統一である。それは、さまざまの判断形式が単純な同一性へ復帰したものとしては概念であり、概念が同時に実在性のうちへ、すなわち概念のさまざまな規定のうちへ定立されているかぎりでは判断である。理性的なものは推理であり、しかもあらゆる理性的なものは推理である。 |
テキストの説明の前に、いくつかのことを述べておきたいと思います。まず推理とは何かということです。一言でいえば、正しい判断に至るための認識を前進させる手段ということになります。以前、ヘーゲルの判断には二つの側面があるというお話をしたと思います。それと同様にこの推理にも二つの側面があるのです。
一つは、概念、つまり「真にあるべき姿」としての概念を、そのモメントである個別・特殊・普遍との関係においてとらえる側面です。推理というのは、普遍・特殊・個別という三つのモメントを大前提・小前提・結論という三つの項でつないでいるのです。ですから、推理というのは普遍・特殊・個別を一体としてとらえたものとして、概念であり真理であるというふうにヘーゲルは一面ではとらえています。つまり普遍・特殊・個別の一体不可分が実現した、概念の「あるべき姿」があらわれたものととらえるわけです。真にあるべき姿は推理の形であらわれているのだという言い方をしています。
もう一つは形式論理学の推理と同様で、推測とか、予測とか、予報とか、物事を推理するという論理学的な意味があります。ヘーゲルはこの二つの側面を問題にしているのです。この点に注意せず、区別しないでごちゃごちゃになっているので分からなくなるのです。
さらにこの推理論で問題なのは、ヘーゲルは判断の区別に対応させて、推理も大きく分けて質的推理・反省の推理・必然性の推理とに分けていることです。『ヘーゲル論理学入門』では、こういうステップを踏むことによって、証明方法が不確実なものから確実なものへ、偶然的なものから必然的なものに進んでいくとして、判断論と同じような理解をしています。
『入門』一三六ページには「推理は、直接には、それぞれの判断の前提をとらえ、さらにその前提の必然、そのなにゆえにを証明することです。その証明方法が、不確実なものから確実なものへ、偶然的なものから必然的なものへ、とすすむのです。この推理の進展をとおして、最終的には、もっとも確実な証明方法がえられます。これが先ほどふれた事物の自己媒介の証明です」と述べられています。これは定有の推理・反省の推理・必然性の推理へと前進していくにしたがって、より確実な推理になっているのだと理解しているのです。つまり推理の種類を判断論における判断の前進過程と同じように考えているわけですが、果たしてそうなのでしょうか。推理というのは正しい判断に至るために認識を前進させる手段ですから、判断とリンクさせるべき理由は必ずしもないのではないかと思います。正しいか正しくないかが問題になるのは、あくまで判断であって推理ではないのです。推理の結果導き出される結論(判断)が正しいか否かが最終的に問題となるだけなのです。
ヘーゲルは定有の推理・反省の推理・必然の推理というふうに三つを述べていますが、実際今日、形式論理学上の意味をもつ推理は反省の推理だけだと思います。反省の推理は大きくいって、三つあります。一つ目は演繹、二つ目は帰納、三つ目は類推です。この演繹・帰納・類推という推理の三つの働きは、形式論理学上も意味がある推理方法だということができます。それ以外の定有の推理、必然の推理というのが独自の推理方法としての意義をもつのかという点について、私は疑問に思いますので、後に詳述します。
テキストに戻ります。まず「推理は概念と判断との統一である」とありますが、判断というのは概念の分割したものだというのがありました。概念は本来、普遍・特殊・個別が一体となったものです。判断はそれを分割するもので、普遍・特殊・個別をバラバラにするものであるといいました。判断における個別・特殊・普遍が単純な同一性に復帰したものが推理ですから「概念と判断との統一」と言っているのは、概念における普遍・特殊・個別の三つの要素が判断の中でバラバラになったけれど、それがもう一度推理の中で統一性を回復することによって、概念の統体性が回復されたものが推理であるということです。
「概念が同時に実在性のうちへ、すなわち概念のさまざまな規定のうちへ定立されている限りでは判断である」とありますが、推理においては普遍・特殊・個別の関係が三つの判断として定立されています。普遍・特殊・個別の三つが媒介され統一されているという点からみると概念なのですが、三つの判断があるという意味では判断であるというのです。
普通にも推理は理性的なものの形式とされてはいるが、しかし主観的な形式とされており、その上この形式とその他の理性的な内容、例えば理性的原則、理性的行為、理念、等々との間にはいかなる連関も指示されていない。一般に人々はよく理性について語ったり理性に訴えたりするが、理性の規定性が何であるか、すなわち、理性とは何であるかということは明らかにせず、まして理性が推理と関係があるということに思いいたる者はない。 |
推理は理性的なものではあっても単に主観的な形式だと思われているが、実はそうではないのだとヘーゲルはいいたいわけです。推理も、個別・特殊・普遍の統一としての概念として、理性的であるということです。
概念が理性的であるとはどういうことかといいますと、概念はエネルゲイアとしてのイデアですから、現実になる力をもっているわけです。そういうものをヘーゲルは理性といっています。前に「法の哲学」の序文で、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」というところを学びました。そういう意味で概念は理性的なのです。ですから推理は個別・特殊・普遍の統一として概念であり、概念であることによってそれは理性的であるのです。
実際形式的な推理は、理性的な内容とは全く無関係なような、没理性的な仕方における理性的なものではある。しかしこうした内容が理性的でありうるのは、思惟を理性とする規定性と同じ規定性によってのみであるから、それは形式によってのみ理性的でありうる。そしてこの形式がすなわち推理なのである。 |
推理というのは、三つの判断をくっつけることによって、個別・特殊・普遍の統一を実現するわけです。その意味では形式的です。形式的ですが、個別・特殊・普遍の統一という形式によって、それは概念であり、理性的なのだと述べているのです。
── しかし推理は、本節に示されたように、定立された(まず形式的に)、実在的な概念にほかならないから、推理はあらゆる真実なものの本質的な根拠である。そこで今や絶対者の定義は、それが推理であるということ、命題として言いあらわせば「すべてのものは推理である」ということである。 |
推理というのは形式的に定立された実在的な概念だといっています。概念というのはエネルゲイアとしてのイデアとして、現実になる力をもっているものですから、そういう意味では根拠です。概念は根拠であるというのは以前に説明しました。その意味で推理はあらゆる真実なものの本質的な根拠なのです。推理は概念なのですから、あらゆる真実なものの本質的な根拠であるということになります。
「すべてのものは推理である」とありますが、絶対的真理は何かといえば、それは推理だというのです。先ほどの推理には二つの意味があると述べましたが、ここでは第一の意味でつかっています。
すべてのものは概念であり、概念の定有は概念の諸モメントの区別である。すなわち、概念の普遍性は特殊性を通じて自己に外的実在を与え、これによって、また否定的な自己内反省として、自己を個とするのである。これを逆に言えば、現実的なものは特殊を通じて自己を普遍へ高め、そして自己を自己と同一とするところの個である。 |
推理イコール概念という場合の概念は「真にあるべき姿」として現実化する力をもっているのだということを、全体として述べたいわけです。「すべてのものは概念であり、概念の定有は概念の諸モメントの区別である」とは、すべてのものは真にあるべき姿としての概念をもっているわけで、その真にあるべき姿としての概念というのは、普遍、特殊、個別の統一としてあるわけです。その統一としてある概念、つまり真にあるべき姿は、まず頭の中で描かれた普遍的なものとして存在するのです。
社会主義のあるべき姿は、資本主義の否定としてまずは頭の中で描かれるのです。ついで、その普遍的な社会主義の姿が外側にあらわれて現実化するのです。それが「特殊性を通じて自己に外的実在を与え自己を個とする」ということです。頭の中で描かれた真にあるべき姿、普遍たる概念が現実になってあらわれる、そこに概念の意味があるのだ、というのです。
「これを逆に言えば、現実的なものは特殊を通じ自己を普遍へ高め、そして自己を自己と同一とするところの個である」。資本主義の現実という個から出発して、普遍としての社会主義の概念に到達するということです。概念は個別から普遍へ、普遍から個別へと移行するのであり、そういう普・特・個の一体化が推理なんだといっているのです。
現実的なものは一つのものであるが、しかし概念の諸モメントはまた分離してもいる。推理はその諸モメントを媒介する円運動であり、これによって現実的なものは一つのものとして定立される。 |
現実的なものは普遍、特殊、個別の一体としてあるのですが、その普遍、特殊、個別の関係をヘーゲルは円運動という言い方をしています。円運動というのは、やはり意味があると思うのです。つまり概念はどこから生まれるのかというと、個別から生まれる。客観的実在は個別で、そのなかから真にあるべき姿・普遍が生まれるのです。個から普遍へ、客観から主観へまず移行するわけです。今度は主観・頭の中に描かれた真にあるべき姿が現実になって生まれてくるわけで、それは普遍が特殊化して個別になるということです。概念というのは個から生まれた普遍であり、次に普遍から生まれた個になる。個から普遍へ、普遍から個へ、客観から主観へ、主観から客観への円運動というのは、大変意味のあるところだと思います。その円運動をつうじて現実的なものが定立され、概念は現実となっていくのだということです。
一八一節補遺 概念および判断がそうであるように、推理もまた普通単にわれわれの主観的な思惟の形式と考えられており、この意味で、推理は判断を基礎づけるものである、と言われている。ところで、もちろん判断は推理を指示してはいるが、しかしこの進展が行われるのは、単にわれわれの主観的行為によるのではなく、判断自身が自己を推理として定立し、推理のうちで概念の統一へ帰るのである。もっと正確に言えば、推理への進展をなすのは確然判断である。 |
概念というのは本来、個別、特殊、普遍の統一としてあったのが、判断においてそのモメントが分割されたにすぎないから、推理を通じてふたたびその統一を回復するんだということをいいたいのです。その概念から推理への移行をなすものが確然判断だということです。
確然判断においてわれわれは、その性状を通じてその普遍、すなわちその概念に関係する個を持つ。ここでは特殊は個と普遍との間を媒介する中間項としてあらわれるが、このことこそ推理の根本形式なのである。推理のそれ以上の発展は、これを形式的にみれば、個および普遍もまたこの位置を占めるようになるということにある。そしてこれによって主観性は客観性へ移っていくのである。 |
確然判断というのは「ソ連は、国民が主人公でないから社会主義ではない」という判断でした。国民が主人公というのは特殊、ソ連というのは個別、社会主義というのは普遍です。確然判断は、特殊を媒介に個別と普遍とが結びついて、普遍、特殊、個別の一体が実現されるわけです。その意味で確然判断は推理の形式をもっており、推理に移行する媒介をなしてきたのです。したがって推理の根本形式は、個―特―普の推理だというのです。「推理のそれ以上の発展」のなかで、個・特・普は、推理における位置を変えていきます。そのなかで概念の絶対性が実現され、客観性に移行することになります。主観としての概念はいつまでも主観にはとどまっていない、それは「エネルゲイアとしてのイデア」として現実になる力をもっているのであり、その現実化したものが客観です。ですから、ヘーゲルの概念論においては、まず主観的概念、それから客観的概念、二つの統一としての理念、そういう構成になっているのです。
《質問と回答》
概念のモメントとして個別、特殊、普遍の三つがあり、その例として、Aさんが個別で、日本人が特殊で、人類が普遍だと説明しました。そういう抽象化されていく程度を示すカテゴリーとしての個別、特殊、普遍に対し、他方では個別は普遍と特殊の統一だという説明もしました。質問は、その関連がどうなっているのでしょうかというものです。
ヘーゲルは概念論でヘーゲル独自のカテゴリーとしての概念、つまり真にあるべき姿というものを一面では述べながら、他方では形式論理学の概念、判断、推理の問題についても述べています。形式論理学において普遍・特殊・個別というのは外延の広い、狭いという関係なのです。人類が一番外延が広く、日本人はそれより狭くなります。Aさんはさらに狭くなるということで、こういう形式論理学における抽象の度合いによって異なってくる外延の広い、狭いの関係での普遍というのをヘーゲルは、抽象的普遍といっているのです。
それに対して具体的普遍というのは真にあるべき姿としての概念であり、この真にあるべき姿としての概念は普遍、特殊、個別がくもりなく一体化しているという言い方をしてますけれども、具体的普遍はその中に特殊や個別も含んでいるような普遍だといっているわけです。真にあるべき姿としての概念は、客観世界から抽象化される普遍なのですが、普遍のままにとどまっている抽象的普遍ではなくて、それは自らを特殊化して客観になる力をもった具体的普遍なのです。これが「エネルゲイアとしてのイデア」だというわけです。
この抽象的普遍と具体的普遍は、同じ普遍を扱っていても内容は全然違うのです。前者の方は形式論理学としての普遍であり、後者はヘーゲル独自の用法にもとづく具体的普遍です。両者を区別して考えた方がよいでしょう。
判断、推理でいっている普遍、特殊、個別というのは、形式論理学でいっているような意味です。ただヘーゲルはその中にときどき自分の概念としての具体的普遍を盛り込もうとするのです。その辺に分かりにくさがあるのだろうと思いますが、判断や推理の普遍・特殊・個別というのは、一般的には形式論理学でいう意味だと理解されたらよいかと思います。
もう一つは、㊦一五二ページの一七六節の三行目に「否定的自己内反省」というのがあり、㊦一五八ページの最後の行にも「否定的な自己内反省」というのが出てきますが、これはどういう意味でしょうかという質問がありました。
この言葉が最初に出てくるのは㊦一三三ページです。一行目から二行目にかけて「個は概念の否定的な自己内反省であり」と出てきます。否定的な自己内反省というのは肯定的自己内反省に対立した用語になるわけですが、肯定的自己内反省というのは内に区別を含まない単純な同一性のことなのです。それから否定的な自己内反省というのは内に区別を含む自己同一性という意味です。概念における普遍・特殊・個別というのは概念と一体なのです。概念の統体性を保ちながら、自己の内に普遍・特殊・個別という区別をもっている。そういう意味で、具体的普遍たる概念をとらえるときにヘーゲルは「否定的な自己内反省」という言葉を使っているのです。
つまりヘーゲルの概念、具体的普遍は、講義でお話ししましたように自らを特殊化して個となるわけで、それを「概念の否定的な自己内反省」という言い方で述べています。
一五二ページは、いわゆる全称の反省判断にかんして述べているところですが「すべての人間は言語をもつ」という判断を全称の反省判断といいます。そういう判断においては、具体的普遍としての人類が自らを特殊化して言語をもつ動物として規定されるという意味で「否定的な自己内反省」という言葉を使っています。一五八ページは先ほどお話したのとまったく同じことで、概念の否定的な自己内反省です。概念の普遍性が特殊化して自らを個とするということを「否定的な自己内反省」と呼んでいるわけです。これが本来のヘーゲルの用いる「否定的な自己内反省」の意味になっています。
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